不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

女性たち、日本軍占領下の海南島で

2024年02月22日 | 海南島
■女性たち、日本軍占領下の海南島で■
                    金靜美

■はじめに
 海南島で、日本軍がいたときのことを覚えているか、と尋ねるわたしたちに、黙ったままで身じろぎもしない女性にであった。
 ある村では、日本軍の「慰安婦」にされた女性に話を聞くことができる、といわれたが、
 その女性を訪ねなかった。その女性がみずからわたしたちと会うことを望んだのではないようだったからだ。
 わたしはその場にいなかったが、ある海辺でであった女性に話しかけると、砂浜にうずくまったまま、しずかに泣いていたという。
 
 海南島だけではないが、日本が犯した侵略犯罪は、ことばでは表現できない。
 日本軍占領の時代を経験した海南島でであった女性たちのさまざまな表情を、わたしは、表現することばを持たない。
道行く人たち、三輪車や二輪車の運転手たちをはじめ、わたしたちがおおくの人たちの助けを得てであった海南島の人たちの声を、わずかでも伝えたい。
 この稿では、海南島でであった女性たちの証言、女性たちにかんする証言を中心に書き記そうと思う(註1)。

■八所
 東方市八所(パソ)は、海南島西部の海に面した町である(註2)。
 日本の植民地下にあった朝鮮の刑務所から、獄中者が、8次にわたって「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」として海南島に連行されたが(註3)、その上陸地はおもに八所であった。
 わたしたちがはじめて八所港に行ったのは1998年6月27日であった。
 そこには、日本軍が「監獄」として作ったという建物や、「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」(1994年12月、建立)があった。
 すぐ近くの海沿いに養殖場があった。そばにいた人に聞くと、エビをはじめ魚の養殖場を作る工事中に、おおくの人骨が埋められていることがわかり、その人骨を集め、「万人坑」をつくったのだという。
 八所港の「万人坑」には、石碌鉱山ー八所港間鉄道工事、八所港湾工事に働かされていた朝鮮人、台湾人、インド人、香港人、大陸から連行された中国人など、無念に亡くなったおおくの人たちが埋められた。
 石碌鉱山の鉄鉱石掠奪のため、日本窒素は、①石碌鉱山の鉱石採掘施設、②石碌鉱山から八所港(積み出し港)までの鉄道、③八所港の港湾施設、④発電用ダムと発電所を建設しようとした。
 そのための労働力として、1941年9月に、3000人以上の中国人が、上海から貨物船で八所港に運ばれた。上海からのわずか1週間の船旅の途中で、数十人もの人が死亡し、海南島に到着した人たちは、「過半数が痩せ細った、一見して病人を思わすような身体つき」であったという。その後、劣悪な宿所に住まわされ、厳しい労働を強制されて、病人、死者が続出し、「約半年の間に、この上海苦力はその半数近くが死んだ。逃亡者も相次いだ」という。3000人のうち、1945年1月の石碌鉱山全面操業停止時に残っていた人はわずか300人ほどだったという(註4)。

 1941年12月8日のアジア太平洋戦争開始後まもなく、日本軍は香港を占領し、同年12月29日に軍政をしいた。日本軍政下の香港から、1942年2月13日に香港を出港した日本船で、483人の「苦力」が八所港に上陸し、つづいて2月末までに、第2、第3船によって、1509人が到着し、さらにそれ以後毎月、1000人から1500人が到着したという(註5)。
 この人たちは、八所港湾工事、石碌までの鉄道建設、石碌での採鉱、などで酷使された(註6)。
 海南島の日本窒素関係の工事を担当したのは、西松組であった。日本軍・日本窒素・西松組は、暴力をつかって労働者を働かせた(註7)。『西松組社内報』1943年1月号には、この時点での死者は3158人(そのうち中国人労働者は2528人)であったと書かれている(註8)。
 1924年生まれの崔能は、1942年2月、合記公司香港事務所の募集に応じて海南島にいき、石碌鉱山の発電所で働いた。崔能は、「あすこには、強制的に連行された者が七千人もいた」、「鉄鉱石を掘る現場は重労働だったからたくさん死んでいった」、「日本軍は……病人や怪我人でも働かせようとした」と証言している(註9)。
 北黎特務部労務主任岡崎四郎の記録では、1943年10月の「石碌鉄山従業員」は、「日本人日窒社員及び西松組従業員」3000人、「台湾事務員及び労務者」600人、「広東、香港労務者」20000人、「現地海南島徴用労務者」22000人、計45600人であったと書かれている(註10)。
 日本窒素は、1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、朝鮮の資源・労働力を掠奪していた(註11)。朝鮮に基盤をおく日本窒素は、海南島での事業にも、朝鮮人を働かせた。1942年から石碌で働いていた張達雄氏は、次のように証言している(註12)。
   「19歳の1941年末、京城商科学校にいて、卒業を3か月後にひかえて就職活動をしていたとき、日本窒素で社員を募集しているという
    広告を見て応募した。合格後にソウル駅からわけのわからないまま、北から強制徴用者を乗せてきた汽車に乗って釜山にいき、日本、
    台湾をへて海南島に行った。海南島では、はじめ石碌で鉱石を運ぶ仕事をしたが、あまりにつらくて北黎に逃げた。捕まって西松組
   で働くことになり、また石碌で今度は監視や警備の仕事をした。日本窒素が石碌で経営していた農場の警備などもした」。

  石碌鎮西方十数キロメートルの叉河鎮で1924年に生まれた黎族の林亜政氏は、村の近くを通る石碌鉱山ー八所港間の鉄道工事をおこなう労働者の監督をする日本軍の通訳をした。

 林亜政氏は、
   「日本軍は村の住民の家をこわし、その材料で近くの高台に兵舎をつくり、その下方の労働者の宿舎を監視した。宿舎のそばに物品を
   売る配給所があった。イギリス人、インド人、台湾人、朝鮮人、上海からきた人など、たくさんの人が働いていた。宿舎は別々で、配
   給所も、朝鮮人の配給所、インド人の配給所など別々になっていた」
とのべている(註13)。

 石碌鉱山開発のために日本海軍は「巨額の投資」をおこなったが、1944年5月中旬に鉱石を積んだはじめての船が八所港から日本に向かったあと、10月24日に最後の船が出るまでに、日本に運ばれた鉄鉱石は、約37,5000トンのみであった(註14)。
 その後、アメリカ合州国軍の攻撃が激化し、海上輸送が不可能になったので、日本海軍は、1945年1月に、石碌鉱山に操業中止命令をだした。 このとき、「石碌開発関係の邦人」は4000人以上であり、そのうち「軍籍のある者」500人あまりが陸軍に現地召集されて、海南島対岸の雷州半島にいったという(註15)。
 石碌の鉄鉱石を日本に運び出そうとする日本軍と日本窒素・西松組によって生命を奪われた人びとの名はほとんど明らかにされておらず、その数もはっきりしていない。日本敗戦時に日本窒素海南事業本部総務部次長であった河野司は、「犠牲人柱」の数を「数万」としている(註16)。日本軍と日本窒素が37,5000トンの鉄鉱石を日本に送り出すために「数万」の人の生命が奪われたのである。その人たちの遺体は、「万人坑」に捨てられた。
 1965年に、「石碌鉱山万人坑」近くの公園の高台に、「石碌鉄鉱死難労工紀念碑」が建てられた。

【写真】日軍石碌鉄鉱死難労工紀念碑(1998年6月27日撮影)

 日本大蔵省が1947年に出した極秘文書には、
   「諸会社団体は軍の援助の下に一九三九年より終戦の一九四五年に至る七年間に亘り、文字通り熱帯の暑熱と戦ひ、マラリヤ、赤痢、コレラ等恐る可き熱帯地特有の悪疫と戦ひ、更に奥地に蟠居する蕃族や共産匪賊と戦ひ、遂に二千年来中国政府及び島民が夢想だにしなかつた程急速度に各種の近代的技術と資材に依る産業開発を実行した。……七年間に生れ変つた海南島が建設されたのである」、
   「占領地七年の行政成績は島民に取つて必らずしも不満足なものではなかつた」
 と書かれている(註17)。

【写真】移築された「監獄」として使われたという建物(2015年3月30日撮影)

■2015年3月30日 八所で
 2015年3月30日、わたしたちは八所を訪ねた。
 「監獄」として使われたという建物は、移築されていた。
 その区画の入り口には、「侵華日軍侵瓊八所死難労工監獄 厳禁破壊違法必究 東方市文体局 2013年12月」の看板があった。
 「日軍侵瓊八所死難劳工紀念碑」は、壊され、残骸が砂に半ばうずもれ残っていた。以前の場所には、ホテル、マンションが建ち、まだ工事中のところもあった。

■2015年11月20日 八所で
 2015年11月20日、わたしたちは、紀州鉱山の真実を明らかにする会として第28回目、海南島近現代史研究会として第16回目の海南島「現地調査」の3日目で、八所にいた。
 八所鎮八所村委会で、日本軍占領下のことを知っている人がいると聞き、そこの職員の案内で、八所村を訪ねた。

 張老桃さん(92歳 2015年当時)は、八所の港湾建設現場でしごとをした。
   「朝鮮人といっしょにしごとをした。いっしょにご飯も食べた。朝鮮人はやさしい。朝鮮人の軍人もいた。レールを運んでいた。きついしごとをしていた。重いので‟アイヨーサ、アイヨーサ”と声かけあって運んでいた。‟たいへんですね“というと、‟たいへんだけど、やらなければいけない”と言っていた。
    ‟メシタベル。モッテコイ。キモノ。アカイ。シロイ。クロイ。ブタニク。ニワトリ。サカナ。フルサト。アナタ。ワタシ“。朝鮮人なのに、日本語をしゃべっていた。
    妹妹よ、と話しかけてきた。
      ‟わたしは朝鮮人。日本人につかまって連れてこられた”。
     朝鮮人は日本軍人と服装がちがう。朝鮮人は、しごと服。いろいろな服。
    朝鮮人はしごとの行き帰りに列を作っていた。朝鮮人は、レールを運ぶ。鉱石を運ぶ。なんでもした。
    何千人もの労働者がいた。中には、おおぜいの大学生がいた。‟わたしたちは上海の大学生です。捕まってこっちに連れてこられた“と話していた。大学生は注射をされてすぐ死んだ。死体は焼いた。扇動して抗議活動をすることを恐れて。見て涙がぼろぼろこぼれた。泣いたらあんたにも注射をする、と脅かされた。
    八所の港で。隣の工場で。万人坑のところで。魚鱗河のところで。注射をした。
    労働者に水を運んだり、食事のしたくをして、一日5毛もらった。レンガを運ぶときは1元。
    ホンコンの労働者のために水運び、食事のしたく、掃除をしたときは、お金はもらわなかった。
    ホンコンの労働者のひとつのグループの隊長は、病気になって、日本人は火の中に入れた。何人もで担いで、火の中に入れた。
    ‟隊長さん、あの人たちはあなたをどこに運ぶのですか”と聞いたら、‟知らない”。逃げて、また捕まって、火の中に入れられ、それを何回もしてとうとう出てこられなかった。見て泣いた。
    宿舎でしごとをしていたが、そこから見えた。ホンコン人が何人くらいいたかわからない。
    じぶんの責任は、何十人の世話。食事は2人か3人でいっしょにつくる。ふたつの大きな鍋でつくる。材料は日本の軍人が運んできた。
    そのころの港はアタマしか見えない。アタマばっかり。上海、ホンコン、朝鮮人、インド人、アメリカ人英国人、台湾人。労働者はみんな別々の宿舎。長い部屋。いい宿舎も、悪い宿舎もある。日本軍の話をよく聞く人は、よい宿舎に入れる。
    日本軍に抗議をするために、工具を隠し持って捕まった。ホンコンの夫婦で別々の監獄に入れられた。夫婦には娘がひとりいた。この子は子どもだから、育てたいというと、だめだ、悪い人間の子どもは悪い人間になるといって、どこかへ連れていって殺した。
    日本軍のいうことを聞かない労働者はトラックに載せて川辺に連れていって、穴を掘らせて軍刀で殺して穴にいれた。
    毎日家から通った。14歳から21歳まで。さいしょは港で砂やレンガを運んだ。少しお金をもらえたので、このしごとをした。16歳か17歳のころ、食事の世話に変わった。砂やレンガは宿舎を作るために運んだ。完成したあと、食事の世話のしごと。
    さいしょ、台湾人が来た。最初、宿舎を作るのも台湾人。ホンコンや上海から来た人は、港のしごと。船から降りるのは見ていない。
    この村から働きに行った人もとてもおおい。附近の人はみんな八所に働きにいった。
    日本が降参して70年たった。20歳のとき、日本が降参した。日本軍がいなくなったが、なぜいなくなったかわからなかった。
    (「監獄」といわれる建物は?)死んだ労働者を焼いて、灰を置いていた。箱に入れてあった。たくさんあった。監獄を作る必要はない。いうことを聞かなかったらすぐ殺すから。前に紀念碑があったところには、骨がいっぱいあった。骨はむき出しで、歩くと骨を踏んだ。死体を捨てるのを見た。
    (日本敗戦後)労働者は自動的に解散した。放置された。ほおっておかれた。食べるものもなくたいへん。周辺の村に住みついた人もいる。この村に住みついた人もいる。
    朝鮮人とは仲がよかった。名前は知らない。いろいろな年の人。青年、中年。大人」。

 張仁常さん(90歳 2015年当時)も八所の港湾建設現場で働いた。
  「朝鮮人、アメリカ人もいた。とてもおおい。
   朝鮮人は男も女もいた。女の人はしごとをしない。きれいなかっこうをしている。女の人だけで小さな部屋に住んでいた。朝、散歩をしていた。掃除をしていて、‟日本娘よ、汚いからこっちにこないで“というと、‟ちがう、朝鮮人”と言った。
   上海の労働者は大学生がおおかった。皮膚病にかかっている人がおおかった。注射をされてこうなったと話していた」。
     【写真】張仁常さん

■2014年11月1日 東閣鎮南文村で
 南文村で出会った符祝霞さん(75歳 2014年当時)から話を聞いたあと、伯母がうたっていたという唄をうたっていただいた。30何年か前に亡くなった(2014年11月当時)伯母がいつもうたっていて、覚えたという。
   「6台のトラックが兵隊を運んできた。男は先に逃げた。女性は子どもを抱いて、ものをかついで、どうしたらいいのか。コメとか食べ物はぜんぶ焼かれてしまった。食べ物はない。
    日本軍が敗退して帰るとき、それを見ながら、この唄が出てきたと聞いた。
    日本軍が剣をかざして自分を空に放り投げて突き刺そうとしたが、母が、シンシャン、ひざまずいて何度もお願いして自分は助かった。母は良民証がなく、父は、共産党員だった」。
     
   日本自从文昌驻
   没有足迹到昌洒
   谁料去年十二月
   从清澜他来六车
   一直行至敦乐城
   到了敦乐就停车
   大人小孩皆逃命
   逃到远处无粮食 
   逃回家也是死定
   有些人
   担得住粮食抱不住儿
   妻唤夫
   你到底等不等? 
   骂一句就戳心窝
   米糠皆烧没粮食 
   这下饿着母子了 
   只剩下房屋墙头未塌

   日本は文昌から
   足音もなくしずかに昌洒にきた
   意外にも去年の12月
   6台のトラックで清瀾(註18)からやってきた
   まっすぐ敦楽城に行き
   敦楽で停車した
   大人も子どもみんな命からがら逃げた
   遠くまで逃げたが食べものはない
   家に戻れば死ぬ定め
   食べものを持てば
   子どもを抱いて逃げられない
   妻は夫をなじる
   あなたは何をしてるのか
   胸をたたいてののしっても
   米ももみもみんな食べものは焼かれてしまった
   こうして母子は飢え
   家は壁だけのこっている

■2015年3月30日 海頭鎮南港村で
 李春寿さん(90歳、1926年生)
  「付近の家はぜんぶ、日本軍の指揮部として取られてしまった。
   日本軍が来てから、農耕もできない、生活も安定しない。人をおおぜいつかまえて、日本軍のしごとをさせる。少し大きな人を見つけたら、つかまえてしごとをさせた。
   橋をつくるしごと。そこで使う木材を運んだ。監督は日本人だ。
   ここに日本軍の基地があった。司令部はここにあった。
   妓女館は司令部のところにあった。鉄条網の外側だが、村すべてが日本軍の司令部だった。
   6、7人の女性がいた。臨高(註19)から連れてこられた女性。
   当時の村の人口はおよそ40世帯。二つの道路があったが、一軒をのぞいて、両側の家をぜんぶ壊した。家を壊して、炮楼建設の材料に使った」。

■2015年4月1日 屯昌県南坤鎮で
 梁月花さん(81歳、1933年生?)
大人の人から売春の女と聞いて、住んでいるところを見に行った。
女性は臨高から連れてこられた、とみんな話していた。近くに井戸もあった。日本軍がいなくなったあと、女性たちは行方不明になった。人数はわからない。見たことある」。

符玉波さん(86歳 2015年当時)
   「日本軍はたくさんの人を殺した。たくさんの人が穴を掘って殺されるのを見た。おおぜいで、何人かわからないほどだ。よその村の人が殺されるのも見た。いまはその上に家が建っている。
    日本軍が来たばかりのころ、家はぜんぶ焼かれた。
    日本軍の建物をつくる工事をする人のなかに、黒人がいた。頭に布を巻いていた。 (朝鮮人ということばを聞いたことがあるか?)朝鮮人ということばは知らない。
    黒人は監督もするし、しごともする。監督は、軍服を着ていた。
    “日本娘”がいたのは知っているが、何人いたか知らない。街を歩いているのを見た。きれいな服を着ていた」。

 朱月英さん(48歳、1966年生)
   「(レンガの壁の家)“リーペンニャン日本娘”が住んでいた。小さいころから母からよく聞いた。“リーペンニャン日本娘”も、この井戸の水を使いに来ていたという。井戸はもっと小さく、水も上の方まであった。桶を投げてそのまま水を汲みあげることができた。
    (池のすぐそばの建物)この近辺は人が殺された場所。母が話していた。母はいま78歳」。

■2015年4月2日 屯昌県屯城鎭大同村で
 韓玉花さん(84歳 2015年当時)
   「いうことを聞かない人を水につけて殺した。みんなを集めて、殺すのを見せた。わたしも見た。通訳の名前は、リョウバイ。日本語の通訳。通訳はこわい。
    何人かの女の子といっしょにしごとをした。大同での道路工事で、木とか草を刈るしごと。そのとき、わたしが1節、また別の子が1節、それぞれ順に作ってみんなでしごとをしながら歌った。
    日本軍が聞いてもここのことばはわからない」(註20)。
                         【写真】韓玉花さん
   村里甲叶叫啰啰
   一半牛头半镰刀
   一半镰刀割青岭
   一半牛头赶干粮
   去到半路就闲晚
   去到工地身走斜
   拿点稀饭打到洒
   穿件衣服撕到烂

   村の甲長に大きな声で呼ばれた
   村の人たちは半数づつ鎌と刀を用意した
   鎌で山の木と草を刈った
   刀でしごとをした
   遠いしごと場についたら遅いといわれた
   からだが地にへばりつくようにはたらいた
   水がおおい粥をおなかにいれた
   着ているものは破れている

■2016年4月26日 昌江黎族自治県重合村で
 符永令さん(82歳 2016年当時)
   「母は子どもがいなくて、わたしを養女にして育てた。
    日本軍のしごとには、かならず一家族一人が出なくてはならなかった。わたしは幼かったが、母は年寄りなので、かわりに出て、温泉のところでしごとをした。少し大きい人は、草刈り。温泉とか炮楼のあたりで。わたしは、まだ小さかったので、草刈りをした草のあとかたづけ。草を拾い集めて捨てる。草刈り、片付けが終わったあとは、サツマイモを炊いて、食事のしたくをして家に帰った。
    兵士はおおぜいいた。基地の中には入ったことはない。
    (ある日のこと)しごとが終わったあと、男の人は帰して、女性だけ残した。4人の少し大人の女性4人を裸にして一つの部屋に入れようとしたが、その人たちが、子どもたちに、あなたたちはぜったい離れないでいっしょにいて、そしたら日本兵は悪いことができないから、というので、子どもたちは、その女性たちのそばを離れないで、ずーといっしょにいた。日本兵は怒って、鉄の棒で大人の女性を殴り、部屋に追い入れようとしたが、みんな入ろうとしなかった。
    (日本軍のしごとに出て)食事もないし、金ももらわなかった。殴られなかっただけ、よかった」(註21)。

■2017年5月3日 文昌市錦山鎮東山村で
 上東山村の自宅前広場の木陰で、韓裕豊さん(1926年3月生)に話を聞かせてもらうことができた。
   「近くに日本軍は望楼をつくった。高かった。屋根にトタン板がはられていた。
    望楼からすこし離れたところに日本軍の兵舎が2か所あった。そこは市場の前だった。偽軍の建物もあった。慰安所もあった。
    慰安所には女性が10人あまりいた。その女性たちは、ときどきいなくなって、よそに行って、また戻ってきた。日本の服を着ている人がおおかった。膨らんだ布の飾りを背中につけていた。海南島の服を来ている人が2人いた。
    慰安所の女性とは話したことはなかったが、慰安所で働いていた人から、慰安所の女性たちは、近くの日本軍の軍営を回っていると聞いた。海南島の服を着ている人は、舗前(註22)の人だと聞いた。
    慰安所は、もとは民家だった。新しくつくった家ではなかった」。

■2017年5月6日 文昌市昌洒鎮東坡村で
 東坡村の黄良波さんは、つぎのように話した。
   「日本軍が来たとき、7歳だった。
    日本軍は村の近くに飛行場をつくろうとしたが、工事を始める前に日本軍は敗けた。
    子どものとき日本語学校に2年間通った。2年たったら日本軍が敗けていなくなった。
    先生は5人いた。高松先生と島津先生は日本人、黄循生先生と黄良友先生はこの村の人、林道欽先生は台湾人だった。
    日本軍が飛行場をつくろうとしたことは、林道欽先生から聞いた。
    むかしの村の家は丈夫な硬い材木でつくられていた。日本軍は村の家を壊して軍営をつくった。わたしの家も壊されたので、近くの福架村の親戚の家に移らなければならなかった。
    日本軍は軍営の真ん中に望楼をたてた。
    村の家を壊し兵舎や望楼をつくったのは、よその村の人たちだった。日本軍はすこし離れた村の甲長に命令して、その村の人を働かせた。兵舎や望楼を設計したのは日本軍   だった。
    日本語学校の建物も日本軍は新しくつくった。日本語学校の工事も村人がやった。
    日本軍が来る前は祠堂で子どもたちが勉強した。
    近くの文東中学校の敷地から日本軍に殺された人の遺骨がたくさんでてきたことがあった」。

 黄良波さんの連れ合いの何金英さん(83歳)は、そばで話しを聞いていて、つぎのように話した。
   「兵舎の工事に来ていた若い娘が日本兵に交代で強姦されて殺されたことがあった。
    慰安所に近づいて中をみようとしたら、慰安婦の女性に水をかけられたことがあった。
    村の人が慰安婦のことをよく言ってなかったからだと思う。子ども心にそう感じた。
    わたしはこの村の日本軍の兵舎をつくるときレンガなどを運んだ。子どもも大人もたくさん働いていた」(註23)。

■おわりに
 2001年7月16日、「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害賠償」を求めて、黄玉鳳さん、陳金玉さん、鄧玉民さん、陳亜扁さん、黄有良さん、林亜金さん、譚玉蓮さん、譚亜洞さんの8人が日本国を提訴した(註24)。
 8人の原告は、全員が亡くなった。
 8人の原告は、無言の数知れない海南島の女性たちを代弁していた。

註1 わたしたちは、2018年10月の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第33回目、海南島近現代史研究会としては第20回目を最後に、海南島には行くことができていない。
 わたし自身は、2016年4月22日(農暦3月16日)~5月5日(農暦3月29日)の紀州鉱山の真実を明らかにする会としては第29回、海南島近現代史研究会としては第16回目を最後に、海南島には行っていない。
 本稿での証言は、他のわたしの海南島関係論文との内容的な重複を避けるため、註11と註12の張達雄氏と林亜政氏のもの以外は、2010年代の海南島「現地調査」で得たものである。
 しかし、ここで紹介するのは、残念ながら、ごく一部である。
 海南島で証言してくださった方がた、わたしたちを支えてくださった方がたに、この場を借りて、感謝します。
註2 八所は、1939年7月8日、日本軍に占領された。石碌は、1940年3月15日に日本軍に占領された(八所港務局〈港史〉編写組編『八所海港史』海南人民出版社、2000年発行と思われる、179頁)。
 在海口日本総領事館警察署が発行した『治安月報』1942年4月分に、「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書かれている。
 「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していた。
 石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回った。
 石原は、1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分で、つぎのように語っている。
    「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
     ……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
     その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て……。
    帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
    慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」。
註3 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」は、第1次が1943年3月30日に出発、文書で確認できる最後の第8次が1944年1月にソウルの西大門刑務所を出発した。     
 「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」については、以下の論文を参照した。
 ・金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
 ・金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와  在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
 ・金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
 ・金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
 ・金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
 ・金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
註4 八所での日本海軍や日本窒素・西松組の暴行、労働者の状況や闘いについては、前掲『八所海港史』15~38頁、参照。
註5 河野司編著『海南島石碌鉄山開発誌』石碌鉄山開発誌刊行会、1974年、223~225頁。
註6 同前、231頁。
註7 王瑾「礦工血泪 石碌鉄礦労工的悲惨遭遇紀実」、および、李玉親・趙志賢整理「石碌鉄礦労工悲惨遭遇実録」、海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 日軍侵瓊暴行実録』続、海南出版社、1996年。および、趙志賢整理「日軍侵占昌江及其暴行」、政治協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』6、1997年。
 関松瑶「日本侵瓊時期石碌鉄礦労工状況簡介」(政治協商会議広東省昌江県委員会文史資料組編『昌江文史』2、1987年9月)には、1943年秋に、広州出身の労働者2人が逃亡しようとして捕えられ、みせしめのため、おおくの労働者の前で首を切られた、という証言が記されている(45頁)。
註8 玉城素他『産業の昭和社会史』12(土木)、日本経済評論社、1993年、190頁。  
 西松組(現、西松建設)がアジアの各地でおこなった非道行為については、中国人強制連行・西松建設裁判を支援する会編刊『歴史に正義と公道を』1998年、参照。
註9 石田甚太郎『日本鬼 日本軍占領下香港住民の戦争体験』現代書館、1993年、25~27頁、および小林英夫『日本軍政下のアジア 「大東亜共栄圏」と軍票』岩波書店、1993年、8~12頁。
 合記公司は、日本海軍特務部管轄下の「募集機関」であった。合記公司香港事務所からは、海南島の田独鉱山、三井倉庫、台湾拓殖会社にも労働者が「供出」された(前掲『海南島石碌鉄山開発誌』228頁)。
註10 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』239頁。
註11 日本窒素が朝鮮でおこなったことに関する研究はあるが(姜在彦編『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年、など)、海南島でおこなったことに触れている研究はない。堀和夫は、その論文「日本化学工業と日本窒素コンツェルン 個別資本と植民地経済」(『朝鮮工業の史的分析』有斐閣、1995年)で、「日本帝国圏における日窒」を論じているが、「日本帝国圏」とされていた海南島で日本窒素が日本軍と共におこなったことを全く無視している。
 「8・15」の後、朝鮮から日本に引き揚げた日本窒素の幹部たちは、日本九州の水俣工場の経営権を握った。かれらはその工場から水銀の入った毒水を流し続け、海を汚染し、水俣湾地域の民衆を「病気」にし、殺害した(原田正純『水俣病』岩波書店、1972年。岡本達明・松崎次夫編『聞書水俣民衆史』一~五、草風館、1990年、など参照)。
註12 1998年8月17日に、ソウルで筆者が聞く。
  張達雄氏は、1998年1月~2月に、50余年ぶりに海南島を再訪した。
註13 1998年6月29日に、筆者を含む紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが、林亜政氏にその自宅で話を聞いたあと、近所の兵舎跡、宿舎跡、配給所跡に案内していただいた。
註14 前掲『海南島石碌鉄山開発誌』212頁。
註15 同前、559頁。
註16 同前、560頁。
註17 大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査(海南島篇)』1947年、7、212頁。
註18 海南島東海岸北部にある港町、清瀾に、日本軍の台湾混成旅団が、1939年2月23日に上陸した(『陸軍省大日記』、「陸支受大日記「密」第52号 海南島攻略戦 登號作戦」1939年自8月16日至8月21日)。
註19 1939年4月16日、日本軍は臨高近くの新盈港に上陸し、翌18日、臨高を占領した(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
 直後から日本軍は、臨高に日本軍基地の建設をはじめ、治安維持会を組織し、日本語学校などを作った。
 わたしたちがはじめて臨高に行ったのは、2002年3月31日だった。
 日本軍が作った日本語学校に行った後、海南海軍特務部で通訳として働いた林吉蘇氏(1925年生)から、日本軍が、新盈、臨高、那大などに「慰安所」を設置したことを聞き、日本軍が作った望楼や「慰安所」を確認した。その後も数度、臨高、新盈を訪ね、日本軍が上陸した地点などを確認した。
 註3であげた金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月、参照。
註20 海南島の言語は、地域によってことなる。先住民族は、漢族によって、「黎族」となづけられたが、彼らの言語も、地域によってちがう。海南語でも、北部と南部ではことばが通じない。
 韓玉花さんたち女性が、日本軍によって強制的に労働させられながら、一節づつ即興でうたったという唄は、抵抗歌ともいえる。
 韓玉花さんがうたってくれた唄は、あとから、わたしたちに同行していた南海出版社の何怡欣さんが漢字に書き起こし、呉雪さんが送ってくれた。符祝霞さんの唄も、南海出版社の人が漢字に書き起こし、漢語に翻訳してくれたものである。
註21 邢越さんは、海南島で、海南語と漢語を日本語に通訳してくれる、海南島近現代史研究会の会員である。海南島南部で生まれ育った邢越さんは、海南島北部のことばが聞き取れない、と話す。
 「黎族」「苗族」の村に行ったときは、「黎語」や「苗語」を、若い人たちに漢語、いわゆる「普通語」に通訳してもらい、さらに、邢越さんが日本語に置き換えた。
 証言を聞くとき、証言者の言語を直接理解できないということは、ひとえに証言に接する側の怠慢であるが、その「怠慢」を克服するのはむずかしい。
 海南島各地で、邢越さんだけでなく、証言の理解において、おおくの人たちの助けを得た。同行者に漢語が流暢にできるひとがいないときには、あるときは、中学生、高校生にも協力してもらった。証言を漢字で書きとってもらって、それを読んだ。
わたしたちの海南島での調査は、行く先ざきで出会ったおおくの人たちの協力で成り立ったものである。
註22 舗前は、1939年5月2日、日本軍によって占領された(海南省政治協商会議文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨 ―日軍侵瓊暴行実録』海南出版社、1995年、755頁)。
註23 2017年5月、上東山村の韓裕豊さん、東坡村の黄良波さんの証言は、佐藤正人の紀州鉱山の真実を明らかにする会として第31回目、海南島近現代史研究会として第18回目の海南島「現地調査」報告から引用した。
註24 「海南島戦時性暴力被害訴訟」については、本書『일본군´위안부`피해자 김옥주 구술자료집』(韓国挺身隊研究所編、韓国女性人権振興院、2022年12月)に収録されている佐藤正人の「海南島戦時性暴力被害訴訟史(年表)」、および「海南島戦時性暴力被害訴訟1・2」を参照してください。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海南歷史」

2022年05月11日 | 海南島
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%8D%97%E7%9C%81
「维基百科」 最后修订于2022年5月11日17:08
■海南省 海南歷史
★古代史
 西汉時期,汉武帝元封元年(公元前110年),在海南岛设置珠崖郡(治今海南琼山)、儋耳郡。汉昭帝始元五年(前82年),儋耳郡併入珠崖郡。西汉末年,罢弃珠崖郡。
 東漢建武十九年(公元43年),漢光武帝派遣伏波將軍馬援平定交阯,撫定珠崖,設珠崖縣。三国时期,吴赤乌年间(238年-251年)设珠崖郡(治今广东徐闻)。
 西晋武帝太康元年(280年),省珠崖郡,并入合浦郡。
 南朝时,宋文帝元嘉八年(431年)复立珠崖郡,治徐闻,不久又废。梁武帝大同(535年-546年)中,在废儋耳郡的地方设置崖州,统于广州,这也是西汉末年罢弃珠崖郡580年后中央对海南岛的首次直接统治。
 隋文帝仁寿初年,隋朝正式將海南岛納入版圖[5]。
 唐太宗贞观五年(631年)增设琼州,海南简称「琼」即源于此。
 宋朝,海南岛与今广西壮族自治区的大部分一起属于广南西路。
 元朝,原广南西路划归湖广行省管辖,海南岛亦随同划到湖广行省之下。
 明朝,琼州府隶属于广东省,治所在琼山县(治今琼山市府城镇),管辖全岛。西沙、南沙群岛正式划归琼州府管辖。
 《海南岛图说》,繪製於1820-1875年間
 清朝基本沿袭明制,至清末,海南岛上有1府2州11县。府即琼州府,领儋州和琼山、澄迈、定安、文昌、会同(今琼海)、乐会(今琼海)、临高7县。崖州于光绪三十一年(1905年)升为直隶州,领感恩(今东方市)、昌化(今昌江)、陵水、万县(今万宁)4县。
★近现代史
 海南在明清时期以及民国初期北洋政府治理下一直歸广东省管轄。直至中国国民党北伐战争以后的南京国民政府時期,开始考虑单独建省的问题。先是胡漢民、孫科提議設立瓊崖特別區,並於民國20年(1931年)12月7日,國民政府國務會議決議:劃廣東省環崖全屬爲特別行政區,直隸國民政府,設行政長官,並任命伍朝樞爲行政長官[6]。伍朝樞於民國21年(1932年)3月1日就任瓊崖特別區行政長官;4月16日,在海口設立瓊崖特別區長官公署臨時辦事處,以瓊崖原有13縣及西沙群島爲管轄範圍,5月27日,西南政務委員会修正公布的《修正琼崖特别区政府组织条例》,惟後因陳濟棠暗中阻撓,改建事宜未能實施。
 1930年代,作為南海地區戰略要地的海南島成為日本與英國的角力場。隨著南進政策演變為日本的國策,南洋的英國勢力開始成為日本海軍的主要假想敵。盡管日本陸軍與外務省方面持有不同觀點,但是在日本海軍的多次積極地推動之下,英日會談的機會受到破壞,海军拒绝了陆军和外务省的对英协调论,坚持实现了对海南岛的占领,并做好了和英国开战的准备,海南岛进入为时6年的日占时期。占领期间,致力于缅甸从英属印度独立的志士昂山等人在海南岛上进行了军事训练。
 中國抗日戰爭结束後的1947年8月,行政院院務會議通過以瓊崖改爲海南特別行政區,隸屬行政院,民國37年(1948年)行政院命令公佈,民國38年(1949年)4月正式成立行政长官公署,派陳濟棠爲行政长官。5月20日,《海南特区行政长官公署組織條例》制定10條;5月24日,《海南建省籌備委員會組織條例》制定11條。同年6月6日公布這兩份法律,並准在海口成立建省籌備委員會,以籌謀進行改省事宜。民國61年(1972年)3月7日,立法院通過停止適用這兩份法律,同年3月18日公布。民國92年(2003年)5月13日廢止這兩份法律,同年5月28日公布。
 中華民國設置的海南特別行政區
 1949年10月1日,中华人民共和国政府宣布建立时,海南岛仍未实际控制,当时中共控制的广播电台宣传词有“中国人民解放军一定要解放包括外蒙、西藏、内蒙、海南、臺灣在内的中国领土”的口号。
 1950年3月至5月間,中共发动海南島戰役将海南岛纳入版图。4月23日,中國人民解放军占领海南岛行政中心海口市。随后,后续部队陆续渡海与先遣部队会合,向国军餘部进攻,相继占领了三亚市和榆林军港。5月1日,解放军宣布海南岛全面解放,原中共广东省琼崖专区改置为海南行政区,并成立海南军政委员会,实行军事管制。1951年解除军事管制,设海南行政公署,隶属于广东省人民政府,公署驻琼山府城。
 1955年,广东省人民政府海南行政公署改称广东省海南行政公署。此外在島的中南部建立了海南黎族苗族自治州,州府驻保亭县冲山镇。
 1959年3月24日,中华人民共和国中央政府設立了西沙群島、南沙群島、中沙群島辦事處(簡稱西、南、中沙群島辦事處,西沙辦事處或西沙辦),負責行使西沙群島、南沙群島和中沙群島及其周边海域的主權與管轄權。
 1980年1月,广东省海南行政公署改称海南行政区公署。
 1983年,中國地名委員會公佈包括南沙群島在內的南海諸島標準地名。
 1984年5月31日,第六届全国人民代表大会第二次会议审议了国务院关于成立海南行政区人民政府的议案,决定设立广东省海南行政区。1984年10月1日,撤销海南行政区公署,海南行政区人民政府正式成立。1987年,海南黎族苗族自治州正式撤銷,由海南行政區管轄。1988年4月13日,七届人大通过了《关于设立海南省的决定》和《关于建立海南经济特区的决议》。1988年4月26日,省委、省政府正式挂牌。
 2012年6月21日,国务院撤销西沙群島、南沙群島、中沙群島辦事處,在西南中沙办事处的基础上设立地级三沙市,市政府驻西沙永兴岛,为海南第三个地级市。
 2015年2月19日,国务院同意撤销县级儋州市,设立地级儋州市,以原县级儋州市的行政区域为地级儋州市的行政区域,市政府驻那大镇中兴大街中1号,为海南第四个地级市。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中国恒大に建物撤去命令 海南省で建設中のマンション39棟」

2022年01月15日 | 海南島
https://www.epochtimes.jp/p/2022/01/84204.html
「大紀元」 2022年1月4日
■中国恒大に建物撤去命令 海南省で建設中のマンション39棟
 中国不動産開発大手、中国恒大集団は3日、海南省憺州市政府から建設中の建物39棟を解体するよう命じられたと発表した。
 同社の声明によると、儋州市総合行政執法局が昨年12月30日、中国恒大に対して行政処分を行い、同市の海花島2号島で建設中のマンション39棟を解体するよう命じた。 
 海花島は、儋州市の排浦港と洋浦港の間の沖合にある人工島である。埋め立て面積は8平方キロメートル。海花島は3つの独立した島から構成される。それぞれの島は花の形をしているため、海に咲く花の島との意味で海花島と名付けられた。
 1号島には主にレジャー・娯楽、ビジネス、展示場などの施設が設けられている。2号島と3号島は居住地区で、マンションなどの住宅が建てられている。
 中国恒大が海花島の開発を行っている。総投資額は1600億人民元(約2兆9118億円)に達する見込みだ。同社の3日の声明によると、過去6年間、すでに810億元(約1兆4754億円)を投じ、6万件余りの物件を建築した。
 中国のSNS上では、儋州市総合行政執法局が公表した行政処罰決定書が投稿されている。決定書は、中国恒大が建設を進めている海花島2号島のマンション39棟について、中国の「城郷規劃法」に違反したとした。当局は、同社に10日以内にマンションを解体するよう要求した。
 儋州市の当局者は、中国メディア「極目新聞」などの取材に、同決定書を中国恒大に送ったと話した。
 2兆元(約34兆円)の巨額債務を抱える中国恒大は3日、「内部情報」を公表するとして、香港証券取引所に上場する自社株の取引きを停止した。昨年10月にも、同社は同じ理由で、香港市場での自社株の取引を止めた。
 2021年12月31日、香港証券取引所では中国恒大の株価は1株=1.59香港ドルを付けて1年間の取引を終えた。過去1年間、同株価は約89%下落した。
       (翻訳編集・張哲)
 

https://www.recordchina.co.jp/b887447-s25-c20-d0192.html
「Record China 」   2022年1月2日21時0分
■中国恒大集団「海花島」の建物39棟に撤去命令、「中国の最も醜い建築物」にも選出
 巨額債務を抱え経営難に陥っている中国の不動産開発大手、中国恒大集団が「中国のハワイ」と呼ばれる海南島で進めていた世界最大の人工島プロジェクト「海花島」の建物39棟について、海南省儋州市当局は昨年12月30日、違法に取得した計画許可が取り消され、「城郷規画法(都市農村計画法)」第40条の規定に違反する状態が存在するとして、恒大集団傘下の儋州信恒旅遊開発に対し、建物を10日以内に撤去するよう命じる行政処罰決定書を発行した。
 北京青年報の1日付報道によると、建物は2020年5月、環境保護を理由に販売停止を求められていた。
 恒大集団の海花島は昨年12月、北京で発表された恒例の「中国の最も醜い建築物トップ10」で、恣意的な資本によるでたらめな行為で、海洋生態系を破壊し、建築様式は怪奇乱雑で、富を見せびらかし世俗にこびる文化・観光建築の典型例として1位に選ばれたばかりだった。(翻訳・編集/柳川)


https://pre.recordchina.co.jp/b38618-s0-c30-d0000.html
「Record China」 2010年1月7日23時40分
■<海南島>東洋のハワイとなるか?開発計画を国家戦略レベルに格上げ―中国

【写真】4日、中国で唯一の熱帯気候帯に位置する海南島の開発計画が国家戦略レベルに格上げされた。世界一流の海洋レジャー観光地を目指す。写真は海南島の中でも特に人気の三亜市。

 2010年1月4日、中国で唯一の熱帯気候帯に位置する島で、省の行政区分に属する海南島の開発計画が、国家戦略レベルに格上げされたことが分かった。計画では、世界一流の海洋レジャー観光地を目指し、同島を「開放の島」「緑の島」「文明の島」「和諧の島」としていく予定だという。5日付で中国青年報が伝えた。
 記事によると、中国政府は4日、公式サイトで「国務院の海南国際旅游島建設推進に関する若干の意見」(意見)を公布した。これは海南島の開発計画が国家戦略レベルに格上げされたことを意味しているという。
 意見では、中国で最大の経済特区である海南省を国際的な観光地として開発する戦略を、「中国観光業界の改革・新機軸のテスト地区」「世界一流の海洋レジャー観光地」「全国の生態文明建設のモデル地区」「国際経済協力と文化交流の重要な地区」「南海資源の開発及びサービス基地」「国家熱帯現代農業基地」と位置づけ、2020年までに同省を世界一流の海上レジャー観光地とするための第一段階を完成させる計画としている。
 また、同島の開発に当たっては、生態系や環境の保護を厳格に行うとともに、同島の特色を生かすだけでなく、観光業界全体のレベルアップ、観光業界と関連のあるサービス業界の発展などを目指すと強調している。さらに、国際大型定期観光船用の埠頭の開発、ゴルフ場開発プロジェクトの実施、免税ショッピング地区の設置など、関連産業の誘致や育成を図っていくとしている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海南新增九个“中国少数民族特色村寨”」

2020年02月24日 | 海南島
http://hnrb.hinews.cn/html/2020-02/24/content_17_1.htm
「海南日报」 2020年2月24日     文\海南日报记者 刘操
■海南新增九个“中国少数民族特色村寨”
 有一种美叫黎村苗寨

【相片】鸟瞰琼中黎族苗族自治县什运乡光一二村。海南日报记者 陈元才 摄
【相片】昌江黎族自治县叉河镇排岸村的木棉水田景观。 张王明 摄
【资料图片】陵水黎族自治县文罗镇坡村的红军客栈。
【资料图片】俯瞰乐东黎族自治县万冲镇抱班村。
  
  春节前,国家民委正式批准命名了第三批中国少数民族特色村寨,海南有9个村寨榜上有名。至此,我省共有23个黎族苗族村庄获评“中国少数民族特色村寨”。
  我省最新获评的少数民族特色村寨各具特色,正成为海南建设美丽乡村的旅游名片。

1  万宁桥南外村:
  黎族风情浓郁
  田园风光怡人
  南外村位于万宁市西南部南桥镇,2004年列入万宁市级文明生态村建设,并按黎族传统习俗,在房屋、戏台、路牌等建筑物嵌上黎族“大力神”“甘工鸟”“稻穗”等图腾,体现民族特色,保留了民族礼仪、黎锦织造的传统习俗,彰显黎族风情。
  村庄周边有水田、桑园、小河、瀑布、池塘、树林、橡胶林、槟榔林、竹林等,村中树木苍翠,户户种植黄皮、菠萝蜜树和各种花卉,道路整洁,生活污水集中排放,尤其是村子东南面有一条小溪自西向东绕着村子流淌,村前有农田和池塘,田园风光怡人。

2  东方马龙村:
  库区移民村
  民俗有传承
  马龙村位于东方市大田镇西南6公里处,是一个库区移民村,环境优美,交通便利,以村为中心30公里半径内有东方动车站、环岛西线高速入口,毗邻225国道。
  马龙村依旧传承着黎族织锦技艺,60多名织女曾参加东方市千人织锦活动,挑战吉尼斯纪录;黎族哈方言民歌在村民中也广泛传唱;村子仍保留着“三月三”“顶竹杠”“拉乌龟”“打柴舞”等节庆文化活动,民族特色鲜明。
  马龙村主要以种植花梨、甘蔗等为主,已有花梨12万株,2013年马龙村还建起了“黄花梨艺术培训加工基地”,鸟瞰马龙,整村掩映在绿荫之中,生机盎然。

3  澄迈新兴苗村:
  深山生态苗寨
  寻求产业升级
  新兴村位于澄迈县仁兴镇东南,是澄迈县唯一的苗族聚居村庄,特色产业有豪猪、蜜蜂养殖。新兴苗村集民族特色文化、田园风光、山水景观于一身,是仁兴镇特色旅游资源最丰富的村落。
  2016年,当地政府投入1800万元整村改造,建成62套有苗族文化元素装点的三层别墅型楼房和2套五保安置房,2018年初正式入住。
  凭借自身的生态环境优势,新兴苗村正在进行传统农业升级,以文化旅游、养生旅游作为发展方向。

4  白沙高石老村:
  挖掘黎族文化
  发展特色产业
  高石老村位于白沙黎族自治县七坊镇区,传统产业以橡胶、甘蔗、木薯为主,2015年启动易地扶贫搬迁后,被打造成集旅游度假、民俗演绎、农业体验、休闲观光为一体的乡村旅游区。
  在特色民居建设上,注重收集和挖掘黎族文化图腾、民族特色建筑符号和民间传说,如:“大力神”“甘工鸟”等文化符号,采用墙体彩绘等方式生动展示了黎族传统生活场景。
  在高标准规划建设的同时,高石老村还因地制宜发展黄牛养殖、特色瓜菜和黄金地瓜种植、乡村民宿等产业。

5  昌江排岸村:
  自然景色优美
  星级民宿问世
  排岸村位于昌江黎族自治县叉河镇东部,有独具特色的木棉红景观点,木棉树集中生长于水田边上,花开时节,花红稻绿,景色优美。村庄不断完善旅
  游基础设施建设,有木棉红景观道路1.6公里,有停车场、卫生间、戏台等旅游设施,近年来排岸村配合县政府全域全季旅游规划,承办了全县人居环境现场会、木棉植树爱情园相亲等大型现场会议和文旅现场活动。
  2018年,排岸村建成全县首家民宿,以“企业+农民”的方式运营星级民宿,结合绿皮火车、木棉红景观,吸引游客。

6  乐东抱班村:
  打造美丽黎村
  实施民生工程
  抱班村地处乐东黎族自治县万冲镇,是一个黎族聚居的村寨,主要经济作物有水稻、橡胶、槟榔、益智、山栏稻等。
  2018年,乐东以“脱贫攻坚+特色产业+民宿”的模式精心打造抱班美丽乡村,建成集村文化阵地、乡村卫生室、农村淘宝店、便民服务中心为一体的综合大楼,实施路网、管网、电网、危房、饮水、灌溉、景观等工程,解决村民一系列生产生活难题。同时,采取“公司+贫困户+合作社+扶贫专项资金”的发展模式,引导46户贫困户加入合作社,发展养蜂、金菠萝、火龙果、百香果项目。

7  陵水坡村:
  挖崛红色文化
  发展乡村旅游
  坡村位于陵水黎族自治县文罗镇东北部,农作物以水稻为主,经济作物主要有圣女果、芒果、莲雾等。
  近年来,坡村深度挖崛黎族文化和红色文化,发展乡村旅游。自2015年以来,相继建成黄振士烈士纪念园、黄振士展室,集休闲、观光、科研于一体的人工湿地公园和具有民族特色的公社食堂。
  坡村百米浮雕刻画了黎族先民耕种、打猎、歌舞、纺织的生活场景,展现黎族人民的勤劳勇敢与热情奔放。

8  陵水常皮村:
  发展光伏产业
  助推村民增收
  常皮村位于陵水黎族自治县隆广镇东南面,四季如夏,具有得天独厚的自然资源和生态环境,光照充足,雨水充沛,土地肥沃,是发展热带作物的绝佳之地,全村主要经济来源以种植水稻、冬季瓜菜、热带水果和养殖小黄牛为主。
  2016年7月,常皮村开始启动分布式光伏电站项目,如今,依托村里61户民居楼房的屋顶,共安装2146片由汉能控股集团自主研发的薄膜太阳能光伏组件。

9  琼中光一二村:
  村民能歌善舞
  文化传承不息
  琼中黎族苗族自治县什运乡光一二村已实现自来水入户率、无害化污水管网覆盖率、主次干道硬化率、通电率和电话、网络、广播电视“三网”通户率均达到100%;村级文化室、乡村大舞台、卫生室、栈道、历史长廊、人文景观和休憩活动场所等公共服务设施建设完善。
  光一二村以发展种桑养蚕、冬种瓜菜、林下养蜂、食用菌等产业为经济收入来源。
  光一二村具有浓厚的黎族风情,村民能歌善舞,自建村级文艺队,较好地传承了黎族婚俗、歌舞、纺织技艺和美食等传统文化,同时,也通过黎族传统文化展示红色文化,弘扬军民互帮互助、自力更生、艰苦奋斗的精神。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「公式的出路在哪里? 救公式只有红军旗 ——黎族民歌中的琼崖革命斗争史 」

2020年02月23日 | 海南島
http://hnrb.hinews.cn/html/2018-10/08/content_16_1.htm
『海南日报』 2018年10月08日 文\本刊特约撰稿 陈立超
■公式的出路在哪里? 救公式只有红军旗 ——黎族民歌中的琼崖革命斗争史
 
【相片】1950年黎族同胞喜迎解放。
【相片】解放战争时期黎族妇女慰问解放军战士。
【相片】被日军征用的黎族劳工。 本版资料图片均由陈立超提供
【相片】黎族民歌简谱。
  
  黎族是能歌善舞的民族。男女老少人人善唱,“开口就是歌,歌有千万箩”。黎族人民用黎族民歌传情、祝愿、贺喜、致哀,婚节喜庆和拜亲会友,对歌是必不可少的娱乐活动。男女恋爱,民歌是引情之媒,平时劳作也因兴之所至而唱。清代至民国时期,因受汉商传入的民间唱本影响,黎族产生了长篇叙事歌,大量历史事件通过黎族人民编唱的山歌在五指山区传唱。这一时期的黎族民歌内容深刻反映了黎族社会的变迁和琼崖革命形势对黎族的影响,印证了黎族人民的生活步步跟随共产党走向光明,见证了琼崖革命走向最终胜利。


  《打仗不论男与女》: 陵水县第一个人民政权的建立
  忆起民国十六年,大刀长矛齐上战,
  陵水人民不可欺,打仗不论男与女。
         ——《打仗不论男与女》
  新中国成立前,黎族人民在封建王朝和国民党政权的压榨下,生活极为困难,这也激发了他们勇于反抗的斗争意志。1927年7月18日,黎族共产党员黄振士率领琼崖讨逆革命军第八路军800余人(其中大部分为黎族战士),兵分三路对陵水县城发起总攻击。经过两个小时的激战,国民党陵水县保安队和陵城中区民团很快溃不成军,纷纷向陵城北门逃窜。此次战斗击溃国民党守军300多人,击毙10余人,缴获枪支、弹药一批。讨逆革命军第八路军无一伤亡,顺利攻克陵城。
  7月21日,中共陵水县委在陵城召开群众大会,宣布成立琼崖第一个人民自治政权——陵水县人民政府,由欧赤任主席,黄振士、王昭夷、何毅、陈贵清、谭玉麟、陈荣年等人任委员。随后,中共陵水县委、琼崖讨逆革命军第八路军、琼崖肃清反革命委员会陵水分会、陵水县农会筹备处等联合贴出《安民布告》,宣布查封国民党反动官僚及反动地主、资本家的住宅等财产,没收浮财达万余元。陵水人民群众奔走相告,欢呼胜利!
  《打仗不论男与女》生动地记录了攻城作战时,黎族人民群众踊跃参与的场景。尽管当时黎族群众手中的武器十分落后,但在中国共产党领导下,他们迸发出无比的勇气,不论男女纷纷参战。据《中国共产党陵水历史》第一卷记载:“在主力部队的掩护下,黄家连带领攻城先头部队第一小队悄悄地潜行到南门城外,在靠近城墙后搭起‘人梯’,越墙强攻,形成内外夹击之势。城内守军一片混乱,主力部队乘势冲杀入城。”中共陵水县委领导琼崖讨逆革命军第八路军占领县城,建立工农民主政府,对国民党反动派是一次沉重的打击。

  《日本鬼子心肝黑》:
  日军在黎族地区的暴行
  日本鬼子心肝黑,稍有迟慢被鞭抽,
  外国劳工当他奴,奴役劳工如耍猴。
  恨日本鬼子,
  公式们住在深山里,
  深山里(耶)。
  住在深山站不稳,
  恨死日本鬼子来捣山。
         ——《日本鬼子心肝黑》
  1939年,日军入侵琼崖,琼崖沿海各市县陆续沦陷。1940年3月,日军分别占领保亭县城和乐东县城。黎族人民聚居的五指山区不断遭到日军的侵扰,日军犯下的累累罪行,给黎族人民带来深重的苦难。1941年2月间,驻儋县和舍圩日伪军由汉奸带路第一次窜犯五指山腹地白沙元门、什运、红毛地区,杀人焚村后撤退。7月21日,日军窜扰黎母山区,途经水上市(圩)、榕木铺、岭门圩骚扰后撤退。8月,日本海军舞一特部陆战队占领松涛、合救、腰子、新村溪(新林)、榕木铺,并建立据点驻兵,强拉民夫修筑炮楼碉堡、开凿军用公路,设立封锁线。
  在今天的保亭县六弓乡,日军诱杀六弓村黎族村民的历史成为当地群众心中极为惨痛的记忆。1940年夏季的一天,日军以发枪支为诱饵,引黎族人民上钩。全村所有在家的青壮年男子共73名都坐上日军3辆卡车往陵城,一到日军营地,日军立即将受骗的73名黎胞捉起来,三人一串五人一群连绑,押到离营地不远的刑场,日军用军刀劈、刺刀扎,73名黎胞被杀害了72人,留下一个活口回村寨报信,这位被惊吓过度的幸存者回到村寨报信后,不久也离开人世。六弓村几乎所有的青壮年男子都惨遭杀害,剩下的人只好离开家园,投奔别的村寨谋生,一个平静安宁的村寨,从此荒无人烟。
  黎族人民虽然久居深山,但也难以逃脱日军的毒手。日军在黎族地区杀人放火、奸淫掳掠,激起黎族人民的愤恨。这首歌正是在这种大背景下创作出来的。当时,日军铁蹄所到之处,实行“杀光、抢光、烧光”政策,在黎区制造的血案、惨案各地皆有,骇人听闻。据《海南省琼中黎族苗族自治县抗战时期人口伤亡和财产损失调研报告》记载,仅在琼中地区,日军就造成人口伤亡总计为12715人。其中直接伤亡为8934人。

  《狗兵害百姓》:
  国民党顽固派对黎族人民的盘剥
  放屎饲狗遭狗咬,饲狗养兵害百姓,
  缴粮养兵被兵打,这是哪朝新规定?
         ——《狗兵害百姓》
  日军侵略海南岛后,国民党琼崖当局执行蒋介石的片面抗战路线,虽然拥兵数千,但只在海口、府城等地稍作抵抗后,便纷纷溃逃。他们躲进五指山区。当时紧随国民党琼崖警备司令部、专员公署、守备二团、游击大队溃逃到五指山地区的还有儋县、临高、昌江、感恩、乐东、崖县、陵水等多个县的逃亡政府及其武装人员5000多人。
  国民党军政官员连同他们的眷属涌进五指山区以后,一切军需费用全部由广大黎族、苗族人民负责,加重了人民的负担。尽管如此,从团结抗战的角度出发,黎族人民还是尽可能地满足国民党琼崖当局的要求,节衣缩食支援抗战,期盼着国民党部队能够赶走日军,使黎族人民重新享受和平。然而,国民党顽固派对少数民族群众肆意欺凌,无节制的压榨和索取,使黎族人民没有活路。
  国民党巧立名目的盘剥之多难以数计,众多官衙还各自立刑法对黎、苗族人民进行奴役。《黎族人民斗争史》记载:黎族群众王开法因交不出公粮,被抓去毒打,还要罚款。他的妻子在万般无奈之下,被迫忍痛将唯一的儿子卖了,换成40块光洋交去将丈夫赎回。这首民歌深刻反映了当时黎族人民的愤怒和不解,“饲狗养兵害百姓,缴粮养兵被兵打”,国民党顽固派对养活他们的黎族群众毫无感激之情,反而穷尽敲诈勒索之能,恩将仇报。因此,黎族人民在民歌中把国民党顽固派的这种行为比作狗犬,好心养狗被狗咬,好心支援抗战,却被国民党顽固派肆意虐杀。

  《狂飚七月卷白沙》:
  白沙起义的全景式记录
  狂飚七月卷白沙,如同江河咆哮时。
  弓箭粉枪杀国贼,海南斗争留壮举。
  什阳奋战九昼夜,白沙人民击敌师,
  激战临高伪县府,威震敌胆初奠基。
  消息传到红毛乡,狗急跳墙施诡计,
  国兴首领等被捕,玉锦果断来当机。
  三路义民来搭救,队伍集中在毛西。
  约定半夜鸡叫时,攻打伪县府驻地,
  月暗星稀摸黑起,敢死队员赤身躯。
  悄悄布下包围圈,天罗地网水难泄,
  草木皆兵刀剑影,敌溃如同破竹势。
  战斗历时十多天,敌心不死仍寻机,
  卷土重来第二次,义民三路来迎击,
  敌众我寡退山区。残酷国贼大屠杀,
  乌云布满白沙地,国兴坚守鹦哥岭,
  昼夜为民深忧虑。天苍苍啊地茫茫,
  公式的出路在哪里?牢记父亲的遗嘱,
  救公式只有红军旗。国兴梦见五彩云,
  彩云下边人欢歌,阳光照耀新天地。
  派出代表寻救星,爬山涉水几百里,
  越过敌人封火线,终遇特委冯白驹。
  琼纵急派工作组,开辟白沙根据地,
  斗争从此党领导,鹦哥岭上飘红旗。
  红旗飘啊红旗扬,今天我把红旗举,
  踏着先辈的足迹,开辟白沙新天地。
         ——《狂飚七月卷白沙》
  这首民歌是这一时期少有的长篇叙事歌,已经十分接近于史诗的体裁,通过民歌全景记录了白沙起义从发动到受挫再到找寻共产党,开辟白沙抗日根据地的全过程。民歌虽然较长,但其记录准确,唱起来朗朗上口,既有黎族人民在起义受挫后的困惑,又表达了黎族人民在共产党领导下建设新生活的决心。其中关于起义前夕王国兴被捕,王玉锦果断决定武力营救的记载,具有十分重要的史料价值。
  1943年8月12日,白沙起义发动。这天,白沙一区的白沙乡、牙叉乡、元门乡等4000多黎、苗族群众揭竿而起。他们以弓箭、钩刀、粉枪等原始武器,向驻什空的白沙县中队发起攻击,揭开了起义的序幕。
  国民党白沙县二区公所得悉黎、苗族群众起义的消息,8月16日,以开会名义逮捕了王国兴、王玉锦等人。王玉锦机智逃脱后,带领敢死队救出了王国兴等人。白沙起义从1943年8月12日至26日,为时半个月。起义的黎族、苗族群众达2万多人次,共打死打伤国民党军政人员300多人,缴获机枪1挺、步枪90多支及一批弹药物资。国民党军政机关和部队几乎被全部赶出白沙县境。9月,国民党顽固派纠集1000多兵力,分四路向起义群众发动反扑。由于众寡悬殊,起义受挫。
  据《中国共产党海南历史简明辞典》(新民主主义革命时期)记载:起义领导人王国兴、王玉锦等率领起义群众撤退到鹦歌岭和什寒山坚持斗争。10月,王国兴召集起义首领会议,决定派出黎族代表寻找共产党,同年冬在儋白边区找到共产党和琼崖独立总队,并接受共产党的领导。白沙起义为创建五指山中心革命根据创造了条件。王国兴的儿子王家贤后来回忆,在见到特委派来的同志时,王国兴热泪纵横。他拉着联络员廖之雄的手,喃喃地重复说:“父母军来了,黎人有救了。”

  《送子参军》《送郎上前线》:
  掀起备战支前的热潮
  去参军后要放心,
  莫畏山高与海深;
  山高海深也要去,
  勒带挺腰作精神。
  送你去吧不用气,
  去参军后都有味;
  杀敌解放还热闹,
  今后回来担红旗。
  ——《送子参军》
  我来送你去参军,
  在家劳动我不闷;
  杀敌立功靠勇敢,
  胜利解放才回巡(团圆)。
         ——《送郎上前线》
  1948年6月6日,琼崖纵队占领乐东县城,乐东县全境宣告解放。至此,白、保、乐三县连成一片,五指山革命根据地正式形成。广大黎族群众立刻投入到备战支前、参军参战的热潮中去,为解放海南全岛贡献自己的力量。《送子参军》《送郎上前线》这两首民歌是反映这一历史事件的代表作品。
  1948年9月初至1949年7月,琼崖纵队相继发动秋季、春节、夏季三大攻势。黎族人民在“一切为了前线”的战斗口号下,青壮年和民兵广泛参军参战,还组织运输队、担架队上前线,掀起了支前运动的热潮。
  琼中县在支前运动中,做了很多工作,取得显著成绩。琼中县、区、乡政府都成立了支前委员会,县长、区长、乡长兼任支前委员会主任,同时县、区、乡都组建支前工作队。这样,全县很快就掀起支前运动的热潮。白沙县解放区的黎族人民在人力、物力和财力方面也给予部队大力支持。县民主政府组织庞大的运输队伍随部队作战,帮助部队运输粮食、弹药、物资和伤病员。同时,还发动广大黎族及其他民族青年参军参战,补充部队的兵源。
  《送子参军》在今天的琼中中平一带流传较广,这首民歌最早是由支前工作队员创作的,原歌名叫《有子要送去参军》,后来在流传中为传唱方便,歌名随之简化。1948年底,中平乡的支前工作队队员抓住黎族人民能歌善舞的特点,在走村串寨的时候,编唱了这首的民歌,使黎族人民认识到要过上幸福美好的生活,就要送子参军上前线彻底消灭反动派的道理。
  经过深入的宣传工作,加营乡、中平乡很快出现妻送夫、父送子参军上前线的动人场面。以加营乡的什猿村(今琼中营根镇高田村)为例,当时全村31户,100多人,20多个青壮年都报名参军。他们要上前线时,全村男女老少都来送行。参军的青壮年胸前戴着大红花,随着锣鼓声列队。后来被称为“黎族歌后”的王妚大,当时刚刚结婚不久,她临时编唱了这首《送郎上前线》的民歌,边唱歌边送自己的丈夫参军。

  《革命同志好无比》:
  投身土改分田地
  革命同志好无比,
  和公式黎胞同饥饿。
  打倒地主得翻身,
  感念同志万年恩。
  我和同志亲无比,
  革命永远不分离。
  生同战壕战一起,
  死去同埋大路圯。
  绒绞绒来丝绞丝,
  同志疼咱咱疼他,
  同志消灭顽固贼,
  海枯石烂不分离。
         ——《革命同志好无比》
  《革命同志好无比》既是一首叙事民歌,也是一首经典的抒情民歌。这首民歌具体创作时间已经不可考证,但从其描写的内容来看,应该是创作于1947年至1949年间的一首作品。这首民歌在叙事方面,集中反映了黎族地区解放后,在中国共产党的领导下开展土地改革的历史事件。
  据《海南省民族志》(第一轮)记载:1947年至1948年年初,在琼中县、白沙县和乐东县、保亭县的一部分地区,党组织广泛发动群众,组织农会、贫农团,积极反奸斗霸和土改分田,废除山租、旧债。
  到1947年底,琼中县境内的解放区基本完成了土改工作,工作队的这一行为深受广大人民群众的欢迎。此后,在1948年5月,随着解放区社会秩序的稳定,党组织发动黎族群众开展减租减息,废除旧债运动。1949年下半年,党组织又在黎族地区开展清匪反霸运动,没收恶霸地主的土地、粮食、牛、槟榔树和银元。经过民主改革,衣食无着的4万多黎族群众获得了土地和其他生产资料。
  在土改运动中,广大土改工作队员和贫苦黎族人民同吃、同住、同劳动,结下了深厚的革命友谊。黎族人民贫苦的生活使许多土改队员深受震动。他们通过一切方法帮助黎族人民翻身解放,黎族人民反过来视这些年轻土改队员为好友至亲。因此才有“我和同志亲无比,革命永远不分离”的感叹。民歌的最后几句,充满了抒情意味。土改分得田地后,如何保证胜利的果实,当时海南岛还没有彻底解放,国民党军盘踞在沿海市县,随时准备进攻五指山解放区。要保卫黎族人民的土改果实,必须和革命同志团结在一起,“生同战壕战一起,海枯石烂不分离”。黎族人民这种朴素的感恩之情和当时党组织面临的革命任务相得益彰,黎族人民成为解放海南岛的坚固后盾。

  《五指山五条溪》:
  欢庆海南岛彻底解放
  五指山上五条溪,你知哪条流水多?
  你知哪条流下海?你知哪条流回来?
  五指山上五条溪,西边那条流水多,
  蒋家(国贼)兵败流下海,红军胜利流回来。
         ——《五指山五条溪》
  1950年5月1日,当海南全岛解放的喜讯传来,黎族人民奔走相告,欢欣鼓舞,沉浸在一片欢乐之中。此时,在黎村苗寨欢庆解放的地方,人们手舞足蹈,情不自禁地放声歌唱这首《五指山五条溪》。这首民歌虽然篇幅不长,但是充满了历史的唯物主义,哲理深长,耐人回味。
  黎族人民世代居住在五指山区,这里峰峭林密,地势险要,溪流众多。长期以来生活于此的黎族人民僻居深山老林,过着刀耕火种、半农半猎的艰苦生活,加上他们深受国民党统治者的奴役之苦,不断举行各种形式的反抗斗争。但是,由于没有先进的政党和理论作为指导,黎族人民自发的反抗斗争纷纷失败。黎族人民的苦难重重。在彷徨和苦闷间,黎族人民最终选择了中国共产党的领导,使黎族人民的历史翻开了新的一页。
  在解放海南岛战役中,人民解放军兵分三路,快速追击国民党残军。大批国民党残兵猬集在八所、新村等港口,乘船四散奔逃,人民解放军势如破竹,仅半个月就全部解放海南岛。故此在民歌中,黎族人民形象地比喻“蒋军流下海,红军流回来”。此外,这首民歌中也体现了中国传统文化中“九九归一”的哲学理念,无论是任何政党,只有全心全意为人民服务,才能永远立于不败之地,否则只能像溪水一样,流入大海踪迹全无。它标志着黎族叙事民歌不仅能够发挥记录历史的功能,还能够从历史发展中提炼出经验和教训,从而教育更多的黎族群众。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「六连岭:青山不语抱丰碑」

2020年02月18日 | 海南島
http://hnrb.hinews.cn/html/2020-01/06/content_13_1.htm
『海南日报』 2020年01月06日   文\海南日报记者 刘梦晓
■六连岭:青山不语抱丰碑

【相片】六连岭革命根据地。海南日报记者 袁琛 摄
【资料图】荔枝炮。
  
  在万宁市北部有一座山,从南至北并排着名为带尖顶、太师椅、石狗咀、三支香、鼻谷架、第一架等六座山峰,一直延绵至五指山,因而得名六连岭。
  千百年来,六连岭因六峰并排,峰峰耸翠而闻名,被文人墨客赋诗撰文吟诵,是古万州八景之一。进入20世纪,六连岭成为革命根据地,又被冠上“秀丽之山、英雄之山、红色之山、伟大之山”的美名。

◆美不胜收的山景
  “极目青山耸太清,连峰突兀翠相迎。高擎碧落真难混,秀邑浓烟绘不成。声阔禽飞常唤侣,林深兽走莫知名。高低胜景看无厌,斗酒呼朋意尽倾。”这是清代诗人游览六连岭时留下的美妙诗句。
  从六连岭东麓登山,沿着小道向六连岭主峰太师椅攀登,一路拾级而上,但见这里山势忽高忽低,绿叶成荫,古木参天。木质藤从这棵树爬到那棵树,往返穿梭,把林间的树木都缠了起来。
  在半山腰,有一个天然石堆拥成的山洞,古人称为“石室”。洞内有山泉,洞顶树木丛生,洞口有野藤攀绕垂挂,使山洞隐蔽不裸露。
  今年已经93岁的琼崖纵队老战士梁文友介绍,这就是六连岭上的“红军洞”,“这是一个连环洞,能容纳300多人,因革命低潮时红军战士常住这个山洞而得名。”“红军洞”里的条件非常艰苦,红军战士缺衣少食,但即使条件这般艰苦,也没有战士投降。梁文友说,革命进行到1929年夏天时,六连岭上的红军战士只剩下27个人,但仍然坚持战斗,为琼崖革命保存了火种。
  沿着崎岖的山路继续向上,越走林越密,秋枫、枫树、古榕及诸多等不知名的树木,林林总总。山岭之间,一支山泉潺潺流淌。泉水叮咚,绿叶沙沙,猴叫鸟啼,汇成一曲动听的山林奏鸣曲。
  登上主峰,虽精疲力竭,双腿酸麻,但放眼望去,群山起伏,云缭雾绕,林木苍莽。再望向海边,烟波浩渺的南海与天空汇成一色,天地之大,令人心胸顿开。

◆红色传奇永流传
  六连岭青山不老,亦是一座被赤色浸润血脉深处的山脉。
  六连岭革命根据地创建于1927年,是党领导人民群众在海南坚持对敌斗争时间最长、规模最大的革命根据地之一。在周边人民群众前赴后继的支持帮助下,我党坚持二十三年红旗不倒开展武装斗争,直到1950年5月海南解放。
  六连岭上的红色传奇,至今仍让人深刻铭记。
  抗日战争爆发后,1940年8月,中央派李振亚来琼任琼崖抗日独立总队参谋长。第二年,琼崖特委决定在六连岭下创办“琼崖抗日军事政治干部学校”,任命李振亚兼任校长。李振亚带领200多学员割茅草,搭建教室、宿舍、办公室、食堂等生活设施,为学员传授军事与政治知识。同时,他率领学员奇袭兴隆日军据点和万树峒炮楼的伪军,打死打伤敌人32名,缴获了一批枪支弹药。
  日寇和伪军遭受失败后,集中兵力围攻六连岭革命根据地,李振亚组织学员和群众奋起反击,苦战五天五夜,因弹尽粮绝,被迫撤退到六连岭密林里。休整一段时间后,琼崖特委又任命李振亚兼任第三支队队长,他带领部队在六连岭下的南蛇村埋伏,歼灭日伪军30多人,鼓舞了士气。
  当抗日的烽烟刚刚散去,内战的烟云密布全国。1948年9月27日,李振亚带领侦察兵到万宁牛漏炮楼附近侦察敌情,拟在黎明前发起总攻,不料被敌人发现,敌人开枪击中他的胸部,抢救无效后英勇牺牲。
  新中国成立后,党和国家为了让后人了解海南及六连岭革命根据地的斗争史,在国家军事博物馆中曾设过“六连岭”军民开展武装斗争展厅,陈列红军用过的六连岭上自然生长的三件“宝物”:一是用荔枝树干制作的“荔枝大炮”;二是用“牛弄芙”叶煎水给红军伤病员消炎的“消炎药”;三是用香蕉树皮制作手术捆带给红军战士包扎伤口的“医用绑带”。
  在六连岭这一片红色热土上,莫同荣、徐成章、官天民、王文明、杨学哲、熊侠、杨树兴、郭天亭、王白伦、李振亚,和许许多多无名的革命先烈,在这里前仆后继、冲锋陷阵、奋勇杀敌,书写了六连岭革命斗争史上不屈的英雄篇章,树立起革命的不朽丰碑。

◆新时代的六连岭
  六峰相连,逶迤磅礴。六连岭上地势险要,山高林密,易守难攻,在长期作战中有着地理位置上的优势,最重要的是这里人民群众基础深厚。
  1957年党和国家领导人朱德、董必武等同志来海南视察工作时,曾在六连岭下缅怀先烈们的光辉业绩,并分别赋诗抒怀:“六连岭上现彩云,竖起红旗革命军,二十余年游击战,海南人民树功勋。”“六连岭树红旗日,五指山防白匪时,二十三年根据地,一心革命贵坚持”。
  中国作协主席、国歌的词作者田汉也曾赋诗抒怀:“紫燕归三岛,红旗忆六连,荒原今乐土,争取大丰年”。
  为了纪念海南岛在抗日战争、解放战争中牺牲的2000余名革命烈士,党和政府于1961年在六连岭东麓兴建纪念碑和纪念亭。1976年扩建为六连岭烈士陵园,占地面积242亩,园里有赣湘闽粤琼5地百县青年代表栽下的10多亩纪念林。1989年8月20日,国务院批准六连岭革命烈士陵园为全国重点烈士纪念建筑保护单位。2011年,六连岭被国家列入红色旅游景区和国家A级景区。
  2019年7月,以讴歌六连岭革命先烈事迹、传播六连岭革命精神的音乐影片《英雄六连岭》在各大视频网站上线,迅速在网络上传播开来。
  “六连岭上红旗扬,琼崖革命枪声响。山不藏人人藏人,艰苦卓绝好儿郎,青山佑忠良。”《英雄六连岭》导演黄健文介绍,歌词根据六连岭革命根据地上的真实事迹创作,如实记录琼崖纵队以六连岭革命根据地为依托,不屈不挠开展武装斗争的艰苦历程。
  为进一步凝聚共识,鼓舞干劲,万宁市委还重点打造六连岭红色主题教育课堂,深入挖掘红色文化内涵。经过历史的沉淀,如今,高耸巍峨的六连岭更加迷人。


http://hnrb.hinews.cn/html/2020-01/06/content_13_2.htm
『海南日报』 2020年01月06日  文\海南日报记者 刘梦晓
■庄田: 转战千里戎马半生
【资料图片】1980年,庄田在海南。  
  在万宁市万城镇红专中街万宁革命烈士陵园内,坐落着庄田将军纪念馆。
  生于万宁龙滚文渊村的庄田,1926年在新加坡加入中国共产党,1929年入苏联莫斯科步兵学校学习,1931年4月回国。他参加过中央革命根据地反“围剿”斗争和两万五千里长征,抗日战争时期任中国人民抗日军政大学第一队队长等职。
  据庄田之子庄祝胜回忆,庄田参加了1934年11月底至12月初进行的湘江战役,对战争惨烈程度记忆深刻。当时我军撕开了敌重兵设防的封锁线,但也付出巨大代价。庄田曾对庄祝胜说,此役战士们的鲜血染红了江水。
  1940年9月,中共中央派庄田回琼协助冯白驹工作。回到海南后,他很快率部粉碎了国民党军队对美合和琼(山)文(昌)抗日根据地的进攻。1942年5月,日军决定对琼崖抗日根据地进行大规模的“蚕食”“扫荡”。革命面临最困难最残酷的时期,琼崖特委决定由庄田指挥抗日独立总队,广泛开展独立自主的游击战,粉碎日军阴谋。
  抗日战争和解放战争中,庄田历任琼崖抗日游击队独立总队副总队长、琼崖特委常委、琼崖抗日游击队独立纵队副司令员、琼崖区党委常委、中国人民解放军琼崖纵队副司令员等职,后又任粤桂边纵队司令员、桂滇黔边纵队司令员。
  中华人民共和国成立后,庄田历任云南军区副司令员、中国人民解放军总高级步兵学校教育长、副校长、海南军区司令员兼第43军军长、广州军区副司令员等职。
  从1926年参加革命到1985年离休,半个多世纪的戎马生涯,半个多世纪的革命历程,庄田的光辉业绩在人们心中竖起了一座光焰照人的丰碑。在和平的今天,庄田的雕像矗立在万宁市革命烈士陵园里,望着他深爱的这片土地。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「山東艦海南出港 服役後首過台海」

2020年01月02日 | 海南島
https://orientaldaily.on.cc/cnt/china_world/20191227/00178_003.html
「東方日報」 2019年12月27日
■山東艦海南出港 服役後首過台海
【本報綜合報道】距離明年的台灣總統大選僅剩半個月。台國防部周四表示,大陸第一艘國產航空母艦山東艦,當日在護衞艦伴隨下,由南向北駛經台灣海峽,為服役後首次。

◆山東艦  設備比遼寧艦先進
  衞星圖片顯示,山東艦周二從南海出港,在護衞艦的伴護下直接北返,周三下午抵達東沙島附近海域,隨後沿華東沿海進入台灣海峽。台國防部強調,台軍運用聯合情監偵系統,全程掌握監控。
 山東艦於二0一三年十一月開工,二0一五年三月開始塢內建造,其外形雖與遼寧艦相似,惟不論排水量、可搭載戰機數目,乃至艦上搭載的雷達等設備,均比遼寧艦先進。至本月十七日,在海南三亞正式服役中國海軍。山東艦在服役前已經過多次海上試驗,並曾於上月在服役前首次駛入台灣海峽,引起外界關注。


https://www.singtaousa.com/sf/9-中國/2633432-台灣總統大選前夕+國產航母山東艦駛入台海/
「星島日報」 2019年12月27日 02:14
■台灣總統大選前夕 國產航母山東艦駛入台海

【資料圖片】「山東艦」日前在海南入列服役。
【照片】中國國防部發言人吳謙公開一款「山東艦」的紀念郵封。

  (星島日報報道)台灣的總統大選前夕,上周二在海南由國家主席習近平主持入列儀式的中國第一艘國產航空母艦「山東艦」及其所率領的艦隊,昨日由南向北進入台灣海峽。台灣的國防部證實,台灣軍方透過聯合情報監偵系統,全程掌握「山東艦」航母編隊動向。有內地軍事網站分析認為,「山東艦」一個月內兩度經過海灣海峽,和台灣大選或是「巧合」,主要還是和「山東艦」入列服役及其迅速形成戰鬥力的訓練有關。
  有台灣媒體昨日透露,本月十七日剛在海南三亞入列的「山東艦」,周二即離港沿中國海岸線北上。台灣的國防部證實,「山東艦」伴隨護衞艦,昨天由南向北航經台灣海峽北駛。台灣軍方強調,軍方運用聯合情監偵系統,全程掌握監控與應處,「確保國家安全與維護區域和平穩定,請國人放心。」
  在昨日大陸國防部舉行的記者會上,發言人吳謙特別公開一款「山東艦」服役紀念郵封。但被問及「山東艦」的部署及動向,吳謙則僅表示「一切順利」。他稱,該艦入列以後將按計畫繼續開展試驗工作和編隊訓練,通過訓練來形成體系作戰能力。中方將根據形勢任務需要綜合考慮山東艦的部署。
  台灣的國防部沒有具體說明「山東艦」所率艦隊規模,不過據內地媒體透露,上月十七日,「山東艦」穿過台灣海峽南下時,水面上有兩艘導彈驅逐艦護衞,水下還有一艘潛艇伴行。按照「山東艦」姐妹艦「遼寧艦」的艦隊規模,「山東艦」率領的艦隊,應包括三艘驅逐艦、一艘護衞艦、一艘核潛艇和一艘大型補給艦。
  「山東艦」昨日駛經台灣海峽,在兩岸都引起關注,特別是台灣即將在十多日後舉行總統大選。不過,有內地軍事網站的分析指出,之前美國衛星拍攝到駛經台海南下及停泊在海南的「山東艦」,其艦上的艦載機僅有七架。習近平主持「山東艦」入列儀式登艦視察時,迎接他的飛行員也僅十名,顯示「山東艦」的艦載機還沒有全部上艦。這次「山東艦」北上,相信其主要是要到青島港完成總共約三十架戰機的接收,或進一步和目前在青島港的「遼寧艦」進行首次的雙航母艦隊協同訓練。
  「山東艦」是中國第一艘自製航空母艦,滿載排水量約七萬噸。其外形和「遼寧艦」(中國改建自前蘇聯的「瓦良格」號航母)相似,但中國對其作了大量的優化改進提升戰鬥力。艦上除了裝備了最新型的雷達、防空、反潛等系統外,艦載機的數量也大幅增加,最多可載三十六架。



https://hd.stheadline.com/news/realtime/chi/1667961/即時-中國-山東艦入列後首次通過台海
「頭條日報」 2019-12-26 19:08
■山東艦入列後首次通過台海

【資料圖片】中國第一艘國產航空母艦「山東艦」上周二在海南由國家主席習近平主持入列儀式。

  台灣總統大選前夕,上周二在海南由國家主席習近平主持入列儀式的中國第一艘國產航空母艦「山東艦」及其所率領的艦隊,今日由南向北進入台灣海峽。台灣的國防部證實,台灣軍方透過聯合情報監偵系統,全程掌握「山東艦」航母編隊動向。有內地軍事網站分析認為,「山東艦」一個月內兩度經過海灣海峽,和台灣大選或是「巧合」,主要還是和「山東艦」入列服役及其迅速形成戰鬥力的訓練有關。
  有台灣媒體透露,本月17日剛在海南三亞入列的「山東艦」,周二即離港沿中國海岸線北上。台灣的國防部證實,「山東艦」伴隨護衛艦,昨天由南向北航經台灣海峽北駛。台灣軍方強調,軍方運用聯合情監偵系統,全程掌握監控與應處,「確保國家安全與維護區域和平穩定,請國人放心。」
  台灣的國防部沒有具體說明「山東艦」所率艦隊規模,不過據內地媒體透露,上月17日,「山東艦」穿過台灣海峽南下時,水面上有兩艘導彈驅逐艦護衛,水下還有一艘潛艇伴行。按照「山東艦」姐妹艦「遼寧艦」的艦隊規模,「山東艦」率領的艦隊,應包括三艘驅逐艦、一艘護衛艦、一艘核潛艇和一艘大型補給艦。
  「山東艦」今日駛經台灣海峽,在兩岸都引起關注,特別是台灣即將在十多日後舉行總統大選。不過,有內地軍事網站的分析指出,之前美國衛星拍攝到駛經台海南下及停泊在海南的「山東艦」,其艦上的艦載機僅有七架。習近平主持「山東艦」入列儀式登艦視察時,迎接他的飛行員也僅10名,顯示「山東艦」的艦載機還沒有全部上艦。這次「山東艦」北上,相信其主要是要到青島港完成總共約30架戰機的接收,或進一步和目前在青島港的「遼寧艦」進行首次的雙航母艦隊協同訓練。
  「山東艦」是中國第一艘自製航空母艦,滿載排水量約7萬噸。其外型和「遼寧艦」(中國改建自前蘇聯的「瓦良格」號航母)相似,但中國對其作了大量的優化改進提升戰鬥力。艦上除了裝備了最新型的電達、防空、反潛等系統外,艦載機的數量也大幅增加,最多可載36架。


http://chinanews.sina.com/bg/2018-09-17/doc-iuupafpc5869945.shtml
「大陸新聞」 http://dailynews.sina.com 2018年09月17日 04:27 鳳凰網
■央視曝光一批臺灣間諜案後,山東海南等四地再通報8起
  “小姐姐主動示好成戀人、當嚮導自掏腰包陪吃陪喝陪玩、以有償收集公開資料套取機密……”9月15日,《新聞聯播》、《焦點訪談》開始對“2018-雷霆”專項行動破獲百餘起臺灣間諜案件進行報道。
  澎湃新聞(www.thepaper.cn)注意到,9月17日,包括遼寧、陝西、山東、海南等省份在內,又有一批臺灣間諜案通過地方媒體公之於衆,目前已有8起。

◆海南、山東有軍港被拍
  《海南日報》9月17日報道稱,近日,海南省國家安全機關公佈兩起發生在百姓身邊的臺灣間諜案,打工男子周某、黃某在三亞爲臺灣間諜情報機關蒐集情報被判刑,他們在網上尋找兼職時,卻先後被臺灣間諜情報機關勾聯策反,最終分別被法院判處11年和7年有期徒刑。
其中,周某是在三亞一旅行社做旅遊司機的黑龍江籍男子。
  有天晚上,他在瀏覽QQ時,看到一位叫“調研”的網友在“三亞交友羣”裏發消息,詢問有沒有在三亞開車的師傅,周某便QQ私聊聯繫“調研”。“調研”告知周某,其是某房地產公司的負責人,公司購買了三亞某直升機基地附近的土地準備建酒店,但目前還沒在三亞派駐人員,需要招聘一位兼職員工對地塊周邊地區進行調研,主要是觀察直升機基地附近的土地有無大型貨車傾倒渣土,並承諾每報告一次就給100元補助。
  周某覺得這是個兼職的好機會。在收到第一筆1000元經費後,他按照“調研”的要求,每天觀察某直升機基地有無大貨車經過,後來用手機拍攝基地內直升機停靠照片,通過微信發給“調研”。不久“調研”以工作調動爲由,介紹“海蚌”接手對周某的指導。此後,“海蚌”向周某提出更加明確的工作意圖,要求他對三亞某軍用機楊、碼頭開展搜情活動,併爲他購買望遠鏡、手機、DV錄像機、行車記錄儀等器材。
  另一起案件發生在青島,但同樣涉及軍港。
  據《大衆日報》9月17日報道,2013年的一天,在青島打工的景木接到一個陌生電話,邀請他兼職拍攝“海港風景”。但沒想到的是,這通電話卻將他帶入了犯罪的深淵。因貪圖錢財,景木接受了臺灣間諜的指令,偷偷潛入青島某軍港拍攝照片並報送給對方,嚴重危害了國家安全。2015年3月25日,青島市中級人民法院以爲境外非法提供國家祕密罪判處景木有期徒刑11年,剝奪政治權利3年,並處沒收個人財產3萬元人民幣。
  報道稱,2013年的一天,景木接到一個陌生電話。來電人自稱“李永田”,是某雜誌社編輯,正在做國內海洋發展的系列專題,邀請景木給他們做兼職攝影師,拍一些周邊海港的照片,報酬是每天500元人民幣。
  爲了儘快賺取外快,第二天景木便前往青島某港口拍了幾張船舶的照片。很快,“李永田”打來了600元拍攝報酬,同時表示,景木的照片太普通,他需要一些“軍用船”照片。
  就這樣,2013年10月的某一天,景木來到某軍港周邊,非法爬過山上的防護網進入軍港內部,歷時5小時,拍了28張照片,包括軍港大門、內部建築物、公路、標牌等內容。對方對景木的拍攝“成果”十分滿意,很快給他打來了800元人民幣。此後,景木又對港口周邊山上鐵絲網架設情況、港口內部沿途景物、部隊建築物和航母碼頭站牌等內容進行了拍攝,包括照片20張,視頻4段。這次,“李永田”更大方了,很快把4000元人民幣打到了景木的賬戶上。

◆遼寧、陝西:兩學生被策反
  臺灣間諜情報機關策反發展的目標不止於上述普通人。
  據《半島晨報》消息,日前,遼寧大連市國家安全局破獲一起臺灣間諜情報機關策反發展我在校大學生,意在我重要軍工企業安插“釘子”的李某某案件。
  李某某現就讀於大連市某重點大學,原本是一個品學兼優的大學生,在校期間一直從事兼職工作。爲便於尋找兼職工作,李某某加入多個校內兼職QQ羣。2016年末,兼職羣內一個名爲Jake的人發佈了一條兼職招聘信息,稱有一朋友從事船舶海運方面的研究,需該領域相關學術資料,可以提供豐厚薪酬。隨後,李某某主動應聘,與“Jake的朋友”建爲好友,並在對方高額報酬的誘惑下,接下了這份“兼職”。李某某此時還未意識到Jake等人都是臺灣間諜,自己已經被髮展成爲臺諜“情報員”。
  爲賺取報酬,李某某在臺諜的指使下,通過到學校圖書館借閱圖書等方式,將蒐集到的相關資料使用手機拍照後發給對方。臺諜還要求李某某想方設法蒐集內部、涉密的期刊、學術研究類的成果資料及引薦部隊和造船等方面的人員。爲達到長期搜情目的,臺諜主動引導李某某畢業後到發展潛力較大的軍工企業應聘,並承諾其畢業後若進入軍工企業,雙方可以進行更好的合作。當李某某與瀋陽某大型涉密軍工企業簽訂了就業協議書後,臺諜表達了長期合作的強烈意願,並許諾待李某某入職後,每月給予不低於工資的高額報酬。一心期待賺大錢的李某某,最終等來的卻是國家安全機關對其的審查。
  報道指出,近年來,臺灣間諜情報機關,以互聯網爲主渠道,採取關口前移的方式,在我重點院校物色、策反、發展在校大學生,並立足長遠,引導指揮被策反人員向我重要軍工領域鑽深爬高,如不及時採取破案措施,勢必會對我核心利益造成極大的危害,長期潛在威脅難以估量。案件的及時破獲拔除了臺諜擬安插在我重要軍工企業的“釘子”,消除了涉我國防軍工安全的重大隱患。
  9月17日,《華商報》報道的4起案例中,也有涉及軍工企業。
  1971年出生的周偉(化名)是陝西閻良某軍工單位職工,負責一些軍用裝備的裝配工作,案發前已經在該單位工作了20多年。
  2015年8月中旬的一個週六,周偉到單位加班,中午休息時覺得無聊,便用微信搜索“附近的人”,發現附近200米左右有一名名爲“羽晴”的女網友,微信頭像很漂亮,周偉以爲是工廠裏的同事便添加了對方,並和對方聊天。羽晴稱,她是廈門人,今年28歲,當時正在閻良出差做市場調研,兩三天後就會回福建。
  第一次聊天期間,羽晴詢問周偉的姓名、工作單位、具體崗位等信息,周偉如實回答了對方。得知周偉的工作內容後,羽晴表現得很崇拜,也很感興趣,便進一步詢問當時周偉正在做什麼工作。周偉感覺到自己的工作好像非常吸引對方,出於炫耀,便告訴對方自己正在從事飛機某部件的裝配工作,對方提出想看看他的工作場景,周偉便拍了一張某部件的照片發送給對方。對方表示對周偉的工作很讚許,這讓他心裏非常受用。
  報道稱,經過一段時間交流,周偉發現對方對其個人好像並不是太感興趣,反而一直詢問他工作方面的事情,懷疑對方像間諜人員,跟自己聊天好像有特殊的目的,於是周偉將羽晴從微信好友中刪除。可過了幾天,羽晴又主動添加周偉。周偉質疑對方是間諜,羽晴表示她不是間諜,她只是對周偉的工作很感興趣,他們聊的內容根本沒有什麼價值。在羽晴的安撫下,周偉再次相信了對方,雙方再次建立起了聯繫。
  2015年9月,周偉被臨時抽調對某軍用飛機進行改裝工作期間,羽晴多次聯繫周偉並詢問該飛機的數量、新老型號的區別、裝備變化等信息,周偉都如實地告訴了對方。同年9月底、10月初,羽晴還詢問了其他機型的數量、裝配等信息,周偉也都告訴了對方。
  辦案人員表示,周偉知道他的工作是涉密的,羽晴過度關注其工作內容以及頻繁追問軍事設備的具體信息,讓周偉對羽晴的身份產生了懷疑,但羽晴堅持自己是做市場調研工作的,周偉在對方的誘惑下抱有僥倖心理,認爲就是與對方隨便聊聊天,應該不會泄密,便逐漸放鬆了警惕。

◆早前案例不在少數
  央視新聞客戶端9月15日消息指出,臺灣間諜情報機關瞄準大陸赴臺青年學生羣體,利用兩岸擴大交流交往的有利條件,組織安插大批間諜情報人員在島內高校活動,以各種掩護名義哄騙利誘赴臺學生,利用學生從事間諜情報活動,性質極爲惡劣。
除了近期曝光多起針對大陸赴臺學生的間諜案以外,澎湃新聞梳理髮現,被臺灣間諜機關滲透、引誘、策反的案例不在少數。
  據《法制時報》2017年4月17日的報道稱,2014年8月,海南某縣19歲男子輟學打工後,在五指山市一家網吧上網,一網名叫“風騷小女人”的人申請加他爲好友,並附信息:“你想發財嗎?有份好工作等着你”。
  李某某隨即將對方加爲好友並聊起來。後來,李某某用“老闆”匯來的錢購置數碼相機和摩托車,發展海南某縣中學高二、高三級學生王某、劉某、陳某、洪某4人爲下線,按“老闆”的要求對我國某軍用機場飛機和設施進行偷拍,至2014年底,前後多次通過互聯網給“老闆”傳送相關照片數百張,得到境外匯來的報酬。2015年1月,國家安全機關偵破此案,李某某受到法律懲處。
  報道的另一案例披露,王某大學畢業後,到三亞一家環境科技公司工作。2014年10月,王某在招聘網站發帖尋求兼職,很快有人給他發來招聘信息,對方自稱是“海軍某裝備雜誌社”人員,要招觀測員,觀測報送三亞軍港艦船進出情況。對方聲稱收集這些情況只用於艦船研究,如接受這一工作,除薪酬外公司還將支付觀測點的租金。王某按對方的要求,在軍港附近租房,購置望遠鏡,對軍港進行觀測,先後多次用對方規定的暗語,將各類軍艦和工程船隻進出軍港的情況,通過手機發給對方。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「探访海南“万人坑”遗址 亲历者讲述日军暴行」

2017年12月08日 | 海南島
http://hi.people.com.cn/n/2015/0830/c231190-26175335.html
「人民网海南视窗」2015年08月30日08:20 来源:中国新闻网
■探访海南“万人坑”遗址 亲历者讲述日军暴行    黄艺 王晓斌
【解说】位于海南省东方市八所港南边的“日军侵琼八所死难劳工遗址”是70多年前日本侵略者累累罪行的铁证,近日,记者探访该遗址,倾听亲历者讲述那段血雨腥风的历史。
  “日军侵琼八所死难劳工遗址”占地约80亩,破败的劳工监狱立在黄沙土上,附近“侵华日军侵琼八所死难劳工纪念碑”正在建设中。海南省东方市文物管理所所长秦巍介绍。1939年秋至1942年底,为掠夺海南昌江石碌铁矿的矿产资源,日本侵略者强征、诱骗、押解中国劳工和多国战俘,修建八所港和铁路。工程结束时,3万多人被折磨致死。这些惨遭迫害的劳工被日军埋在八所港旁的荒滩上,被称“万人坑”。

【同期】(海南省东方市文物管理所所长 秦巍)
  当时是采用欺骗还有强征的形式,从中国的东北、青岛、江苏的南京、句容县、还有上海、厦门、汕头、湛江、广州等地,强征诱骗了很多劳工,大概有3万多。到了1941年之后,太平洋战争发生之后又把一些在太平洋战场上俘虏的澳大利亚、英国、荷兰、印度加拿大等国的几千名战俘,一起押解来这里。

【解说】海南东方市八所村91岁的张老桃老人是那段历史的见证者,当年十几岁的她曾给侵华日军做工,负责挑水、搬砖。回想起70多年前日军将劳工推进万人坑烧死的一幕,张老桃仍心有余悸。

【同期】(亲历者 张老桃)
  拿来烧,不死的就跳出来,跳出来就再抓进去,残忍,真的是。

【解说】据东方市文物管理所、东方市铁路博物馆的资料记载,1940年至1943年间,日军在海南西部修建了全长240.9公里的铁路,连接矿山与港口,疯狂掠夺铁矿资源。仅在八所潭这片荒凉的沙滩上建沙岸人工港的劳工就有两万多名,这些劳工遭遇日军的残酷迫害,绝大多数累死、病死、饿死、或被杀死,工程结束时,仅剩1960余人。加上建设铁路死难运入“万人坑”内埋葬的劳工,逾3万多名劳工的尸骨埋满了这个被称为“万人坑”的整片沙丘。据了解,东方市政府计划在万人坑所在地建设罹难劳工纪念园,警醒后人牢记历史,勿忘国耻。


http://finance.chinanews.com/shipin/2015/08-15/news591619.shtml
「中新网 视频」2015年8月15日 22:28 来源:中国新闻网
■日本侵华时期制造的最大“万人坑”遗址修缮完毕对外开放
【解说】经过近一年的修缮,由日本侵华时期制造的最大“万人坑”遗址——阜新万人坑遗址,于8月15日修缮后重新开放。
  当日,辽宁地区各界逾千名人士相聚于修缮后重新开放的阜新万人坑纪念碑广场,对惨遭日军屠杀的同胞进行公祭并举行了重新改造后的阜新万人坑纪念馆的开幕仪式。上午10时许,公祭活动正式开始,人们通过朗诵祭文、敬献花圈等方式缅怀死难同胞。现场沉浸在一片悲哀当中。
  与大多数参加此次公祭的人们不同,已经有80岁高龄的高多贤老人是一名矿工幸存者的家属,其父亲曾在阜新万人坑附近的矿场上遭受了一般的奴役。

【同期】阜新被日本奴役矿工家属高多贤:
  大部分都是累死的多,累死的,吃不好穿不好,吃不好,住不好,劳动时间又长,他(高多贤父亲)一看这坑里面啊,天天往里埋人,天天往里扔人,特别野狗还非常多,一群一群的,把那尸体啊,特别是冬天,扯得乱七八糟。

【解说】此次重新修缮的阜新万人坑遗址新增了万人坑遗址陈列馆,该馆是全面展示日本侵略者掠夺阜新煤炭资源,造成大量矿工死亡的罪恶史、矿工的屈辱史及反抗史的综合展览馆。

【同期】阜新市博物馆馆长胡健
  万人坑遗址陈列馆,这个遗址陈列馆它的主要功能啊,就是收集或者整理,大量的文献资料和文物资料,通过这些文物资料和文献资料,来佐证当时日本侵华期间,对阜新劳工迫害的这样一些个史实。那么对于这个残害劳工也是一个佐证,目前我们整个展览工作已经布置完毕。

【解说】据了解,此次阜新万人坑遗址的修缮,其重点在于遗骸的保护管理上。目前阜新万人坑遗址上的出土遗骸都得到了妥善的保护。

【同期】阜新万人坑死难矿工纪念馆馆长张宝石
  我们这个遗骨,保存的非常完好,它的形态保持的非常好,它的面部有表情,肢体有语言,仿佛让人们能看到能听到,它们在呼喊,它们在呐喊。

【解说】据了解,在阜新地区共有4处“万人坑”,总占地面积达50多万平方米,所埋葬的死难矿工约10万人。目前仅有最大的一处埋有7万遗骸的“孙家湾万人坑”被较为完整的保留下来,并被建成阜新万人坑纪念馆,它也是目前在中国境内最大保存最完整的一处由日本侵华时期造成的“万人坑”。2014年,阜新万人坑进行了修缮,于2015年8月15日重新开放。


http://hi.people.com.cn/n2/2017/0731/c231187-30552481.html
「人民网」2017年07月31日22:08 来源:中国新闻网
■文物局拟规定观众参观万人坑等纪念地时应衣冠整齐
  据国家文物局网站消息,国家文物局在相关课题研究基础上拟订了《抗战文物保护利用导则(征求意见稿)》,现征求各省、自治区、直辖市文物局(文化厅)意见。意见稿适用于抗战文物的认定、保护和利用。意见稿指出,参观抗战文物特别是抗日英烈墓地、万人坑、大屠杀、细菌战、大轰炸、无人区或相关纪念地时,应衣冠整齐,庄严肃穆,禁止大声喧哗和打闹嬉戏。

  意见稿指出,各地文物部门应在组织详实调查和专家评估的基础上,将重要的抗战史迹认定为文物。并根据文物价值,报请各级人民政府核定公布为相应级别的文物保护单位。
  意见稿指出,下列抗战史迹可以认定为文物:
    (一)抗战有关重要事件发生地,重要战场的遗址史迹及战时重要纪念性建筑。
    (二)见证抗战历史的重要建筑物、构筑物,抗战期间各级抗战组织和著名人物从事抗战
     相关活动的场所和居所,抗日英烈墓葬。
    (三)反映日本侵略者经济掠夺、残暴统治和反人类罪行的重要遗址史迹。
    (四)战时重要土木工程及军事工事;与抗战具有明显关联的市政建设和基本建设遗存。
    (五)其他国家、国际组织或人士在第二次世界大战期间于中国境内进行反法西斯战争
     及相关活动的重要遗址史迹。
    (六)其他具有重要意义的抗战史迹及相关纪念设施。
  意见稿指出,体量巨大的战场遗址、抗战公路、抗战航线、工矿企业等相关遗存,以及因事件、生产等形成的具有紧密内在关联性的抗战文物群组,可以认定为包含多个文物点的一处文物。
  意见稿指出,具有重要价值但主体不存或遗存稀少的露天战迹地、事件发生地、烈士殉难地、日军暴行地、集团、抗联密营(址)等抗战遗址史迹,应依据详实的历史记载、深入的现场勘查和亲历者的口述史料等综合评估和认定。抗战史迹和环境特征物证已全部消失的,不宜认定为文物,但应设立说明牌进行标识。
  意见稿指出,与抗战有关的文物如果具有多方面的历史、艺术、科学价值,且其他方面的价值更为突出的,可认定为其他类型的文物,在其文物档案和对外展示中应体现与抗战有关的内容。
  意见稿也指出,著名抗战人物的出生地(故居)和抗战期间的居所,应根据其与抗战的关联性确定是否为抗战文物;抗战期间建立、已经迁址的抗战烈士殉国纪念地、烈士墓、抗战纪念设施等,其原址可视同为抗战文物。
  意见稿指出,抗战文物的保护,以不改变文物原状为原则,以真实、完整地存续抗战历史信息及其价值为目的。
  意见稿指出,万人坑、惨案遗址、日军实施人体试验和细菌战场所等侵华日军反人类罪行遗址,应在科学、规范的考古调查和适当的发掘基础上进行保护。对发现的遗骨、遗物等进行严格的科学技术鉴定,确保证据效力。对遗骨、遗物的保护应有利于证据效力的持久存续。
  意见稿指出,抗战文物的利用应坚持社会效益优先的原则,充分发挥抗战文物印证历史、缅怀英烈、警示后人、教育人民、服务大局的作用。
  意见稿还指出,国有抗战文物应尽可能向公众开放,有条件的地方可以依托抗战遗址史迹建成遗址公园或专题博物馆、纪念馆等对公众开放的场所。
  意见稿提到,万人坑、大屠杀、细菌战、无人区、惨案遗址等,利用方式应以教育功能为主,不宜用作其他利用方式。
  意见稿指出,规范和加强观众参观的引导工作,参观抗战文物特别是抗日英烈墓地、万人坑、大屠杀、细菌战、大轰炸、无人区或相关纪念地时,应衣冠整齐,庄严肃穆,禁止大声喧哗和打闹嬉戏。
  意见稿最后提出,各级文物部门应组织开展对抗战文物的定期巡查、动态监测和评估,发现保护利用问题的,应及时整改,并接受社会监督。对因建设破坏、自然侵蚀、保护利用不当而导致抗战文物严重损毁或灭失的,应依法依规予以处理。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「蔡美娥:不随叫随到就杀她全家」

2016年05月14日 | 海南島
http://news.qq.com/original/survivor/s10.html
「腾讯网」2015-05-29  作者:李晓方
■蔡美娥:不随叫随到就杀她全家
  蔡美娥,生于1927年,海南省琼海市龙江镇红星大队红森村人。14岁那年嫁人当童养媳。15岁被日军绑到石壁镇的炮楼里。一个日本小队长对她拳打脚踢,还用两只手拽着她的耳朵把她给提起来。趁蔡美娥昏死过去,霸占了她。此后,她白天给日军修路,晚上陪队长睡觉。一个星期后,队长就把她让给了那些日本兵,有时整整一夜都被他们糟蹋。
  公路修好了,日本兵就把蔡美娥放回五里路以外的家。但日本队长把她和村长叫来,让她必须随时为他们服务,随叫随到,如不听话就杀了她全家,并叫村长立下字据。过去的梦魇使蔡美娥变为一个沉默寡言的老人。
  直到17岁那年,日军换防,才不叫她了。而那时,蔡美娥已经被折磨得骨瘦如柴,终身不能生育,落下一身病。如今她的老伴已经去世,她跟养女一起生活。养女和家人工作都很忙,老人主动承担起了家务。

【幸存者自述】
  我是一个可怜的孩子,刚13岁母亲就去世了,父亲身体不好,养不活我们姐妹兄弟,就把我送给我舅舅去养。14岁那年我就嫁了人家当童养媳。1941年日本兵过来后,我的命就更苦了。15岁那年的一天,日本兵到了我们的村子,把有劳动能力的人都抓去修路,我也被日本兵绑到石壁镇的炮楼里。炮楼里住着十几个日本兵,我被关在了炮楼里。一个日本小队长进来了,他上来就扒我的衣服,我不从,他就用脚踢我,用拳头打我,还用两只手拽着我的耳朵把我给提了起来。我咬着牙,忍着痛,就是不从。小队长非常生气,就叫人反绑着我的双手吊在树上。小队长拿着指挥刀在我的脖子上划了一条血口子,顿时,红红的血就流了出来,我当时就吓得昏死了过去。
  我干净的身子给他霸占了。后来,我白天给他们修路,晚上就陪队长睡觉。一个星期后,队长就把我让给了那些日本兵,有时我整整一夜都被他们糟蹋。
  公路修好了,他们就把我放回五里路以外的家。但日本队长把我和村长叫来,告诉我们,让我必须随时为他们服务,必须随叫随到,如不听话就杀了我全家,并叫村长立下字据。
  他们几乎每个星期都通过村长叫我到炮楼里供他们淫乐。我感到无脸做人,多次想自杀。但我想假如我死了,他们肯定会对我的家人下毒手,只有顺从他们。记得当时,村里和我同样遭遇的妇女有五人。
  直到17岁那年,他们换防了,才不叫我了。而那时,我已经被他们折磨得骨瘦如柴,终身不能生育,落下一身病。我的老伴已经去世了,现在我跟养女一起生活。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「海南104岁黎族“慰安妇”受害者黄珍妹去世」

2016年02月16日 | 海南島
http://www.chinanews.com/sh/2016/02-10/7753573.shtml
「中国新闻网」2016年2月10日 22:24 
■海南104岁黎族“慰安妇”受害者黄珍妹去世

【相片】海南104岁黎族“慰安妇”受害者黄珍妹去世 海南“慰安妇”受害者、黎族阿婆黄珍妹2月7日在家中逝世,享年104岁。10日,家人为老人出殡。黄珍妹阿婆家住保亭黎族苗族自治县什保村。1940年3月中旬,28岁的黄珍妹与其他女子被日本兵抓去充当性奴隶,在日军的慰安所中遭受折磨近一年时间。1941年,她逃离魔窟与亲人团聚。&

  中新社海南保亭2月10日电 (记者 张茜翼) 海南“慰安妇”受害者、黎族阿婆黄珍妹2月7日在家中逝世,享年104岁。10日,家人为老人出殡。
  黄珍妹阿婆家住保亭黎族苗族自治县大保村。黄阿婆育有一女,生前老人和女儿黄月美居住在一起。老人是“慰安妇”受害者,身体状况一直欠佳。
  中国“慰安妇”问题研究中心特约调查员、多年在海南保亭做“慰安妇”调查的志愿者陈厚志不定期过来看望黄珍妹老人。陈厚志介绍,1940年3月中旬,28岁的黄珍妹与其他女子被日本兵抓去充当性奴隶,在日军的慰安所中遭受折磨近一年时间。之后,她逃离魔窟与亲人团聚。
  陈厚志说,老人十分勤劳,很少闲下来,前几年还自己做饭洗衣,甚至还去田里割猪草。由于年事已高,她的身体每况愈下,腿部、腰部、头部也经常发病,在大多数时间里,她很少外出走动。
  “当年遭受日军侵害的‘慰安妇’大多病痛缠身,晚景凄凉。”陈厚志言语中难掩悲痛之情,“目前在保亭黎族苗族自治县和陵水黎族自治县,还剩下不到10位‘慰安妇’事件受害幸存者。”
  上海师范大学中国“慰安妇”问题研究中心主任苏智良告诉记者,目前全国还有20余位“慰安妇”老人。从2000年以来,该中心开始对全国的“慰安妇”老人进行资助。今年春节前,该中心组织爱心团队前来保亭看望黄珍妹老人并对其进行资助。(完)


http://hnrb.hinews.cn/html/2016-02/12/content_2_10.htm
『海南日报』 2016年2月12日
■保亭104岁黎族“慰安妇”黄珍妹离世
 目前海南在世的“慰安妇”受害者还有8人
  本报保城2月11日电 (记者易建阳)保亭黎族苗族自治县“二战受害妇女幸存者”(也称“慰安妇”)、黎族阿婆黄珍妹春节期间在家中逝世,享年104岁。昨日,老人的家属以及亲朋好友为老人出殡。据悉,目前海南在世的“慰安妇”事件受害者还有8人。
  据了解,黄珍妹生于1912年,家住保亭县大保村,她育有一女,丈夫患病于1993年去世,老人生前和女儿黄月美居住在一起。老人是“慰安妇”事件受害者,身体状况一直欠佳。
  据黄珍妹老人生前讲述,1940年3月中旬,日军侵占保亭后,28岁的她与其他女子被日本兵抓去充当性奴隶,在日军的慰安所中遭受折磨近一年时间。日本人白天放她们出去干活,旁边派人看管,看到哪个不顺眼的就往死里毒打。晚上把她们带回据点里,受尽的折磨和凌辱。之后,她乘天日本人换岗不注意,摸出据点拼命往山上跑,逃离魔窟与亲人团聚。
  中国“慰安妇”问题研究中心特约调查员、多年在海南做“慰安妇”调查的志愿者陈厚志不定期过来看望黄珍妹老人。他告诉记者,黄珍妹老人十分勤劳,很少闲下来,前几年还自己做饭洗衣,甚至还去田里割猪草。由于年事已高,她的身体每况愈下,腿部、腰部、头部也经常发病,在大多数时间里,她很少外出走动。
  “当年遭受日军侵害的‘慰安妇’,大多病痛缠身,晚年过得比较凄凉。从2000年以来,国内一些公益机构对这些老人进行了救助,在生活上给予关照。”陈厚志说,“目前全国还有20余位‘慰安妇’事件受害幸存者在世,其中海南还有8位。”
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする