三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

熊野市と三重県の答弁書 5

2011年07月31日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、訴状で、石原産業が紀州鉱山で働かせて朝鮮人労働者にかんして1946年9月に三重県内務部に提出した報告書を「甲1の2号証」として添付しました。
 熊野市は、答弁書において、この「甲1の2号証」にふれて次のように述べています(原文は、「元号」使用)。

    「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)に「徴用ニ依ル朝鮮人労働者数二三二名」(5頁)あるのは、1944年9月から翌年3月までの7ヶ月間に徴用された朝鮮人の数である。
    「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)に記載されている朝鮮人の大多数は「官斡旋」に応じて紀州鉱山で労働することになった者であって、これらの者は「強制的」に連れてこられた者ではない。
    なお、「徴用令書」の対象となって「徴用」された232名の朝鮮人の場合には、これに応じないと罰則を課(ママ)せられるという意味で「強制」の契機はあったものの、日本人でも「徴用令書」の対象となった場合には拒否をすればやはり罰則を課(ママ)せられたのであって、その点では、何ら日本人と異なるところはなかったのである。

 「甲1の2号証」には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」と書かれています。この「官斡旋」とは、1942年2月の日本政府閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことです。
 熊野市は、「入所経路」が「官斡旋」と書かれている朝鮮人は、強制されたのではなく、主体的に「官」の「斡旋」に応じたのだ、と述べています。
 熊野市がこのような答弁書をだしたことによって、こんどの訴訟が、朝鮮人強制連行・強制労働の歴史を明快にするという基本課題をもつことになりました。
                                       佐藤正人
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熊野市と三重県の答弁書 4

2011年07月30日 | 紀州鉱山
 熊野市は、答弁書のなかで、「国民徴用令」の朝鮮人への適用は1944年9月~1945年3月だけであったことを証明する文書として1947年7月13日の『朝日新聞』の記事だとする記事のコピーを「乙1号証」として添付しています。
 しかし、1947年7月13日の『朝日新聞』には、東京版にも大阪版にも、この記事はありません。
 熊野市は、証拠文書の特定すら正確にできないということを、「乙1号証」で証明しています。
 熊野市の答弁書の「乙1号証」は、答弁書の内容が事実であると証明する書証ではなく、熊野市の歴史認識のいいかげんざを証明する書証です。
 「国民徴用令」と朝鮮人強制連行・強制労働は別個の歴史問題です。
                                        佐藤正人
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熊野市と三重県の答弁書 3

2011年07月29日 | 紀州鉱山
 熊野市の答弁書では、「不知」と書かれているのは1か所で、そこには、「すべて不知ないし争う」と書かれています。
 三重県の答弁書では、「不知」は5か所です。
 「不知」という用語は、民事訴訟法には書かれていません。
 一般的に「不知」とは、「知らない」という意味なので、これは知らないではすまされないことなので、はっきり認識してもらわなければなりません。
 「不知」とは、否認とあまり変わらない態度表明だと思います。かれらは、「不知」といったり「争う」といったりしていますが、いずれにしても否認しているのだと思います。
 「不知」と言って、追悼碑建立の場の公共性を否認し、強制連行という事実を否定しようとしている熊野市や三重県を、わたしたちは、まず1回目の裁判のとき釈明要求というかたちで糾弾します。
 三重県は、「三重県が「朝鮮人の追悼碑の建立」に公共性がないと公言したことは否認」と述べています。三重県の答弁書のこの1行をみるだけで、三重県の認識と姿勢のイイカゲンサがよくわかります。
 「追悼碑の建立」とは行為であって、場でも物でもありません。わたしたちは、土地にたいする課税を拒否しているのであり、土地の使用の公共性を主張しているのであって、「建立」という行為の公共性を主張しているのではありません。
 もちろん、追悼碑の建立という行為は公共性のある行為ですが、訴状において、わたしたちは、行為の公共性を主張していません。
 したがって、「三重県が「朝鮮人の追悼碑の建立」に公共性がないと公言したことは否認」というのは、わたしたちの訴状にたいする答弁としては、無意味な空言です。三重県は、わたしたちが主張していないことを否認しているのです。
 三重県は「公共性がないと公言したことは否認」と言っているので、それは、「公共性があると公言する」あるいは「公共性があると公言した」と同じ意味なのかを、1回目の裁判の日に、明確にすることを要求します。
 また、三重県は、「原告の「朝鮮人の追悼碑には税を減免するほどの公共性が認められないとすることは、大いに公共性を欠く理不尽な県の判断だと言わざるをえない」との主張を争う」として、「朝鮮人の追悼碑には税を減免するほどの公共性が認められない」と主張しています。
 さらに、これに続いて、三重県は、「「三重県知事がこの追悼碑建立について何らの義務も責任もないとして宅地並みに課税して良いはずはない」との主張は争う」としています。
                                        佐藤正人

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熊野市と三重県の答弁書 2

2011年07月28日 | 紀州鉱山
 熊野市は答弁書の末部につぎのように書いています。

 本件追悼碑設置を目的とする土地が「公益上その他の事由に因り課税を不適当とする固定資産」であるかどうかを判断すると、第1に、原告らを会員として含む「紀州鉱山の真実を明らかにする会」は、「本件『紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑』の建立により、犠牲者の追悼と同時にその『歴史的責任』を問い続けることが必要であり、追悼碑は『歴史の真実を刻み、その責任を問い続けるモニュメント』としても建立されるべきだ」(3頁)とする「目的」を有する団体であること、第2に、その「目的」のために設置された本件「強制連行された朝鮮人の追悼碑」は、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の「目的」である「日本国と日本軍と日本企業と地方行政が植民地朝鮮の人びとを強制的に連行し、過酷な鉱山労働に就かせ、その本名を名乗らせずなどして人権を踏みにじり、35名を死に至らしめた事実」を「問い続ける」(11頁)という「効果」を発揮することを意図するものであるから、本件土地が「紀州鉱山の真実を明らかにする会」と離れて「公の利益のため固定資産が使用され、当該固定資産の納税義務者個人に固定資産税を負担させるのが相当でないとみられる場合」には該当しないことは明らかである。
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裁判長変更

2011年07月27日 | 紀州鉱山
 きょう(7月27日)、津地方裁判所の書記官から、人事異動で担当裁判長が、堀内照美さんから戸田彰子さんに変わったという連絡がありました。
 したがって、第1回裁判(口頭弁論)の裁判官は、戸田彰子裁判官,福渡裕貴裁判官,坂川波奈子裁判官となります。
 熊野市を被告とする第1回裁判は8月4日午前11時から、三重県を第1回裁判は8月4日午前11時半からはじめられます。
 使用法廷は津地方裁判所302号法廷です。
 対熊野市裁判の傍聴券は10時25分に、対三重県裁判の傍聴券は10時40分に、津地方裁判所B館1階交通事件控室で配布するとのことです。
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熊野市と三重県の答弁書 1

2011年07月26日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するために購入した土地にたいする三重県と熊野市の課税に抗議し、課税の取消しを求める訴状を3月18日に津地方裁判所にだしました。その後、津地方裁判所からの求釈明に応じて訴状の1部を訂正し、5月2日に「訴状訂正申立書」をだし、訴状を完成させました。
 この訴状にたいする熊野市の2011年7月14日付けの答弁書を、なぜか津地方裁判所が2日前の7月12日に受付け、それが7月14日に津地方裁判所から紀州鉱山の真実を明らかにする会に郵送されてきました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会の完成訴状にたいする三重県の2011年7月19日付けの答弁書を、津地方裁判所は1日後の7月20日に受付け、それが7月22日に津地方裁判所から紀州鉱山の真実を明らかにする会に郵送されてきました。
 熊野市の答弁書には、被告訴訟代理人の倉田巖圓弁護士(三重県津市中央3番29号の倉田巖圓法律事務所)と被告指定代理人5人(熊野市職員)が署名しており、三重県の答弁書には、被告訴訟代理人として三重県津市羽所町700番地アスト8階のふりはた綜合法律事務所の降籏道男弁護士ら6人の弁護士と被告指定代理人として11人の三重県職員が署名していました。
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海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会

2011年07月25日 | 海南島近現代史研究会

 2007年8月5日に創立された海南島近現代史研究会は、「毎年夏の総会時の定例研究会とともに、毎年冬に定例研究会を開催します」という規約にしたがって、2008年2月10日に最初の定例研究会を開催し、同年8月3日の第2回総会時に第2回定例研究会を併催し、2009年2月8日に第3回定例研究会を開催し、同年8月9日の第3回総会時に第4回定例研究会を併催し、2010年2月14日に第5回定例研究会を開催し、同年8月22日の第4回総会時に第6回定例研究会を併催し、本年2月13日に第7回定例研究会を開催しました。

 8月28日に第5回総会と第8回研究会を開催します。
 みなさんの参加をお待ちしています。

 と き:2011年8月28日(日)13時~17時半(開場12時)
 ところ:大阪産業大学 梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)
 参加費:500円(会員は無料です)

主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま
■証言 夫は海南島につれていかれた          イ ガンヒ(李康姫)
    韓錫(ハンギソク)さんは、1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ、ソウルの刑務所から海南島に連行され、1944年2月に、海南島南東部の陵水で亡くなりました。
    妻の李康姫さんが受けとった箱には、小さな骨が入っていたそうです。
■証言 アボヂの跡を追い続けて            ハン ガンス(韓光洙)
    韓光洙さんは、韓錫さんと李康姫さんの息子さんです。
    昨年の海南島近現代史研究会第4回総会で証言していただきましたが、さらに話を聞かせてもらいます
■報告 「朝鮮報国隊」の軌跡             キム チョンミ(金静美)
 日本海軍の要請と日本政府の閣議決定に基づいて、朝鮮総督府は、朝鮮各地刑務所の獄中者を選び「朝鮮報国隊」を組織し、1943年春から、2000人を海南島に送り出し、三亜や陵水の日本軍飛行場建設、田独や石碌の鉄鉱石採掘、石碌~八所間の鉄道建設、八所港建設などを強制しました。そのほとんどが、海南島で命を失わされました。
■報告 海南島戦時性暴力被害訴訟ののち        杉浦ひとみ
    2010年3月2日、最高裁判所は,日本軍によって「慰安婦」とされた海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」の上告を棄却し上告受理申立を不受理とすると決定しました。これによって、9年間にわたる裁判が終わりました。
    これからどうするのか、みなさんと共に考えたいと思います。
■討論 日本政府・日本企業に侵略犯罪の責任をどうとらせていくか
■報告 2011年春の海南島「現地調査」報告
   東山鎮、月塘村、「朝鮮村」、佛老村、金鶏嶺、黒眉村、板橋鎮、新龍鎮新村、八所、沙土……で

   海南島近現代史研究会 http://www.hainanshi.org/
   【事務局】 大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室内
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海南師範学校 10

2011年07月24日 | 海南島史研究
 日本政府は、台湾総督府、朝鮮総督府に相当する政治支配機関として、海南島に海南島総督府をつくろうとしていましたが、その前に日本は敗戦しました。1939年2月の海南島侵略後、海口地域を日本陸軍が軍事支配し、その他の地域を日本海軍が軍事支配しました。 
 海南島の政治支配は、はじめ三省(外務省、海軍省、陸軍省)連絡会議がおこなっていましたが、海軍が実権を把握し、1942年秋からは、日本海軍の特務部(海南海軍特務部)が傀儡政府を利用しつつ単独でおこなっていました。
 海南海軍特務部の文書は、現在、ほとんど残されておらず、海南海軍特務部政務局第3課が新設・運営していた海南師範学校にかんする文書は、わたしがこれまで調査したかぎりでは、防衛研究図書館で公開されている『海南海軍警備府引渡目録』に含まれている「海南師範学校塀外出火状況ノ件報告」だけです。これは、1945年10月29日に海南警備府司令部の名で(なぜか、海南島侵略日本軍解体後にかかわらずこの名がつかわれています)中国国民党軍の粤桂南區總指揮部前進指揮所に出されています。
 ここには、「10月24日1100頃ヨリ海南師範学校(海南海軍特務部集結予定地。既に1部宿営中)東北塀外ニ於テ淡煙ノ立昇リアルヲ認メタルモ……」と書かれており、海南師範学校と海南海軍特務部の関係を示しています。
 アジア太平洋侵略戦争で生き残った日本兵は、日本敗戦後、「戦友会」をつくりましたが、海南海軍特務部の旧職員は「海特会」という名の団体を、海南師範学校の卒業生も1954年に「黒潮会」という名の団体をつくりました。1981年1月に「黒潮会」は敗戦後はじめて海南島に行き、その後2000年代初期まで、毎年団体旅行をしていました。
 海南島に侵入していた「第103震洋隊」の旧隊員たちがつくった「サルモン岬会」や「第32震洋隊」の旧隊員がつくった「三二震洋会」については、このブログの2011年11月11日の「「サルモン岬 6」および11月30日の「サルモン岬 10」、佐藤正人「サロモン岬・「サルモン岬」」(『海南島近現代史研究』第2号・第3号、2011年2月)などをみてください。
                                          佐藤正人
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海南師範学校 9

2011年07月23日 | 海南島史研究
 1995年11月に発行された政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第8輯「陵水抗日史料専輯」の目次はつぎのとおりです。

  抗战时期陵水党政及地方武装建设史实概要………………………潘先木咢
  英勇抗战 威震琼南——琼纵第三支队抗日斗争片断………………王会源
  抗日时期国民党陵水县党工概况……………………………………刘占炎
  国民党陵水抗战大事记………………………………………………胡学智等 整理
  开辟陵三区抗日游击队根据地………………………………………李春初
  开展陵保地区工作的回忆……………………………………………方 克
  忆开泰在陵水领导抗战片断…………………………………………韩歧姬
  雷丰抗日联络站的建立和发展………………………………………颜启明 陈番姚
  抗日航空烈士莫同淅…………………………………………………莫履光 王 静
  历尽艰险为革命——记黄仕连烈士…………………………………黄良汉 王宜奋
  抗日烈士陈鸿儒………………………………………黄亚六 口述 杨明衍 整理
  封文村伏击战…………………………………………薛庆全 口述 胡月玲 整理
  打击日敌嚣张气焰 鼓舞军民抗日斗志——记大简伏击战……………卓石存
  夜袭新村日军台托所…………………………………赵向仍 口述 邢丽新 整理
  海上夺粮助抗口………………………………………赵向仍 口述 邢丽新 整理
  夜烧港坡桥……………………………………………熊如意 口述 冯少雄等 整理
  尤甫盛抗战简介………………………………………尤甫盛 口述 王人造 整理
  一个交通员的抗日足迹………………………………陈世福 口述 严财科 整理
  救死扶伤为抗日严弄拷打不动摇——忆我父亲为共产党抗日游击队治伤医病的经历
               …………………………………胡义 口述 胡月玲 整理
  勇敢机智的交通员黄亚长……………………………黄俊英 口述 郑月大等 整理
  卿老人抗战斗争的回忆片断………………………冯卿 口述 苏光明等 整理
  忆我父亲的抗战经历…………………………………陈业修等 口述 黄善堂 整理
  勇敢不屈的放牛娃……………………………………李亚武 口述 郑月大等 整理
  营救美国飞行员………………………………………颜春梅 口述 陈文忠 整理
  难忘的鱼水深情………………………………………潘 照
  王浩书记脱险记………………………………………万廷祥 口述 郑月大等 整理
  征粮历险记……………………………………………颜春梅 口述 陈文忠 整理
  祖合村抗日后备队建立始未…………………………卓亚单 口述 胡茂震等 整理
  大补山抗日后备队………………………………………………………黄善堂 整理
  沟仔村和什亦村后备队抗日斗争历程……………陈亚安等 提供 胡茂震等 整理
  长兴乡抗日民主政府成立及其斗争情况…………陈农具等 口述 龙启文 整理
  我没忘记自己是个中国人——一个伪县维持总会会长的自述……庄谋口述冯少雄整理
  伪维持会长暗中为抗日出力…………………………赵向仍 口述 许礼芳 整理
  一个伪维持会长的小插曲……………………………赵向仍 口述 许礼芳 整理
  宁当少年鬼 不做亡国奴……………………………颜春梅 口述 陈文忠 整理
  抗日歌典选……………………………………………颜春梅 口唱 吴明蓓 整理

 Hさんや阿津川俊宏氏が教師をしていた時期の陵水地域での抗日反日闘争について、Hさんは、「この地域は治安があまりよくないため、自治政府の兵隊がよく来て、今日は危険だから早く帰りなさいと忠告してくれる日も多かった」といい、阿津川俊宏氏は、「週1度くらい6年の児童が今夜は山からコワイ人達が来るから外出しない方がよいなど情報を入れてくれる。山のそれぞれの軍団が食料日用品などの調達に市街地に入ってくるらしい」と述べています。
 「陵水抗日史料専輯」に「偽維持会長暗中為抗日出力」など4編を口述している趙向仍さん(本名、趙向盈。1918年生)は、日本軍占領時代に陵水に近い新村の「治安維持会」副会長でしたが、抗日部隊に協力していました。趙向盈さんについては、このブログの2006年10月15日の「木本トンネルの道 5」、2007年5月16日の「海南島からの朝鮮人帰還について 20」、2010年11月14日の「「サルモン岬」9」などをみてください。
                                      佐藤正人
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海南師範学校 8

2011年07月22日 | 海南島史研究
 1995年2月に発行された政協陵水黎族自治県委員会文史学習委員会編『陵水文史』第7輯は「日軍侵陵暴行実録」であり、1995年11月に発行された第8輯は「陵水抗日史料専輯」です。第7輯「日軍侵陵暴行実録」の目次はつぎのとおりです。

  日军侵陵史实概要………………………… 潘先木咢
  日军侵琼始末时间及全岛各地日军分布情况………兰发长 口述 王人造 整理
  日军侵陵的见证——武田正次之墓及石刻……………吉亚等 口述 王明朝等 整理
  驻陵水县城日军番号及治安维持会机构设置情况…………庄谋 口述 潘先木咢 等 整理
  日军建军部 居民惨遭殃………………… 莫同湖等 口述 王人造 整理
  死里逃生忆当年——狗尾吊村“三九”大屠杀述实……………冯卿等 口述 苏光明 整理
  日军暴行 铁证如山——光坡镇光安据点及下岭惨案记实……黄积师等 口述 黄善堂 整理
  一个几被日军杀绝烧光的村庄——朝拜山大屠杀调查实录…… 吴泽顺 颜启明
  可耻的诱惑 残暴的屠杀——记日军把六弓村黎胞骗到陵城残杀的经过……吴阿福等口述 莫日文等整理
  日军在乌牙峒暴行实录…………………………………胡茂震
  日军侵占提蒙乡的血腥罪行……………………………陈农具等口述 龙启文等整理
  日军在三才地区的军事据点设施及其暴行……………刘兴义等口述 潘先木咢 整理
  文罗镇广昌村大屠杀记实………………………………马文学等口述 陈运宏等整理
  文罗镇后头园村大屠杀惨案实录………………………胡石园口述 王宜奋等整理
  日军屠杀陵城地区平民的四件血案忆述………………潘家儒等口述 王人造整理
  隆广白石日军据点设置情况及其暴行…………………黄公爷口述 黄兴朝等整理
  一位“慰安妇”的血和泪………………………………黄有良口述 胡月玲整理
  我险些葬身千人坑——一个大坡机场劳工的自述………胡京鹂口述 龙建武整理
  焚尸场里的幸存者——忆我义父悲惨的劳工遭遇………朱亚妹口述 王人造整理
  人间地狱 虎口余生——两位劳工的血泪控诉…………吉亚等口述 潘先木咢 等整理
  新村港日军据点机构设置情况…………………………赵向盈口述 许礼芳整理
  日军侵陵的军事要地新村南湾巡艇坑道………………赵生口述 王人造整理
  日军在椰林乡的军事据点设置概况及其暴行……… 施亚美等口述 潘先木咢 整理
  日军侵占英州地区概况…………………………………黄良清口述 严财科等整理
  日军侵占本号地区概况…………………………………吉亚等口述 王明朝等整理
  长城乡的日军军事据点及罪行…………………………王铭春等口述 王人造等整理
  隆广三角坡村日军和自警团据点设置情况及其罪行………黄公爷口述 陈运宏等整理
  隆广岭仔坡自警团据点情况及其罪行………………………卓皇爷口述 黄兴朝等整理
  抚黎庙日烟自警团据点情况及其罪行………………………胡家仁口述 卓石存等整理
  日军在陵城的服务机构及暴行………………………………龙华养等口述 潘先木咢 整理
  黎安村日军军事据点的设置情况及“黎亚”事件…………郑家业等口述 陈玉贵等整理
  陵水县防共青年团的组织机构及其活动情况…………………………………王人造
  新村防共青年团………………………………………………邢贻谦口述 许礼芳整理
  往事不堪回首——一位日军通译官的自述……………………黄良清口述 潘先木咢 整理
  日军侵陵办日本语学校对我县少年儿童进行奴化教育…………兰武长口述 王人造整理

 わたしたちは、これまで、10回近く訪ねましたが、2000年春に最初に訪ねたときに陵水黎族自治県委員会文史学習委員会で『陵水文史』第7輯(「日軍侵陵暴行実録」)を寄贈され、その後、陵水を訪れるときに必ず持参し、ここに書かれていることを「現地調査」してきました。
 陵水に日本軍が侵入したのは、1939年2月でした。陵水市内の南門嶺の山頂には、いまも「1939年2月21日 陵水占領 井上部隊」(原文は「元号」使用)と刻まれた石が残されています(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月発行〉46頁を見てください)。
 井上部隊(隊長井上左馬二)は日本海軍佐世保第8特別陸戦隊所属部隊で、海南島東部各地で継続的に住民虐殺などの戦争犯罪をくりかえしていました。井上左馬二は、1945年3月に硫黄島で、約1000人の海軍警備隊などをUSA軍に「突撃」(自滅攻撃)させ、本人も死にました。
 Hさんは、陵水小学校の教師をしていたころ、近くの南門嶺の山頂でこの石を見たといいます。Hさんや阿津川俊宏氏が「赴任」していた陵水地域で、日本軍は「暴行」をくりかえしていました。
 Hさんは、陵水に「囚人」がつれてこられていると聞いたことがあると、わたしたちに話しました。
 陵水に日本軍は飛行場を建設しており、その工事に台湾や朝鮮から獄中者が連行され働かされていましたから、Hさんの言う「囚人」とは、その人たちのことであったかもしれません(このブログの2010年8月15日の「ヨ チャボン(呂且鳳)さん」、2010年11月1日、2日の「「台湾報国隊」について」1、2などを見てください)。
                                          佐藤正人
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