■慶尚北道の安東と軍威へ
かつて紀州鉱山に強制連行された人びとから当時の話を聞かせていただこうとして、わたしたちは、韓国の友人とともに、昨年5月江原道麟蹄郡に、8月江原道平昌郡に行った。今年、わたしたちは、同じ目的で、8月18日から22日まで、韓国の友人たちといっしょに慶尚北道安東郡と軍威郡を訪問した。わたしたちは、低い山々のあいだに水田やりんご園やぶどう園や野菜畑がひろがる村をまわった。数日前の水害の跡があちこちに残っており、川幅いっぱいに水が溢れるように流れていたが、あたりの風景は静かでなごやかだった。このような村から、五十数年まえ、男たちが、とつぜん家族と大地からひきはなされて、むりやり日本につれていかれたのだ。
■「死亡」した翌日に「逃亡」?
紀州鉱山が1946年に三重県内務部に提出すいた「朝鮮人労務者」の「名簿」を持って郡事務所や面事務所へいって、戸籍簿を照合してもらう。戸籍簿に記載されていないときは、死亡した戸主の名簿である除籍簿を照合してもらう。
8月20日の昼過ぎだった。安東郡の臥龍面事務所で千炳台氏の戸籍簿をみることができた。そこには「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」使用)と書かれていた。
だが、紀州鉱山の「名簿」では、千炳台氏は、1944年5月7日に「官斡旋」で紀州鉱山に「入所」し、「運搬夫」として働かされていたが、3ヶ月後の8月2日(死亡した翌日)に「逃亡」したことにされている。強制連行された紀州鉱山で千炳台氏が命を失わされたのは27歳のときで、故郷で結婚してから、2年も過ぎていなかった。日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきついでいる紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などへいって調査を始めた。
■生きて戻れるとは思わなかった
8月19日、安東MBCテレビのスタッフと、軍威郡長に会って協力を養成したあと、郡威郡召保面の老人会館にむかった。そこで、南氏に会うことができた。ゆっくり当時のことを語ってくれる。強制連行されるとき、妻も子どももいたという。「宿所は山のなかにあった。門番がいて、証明書をもらわなければ出ていけなかった。ひとつの部屋でおおぜいが寝た。削岩機のしごとで、ほこりを頭からかぶった。大阪で土方をしようと3人で逃げた。大阪では飯場にいたが、そこからも逃げて、東京の中島飛行場の工場で働いた」。南氏によると、紀州鉱山にいっしょに強制連行された人のうち、張氏が健在だという。すぐみ張氏の自宅を訪ねて、話を聞かせていただいた。
8月20日夕刻、林氏を訪問した。農作業をしていた林氏は、ゆったりしたあしどりで、わたしたちを家の一角に案内してくれた。わたしたちは、1時間あまり、話を聞かせていただいた。その間、林氏は、感情を抑えるかのように低い声で静かに語りつづけた。「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人が、つかまえにきた。昼来ると、逃げられるから、夜にくるんだ。以前は令状があったが、令状を送って逃げられたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。面庁でひと晩ねて、出発した。日本人が面庁に来ていて、見張っていた。行ったら生きて戻れると思わなかった。紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡する人がでたときには、それをみていて止めなかった人も殴られた。解放になって、帰ってこれただけでありがたかった」。
■じぶんも死ぬと思った
8月23日に軍威郡内良里で張氏に会うことができた。紀州鉱山に強制連行される前日、たまたま自宅の近くの道を歩いていたらとらえられたという。「満州に行くか日本へ行くか」と訊ねられ、日本に行くと答えると、明日出発だといっていったん自宅に戻されたが、「満州」に行くと答えた人はそのままつれていかれたという。わたしたちが張斗龍氏から話を聞いている集会場にたまたま来られた朴氏の夫も紀州鉱山で働いていたという。
■小学6年生の在日朝鮮人の感想
こんどの安東と軍威での聞きとりと「調査」には、小学校6年生の金さんと19歳の金さんのふたりの若い在日朝鮮人が参加した。わたしたちの会員の平均年齢は40歳を越しているので、若い人びとの参加は、とりわけうれしい。金さんは、日本に再入国してからすぐに記録・感想文を書いた。その最後の一節は、こうである。「日本が戦争に負けたのも、いろんな国い対し、つぐなう、いいチャンスだったかもしれない」。「一つでも多くの手がかりを発見した時、聞いた時は、すごくうれしいです」。
■紀和町で
わたしたちが安東・軍威からもどったあとまもなく、8月29日から9月3日まで、安東MBCテレビのスタッフが日本に来て、紀和町などを取材した。安東MBCテレビ創業10周年を記念するドキュメンタリー番組を製作するためである。スタッフは、早朝から夜遅くまで活動した。紀州鉱山の真実を明らかにする会も同行して、和歌山から紀和町にむかったが、途中の由良にも田辺にも中辺路にも、おおくの朝鮮人の労働の跡がのこっている。紀和町では、紀州鉱山本部事務所跡地に鉱山資料館が建てられている。そこにはA級戦犯容疑者であった石原広一郎を賛美することばが掲げられているが、朝鮮人労働者にかんする展示はまったくない。
また紀州鉱山に強制連行され、命を失わされたイギリス軍「捕虜」の「墓」は、「外人墓地」と名づけられ、紀和町の「指定文化財」とされており、紀和町役場企画観光課が作成したガイドマップに記載されている。紀和町長と教育長にインタビューした安東MBCの李記者は、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記述が『紀和町史』にも紀和町鉱山資料館にもまったくない理由をくりかえし尋ねた。紀和町長も教育長も、朝鮮人強制連行の事実を、これからは『紀和町史』・紀和町鉱山資料館で示していきたいという。
■熊野市で
いまなお、朝鮮人虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の記述を根本的に改めようとしていない熊野市は、9月2日の安東MBCの取材を拒否した。その翌々日、9月4日、熊野市役所で、紀州鉱山に強制連行されたイギリス
軍「捕虜」との「交流」をつづけている紀南国際交流会主催の集会(オーストラリアに日本兵「捕虜」の墓参報告会)がおこなわれた。
■石原産業大阪本社で
取材の最後の日、9月3日石原産業大阪本社に行った。そこで李記者は、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記録を石原産業が提出することを求めた。だが、石原産業は、終始あいまいな回答を続けるばかりだった。なぜ、千炳台氏が死亡した翌日に、紀州鉱山の「名簿」では「逃亡」したとされたのかという問いにたいしても、現場のことは現場で処理している、本社ではわからない、名簿の原本も複写も石原産業にないので調べようがない、といいはった。
紀和町小栗須の慈雲寺に、『紀州鉱業所物故者諸精霊名』と表紙に書かれた423人の名簿がある。そこに、15人ほどの朝鮮人(および朝鮮人と思われる人)の名が記されている。その一人、「子炳台」氏は、千炳台氏のことと思われる。
帰国するため空港に向かう直前、20代のわかい李記者は、「日本に来る前は、事実を事実としてはっきりさせ、日韓関係に積極的な展望をもつことができると、楽観的に考えていたが、いまは、重い気持だ」と語った。
かつて紀州鉱山に強制連行された人びとから当時の話を聞かせていただこうとして、わたしたちは、韓国の友人とともに、昨年5月江原道麟蹄郡に、8月江原道平昌郡に行った。今年、わたしたちは、同じ目的で、8月18日から22日まで、韓国の友人たちといっしょに慶尚北道安東郡と軍威郡を訪問した。わたしたちは、低い山々のあいだに水田やりんご園やぶどう園や野菜畑がひろがる村をまわった。数日前の水害の跡があちこちに残っており、川幅いっぱいに水が溢れるように流れていたが、あたりの風景は静かでなごやかだった。このような村から、五十数年まえ、男たちが、とつぜん家族と大地からひきはなされて、むりやり日本につれていかれたのだ。
■「死亡」した翌日に「逃亡」?
紀州鉱山が1946年に三重県内務部に提出すいた「朝鮮人労務者」の「名簿」を持って郡事務所や面事務所へいって、戸籍簿を照合してもらう。戸籍簿に記載されていないときは、死亡した戸主の名簿である除籍簿を照合してもらう。
8月20日の昼過ぎだった。安東郡の臥龍面事務所で千炳台氏の戸籍簿をみることができた。そこには「一九四四年八月壱日午前拾壱時参拾分参重県南牟婁郡川上村大字大河内五百六拾四番地に於て死亡同居者三山移植届出一九四四年八月弐日川上村長岡浅之助受付同月九日送附」(原文は日本「元号」使用)と書かれていた。
だが、紀州鉱山の「名簿」では、千炳台氏は、1944年5月7日に「官斡旋」で紀州鉱山に「入所」し、「運搬夫」として働かされていたが、3ヶ月後の8月2日(死亡した翌日)に「逃亡」したことにされている。強制連行された紀州鉱山で千炳台氏が命を失わされたのは27歳のときで、故郷で結婚してから、2年も過ぎていなかった。日本にもどって、わたしたちは、「参重県南牟婁郡川上村」の事務をひきついでいる紀和町和気の川上出張所や紀和町役場などへいって調査を始めた。
■生きて戻れるとは思わなかった
8月19日、安東MBCテレビのスタッフと、軍威郡長に会って協力を養成したあと、郡威郡召保面の老人会館にむかった。そこで、南氏に会うことができた。ゆっくり当時のことを語ってくれる。強制連行されるとき、妻も子どももいたという。「宿所は山のなかにあった。門番がいて、証明書をもらわなければ出ていけなかった。ひとつの部屋でおおぜいが寝た。削岩機のしごとで、ほこりを頭からかぶった。大阪で土方をしようと3人で逃げた。大阪では飯場にいたが、そこからも逃げて、東京の中島飛行場の工場で働いた」。南氏によると、紀州鉱山にいっしょに強制連行された人のうち、張氏が健在だという。すぐみ張氏の自宅を訪ねて、話を聞かせていただいた。
8月20日夕刻、林氏を訪問した。農作業をしていた林氏は、ゆったりしたあしどりで、わたしたちを家の一角に案内してくれた。わたしたちは、1時間あまり、話を聞かせていただいた。その間、林氏は、感情を抑えるかのように低い声で静かに語りつづけた。「ある夜寝ているとき、とつぜん面の役人が、つかまえにきた。昼来ると、逃げられるから、夜にくるんだ。以前は令状があったが、令状を送って逃げられたことがあって、わたしらのときは、なにもなかった。面庁でひと晩ねて、出発した。日本人が面庁に来ていて、見張っていた。行ったら生きて戻れると思わなかった。紀州鉱山では人間としての扱いは受けなかった。逃亡する人がでたときには、それをみていて止めなかった人も殴られた。解放になって、帰ってこれただけでありがたかった」。
■じぶんも死ぬと思った
8月23日に軍威郡内良里で張氏に会うことができた。紀州鉱山に強制連行される前日、たまたま自宅の近くの道を歩いていたらとらえられたという。「満州に行くか日本へ行くか」と訊ねられ、日本に行くと答えると、明日出発だといっていったん自宅に戻されたが、「満州」に行くと答えた人はそのままつれていかれたという。わたしたちが張斗龍氏から話を聞いている集会場にたまたま来られた朴氏の夫も紀州鉱山で働いていたという。
■小学6年生の在日朝鮮人の感想
こんどの安東と軍威での聞きとりと「調査」には、小学校6年生の金さんと19歳の金さんのふたりの若い在日朝鮮人が参加した。わたしたちの会員の平均年齢は40歳を越しているので、若い人びとの参加は、とりわけうれしい。金さんは、日本に再入国してからすぐに記録・感想文を書いた。その最後の一節は、こうである。「日本が戦争に負けたのも、いろんな国い対し、つぐなう、いいチャンスだったかもしれない」。「一つでも多くの手がかりを発見した時、聞いた時は、すごくうれしいです」。
■紀和町で
わたしたちが安東・軍威からもどったあとまもなく、8月29日から9月3日まで、安東MBCテレビのスタッフが日本に来て、紀和町などを取材した。安東MBCテレビ創業10周年を記念するドキュメンタリー番組を製作するためである。スタッフは、早朝から夜遅くまで活動した。紀州鉱山の真実を明らかにする会も同行して、和歌山から紀和町にむかったが、途中の由良にも田辺にも中辺路にも、おおくの朝鮮人の労働の跡がのこっている。紀和町では、紀州鉱山本部事務所跡地に鉱山資料館が建てられている。そこにはA級戦犯容疑者であった石原広一郎を賛美することばが掲げられているが、朝鮮人労働者にかんする展示はまったくない。
また紀州鉱山に強制連行され、命を失わされたイギリス軍「捕虜」の「墓」は、「外人墓地」と名づけられ、紀和町の「指定文化財」とされており、紀和町役場企画観光課が作成したガイドマップに記載されている。紀和町長と教育長にインタビューした安東MBCの李記者は、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記述が『紀和町史』にも紀和町鉱山資料館にもまったくない理由をくりかえし尋ねた。紀和町長も教育長も、朝鮮人強制連行の事実を、これからは『紀和町史』・紀和町鉱山資料館で示していきたいという。
■熊野市で
いまなお、朝鮮人虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の記述を根本的に改めようとしていない熊野市は、9月2日の安東MBCの取材を拒否した。その翌々日、9月4日、熊野市役所で、紀州鉱山に強制連行されたイギリス
軍「捕虜」との「交流」をつづけている紀南国際交流会主催の集会(オーストラリアに日本兵「捕虜」の墓参報告会)がおこなわれた。
■石原産業大阪本社で
取材の最後の日、9月3日石原産業大阪本社に行った。そこで李記者は、朝鮮人強制連行・強制労働にかんする記録を石原産業が提出することを求めた。だが、石原産業は、終始あいまいな回答を続けるばかりだった。なぜ、千炳台氏が死亡した翌日に、紀州鉱山の「名簿」では「逃亡」したとされたのかという問いにたいしても、現場のことは現場で処理している、本社ではわからない、名簿の原本も複写も石原産業にないので調べようがない、といいはった。
紀和町小栗須の慈雲寺に、『紀州鉱業所物故者諸精霊名』と表紙に書かれた423人の名簿がある。そこに、15人ほどの朝鮮人(および朝鮮人と思われる人)の名が記されている。その一人、「子炳台」氏は、千炳台氏のことと思われる。
帰国するため空港に向かう直前、20代のわかい李記者は、「日本に来る前は、事実を事実としてはっきりさせ、日韓関係に積極的な展望をもつことができると、楽観的に考えていたが、いまは、重い気持だ」と語った。