三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2006年5月海南島「朝鮮村試掘」の目的

2006年04月30日 | 「朝鮮報国隊」
2006年5月海南島「朝鮮村試掘」の目的
紀州鉱山の真実を明らかにする会
2006年4月20日

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年5月に「朝鮮村試掘」を行なうことにしました。参加を希望する方、あるいは日程を知りたい方は、会あてに連絡ください。
この文書の公開が遅くなったのは、韓国の真相糾明委員会からの最終連絡を待っていたからです。


「試掘」規模:5平方メートル~7平方メートルを想定。
ただし、地権問題などにより、こんかいの「試掘」が、最初で最後の科学的「発掘」となるおそれがあるため、条件があれば規模を拡大する。
紀州鉱山の真実を明らかにする会だけで、「朝鮮村発掘」をやりとげることはできない。会だけで独自に「発掘」するとしても、それは「試掘」であって、わたしたちができるのは、本格的・全面的な「朝鮮村発掘」の前提作業だけである。

目的:
1、「朝鮮村」における日本人による朝鮮人虐殺の事実を確かめる。
1998年6月から2006年4月まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は30回あまり、「朝鮮村」を訪問してきた。おおくの村人が、日本侵略時に、朝鮮人が「朝鮮村」とその周辺で日本人によって強制労働させられ、虐殺され、埋められたのを目撃したと証言している。
2、はじめての科学的な「発掘」をおこなう。
2001年1月の韓国MBCらによる「発掘」によっても、朝鮮人が埋められていた事実ははっきりしたが、その「発掘」方法・記録は十分には科学的でなかった。今回は、全面的な科学的「発掘」の前提として、朝鮮人が埋葬されていると村びとが証言する広い地域のうちの僅かな部分を、慎重に考古学者の指導のもとに可能なかぎり科学的に「試掘」する。
3、死因を特定する。
   ①埋葬様式、②埋葬状態、③遺体状態、④遺骨、⑤遺物状態、⑥遺物内容などを解析・鑑定・分析し、できるかぎり死因を特定する。
朝鮮人であるかどうかは、埋葬様式と埋葬状態の分析によってできるだけ明らかにする。
4、公的機関による全面的「発掘」をうながす。
「朝鮮報国隊」に入れられていた朝鮮人が「朝鮮村」に埋められたという事実は、おおくの「朝鮮村」村びとの証言、および当時の日本人刑務官(衣笠一第7次「朝鮮報国隊」派遣中隊長、のちに部隊本部庶務主任)の証言によって明らかであるのだから、今回の「試掘」は、韓国政府と日本政府による全面的「発掘」→鑑定、犠牲者追悼、日本政府の引責・謝罪・責任者処罰の第1歩である。
5、「朝鮮村発掘」は、日本の侵略史の発掘、日本の侵略犯罪の発掘である。
「朝鮮村発掘」が国民国家日本の侵略犯罪・他地域・他国侵略史の発掘である以上、それをおしすすめることは、国民国家日本の近現代史と全面的に対決することである。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日本政府(総理大臣、法務大臣、厚生労働大臣)に「“南方派遣朝鮮報国隊”の真相究明にかんする要請」をおこなったが、厚生労働省職業安定局総務課から
   「厚生労働省では“南方派遣朝鮮報告隊”に関する資料がないため、要請に対   
してお答えすることができません」(「南方派遣朝鮮報国隊」と書くべき個所が、「南方派遣朝鮮報告隊」となっていた)
という「回答」があっただけである。


附記 
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2002年4月17日に金大中大統領に、2003年5月5日に盧武鉉大統領に、①「朝鮮村」に埋められている人たちの遺骨の死因を解明してほしい、②「朝鮮村」の遺骨の処遇を国家プロジェクトとして考えてもらいたい、と要請した。
これにたいし、03年11月12日付けで、韓国外交通商部長官から、
「海南島をふくめ、海外に所在する日帝時代の韓国人犠牲者の遺骨奉還と関連して、外交通商部ではまず、日本、および太平洋各地を調査し、実態調査を実施した後、総合的な計画を樹立したあと、汎政府次元で推進するのが望ましいという立場です」
という公文書が送られてきた。
   2004年11月に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が韓国国家機構として
設置され、2005年2月1日から、強制動員被害真相調査申請と被害申請の受付開始した。
2005年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に、日帝強占下の海南島における朝鮮人強制動員・虐殺被害真相糾明を共同でおこなうこと、そのために、「朝鮮村」発掘をおこなうことを提言した。
この提言に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は同意したが、それからこんにちまで1年間、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会は、海南島での組織的調査も「朝鮮村」発掘の具体的準備もすすめてこなかった。
 ほんらい、海南島における日本の朝鮮人にたいする侵略犯罪は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が職権で調査すべきであるが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会の要請に応じて、2005年6月23日に、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会にたいし調査請求をおこなった。その請求は同年9月2日に受理されたが、請求内容にかかわる回答は、これまで届いていない。
 いつまでも放置しておくことができないため、やむをえず、こんかい紀州鉱山の真実を明らかにする会が独自で「試掘」せざるをえなくなったが、全面的な「発掘」は今後の課題である。ただし、地権問題が複雑化しており、こんかいの「試掘」後、埋葬地が「開発」=破壊されるおそれが生じている。
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(9)金石煥氏と林景燮氏に会って

2006年04月29日 | 紀州鉱山
(9)金石煥氏と林景燮氏に会って
麟蹄邑事務所から1キロほど北の合江里に金石煥氏は
住んでいた。合江里は北方から流れてくる昭陽川と東
南の麒麟の方から流れてくる内麟川の合流点であり、
上東里の隣の里だ。金石煥氏の家は自動車道からはず
れ、急な坂道をすこし降りたところ。

 金石煥氏の話。
「1944年7月にむりやり日本につれていかれた。22歳の
ときだった。結婚していて男の子がひとりいた。父親は
亡くなっており、母と弟と妻と子と5人で暮らしていた。
紀州鉱山では選鉱の仕事をやらされた。監督は中山とい
い、朝鮮人だった。アメリカ軍の兵士が捕虜となって働
いていた。毎朝、「皇国臣民の誓」をいわされた。
イタヤ[板屋]で働いたことがおおかったが、ユノクチ
[湯の口]で働いたこともあった。
1か月に27円受けとったが、ドブロクが1杯10円だったか
らすぐなくなった。
毎月15日が休みで、月1日だけだった。休みには疲れてい
るのでほとんど合宿にいた。街にでてトコロテンを食べる
こともあったが50銭だった。みかんは安かった。
いつも腹を空かせていた。麒麟からきた人が米を盗んで刑
務所にいれられたことがあった。
「八・一五」のとき、まず思ったことは、これで家に帰れ
るということだった。マンセーという声は自分は聞かな
かった。紀州鉱山をでてから帰国まで1週間ほどかかった
ように思う。帰国の時、紀州鉱山からは金はまったく受け
とっていない」。

金石煥氏が、当時住んでいたところの住所を、「石原紀州
鉱山字板屋半島合宿」と、漢字で書いてくれる。板屋に
「半島合宿」がいくつもあったという。
「故郷から自分に手紙が届いたことはなく、当時この住所で
手紙が同胞のところに届いたかどうかはわからない」という。

金石煥氏の家をでて、張貴男氏に案内されて、麟蹄邑事務所
のすぐ近くの林景燮氏の家にいく。張貴男氏は、日本に強制
連行された人の名と住所を、前日6時間かけて探したという。
林景燮氏は、はじめ日本のヤツ(イルボンノム)とは話をしたく
ないという。 

林景燮氏の話。
「23歳のとき、1942年2月(陰暦)に強制連行された。この
とき、麟蹄郡から130人が強制連行された。九州の炭坑で働
かされた。倭政時代には森田という姓に変えさせられてい
た。炭坑の名はイケノ炭坑だったと思うがはっきりしない。

先山として苦しい仕事をやらされた。高さが90センチほどの
狭い穴で身体を横にして石炭を掘った。毎日8時間だった。
腹がへり、さつまいもをよく食べた。
「賃金」は、ひと月12円だった。事故で腰を痛め、2か月入
院したことがある。いまも腰がいたい。「逃亡」した人が
多かったが何人かはわからない。とつぜんいなくなった人が
何人もいたが、「逃亡」したのか事故で死んだのかはわから
なかった。「逃亡」に失敗した同胞に日本人の監督らがひど
い拷問をするのを見せられたことがある。月に2日休みの日が
あったが、疲れているのでほとんど寝て過ごした。
1945年にイケノ炭坑がつぶれたので、広島の三菱の工場にいく
途中に「八・一五」になった。そのあとまもなく故郷に帰った。
それからこれまで日本人とは口をきいたことがない」。

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(8)孫玉鉉氏に会って

2006年04月16日 | 紀州鉱山
(8)孫玉鉉氏に会って
翌朝、安浩烈氏とともに、孫玉鉉氏を訪問した。ハングルで「民泊」という看板がでている。孫玉鉉氏の話。「麟蹄郡から100人が強制連行された。1944年9月(陰暦)だった。娘が4歳のときだった。紀州鉱山で、自分は坑内にはいったことはない。
毎朝8時に、「皇国臣民の誓」をいわされた。炊事は日本人の若い女性がやっていた。12人いた。そのうちのナカニシ、トキダ、ヒガシという人の名はいまでも憶えている。監督は朝鮮人で中山といった。ソウルからきたといっていた。毎日が「おかゆ」のようなものが主食で、たくわんがおかずだった。キムチをたべたことはなかった。日曜日には外出できた。さつまいもをよく買ってたべた。

アメリカ軍の捕虜が働いていた(イギリス軍ではないか、と聞くが、いやアメリカ軍だったという)。300人くらいいた。そのうちの150人ほどが坑内で働いていた。「解放」は、1945年8月15日の昼間に知った。まず、これで家に帰れる、腹をすかさなくてもよくなる、とおもった。日本の兵隊は泣いていた。朝鮮人はマンセエを叫んだ。帰国の時、紀州鉱山から300円を受けとった。1945年11月7日(陰暦)に帰国した。

名簿の「本山基鍾」の本名は、全基鍾だ。近くに住んでいたが、去年死んだ。
「岩本相徳」は、李相徳だ。かれも死んだ」。

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(7)丁榮・氏に会って

2006年04月15日 | 紀州鉱山
(7)丁榮・氏に会って
つづいて、面事務所のすぐ近くに紀州鉱山で働いていた人がいることがわかった。
安浩烈氏に案内されてその人の家に向かう。
挨拶してすぐに話しを聞かせてもらう。いまの名は、丁榮・だが、もとの名は丁泰順で、朝鮮戦争のあと戸籍をつくるときに改名したという。紀州鉱山では、「錦羅泰順」という名だったという。名簿をみると、加里山里を本籍とする「錦羅泰順」という人の名がある。その生年月日は「大正一、九、九」となっている。丁榮・氏の生年月日は、1917年9月9日だという。「大正一」は「大正六」の誤記だろう。丁榮・氏は加里山里に住んだことはなく、院岱里の出身だという。南北里の金興龍氏の本籍も名簿では加里山里になっていた。「紀州鉱山1946年報告書」の記述は正確ではない。

丁榮・氏の話。
「麟蹄郡から100人が紀州鉱山にいった。1944年の9月だったとおもう。帰国したのは95~96人だった。紀州鉱山では運搬夫をやらされた。1か月35~40円うけとった。監督は中山という朝鮮人だった。飯場の食事はすくなく、ハコベを食べたこともあった。麟蹄からきた人のうち、一人だけ逃げた人がいた。その後のことはわからない[「紀州鉱山1946年報告書」では、麟蹄郡から強制連行された人のうち朴奇善氏、「平山桐賢」氏、「延日亀河」氏、金敦福氏の4人が「逃亡」したとされている]。事故で死んだ人はいなかったが、一人が病気で死んだ。「八・一五」のとき、これでこどものいる家に帰れるとおもった。こどもは4人いた。帰国の時には、金はまったく受けとっていない。帰ったのは「解放」の年の12月だったとおもう。名簿にある「青松鍾振」の本名は沈鍾振だ。かれは帰国しなかった(金興龍氏は、沈鍾振は帰国後、北にいったといっていた)。「岩田寅官」の本名は辛寅官だ。いまは、忠清北道清安面錦新里にいる。元気だ。

「茂山王・」は、孫王・だ。近くの下南里に住んでいる。元気だ。「安山敬夏」は、崔敬夏だが、だいぶまえに死んだ。「山本錫俊」の本名は、朴錫俊だ。洪川にいったが、いまの消息はわからない。「竹山俊菊」は全俊菊だ。かれは4~5年まえに死んだ。金允徹は北にいった」。

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(6)麒麟面で

2006年04月12日 | 紀州鉱山
(6)麒麟面で
 夕方、麒麟面事務所のある県里に着いた。
総務係長の安浩烈氏が真剣に対応してくれる。まもなく、麟蹄邑合江里の合江精米所のそばに紀州鉱山ではたらいていた金石煥氏がすんでいることがわかる。住民係の青年が住民登録簿を丁寧に点検してくれる。芳東里出身の金鍾千氏(名簿では、金本鍾千氏)の消息がわかった。金鍾千氏は、1972年9月に清州市に転出していた。こんかい、麟蹄郡の面事務所で住民登録簿から「紀州鉱山1946年報告書」に記載されている人の消息がわかったのは、金鍾千氏だけだった。

(7)丁榮・氏に会って
つづいて、面事務所のすぐ近くに紀州鉱山で働いていた人がいることがわかった。
安浩烈氏に案内されてその人の家に向かう。
挨拶してすぐに話しを聞かせてもらう。いまの名は、丁榮・だが、もとの名は丁泰順で、朝鮮戦争のあと戸籍をつくるときに改名したという。紀州鉱山では、「錦羅泰順」という名だったという。名簿をみると、加里山里を本籍とする「錦羅泰順」という人の名がある。その生年月日は「大正一、九、九」となっている。丁榮・氏の生年月日は、1917年9月9日だという。「大正一」は「大正六」の誤記だろう。丁榮・氏は加里山里に住んだことはなく、院岱里の出身だという。南北里の金興龍氏の本籍も名簿では加里山里になっていた。「紀州鉱山1946年報告書」の記述は正確ではない。丁榮・氏の話。
「麟蹄郡から100人が紀州鉱山にいった。1944年の9月だったとおもう。
帰国したのは95~96人だった。
紀州鉱山では運搬夫をやらされた。1か月35~40円うけとった。監督は中山という
朝鮮人だった。飯場の食事はすくなく、ハコベを食べたこともあった。麟蹄からきた人のうち、一人だけ逃げた人がいた。その後のことはわからない[「紀州鉱山1946年報告書」では、麟蹄郡から強制連行された人のうち朴奇善氏、「平山桐賢」氏、「延日亀河」氏、金敦福氏の4人が「逃亡」したとされている]。事故で死んだ人はいなかったが、一人が病気で死んだ。
「八・一五」のとき、これでこどものいる家に帰れるとおもった。こどもは4人
いた。帰国の時には、金はまったく受けとっていない。帰ったのは「解放」の年の
12月だったとおもう。
名簿にある「青松鍾振」の本名は沈鍾振だ。かれは帰国しなかった(金興龍氏は、
沈鍾振は帰国後、北にいったといっていた)。「岩田寅官」の本名は辛寅官だ。いまは、忠清北道清安面錦新里にいる。元気だ。
「茂山王・」は、孫王・だ。近くの下南里に住んでいる。元気だ。「安山敬夏」は、崔敬夏だが、だいぶまえに死んだ。「山本錫俊」の本名は、朴錫俊だ。洪川にいったが、いまの消息はわからない。「竹山俊菊」は全俊菊だ。かれは4~5年まえに死んだ。金允徹は北にいった」。

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(5)加里山里と徳積里で

2006年04月07日 | 紀州鉱山
(5)加里山里と徳積里で
翌日、加里山里に向かった。加里山里の老人会館にも誰もいなかった。
老人会の会長の家を訪ねると、「自分はなにもわからないので、
このむらの最年長の人に聞いてはどうか」という。
最年長の人(朴シヂヨン氏)とその次の年の人(洪ヨンシク氏)の家を聞く。
朴シヂョンシ氏は80歳で、ずっとこの加里山里でくらしてきたという。
名簿の人のなかには、朴シヂョン氏とほぼおなじ年齢の人がおおい。
名簿の姓はすべて日本式の名に変えられているが、「金沢」、「咸田」、「李山」、「金元」などからは、本当の姓が推定できる。だが、朴シヂョン氏は、11人のすべてを知らないという。この村から紀州鉱山に強制連行された人がいるという話をきいたこともない、という。

朴シヂョン氏の家の向かいに、服部友子さんの家があった。服部さんは2月まえに
日本で結婚して、この村に住んでいるという。服部さんは、日本軍の性奴隷とされた女性の問題に関心をもってきたという。これから、私たちの会と連絡しあって、
麟蹄から強制連行された人びとを訪ねるなどするという。
朴シヂョン氏によると、いま加里山里には、日本に強制連行された人が2人住ん
でいるという。

そのひとり、梁承羽氏は、朴シヂョン氏の家から500メートルほど坂道をのぼった
ところに住んでいた。1924年6月3日生まれの梁承羽氏は、20歳の時、1944年8月
に洪川郡から600人が強制連行されたという。洪川郡は、麟蹄郡の南隣の郡だ。
梁承羽氏は、岡山県の三井株式会社の造船所[三井造船玉野造船所]に強制連行され、働かされたという。賃金は、1か月150円。解放後50日ほどたってから、帰国したという。梁承羽氏は、その造船所の住所をいまも憶えていた。岡山県玉野市玉野16番地。

梁承羽氏に会ったあと、加里山里で朴シヂョン氏についで高齢の洪ヨンシク氏を訪ね
た。しかし、洪ヨンシク氏も名簿の人はひとりも知らないという。
そのあと、近くに住む延孔福氏を訪ねた。延孔福氏は、1943年に数え年で21歳の
時、洪川のソソク里から強制連行され、福島県の炭坑で、3交代で毎日8時間、2年間働かされたという。事故が多かったという。解放のあと5か月くらいたってから、新潟→仁川経由で帰国したという。延孔福氏は、その炭坑の名を記憶してい
なかった。早口で力が篭っている延孔福氏のことば(江原道の地域語)を、わたしは、ほとんど聞きとることができなかった。しかし、日本の朝鮮支配にかんする「道理がない」ということばは、はっきり聞こえた。
加里山里から麟蹄邑のほうにもどり、加里山里峠をこえると徳積里だ。名簿による
と徳積里からも10人が強制連行されている。徳積里で年長者の家を聞こうとして、
最初に訪問した家が偶然、里長の家だった。里長は、「この村には昔のことを知っている老人はいない。自分の父なら知っていたかもしれないが、昨年亡くなった」
という。

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(4)瑞和面と北面で

2006年04月06日 | 紀州鉱山
(4)瑞和面と北面で
瑞和面事務所にいった。そこでは、「このあたりは朝鮮戦争のため戸籍で
「八・一五」以前の人のことを知るのはできない」というだけで、きちんと対応しようとしない。
瑞和里の老人会の会長の名(沈在閔氏)と天桃里の老人会の会長の名(沈相吉氏)を聞いて、瑞和行きのバスのくる道を瑞和に向かって歩く。まもなく天桃老人会館の建物をみつけたのではいってみる。10人ほどの人が現金を賭けて花札をやっている。そのなかに天桃老人会の会長の沈相吉氏もいたが、なにもわからない、という。瑞和老人会館を訪れるが誰もいない。隣の家の人に老人会の会長の家を聞き、
訪ねた。だが、沈在閔氏は昨年亡くなっており、50代の老人会の新会長は、なにも
知らないという。
麟蹄邑と瑞和面のあいだに北面がある。名簿には北面の月鶴里の人の名が11人
書かれている。瑞和里からバスで、月鶴里にむかった。バスの運転手は、「月鶴里にはいくつも村がある。そのうちのどの村にいくのか」という。老人会館のある村でおろしてもらうことにする。バスを降りると、すぐ前に国民学校があった。教師の一人が、近くの老人会館に案内してくれる。
 月鶴里老人会館にも、誰もいない。農繁期なのだ。
とおりかかった人に、月鶴里から紀州鉱山に強制連行させられた人がいないかを訪ねるが知らないという。その人は、朴海元氏といい、家は、老人会館のすぐ裏(江原道麟蹄郡北面月鶴里3里2班)だという。朴海元氏の話。
「1931年生まれだ。麟蹄の小学校にかよった。校長は日本人で、教師のほとんどは
朝鮮人だった。授業はすべて日本語で、学校で朝鮮語をつかうと足をたたかれた。
生徒は朝鮮人だけだった。日本人の学校は別にあった。家では両親と朝鮮語で話したが、友達とは日本語ではなした」。
朴海元氏は、日本語ができるはずだ。だが、教師になぐられた道具の名をいうときに「シナイ」ということばをつかったほかは、ほとんど日本語を使おうとしない。
わたしも朝鮮語でがんばる。こういうときに日本語をつかっては、真剣な対話がなりたたず、きちんとした話を聞くことができない。もちろんわたしのつたない朝鮮語の力では聞きとりにおおきな限界がある。しかし、日本語をつかっての聞きとりよりははるかに深い真実を聞きとることができるように感じる。
朴海元氏は、非常な早口で、多くのことを語る。日本への憎しみがあふれている。
朴海元氏も昨夜会った李順如氏と同じに、倭政時代ということばをつかう。
「小学校5年のとき、教師に反抗して学校をやめさせられた。兄は、倭政時代に日本にいったきり帰ってこない。生きているのか死んでしまったのか。いまいきていれば70歳だ。父親は早くなくなった。自分は戸主ではないが、兄が帰ってこないので、小さいときから戸主の役割をしなければならなかった」。
朴海元氏が老人会館から通りをへだてた家に案内してくれる。そこに女性が一人で
住んでいる。その沈順玉氏の夫は、日本で働いていたことがあったが、昨年亡くなったという。沈順玉氏にも月鶴里から紀州鉱山に強制連行させられた人のことを尋ねるが知らないという。沈順玉氏の話。
ここは、38度線の北側で、朝鮮戦争までは、北韓だった。日帝時代に村からでて
いった人が多く、さらに朝鮮戦争で、死んだか生きているかわからなくなってしまった人が多い。

そのあと、北面の面事務所にいく。若い女性の事務員が、6時までの勤務時間を
こえても熱心にコンピュータに入力されている戸籍簿を検索してくれる。だが、
ひとりも見つからない。「すみません」というが、そのようにいわれると、困る。

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(3)金鳳俊氏・金興龍氏・金花一氏に会って

2006年04月05日 | 紀州鉱山
(3)金鳳俊氏・金興龍氏・金花一氏に会って

翌日朝、南北里の金鳳俊氏に会った。1924年生まれだが、戸籍上は1920年生まれに
なっているという。金鳳俊氏(江原道麟蹄郡麟蹄邑南北里1里4班)の話。
「1943年に日本海軍に志願した。金海の海軍訓練所にはいったあと、横須賀にいったが、肺がわるいことがわかって、除隊。その後、「八・一五」まで、川崎にある日本油化ではたらいていた」。
金鳳俊氏に、ここ南北里で紀州鉱山に強制連行された人はいないか、と聞くと、
あの人がそうかもしれないといいながら、さっそく電話をかけてくれる。
 電話をきると、すぐ、やはりそうだった、という。近くに住んでいるという。
路地をとおりぬけ、金鳳俊氏の家から300メートルほどはなれたところに、その人の家はあった。中庭があり、そこで女の人が洗濯をしていた。
すぐに部屋から顔をだした人が、金興龍氏だった。部屋に案内され、あらためて
挨拶をし、訪問の理由を話した。
金興龍氏は、南北里から強制連行されて、紀州鉱山で働かされたという。そのとき
南北里からは、ほかに2人がいっしょに紀州鉱山にいったという。しかし、名簿には、南北里の人は2人だけだ。そのなかに金興龍氏の名はない。名簿が不完全で、金興龍氏の名がおとされているのか?  金興龍氏の話。
「あのとき麟蹄郡の戸籍から100人が選ばれた。自分もその一人だった。結婚して
5年後のことで、3歳の子供がいた。「徴用」で、むりやりだった。紀州鉱山につれていかれ、満2年間働かされた。当時、紀州鉱山には、朝鮮の各道から800人ほどがつれてこられていた。
宿所の名は憶えていないが、いくつも部屋がある建物で、12畳の部屋に12人がいれ
られていた。紀州鉱山についてはじめの6か月は、仕事の訓練をやらされた。
賃金は、2年間で一度100円をうけとっただけだった。
解放の年の10月か11月に帰国したが、そのときには金はまったく
受けとっていない。

新宮から大阪にで、大阪から下関にいき、さらに博多にいって、
そこから船で釜山にかえった。
名簿にある「青松鍾振」の本名は、沈鍾振だ。かれは、
北にいったきり消息がない。

「青松太達」は、沈太達だ。かれの消息もわからない。
100人のうち金学興(名簿では「金山学興」)1人だけが帰国しなかった。
好きな女性がいるようだった。「逃亡」した人はいなかった。自分も、逃げようと思わなかった。
逃げたら故郷の家族がひどい仕打をうけると思った」。
金興龍氏は、いま83歳だという。生年を聞くが、はっきり知らないという。
住民票に書いてあるかも知れないといって、見せてくれるが、
住民票には生年月日は書いてなかった。韓国では数え年で年齢を数えるから、
生年は1914年かもしれない。
「紀州鉱山1946年報告書」には、麟蹄郡加里山里を本籍とする「金元興龍」という
名がある。「金元興龍」氏の生年は1914年となっている。この「金元興龍」氏が、
金興龍氏なのだろう。「紀州鉱山1946年報告書」では、麟蹄から「徴用」された
96人の「入所年月日」は、すべて1944年11月9日となっている。2年間というのは、
金興龍氏の思い違いかもしれない。

金興龍から話を聞いていると、さっき中庭で洗濯をしていた女の人が、部屋の入口
から、酒を飲むかとわたしにいう。その人は金興龍氏の妻の金花一氏だった。

金花一氏の話。
「夫が日本につれていかれたとき、わたしは数え年で21歳だった(1924年生まれ)。
父親が早く亡くなり、15歳のとき結婚した。夫がいなくなったあと、残されたわたしと3歳の子供は、食べていくのにいつも苦労していた。いちどだけ紀州鉱山の夫から100円送られてきたことがあるが、それだけだった。ここは、冬はとてもさむい。小さなこどもをつれて、よく山にたきぎを拾いにいった。解放のあと、朝鮮戦争になり、そのときもたいへんだった」。

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(2)金奉根氏・李順如氏・白玉順氏に会って

2006年04月03日 | 紀州鉱山
(2)金奉根氏・李順如氏・白玉順氏に会って
 麟蹄邑事務所をでて、金奉根氏の家をふたたび訪ねた。
金奉根氏は、紀州鉱山にいったことはないという。「紀州鉱山1946年報告書」の
「金村奉根」氏とは同姓同名の別人だった。1923年3月7日生まれで、1年半の間、
日本軍の軍人にされていたという。
わたしが訪問したとき、いっしょに李順如氏と白玉順氏の二人の女性がいた。
李順如氏は、日本が朝鮮を植民地としていた時代に兄と別れたきりだという。李順如氏は、その時代を倭政時代(ウエヂョンシデ)という。李順如氏のことばが力強く響き、わたしのからだに突きささる。だが、その内容をわたしはほとんど聞きとることができない。ことばが、わたしに響いてくる。

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1)麟蹄郡事務所と麟蹄邑事務所で

2006年04月01日 | 紀州鉱山
1)麟蹄郡事務所と麟蹄邑事務所で
江原道の20万分の1の地図と麟蹄郡の5万分の1の地図(6枚)、「紀州鉱山1946年
報告書」をもって、ソウルから麟蹄にむかった。バスで4時間あまりだ。
麟蹄について、まず麟蹄郡事務所にいったが、戸籍簿はここには、ないらしい。
事務所の入口で印紙をうっている老人を紹介される。「紀州鉱山1946年報告書」の
名簿をみせて尋ねると、名簿のなかの金興龍氏が、近くの南北里の国民学校の近くに住んでいるという。
 南北里にいき、「八・一五」以前に日本にいっていた人の家を訪ねるが不在。
宿の主人に名簿を見せると、名簿のなかの金奉根氏が近くに住んでいるという。
宿の住所が、名簿にある上東里だという。名簿によれば上東里からは5人が強制
連行されている。すぐに金奉根氏の家を訪ねるが、不在。そのあと麟蹄邑事務所にいく。
民願係長の張貴男氏が「除籍索出帳」を、一人ひとり、熱心にあたってくれるが、
みつからない。「除籍索出帳」には戸主しか記載されていないという。わたしは、
現在の戸籍簿をみてほしいというが、朝鮮戦争のあと、1953年から1958年にかけて
新しく戸籍簿をつくったのでそれにはのってないだろうという。
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