きょう(2010年9月30日)午前、韓国全羅北道益山市で、愈萬童さんの甥(妹の息子)の李正求さんに話を聞かせてもらうことができました。愈萬童さん(1914年2月25日生)の除籍簿には、1945年4月5日午前5時55分に「海南島三亜朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡と書かれてありました。日本敗戦の4か月あまり前でした。
李正求さんのお母さん(愈七多禮さん)は、“オッパ(兄)は背の高いやさしい人で、文字を教えてくれた。日本に徴用されそうになったので故郷の益山から開城のほうに逃げてつかまり、それきり行方がわからなくなった。死亡通知がきて、死んだことがわかった。かしこかったオッパ(兄)が、南洋群島で死んでしまった。遺骨はもどれなかった”、と言っていたそうです。
きょう午後、韓国慶尚南道居昌郡カブック面の自宅で、河相祚さんから話を聞かせてもらいました。
河相祚さん(1925年4月23日生)は、“鎮海の日本海軍警備府の海兵団に入れられ、半年間、第3期生として「訓練」を受けた。そのとき、何人もの人が死んだ。1943年か1944年の冬、日本海軍鎮海警備府の水兵として鎮海から日本の佐世保と台湾の高尾を経由して海南島につれていかれた。乗せられた船は小さな船で、乗っていたのは第3期生の朝鮮人7人だけだった。海南島に着くまで、どこに連れて行かれるのか知らなかった。日本海軍海南警備府横須賀第4特別陸戦隊に入れられ、黄流の近くの銀高嶺砲台に配属された”と話しました。
明日朝、さらに話を詳しく聞かせていただくことにしました。
佐藤正人
李正求さんのお母さん(愈七多禮さん)は、“オッパ(兄)は背の高いやさしい人で、文字を教えてくれた。日本に徴用されそうになったので故郷の益山から開城のほうに逃げてつかまり、それきり行方がわからなくなった。死亡通知がきて、死んだことがわかった。かしこかったオッパ(兄)が、南洋群島で死んでしまった。遺骨はもどれなかった”、と言っていたそうです。
きょう午後、韓国慶尚南道居昌郡カブック面の自宅で、河相祚さんから話を聞かせてもらいました。
河相祚さん(1925年4月23日生)は、“鎮海の日本海軍警備府の海兵団に入れられ、半年間、第3期生として「訓練」を受けた。そのとき、何人もの人が死んだ。1943年か1944年の冬、日本海軍鎮海警備府の水兵として鎮海から日本の佐世保と台湾の高尾を経由して海南島につれていかれた。乗せられた船は小さな船で、乗っていたのは第3期生の朝鮮人7人だけだった。海南島に着くまで、どこに連れて行かれるのか知らなかった。日本海軍海南警備府横須賀第4特別陸戦隊に入れられ、黄流の近くの銀高嶺砲台に配属された”と話しました。
明日朝、さらに話を詳しく聞かせていただくことにしました。
佐藤正人