三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「所山の外人墓地」

2009年09月14日 | 紀州鉱山
■紀和町教育委員会が1997年に発行した『紀和町史跡めぐり』には、紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」について、「所山の外人墓地」と題して、つぎのように説明されています(原文は「元号」使用)。
 主体が不明瞭な文章で、「1945年8月末終戦と同時に解散するまでの1ヶ月間に16人死亡」と書かれ、作業中に頭蓋骨骨折で即死した人がいたことなどが隠されています。


所山の外人墓地(板屋より1.0㎞)
 1944年6月18日、軍当局からマレーで捕虜となった英兵300人が配置され、軍の監視のもとに、板屋選鉱場の裏側、所山に収容所をつくった。この大半は坑内作業にふりあて、一部選鉱場や農地の開墾等に従事させましたが、これらの捕虜は、日本軍に降伏したという立場とイギリス人の教養と自尊心もともない、仕事ぶりもなかなか能率的であり収容所内の生活も紳士的であった。しかし、異国に捕らわれの身となった心境のさみしさと不安に加え、戦地にての罹病が原因となって、1945年8月末終戦と同時に解散するまでの1ヶ月間に16人死亡し、本国への帰還者は284人であった。当時の収容所跡に建てられたのが、十字架の墓標で、「神のより偉大なる栄光の下に、1941~1945年の戦争中、ここ板屋、あるいはその付近にて逝去せる、英国軍兵士を追憶して」と刻まれている。1992年9月亡き戦友の墓参のため47年振りに来日している。  (1965年2月1日 町指定文化財)
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説明文案2

2009年09月13日 | 紀州鉱山
■9月6日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会第2回集会で検討された説明文案2は、つぎのとおりです。
 来年3月28日に除幕する追悼碑のそばに、2枚の説明板を置こうと計画しています。これは2枚目の説明板の案文です。


 紀州鉱山と石原産業四日市工場への朝鮮人強制連行

 紀州鉱山で、朝鮮人が働かされていました。紀州鉱山は、1934年7月に石原産業が経営をはじめた銅鉱山でした。石原産業は、1938年10月に、紀州鉱山の銅鉱石精錬をおこなうために四日市に精錬工場を建設しました。この四日市工場でもおおくの朝鮮人が働かされました。
 朝鮮人のおおくは、故郷の村や町から連行されてきた人びとでした。
 1939年2月に、日本軍が海南島に侵入すると、石原産業は、海南島南部の田独鉄山の鉱石を日本海軍とともに奪い、奪った鉄鉱石を日本八幡製鉄所に送りました。
 1939年7月に日本政府は、「朝鮮人労働者募集要綱」を決め、「募集」方式の朝鮮人強制連行を開始しました。
 1940年から、三重県は「朝鮮人労働者募集要綱」にもとづき、1939年度に200人、1940年度に300人の朝鮮人を紀州鉱山に連行することを承認しました。
 その後、日本敗戦まで、石原産業は、紀州鉱山と四日市工場に、朝鮮人を強制連行し、強制労働させました。
 その間、1941年5月24日には、紀州鉱山の朝鮮人労働者130人が、米穀の増配を要求してストライキをおこなったこともありました。
 日本軍のフィリピン占領後、1942年に石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山の鉄鉱石、アンチケ鉱山の銅鉱石、ピラカピス鉱山銅鉱石などの略奪を始めました。
 この年2月、日本政府は、「朝鮮人労務者活用に関する方策」を閣議決定し、「官斡旋」形式の強制連行を開始しました。
 この年9月、アンチケ銅山にトラックで向かう石原産業の従業員24人が抗日ゲリラ部隊に攻撃され、石原産業社長石原廣一郎が日本軍に空爆を依頼し、日本陸軍航空隊が爆撃をおこないました。
 1943年に日本軍がボルネオ島占領すると、石原産業は、ボルネオのラウト炭鉱の石炭掠奪を開始しました。
 1944年7月に、紀州鉱山板屋の朝鮮人宿舎「八紘寮」で、朝鮮人労働者143人が病人への待遇改善を要求してたたかい、「送局」された8人全員が、8月15日に木本区裁判所で懲役8か月などの有罪判決を受けました。
 この年9月、日本政府は「半島人労務者ノ移入ニ関スル件」を閣議決定し、「徴用」という形式での朝鮮人強制連行を開始しました。
 この年の秋、紀州鉱山の坑道の入口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられていたといいます(許圭氏証言)。
 1944年12月末で、三重県に住む朝鮮人は25160人で、そのうち鵜殿警察署管内の朝鮮人は2288人であったといいます(1945年4月付三重県『知事引継書』の「朝鮮人及外国人ノ取締状況」の項。ここには、1944年末までの「国民動員計画二依ル移入朝鮮人労務者」の数は、紀州鉱山では1225人で、そのうち「逃走者」376人、「不良送還者」76人、帰国者302人、現在員471人であり、四日市工場では178人で、そのうち、「逃走者」20人、「不良送還者」3人、現在員155人であると書かれています)。
 1945年8月14日、日本敗戦。
 1945年11月20日、紀州鉱山の朝鮮人労働者、帰国を求めて争議(大林日出雄・西川洋『三重県の百年』(山川出版社、1993年)に、1945年11月20日に紀州鉱山で朝鮮人労働者約760人が帰国費用や食料を要求して決起し、要求を貫徹し、家族をふくめ約1300人が12月18日までに帰国したと書かれています。石原産業が1946年9月に三重県内務部に提出した報告書には、12月24日に、紀州鉱山から朝鮮人324人が帰国したと書かれています)。
 紀州鉱山は鉱毒を流しつづけ、1978年5月に閉山しました。1995年4月に、紀和町は、石原産業が提供した紀州鉱山事務所の跡地に鉱山資料館を設立しました。その資料館は、いま熊野市が管理していますが、そこには、紀州鉱山における朝鮮人強制連行・強制労働の事実を伝える資料がまったく展示されていないだけでなく、紀州鉱山でおおくの朝鮮人が働いていたという事実すら、入館者がはっきり知ることができるような展示がなされていません。
 紀和町は、1993年3月に紀和町史編さん委員会編『紀和町史』下巻を発行しましたが、ここにも紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実はほとんど書かれていません。
 紀州鉱山で朝鮮人労働者が何人働き、その家族が紀和町に何人すんでいたかも、いまなお、熊野市も石原産業も明らかにしようとしていません。

  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
  2010年3月
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碑文案・説明文案1

2009年09月12日 | 紀州鉱山
■9月6日の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会第2回集会で検討された碑文案と説明文案1は、つぎのとおりです。


碑文案

 朝鮮の故郷から引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。
 家族とともに紀州鉱山に来て亡くなった幼い子たち。
 わたしたちは、生きて故郷に帰ることができなかったみなさんを想い、なぜ、
みなさんが、ここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史
的責任を追究していきます。

  2010年3月
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会


 조선의 고향에서부터 갈라 놓아 기슈광산에서 일하게 되어 돌아가신 분들.
 가족과 함께 기슈광산에 와서 죽은 어린 아이들.
 우리는 살아서 고향으로 돌아가지 못했던 여러분을 생각하면서 왜 여러분이
여기서 목슴을 잃지 않았으면 안되었던가를 밝히고 그 역사적 책임을 추궁해
나갈 것입니다.

  2010년3월
  기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 비석을 건립하는 회


説明文案1

 紀州鉱山・田独鉱山・カランバヤンガン鉱山……
 1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山で働いていた朝鮮人がいました。
 紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍によって強制連行された人たちでした。田独鉱山で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
 紀州鉱山で朝鮮人労働者130人は、1941年5月、米穀の増配を要求してストライキをおこないました。1944年秋には、紀州鉱山の坑口に、「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と、カンテラの火で焼きつけられてあったといいます。
 1942年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、日本軍と戦って「捕虜」とされた人を含む多くのフィリピン人を強制的に働かせました。

 わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、そして海南島の田独鉱山で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。

  2010年3月
  紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会
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熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について

2009年09月11日 | 紀州鉱山
■きょう(9月11日)、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は熊野市の市長と教育長に、つぎのような質問をおこないました。


熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について
2009年9月11日
熊 野 市 長 河上敢二 さま
熊野市教育長 杉松道之 さま
                          紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会

 2008年7月18日に、熊野市長と熊野市教育長は、「「紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼碑建立にかんする要望書」に対する回答について」と題する熊教第725号で、熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」にかんしてつぎのように述べていました(原文の「元号」使用年を普通暦年に訂正)。

1) 「史跡外人墓地」については、石原産業株式会社の所有地であった際に作られ、1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて土地の寄贈を受けたものであり、旧紀和町が墓地の為に用地を提供したものではありません。
2) 「史跡外人墓地」の文化財指定については、1965年2月1日に当時の紀和町の文化財として指定しており、2005年11月1日の旧熊野市と旧紀和町の合併により新熊野市に継承されております。なお、合併後の文化財専門委員会において「外人墓地」から「英国人墓地」に名称を変更しております。
3) 「史跡外人墓地 紀和町指定文化財」の碑につきましては、旧紀和町で建てたものではなく、費用も支出しておりません。
4) 「町指定文化財 英国兵士墓地 LITTLE BRITAIN 紀南国際交流会」と書かれた看板の用地につきましては、熊野市の所有地ではありません。国土交通省の土地であります。

質問1 
   この「回答」で、河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長は、
     「「史跡外人墓地」については、石原産業株式会社の所有地であった際に作られ、1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて土地の寄贈を受けたものであり、旧紀和町が墓地の為に用地を提供したものではありません。(原文は「元号」使用)」
と述べていますが、「史跡外人墓地」は、いつ誰がつくったのですか。
質問2
   河上敢二熊野市長と杉松道之熊野市教育長は、「1987年5月30日付けで旧紀和町が墓地を含めて土地の寄贈を受けた……」と述べていますが、1987年5月30日付けで旧紀和町が寄贈を受けた「史跡外人墓地」は、石原産業株式会社の所有地であった際に作られたという「史跡外人墓地」と同一のものなのですか。
質問3
   「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題された碑には、「1987年6月吉日」という日付で紀和町教育委員会の碑文が書かれています。
   「1987年6月吉日」とは、具体的には何日なのですか。
質問4
   紀和町が、1965年2月1日に「外人墓地」を紀和町の文化財に指定した理由を示してください。
質問5
   熊野市文化財専門委員会が、「外人墓地」から「英国人墓地」に名称を変更した日と理由を示してください。
質問6
   現在熊野市紀和町にある「英国人墓地」は、「墓地、埋葬等に関する法律」にもとづく「墓地」なのですか。
質問7
   「墓地、埋葬等に関する法律」にもとづく「墓地」であるならば、「墓地」として三重県知事の許可をうけたのは、いつなのですか。
質問8
   「墓地、埋葬等に関する法律」にもとづく「墓地」でないならば、「英国人墓地」としているのはどうしてですか。
   「墓地」とした経緯や根拠を示してください。
質問9
   「史跡 英国人墓地」にイギリス兵の遺骨は埋葬されていますか。

   9月30日までに回答してください。
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「追悼碑除幕 来年3月 紀州鉱山」

2009年09月07日 | 紀州鉱山
■以下は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会第2回集会を報道する、9月7日の『朝日新聞』(三重版)の記事です。


追悼碑除幕 来年3月 紀州鉱山

 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の集会が6日、津市桜橋2丁目の県教育文化会館であった。県内外から45人が参加。熊野市で来年3月に追悼碑の除幕式をすることが報告され、史跡「英国人墓地」に朝鮮人の遺骨が埋葬されている可能性があることについても話し合った。

 同会によると、熊野市紀和町板屋にあった紀州鉱山では40~45年、千人以上の朝鮮人が強制労働させられ、32人の朝鮮人が亡くなったことが確認されているという

 同会は08年8月、「在日本大韓民国民団県地方本部」「在日本朝鮮人総連合会県本部」「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の3団体で発足。同市に紀州鉱山跡地の提供を求めたが拒否されて今年7月、熊野市紀和町鉱山資料館近くの土地約200平方メートルを買い上げた。来年3月28日に除幕式を開く予定で、集会では碑文の内容を検討した。

 また、市指定文化財「史跡英国人墓地」についても議論。熊野市と紀和町が05年に合併した際、史跡の名前を「外人墓地」から「英国人墓地」に変更したことや、集会に招かれた「戦争捕虜研究会」のメンバーの女性が、紀州鉱山で働いていた男性から「外人墓地の近くに朝鮮人を埋葬した」との証言を得たことが報告された。建立する会の竹本昇さんは「仮に朝鮮人の骨があるのなら、(強制労働で朝鮮人が亡くなったという)歴史の事実が隠されていることになる」と憤った。熊野市に公開質問状を送ることも検討している。
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1910年に東アジアで、なにがあったか

2009年09月01日 | 個人史・地域史・世界史
■以下は、「〈天皇即位20年奉祝〉に異議あり! え~かげんにせーよ共同行動」のニュース「Anti20」第4号掲載の文章です。


 1910年8月13日の『大阪毎日新聞』4頁に「賊徒討伐状況」と題する記事が掲載された。その全文は、つぎのとおりである。

   「各地賊徒の報告を一括するに平安南道には蔡応彦の部下各地を横行して民衆を襲ひ金品を掠奪し或は家を焼き良民を殺傷すること屡々にて江原分遣所憲兵は七日賊魁呉正泰の率うる二十余の暴徒と衝突し之を潰走せしめ咸鏡道を横行せし賊徒金治復は部下一名と共に守備隊に捕縛せられ又江原道にては憲兵隊は暴徒三十名と衝突し之を撃退せり」。

 1910年8月26日の『大阪朝日新聞』2頁に「韓国匪魁死刑(門司)」と題する記事が掲載された。その全文は、つぎのとおりである。

   「全羅南道に起りし暴徒の巨魁及び其の部下を合せ約二千名を逮捕し取調べたる結果罪となりしもの四百名内百名死刑に処し三百名を監獄に投じ之にて地方の平静を保つに至りしが其の總大将たる金海山は鎮南一、安桂甫等と相応じて暴挙を企てたるものなるが遂に服罪し先月大邱にて死刑の執行を受け従容死に就き又鎮南一は今より二箇月前死刑に処せられ安桂甫のみは尚獄中に在るも是亦近く処刑せらるべきものにて驕慢なる彼は我が法官に対し無礼の言を為し「何ぞ犬の如きものの裁判宣告を聴かんや」と豪語せり此等巨魁は地方愚民を籠絡するの手段として朝令密詔及び義軍七条なるものを作りて所持し居れり此の密詔は太皇帝のものにて去る乙巳(1905年)の十一月二十二日の日附あるが真疑固より判別すべからずと全羅同全州より京城に入り二十五日着関したる検事村上清氏は語れり」(金海山は全海山、鎮南一は沈南一、安桂甫は安圭洪の誤記)。

 この報道の4日前、8月22日に、ソウルで「韓国併合ニ関スル条約」が調印されていた。
 7月12日の『大韓毎日申報』は、「義将処刑 大邱郡控訴院において去る九日に義兵将全海山に判決をくだしたということは既報したが、後報によれば死刑に処したという」と報道していた。
  『大韓毎日申報』は、8月28日に「合併条約成立の詳報」を掲載したあと、8月29日に休刊し、8月30日から、「大韓」を削除され『毎日申報』と改題され、発行年を「熙4年」から日本の元号使用年に変えられ、朝鮮総督府の機関紙として発行されはじめた。

 全海山(1879年生)、沈南一(1871年生)、安圭洪(1879年生)ら100人が、朝鮮で「処刑」されていたころ、日本では、5月25日に宮下太吉(1875年生)が爆発物製造容疑で逮捕され、6月1日に幸徳秋水(1871年生)が逮捕され、大規模フレームアップ弾圧(“大逆事件”)が開始されていた。

 大韓帝国が日本の植民地(「保護国」)とされ、日本軍占領下で内政権・財政権・外交権を侵害されたのは、1905年11月17日であった(「乙巳保護条約」調印)。
 1906年から朝鮮民衆は、義兵軍を組織し、独立戦争を開始した。1907年8月1日に日本政府が大韓帝国軍を解散させたとき、大韓帝国軍の兵士のおおくが義兵軍に参加した。
 この抗日反日闘争は、1912年ころまで続けられた。朝鮮植民地化に抗する朝鮮民衆の武装闘争を弾圧しようとする日本軍は、朝鮮各地で、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し、村人を殺害し、家を焼いた。
 朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』(1913年)には、1906年から1911年までの間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人であったと書かれている。
 1910年夏の、大日本帝国による大韓帝国「併合」は、圧倒的大量の日本軍が朝鮮各地で日本侵略を阻止しようとする朝鮮民衆の戦いをおしつぶそうとして住民虐殺をふくむ犯罪をくりかえしているさなかにおこなわれた。
 同じころ、台湾各地でも、台湾民衆は、日本の占領に抗して、戦いつづけていた。1904年に創刊された『大韓毎日申報』にも、継続的に、しばしば、台湾における抗日闘争とそれに対抗する日本軍の暴虐行為が報道されている。

 1873年1月に日本政府は「徴兵令」を施行し、その翌年、1874年5月に、陸海軍3千数百人の日本兵を台湾に侵入させた。台湾における抗日武装闘争は、1874年の闘争を前史として、1895年6月に開始された。朝鮮における抗日武装闘争は、1894年に開始された。
 1874年いらいの台湾と朝鮮における抗日武装闘争とそれを弾圧しようとする日本軍の残虐行為は、日本の新聞でも、いくらかは報道された。たとえば、1874年に台湾に侵入した日本軍の暴行は、当時の『東京日日新聞』にしばしば掲載されており、最初の従軍記者岸田吟行の「報告」も掲載されていた。
 日本人は、1910年までの数十年間においても、国民国家日本のアジア各地における侵略犯罪のかかわる緒事実を、日本の新聞などによって知りうる条件下で生活していた。
 しかし、国民国家日本の侵略犯罪を自らの生き方にかかわる根本問題であると感じ考えなんらかの行動をとることができた「大日本帝国」の日本国民(「臣民」)は、ほとんどいなかった。
 120年前、1889年2月に、天皇の名で「大日本帝国憲法」が発布された。そこでは、日本人は「臣民」とされていた。天皇の「臣民」として統合された日本人は、他地域・他国侵略を続けた。
 「大日本帝国」の政治・経済・文化強化の「精神」は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する「精神」である。この「精神」の核心は、天皇制であった。
 他地域・他国に侵入して資源を奪うことは、正義に反することである。
 他地域・他国を自国の領土とすることは、正義に反することである。
 侵略に抗する他地域・他国の民衆を殺戮することは、正義に反することである。
 天皇の「臣民」は、兵士、官吏、警官、会社員、農民、漁民……として、アジア太平洋各地に侵入して、資源を奪い、土地を奪い、民衆を殺戮しつづけた。
 国民国家日本のマスメディアは、イデオローグとともに、他地域・他国侵略を扇動しつづけた。
 ヒロヒトは、自分の意志で、「臣民」によって構成された日本軍(「皇軍」)をアジア太平洋地域に侵入させ、数千万の人びとを殺させた。
 ヒロヒトは、自分の意志で、「皇軍」の兵士を太平洋各地に侵入させた。アメリカ合州国軍と日本軍の戦場とされたその地域の民衆のおおくが殺害され、日本人兵士や朝鮮人「軍属」が餓死・「戦死」した。
 1946年の「明治節」の日(11月3日)、天皇ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」とする日本国憲法が公布され、その半年後、1947年5月3日に施行され、「臣民」は、日本国民となった。
 最悪の侵略犯罪者ヒロヒトが死んでから2日後の1989年1月9日に、王位を継承したアキヒトは、ヒロヒトが60数年間「ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念」していたと公言した。そのアキヒトを、いま、日本国民は、「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」としている。1999年8月13日に、侵略の旗「ヒノマル」、天皇賛歌「キミガヨ」が、国民国家日本の「国旗」、「国歌」とされた。

 1911年1月24日に、日本の東京で、幸徳秋水、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新見卯一郎、内山愚童ら11名が、1月25日に菅野スガが「大逆罪」を適用されて殺害されたことにかんして、同時代の石川啄木などが記したコトバは残されているが、同じ時期に、朝鮮の大邱で殺害された全海山らについて、同時代の日本人が記したコトバを、わたしは知らない。
 全海山らが殺され、朝鮮が日本の領土とされ、幸徳秋水らが殺されてから、ほぼ100年。
 いま、「韓国併合」と「大逆事件」を重ねあわせて分析しようとする日本人は少なくないが、東アジアにおける抗日闘争の勝利と敗北の歴史における1910年の意味を考えようとする日本人は多くはないようである。

 1869年のアイヌモシリ植民地化、1872年の琉球王国植民地化、1895年の台湾植民地化、1905年の朝鮮植民地化という国民国家日本の侵略犯罪を、1910年に東アジアでなにがあったかを実証的にできるだけ細部まで歴史的に追求することによって解明することは、天皇制を維持している現在の国民国家日本の他地域・他国侵略構造を破壊するために有効な作業だろう。
 天皇制を維持している日本で「大逆事件」を一国的に分析・叙述することは、日本ナショナリズムを強化することになりかねない。
 1910年3月26日に旅順で殺された安重根は、全海山、安圭洪と同じ年に生まれていた。幸徳秋水と沈南一は、共に、1871年、パリコミューンの年に生まれていた。

                                 関東大虐殺86年後、2009年9月1日に
                                                 キム チョンミ
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