三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「従未停歇的歴史復原之旅」

2013年05月13日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2013-05/13/content_21_1.htm
『海南日报』2013年05月13日  文:海南日报记者 杜颖 海南日报见习记者 金昌波
■从未停歇的历史复原之旅
     
    【照片】1939年日军入侵琼海嘉积时的残暴场面。 蔡葩 翻拍
    【照片】日军进驻琼山。金山供图
    【照片】日军在清澜港扫荡。金山供图

   光阴随江河飘零,半个多世纪后,中国抗日战争研究逐渐成为显学,在对日军侵琼历史的研究上,20余年来,一批又一批中外学者追源溯往,他们在走访路上经历四季风霜,理性客观地分析研究,让日军侵琼历史的真实面貌逐步复原。对此,海南日报对近年来研究该段历史的学者及其作品成果进行了梳理。

  2013年3月,“日本海南岛近现代史研究会”发起人佐藤正人先生再度回到海南,与海南大学外国语学院副院长金山博士一道,对日本侵略海南岛的历史事实进行调查。多年来,对这段历史的追录,有良知和行动的部分日本学者未曾回避。
  
※未曾停歇过的调查脚步
  不时入耳的日本右翼政客与文人美化侵略战争的言论,深深刺痛中国人民的感情,也激起了民众的反日情绪。佐藤正人认为,“进一步发掘、研究这一段历史事实,将惨痛的历史真相告诉中日两国人民,尤其是承载未来的两国青年人,让他们以史为鉴、珍爱和平,正是学者的责任和使命。”
  金山博士多年来就从事再现日本侵略海南时期状况的资料翻译和复原。他说,在国外,日本也有不少学者将关注的目光投向对海南岛殖民侵略这一研究领域,其中,以佐藤正人、齐藤日出治、在日朝鲜人学者金静美女士为代表的“海南岛近现代史研究会”所做的日军侵琼罪行口述史调查,历时多年,已获得了大量的第一手资料。
  “中外学者对调查日军侵琼的工作一直没有停歇过脚步。”海南大学马克思主义学院张朔人博士告诉记者,除近现代史研究会外,日本民间组织的“海南战争受害妇女支援会”的律师团对海南幸存“慰安妇”法律取证、由中国学者和日本民间人士分别对海南“盟军战俘营”口述史调查都在不同程度地进行。
  
※多角度复原日军侵琼历史
  (经济社会)
  2002年,一部40多万字的《海南史》,由琼州学院林日举教授独立完成。在长期以政治、军事重大事件作为史学主流的背景下,历经作者十年积累而成的《海南史》,全面叙述从史前到1950年海南解放的历史,在那一年的史学界,是值得称道的事。
  作为历史研究者,林日举在《海南史》的“日寇侵略海南与海南的抗战”谋篇中,以实地的考察、大量阅读的地方史料,以筛选得来的较为可靠的数据,对“乐罗大惨案”、“田独万人坑”等的揭露可谓痛彻心腑;对日军侵琼期间海南的政治经济文化的叙述饱含血泪,许多数据在史书中首次披露。
  林日举对日军占领时期海南经济社会的基础研究是一个范例。纵观过往的20年,张朔人博士认为,基础研究领域涌现出的一批论文和作品都颇具代表性。伦祥文1992年发表的《抗日战争期间日本侵占海南岛及其经济掠夺》,阐述了日本对海南的经济掠夺;房建昌1998年发表的《关于日本侵略海南岛的考察》,从历史的视角就日本侵略海南进行研究;王裕秋等人在2000年发表的《日本侵占海南时期的经济“开发”政策及活动》,指出日本“开发”活动主要基于农业和商业两方面进行;邢寒冬等人2005年发表的《论抗日战争时期日本人在海南岛农业政策的确立》,认为随着日军战略目标的转移,把粮食、蔬菜等基本生活物资的生产作为农业政策的核心。这些文章较为一致的看法是:日本掠夺海南的各种资源,其性质和目的,都是为掠夺和为侵略军服务。

  (殖民统治)
  对日本右翼势力重重地给予一记棒喝,人们不会忘记张兴吉(海南师范大学教授)和他的《日本侵占海南岛罪行研究》。
  在对日本是否在海南岛实行殖民统治方面,张兴吉选择了独特的学术视角进行评述,本着知识分子的责任和良知,他用十几年时间在国内和日本潜心探索抗战时期日本所谓“海南岛开发”的历史背景和内容,掌握了充分的第一手材料。
  他从战前海南岛与日本关系以及日本人在海南岛的活动情况讲起,对日本军队侵入海南岛经过及其相关的军事活动进行评述,进而深入阐述日本对海南岛的殖民统治,指出日本侵占海南岛的目的及
  其领土野心,并深入剖析日本人所谓“海南岛开发”的内容和实质,这包括了基础设施、农业、工业以及林渔牧业。大量无可辩驳的史实和科学统计数据,全面深刻地揭露了日本打着“海南岛开发”的幌子,疯狂地对海南岛进行经济侵略的野蛮的掠夺。
  与其同一时期,台湾学者钟淑敏于2003年发表的《殖民与再殖民--日治时期台湾与海南岛关系之研究》,则透过在日本殖民统治下所产生的“台湾经验”如何落实在海南岛“军政”的分析,也深入探讨了日本殖民统治的特质。2005年,水野明著的《日本军队对海南岛的侵占与暴政》(王翔译),呈现了这段不可磨灭的历史铁证,插页中有些图片为首发,更加了历史的真实性。

  (侵琼暴力)
  1995年,由符和积主编的《铁蹄下的腥风血雨———日军侵琼暴行实录》一书出版发行,立即引起了轰动。国内外史学家、中日法学家以及日本有关团体先后派人来海南进行“慰安妇”问题的联系、调查、取证。2011年,在各界伸出援手之下,海南6名受害老人上诉日本东京法庭,要求日本政府公开谢罪并赔偿,让世人为之瞩目。
  符和积永远不会忘记20年前的1993年,他组织各市县文史工作者走进的这个悲惨群落,记录海南慰安妇的屈辱人生,帮助她们走出暗夜。没有人知道海南岛上究竟有多少良家女子遭日军的凌辱和杀害,也没有人知道她们抗争的激烈程度。被访问到的20多名不幸的老人,当年多已年逾古稀,有些往事已经淡忘,但当她们向各级文史工作者叙说那心灵创痛时,仍痛哭流涕,夜不能寐。“在她们的面前,我感到作为一个中国人的极度义愤和悲伤。每一次的采访,都是含着血泪和责任,我的手都发抖了……”
  经过两年多的着笔,符和积记录日军在海南的种种暴行,收集了日军对海南妇女的性暴力侵犯的罪证,实地采访了二十多位幸存“慰安妇”,为研究海南“慰安妇”提供了珍贵的资料。
  在揭露日军暴行及性暴力方面,10年后,上海师范大学苏智良教授等编著《日本对海南的侵略及其暴行》(上海辞书出版社, 2005)对日本在海南的殖民统治、屠杀、经济掠夺以及日军在海南设立的 “慰安妇”也进行详细了的深度剖析。

  (侵琼军事)
  8年来,张朔人博士还从建立海军基地的军事视角和日本在海南推行奴化教育的角度梳理了中外学者发表过的论文和著作。这其中包括:日本相泽淳1990年在东京《军事史学》上发表的《海军良识派と南进-海南岛进出问题を中心にして-》,1999年在《防卫研究所纪要》上发表的《太平洋の滿洲事變-日本海軍による海南島佔領o統治》;岸田健司1990年在日本大学法学研究年报发表的《日本海军の南进政策と海南岛进出》;水野明在《爱知学院大学教养部纪要》发表的《日本海军の海南岛支配一九三九年至一九四五年》;张兴吉教授2004年在海南大学学报上发表的《抗战时期日军总体军事战略中海南岛的地位》,分析了海南岛在日军的总体战略中作为封锁基地、“南进”基地和资源基地的突出地位。
  历史,谁都不能忘怀,学者更有责任让人类不只生活在目前的片刻里。诚如世界史学大师汤恩比所说,我们必须彼此认识,认识彼此的历史,因为我们生活在一条心灵的时间之流中,带着希望,怀着恐惧,回忆过去,瞻望未来。
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光田村で 3

2013年05月09日 | 海南島史研究
 郭周権「光田村惨案」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第9輯〈1995年3月〉、政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第6輯〈暴行与反暴行専輯。1997年1月〉に再録)に、1945年3月に、日本海軍横須賀第4特別陸戦隊の日本兵らが、昌江黎族自治県昌城郷光田村(当時は、大光郷光田村)を襲撃し、村人を惨殺したと書かれています。
 王永祥さんや鍾経倫さんの父の鍾懐徳さんが昌城の日本軍守備隊に連行されたのは、1945年3月のことであるかも知れません。
 王永祥さんが、このときのことを話しているとき、傍で鍾経倫さんは、王永祥さんといっしょに昌城に連行された人たちの名前を、書いてくれました。それは、王永祥さん、王永祥さんの兄、鍾喜由さん(監獄で殺された)、鍾懐徳さん(鍾経倫さんの4番目の父)、鍾懐君さん(鍾経倫さんのおじ)、鍾懐智さん(鍾経倫さんのおじ)、鍾起文さんでした。
 鍾経倫さんは、手書きの『光田村血泪史』と『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』をみせてくれました。
 おだやかな表情で、鍾経倫さんは、
   “日本軍がこの村でおこなったことを、記録しておかなければならないと、ずっと思っ
   ていたが、書く時間がなかった。王下郷の病院で医者をしていたが、定年で退職した後
   にいっきに書いた。『光田村血泪史』を書き終わったのは、2000年8月15日で、そのあ
   と、同じ8月に、3日間で『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』を書きあげた”
と話しました。
 『光田村血泪史』も『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』も、1句が7文字の歌のかたちで書かれており、『光田村血泪史』は602行(4214字)、『泣歎血泡歌 鍾経倫家史』は509行(3563字)の長歌です。わたしたちが昨年11月2日に旦場村で聞かせてもらった『日寇惨殺旦場同胞 哀嘆長恨歌』は、7字490行の長歌でした(『日寇惨殺旦場同胞(哀嘆長恨歌)』については、このブログの2013年2月1日の「旦場村で 2」、4月17日の「旦場村の追悼碑 4」をみてください)。
 『光田村血泪史』のなかごろには、几帳面な文字で、つぎのように書かれてありました。
     惨無人道日本鬼  打人一身農鱗傷
     売牛用銀贖命回  傷痕痛起哀歌完
     四四村我又受難  牛羊和猪被槍光
     五十三間家焼了  余下不焼留四間
     焼家殺人殺断種  殺十二戸無種伝
     当時一村農哀了  遍地哀鴻泪満天
     全村耕牛被槍了  用人拉犂生産難
     幾天農無頓吃飽  人痩走路風吹倒

 趙志賢「闖虎穴 搗敵巣 ――光田抗日自衛隊奇襲昌城日軍据点」(『昌江文史』第6輯)には、
   “光田村自衛隊は、郭天元中隊長と郭文賢副中隊長の指揮のもとに、日本軍の馬部隊攻
   撃を計画した。まず、鐘明興隊員と張天栄隊員が昌城の日本軍拠点に潜入して日本軍の
   軍馬の情況を偵察し、日本軍の馬小屋に10匹あまりの軍馬がいることを知った。
    1943年1月初めの厳冬のときで、氷雨が降り、伸ばした手の先も見えないほどの暗い夜
   だった。光田村抗日自衛隊の郭文賢、鐘明興、鐘懐俊、鐘全松、文必照、郭天経、張天
   栄(後に敵に寝返った)の7人の戦士が武器をもって夜中の11時半に光田村を出発して、
   昌城の日本軍拠点に行って任務を果たした。深夜1時半、自衛隊員はすばやく鉄条網を切
   断し、いっせいに馬小屋に入って、尖った包丁で、各人が1匹づつ軍馬を処理した。わず
   か半時間で、軍馬7匹を殺し、7人はすみやかに日本軍の拠点を離れた”
と書かれています。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人


 海南省昌江黎族自治県地方志編纂委員会編『昌江県志』(新華出版社、1998年)には、郭天元さんについて、つぎのように記述されています。

郭天元 (1901—1944年)
  昌城乡光田村人。他出生贫苦家庭,幼年丧父,靠母抚养长大。小时入私塾,后因家贫而辍。1928年应征到昌城当兵。因仗义教训当时县长的儿子而被抓去坐牢3个月,1929年去海口当兵,次年,离营逃归。后经区委书记赵郑农等介绍到区里工作,1938年夏入党,不久任光田村党支部书记。
  1939年夏,被昌感县委派到府城民众抗日自卫团干部培训所学习军事。同年秋,担任大光乡抗日游击队中队长,到各村发动群众捐款买枪支。同年冬,郭带领战士配合昌江县抗日游击队第三支队在大风、耐村英勇阻击日军。
  1940年秋,大光乡抗日游击队并入琼崖抗日独立总队第四大队。当时,驻扎在昌化岭的国民党顽军,经常来搔乱大光乡民主政府。有一次反共土顽钟基率兵100多人向光田村进攻,天元与蒙开仁、李文思带领浪炳、旧县、耐村等民兵自卫队300多人伏击,敌军逃亡昌化岭。
  1942年夏,驻昌化城日军马队企图袭击大光乡。天元得知情报后立即连夜派人潜入昌城日敌据点,暗杀日军战马4匹,日军害怕,取消扫荡计划。
  1943年秋,在保护群众秋收的战斗中,不幸被日军逮捕,被绑架到昌化城伪维持会,日军和日伪维持会长张庆清对他软硬兼施,迫降不成,于1944年4月某日下午枪杀,时年43岁。
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光田村で 2

2013年05月08日 | 海南島史研究
 つづいて王永祥さんは、つぎのように話しました。
   “石碌に行ったことがある。日本軍につかまる前のことだ。
    一家族にひとりかふたり、かならず行かなければならなかった。この村からは、毎
   回、6、7人が1か月交代で行かされた。
    石碌までは行くときも、帰るときも歩かされた。約二日間かかった。夜は道ばたで寝
   た。甲長が、今日出発して、羌園まで行け、そこで会社の人と合流せよ、と言ってきた。
    鉱石をとったり、土を運ぶしごとをさせられた。疲れて少しでも休むと、木刀で首と
   か腰とか切るまねをし、殴ったり、尖っているもので突いたりしてきた。監督は台湾
   人。軍服を着ていた。
    隣村の大風村や浪炳村の人たちも連れてこられていた。みんな同じところでしごとを
   した。
    石碌では、朝鮮人も働かされていた。
    朝鮮人の宿舎はテントのようなところだった。われわれの宿所から1キロくらい離れて
   いた。宿所の門に‘朝鮮報国隊’という文字が書いてあった。青い服に青い帽子をかぶ
   っていた。
    ‘朝鮮人が日本人の監督を殺して、どこかに埋めた。そのあと、朝鮮人を監視する監
   督はみんな銃を持つようになった……’、と聞いたことがある。
    日本人の朝鮮人にたいする扱いはとくにひどかった。
    夜、わたしが直接朝鮮人の宿所に行って、‘しごとはきつい、食べ物もない、なにか
   食べ物はないですか、あればください’、と頼んだことがある。
    朝鮮人は、‘われわれも日本人につかまってここに連れてこられた、われわれもあな
   たたちと同じだ、自由もなく食べ物もない、もうしわけない’、と言った。
    (ことばはどうしたのですか?) 椀を持って、身ぶり手ぶりで……。椀を持って、腹をさ
   すって椀を出して食べるふりをすると、朝鮮人も、身ぶり手ぶりで、腹をさすって手を
   横に振って……。
    われわれはほんとうに食べるものがなかった。みんないつも腹をすかせていた。朝鮮
   人は現地の人ではないので、わたしたちより食べるものがあるだろうと思って行った。
    ‘朝鮮報国隊’のしごとは、地元の人より終わるのが遅かった。どこでなんのしごと
   をしているのか知らなかった。2列の行列で、シャベルとか鉄の棒とかを、肩にかついだ
   りして帰っていくところを見た。監督は日本人だった。足に鎖があるのは気が付かなか
   った”。
                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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光田村で 1

2013年05月07日 | 海南島史研究
 3月27日早朝烏烈鎮を出発し、耐村、黄羌村、光田村、昌化鎮、昌城村を訪ね、午後7時に昌化鎮に戻りました。この日、光田村では日本侵略期のことを知っている人に出会えなかったので、村の書記の電話番号を聞いて、夕刻電話して目的を話し、翌日、村委員会の前で紹介してもらうことにしました。
3 月28日、約束の朝8時に光田村委員会の前に行くと、王永祥さん(94歳)が待っていてくれました。まもなく、村の幹部の文紅帥さんと郭宗芳さんが来て紹介してくれました。王永祥さんは光田村でいちばん高齢者だとのことでした。
 鍾経倫さん(1936年生)も来てくれました。
 王永祥さんは、つぎのように話しました。
   “この村は共産党の根拠地だった。
    わたしは、日本占領時代、共産党員になった。
    村の若者はほとんどが共産党に入った。おおぜいだ。人数はわからない。若者たちは
   夜になると、昌城の近くの山に隠れた。共産党員であれば、夜は家にいない。老人と子
   どもしか家にいない。
    当時、このへんは密林だった。日本軍が近くにいたが、山が深くて安全だった。それ
   でも見張りはかならず立てた。隠れているところは何か所もあって、わたしたちは十数
   人がいっしょだった。女性はいなかった。女性の共産党員はいたが、いっしょに山に隠
   れているなかにはいなかった。隊員の幹部はかならず字が読める人だった。わたしは字
   が読めない。
    1945年3月に、日本軍に投降していた国民党がトラックで来た。日本軍もいっしょだっ
   た。村で謝聖章と文成財のふたりを殺し、わたしを含めて8人を捕まえて昌城に連れてい
   った。共産党活動に参加しているといって。
    わたしたち8人は、トラックに乗せられて、昌城の日本軍営に連れていかれた。
    そこで、両腕を後ろにまわさせられ、針金で、手首、上腕を縛られた。足を前に出さ
   されて、木で作った枷をはめられた。よつんばいにさせられた。頭は地面につけさせら
   れた。足枷の内側に尖ったところがあって少しでも動くとそれが刺さって痛かった。足
   首は針金で縛られた。尋問の答えしだいで、針金を締めつけられた。
    8人全員が1列にうつぶせに寝かされ、上から全員のしりの少し上あたりを横渡しする
   ように1枚の細長い板が当てられ、その上に大きな石をいくつも置かれた。板は2枚をつ
   ないでいた。その状態で、背中や尻に木や鉄の棒を差し込まれて殴られた。頭を鉄の棒
   で殴られたこともあった。殴ったのは、国民党軍と日本軍。
    これがそのときの跡だ。いまも残っている(王さんは尻と太ももの傷跡を見せてくれま
   した)。尻の傷跡は、化膿してこんなに大きくなった。
    いっしょにつかまった鍾起文は、3か所刺されて腸も破れて飛び出したが、生き残っ
   た。1年くらい前に亡くなった。
    昌城で穴を掘らされた。みんなそのまわりに座らされて、兄は、父が共産党だとい
   え、殺すぞといわれたが、兄はいわなかった。日本兵は若く、兄を殺さなかった。
    大小便もそのままの両腕を後ろ手で縛られ足枷をはめられた姿勢でしなければならな
   かった。監獄に入れられている間、ずっとだ。食事は村の人が運んできてくれた。縛ら
   れているので自分では食べられないので、食べさせてもらった。村の人が便や尿を片づ
   けることも禁じられた。
    8人を釈放させるために、村人が田や牛を売って金をつくり、日本軍に渡した。
    監獄に入れられてから50日あまりたってから7人だけが釈放された。ここにいる鍾経
   倫の父の鍾懐徳もいっしょに捕まって戻ってきたひとりだ。8人のうちのひとり、鍾喜由
   は釈放されず、のちに銃殺された。
    戻ってきてからは村にずうっといて、結婚した。まもなく日本が敗けて、日本軍がいな
   くなった”。
 王永祥さんは床に寝ころんで、拷問を受けた時の状態を話してくれました。眼に涙がにじんでいました。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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昌城村で

2013年05月05日 | 海南島史研究
 3月27日午後4時ころ昌化鎮を出発して昌城村に向いました。
 昌城村の入り口に「昌城東門」と書かれた巨大な門がつくられていました。そこは、かつて昌化城の東門があった場所でした。
 昌化城は、孫如強「昌化城城池的歴史沿革与現状」政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』第3輯〈1988年11月〉)によれば、15世紀の中ごろ、倭寇の侵略に備えて作られたもののようです。
 昌化城は、周囲を、全長2キロ半、高さ6メートルの石造りの塀で囲まれていたそうで、その一部分が、残っていました。
 門の中に入ると、まっすぐに道が延びていて、その両側に民家が並んでいました。
 門のそばで出会った人に話しかけると、昌城小学の校舎の近くに、日本軍が作った井戸の跡があるというので、案内してもらいました。その近くに、日本語学校があったという広場がありました。道路をはさんでその広場の向かい側に、昌化村委員会がありました。
 そこで書記の林義光さんに会いました。林義光さんは、
   “祖母の陳娥仔は日本語学校に通ったことがあった。祖母はいま石碌に住んでいる。近
   くに日本語学校に通った人が住んでいるので紹介する”
と言いました。
 村委員会の人に案内されて、その人の家に向かいました。その人は杜国光さん(1927年生)で、来意を話すと、つぎのように話してくれました。
   “ここで日本人が作った小学校に何年か通った。生徒は100人たらずだった。日本語を教
   えた先生は昌城の人で、名前は呉祥弟。去年亡くなった。ひらかな、カタカナを習っ
   た。13歳から学校に行かせる。それまで学校に行ったことはなかった。
    そのあと試験に通って八所の日本語学校に行った。試験に通ったのは3人で、みんな男
   だった。年はだいたい同じで、1、2歳の差。陳貴生と陳貴寿。陳貴生はいまもいるが、
   座ったままで動けない。陳貴寿は、死んだ。
    八所の学校には、1942年から1943年まで、1年半くらい通った。生徒は、日本人も中国
   人もいっしょで合わせて1000人以上いた。中国人は海南島の生徒だけで、420人。あとか
   らは、日本人と中国人は別々になった。日本人と中国人の建物は離れていた。学校は広
   かった。
    教師は十数人いた。みんな軍服で、暑いときは半袖、寒いときは長袖の服。みんな日
   本人。福井先生。若い先生。日本語を教えた。“イヌ、ブタ”とか“ミミ”。“ワタク
   シハニチゴガッコウノセイトデス”。
    日曜日に教師が生徒を連れて飛行場見学をしたこともあった。飛行機を撃つ大砲も見
   学した。1年に2回運動会があった。
    全員、寄宿舎に入った。学校の生活は最高だった。食べ物もよかった。ブタ、トリな
   どは皮を取って肉だけ、食べた。どこへ行くにも車だった。
    卒業後は、みんなあちこちに派遣された。西松組、鉄路……。卒業生の中に西松組に
   派遣された人もいるが、名前は覚えていない。
    卒業のとき、希望を言う。わたしは、さいしょは八所の港に派遣されようとしたが、
   昌城村の出身だから八所は遠いので行きたくない、通うのはたいへんだから石碌の方が
   いいと希望したら。通訳として石碌の病院に派遣された。通訳というより、医者の手伝
   いだった。注射の材料とかを運ぶ。医者があれをくれ、これを持ってこいというと、そ
   うする。医者は若い女の日本人だった。20歳あまりだったと思う。病院の名前は覚えて
   いない。場所は、川のそばで、いま昌江第二人民病院になっている。その前は、鉱山職
   工医院といった。
    慰安婦の専門病院が、川のそばに別にあった。慰安婦にされた女性は見たことはない。
    病院の患者は、日本人、労働者、だれでも来る。病院は大きかった。医者は何人いる
   かわからなかった。労働者で、けがをして足を切ったり、首を折ったりした人も来た。
   大きいから、労働者、農民、だれでも来る。
    2号病が発生して家に戻ってきた。2号病は流行病、コレラのことだ。2号病と判断され
   たら、火の中に入れられる。直接見たことはないが、みんなそう言っていた。
    1943年末に卒業して、1年か半年くらい病院で働いて、2号病が発生したので家に戻っ
   てきた。上司に、家に戻って落ち着いたら戻ってくるといって、了解を得て帰った。家
   に帰ってからは、父母は農民だったので、手伝いをした。
    労働者もおおぜい逃げた。保平の山は、逃げた労働者がおおぜい隠れていた。近くか
   ら働きに来ていた人もおおぜい逃げた。
    病院にいたとき、一番多い時で月に20元もらった。軍票で貰ったように思う。八所で
   学校に通っていたときも10元もらった。組長をしていたので。ふつうの学生は6元だっ
   た。日本の紙のお金だった。八所の学校では、靴、ぼうし、ズボン、シャツ、制服があ
   って、それを着なければいけなかった。
    日本軍が撤退したあと、国民党の時代にも学校に行った。この村にあった学校で、5年
   生まで5年間通った。6年生は別の学校に行かなくてはならず、そこは遠かったので行か
   なかった。教師は海南島人。授業は軍話だった。歌は北京語。教科書があった”。

 午後5時すぎに杜国光さんから話を聞きはじめていると、まもなく郭聖姣さん(1933年生)が来てくれました。
 郭聖姣さんは、つぎのように話しました。
   “日本人が、学校に行かせろと言ってきた。さいしょは行きたくなかったので行かなか
   った。12歳で、妹は8歳のとき。
    日本人が来て、ぜったいに学校に行かせろといって父と母を殴った。
    恐くて逃げて隠れたが、見つかって、学校に連れていかれた。
    台湾人の通訳を捕まえて電気を通すのを見せられた。それを見て怖くて、“行きま
   す、行きます”と言って、通うようになった。日本人は、顔だけ見てもこわいと感じていた。
    日本語学校には、1か月半通ったが、足が痛くなって、行けなくなった。海を歩いて
   足が腫れてきて痛くて3年間よくならなかった。
    教師は、“ヤマダサン”、“オジガワサン”。‘アイウエオ、カキクケコ’の教育だった。“イチ、
   ニ、サン、シ、ゴ、ロク、シチ、ハチ。ク”。“ハナ”(語尾を上げる)、“ハナ”(語尾を下げる)。
   “サシスセソ マミムメモ ヤイユエオ”。“キミガヨハ チヨニヤチヨニ……”。国旗を揚げ
   る場所でうたわされた。“ヒコウキ ヒコウキ ハヤイナ”。
    教師は学校では軍服を着ていなかった。短いズボンをはいていた”。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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昌化鎮で

2013年05月04日 | 海南島史研究
 3月27日午前11時過ぎに耐村を離れ、昌化鎮に行きました。昌化鎮は、昌化江の河口の北側にあり、西南に開いた港があります。日本海軍は、ここに昌港守備隊を置いていました(『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」〈1943年3月1日現在〉には、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の昌港守備隊の兵員数は、11と書かれています)。
 昌化鎮に着いてすぐに探した宿所の経営者の羅海峰さんが、日本軍の兵営があった場所を知っているというので、案内してもらいました。
 そこは、漁港の南側(昌化江河口方面)の岸壁で、埠頭工事がおこなわれていました。
 その前で、羅海峰さんは、
   “ここに日本軍の兵舎があった。炮楼もあった。炮楼は3階建てだった。わたしが子ども
   の時まで残っていたが、洪水でぜんぶ流された。
    この村から石碌鉱山に働きに行かされた人が病気になって火の中に投げ込まれたが、
   逃げだして川に沿って下りてきて村に戻ってきた、と父から聞いたことがある”
と話しました。
 当時のことを知っている高齢の人はいないかと羅海峰さんに聞くと、“妻の父が日本語学校に通っていた”ということなので、その家に案内してもらいました。そこは、昌化鎮の旧市街地で昌港守備隊があった場所から100メートルほどのところでした。
 羅海峰さんの妻の父、林金富さん(1927年生)は、こころよく迎えてくれて、つぎのように話しました。
   “わたしが10歳くらいのときに日本軍が上陸してきた。
    村の人は抵抗しなかった。日本軍は村に入ってきて、家を焼いたり家畜を盗んだりし
   た。30軒あった家がすべて焼かれた。金持ちは家の財産を持って山に逃げて隠れた。
    日本軍は炊事をする時の煙を見て判断する、この家は、革命運動に参加しているか、
   遊撃隊かと。家族だけの食事の支度だったら、煙はそんなに出ない。革命運動に参加し
   て、何人も家に隠れていたら、煙がたくさん出るので、日本軍に攻撃される。山の中で
   煮炊きする煙を狙って大砲が撃ち込まれ、指を何本か吹き飛ばされた人もいた。
    わたしの家は3回焼かれた。日本軍が上陸したとき。炊事をして、煙がたくさん出たと
   き。これは2回。人は殺されなかった。家にいたので、衣類などは持ち出すことができ
   た。家を焼かれたとき、家族は父母がいた。農民だった。わたしの家では、羊を10頭あ
   まり飼っていたが、8頭か10頭、盗まれた。
    上陸後、日本軍は望楼を作り始めた。この仕事に地元民が動員された。監督は日本人
   だった。
    村では、農歴8月15日には山から下りてきて先祖にごちそうを供えたが、日本人はそれ
   を盗っていった。
    村で殺された人の名前は覚えていない。
    15歳のとき、石碌に行かされた。父の代わりに行ったし、祖父の代わりにも行ったの
   で、合わせて2、3年は石碌でしごとをした。他の村人と交代で何回か石碌に行かされ
   た。どんな家でも、家ごとにひとりは行かなくてはならなかった。
    ここから八所まで歩いて行き、八所から石碌までは汽車で行った。
    しごとが遅いといって、監督が投げた鉄の球が右の腰にあたった。いまの右の腰が痛
   い。あたってないのに、左の腰も痛かった。投げた監督は日本人。日本兵におでこを何
   回も指ではじかれて、大きなタンコブができたこともある。
    流行病が広がった時、体調を崩して感染したと疑われた人も含めて、人が生きたまま
   火に投げ込まれて焼き殺された。火に投げ込まれた人が逃げ出そうとしたら、鉄ででき
   て先がとがった二股の槍のようなもので突き刺して、また火の中に放り込んだ。わたし
   を殺さないでください、わたしは病気ではないと言う人も、かまわずに火に投げ込まれ
   た。
    石碌で朝鮮人を見た。見張りをしていた。みんなが朝鮮人だと言っていた。朝鮮人で
   働いている人は見たことない。見張りをしていたのは、朝鮮人と台湾人だった。1か所に
   ふたり。
    寝るところは屋根は草葺き、床は板だった。村単位で寝るので、一部屋の人数は、多
   いところも少ないところもあった。
    半月で7.5元、1カ月で15元もらった。食事はかんたんなものだったが、たまにはブタ
   肉がでた。会社の人間はほとんど台湾人。
    労働者は海南島の各地、あちこちから来ていた。鉱石をかついでベルトコンベアに乗
   せて、トロッコに運び入れた。
    日本が敗ける少し前、日本軍が上空を飛んだ飛行機を撃ち落としたことがあった。
    昌城の方に落ちた。日本兵が犬を放して駆けつけると、犬は操縦士の死体を食べてい
   た。飛行機の中から日の丸が出てきて、日本軍の飛行機だとわかった。米軍の飛行機が
   多かったので、それかと思ったのだろう。
    日本人がいちばんおそろしいのは、女性にひどいことをすることだ。夜、村にこっそ
   り入ってきてひどいことをした。若い女性はたいへんだった。炮楼の日本兵だけではな
   い。他の地域に駐屯している兵も来た。
    日本兵が、どの家に若い女性がいるかと聞き、銃を構えて案内しろと命令するので、
   案内したことがある。そうしなかったらどうなったか。その女性にたいへんもうしわけ
   ないことをした。その女性はひどい目に会った。わたしだけでなく、何人も案内させら
   れた(この話をしながら、林金富さんは苦しそうに涙を流していた)。
    隣りの家にふたりの子どもがいた。姉と弟で父母はいなかった。姉はわたしより2歳上
   でまだ10歳代だった。炮楼の隊長が、この姉を炮楼に呼びつけて、性的暴行をした。家
   に帰らせたが、夜になるとまた呼んで、妻のようにしていた。姉は髪が長かったが、髪
   を短く切ってしまった。当時女性は髪を長くしていた。この人はもう亡くなってしまっ
   た。
    日本軍は八所に港を作ったが、浅くてよくなく、ここの海は深くていいので、深い港
   を作ろうとした。1年くらい工事をして、日本が敗けた。港は完成前だった。
    この港の工事をしたのは台湾の会社で、労働者は台湾人が多かった。
    香港人や台湾人は、しごとがきつかった。監督に殴られていた。この工事でも多くの
   人が亡くなった。
    日本が敗けて日本兵が引き揚げて行って、台湾人が残された。この人たちは、食べる
   ものも着るものもなくて、たいへんだった。台湾人が村に入ってきて、ブタ、トリ、サ
   ツマイモを盗っていったこともあった。紙のセメント袋でつくった服を着ていた。なに
   かできる技術を持っている人はちょっとしごとをして食べることもできたが……。この
   村でのことだ。
    わたしも石碌から戻ってきてから、昌港の工事をした。
    日本が敗けたとき、港を作っている最中で、わたしは工事に出て、鉄筋を運んだりし
   ていた。
    炮楼は、解放後、壊した。鉄条網もあったが、とってしまった。解放後のことだが、
   共産党と国民党が、炮楼をめぐって戦った。
    日本軍が撤退したあと、今日はじめて日本人に会った”。
                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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耐村で 3

2013年05月03日 | 海南島史研究
 李文運さんは、手書きの『統耐村受日頑固残殺命如下』、『統計全耐村鰥夫寡婦婆如下』、『本人簡歴和家残酷情況』を見せてくれました。それらの記録について、李文運さんは、  
   “日本軍が撤退し、国民党に勝利し、共産党政権になったあと、学校の教師になり、そ
   のあと村長になった。そのころ村の各家を訪ねて調査し、これを書きはじめた”
と話しました。
 『統耐村受日頑固残殺命如下』には、耐村で1939年10月に、殺された人たちの名が、つぎのように記されていました。
   郭少慶 82歳、郭三良 56歳、盧炳章、郭明保、郭舎良、郭龍良、郭舎利、郭舎霊、
   郭舎時、郭振紹、郭明富、鍾良利、鍾良桂、鍾良牲、何際忠、鍾良咸、郭維宣、
   郭振華、何際春(共産党員、保長)、李文思(共産党員、書記)、郭少桂、鍾龍光、
   郭炳春、鍾妍六、鍾妍七、鍾妍双、鍾妍四、鍾妍五、鍾妍開、郭妍姑。

 趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」について、李文運さんは、
   “趙志賢さんはこの村に来て調査していった。うそは書いていないが、内容はとてもか
   んたん。37頁の郭少貴の話はほんとうのことだ。
    趙志賢さんの調査に協力した人は当時の村の村長で、字が読めず、書けなかった。
    あのとき趙志賢さんは、わたしのところには来なかった。わたしの家族3人が殺されさ
   れ、家が全焼したことが書かれていない。
    趙志賢さんは前から知っているが、いい人だった。10年ほど前に、癌で亡くなった”
と話しました。
 趙志賢さんは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員がはじめて海南島を訪問した1998年6月に、石碌で会った人です。そのとき趙志賢さんは、昌江黎族自治県文史工作室の室長でした。お忙しい中、趙志賢さんは、自ら、石碌鉱山、「慰安所」跡、日本軍の兵営跡・望楼跡、「万人坑」跡、「万人坑」の近くの追悼碑などを案内してくれました。2000年春に再会したときに、これからの共同作業について話しあいました。しかし、2001年1月に訪ねたとき、2か月ほど前に亡くなられていました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』110頁をみてください)。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人                               
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耐村で 2

2013年05月02日 | 海南島史研究
 3月26日午後6時過ぎまで、李朝秀さんと郭成蘭さんに話を聞かせてもらいました。「李文運 媽媽 1人」と郭成蘭さんが話した李文運さんが近くに住んでいるとのことなので、翌日訪ねることにしました。
 耐村には宿屋がないので、午後6時半ころ、5キロほど離れた烏烈鎮に向いました。
 3月27日午前8時過ぎに、耐村に着き、符地安さんの案内で李文運さんの家を訪ねました。

 李文運さん(1919年生)は、大きな声で、しっかりした口調で、つぎのように話しました。
   “1939年に日本軍がこの村に攻めてきたとき、わたしは1938年から革命運動に入ってい
   たので、村にはいなかった。村の外に隠れていた。時どき夜になって村に戻る生活をし
   ていた。
    わたしは、青年抗日会の主任だった。青年抗日会は各村にあった。青年抗日会では、
   コメや金を集めて、組織に送ったり、集めた金で武器を買ったりした。組織に入ってい
   ない青年に宣伝したり勧誘したりする。金は、光銀。光銀は、金属で作った丸い硬貨の
   ことだ。清のも中華民国のもある。
    コメは、海尾鎮の白沙近くの山の中の根拠地まで、みんなでかついで運んだ。白沙第2
   区だ。集めたコメの量によって違うが、20~30人、多いときは、40人くらいで運んだ。
   村の青年抗日会はみんなで62人だった。運ぶのは夜だった。日本軍に見つかったことは
   ない。周りは密林だし、道をよく知っている。
    1938年に革命運動に入って日本軍が撤退するまで運動した。
    日本軍と戦ったことはない。支援をした。いや一度あった。日本軍がこの村を襲って
   包囲したとき、戦って包囲をやぶって逃げた。4人か5人、犠牲になったが、日本軍はひ
   とりも死ななかった。
    村を襲ってきたとき日本軍はわたしの家で、母を殺し、家を焼いた。家は全焼した。
   母は38歳だった。名前は郭妍姑。
    母が殺されたあと、祖母の何妍賎が殺された。兄嫁の郭明伊も殺された。家に残って
   いた女ばかり3人が殺された。
    わたしと父は村の外に隠れていた。何日かしてわたしは家に戻り遺体を埋めた。母の
   遺体は剣で刺されて穴だらけだった。母は、李文思の伯母だった。李文思は、このとき
   耐村の党支部書記で遊撃隊の隊長だった。李文思は、1942年秋に英顕の近くで日本軍に
   つかまり、北黎の日本軍司令部につれていかれて銃殺された。
    父は、1948年、国民党につかまって殺された。父も共産党員だったのでつねに革命運
   動に協力した。父の名前は李作楠。
    日本軍がいたとき、夜はときどき家に戻ってきた。当時このあたりは密林。むかしは
   ちゃんとした食べ物はない。村に戻ると、サツマイモやトウモロコシなどを食べた。山
   では、木の実などを食べた”。
                                    キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人


 海南省昌江黎族自治県地方志編纂委員会編『昌江県志』(新華出版社、1998年)には、李文思さんについて、つぎのように記述されています。

李文思 (1913—1941年)
  昌江县耐村人。是中共耐村党支部创建者。出生于贫苦农民家庭。15岁时,进私塾念书,勤奋好学,爱好书法,常帮村里人写对联。
  1938年春,在陶世民的引导下,李文思等10名青年学生加入中国共产党,成立耐村党支部,李文思担任党支部书记。下半年,遵照诗北区委的指示,由李文思、蒙开仁、郭天元、李鸿勋、谢宗发起,组织群众联名上告昌江县政府,要求惩办国民党大光乡正副乡长李赞堂、李鸿章、钟仁信等3人贪污勒索,鱼肉人民的罪行,把三者驱逐下台。
  在陶世民的指导下,李文思在耐村开办男女青年识字班,并进行抗日救国宣传教育。李文思经常带领党员到耐村、大风、长塘、纳凤、姜园、大洋基、保平、峨港、白石等村宣传抗战形势。9月,考入琼西中学,1939年2月日军侵琼,学校停办。李文思在耐村组织青年,成立抗日游击队,兼任队长。10月的一天,日军攻入耐村,杀害群众11名,纵火烧毁三户民房。为了对付敌人,保卫家园,李文思动员大家,捐款买枪支,组织一支抗日武装队伍。
  1941年10月9日,李文思同文超在前往英显村参加县委会议途中,不幸遇上日伪马队而被捕,在北黎日军司令部受审时,文思义正严词地痛骂日军罪行。日军打断文思的双腿,并从第二天起不供饭、不给水,文思在狱中惨受酷刑十一天,于1941年10月18日下午被日军用箩筐抬到刑场杀害,年仅29岁。
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耐村で 1

2013年05月01日 | 海南島史研究
 2013年3月26日に、昌江黎族自治県十月田鎮の保平村と羌園村を訪ねたあと、烏烈鎮をとおって昌化鎮大風村に行きました。
 午後3時半過ぎに大風村から隣村の耐村に向かいました。
 耐村に着いてすぐに、たまたま出会った耐村の幹部の符地安さんに、李朝秀さん(1925年生)のところに案内してもらうことができました。
 夕刻5時近くに突然訪問したわたしたちを李朝秀さんはこころよく迎えてくれ、つぎのように話しました。
   “1939年9月19日、自分が子どものころに日本軍がこの村に攻めてきた。この村は共産党
   が多かったからだ。そのとき村人が11人殺された。名前は何人かは覚えている。革命運
   動をやっていた人で、名前を覚えているのは、解放後に共産党が調べに来たからだ。名
   前が、『李氏族譜 昌化県昌化鎮耐村』(李聖堂主編、2008年戊子春修)に載っている人も
   いる。
    わたしの兄(李朝榮。1920年生)は3つ歳上で、91歳で亡くなったばかりだ。兄は若い
   とき、革命運動に入っていて、銃を買って共産党に渡したことがあった。
    兄はブタや家や田んぼなどの財産を売り払って3挺の銃を買い、さらに村で義捐金を集
   めて5挺の銃を買った。銃は憺州の白馬井の近くの排浦鎮で買うことができた。いまの共
   産党はこのことを認定せず、兄は‘烈士’として認められていない。
    子どものわたしは児童団に入っていた。副団長だった、団員は13人で、団長は、郭と
   いう人だった。児童団は、見張りをしたり情報を伝えたりした。夜ときどき、村の外で
   見張りをして、国民党が入ってきたり日本軍が来たときに知らせた。(そういうときは)
   急いで村に戻って、逃げろ、日本軍が来たぞ、とさけぶ。じぶんが見張りをしていると
   きに日本軍がきたことがあった。
    そのころは、夕方になると、日本軍が襲ってくる恐れがあるので、夕食を終えた後
   は、毎日、みんな村を出て、山の方に避難した。期間はどのくらいか覚えていないが、
   長かった。村のすぐ外側は密林なので、そこでも隠れていた。
    日本軍が昌江に橋をつくるとき、この村で8軒の家をわずか一日で壊した。日本軍は村
   の人を集めていくつかの組に分け、あの家を壊せ、この家を壊せと命令した。この村で
   体の大きくて丈夫な人が、橋を作らされた。炮楼も作らされた。わたしもしごとをさせ
   られた。板や木をかついで運んだ。おとなはふたりで1本の木を運ぶが、わたしら子ども
   は3人で1本の木を運んだ。このときもらった金は、たまに1毛か2毛ほど。
    この村から働きに行かされた人は数が多く数えきれない。からだが丈夫でも働かない
   人を日本軍はつかまえて穴に閉じ込めて煙でいぶして虐待した。死ななかったが。
    民家を壊して材料を使えるようにするのにし、それで橋を作って、よそから運んでき
   た鉄道の枕木と同じ木を橋の上に敷いた。橋ができるまで、かなり長い間かかったと思う。
    日本軍は撤退するとき、トラックで八所のほうに行こうとしたが、木橋が洪水で壊れ
   ていたので渡ることができず、トラックを爆破して行った”。
 
 李朝秀さんの妻、郭成蘭さんが日本軍に殺された人の名前を覚えていました。郭成蘭さんが言う名前を、長男の李徳海さんが、符地安さんといっしょに漢字を確認しながら、つぎのように書いてくれました。
    舎梅  爺爺 1人
    何昌会 爺爺 1人
    郭成蘭 叔叔 1人(郭成蘭の父の弟)
    鍾成銀 爸爸 1人
    鍾坡叔 爸爸 媽媽 2人
    鍾儂五 母子両 2人
    鍾成開(本人 女) 1人
    鍾開忠 祖母 1人
    李文運 媽媽 1人

 李朝秀さんの兄の李朝栄さん、その妻の符金姨さんら4人の村人の証言にもとづいて書かれた趙志賢・王文卿・世東整理「日軍対耐村群衆的惨害」が、1997年1月に出版された政協昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第6輯(暴行与反暴行専輯)に掲載されています。
                                     キム チョンミ、斉藤日出治、佐藤正人
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