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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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戦争法と憲法

2015年10月05日 | 個人史・地域史・世界史
■戦争法と憲法■
                            金靜美

■自衛隊・戦争法は憲法違反
 2015年9月19日に、自民党とそれに追随する公明党などが、「平和」をかかげる戦争法(「平和安全法制整備法」と「国際平和支援法」)を成立させた(9月30日に公布)。
 戦争法は、日本国憲法9条に違反する法律である。
 日本の軍隊である「自衛隊」は日本国憲法に違反している組織である。
 「平和」を掲げる戦争法は、「自衛」を掲げる日本軍が他地域他国で戦争するための法律である。
 日本国憲法9条には、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と規定されている。
 朝鮮戦争勃発2か月後、1950年8月10日に日本で、「警察予備隊」が設置された。1952年4月26日に海上警備隊が設置され、1952年10月15日に「警察予備隊」が「保安隊」に改組された。
 1954年7月1日に、「保安隊」と「警備隊」は、「陸上自衛隊」、「海上自衛隊」、「航空自衛隊」に改組され、その61年後に、日本政府は戦争法を公布した。

■アジア太平洋侵略
 1939年1月17日に、ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」し、2月10日に、日本軍が海南島に奇襲上陸した。その7か月後の9月に、ポーランドに、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方から侵入して分割占領した。
 1940年6月14日に、ドイツ軍がパリを占領し、6月16日に、フランスはドイツに降伏した。その約100日後の9月23日に、日本軍が、フランスが植民地としていたベトナム北部に侵入した。
 1941年12月1日、ヒロヒトらは、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定した。開戦日(12月8日)にヒロヒトがだした文書(「詔書」)には、
   「帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」、
   「東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス」、
と書かれていた。

■1945年8月14日
 70年前、1945年8月14日に、日本政府はポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を受諾した。
 この日の夜、ヒロヒトは、日本は不滅だが、「敵」が残虐な爆弾を使うのでこれ以上戦争をつづければ民族が滅亡し、人類の文明が破滅するので、ポツダム宣言を受諾するのだ、「忠良なるなんじ臣民」はこのことを理解せよ、などと傲慢な口調で語った。
 その録音が、8月15日正午に「キミガヨ」に続いて放送された。この日(ポツダム宣言受諾翌日)が、日本の「終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)」とされている。

■天皇制が維持されている
 ヒロヒトは生き残ったが、1945年4月28日にイタリアでムッソリーニがパルチザンに銃殺され、その2日後の4月30日にドイツでヒトラーが自殺していた。
 1946年5月3日に「東京裁判」が開始されたが、ヒロヒトはアメリカ合州国の政治・軍事方針によって戦犯容疑者とならなかった。
 その半年後の11月3日(天皇ムツヒトの誕生日、「明治節」)に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布された。その6か月後、東京裁判開廷1年後の1947年5月3日に日本国憲法が施行され、ヒロヒトは、「日本国の象徴」・「日本国民統合の象徴」となった。日本国憲法の第1章(1条~8条)は、天皇制維持条項である。
 ヒロヒトは、侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)をとることなく、1989年に死に、その子アキヒトが、日本国憲法と「皇室典範(1947年1月16日法律第3号)」にもとづいて「日本国民」と「日本国民統合」の「象徴」となった。
 現在、旧「天長節」とともに、ムツヒト・ヒロヒト・アキヒトの誕生日が、日本国民の祝日とされている。
 1999年8月13日に、侵略の旗「ヒノマル」、天皇賛歌「キミガヨ」が、国民国家日本の「国旗」、「国歌」とされた。

■憲法第1章・憲法第2章
 「戦争の放棄」を国家の最高法規に明記しつつ、日本は、朝鮮戦争に実質的に参戦した(アメリカ合州国軍の兵站基地として軍需物資を大量生産し、軍事特需によって、南北朝鮮民衆の大きな犠牲を土台として、経済を復興させた)。
 日本国憲法第2章(戦争の放棄)のもとで、日本は、アメリカ合州国のベトナム侵略戦争・イラク侵略戦争・アフガニスタン侵略戦争に、実質的に参戦した(2004年1月から日本政府は日本軍を、アメリカ合州国のイラク侵略戦争に参戦させた。イラクに侵入した日本軍は、ファルージャやバスラなどイラク各地でのアメリカ合州国軍の民衆虐殺に間接的に荷担した)。
 日本国憲法で、守られてきたのは、天皇制と日本の域内平和であった。
 日本の護憲運動は、天皇制(日本国憲法第1章)を護る運動でもあった。

■侵略と差別の根幹の廃絶
 20年あまり前、わたしは、
   「日本帝国主義者が改憲策動を発動してくるときは、憲法の天皇条項を粉砕する
   民衆の運動の出発のときなのではないか」(「民族差別と差別について」、
   『水平運動史研究』現代企画室、1994年1月)、
と発言した。
 いまなお、そのような日本の民衆運動は出発していない。
 イタリアは、1946年6月2日に施行された国民投票で王政を廃絶した。ネパールでは、2008年5月28日に制憲議会が圧倒的多数で決議して王政を廃絶した。
 侵略と差別の根幹である天皇制は、日本の司法、行政、全分野における国家的責任回避の体系の根源である。

■ヒロヒトの戦後犯罪の一部
 戦犯となることを免れたヒロヒトは、日本国の「象徴」となってわずか4か月後の1947年9月に「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」と連合国最高司令官政治顧問にだした(この文書は1979年に「発見」され、2008年3月から沖縄公文書館で“天皇メッセージ”として公開)。
 それは、ヒロヒトが「国体」(天皇制)を維持しようとして敗戦日を遅らせるために日本軍にアメリカ合州国軍との「沖縄戦」を遂行させ、オキナワの民衆に犠牲を強制した2年後であった。
 1975年10月31日、ヒロヒトは、最初で最後のテレビ公開記者会見で、「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と公言した。

■侵略犯罪の継続を阻止する民衆運動
 国民国家日本の他地域他国侵略の歴史的事実が具体的に詳細に明らかにされないかぎり、他地域他国に侵入して戦争をおこなわないという真の戦争放棄の国家体制は樹立されない。
 天皇ヒロヒトは無答責のまま死んだが、ヒロヒトをはじめとし、すでに死亡したすべての侵略犯罪者、および現存する侵略犯罪者の犯罪行為が細部まで明らかにされなければならない。日本政府は、犠牲者に謝罪し、賠償し、責任者を処罰しなければならない。
 天皇の侵略責任(戦争責任、植民地支配責任、戦後責任)が日本の民衆運動のなかで問われることはほとんどなかった。
 日本の経済・社会・文化状況は、70年前も、いまも、変わっていない。 
 護憲運動の枠をこえなければ、日本人の戦争法とのたたかいは、日本ナショナリズムに吸収されるだろう。
                               2015年10月5日
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2 コメント

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西と東 (五十嵐 彰)
2015-10-08 18:07:05
なぜ日本人は8月14日を「解放記念日」として認識することができないのでしょうか? この点が同じ枢軸とされたドイツやイタリアと決定的に異なる点だと思います。日本のナショナリズムは、「天皇主義」がビルトインされているという意味で、諸国の中でも極めて特異な性格を有しているように思われます。
侵略の構造の破壊を! (金靜美)
2015-10-10 20:46:35
 ドイツでは、1918年11月に王政が廃絶されました。ワイマール共和国→第三帝国は、1945年5月に崩壊しましたが、日本帝国は1945年8月においても崩壊せず、最悪の国家犯罪者ヒロヒトは天皇でありつづけました。1947年5月3日に日本帝国が日本国と改称したとき、ヒロヒトはひきつづいて天皇になりました。
 それを許したのは、当時の日本人でしたが、いまもなお天皇制は存続しています。
 それは、日本人のおおくが、日本の他地域他国侵略・植民地支配という国家犯罪の歴史を克服しておらず、現在の日本の他地域他国侵略の社会的・政治的・経済的・文化的構造を破壊しようとしていないからだと思います。

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