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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

石山鎮春騰村で 2  

2008年10月23日 | 海南島
 10月9日に続いて、きょう(10月23日)、春騰村を再訪しました。前回は、林彩虹さんといっしょでしたが、今回は、西里扶甬子さんと林彩虹さんといっしょでした。西里扶甬子さんと林彩虹さんとは、ことし4月に、老欧村や八所村にいっしょに行っています(このブログにことし5月19日~22日に書きこんだ「老欧村で」1~4や5月28日~31日に書きこんだ「八所村で」1~5を見てください)。

 11時過ぎに春騰村の広場に着くと、村人が集まっており、王安帮さんもいました。その中にいた、陳傳法さん(86歳)に話しを聞かせてもらうことにしましたが、陳傳法さんは、石山や烈楼(長流)地域で使われている「長流語」で話すので、わたしや西里扶甬子さんはもちろん、林彩虹さんでもほとんど聞きとることができません。王安帮さんが、林彩虹さんの母語である海南語を話せるので、低い声で静かに話す陳傳法さんの証言を王安帮さんが海南語に通訳し、それを林彩虹さんが日本語まじりの北京語に翻訳してわたしたちに伝えてくれました。

 陳傳法さんの証言の内容は、つぎのとおりでした。
  「春騰村に入ってきた日本軍は残虐なことを繰りかえした。日本軍は東水港から海南に侵入し、老城や石山にやって来た。石山に来るまでに日本軍は9個の村を通過し、つぎつぎに住民に道路をつくらせた。日本軍は村人に樹木を伐採させ、栄烈村、栄庄村などへの道路をつくらせ、その後、永興や長流などおおくの場所に望楼をつくった。日本軍は治安維持会をつくって、おおくの村の人たちを日本軍の“順民”としていった。
  長流にいた丹山と丹青の2人が、石山に来て、遊撃隊を組織し、抗日戦争をすすめた。春騰村で遊撃隊員たちが日本軍を待ち伏せしていたとき、探索にきた2人の漢奸が遊撃隊員に捕まって樹にくくりつけられたことがあった。夜になってから2人は自分で縄をほどいて逃げ出し、日本軍のところに行って報告した。2日後、日本軍の飛行機が来てわたしの村を爆撃した。爆撃は1週間続いた。村人1人と遊撃隊員1人が爆弾で殺された。村の家も焼かれた。
  爆撃が続いたので、村人は全部山に逃げた。
  空爆のあと、永興、白蓮、長流、老城からきた日本軍が石山地域を包囲した。  日本兵の数があまりにおおかったので、遊撃隊は持ちこたえることができなかった。遊撃隊員は村人たちといっしょに他の“順民”の村に行った。遊撃隊が逃走したあと日本軍は各村の“順民”に交代制で道路をつくらせた。日本軍は道路両脇の椰子の木を切らせ、車に乗せさせた。わたしも椰子の木を車につませられた。しかし、椰子の木は重かったので担げなかった。日本兵はわたしを地面に引き倒した。
  椰子の木をきらせ、火山口までの道路をつくったあと、日本軍は、村民に、火山口嶺の山麓に防空壕をほらせた。そのとき村人の1人が中で圧死した。日本軍は、防空壕だけでなく戦壕も村人につくらせた。当時、たくさんの台湾人や香港人が日本軍に捕まえられて防空壕を掘らされていた。防空壕は大小10数個あった。
日本兵は、村の鶏や鴨や豚を奪った。女性を強姦した。
  石山市に望楼があった。望楼は3層だったと思う。治安維持会本部も石山にあった。
  当時、日本兵を見ると腰をおってお辞儀しなければならなかった」。

 陳傳法さんの証言をそばで聞いていた陳徳川さん(79歳)は、「わたしも日本軍の仕事をしたことがある。ある日本兵が、小さかったわたしを見て、漢語で“小孩、過来、過来(おい、こっちへおいで)”と言ったことを覚えている。わたしはかんたんな仕事しかできなかった。草むしりなど」と話しました。

 話しを聞かせてもらったあと、隧道跡まで行くことにしました。細い道を10分ほども歩かなくてはならないので、村人に案内してもらうのを遠慮して、自分たちだけで行こうとしましたが、前回たどった道がはっきりしません。陳徳川さんが、案内してくれました。
 79歳の陳徳川さんは、わたしたちより早い軽い足取りで、進んでいきます。村の広場から7~800メートルほどの地点で、陳徳川さんは、山すそを指差し、あのあたりに何本も隧道がある、と言いました。そのあたりは潅木に覆われており、きょうは隧道入り口にたどり着くことはできませんでした。
                                     佐藤正人
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石山鎮春騰村で 1

2008年10月22日 | 海南島
 夕刻海南島に着いた翌日、10月9日に、海口市石山鎮春騰村を訪ねました。
 市内バスにのって、いったん業里村に行きました。海口中心部からバスで30分ほどの業里村には、旧日本軍の望楼が残っています(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』54頁を見てください)。前に来たのは2005年1月でした。
 業里村で石山行きのバスに乗り、終点まで行き、そこから三輪車で春騰村に行きました。
 こんど、海口市石山鎮春騰村を訪ねたのは、2005年7月18日と2008年4月14日のつぎの報道を見たからです。この記事があることは、ことし5月に、梁昌寶さんから知らされていました。
  「日軍大型隧道現身火山口 修建時数十人被圧死」
  http://news.qq.com/a/20050718/001617.htm
  「侵華日軍5条大型隧道現身火山口 位於海口石山鎮」
  http://news.sina.com.cn/c/2008-04-14/061313731696s.shtml
 
 2008年4月14日の記事によると、石山鎮春騰村馬鞍嶺に旧日本軍のつくった隧道が5本あり、「日本人が隧道を掘らせるのに連れてきたのはほとんどが外地人だった。その中には北韓、台湾などから連れてきた人も少なくなかったと書かれています。
 わたしたちは、石山の「火山口」には、2005年秋に行き、石山から10キロほど南の雷虎嶺にある日本軍用洞窟(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』62頁を見てください)には2回行きましたが、これまで春騰村には行ったことがありませんでした。
 石山には舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の守備隊が「駐屯」していました。石山守備隊本部の位置は、烈楼守備隊本部から直線距離南7キロの地点で、現在の石山鎮の中心部にありました。

 10月9日に、村の広場に着くと、大きな樹の周りに村人が20人あまり集まっていました。
 記事に載っていた王伝策さんに会いたいというと、いまは、山に行っているとのこと。その息子さんと話していると、遠くから、王伝策さんのお兄さんが歩いて来ました。王伝範さん(1932年生まれ、77歳)でした。話していると、そばに王安帮さん(78歳)が来て、次のように話してくれました。

 「日本軍は石山の高い丘の上に望楼をつくった。20人あまりの部隊だった。
  当時、石山には、遊撃隊が抗日闘争を続けていた。日本軍は、飛行機から爆弾を落とした。村の近くに落とされた爆弾で、遊撃隊員が1人、殺されたことがあった。
  漢奸2人が村に来たとき、遊撃隊がそれを知って、2人を捕まえて村の大樹に縄で縛りつけたことがあった。その夜、2人は逃げて日本軍本部に知らせた。日本軍は村と村の周りを掃蕩した。村人は秀英のほうに逃げた。日本軍は、村の家を焼いた。
  なんか月がたってから、村人は村に戻って、“順民証”をもらった。住むところがなかったので、草を刈って草の家をつくった。
  “順民”になってから村人は、交代で日本軍に働かされた。道路や戦闘壕などを作らされた。日本軍は食べ物もかねもくれなかった。日本兵はよく殴った。
  当時、日本兵に出会うとかならずお辞儀しなくてはならなかった。そうしないと殴られた。お辞儀しなかったといって殺された村人もいた。
  日本軍は近くの山に洞窟を掘った」。

 日本軍が村人に掘らせたという洞窟に、黄永存さん(86歳)と王伝範さんに案内してもらいました。洞窟の入り口は草木で覆われていると言って、2人とも、大きなナタを持ってきてくれました。細い道を500メートルあまりあるいて、最初の洞窟の近くに着きました。そこから、黄永存さんと王伝範さんは、入り口まで、20メートルほど、ナタで道を切り開いてくれました。
 その洞窟は、落盤していて20メートルほどしか見通せませんでしたが、30メートル以上あったそうです。
洞窟の入り口で、黄永存さんは次のように話しました。

  「このような洞窟を、日本軍は、この近くに9本つくった。この洞窟は1本目だ。ここではないが、わたしも洞窟を掘らされた。2か月ほど働かされた。朝7時から夕方6時まで。日本軍は、食べ物はくれたがカネはくれなかった。わたしは当時13歳くらいだった。10人あまりがいっしょに働かされていた。台湾兵が監視していた。日本兵もいた。台湾兵は海南語がすこしできた。
  わたしは、仕事が遅いといって銃で肩を殴られたことがある」。
                                     佐藤正人
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花場で

2008年10月21日 | 海南島
 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』(1995年)下巻末の年表には、1943年の箇所に、
  “海口からきた日本軍が澄邁県花場郷の13の村をすべて包囲し、男女老幼すべてを祠堂に集め、10人ずつ刺し殺しはじめた。半時間後、気づいた村人が祠堂から逃げだそうとすると、日本軍は機関銃を発射するとともに刺刀や大刀で1200人を殺した。受傷者のうち120人あまりが2、3日以内に死んだ。治療して生き残った人はわずか170人あまりでだった”、
と書かれています。
 また、1941年12月29日に海南島三省(日本外務省・日本海軍省・日本陸軍省)連絡会議が出した「海南島応急労務対策要綱」(海南海軍特務部編『海南島三省連絡会議決議事項抄録』20頁~24頁)には、
  「従来密輸地区ト認メラルル澄邁県花場港ヨリ瓊山県東営港ニ至ル海岸線約十粁以内ノニ対シテハ……全部落ノ強制移住ヲ実施ス」
と書かれています。

 その花場を、10月16日に訪ねました。花場は、沙土の近くです。
 花場には旧日本軍の望楼が残っていました。
 その望楼の近くで、呉安福さん(78歳)、戴家伝さん(88歳)さん、黄玉金さん(87歳)から話しを聞かせてもらいました。

 呉安福さんは、つぎのように話しました。
  「日本軍はこの村を2回爆撃した。1回目の時は、家が爆弾で壊されたが、人は死ななかった。2回目の時は、飛行機が飛んでくるのを見で村人はすぐに逃げたが、飛行機が臨高のほうに飛んでいったので、飛行機が行ってしまったと思った。しかし、そうではなかった。飛行機はまたやってきて村に爆弾を落とした。村人がたくさん殺され、鶏や豚や鴨などもたくさん死んだ。
 わたしは、12歳ころ、日本軍に働かされた。花場から敦茶までの道路や望楼をつくらされた。監督は日本人だった。日本軍はカネも食べものもよこさなかった。工具も時分で持っていった。朝早くから晩方まで働かされた。日本軍に働かされている人を、当時、村人は“日本工”と呼んでいた。大人の“日本工”はいつも日本兵に殴られていた。子どもには、監督が、ときどき、ビスケットのようなものをくれた。
 日本軍の仕事をするときには、“良民証”を持っていった。働く場所で日本兵は、“良民証”を取りあげた。仕事が終わって家に戻るとき、日本兵はその“良民証”を返してくれた。
 当時、村人は、交代で順番に石碌まで働きに、むりやりに行かされた。石碌で死んで帰って来なかった人が何人もいた。石碌に行った人たちは、ほとんどが結婚していなかった。
 日本兵は、女性を見つけると強姦した。
 日本軍は、当時、望楼の近くに、家をつくらせなかった。なぜなら、わたしたちの村は、花場港口にあるので、日本軍は、村人と共産党が、別の場所から銃などを運びこむのではないかと考えていたからだ。
 日本軍が来る前にわたしの両親は亡くなっていた。わたしは三人兄弟だが、みんな叔父の家で暮らしていた。叔父は農業をしていた。
 日本軍が敗けたときはとてもうれしかったが、家は焼かれてなくなっており、食べる物もなかった。
 望楼は、もともとは、日本軍が来るまえに国民党がつくったものだ。3層だったが、日本軍が海南島に侵入してきたとき、国民党は一番上の層を壊して2層にした。
 花場に来た日本軍は、再び望楼を3層にし、さらにその上に見張り台をつくった。
 日本軍は、村人に、村でいちばん大きな椰子の樹を2本掘らせて、望楼のそばに移させようとした。しかし、その樹はあまりに大きかったので担げなかった。日本軍は、担げない村人を殴った。日本軍が、望楼のそばに大きな樹を植えたのは、共産党の人間を捕まえて吊るして殴りつけ、それを見たみんなが共産党に参加しないようにするためだった。
 日本軍の炊事の仕事をしていた蔡漢陸が、日本軍の機関銃を盗んで共産党のところに行ったことがあった。蔡漢陸が共産党に入ったことを知った日本軍は、すぐに蔡漢陸の両親を捕まえ、望楼のところで首を切った」。

 戴家傳さんは、つぎのように話しました。
  「日本軍が海南を侵略したとき、わたしは近くの村に住んでいた。日本軍は、村に入ってきて物を奪い、食べ物を奪い、なんでも奪った。だから、わたしは村をでて、花場市に移った。花場市に来てからも農業をして暮らした。わたしは3人兄弟だ。上の2人の兄は、臆病だった。日本軍は仕事を交代制でやらせたが、兄たちは、いつも、わたしを自分たちの代わりに行かせた。日本兵はよく村に来て、村人に椰子の実を採らせた。わたしも採らされた。日本兵は樹に登っているわたしのシリに銃剣をつきつけた。すべったら刺されて死んでしまう。
 わたしは、日本軍の壕を掘ったり、した。望楼もつくった。日本軍がやれということはなんでもやらなければならなかった。
 夜には、日本軍は、わたしたちに電話線の番兵をさせた。日本軍は、共産党に電話線を切られるのをおそれていた。朝、わたしたちは、日本軍に報告に行った。
 当時、わたしは共産党のために食料を集め、そして、集めた食料を共産党に届けていた。共産党の人は、農民と同じような服を着ていた。
 ある日の朝、夜間の電話線の情況報告に行ったら、治安維持会の会長が、わたしに、昨夜共産党が村にきてコメを持って行かなかったかと訊ねた。わたしは、そんなことはなかったと答えた。実は、会長は、その事実を知っていたのだ。会長は手榴弾でわたしの頭を殴った。わたし頭から血が流れ、地面に倒れた。会長は、わたしを日本軍の“二曹”に引き渡すと言った。“二曹”は、とても凶暴で残忍な人間で、みんなが怖がっていた。当時、日本軍の道案内をしていた親戚がいた。その人が早く逃げろ、逃げないと日本軍に殺されると言った。わたしはすぐに逃げた。
 日本軍は、手が荒れていない人を見ると、共産党だと考えた。日本軍は共産党だと思うとすぐに捕まえた」。

 黄玉金さんは、
  「日本兵がきたらすぐ、坡に逃げた。日本兵は女の人を見るとすぐ強姦した。わたしの母も父も弟も、日本軍のために働かされた。道路工事などだ。日本軍が命令することは、なんでもやらなければならなかった。
石碌に働きに行かされた人もいた」
と話しました。
 
 花場では、日本軍がおおくの村人を殺戮したという証言は、聞きませんでした。『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下巻末年表にある、“(1943年に)海口からきた日本軍が澄邁県花場郷13か村の村人1200人を殺した“という記述は、事実とは異なると思います。『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』の本文にも、このようなことは書かれていません。花場は沙土の近くなので、年表作者が、沙土と書くところを花場と書いたのかもしれません。

 呉安福さん、戴家伝さん、黄玉金さんから話しを聞かせてもらったあと、花場小学校の校庭にある旧日本軍の望楼のところに行きました。望楼は2層だけが残っていました。銃眼は、1層にもあけられていました。
 遅い昼食後に、花場港に向かいましたが、途中で聞くと、まだ3、4キロ先だというので、道もぬかるんでいたので、引き返しました。
                                     佐藤正人
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樹徳村と大昌園村で

2008年10月20日 | 海南島
 1995年10月に発行された海南省瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(紀念抗日戦争勝利50周年専輯、『瓊山文史』8)に、李常青「血泪的回憶――日軍在樹徳郷的暴行」が掲載されています。10月17日、樹徳村に行きました。
 海口南ターミナルからバスに1時間ほどのって三門坡に着いて、三輪車で樹徳村に向かおうとしたのですが、雨が続いたため、大きく20キロ近く回り道をしなくてはならないというので、大坡までバスで行き、そこから三輪車に乗ることにしました。
 大坡から、三輪車に30分以上乗って、樹徳村に着きました。途中の道はぬかるんでいましたが、胡椒畑やゴム樹林をぬけてくる風に香りがあり涼しかったです。
樹徳村には当時のことを知っている人はいませんでしたが、1959年生まれの莫書恰さんが、日本軍の望楼跡と井戸跡まで案内してくれました。
 莫書恰さんが子どものころには、望楼はなくなっていましたが、年寄りから当時の話しを聞いていたと言います。
 望楼跡の敷地には、30メートルほどの方形の壕が掘られてあり、部分的にいまも残っていました。望楼のそばに監獄として使われた建物があったそうです。
 日本軍がつくったという井戸跡は、望楼から700~800メートルほど離れていました。井戸から望楼までの道は50メートルほど急な上り坂になっていました。日本軍はこの井戸から望楼まで、村人に水を運ばせたといいます。
 莫書恰さんは、となりの大昌園村にむかしのことを知っている人がいるといってつれていってくれました。
 その人は、符祥豊(90歳)さんでした。
 符祥豊さんは、すこし耳が聞こえにくくなっているようでしたが、しっかりした口調でつぎのように話してくれました。

 「日本軍は、わたしの隣村の樹徳に望楼をつくったが、そのとき、近くの村の家を壊して、その材料をつかった。望楼の材料は、ぜんぶ、そうだ。日本軍はわたしの村や近くの村に入ってきて、家をたくさん焼いた。家はレンガでつくられていたので、家が焼かれても、レンガは残る。そのレンガを使って日本軍は望楼をつくったのだ。
 わたしは、日本軍が来たときにはすぐに逃げたので望楼はつくらされなかたが、村に戻ってきてから、望楼周辺の樹の伐採や、望楼に住む日本兵のための水汲みななどをさせられた。
 日本軍は、わたしの村の美勝を殺した。
 日本軍は、隣の福田村に、人を殺して埋める穴を掘った。
 日本軍は、鶏や鴨や豚などを見つけると、奪った。コメも奪った。
 日本軍は、たくさんの女性を強姦した。
 父親は日本軍が来る前に亡くなっていた。父が死んでから母は再婚した。そのあとは、わたしは、ひとりで暮らしをたてていた。日本軍が海南島に入って来たときには、わたしは結婚していた。
 わたしと妻は、“順民証”をもらったあと、日本軍のために働かされた。
 当時、井戸から望楼まで1回水を運ぶと竹の棒を1本もらった。それが水を運んだ証明になった。1日に10回以上、水を運ばされた。井戸から望楼までは、水汲みはたいへんな仕事だった。そうして、わたしたちが苦心して運んだ水で、望楼の日本兵は、水浴びをした。
 日本軍ために働いても、日本軍はカネも食べるものもよこさなかった。日本軍のためにずっと働かされていたので、自分の家の水田や畑には草が生い茂っていた。
 望楼には20~30人ほどの日本兵がいた。日本人はわずか数人で、あとはほとんど福建人だった。
 日本軍が負けそうになったとき、望楼にいた日本兵と村人は、4層あった望楼の上の部分を壊した。
 福建人のなかにはトコヤの仕事をしている人もいた。わたしも、その人に髪を刈ってもらったことがあった。
 望楼が壊されているのを見たわたしは、その福建人に、理由を聞いた。その人は、「日本にアメリカの原子弾が落とされた。日本はまもなく降伏する」と言った。
 日本軍は、望楼が高すぎると飛行機から爆弾を落とされると思ったのだ。
 日本人は悪かった。日本兵が来たと言うとみんな怖がった。
 日本軍は放火し人を殺した。残忍だった。
 日本軍がいるときには、みんなびくびくして暮らしていた。
 日本軍が投降したあと、安心して農業することができるようになった」。

 李常青「血泪的回憶――日軍在樹徳郷的暴行」の記述と、符祥豊さんの証言とは大きく違っていました。樹徳郷にもこれから何回も行って、できるだけ事実を明らかにしなければならないと思いました。莫書恰さんは、「むかし上坡湖村という村があったが、日本軍に村人がほとんど殺されていまは胡椒畑になっている。生き残った上坡湖村の人たちの子孫が近くの塔昌村に住んでいる」と話していました。
 符祥豊さんの証言にある「福建人」というのは、台湾兵のことだと思います。

                                     佐藤正人
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“沙土惨案” 1

2008年10月19日 | 海南島
 澄邁県政協文史資料委員会が1995年ころに編集発行した『澄邁文史』第十期(『日軍侵澄暴行実録』)に、温家明・温明光口述「血海深仇 永不忘懐(侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況)」(曾憲富、呉可義、雷登華整理)が掲載されています。
 沙土は、海口市から直線距離で西に30キロほどのところで、澄邁県橋頭鎮内にあります。
 10月12日に、海南島近現代史研究会会員の梁昌寶さんと沙土に行きました。梁昌寶さんは瓊海市龍江鎮濱灘に生まれ海南大学で日本語を学んだ人です。
 わたしたちが沙土に行く前日、新聞記者の取材を受け、その記事が10月13日の新聞に掲載されました。その記事には、梁昌寶さんが、「わたしは海南人だ。海南のこの土地で生まれた。いま若い人の多くが日本侵略期の歴史をすでに忘れている。わたしたちも、自分たちの過去を記憶していない。わたしたち自身が日本侵略期の歴史をはっきり記憶していなければ、日本に侵略期の歴史を明らかにすべきだと要求できない。わたしには、そうする責任だけでなく、そうする義務がある」と語った、と書かれていました。

 10月12日には、沙土に行く前に、「侵瓊日軍制造“沙土惨案”実況」を口述した温家明さんと温明光さんに会うために、橋頭の敬老院を訪ねました。
 しかし、温家明さんは2003年に、温明光さんは2004年に亡くなられていました。
 温家明さんの連れ合いの陳月英さん(82歳)によれば、温家明さんは、「国文」教師をしており、絵がうまく、虐殺当時の絵をよく描いていたそうです。しかし、その絵は、いまは1枚も残っていないとのことでした。温家明さんの村は聖眼村でした。
 温家明さんの連れ合いで、沙土の北山村に住んでいた符月秀さん(86歳)は、「当時わたしは18歳だった。あのとき母と兄が殺された。弟2人は学校に行っていたので助かった。父は、日本軍が来る前に亡くなっていた。隣の家の人も、親戚も殺された」と話しました。
 この敬老院でいちばん年上の周宣豊さん(93歳)は、遊撃隊の排長(小隊長)で、団長は馬白山さんだったとのことです。周宣豊さんは、「共産党の遊撃隊に入って日本軍と戦った。何十回も戦った。どこもが戦場だった。食料は、自分たちを支持してくれる村の人からもらった。日本軍がいたときは、怖かった。日本が負けてからは、国民党の軍隊と戦った」と話しました。
 周宣豊さんの頬はかすかに赤く、顔色につやがありました。話し方にも力がこもっており、歩き方もしっかりしていました。93歳とは思えませんでした。

 橋頭から沙土に向かいました。聖眼村の入り口に、高さ12メートルほどの「史証碑」が建てられていました。橋頭鎮の人民政府が、3年まえの8月15日に建てたものでした。その碑文の全文は、つぎのとおりです(原文は縦書きです。漢字は日本で使われているものに変えてあります)。

  槍声遠去笑声欣、時尚新潮世尚仁。
  血鋳沙土千古恨、碑留史証告来人。
  一九四一年夏、国軍臨高県遊撃大隊長黄坤新率部、于沙土海域截取了日僞軍西路総指揮林桂深営運的貨船、並殺死押運人林桂深之仔林明成。林便誣沙土人民所為、逐勾結日軍。同年閏六月十二日払暁時分、日軍二百多人、従那大、新盈、包岸等地分乗十部汽車、長駆真入沙土峒、旋即包囲了昌堂、美梅、那南、北山、昌表、上帝、聖眼、文旭、福留、欽帝等村庄。以検査「良民証」為名、強聚群衆、行槍射、刀砍、剣戮、奸殺、生埋之凶。僅両個時辰、就殺了男女老幼一千一百一十九人。后又両次来犯、再殺無辜両二百余人、焼毀民房五十八間、漁船一百多条、掠搶耕牛六百多頭。這就是瓊島史上惨絶人寰的「沙土惨案」。如此的腥風血雨、鉄証着侵瓊日寇的罪悪、銘刻着沙土人民的冤怨。特立此碑、永志不忘。
  橋頭鎮人民政府
  公元二〇〇五年八月一五日

 聖眼村で「幸存者」の温国興さん(81歳)、温国照さん(78歳)、温国武さん(82歳)から話しを聞かせてもらいました。海南語の証言を、梁昌寶さんが通訳してくれました。
 碑文には、1119人と200人あまりが殺されたと書かれていますが、その人たちの名は記録されていないそうです。温国興さんは、これから聖眼村だけでも、犠牲者全員の名を書きとめていきたい、と話していました。
 橋頭鎮人民政府が、虐殺64年後に、なぜようやく碑を建てたのかは、わかりません。
 話しを聞かせてもらったあと、午後5時過ぎに、聖眼村から海辺に行こうとしましたが、強い雨が降っていたので、あきらめました。
 この日に聞かせてもらった証言のくわしい報告は、いま、梁昌寶さんがまとめています。
                                     佐藤正人
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