三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

愈萬童さんと河相祚さん

2010年09月30日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(2010年9月30日)午前、韓国全羅北道益山市で、愈萬童さんの甥(妹の息子)の李正求さんに話を聞かせてもらうことができました。愈萬童さん(1914年2月25日生)の除籍簿には、1945年4月5日午前5時55分に「海南島三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡と書かれてありました。日本敗戦の4か月あまり前でした。
 李正求さんのお母さん(愈七多禮さん)は、“オッパ(兄)は背の高いやさしい人で、文字を教えてくれた。日本に徴用されそうになったので故郷の益山から開城のほうに逃げてつかまり、それきり行方がわからなくなった。死亡通知がきて、死んだことがわかった。かしこかったオッパ(兄)が、南洋群島で死んでしまった。遺骨はもどれなかった”、と言っていたそうです。

 きょう午後、韓国慶尚南道居昌郡カブック面の自宅で、河相祚さんから話を聞かせてもらいました。
 河相祚さん(1925年4月23日生)は、“鎮海の日本海軍警備府の海兵団に入れられ、半年間、第3期生として「訓練」を受けた。そのとき、何人もの人が死んだ。1943年か1944年の冬、日本海軍鎮海警備府の水兵として鎮海から日本の佐世保と台湾の高尾を経由して海南島につれていかれた。乗せられた船は小さな船で、乗っていたのは第3期生の朝鮮人7人だけだった。海南島に着くまで、どこに連れて行かれるのか知らなかった。日本海軍海南警備府横須賀第4特別陸戦隊に入れられ、黄流の近くの銀高嶺砲台に配属された”と話しました。
 明日朝、さらに話を詳しく聞かせていただくことにしました。
                              佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 15(最終回)

2010年09月29日 | 海南島史研究
■日本の侵略犯罪の証拠
 海南島で、6年半の間に、日本軍が、海南島民衆を何人殺害し、何人傷つけたのか、そのおおまかな人数すらわかっていません。
 国民国家日本の侵略犯罪事実を明らかにするのには、口述史料が決定的な役割を果たします。
 「妙山村大屠殺紀実」もわたしたちの報告文も、聞きとりに基づいて書かれています。
 日本軍の侵略犯罪事実は、聞きとりの記録なしには、海南島近現代史から消し去られてしまうところでした。
 アジア太平洋の各地に、日本の侵略犯罪事実を示す「もの」史料が、地上、地下、土中、水中、海中に残されています。
 日本の侵略犯罪事実を示す「もの」史料は、海南島に限っても、数千個あるいはそれ以上あると思いますが、存在が確認されているものは、わずかです。
 いまは、日本軍が犠牲者を投げ入れた妙山村の井戸跡は埋め立てられており、草がまばらに生えています。しかし、発掘すれば、遺骨は遺品を発見できるかもしれません。
 ことし(2008年)4月28日に、瓊海市中原鎮鳳嶺村で話を聞かせてもらったとき、欧先梅さんは、「ここで3人、向こう側で2人、その先で2人殺されていた」と話しました。
 その場所は、ビンロウの樹や椰子の樹が立っている赤土の路上でした。その路上が、虐殺現場であったことを、わたしたちは、欧先梅さんの証言によって、はじめて知りました。
  「もの」や「場」は、証言なしには、単なる「もの」であり風景です。
 日本の国家犯罪にかかわる幸存者・被害者・目撃者の証言を聞きとり、記録することは、日本の国家犯罪の歴史的証拠を、証言者と記録者が共同で確定することであり、その証拠の客観性は、証言者と聞きとる者との関係のありかたに規定されるのだと思います。
                                            佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 14

2010年09月28日 | 海南島史研究
■日本軍文書
 海南島で住民虐殺など、残忍な侵略犯罪をくりかえしていたのは、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属していた将兵たちだけではありません。
 日本海軍中枢は、海南島に侵入していた海南島根拠隊を海南警備府に改編しました。日本海軍中枢は、海南警備府本部を海口におき、海南島全域を5つに区分し、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に軍事支配させました。
 海南警備府は、毎月、300~500頁の『海南警備府戦時日誌』を日本海軍中枢や海軍功績調査部に提出しました。現在、『海南警備府戦時日誌』のうち、1941年12月~1943年11月、1944年3月~7月の分のみが公開されています。
 『海南警備府戦時日誌』には、毎月の「綜合戦果一覧表」が掲載されています。
ここに書かれている数字は、「功績」を過大に見せかける操作をしていると考えられるので、そのまま実数であると判断できないと思いますが、たとえば、1942年8月の『海南警備府戦時日誌』の「海南部隊八月中綜合戦果一覧表」には、「敵ニ与ヘタル損害」として、つぎのように書かれています。

 第15警備府
   遺棄死体4
   射刺殺94
   捕虜23
   帰順3
   焼却兵舎0
   討伐回数251
 第16警備隊
   遺棄死体11
   射刺殺0
   捕虜3
   帰順26
   焼却兵舎71
   討伐回数184
 佐世保鎮守府第八特別陸戦隊
   遺棄死体89
   射刺殺53
   捕虜24
   帰順26
   焼却兵舎84
   討伐回数202
 舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊
   遺棄死体9
   射刺殺67
   捕虜43
   帰順12
   焼却兵舎45
   討伐回数136
 横須賀鎮守府第四特別陸戦隊
   遺棄死体0
   射刺殺8
   捕虜33
   帰順0
   焼却兵舎0
   討伐回数230
 計
   遺棄死体113
   射刺殺222
   捕虜126
   帰順67
   焼却兵舎200
   討伐回数1003

 第15警備府
   戦死10
   負傷9
 第16警備隊
   戦死0
   負傷0
 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊
   戦死2
   負傷3
 舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊
   戦死2
   負傷3
 横須賀鎮守府第四特別陸戦隊
   戦死0
   負傷0
 計
   戦死14
   負傷15

 ここには、日本海軍陸戦隊の諸部隊が、1942年8月の1か月間に、海南島各地の村落などを1003回襲撃し、「敵」335人を殺し、126人を捕虜とし、67人を「帰順」させ、家屋200を焼き、そのさい将兵14人が「戦死」し15人が負傷したと書かれています。
 1939年2月に海南島を奇襲するさいに日本海軍は、この軍事行動を「Y一作戦」と名づけて、この年11月までおこない、その後、1940年2月~4月に「Y二作戦」を、1941年2月~3月に「Y三作戦」をおこないました。
 その数か月後の1941年7月には、日本陸軍第25軍(約4万人)が、海南島三亜港から西方に向かい、ベトナム南部とカンボジアに侵入しました。
 さらに、日本海軍は、1941年8月に「Y四作戦」を、1941年11月~42年1月に「Y五作戦」をおこないました。「Y五作戦」のさなか、12月4日に海南島三亜から出港した日本軍が12月8日午前1時半にコタバルを奇襲し、アジア太平洋戦争を開始しました。
 日本海軍は、海南島で、1942年6月に「Y六作戦」を、1942年11月~43年4月に「Y七作戦 1期」を、1943年4月~5月に「Y七作戦 2期」を、6月に「Y七作戦 3期」を、1943年12月から1年間断続的に「Y八作戦」を、1944年12月に「Y九作戦」をおこないました。
 海南島で日本軍は、「Y作戦」の期間だけでなく、海南島占領の全期間に残虐行為を重ねていました。

 日本海軍海南警備府第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の総計約1万人の5部隊が、海南島で、1003回の軍事行動をおこない、「敵」335人を殺し、126人を捕虜とし、67人を「帰順」させ、家屋200を焼き、そのさい将兵14人が死んだと報告した1942年8月に、海南島東南7000キロのガダルカナル島で、多くの住民を犠牲にしつつUSA軍と日本軍の戦闘が開始されていました。
 この島で、天皇ヒロヒトを最高指導者とする日本軍の中枢は、1943年2月まで戦闘を継続し、2万人以上の日本兵が、餓死・病死・戦死しました。
 ガダルカナル島などでの戦闘に「参戦」した(「参戦」させられた)ソロモン人の口述のソロモンピジン語とイングランド語からの日本語訳が出版されています(D.W.ゲゲオ他『ビッグ・デス ソロモン人が回想する第二次世界大戦』小柏葉子監訳、現代史料出版、1999年)。
                                            佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 13

2010年09月27日 | 海南島史研究
■侵略犯罪の基礎証拠:証言と追悼碑
 日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、1941年5月13日未明、楽会県互助郷波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の三村を襲って住民を殺しました。いま、波鰲村入り口にある墓の前に犠牲者129人すべての名を刻んだ墓碑が建てられています(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』12頁を見てください)。
 さらに佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村で住民を虐殺した翌月、6月24日に、互助郷東隣りの北岸郷の北岸村と大洋村を襲撃し、数日間に、多くの村人や通行人を殺しました(北岸村に、そのときの犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられています。写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』表紙および13頁を見てください)。
 互助郷の坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、鳳嶺村、吉嶺村、官園村でも、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、1945年4月12日(農暦3月1日)に多くの村人を殺害しました(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』14頁を見てください)。幸存者の一人、曹靖さんが書いた『日本法西斯“三光”政策罪行録  回顧長仙聯村“三・一”血泪史』(2005年8月)に殺された村人384人の名が記されています。
 互助郷9か村で大虐殺をおこなった佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、その20日後、日本敗戦の3か月半まえ、1945年5月2日(農歴3月21日)に、月塘村で村人190人を虐殺しました。

 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の本拠地であった日本九州佐世保市内にある「海軍墓地」に、1974年に建てられた「海南島忠魂碑」があります。その左脇に、約300人の名が書かれている「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」があり、右脇に「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者を出すに至った」と書かれた石があります。
 防衛図書館で公開されている文書群には、互助郷の波鰲村ら3か村、北岸郷の北岸村と大洋村、互助郷の長仙村ら9か村、月塘村で、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊が住民虐殺をおこなった時期の文書はふくまれていません。
 『佐世保鎮守府特別陸戦隊行動調書』には、この時期以外の「戦果並被害」が、つぎのように書かれています(原文は、「元号」使用)。

 1941年12月11日~1942年1月25日
 Y五作戦第二期作戦
   遺棄死体156
   射刺殺586
   捕虜24
 1942年1月20日~1月23日
 第二次南閭方面作戦
   遺棄死体1 
   射刺殺67
 1942年3月10日
 加徳洋奥作戦
   遺棄死体10
   射殺16
   戦死2
   戦傷3
 1942年4月9日~4月13日
 万寧地区作戦
   遺棄死体7
   捕虜5
   戦傷2
 1942年5月6日~5月17日
 南閭方面進駐作戦
   捕虜1 
 1942年6月8日~6月25日
 Y六作戦
   遺棄死体61
   射殺6
   刺殺12
   捕虜5
   戦死1
   戦傷6
 1942年11月1日~1943年4月19日
 Y七作戦第一期
   遺棄死体170? 140?
   捕虜78
   射刺殺447
   戦死24
   戦傷33
 1943年4月20日~1943年6月4日
 Y七作戦第二期
   遺棄死体95
   射刺殺54
   捕虜16?
1 943年5月9日
 加徳洋方面作戦
   遺棄死体86
   射刺殺52
   捕虜11
   戦死5
   戦傷19
 1943年5月10日~5月18日
 文塘方面作戦
   遺棄死体6
   射刺殺1
   捕虜5
   戦傷2
 1943年5月19日~5月23日
 翰林南方作戦
   遺棄死体3
   射刺殺1
   戦傷1
 1943年6月5日~24日
 Y七作戦第三期
   遺棄死体30
   射刺殺19
   捕虜1
   戦死3
   戦傷2
 1943年11月3日~1943年11月30日
 嶺門方面進駐作戦
 1943年12月1日~1944年5月7日
 Y八作戦

 互助郷波鰲村ら3か村、北岸郷北岸村と大洋村、互助郷長仙村ら9か村、万城鎮月塘村などでの日本軍の侵略犯罪の基礎証拠は、被害者の証言(口述)記録と追悼碑だけです。
                                            佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 12

2010年09月26日 | 海南島史研究
■妙山村虐殺
 周英柳さんが語った妙山村での日本軍の行動にかんする旧日本軍の文書は、公開されていません。
 この事実にかんする文献は、陳錫礼「屠殺紀実」(中国人民政治協商会議三亜市委員会編 『日軍侵崖暴行実録』紀念中国人民抗日戦争勝利50周年、『三亜文史』5、1995年8月)の他に、「三亜市羊欄鎮 妙山村」(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』)、紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島2007年1月 人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した」(『パトローネ』69号、2007年4月)があるだけです。
 陳錫礼「妙山村大屠殺紀実」は、すこし加筆されて、「陰施毒計 誘殺村民――妙山村大屠殺紀実」という表題で海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(『海南文史資料』11、1995年8月)に再掲されています。
 「妙山村大屠殺紀実」には、日本軍が妙山村で「大屠殺」をおこなったのは1940年農暦11月16日であったと書かれていますが、防衛研究所図書館で公開されている文書には、この時期の『海南警備府戦時日誌』や『海南警備府戦闘詳報』はふくまれていません。

 わたしが初めて妙山村を訪ねたのは、2006年12月31日でした。
 そのときのことを、わたしは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログで2007年1月1日~3日につぎのように報告しました。

★海南島2007年1月1日
 陽暦元旦の海南島三亜のようすは、とくにほかの日と変わっていません。黎族にとっても回族にとっても、苗族にとっても、漢族にとっても、とくに陽暦元旦に、とくべつな意味はないようです。
 2006年12月31日と2007年1月1日に、わたしたちは、妙山村を訪ね、黎金龍さん(1922年生)に日本占領期のことを聞かせてもらいました。妙山村は、わたしたちが、昨年4月と5月に訪ねた六郷村の隣り村です。
 妙山村も六郷村も三亜市河東区妙林郷に属しており、六郷村は黎族の村、妙山村は漢族の村です。六郷村の名は、海南島に侵入した日本人の「移民村」として、防衛図書館にある海南島侵略日本軍関係文書などにでています。
 妙山村の入り口から70メートルほど南に、この地でたたかった抗日戦士の追悼碑が建っていました(1984年建立)。
 84歳の黎金龍さんは、しっかりした口調で話してくれ、複雑な内容をわたしたちが聞きあぐねていると、勢いのある文字を書いて示してくれました。
 黎金龍さんの家は、村の入り口にある樹齢300年ほどの酸豆樹のそばにあり、そこから200メートル離れたところに、むかし井戸があったそうです。
 三亜からきた日本軍が、そこで、村の青年24人の首を竹で締めつけ動けないようにして、日本刀で殺すのを、黎金龍さんは見たといいます。
当時、村人は400人ほどでしたが、日本軍は、村人をむりやりその殺害現場に集めたのだそうです。
 日本兵は、ひとり殺すと井戸に投げ込み、またひとり殺すと井戸に投げ込み、虐殺を繰りかえしました。遺骸は、のちに遺族がひそかに井戸を掘り返して、それぞれの墓地に埋めました。
 24人の青年は、日本軍に反抗したという理由で虐殺されたが、それが具体的にどのようなことであったのかは、黎金龍さんにはわからなかったそうです。
 その井戸跡に、黎金龍さんに案内してもらいました。いまは、まわりに家が建っていますが、当時は林だったといいます。その井戸を使えなくしてしまったので、新しく日本軍が村人に掘らせた井戸が近くにあって、いまも使われていました。
 殺された青年のなかには、結婚して子どもがいた人もいたといいます。
 黎金龍さん自身も、日本軍と出会うのを嫌って、何人かの村人といっしょに山の中に逃げたが、つかまり、頭を銃でなぐられ血を流したことがあったそうです。
 1995年8月に発行された中国人民政治協商会議三亜市委員会編『日軍侵崖暴行実録』(紀念中国人民抗日戦争勝利50周年『三亜文史』5)に、陳錫礼さんが書いた「妙山村大屠殺実録」が掲載されています。その内容と、黎金龍さんの証言とを合わせ、さらにおおくの村人に話を聞かせてもらい、妙山村虐殺の事実を明らかにしていきたいと思います。

★妙山村で 2007年1月2日
 きょうも妙山村を訪ねました。張球華さん(1932年生)から話を聞かせてもらうことができました。
 日本軍が三亜飛行場をつくるとき、少年だったにもかかわらず働かされた張球華さんは、つぎのように話しました。
    「労働者に水をくばってまわる仕事などをさせられた。報酬はなく、わずかな食べ
   物だけをもらった。日本軍に協力する者がいて、飛行場で働く村人を集めた。
     労働者のなかに朝鮮人がいた。その人たちは囚人だと、おとなから聞いたこと
   がある。
    蒋介石軍かアメリカ軍の飛行機がきて、飛行場に爆弾を落とし、自分は助かった
   が、いっしょに働かされていた子どもが何人も死んだ。
     日本兵は、わたしの仕事が遅いといって足を棒でなぐった」。
 張球華さんの両足のももには、その傷跡が、まだ残っていました。張球華さんが見たという朝鮮人は、「朝鮮報国隊」の人たちだと思われます。
 日本軍が24人の青年の首を日本刀で切り落とし、首と身体を井戸になげこんだのを、張球華さんも目撃したが、怖かったので近づけなかったそうです。子どもだったので理由はよくわからなかったが、見せしめだ、と思ったといいます。
 わたしたちが村のなかで話を聞かせてもらっていると、子どもたちがまわりにたくさん集まってきて、熱心に聞いています。ときどき、質問をする子どももいます。
 このようにして、村の歴史が伝えられていくのだなあ、と思いました。

 国民国家日本の侵略犯罪のおおくが、まだ隠されたままです。海南島での聞きとりも急がなければならないと、痛感します。妙山村でも、村のことをよく知っているひとが去年亡くなったそうです。きょうも、80歳代や90歳代の村人を何人か訪ねましたが、記憶があいまいになっているとのことで、話を聞かせてもらうことができませんでした。
 ひとつの村での日本軍の犯罪を知るためには、その村に何度も通い、わたしたちの立場と目的をはっきりさせ、村人との信頼関係をすこしでも強くしていかなければなりません。
 村の一隅で、子どもたちをふくむ多くの村人に囲まれながら、聞きとりをさせてもらっているとき、わたしたちは、自分たちの歴史的ありかたを、村人に見つめられているように感じます。

★妙山村で 2007年1月3日
 きょうも妙山村を訪ねました。
張球華さんに案内されて、劉土清さん(1922年生)に会うことができました。劉土清さんは、自宅の庭で、友人の劉貴聯さん(1920年生)とくつろいでいるところでした。
 84歳の劉土清さんは、ささやくような小さな声で、しかし、しっかりとした口調で話してくれました。
 終始静かな表情で、わたしたちを見つめながら、劉土清さんが話したのは、つぎのようなことでした。
    「わたしは、6人きょうだいだ。兄が二人、姉が三人、わたしは末娘だ。母は、わた
   しが12歳のときに亡くなった。
     日本軍が来る前は、食べるものもたくさんあったし、この辺は農作物がよくでき
   るので、季節ごとの村のまつりはとても楽しかった。
     日本軍が来てから、いっきに変わってしまった。日本軍のあとに、日本人農民も
   やってきて、土地を奪った。
     ある日、突然、日本軍がわたしの家に来て、火をつけた。そのとき、逃げようと
   した父が、銃で撃たれて死んだ。父の名は劉慶堂。60歳をすこし過ぎていた。
     父が撃たれて倒れる姿がいまも見える。
     父の遺体を埋めて、みんな山に逃げた。そのとき、きょうだいがみんな、ばらば
   らになってしまった。
     燃やされたのはわたしの家だけでない。日本軍は、あのとき20軒ほどの家を燃
   やし、コメも麦粉も燃やし、着る物も燃やした。日本軍がなぜなにもかも燃やした
   のか、いまもわからない。
     山では、黎族の人たちに助けてもらい、そこで働いた。みんないっしょで同じも
   のを食べた。山の中にいたのは、1年半くらいだったと思う。
     日本軍がいなくなってから、山から戻った。だが、きょうだいはひとりも戻らな
   かった。
     日本軍に父を殺されて逃げてから60年あまりになるが、あのときから、きょうだ
   いに会っていない。
     村に戻ってから、父を埋めた場所を探したが、わからなくなっていた。あたりの
   ようすがすっかり変わっていた。日本人がかってに畑地を、日本人の好きな種類の
   コメをつくる水田にしてしまっていた。
     日本軍がいなくなっても、もとの楽しい生活はかえってこない。
     日本軍がくるまえは、自分たちの田畑で安心して生きていた。家族そろって食事
   して……。
     日本軍が来てからは、ひもじい思いをするようになった。楽しいことがなくなっ
   た。日本軍は家族をめちゃくちゃにした。
     日本兵に乱暴され、その後の人生を変えられてしまった女性が、この村にも何
   人もいた」。

 劉土清さんが話すのをそばで聞いていた劉貴聯さんは、妙山村の近くの村人でした。
劉貴聯さんは、
    「日本軍の三亜飛行場建設のとき土運びをさせられ、走るようにして働かないと、
   “バカヤロ”といわれて殴られた、小さい子どもも働かされた。
     日本軍がきてからそれまで穏やかだった毎日の生活が不安定になった。若い
    女性は、みんな逃げた。家族がばらばらになった」
と話しました。

 妙山村でも、当時のことを知っている年齢の人は少なくなっています。
 わたしたちが、虐殺現場の井戸のあった場所に立っていると、林亜女さんが近づいてきて、祖母の林金玉さん(1930年生)からここでの虐殺の話を聞いたことがあるが、いま祖母は耳がまったく聞こえなくなったので、もう誰にも当時のことを話せなくなってしまった、と言いました。
                                            佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 11

2010年09月25日 | 海南島史研究
■証言・記録
 日本の侵略犯罪の被害者がその記憶を、みずからがことばや絵などで表した記録の内容と、その記憶を聞きとった者がことばなどで表した記録の内容とは、同じではないでしょう。
 被害者自身がその記憶を他者が知りうるかたちで記録することがない場合、その記憶を聞きとることとそれを記録することは、その被害事実にかんする唯一の史料を作成する作業となってしまいます。
 聞きとることとそれを記録することは、その歴史的事実にかんする史料を作成する作業です。証言という史料(口述史料)の場合、それを作成する作業には、その信憑性を検証する作業が内包されているのだと思います。
 信憑性を検証しつつ作成された口述史料であっても、その内容がそのまま事実を示しているとすることができないのは、文書史料の場合と同じです。
 加害者の証言の場合は、かれらが語らないからといって(あるいは否定するからといって)、その事実がなかったことにすることはできません。これまで、わたしたちは、海南島に侵入していた日本人旧兵士、日本人旧警官、日本人旧刑務官、日本人旧教師などから証言を聞かせてもらおうとしてきましたが、かれらの多くが証言を拒否しました。このような場合には、証言を拒否するというかたちで証言しているのだと、わたしたちは判断してきました。

 これまで、わたしたちは、海南島で、日本の侵略犯罪の被害者と抗日反日闘争を戦った人たちの証言を史料化してきました。それは、被害者自身がその記憶を他者が知りうるかたちで記録する作業のきわめてわずかな部分を代行することでもあったと思いますが、もちろん、その史料としての質は、大きく異なっています。
 今年(2008年)4月24日午後、林家村で、周英柳さんから、証言を聞き、記録し、それを後日、
     「村人がみんなで、日本軍が殺して投げ入れた人たちを大井戸から引き上げ
    た。最後に大井戸の底から引き上げられたのが、父だった。遺体は、みんな男
    性だった。20人あまりだった。わたしの父は、首を切られていたが、頭は皮一
    枚でつながっていた。父の名は、周天寿。農民だった。父が大井戸のいちばん
    下にいたのは、いちばん最初に殺されたからだ」
という日本語にしました。
 この日本語は、周英柳さんがあのとき目撃した事実をいくらかは伝えているとは思いますが、周英柳さんの感情や心理はほとんど表現されていません。少女のとき父を日本兵に虐殺された人の記憶を他者が、しかも日本人が、本人の手記と同じ質をもつことばで記録(表現)できるはずがありません。
 海南語で語る周英柳さんの証言を、聞きとったのは、林彩虹さんでした。
 そばにいるわたしたちに、林彩虹さんが周英柳さんの証言を漢語に通訳し、わたしたちの発問を林彩虹さんが周英柳さんに通訳するというかたちで聞きとりがすすめられましたが、そのとき、周英柳さんは、日本人であるわたしたちに対してではなく、孫のような海南島生まれの若い女性に語っていたのだと思います。
 しかし、わたしは、これは、周英柳さんの記憶をほとんど伝えていないのではないか、とおそれています。
                                            佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 10

2010年09月24日 | 海南島史研究
■史料の信憑性
 口述史料批判を、文書史料批判、文献資料点検とともにおこなうことによって、証言、文書、文献それぞれの信憑性を確かめることができます。
 史料の信憑性を確かめるためには、複数の史料を照合しなければなりません。
 あたりまえのことですが、そのためには、まず、方法を尽くして、探究している史実にかんする文書史料と網羅的に収集し、探究している史実にかんする証言をできるだけ多くの人から聞かせてもらわなければなりません。
 これまで、わたしたちは、日本侵略期・抗日反日闘争期の海南島史、とくに国民国家日本の海南島での侵略犯罪史を明らかにしようとしてきましたが、文書史料や文献資料を探索・収集するとともに、おおくの方から証言を聞かせてもらってきました。

■急いで聞きとりを
 これまで、海南島各地で、おおくの人びとから、日本の侵略犯罪事実にかんする証言を聞かせてもらってきましたが、聞きとりをすすめていく過程で、この証言を、いま、わたしたちが聞きとり、記録しておかなければ、この人たちが経験した日本の侵略犯罪事実が消し去られていく、という危機感が、日ごとに高まってきています。
 わたしたちのような、小さな民衆組織では、日本の侵略犯罪事実の証言を経験した人たちの証言をきわめてわずかしか記録できません。
 ことばの制約がほとんどない海南島の歴史研究者などが、証言を聞きとり記録するのが、望ましいのですが、その試みはわずかしか実行されていません。

 人の記憶は、記録されることによって、はじめて他者に伝達されるのですが、日本の海南島における侵略犯罪にかかわる日本人加害者の記憶は、ほとんど記録されていません。
  「戦友会」の席などで話されたり、「戦友会」の機関誌などに海南島でのかれらの記憶の断片の記録が掲載されているようですが、ほとんど公開されていません。
 わたしたちが、これまで見ることができたのは、益田善雄『還らざる特攻艇』(鱒書房、1956年6月。改訂版、1987年10月)、破竹会『破竹――海軍経理学校第八期補修学生の記録』(破竹会三十周年記念事業実行委員会、1972年11月)、『三亜航空基地』(三亜空戦友会事務局、1980年11月)、『戦友会だより 三亜航空基地追加編』(1982年11月)、河野司『再見、四十年 中国海南島紀行』(日窒海南島会、1983年)、黒潮会機関誌6号、堀江祐司『一軍医の回想』(堀江病院、1988年)、衣笠一『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』(1997年補筆改定)、田川定男『激流に生きる』(文芸社、2000年10月)、『天涯に陽は昇る 海南島への架け橋』(発行人山本良一、2004年9月)ほか、10冊ほどです。

 海南島においてもそうですが、日本の侵略犯罪の被害者が、自らの記憶をことばなどで記録することは、ほとんどありません。
 海南島で聞きとりし記録しているとき、この人たちの被害事実を、いま、わたしたちが記録しなければ、まもなくこの人たちが経験した日本の侵略犯罪事実が消し去られてしまうという焦りの気持ちをもつのと同時に、このひとたちの記憶を少しでも聞きとり記録することは、証言者から無言で託されたわたしたちのしごとだと感じます。
                                            佐藤正人 
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 9

2010年09月23日 | 海南島史研究
■口述史料と文書史料
 証言者の証言は、そのすべてがそのまま史実の証拠であることは、ほとんどないでしょう。証言(口述史料)もまた文書史料とおなじく、史料批判しなければなりません。
 証言を聞きとるときには、できるだけその「場」でその信憑性を確かめることが必要です。
 証言を聞かせてもらうということは、証言者の記憶をことばで語ってもらうことです。
 「記憶の継承」、「記憶の共同体」などという用語をつかう人がいますが、他者の記憶は継承することはできません。
 「記憶の継承」とか「戦争記憶の継承」などと言う人に、具体的に、記憶を継承する方法を示してもらいたいと思います。とくに、「戦争記憶の継承」などと言う日本人「学者」などには、住民虐殺を実行した日本兵の記憶を、どのように実際に継承するのかを論理的かつ実証的に示してもらうとともに、日本兵に親や兄弟姉妹を殺された人たちの記憶を継承するなどとどうして言うことができるのかを説明してほしいと思います。
 これらの日本人「学者」は、少女のとき日本軍隊性奴隷とされた女性たちの「記憶」を「継承」できると本気で考えているのでしょうか。これらの日本人インテリは、「戦争記憶の継承」、「戦争の記憶の継承」、「戦争の記憶の受け継ぎ」、「記憶の共同体」、「集合的記憶としての戦争の記憶」、「戦争記憶・天皇記憶の管理と再編成」などということばを使うことの悪質さと空疎さを自覚できないのでしょうか。
 加害者の記憶も被害者の記憶も、記憶は継承することはできません。人の記憶の内容は、声、顔や手の表情、身振り、文字や絵、音などによって、その一部を他者が知ることはできるかもしれませんが、人の記憶を他者が継承することはできません。
  「戦争記憶の継承」などという用語をつかう日本人「学者」は、加害者と被害者の記憶をゴッチャにして、日本人の加害責任をあいまいにし、論理的・実践的に不可能なことを提唱しています。
 ことばや身振りなどによって表現された人の記憶は、文字や映像などによって記録されてはじめて、史料となります。それを、わたしは口述史料と呼ぶことにしていますが、その史料批判は、記録する段階からはじめなければなりません。
 わたし自身の記憶もそうですが、あることがらにかんする記憶は、そのことがらについて他者に語っているときに鮮明度が増し、おもい違いに気づくことがあります。
 聞きてが、証言内容の正確度を高めうる発問を慎重におこなうことは、証言を記録する段階における史料批判のひとつの方法だと思います。
 証言→発問→証言→発問→証言……の過程で、わたしたちは、思いがけない事実を知らされることが、なんどもありました。
 証言の内容を、証言を聞いた瞬間に即時に理解するためには、証言されている世界にかんする知識が必要です。たとえば、証言者がある地名に言及したとき、その位置だけでなくその地の地形などをおおまかにでも知っていなければ、証言内容を的確に理解できないことがあります。
 わたしたちは、海南島で聞きとりをはじめてからの数年間、海南島に侵入して侵略犯罪をくりかえした旧日本海軍の関係文書(『海南警備府戦時日誌』・『海南警備府戦闘詳報』ほか)などを読みこみ、海南島での聞きとりに備えました。そして、その過程で得た知識をもとにして聞きとりをすすめました。
 たとえば、感恩鎮高園村を訪問するまえに、わたしたちは、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」を点検しました。そこには、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊嶺頭分遣隊の海軍少尉太田良知ら43人が、1945年5月22日未明から高園村地域を襲撃し、「高園村三〇戸全部焼却ス」と、書かれていました。
 高園村の自宅で、わたしたちは、周亜華さん(1921年生)と妻の王亜娘さん(1920年生)と近くに住む林秋華さん(1916年生)に話を聞かせてもらいました(紀州鉱山の真実を明らかにする会編写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈写真の会パトローネ、2008年2月〉38、39頁を見てください)。そのとき、周亜華さん(1921年生)は、つぎのように話しました。
    「日本軍はここに来て家を壊して、火をつけた。にわとりや豚や牛を奪い、女性を
   強姦した。
     村びとを道路工事に行かせた。行きたくないといったら、殴った。石碌鉱山に送
   られた人もいた。病気になって仕事ができなくなったら、焼かれた。
     共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし共産党の組織がなければ
   どうなるか、といって、共産党に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を
   守れる人は、地下組織に入ることができるといった。
     わたしが地下党員になったのは、18歳ころ。張應煥は、30歳代だった。
     嶺頭で日本軍と戦ったことがあった。火薬銃で。火薬銃は先祖から伝わった
   もの。村の人はほとんど持っていた。火縄銃がなかったら、弓で戦った。小さい弓、
   太い弓。太いのは、腕くらいの太さ。弓は、いのししを捕まえたりするのにみんな
   持っていた。
     わたしが共産党に入ったことは、妻も子ども知らなかった。共産党に加入した
   ら、党費を納めなくてはいけない。金がなくて、マッチを党費として納めた。
     張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ましかったが、部下にはや
   さしかった。
     黒眉村と高園村は、革命根拠地。この戦闘に民兵は全員が参加した」。

 周亜華さん(1921年生)が革命根拠地だったと話した黒眉村は、高園村から直線距離で南3キロのところにあります。
 わたちたちは、高園村を訪ねた翌日、黒眉村の自宅で、邢亜响さん(1923年生)から話を聞かせてもらうことができました(写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』40頁を見てください)。
 黒眉村での戦いにかんしては、程昭星「英雄抗撃日本侵略者的黒眉村黎族人民」(中共海南省委党史研究室編『瓊崖抗日英雄譜』海南出版社、1995年)、邢力新「黒眉反撃戦」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』第4輯、1988年。海南省政協文史資料委員会編『海南文史』第20輯〈紀念中国人民抗日戦争曁世界反法西斯戦争勝利60周年〉、海南出版社、2005年に再録)などがあります。
                                            佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 8

2010年09月22日 | 海南島史研究
■絶対的な記憶
 証言者が忘却することのない絶対的な記憶があります。絶対的な記憶を聞きとるとき、そこでは対話は成立せず、証言者の声だけが響きます。
 月塘村で朱学平さんの証言を聞かせてもらったときがそうでした。
 その証言を、わたしたちは、撮影・録音し、ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』に収録しました。この映像について、足立正生さんは、つぎのように言っています(海南島近現代史研究会『会報』創刊号30頁)。
     「証言集を作る人たちは、この妹に死なれて埋めた老人の苦しみと哀しみを
    共有しようとして、倒れこむ老人を抱きしめ、証言する姿を撮影するのを中断
    することも出来る。それも証言に立ち会った人々の最低限の誠意だ。
      しかし、苦しみと哀しみに身を捩る証言者の姿を映像に撮り続けることこそ
    が証言採録の仕事であり、そういった矛盾や苦悩を作業として抱え込むことこ
    そが証言集を作るために避けて通れない決定的に重要な作業の一つだ」。

■聞きとりの「場」
 聞きとりをする「場」は、証言者の自宅であったり、虐殺現場であったり、犠牲者の墓地や追悼碑の前であったり、日本軍が焼いた家の廃墟の前であったり、村の集会場や小さな広場や木陰や村委員会の中や道端であったり、茶店や食堂の一角であったり、旧日本軍の兵舎跡や望楼跡や飛行場跡や鉄橋跡や軍用道路跡であったり、治安維持会の建物跡であったり……、さまざまです。
 その「場」の違いによって、おそらく証言内容が微妙に違ってくるのだと思いますが、おおくの場合、わたしたちは、証言者との出会い方の偶然に従い、出会ったその「場」で話を聞かせてもらってきました。
 やはり、いちばんおおい「場」は、証言者の自宅なのですが、その場合も、その「場」にいるのが、証言者とわたしたちだけ、ということはほとんどありません。おおくの場合、その「場」には、家族や近所の人が参加してくれます。そして、聞きとりをはじめていると、いつの間にか、何人かの当時のことを知っているという人がその「場」に来てくれて参加してくれることもしばしばです。
 そこでは、証言者の発言やわたしたちの発問にたいして、さまざまな人が発言します。
 当時のことを知る人の発言は、証言者の証言内容を補強する内容がおおいのですが、そうではない人の発言は、伝聞したことや、ときにテレビドラマで見た日本軍の行動であったりします。
 証言の「場」での、そのような発言が、証言の信憑性に影響することもあると思いますが、よほどのことがない場合には、たとえば、証言者の発言を否定して伝聞したことを語りつづけるような場合以外は、わたしたちは、同席している人たちの発言を制止するようなことはしませんでした。証言を聞かせてもらう「場」の共同性をたいせつにしたかったからです。
 その「場」に、子どもたちがたくさん集まってきて、じっと聞いていることもしばしばでした。
                                      佐藤正人
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証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 7

2010年09月21日 | 海南島史研究
■史料批判
 文書史料によって史実を明らかにしようとするとき、当該文書の信憑性を検証する史料批判が不可欠ですが、口述史料によって史実を明らかにしようとする場合にも、文字、映像、音声による口述記録の信憑性を検証する史料批判をおこなわなければなりません。
 口述史料は、1、聞きとりの段階、2、聞きとった内容を整理する段階、3、聞きとった内容を分析する段階のそれぞれにおいて信憑性を検証しなければなりません。
 聞きとりのさいには、証言内容をいくつかの角度から確認することが必要ですが、証言の真実性を保障する基本的なことは、証言者と聞き手の間の信頼関係だと思います。
 その関係は、証言者と聞き手の出会い方に大きく規定されるのだと思います。
これまで海南島や韓国での聞きとり過程で、わたしたちは、出会った瞬間がいちばん大切だということを学んできました。
 話を聞かせてもらう目的を明確に伝え、その目的を理解してもらえなければ、しっかりとした証言を聞かせてもらうことはできません。
 目的を伝えるということは、自分たちの立場を鮮明にするということであり、その場合には、ときに、自分たちの個人史を証言者に話すことが必要になります。証言者の個人史を一方的に聞かせてもらうのではなく、ときに、聞き手がみずからの個人史を語ることは、聞き手がなすべき当然の行為だと思います。
 聞きとりをすすめていくにつれて、証言者の記憶が鮮明に蘇ってくることがしばしばあります。対話をつづけていく過程で証言者は、記憶の細部を蘇らせ、それを語ってくれることがあります。

 聞きとりのさいには、聞かせてほしいことを発問しなければなりません。
 発問の内容は、どうしても証言の内容に反映してしまいます。したがって、発問は、できるだけ慎重にしなければなりません。
 わたしたちは、「朝鮮報国隊」の人びとの軌跡をはっきりさせるために、海南島各地で聞きとりしました。「朝鮮報国隊」の人びとが働かされていたと思われる地域で聞きとりするとき、わたしたちは、できるだけ、最初の発問のなかで、「朝鮮報国隊」ということばを使わないようにしました。はじめから「朝鮮報国隊」ということばを使うと、証言者の記憶の正確な蘇りを妨害するのではないかと考えたからです。
 わたしたちは、今年(2008年)4月14日に、三亜近郊の林家村で邢師全さんに話を聞かせてもらいました。
 そのとき、わたしたちの、「朝鮮人を見たことがありますか」という発問にたいして、邢師全さんは、
    「見たことがある。朝鮮人が着ていた服の色は青かった。
     服の後ろに“朝鮮報国隊”と書いてあった」
と、肩の後ろを右手でおさえながら答えました。
 60年以上前に見た朝鮮人のこととその背中に書かれていた「朝鮮報国隊」という文字を、邢師全さんは、はっきり記憶していました。
 わたしたちは、「朝鮮報国隊」の人たちは、青い服を着せられていたという事実を把握していました。「朝鮮村」で殺された「朝鮮報国隊」の人たちが埋められていた所から遺骨とともに青い布が出てきていました。
  「朝鮮人が着ていた服の色は青かった」という邢師全さんの証言が、「「朝鮮報国隊」を知っていますか」という発問によってではなく、「朝鮮人を見たことがありますか」という発問によってなされたことは、証言の客観性を保障していると思います。
                                            佐藤正人
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