紀州鉱山の真実を明らかにする会は、訴状で、石原産業が紀州鉱山で働かせて朝鮮人労働者にかんして1946年9月に三重県内務部に提出した報告書を「甲1の2号証」として添付しました。
熊野市は、答弁書において、この「甲1の2号証」にふれて次のように述べています(原文は、「元号」使用)。
「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)に「徴用ニ依ル朝鮮人労働者数二三二名」(5頁)あるのは、1944年9月から翌年3月までの7ヶ月間に徴用された朝鮮人の数である。
「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)に記載されている朝鮮人の大多数は「官斡旋」に応じて紀州鉱山で労働することになった者であって、これらの者は「強制的」に連れてこられた者ではない。
なお、「徴用令書」の対象となって「徴用」された232名の朝鮮人の場合には、これに応じないと罰則を課(ママ)せられるという意味で「強制」の契機はあったものの、日本人でも「徴用令書」の対象となった場合には拒否をすればやはり罰則を課(ママ)せられたのであって、その点では、何ら日本人と異なるところはなかったのである。
「甲1の2号証」には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」と書かれています。この「官斡旋」とは、1942年2月の日本政府閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことです。
熊野市は、「入所経路」が「官斡旋」と書かれている朝鮮人は、強制されたのではなく、主体的に「官」の「斡旋」に応じたのだ、と述べています。
熊野市がこのような答弁書をだしたことによって、こんどの訴訟が、朝鮮人強制連行・強制労働の歴史を明快にするという基本課題をもつことになりました。
佐藤正人
熊野市は、答弁書において、この「甲1の2号証」にふれて次のように述べています(原文は、「元号」使用)。
「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)に「徴用ニ依ル朝鮮人労働者数二三二名」(5頁)あるのは、1944年9月から翌年3月までの7ヶ月間に徴用された朝鮮人の数である。
「朝鮮人労務者に関する調査のこと」(甲1の2)に記載されている朝鮮人の大多数は「官斡旋」に応じて紀州鉱山で労働することになった者であって、これらの者は「強制的」に連れてこられた者ではない。
なお、「徴用令書」の対象となって「徴用」された232名の朝鮮人の場合には、これに応じないと罰則を課(ママ)せられるという意味で「強制」の契機はあったものの、日本人でも「徴用令書」の対象となった場合には拒否をすればやはり罰則を課(ママ)せられたのであって、その点では、何ら日本人と異なるところはなかったのである。
「甲1の2号証」には、738人の朝鮮人の名と本籍地や「入所経路」が書かれていますが、そのうち、9人を除く729人の「入所経路」は、「官斡旋」と「徴用」と書かれています。この「官斡旋」とは、1942年2月の日本政府閣議決定後の強制連行のことであり、「徴用」とは、1944年9月からの「国民徴用令」による強制連行のことです。
熊野市は、「入所経路」が「官斡旋」と書かれている朝鮮人は、強制されたのではなく、主体的に「官」の「斡旋」に応じたのだ、と述べています。
熊野市がこのような答弁書をだしたことによって、こんどの訴訟が、朝鮮人強制連行・強制労働の歴史を明快にするという基本課題をもつことになりました。
佐藤正人