三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『会報』を発行しました

2008年02月28日 | 『会報』
 3月9日の紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼するはじめての集会が近づいてきました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』3号と三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允、相度)の追悼碑を建立する会『会報』48号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

………………………………………………………………………………

表紙  紀州鉱山で働かされた人の故郷(江原道)
     紀州鉱山選鉱場跡
2頁 紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山の真実」
3~4頁 キム チョンミ「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人 」
5~6頁 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会までの道程」
7頁 久保雅和「埋もれた歴史を明らかに」
7~8頁 年表・紀州鉱山史(抄)
9頁 佐藤正人「紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷へ」
10頁 山本柚「麟諦からの10年」
11~12頁 斉藤日出治「熊野市との話し合い」
12頁 嶋田実「2007年 イギユン氏・ペサンド氏の追悼式」
13頁 朴三浩「2007年の追悼集会に参加して」
14~15頁 太田成治「「海南島展」と私の“宿題”」
15頁 斉藤日出治「横浜の外人墓地で」
裏表紙  板屋の共同墓地内にある「無縁塔」
      朝鮮人労働者の墓石と言われている石
      慈雲寺本堂に置かれている「紀州鉱業所物故者諸精霊」
      『紀州鉱業所物故者霊名』(朝鮮人の名も記されている)
      本龍寺に残されていた朝鮮人の遺骨
      1943年に石産業が建てた「慰霊塔」
      紀州鉱山坑道(湯の口付近)
      板屋の朝鮮人労働者宿所跡
      筑後の朝鮮人労働者の宿所跡

2008年2月25日発行  B5版16頁(表紙・裏表紙カラー)  
定価100円

発行者
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/
       大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学 斉藤日出治研究室                      
紀州鉱山の真実を明らかにする会
http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/
       和歌山県海南市日方1168
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紀州鉱山の真実

2008年02月27日 | 紀州鉱山
 1997年2月9日に紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成されてから、11年が過ぎました。
 会結成7か月後に発表した「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうするのか――」(『在日朝鮮人史研究』27号、アジア問題研究所発行)の末部の「これからどうするか」に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、次のように書いていました。

………………………………………………………………………………

 運動のひろがりのなかで、日本と朝鮮に住む民衆が連携して真実を明らかにする努力をつみかさね(情報の交換、整理、総合、共同聞きとり……)、日本政府、石原産業、紀和町にとるべき責任をとらせていく。

(1)事実の解明・ネットワークづくり
 Ⅰ、聞きとり。
   ①、紀州鉱山に強制連行された人びととその家族友人から。
   ②、紀州鉱山で働いていた日本人(従業員、「学徒勤労動員報国隊」の隊員ら)から。
   ③、紀州鉱山地域の住民から。
 Ⅱ、史資料の探索
   ①、地域の新聞などの点検する。
   ②、1944年7月の「八紘寮」での闘争のとき逮捕され、有罪判決をうけた8人に
    たいする木本区裁判所の判決文などの探索。
   ③、石原産業四日市工場、東芝三重工場などへの朝鮮人強制連行・強制労働に
    かんする文書の探索。
 Ⅲ、石原産業が海南島の田独鉄山、フィリピンのカランバヤンガン鉱山などでやっ
  たことは、紀州鉱山でやったことよりはるかに悪質ではなかったか。
   かつての海南島田独鉄山の労働者、フィリピンカランバヤンガン鉱山などの労
  働者からの聞きとりが急がれる。
   中国民衆(海南島田独鉄山の労働者など)、東南アジア民衆(フィリピンのカ
  ランバヤンガン鉱山の労働者など)とのネットワークをつくっていくことをめざ
  して、また、強制連行された朝鮮人の故郷(朝鮮各地)、強制連行された中国人
  の故郷(中国各地)と朝鮮人・中国人が強制連行された地域(日本各地・中国東
  北部各地・アイヌモシリ各地、ウチナー各地)をつなぐ網の目を民衆の連帯のき
  づなに変えていくことをめざして、できることをすすめていく。
(2)責任追求
 Ⅰ、石原産業にたいして
   朝鮮人強制連行・強制労働の責任をとらせる。
   強制連行・強制労働にかんする全ての資料(強制貯金、未払賃金関係文書を含
  む)をださせる。
   強制連行・強制労働の実態の公表要求。
   「紀州鉱山一九四六年報告書」、石原産業社史における事実隠し・いつわりを
  批判し、謝罪させ、社史を書き換えさせる。
   未払賃金問題と帰国時の一時金を支払っていない問題を解決させる。
 Ⅱ、紀和町・紀和町教育委員会にたいして。
   紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんするすべての資料を公開させ、『紀和町史』
  を書きかえさせる。
  紀和町鉱山資料館の展示内容を変更させ解説を書きかえさせる。
  紀州鉱山での朝鮮人犠牲者の追悼。

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 これまで11年間の歩みは、あまりにも遅いものでしたが、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにすることは、国民国家日本の侵略犯罪を総体として明らかにするということであり、それは、世界的な侵略の構造を打ち砕こうとするアジア太平洋民衆の運動のきずなを強めていくなかで可能になるということを学んできました。                       
                        紀州鉱山の真実を明らかにする会
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紀州鉱山に強制連行された人たちの故郷へ 1

2008年02月26日 | 紀州鉱山
■1996年10月
 石原産業紀州鉱山が三重県内務部に1946年9月に提出した報告書を入手したのは、1996年の夏だった。そこには、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人のうち、738人の名と本籍地と「入所経路」が書かれていた。
 その年10月、わたしは、そこに書かれている本籍地を手がかりにして、韓国江原道麟蹄郡の5万分の1の地図(6枚)を持って、麟蹄邑、瑞和面、北面、麒麟面を訪ねた。
 江原道に向かう前、朴慶植先生にソウルで会い、聞きとりの方法や内容について相談した。それをもとにして、麟蹄で聞きとりをすすめる過程で、聞きとり項目を、次のように整理した。

  1 「徴用」の通知はどこからきたか。
    「徴用」の通知から、出発までどのくらい時間があったか。その間なにをしたか。
  2 麟蹄から紀州鉱山までの道程は?
    具体的にだれがどのように「連行」したか。
    途中の「処遇」は?
  3 紀州鉱山でなにをやらされたか。労働条件は? 賃金は? 故郷に送金できたか。
    「労務係」の態度はどうであったか。暴力をふるわれたことはなかったか。
  4 宿舎の名称、規模、状態は?
    食事の質・内容は?
  5 宿舎や労働現場での拘禁度は?
    管理体制の実態は?
    外出できたか。休日にはなにをしたか。
  6 他の人びととの交流は。
    麟蹄以外の地域から強制連行させられた人と自由に接触できたか(朝鮮人が何人くらい紀州鉱山にいるかわかったか……)。
    イギリス人「捕虜」に会ったことがあるか。地域の日本人との接触は?
    日本人労働者との関係は?
  7 事故は経験しなかったか。死者、負傷者は? 「逃亡」した人がいるという話を聞いたことがあるか。
    「逃亡」を考えたことはなかったか。
  8 解放は、いつ知ったか。どのように知ったか。そのときの感想は。
  9 「8・14」のあと帰国までなにをしたか。「8・14」後の日本人の態度は?
  10 いつ帰国したか。
    帰国のさい、賃金、帰国費用……を受けとったか。帰国の経路は?
  11 故郷に帰って、まず、なにをしたか。

■江原道.と慶尚北道で
 紀州鉱山に強制連行された人の故郷をはじめて訪ねた1996年10月に、麟蹄郡麒麟面事務所では、面長の朴善振氏も総務課の安浩烈氏も多くの職員の方がたも、文字どおり親身になって、紀州鉱山に強制連行された人の消息を尋ねてくれた。このとき、麟蹄郡で、20人ちかいかたの消息がわかり、金興龍氏、金石煥氏、丁泰順氏(紀州鉱山では「錦羅泰順」という名)、孫玉鉉氏に会うことができた。
 その2か月後の1996年12月に、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と共に江原道旌善郡に行き、翌1997年5月に、麟蹄を再訪し、8月に、江原道平昌平昌郡に行った。
 平昌郡でも、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面などの面事務所で、真剣に調査をしてくれる職員、副面長、面長に出会った。江原道会議員であった朴東洛氏は、心を尽くして各面の老人会にわたしたちを案内し、稀有な出会いを可能にしてくれた。
 その後、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と共に、1998年6月に海南島で石原産業が資源を奪っていた田独鉱山を「現地調査」し、8月に、慶尚北道の安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをたずねた。

 それから、10年。
 2008年2月下旬、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間と、江原道や慶尚北道に行く。紀州鉱山に強制連行された人たちに再会するために。
                                                                                             佐藤正人
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紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼するはじめての集会に参加してください

2008年02月24日 | 紀州鉱山
と  き  2008年3月9日(日) 午後1時~4時
と こ ろ  紀州鉱山選鉱所跡前の広場(午後1時~午後2時)
       紀和コミュニティーセンター(午後2時20分~午後4時)

主  催  紀州鉱山の真実を明らかにする会
後  援  在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
       在日本大韓民国民団三重県地方本部
       申載三(在日本大韓民国民団三重県地方本部伊賀支部長・伊賀コリアン協議会会長・伊賀市外国人住民協議会会長)
       三重県歴史教育者協議会

 紀州鉱山では、アジア太平洋戦争中に1000人を越える朝鮮人が強制連行され強制労働させられていました。
 紀和町小栗須の慈雲寺本堂に置かれている朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』などによると、紀州鉱山で30人余りの朝鮮人が亡くなっています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月の会結成前から、韓国で、紀州鉱山に強制連行された人びとの故郷を訪ね、存命の方からお話しを聞かせていただいていました。そして、紀州鉱山での朝鮮人強制連行・強制労働の事実をおおくのみなさんとともに明らかにしていくとともに、亡くなった朝鮮人を追悼するための何かをしたいと考えてきました。
 それから、10年以上が過ぎました。わたしたちの怠慢をお詫びするとともに、みなさんとともに、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する集会をおこないたいと思います。ぜひご参加ください。
 このはじめての追悼集会の日を、その方たちを追悼する碑の建設準備を具体的に始める日としたいと思います。
 紀州鉱山で命を失わされた朝鮮人を追悼する碑をできるだけ早く建立するために、みなさんのご協力をお願いします。

■追悼集会
 屋外追悼集会  紀州鉱山選鉱所跡前の広場(板屋旧坑口そば)で、午後1時開会
 屋内追悼集会  紀和コミュニティーセンター(熊野市紀和町板屋)で、午後2時20分開会

■「現地調査」
 追悼集会の前日の8日午後と追悼集会当日の9日午前に、紀州鉱山「現地調査」をおこないます。
★3月8日の「現地調査」  午後1時、紀和町鉱山資料館前出発
  共同墓地(板屋。石原産業紀州鉱業所が1964年に建てた「無縁塔」、朝鮮人労働者の墓石と言われている石が置かれている)→坑口(惣房、湯の口、米込)→朝鮮人労働者の宿所跡(筑後)→三和小学校跡(朝鮮人生徒が通っていた)→坑口(三和)→和気の本龍寺(朝鮮人の遺骨が残されている)→朝鮮人労働者の宿所跡(湯の口)。
★3月9日の「現地調査」  午前9時、湯の口出発
  小栗須の慈雲寺(朝鮮人犠牲者の名が記されている『紀州鉱業所物故者霊名』を見せてもらう)→鉱山資料館(板屋。紀州鉱業所本部がここにあった)→1943年に石原産業紀州鉱業所が建てた「慰霊碑」(板屋)→紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」(板屋)→坑口(板屋)→朝鮮人労働者の宿所跡(板屋、所山)→紀州鉱山選鉱所跡(板屋)。

 8日は、「現地調査」のあと、朝鮮人宿所があった湯の口の湯元山荘に宿泊し、宿所で懇親会をおこなうとともに、当時のことを知るかたから証言を聞かせてもらいます。
 宿泊代は、食費(夕食、朝食)をいれて6000円です。
 懇親会参加費は、700円です。
 宿泊されるかたは、3月6日までに連絡してください。
 紀和町までは、JR熊野市駅から車で約40分です。8日と9日の12時にJR熊野市駅前を出発する車を用意します。乗車を希望されるかたは、あらかじめ連絡してください。

   紀州鉱山の真実を明らかにする会
     http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/
     連絡先:和歌山県海南市日方1168
              pada@syd.odn.ne.jp
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月塘村追悼碑建立のための基金を寄せてください

2008年02月14日 | 月塘村追悼碑
 日本軍と日本企業がアジア太平洋の各地でおこなった侵略犯罪の一つひとつは、具体的にはほとんど明らかにされていません。
 海南島でも、日本軍は、多くの村落を襲撃し、住民虐殺、放火、略奪、性的暴行などの犯罪をくり返しました。
 しかし、海南島の村むらで、日本軍が殺害した村人の数や名前は、住民によって明らかにされ、墓標などに記録されている場合もありますが、多くはまだ闇のなかです。
 みどり児や幼児を含む多くの村人を殺傷した日本兵の名や部隊名は、隠されたままです。
 日本敗戦わずか3か月半前、「沖縄戦」のさなか、1945年5月2日(農暦3月21日)に、海南島万寧市万城鎮月塘(ユェタン)村を、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵が襲い、多くの住民を銃剣や銃で殺しました。
 日本軍に襲撃され村民が虐殺された海南島の村むらには、村民が自分たちで追悼の碑を建立しているところもありますが、月塘村にはまだ追悼の碑がありません。
 月塘村の人びとは、いま、犠牲者全員の名を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。

 わたしたちは、日本軍の残忍な犯罪事実と日本政府の侵略責任を明らかにするためにも、月塘村の追悼碑建立に協力させてもらいたいと思います。
 そして、月塘村のみなさんと共に、日本政府に真相糾明にかんする公開質問をし、月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる運動をすすめていきたいと思います。

 海南島近現代史研究会は、昨年8月5日の創立集会のときに、月塘村の犠牲者追悼碑建立のための募金運動を始めることを決めました。
それから9月末までの約2か月の間に、在日朝鮮人と日本人から、51万円の基金が寄せられました。
 10月6日に、月塘村の村民は、「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組」を結成しました。「籌建(チョウジェン)」とは、計画して建設をすすめるという意味の漢語です。
 この小組は、10月7日に、「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」を村内にはりだしました。そこには、
  一、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組が成立したこと、
  二、建設費は、1、村民全員の捐献、2、海南島近現代史研究会の協力によること、
  三、建碑地は、月塘朱氏祖祠の西側であること、
  四、建碑地にある樹木や厠所は、協議して移転するか取り壊すこと、
  五、日寇殺害村民の実数と名前を確認すること、
という五項目が書かれていました。

 10月10日に、海南島近現代史研究会の会員が、月塘村の集会場で、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組の組長である月塘村委員会書記の朱進平さんに、それまでに海南島近現代史研究会に寄せられていた基金をお渡ししました。
 追悼碑建立のためにはまだまだ少ない金額でしたが、月塘村の人びとは、海南島の民衆と朝鮮の民衆と日本の民衆が、未来に向かってともにすすむきっかけができたと言って、よろこんでくれました。
 つづいて、海南島近現代史研究会は、10月から12月まで、2回目の募金をおこない、16万円の寄金をいただき、籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組にお渡ししました。
 この追悼碑を建立するまでのさまざまな共同作業、そして建立後のさまざまな共同の運動のなかで、わたしたちは、日本の歴史的国家犯罪にかかわるひとつの事実を詳細に明らかにしていき、その歴史責任を追求していく東アジア民衆の連帯のきずなを強くしていきたいと思います。

 追悼碑の除幕は、2008年4月26日(農暦3月21日)を予定しています。
 追悼碑建立基金は、まだまだ十分ではありません。
 
 海南島近現代史研究会は、2008年1月から3月まで、3回目の募金をおこなっています。
 ご協力をお願いします。
 郵便振替口座番号は、「海南島近現代史研究会 00960-5-280485」です。

 募金第1期  2007年8月~9月   寄金   51万円
 募金第2期  2007年10月~12月  寄金   16万円
 募金第3期  2008年1月~3月   目標金額 50万円
                                      海南島近現代史研究会
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やりきれなさの先に、救いがある 2

2008年02月13日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
■「ここで妹に川の水を飲ませた」
 しかし、血まみれの妹を抱えて逃げのびた老人は、今でも当時の道筋と最後に妹を看取った場所に行くことが出来ない。あまりにも辛くて、どうしても足が止まってそこへ行けないのだ。それでも、生存者としての証言を正確に終わらせる為に、意を決して、老人はやっと一つの藪にたどり着く。彼は、ここだ、ここで妹に川の水を飲ませた、だがやがて静かに眼を閉じて死んでいった、と呟き、後は声が途切れて涙にまみれ、嗚咽を抑えきれずに号泣してしまう。六〇年ぶりにやっと妹の死場を再訪し、怒りと哀しみに身を委ねることが出来たからだ。

■証言採録の仕事
 先に、この証言集は限りなく重たいものだと言ったのは、こうした多くの証言を聞いているうちに、これをしっかりと受け止める立場に押しやられるからである。
 例えば、証言集を作る人たちは、この妹に死なれて埋めた老人の苦しみと哀しみを共有しようとして、倒れこむ老人を抱きしめ、証言する姿を撮影するのを中断することも出来る。それも証言に立ち会った人々の最低限の誠意だ。 
 しかし、苦しみと哀しみに身を捩る証言者の姿を映像に撮り続けることこそが証言採録の仕事であり、そういった矛盾や苦悩を作業として抱え込むことこそが証言集を作るために避けて通れない決定的に重要な作業の一つだ。
 だから、観る側にとっても、素晴らしい証言集というのは、どうしても、そのように製作者の苦悩と決断を引き受ける分だけ重くなるのである。

■「一屍二命」
 さらに、この身震いしそうな虐殺の残虐さの実態調査は続けられ、ある種の象徴的な事実に行き着く。それは、虐殺の被害者名簿の中の女性名の所に、そっと「一屍二命」という語が幾つか記されているのが示されると、それに虐殺の究極状況が象徴される。
 「一屍二命」の意味は、虐殺された妊婦の体内に息づいていた胎児もまた殺され、目に見える屍は一つだが二つの命が同時に失われたことを指したものだという。そこまで重たい証言を聞き続けると、観て聞くだけの側である私には、何ともやるせない思いが迸り始める。
 しかし、どうすればいいのか。

■この人々と共に
 ここに提出されている史実としての重さは計り知れないのであり、この証言集は泣かずには語れない厄災を受けた人々の物語である。
 いや、60年以上経った今でも怒りが去らず、あるいは辛すぎて、今日まで恨みを晴らせずに来た人々の涙の記録である。とすれば、彼らと思いを共にする以外に、やりきれなさと重さにこたえる術はないのである。
 特に、ユェタン村の人々が日本政府と向き合って、しっかりと賠償を要求する運動を始めたと村人が説明し、虐殺被害者の記念碑も建立すると誓い合っているのを観る時、この人々と共に運動に組することで、私たちも辛い涙を幾らかでも受け止めて共に歩くことが出来るかもしれない、と思えてくる。

 私にとってはそのように、この証言集は、とてもやりきれなくした上で、行動する気になればアジアの人々と共に未来を生きることが出来るという一縷の希望をも与えてくれるものだ。救いへの書でもあると言えるのだ。
                                     2008.1.30.

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やりきれなさの先に、救いがある 1

2008年02月12日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
         足立正生さんが、海南島近現代史研究会『会報』創刊号に寄せてくれた
        「ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』を見る  やりきれなさの先に、
        救いがある」を2回にわけて連載します。    海南島近現代史研究会


 この記録映像は、これまで日本政府が隠蔽してきた旧日本軍の集団虐殺事件を告発する証言集である。その新たに調査された厳粛な史実の前では、旧日本軍の過去の残虐な行為に対して今やどうしようもないという、ある種のやりきれなさが限りなく募ってくる。
 この運動体が製作した前作の『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』と同じく、今回も戦争犯罪の史実を暴いていくのだが、今回の記録が凄いのは、全編、虐殺をまぬがれた村人たちが生き証人として生々しい体験告白を続けることである。
 一九四五年、沖縄戦が行われている最中に、東南アジアを植民地支配するための戦略基地を作る予定だった海南島の全域で抗日ゲリラ隊の反撃に手を焼いた旧日本軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊が、全域で八千人を超える住民を虐殺して回ったという。そして、五月、抗日ゲリラの支援部落という理由でユェタン村が襲撃され、二〇〇人に近い住民が未明の短時間に銃剣で殺戮される。その、平和な小村落を襲った未明の厄災の全貌が、一人一人の証言の連なりの中で、ぐんぐんと明らかになっていく。
 この、今や老人となって証言する村人たちは、幼少時に体験した未曾有の惨劇、旧日本軍による集団殺戮の光景を身振り手振りで、初めは訥々と語り始めるのである。いや、その証言は言葉で語られる生々しさだけではない。語る人々の身体には必ず、腹部や背中や上腕や大腿部に銃剣で刺され斬られた傷跡が抉られたように残っている。
 その証言者たちは、家族9人の惨殺現場で失神して生き残った者、家族全員が惨殺された時にたまたま柱の陰に倒れて生き残った者、銃剣で刺殺される父親を庇ったためにわが身を刺し貫かれて失神したために生存出来た者、母親と兄二人と姉を刺殺され、腹部を裂かれた妹を抱えて逃げ延びたが妹は途中で絶命した者、一人一人の苦衷の記憶となった旧日本軍の虐殺部隊が村落の各家を順次襲って惨殺して廻る全体像が、手に取るように浮き彫りにされていく。

■正確な体験報告
 そのように、噂や記憶の寄せ集めでは無く、人々が体の各部位にある傷跡を擦りながら語り続ける正確な体験報告なのだ。それだけに、この証言集は、限りなく重たいものともなるのである。
 何故なら、彼らは、旧日本軍が敗北撤退した後も数年は恐くて村落にもどれず、山裾や藪の中に野宿して隠れ住んでいた人々でもある。また、抗日ゲリラに参加して二〇〇戦以上も旧日本軍と闘った勇士は戦闘に忙しく、自分の村が虐殺されたことを戦後まで知らなかった。そんな彼らの声は、初めは穏やかだが、やがて記憶の中に累積している怒りで声が震え始める。遂には語る手振り身振りが激しくなるのは、あまりにも当然だと思う。

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海南島近現代史研究会第一回定例研究会報告

2008年02月11日 | 海南島史研究
海南島近現代史研究会は、2008年2月10日に 海南島近現代史研究会の
第一回定例研究会を大阪産業大学梅田サテライトにて開催しました。
各地から研究会の会員をはじめ20名近い方の参加がありました。
はじめに昨年8月に海南島近現代史研究会の創立集会を行なった
以後の会の活動報告を行ない、その後、研究報告として佐藤正人さん
から「海南島近現代史のなかの世界近現代史」、久保井規夫さんから
「海南島近現代史資料について」の報告がなされました。
次に海南島近現代史研究会が制作したドキュメンタリー『海南島月塘
村虐殺』の上映会を行ないました。
参加者から二人の研究報告とドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の
上映を受けて感想や意見を出していただいた。特に今回若い方の参加が
あり、ドキュメンタリーをみてもらい、実際に日本軍によって自分の
家族が虐殺されたり、自身が重傷をおわされたりした方々の証言が
海南島月塘村の現在の風景の中でなされる姿を映像を通してみること
により、日本の行なった行為の事実を知ってもらえたのではないかと
思います。
なぜ、日本軍、日本人は海南島においてあのような虐殺行為ができたのか?
おそらく海南島で虐殺行為を行った日本人たちは、日本で暮らしている
間は、普通の人とたちであったに違いない。そのような人たちを殺戮者に
変えてしまった当時の体制、雰囲気、組織、彼らの人間性、思想、感覚などを
つきとめる必要があると考えます。
日本という国も多くの日本人も過去のこの事実に対し、反省するどころか
知ろうともせず当時の何かを引き継いでいる気がしてなりません。  

嶋田

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月塘村の追悼碑・紀州鉱山の追悼碑

2008年02月11日 | 月塘村追悼碑
 わたしが、はじめて海南島に行ったのは、10年前、1998年6月だった。
 そのとき、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の一員として、主要には、海南島南部の田独鉱山に行き、そこで石原産業がおこなっていた企業犯罪を調査することを目的にしていた。
 三重県南部で紀州鉱山を経営していた石原産業は、1939年から朝鮮人を強制連行して働かせていたが、同じころ海南島でも海南人や朝鮮人を強制労働させていた。
 海南島に出発する準備をしているとき、わたしは、たまたま中国史学会・中国社会科学院近代史研究所編『抗日戦争』(四川大学出版社、1997年6月)を見た。そこには、海南島の「朝鮮村」に日本軍によって虐殺された朝鮮人がいまも埋められていると書かれてあった。
 海南島に着いた翌日、わたしは田独鉱山に行く前に、「朝鮮村」に行った。朝鮮人が埋められているという村の中央部の広い台地には、一面に豆などが植えられていた。その場所に案内してくれたひとは、どこを掘っても、骨が出てくる、と言った。
 日本にもどってからわたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の仲間とともに、集中的に、「朝鮮村」に埋められている朝鮮人のことを調べた。
 この人たちは、日本支配下の朝鮮の刑務所から、「朝鮮報国隊」と名づけられて海南島に送られた人たちだった。朝鮮総督府の資料によれば、「朝鮮報国隊」は、約2000人が海南島に強制連行され、約1割の人たちしか、帰郷できなかった、と考えられる。「朝鮮報国隊」の人たちは、田独鉱山でも働かされていた。さらに、その後の調査で、「朝鮮報国隊」の人たちが、海南島各地の軍事施設などで、働かされたことがわかった。「朝鮮報国隊」として海南島に強制連行され、幸いに帰郷することができた数人に、韓国で話を聞かせていただくことができ、海南島に強制連行された経緯、海南島での労働の状況などが少しづつ、明らかになった。
 2004年に紀州鉱山の真実を明らかにする会は、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』を制作したが、それは、「朝鮮報国隊」に焦点を合わせたものであった。
 2007年8月5日に、海南島近現代史研究会が結成され、海南島の近現代史研究は新しい段階にはいった。月塘村での追悼碑建立に具体的に協力することもできることになった。
 この年、10月末にはじめて月塘村を訪れたわたしを朝鮮人だと知った村人たちは、“同じ歴史を経験したあなたたち朝鮮人は仲間だ”と言って、抱擁するように歓待してくれた。 
 ことし、3月9日に、紀州鉱山で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、朝鮮人犠牲者を追悼するはじめての集会を開く。この集会を契機にして、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山に追悼碑を建立しようとしている。
 1894年の清日戦争直前の朝日戦争にはじまり1945年8月にいたる朝鮮での国家犯罪にたいし、国民国家日本は、いまだその歴史的責任をはたしていない。
 1939年2月から1945年8月までの海南島での国家犯罪にたいし、国民国家日本は、その歴史的責任をはたそうとするどころか、その犯罪事実を隠蔽しつづけてきた。
 月塘村の追悼碑と紀州鉱山の追悼碑。ふたつの追悼碑は、日本のアジア太平洋侵略の歴史を示すものでもある。 
                                                キムチョンミ
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『会報』創刊にあたって

2008年02月10日 | 海南島近現代史研究会
 本日、第一回定例研究会を開催するとともに、『会報』創刊号を発行します。
 69年前、この日の未明、日本軍が海南島に奇襲上陸しました。
 この日本陸海軍合同の海南島奇襲攻撃は、天皇ヒロヒトの「裁可」を前提にして、日本政府と日本軍によって計画的に実行されました。
 その24日前、1月17日に、大本営陸軍部と海軍部は、2月上旬か中旬に海南島北部を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいました。
 それから1945年8月なかばまでの6年半、日本政府、日本軍、日本企業は、海南島の人びとに大きな災厄をもたらし続けました。
 ほとんどの日本人は、台湾領土化、朝鮮領土化、中国東北部・モンゴル東南部領土化……のときと同じく、海南島侵略のときにも、占領地の拡大を喜び、軍事行動を支持し、日本政府、日本軍、日本企業の侵略犯罪に加担しました。
 海南島民衆の生活は、激変しました。それまでの平穏だった日々が、日本人による軍事的・政治的・経済的・文化的攻撃と直面しなければならない緊張した日々となりました。
 1941年12月2日に海南島三亜港を出港した日本軍船団に乗った日本兵が、12月8日未明、マラヤのコタバルに奇襲上陸しました。アジア太平洋戦争は、このとき開始されました。
 1945年8月14日、国民国家日本は、敗戦しました。
 その後、日本政府・日本軍・日本企業は、海南島での侵略犯罪を隠し続けました。
 海南島から戻った日本兵のなかに、海南島における住民殺害の過去を告白し責任をとろうとした者は、これまで1人もいません。
 あたりまえのことですが、日本が占領していた時期(海南島民衆が日本の侵略に抗していた時期)の日本近現代史、敗戦後の日本近現代史は、同時代の海南島近現代史と重なりあっています。
 しかし、これまで、日本において、海南島近現代史は、ほとんど研究されてきませんでした。
 海南島近現代史の研究・究明を目的として昨年8月5日に創立された海南島近現代史研究会は、証言聞き取り、現地調査、資料探索を基礎として、海南島における抗日反日闘争の歴史を知るとともに、国民国家日本の侵略犯罪の真相を究明し、日本政府・日本軍・日本企業の責任を追及することを活動内容としています。
 この『会報』が号を重ね、海南島近現代史を研究・究明しようとするすべての人たちの自由な交流の場となっていくことを、わたしたちは願っています。

  2008年2月10日
               海南島近現代史研究会
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