三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安東・軍威と紀和町で」

2006年05月29日 | 紀州鉱山
■慶尚北道の安東と軍威へ

かつて紀州鉱山に強制連行された人びとから当時の話を聞かせていただこうとして、わたしたちは、韓国の友人とともに、昨年5月江原道麟蹄郡に、8月江原道平昌郡に行った。今年、わたしたちは、同じ目的で、8月18日から22日まで、韓国の友人たちといっしょに慶尚北道安東郡と軍威郡を訪問した。わたしたちは、低い山々のあいだに水田やりんご園やぶどう園や野菜畑がひろがる村をまわった。数日前の水害の跡があちこちに残っており、川幅いっぱいに水が溢れるように流れていたが、あたりの風景は静かでなごやかだった。このような村から、五十数年まえ、男たちが、とつぜん家族と大地からひきはなされて、むりやり日本につれていかれたのだ。

■「死亡」した翌日に「逃亡」?
紀州鉱山が1946年に三重県内務部に提出すいた「朝鮮人労務者」の「名簿」を持って郡事務所や面事務所へいって、戸籍簿を照合してもらう。戸籍簿に記載されていないときは、死亡した戸主の名簿である除籍簿を照合してもらう。
8月20日の昼過ぎだった。安東郡の臥龍面事務所で千炳台氏の戸籍簿をみることができた。そこには「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」使用)と書かれていた。
だが、紀州鉱山の「名簿」では、千炳台氏は、1944年5月7日に「官斡旋」で紀州鉱山に「入所」し、「運搬夫」として働かされていたが、3ヶ月後の8月2日(死亡した翌日)に「逃亡」したことにされている。強制連行された紀州鉱山で千炳台氏が命を失わされたのは27歳のときで、故郷で結婚してから、2年も過ぎていなかった。日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきついでいる紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などへいって調査を始めた。

■生きて戻れるとは思わなかった

8月19日、安東MBCテレビのスタッフと、軍威郡長に会って協力を養成したあと、郡威郡召保面の老人会館にむかった。そこで、南氏に会うことができた。ゆっくり当時のことを語ってくれる。強制連行されるとき、妻も子どももいたという。「宿所は山のなかにあった。門番がいて、証明書をもらわなければ出ていけなかった。ひとつの部屋でおおぜいが寝た。削岩機のしごとで、ほこりを頭からかぶった。大阪で土方をしようと3人で逃げた。大阪では飯場にいたが、そこからも逃げて、東京の中島飛行場の工場で働いた」。南氏によると、紀州鉱山にいっしょに強制連行された人のうち、張氏が健在だという。すぐみ張氏の自宅を訪ねて、話を聞かせていただいた。
8月20日夕刻、林氏を訪問した。農作業をしていた林氏は、ゆったりしたあしどりで、わたしたちを家の一角に案内してくれた。わたしたちは、1時間あまり、話を聞かせていただいた。その間、林氏は、感情を抑えるかのように低い声で静かに語りつづけた。「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人が、つかまえにきた。昼来ると、逃げられるから、夜にくるんだ。以前は令状があったが、令状を送って逃げられたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。面庁でひと晩ねて、出発した。日本人が面庁に来ていて、見張っていた。行ったら生きて戻れると思わなかった。紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡する人がでたときには、それをみていて止めなかった人も殴られた。解放になって、帰ってこれただけでありがたかった」。

■じぶんも死ぬと思った

8月23日に軍威郡内良里で張氏に会うことができた。紀州鉱山に強制連行される前日、たまたま自宅の近くの道を歩いていたらとらえられたという。「満州に行くか日本へ行くか」と訊ねられ、日本に行くと答えると、明日出発だといっていったん自宅に戻されたが、「満州」に行くと答えた人はそのままつれていかれたという。わたしたちが張斗龍氏から話を聞いている集会場にたまたま来られた朴氏の夫も紀州鉱山で働いていたという。

■小学6年生の在日朝鮮人の感想

こんどの安東と軍威での聞きとりと「調査」には、小学校6年生の金さんと19歳の金さんのふたりの若い在日朝鮮人が参加した。わたしたちの会員の平均年齢は40歳を越しているので、若い人びとの参加は、とりわけうれしい。金さんは、日本に再入国してからすぐに記録・感想文を書いた。その最後の一節は、こうである。「日本が戦争に負けたのも、いろんな国い対し、つぐなう、いいチャンスだったかもしれない」。「一つでも多くの手がかりを発見した時、聞いた時は、すごくうれしいです」。

■紀和町で
わたしたちが安東・軍威からもどったあとまもなく、8月29日から9月3日まで、安東MBCテレビのスタッフが日本に来て、紀和町などを取材した。安東MBCテレビ創業10周年を記念するドキュメンタリー番組を製作するためである。スタッフは、早朝から夜遅くまで活動した。紀州鉱山の真実を明らかにする会も同行して、和歌山から紀和町にむかったが、途中の由良にも田辺にも中辺路にも、おおくの朝鮮人の労働の跡がのこっている。紀和町では、紀州鉱山本部事務所跡地に鉱山資料館が建てられている。そこにはA級戦犯容疑者であった石原広一郎を賛美することばが掲げられているが、朝鮮人労働者にかんする展示はまったくない。
また紀州鉱山に強制連行され、命を失わされたイギリス軍「捕虜」の「墓」は、「外人墓地」と名づけられ、紀和町の「指定文化財」とされており、紀和町役場企画観光課が作成したガイドマップに記載されている。紀和町長と教育長にインタビューした安東MBCの李記者は、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記述が『紀和町史』にも紀和町鉱山資料館にもまったくない理由をくりかえし尋ねた。紀和町長も教育長も、朝鮮人強制連行の事実を、これからは『紀和町史』・紀和町鉱山資料館で示していきたいという。

■熊野市で
いまなお、朝鮮人虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の記述を根本的に改めようとしていない熊野市は、9月2日の安東MBCの取材を拒否した。その翌々日、9月4日、熊野市役所で、紀州鉱山に強制連行されたイギリス
軍「捕虜」との「交流」をつづけている紀南国際交流会主催の集会(オーストラリアに日本兵「捕虜」の墓参報告会)がおこなわれた。

■石原産業大阪本社で

取材の最後の日、9月3日石原産業大阪本社に行った。そこで李記者は、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記録を石原産業が提出することを求めた。だが、石原産業は、終始あいまいな回答を続けるばかりだった。なぜ、千炳台氏が死亡した翌日に、紀州鉱山の「名簿」では「逃亡」したとされたのかという問いにたいしても、現場のことは現場で処理している、本社ではわからない、名簿の原本も複写も石原産業にないので調べようがない、といいはった。
紀和町小栗須の慈雲寺に、『紀州鉱業所物故者諸精霊名』と表紙に書かれた423人の名簿がある。そこに、15人ほどの朝鮮人(および朝鮮人と思われる人)の名が記されている。その一人、「子炳台」氏は、千炳台氏のことと思われる。
帰国するため空港に向かう直前、20代のわかい李記者は、「日本に来る前は、事実を事実としてはっきりさせ、日韓関係に積極的な展望をもつことができると、楽観的に考えていたが、いまは、重い気持だ」と語った。


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6,民衆のネットワークを

2006年05月29日 | 海南島
6,民衆のネットワークを

強制連行された朝鮮人が紀州鉱山で働かせていた時期に、海南島の田独鉱山でなにがおこなわれていたかは、これまで日本では隠されていた。これから、田独鉄山やフィリピンのカランバヤンガン鉱山(ここでも石原産業は日本軍とともに資源と労働力と人命を奪っている)などでの強制労働の実態をその地域の民衆とともに、明らかにしていくなかで、強制連行・強制労働の現場であるアジア太平洋の各地と日本の各地をつなぐ民衆のきずなを強めていきたい。

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4.朝鮮村

2006年05月28日 | 海南島
田独鉱山は、三亜市東方の郊外にあるが、三亜市北方の郊外に、朝鮮村という名の黎族の村がある。そこで殺害され埋められた1000人以上といわれる朝鮮人を偲んで村人が、解放後に村名を変えたのだという。『日軍侵崖暴行実録』には、日本軍は朝鮮の「政治犯」1000人を現在の朝鮮村にあった収容所で殺害した、と書かれている。
わたしたちは、海南島に着いた翌日、政治協商会議三亜市委員会の蔡文恵氏に案内されて、朝鮮村を訪れた。黎語を知る蔡氏の通訳によって、朝鮮人を木につるして日本人が虐殺したのを目撃した周亜細氏(83歳)から話を聞かせていただくこともできた。周亜細氏自身も日本兵によって左足に傷を負わされたという。日本に戻ってから、わたしたちは、防衛研究図書館で、『海南警備府戦時日誌』(全30冊)をふくめ、数十冊の資料を点検したが、この事実の関係資料をみつけることができなかった。だが、橋正図書館では、いくつかの資料を探しだすことができた。その資料には、1943年から1944年にかけて、朝鮮から全獄中者の約1割の人びとが「南方派遣報国隊」の名で海南島に強制連行され、強制労働させられたという事実が示されていた(「南方派遣報国隊」は、海南島では「朝鮮報国隊」とよばれたという)。

さらにその後、わたしたちは韓国の記録保存所で、海南島に強制連行された獄中者に関する資料(名簿の一部など)を発見した。その名簿には、「治安維持法」違反の人も含まれていた。7月に、韓国KBS取材班が、海南島にいき、朝鮮村の虐殺現場のわずかな一部分を「発掘」し、7人の遺骸に対面した。取材班は遺骸を埋めもどし、祭祀をおこなった。

KBSの取材班をつうじて、わたしたちは、「南方派遣報国隊」の隊員として海南島に強制連行され、虐待され、朝鮮人虐殺を目撃した人が、韓国慶尚南道の固城におられることを知った。この人によれば、いったん「京城刑務所」に集められてから海南島に強制連行された獄中者のなかには、マラリアなどで病死した人も多かったという。8月31日夜、KBSは、ドキュメンタリー「海南島に埋められた朝鮮のいのち」を放映した。これは、「朝鮮報国隊」にかんする多くの新しい情報を伝達するものであった(この番組制作に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人がコーディネイターとして参加した)。50年あまりがすぎたいま、ようやく海南島に朝鮮人獄中者が強制連行され命を奪われたという事実が、日本と韓国で明るみにだされようとしている。

5,民衆の持久的な抵抗とたたかい
日本軍は、海南島の各地の村々をくりかえし襲撃し、しばしば民衆を虐殺した。中国本土でおこなった犯罪(住民虐殺、婦女暴行、掠奪、軍隊性奴隷強要……)のすべてを、日本軍は、1939年2月以降、海南島でもおこなった。抗日軍と民衆は、持久的に重装備の日本軍と戦いぬいた。日本軍が海南島全域を占領・支配したことはなかった。1944年から、山岳部を中心に解放区が拡大していった(海南省政協文史資料委員会編『日軍侵瓊暴行実録』上下・続、海南出版社、1995年、1996年、参照)。
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「海南島1998年 夏」~田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村~

2006年05月21日 | 海南島
「海南島1998年 夏」
~田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村~

1.田独鉱山で
ほぼ60年前の1939年2月、日本陸海軍が奇襲攻撃をして海南島を占領し、軍政をしいた。その半年後、8月に石原産業は、海南島南部(現:三亜市郊外)の田独鉱山を独占し、翌年7月から鉄鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめた。このころから、石原産業は、三重県の紀州鉱山で朝鮮人を働かせていた(『パトローネ』27、28、29、31号に紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする記事が掲載されています)。田独鉱山では、海南島の民衆だけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人々が酷使された。中国人民抗日戦争勝利50周年を紀念して政治協商会議三亜市委員会が編集し、1995年8月に発行した『三亜文史?日軍侵崖暴行実録』(「崖」は、海南島南部の現三亜,楽東県の沿海地域を指す)には、日本軍と石原産業が田独鉱山の鉄鉱石を略奪した6年間に、病死、餓死、殴殺、生き埋め、銃殺された労働者は1万人以上であった、と書かれている。今年6月下旬、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員3人が、田独鉱山でどんなことがおこなわれていたのかを調査するため、海南島にいった。

2,侵略戦争と強制連行・強制労働
日本軍政下の海南島で、日本窒素は石碌鉄鉱山、三菱工業は那大錫鉱山と羊角嶺水晶鉱山、浅野セメントは抱坡嶺石灰山の資源の略奪を始めた。日本の植民地とされた中国東北部では、1932年から多くの中国人が、鉱山、発電所などで強制労働させられていたが、海南島でも、日本軍・日本企業は、中国人・朝鮮人・台湾人…を強制労働させた。それにもかかわらず、大蔵省管理局がだした『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島編)』には、「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦い、マラ
リヤ、赤痢、コレラ等恐るべき熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかった程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生まれ変わった海南島が建設されたのである」と書かれている。

3,海南島の万人坑
万人坑は、日本支配下の鉱山で酷使され命を失わされた人々が重なって埋められている「墓地」あるいは大虐殺現場あるいは大処刑場であり、中国東北部の撫順炭坑、老頭溝炭坑、豊満ダム、大石橋マグネサイト鉱山、鶏西炭坑、鶴岡炭坑、北票炭坑、七道溝鉄鉱山、華北の大同炭坑、准南炭坑などにその跡が残されている。
海南島には、田独鉱山、石碌鉱山や八所港などに万人坑がある。1958年に田独万人坑に「日冠時期受迫害死亡工友紀念碑」が建てられた。石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、山中の鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事でも多くの人命が奪われた。八所港の万人坑には、1964年に「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」が建てられた(「瓊」は海南島を意味する)。数万人がいのちを奪われた石碌鉱山には、1965年に「石碌鉄鉱死難鉱工紀念碑」が建てられた。万人坑は、日本ではつくられなかった。中国各地の万人坑は、その地での強制労働の苛酷さを示している。

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海南島での「現地調査」の記録

2006年05月21日 | 海南島
海南島での「現地調査」の記録

1998年6,8月 海南島田独鉱山、「朝鮮村」、石碌鉄山での「現地調査」
2000年3,4月 海南島での「現地調査」
2001年1月 海南島「朝鮮村」で「発掘」及び「調査」
2002年10月 海南島での「現地調査」
2005年9月 海南島で
2005年9月 海南島現地調査


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韓国麟蹄と平昌での現地調査(1997年5月,8月)

2006年05月15日 | 紀州鉱山
韓国麟蹄と平昌での現地調査(1997年5月,8月)

紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間が、5月と8月に、韓国江原道へいって紀州鉱山に強制連行された人びとから話しを聞かせていただいた。わたしもそれに参加した。


97年5月、麟蹄(インチ゛ェ)で
5月に、麟蹄郡にいった。わたしは昨年秋にはじめて麟蹄へ行き、紀州鉱山に強制連行された4人の方に会うことができた。こんどの再訪で、私は会の仲間といっしょによりくわしく話しを聞くことができた。5月の麟蹄の季節は晩春+初夏。浅い新緑のなかに、ケナリ、桃、桜、こでまり、野の花が満開だった。その麟蹄の村や町を尋ね歩いた。昨年秋にも今年5月にも、面事務所や老人会の人びとに助けられた。とくに麒麟面事務所では、面長の朴善振氏も総務課の安浩烈氏も多くの職員の方がたも、文字どおり親身になって、日本に強制連行された人の消息を尋ねてくれた。こんどは、麟蹄から紀州鉱山に強制連行された人に新しく出会うことはできなかったが、地域の人たちといっしょに、それぞれの立場から強制連行の歴史を追求していくきずながつくられたように思う。

97年8月、平昌( ヒ゜ョンチャン)
 8月に、平昌郡にいった。
わたしたちは石原産業が1946年9月に三重県内務部に出した「名簿」をてがかりにして、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を歩いているのだが、その住所記載はいいかげんなものである。じっさいには、「名簿」にある住所にいっても、多くの人に助けられなければ、強制連行されたひとの消息はほとんど知ることはできない。平昌でも、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面などの面事務所で、真剣に調査をしてくれる職員、副面長、面長に出会った。龍坪面では、農民相談所長の崔鍾來氏が協力してくれた。崔氏の亡父は日本に強制連行されたのだが、その場所ははっきりしないという。蓬坪面の副面長康基龍氏は、ご自分の村の各家に電話をかけ、ついに50年まえにその村から移住した秋教華氏が紀州鉱山に強制連行されていたことをつきとめ、秋氏の現住所を教えてくれた。また康基龍氏に案内された食堂で紹介された朴東洛氏は、わたしたちに深い配慮をして便宜をはかり、助言してくれた。そして、こまやかなつながりの輪のなかにむかえてくれ、話しを聞かせてくれた各地域の老人会の人びと……。麟蹄郡の中央部を38度線が横断している。1968年11月~12月、東海岸から上陸した北の軍人が平昌郡の山中で住民を殺傷したことがあった。昨年秋、わたしが麟蹄にいたときにも北から潜水艦で上陸した乗員を探索する韓国軍人が活動していた。

50余年前に強制連行された人びとの消息をいま尋ねることは、未来にむかう新たなきづなを結ぶことであり、現代の諸問題を深く考える契機をつかむことでもあった。

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韓国麟蹄と平昌での現地調査(1997年5月,8月)

2006年05月04日 | 紀州鉱山
韓国麟蹄と平昌での現地調査(1997年5月,8月)

紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間が、5月と8月に、韓国江原道へいって紀州鉱山に強制連行された人びとから話しを聞かせていただいた。わたしもそれに参加した。

97年5月、麟蹄(インチ゛ェ)で
5月に、麟蹄郡にいった。わたしは昨年秋にはじめて麟蹄へ行き、紀州鉱山に強制連行された4人の方に会うことができた。こんどの再訪で、私は会の仲間といっしょによりくわしく話しを聞くことができた。5月の麟蹄の季節は晩春+初夏。浅い新緑のなかに、ケナリ、桃、桜、こでまり、野の花が満開だった。その麟蹄の村や町を尋ね歩いた。昨年秋にも今年5月にも、面事務所や老人会の人びとに助けられた。とくに麒麟面事務所では、面長の朴善振氏も総務課の安浩烈氏も多くの職員の方がたも、文字どおり親身になって、日本に強制連行された人の消息を尋ねてくれた。こんどは、麟蹄から紀州鉱山に強制連行された人に新しく出会うことはできなかったが、地域の人たちといっしょにそれぞれの立場から強制連行の歴史を追求していくきずながつくられたように思う。

97年8月、平昌( ヒ゜ョンチャン)
8月に、平昌郡にいった。わたしたちは石原産業が1946年9月に三重県内務部に出した「名簿」をてがかりにして、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を歩いているのだが、その住所記載はいいかげんなものである。じっさいには、「名簿」にある住所にいっても、多くの人に助けられなければ、強制連行されたひとの消息はほとんど知ることはできない。平昌でも、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面などの面事務所で、真剣に調査をしてくれる職員、副面長、面長に出会った。龍坪面では、農民相談所長の崔鍾來氏が協力してくれた。崔氏の亡父は日本に強制連行されたのだが、その場所ははっきりしないという。蓬坪面の副面長康基龍氏は、ご自分の村の各家に電話をかけ、ついに50年まえにその村から移住した秋教華氏が紀州鉱山に強制連行されていたことをつきとめ、秋氏の現住所を教えてくれた。また康基龍氏に案内された食堂で紹介された朴東洛氏は、わたしたちに深い配慮をして便宜をはかり、助言してくれた。そして、こまやかなつながりの輪のなかにむかえてくれ、話しを聞かせてくれた各地域の老人会の人びと……。麟蹄郡の中央部を38度線が横断している。1968年11月~12月、東海岸から上陸した北の軍人が平昌郡の山中で住民を殺傷したことがあった。昨年秋、わたしが麟蹄にいたときにも北から潜水艦で上陸した乗員を探索する韓国軍人が活動していた。50余年前に強制連行された人びとの消息をいま尋ねることは、未来にむかう新たなきづなを結ぶことであり、現代の諸問題を深く考える契機をつかむことでもあった。



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海南島「朝鮮村」遺骨「発掘」に資金協力をお願いします!

2006年05月02日 | 「朝鮮報国隊」
海南島の「朝鮮村」には日本軍に殺されたと思われる多数の朝鮮人の遺骨が埋められたままになっています。日本軍による犯罪行為をはっきりとさせるため、「発掘」、遺骨鑑定、死因調査、身元調査にご協力をおねがいします!遺族も高齢化し、海南島の暑い気候は遺骨の崩壊を早めるため、早急に調査しなければなりません。私たちは2004年2月に「発掘」を予定しています。しかし、「発掘」、遺骨鑑定だけでさしあたり、150万円くらい必要です。とても私たちの市民団体ではまかなえる費用ではありません。
ぜひ、資金・技術協力をおねがいします。

海南島
海南島は中華人民共和国とベトナムの境、トンキン湾の東にあります。1939年2月、日本軍は海南島を攻撃し、次々と島の要所を占領していきました。海南島はアジア・太平洋地域に侵略をすすめる日本軍の前線基地とされ、また資源獲得をめざすという国策のもと、多数の日本企業が海南島に進出しました。
軍事施設の建設、鉱山労働、道路などの建設工事には海南島住民をはじめ、広州・潮州・上海の人たち、朝鮮、台湾の人たちなどが苛酷な労働を強いられました。日本軍は植民地朝鮮・台湾の刑務所に服役していた人を「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」として海南島に連行し、労働を強制しました。「朝鮮報国隊」とされた人たちは海南島各地の飛行場建設、石碌鉱山(日本窒素)、鉄道・土木工事(西松組)、田独鉱山(石原産業)、港湾工事などで働かされていました。日本の敗戦前後、日本軍はこの1000人にのぼる「朝鮮報国隊」の人々を、三亜市郊外の「朝鮮村」(南丁村)で虐殺しました。

「朝鮮村」
「朝鮮村」の名前は近くに暮らす黎族の住民が日本軍に殺された朝鮮人を弔う意味でつけたそうです。朝鮮人と一緒に道路建設作業を日本軍に強制された、「朝鮮村」近くに住む符亜輪さん(87)は、こう証言しています。「朝鮮人は竹で作ったかごを背負って土を運んだ。…道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人を二人ずつ木に吊るして殴った。…死ぬまで殴って、死んだあと2、3人ずつ穴に埋めた。…(朝鮮人は)みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白かった…」。これまでの調査で「朝鮮村」では、100体を越える遺骨と軍隊手帳、薬きょう、白いボタン、青い布切れ、針金、銃剣などが見つかっています。遺骨のなかには、頭蓋骨に撃ち抜かれたような穴のあいたもの、腕の骨が異常に変形したものなど、明らかに外的な力を加えられたものもあります。わたしたちは各地で聞かれた、「『朝鮮報国隊』は青い服を着、そのボタンは白い色だった」という証言などから、「朝鮮村」に埋められている遺骨は「朝鮮報国隊」の人たちであると考えています。

今、事実を明らかに―
「朝鮮村」の遺骨は、わたしたちに残された虐殺の一つの「証拠」でもあります。これまで遺骨の身元は一人も明らかになっていません。今回、「発掘」作業と埋められた年代の測定、年齢・性別などを調べる遺骨鑑定、死因などの法医学的な調査などをしたいのです。
みなさん、日本政府と侵略企業の責任を明らかにするため、発掘作業をともに進めませんか!

振込先
郵便口座番号 00920-3-247174
名 義 紀州鉱山の真実を明らかにする会
口 数  一口 3,000円
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