10月9日に続いて、きょう(10月23日)、春騰村を再訪しました。前回は、林彩虹さんといっしょでしたが、今回は、西里扶甬子さんと林彩虹さんといっしょでした。西里扶甬子さんと林彩虹さんとは、ことし4月に、老欧村や八所村にいっしょに行っています(このブログにことし5月19日~22日に書きこんだ「老欧村で」1~4や5月28日~31日に書きこんだ「八所村で」1~5を見てください)。
11時過ぎに春騰村の広場に着くと、村人が集まっており、王安帮さんもいました。その中にいた、陳傳法さん(86歳)に話しを聞かせてもらうことにしましたが、陳傳法さんは、石山や烈楼(長流)地域で使われている「長流語」で話すので、わたしや西里扶甬子さんはもちろん、林彩虹さんでもほとんど聞きとることができません。王安帮さんが、林彩虹さんの母語である海南語を話せるので、低い声で静かに話す陳傳法さんの証言を王安帮さんが海南語に通訳し、それを林彩虹さんが日本語まじりの北京語に翻訳してわたしたちに伝えてくれました。
陳傳法さんの証言の内容は、つぎのとおりでした。
「春騰村に入ってきた日本軍は残虐なことを繰りかえした。日本軍は東水港から海南に侵入し、老城や石山にやって来た。石山に来るまでに日本軍は9個の村を通過し、つぎつぎに住民に道路をつくらせた。日本軍は村人に樹木を伐採させ、栄烈村、栄庄村などへの道路をつくらせ、その後、永興や長流などおおくの場所に望楼をつくった。日本軍は治安維持会をつくって、おおくの村の人たちを日本軍の“順民”としていった。
長流にいた丹山と丹青の2人が、石山に来て、遊撃隊を組織し、抗日戦争をすすめた。春騰村で遊撃隊員たちが日本軍を待ち伏せしていたとき、探索にきた2人の漢奸が遊撃隊員に捕まって樹にくくりつけられたことがあった。夜になってから2人は自分で縄をほどいて逃げ出し、日本軍のところに行って報告した。2日後、日本軍の飛行機が来てわたしの村を爆撃した。爆撃は1週間続いた。村人1人と遊撃隊員1人が爆弾で殺された。村の家も焼かれた。
爆撃が続いたので、村人は全部山に逃げた。
空爆のあと、永興、白蓮、長流、老城からきた日本軍が石山地域を包囲した。 日本兵の数があまりにおおかったので、遊撃隊は持ちこたえることができなかった。遊撃隊員は村人たちといっしょに他の“順民”の村に行った。遊撃隊が逃走したあと日本軍は各村の“順民”に交代制で道路をつくらせた。日本軍は道路両脇の椰子の木を切らせ、車に乗せさせた。わたしも椰子の木を車につませられた。しかし、椰子の木は重かったので担げなかった。日本兵はわたしを地面に引き倒した。
椰子の木をきらせ、火山口までの道路をつくったあと、日本軍は、村民に、火山口嶺の山麓に防空壕をほらせた。そのとき村人の1人が中で圧死した。日本軍は、防空壕だけでなく戦壕も村人につくらせた。当時、たくさんの台湾人や香港人が日本軍に捕まえられて防空壕を掘らされていた。防空壕は大小10数個あった。
日本兵は、村の鶏や鴨や豚を奪った。女性を強姦した。
石山市に望楼があった。望楼は3層だったと思う。治安維持会本部も石山にあった。
当時、日本兵を見ると腰をおってお辞儀しなければならなかった」。
陳傳法さんの証言をそばで聞いていた陳徳川さん(79歳)は、「わたしも日本軍の仕事をしたことがある。ある日本兵が、小さかったわたしを見て、漢語で“小孩、過来、過来(おい、こっちへおいで)”と言ったことを覚えている。わたしはかんたんな仕事しかできなかった。草むしりなど」と話しました。
話しを聞かせてもらったあと、隧道跡まで行くことにしました。細い道を10分ほども歩かなくてはならないので、村人に案内してもらうのを遠慮して、自分たちだけで行こうとしましたが、前回たどった道がはっきりしません。陳徳川さんが、案内してくれました。
79歳の陳徳川さんは、わたしたちより早い軽い足取りで、進んでいきます。村の広場から7~800メートルほどの地点で、陳徳川さんは、山すそを指差し、あのあたりに何本も隧道がある、と言いました。そのあたりは潅木に覆われており、きょうは隧道入り口にたどり着くことはできませんでした。
佐藤正人
11時過ぎに春騰村の広場に着くと、村人が集まっており、王安帮さんもいました。その中にいた、陳傳法さん(86歳)に話しを聞かせてもらうことにしましたが、陳傳法さんは、石山や烈楼(長流)地域で使われている「長流語」で話すので、わたしや西里扶甬子さんはもちろん、林彩虹さんでもほとんど聞きとることができません。王安帮さんが、林彩虹さんの母語である海南語を話せるので、低い声で静かに話す陳傳法さんの証言を王安帮さんが海南語に通訳し、それを林彩虹さんが日本語まじりの北京語に翻訳してわたしたちに伝えてくれました。
陳傳法さんの証言の内容は、つぎのとおりでした。
「春騰村に入ってきた日本軍は残虐なことを繰りかえした。日本軍は東水港から海南に侵入し、老城や石山にやって来た。石山に来るまでに日本軍は9個の村を通過し、つぎつぎに住民に道路をつくらせた。日本軍は村人に樹木を伐採させ、栄烈村、栄庄村などへの道路をつくらせ、その後、永興や長流などおおくの場所に望楼をつくった。日本軍は治安維持会をつくって、おおくの村の人たちを日本軍の“順民”としていった。
長流にいた丹山と丹青の2人が、石山に来て、遊撃隊を組織し、抗日戦争をすすめた。春騰村で遊撃隊員たちが日本軍を待ち伏せしていたとき、探索にきた2人の漢奸が遊撃隊員に捕まって樹にくくりつけられたことがあった。夜になってから2人は自分で縄をほどいて逃げ出し、日本軍のところに行って報告した。2日後、日本軍の飛行機が来てわたしの村を爆撃した。爆撃は1週間続いた。村人1人と遊撃隊員1人が爆弾で殺された。村の家も焼かれた。
爆撃が続いたので、村人は全部山に逃げた。
空爆のあと、永興、白蓮、長流、老城からきた日本軍が石山地域を包囲した。 日本兵の数があまりにおおかったので、遊撃隊は持ちこたえることができなかった。遊撃隊員は村人たちといっしょに他の“順民”の村に行った。遊撃隊が逃走したあと日本軍は各村の“順民”に交代制で道路をつくらせた。日本軍は道路両脇の椰子の木を切らせ、車に乗せさせた。わたしも椰子の木を車につませられた。しかし、椰子の木は重かったので担げなかった。日本兵はわたしを地面に引き倒した。
椰子の木をきらせ、火山口までの道路をつくったあと、日本軍は、村民に、火山口嶺の山麓に防空壕をほらせた。そのとき村人の1人が中で圧死した。日本軍は、防空壕だけでなく戦壕も村人につくらせた。当時、たくさんの台湾人や香港人が日本軍に捕まえられて防空壕を掘らされていた。防空壕は大小10数個あった。
日本兵は、村の鶏や鴨や豚を奪った。女性を強姦した。
石山市に望楼があった。望楼は3層だったと思う。治安維持会本部も石山にあった。
当時、日本兵を見ると腰をおってお辞儀しなければならなかった」。
陳傳法さんの証言をそばで聞いていた陳徳川さん(79歳)は、「わたしも日本軍の仕事をしたことがある。ある日本兵が、小さかったわたしを見て、漢語で“小孩、過来、過来(おい、こっちへおいで)”と言ったことを覚えている。わたしはかんたんな仕事しかできなかった。草むしりなど」と話しました。
話しを聞かせてもらったあと、隧道跡まで行くことにしました。細い道を10分ほども歩かなくてはならないので、村人に案内してもらうのを遠慮して、自分たちだけで行こうとしましたが、前回たどった道がはっきりしません。陳徳川さんが、案内してくれました。
79歳の陳徳川さんは、わたしたちより早い軽い足取りで、進んでいきます。村の広場から7~800メートルほどの地点で、陳徳川さんは、山すそを指差し、あのあたりに何本も隧道がある、と言いました。そのあたりは潅木に覆われており、きょうは隧道入り口にたどり着くことはできませんでした。
佐藤正人