三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

木本虐殺80年後の追悼集会

2006年10月29日 | 木本事件
李基允さんと相度さんを追悼する、ことしの集会のお知らせです。

■【追悼集会】12月2日(土) 午後3時開会
  李基允氏と相度氏の追悼碑前で。
    木本トンネル熊野市側入り口高台。
    JR熊野駅から尾鷲方面に徒歩8分ほどです。

追悼集会と合わせて、「写真パネル展」などを開きます。
場所は、熊野市民会館(JR熊野駅から尾鷲方面に徒歩約3分)です。    
▼「写真パネル展」 12月2日~3日
    「木本事件」、「大逆事件」などに関する写真パネルを展示します。
▼意見交換会『「木本虐殺」80年後のいま!』
   12月3日 午前10時~12時
   町民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことを「木本町民としてはまことに素朴な愛町
  心の発露であった……」としている『熊野市史』問題の原因を考え、解決する方
  法などを話し合いたいと思います。
▼ ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』上映会
     12月2日、3日 午後1時~2時10分
     ほかに、韓国安東MBC1998年制作『紀伊半島に隠された真実』(55分)、
     韓国KBS1998年制作『海南島に埋められた朝鮮の魂』』(55分)、
     韓国MBC2001年制作『海南島の大虐殺』』(55分)を、随時上映します。

★“木本事件”「現地調査」  12月2日追悼集会後
    追悼碑→木本トンネル→虐殺現場→極楽寺。
★紀州鉱山「現地調査」 12月3日午前9時~午後1時

●交流会 12月2日午後7時から
    民宿「しずか」(熊野市民会館近く。TEL 0597-89-1318)で。

宿泊を希望される方は、pada@syd.odn.ne.jp に連絡してください。
宿泊先は、民宿「しずか」で、1泊(2食付)5,500円です。
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木本虐殺後80年 10(最終回)

2006年10月28日 | 木本事件
 1994年11月20日、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、韓国から相度さんの孫、哲庸さんら遺族3人を迎えて、追悼碑の除幕式をおこなった。相度さんの子、敬洪さんは、体調がすぐれず、参加できなかった。
 その7か月後、1995年6月14日に、キム チョンミさんは、釜山に行き敬洪さんと会うことにしていた。だが、この日の朝4時半に、敬洪さんは急死した。74歳だった。李基允さんと相度さんを追悼する碑が建ってから、半年あまりしか経っていなかった。

  「三重県木本町虐殺事件」と「尹基協射殺事件」を、「解明すべき在日朝鮮人に対する虐殺事件」だと、前から言っていた朴慶植さんは、準備段階から追悼碑を建立する会に参加し、熊野市との話し合いに最初から出席した。除幕式の夜、追悼碑の近くの海岸で、流木を燃やし、朴慶植さんを囲んでみんなで遅くまで語り合った。
 その後、追悼碑を建立する会は、毎年、碑のまえで追悼集会をおこなった。朴慶植さんは、毎年、かならず、東京から来た。
  1995年11月の追悼集会の翌日、わたしたちは、熊野市隣りの紀和町にある紀州鉱山跡を「現地調査」し、それ以後、これまでその調査を続けてきた。
 1996年10月に、わたしたちは、紀州鉱山に強制連行され強制労働させられた人たちに話を聞かせてもらうために、韓国江原道麟蹄に行き、その後、江原道や慶尚北道各地を何度も訪ねた。
http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/kankokulist.html

  1997年2月9日に、1996年の紀州鉱山「現地調査」参加者(朴慶植さんら)が呼びかけ人となって、紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成された。
 1996年11月と1997年5月に、わたしたちは、紀州鉱山で朝鮮人の「監督」をしていた許圭さん(1915年生)に会った。許圭さんは、
   「“朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ”と紀州鉱山坑道の入口にカンテラの火で焼きつけた文字があった。
  戦争がおわるすこし前のことだった。
  憲兵が来て調べたが、誰が書いたかわからなかった。わたしは知っていた」
と話した。http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/kikitokannihon.html

  1998年の追悼集会には、朴慶植さんの姿はなかった。この年2月13日未明、交通事故で急死。
 わたしたちは、朴慶植さんに、コトバによってではなく、民衆運動と歴史研究とは不可分のものであることを教えられていた。

 碑文のおわりに、わたしたちは、こう書いている。
 「わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのできなかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この碑を建立しました」。

 追悼碑は一つの根拠地。
 紀州・熊野地域の人たち、おおくの人たちとともに、つぎの一歩を! 
  (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 9

2006年10月27日 | 木本事件
 1926年から2006年まで、木本虐殺後80年の間に、何があったか。
 何が変わったか。何が変わらなかったか。

 難波大助さんが殺されてから50年後、1974年8月14日に、大道寺将司さん、大道寺あや子さん、片岡利明さん、佐々木規夫さんが、ヒロヒトを殺そうとした。4人は、すべて1948年生れで、殺されたときの難波大助さんのほぼ1歳年上だった。
 ヒロヒトは、日本政府・日本軍(「皇軍」)のカイライではなかった。
 ヒロヒトは、明白に、自分の意志で、最高司令官として日本軍(「皇軍」)にアジア地域・太平洋地域を軍事侵略させ、数千万の人びとを殺させた。
 ヒロヒトは、明白に、自分の意志で、最高司令官として、日本軍(「皇軍」)に、USA軍 などと太平洋の島じまなどで補給路も退路もない戦争をさせ、戦場とされた地域の民衆を殺害し、日本兵士や朝鮮人軍属を餓死・「戦死」させた。
 1931年9月18日、「関東軍」が中国東北部柳条湖付近で南満州鉄道を爆破した。「関東軍」は、それを中国軍の行為であることにして軍事行動を開始した。その3日後に、朝鮮を占領していた日本軍(「朝鮮軍」)も「独断」で国境を越えて中国東北部に侵入した。「関東軍」と「朝鮮軍」は、ヒロヒトの「統帥権」を無視していた。
 このとき、ヒロヒトは、中国東北部での「関東軍」と「朝鮮軍」の軍事行動を追認した。以後、日本軍(「皇軍」)は、中国東北部で残酷な作戦をくりかえした。
 ヒロヒトが追認しなければ、さらに中国東北部やモンゴル東南部で、おおくの民衆が殺され、家を焼かれることはなかった。
 1932年1月8日に、ヒロヒトは、「勅語」をだし、それまでの「関東軍」の中国東北部軍事侵略をほめ、激励した。李奉昌さんがヒロヒトに向けて手榴弾を投げつけたのは、その数時間前だった。

 8月15日に、日本政府主催で「全国戦没者追悼式」が行われ、ヒロヒトが、「さきの大戦において、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々をいたみ、またその遺族を思い、常に胸の痛むのを覚える……」というたぐいの文章を読みあげるようになったのは、1963年からであった(対象は、1937年7月から1945年8月までの日本人「戦没者」310万人)。
 日本敗戦後それまでの18年間には、超A級戦犯ヒロヒトが、8月15日に日本国民のまえに出てきて「戦没者追悼」を行なったことはなかった。
 1963年以前も以後も、ヒロヒトはほとんど毎年夏、那須の別荘に避暑に行っていた。
 1974年8月14日、翌日の東京武道館での「全国戦没者追悼式」に出るため、ヒロヒトは、那須をはなれ、黒磯駅から特別列車にのって東京原宿駅に向かった。
 大道寺将司さんらが攻撃しようとしたのは、その列車にのっているヒロヒトだった。http://share.dip.jp/hannichi/cm/niji.html

 1999年8月13日に、侵略の旗「ヒノマル」、天皇賛歌「キミガヨ」が、国民国家日本の「国旗」、「国歌」とされた。             (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 8

2006年10月26日 | 木本事件
 1910年の26人のあと、朴烈さん、金子文子さん、難波大助さん、趙明河さん、李奉昌さんが、「大逆罪」を「適用」された。
 1923年9月3日、関東大虐殺のさなかに「保護検束」された朝鮮人朴烈さん(1902年生)と金子文子さん(1903年生)は、1925年5月に「大逆罪」で起訴された。大審院は1926年3月25日、死刑判決をだした(4月5日に無期懲役に減刑。金子文子さんは、7月23日に自殺?)。
 1923年12月27日に、東京虎ノ門で車中のヒロヒトを狙撃した難波大助さん(1899年生)にたいし、大審院は、1年後の1924年11月13日に、「大逆罪」で死刑判決をだした。その2日後、11月15日、難波大助さんは、絞首された。25歳の誕生日の8日後だった。
 1928年5月14日、朝鮮人趙明河さん(1905年生)は、台湾の台中で、クニヨシ(1924年にヒロヒトと結婚したナガコの父)に短刀を投げつけた。7月18日に、裁判官は、趙明河さんに「大逆罪」で死刑判決をだした。趙明河さんは、10月10日に処刑された。
  1932年1月8日、東京桜田門外でヒロヒトが乗っていた馬車に手榴弾を投げつけた朝鮮人李奉昌さん(1900年生)にたいして、大審院は、9月30日に「大逆罪」で死刑判決をだした。李奉昌さんは、10月10日に処刑された。

 「大逆罪」は、天皇制の暴力性を赤裸々に示している。
 1889年2月に、天皇の名で国民国家日本の憲法(「大日本帝国憲法」)が発布された。そこでは、日本国民は天皇の「臣民」と規定されていた。その10年後、「日清戦争」と「日露戦争」の戦間期である1899年3月に、「臣民」を特定する国籍法が公布・施行され、同年同月、「北海道旧土人保護法」が公布された。
 「北海道旧土人保護法」は、その30年前に日本政府がアイヌ民族から奪った大地の極小部分を、アイヌ民族に「下付」するというものだが、このときすでにアイヌモシリの大地と海のほとんどは、日本人によって占領されていた。
 天皇を「神」とする「臣民」によって組織された日本軍は、台湾、朝鮮、中国、モンゴル、ミクロネシア、東南アジア……を侵略した。日本軍に前後して日本企業が侵入し、日本人が官僚、会社員、商人、農民(「移民」)……として侵入した。日本人は侵略した地域に神社を建て、その地の人びとにも「参拝」を強要した。
 国民国家日本の他地域・他国侵略の過程で、天皇制が強化された。天皇の「臣民」として統合された日本民衆は、他地域・他国を侵略し続けた。
 国民国家の発展、資本主義体制・帝国主義体制の強化の精神は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する精神・思想である。この精神・思想を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。
 国民国家日本においてはこの精神・思想の根幹は、天皇制であった。
                              (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 7

2006年10月25日 | 木本事件
 1994年に熊野市は、熊野市教育委員会内におかれた熊野市年表編集委員会が編集した『熊野市年表』を発行した。その1926年の欄に、
   「木本トンネル工事に従事していた朝鮮人労働者と町民との間で『木本事件』
  が起こり、朝鮮人労働者2名の犠牲者が出る」
と書かれている。この短い文においても、「事件」の本質があいまいにされている。
 李基允さんと相度さんは、木本町民に虐殺されたのだ。在郷軍人、消防組員らを中心とする木本町民は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りした。
 『熊野市史』中巻(近現代篇)の「総論」には、
    「我が日本は……惨敗をきっし、太平洋戦争だけでも、六百万人(民間人を
   含む)という、尊い犠牲のうえに、新しい戦後の時代を迎えた」
と書かれているが、日本の侵略によって命を奪われた数千万人のアジア太平洋民衆の犠牲者については、なにも書かれていない。
 この「総論」では、木本虐殺を「朝鮮人騒動」と表現している。
 『熊野市史』中巻の本文には、「南京占領の報道が伝わると国民は一入[ひとしお]感激し、町や村で祝賀会が続いた」と書かれているが、南京大虐殺については、なにも書かれていない。
 『熊野市史』上巻(自然篇、古代・中世篇、近世篇)には、「熊野の古代史を見るとき、神武天皇を除いて考えることはできない」などと書かれている。
 「まことに素朴な愛町心の発露」という悪質な表現がなされている『熊野市史』は、天皇制を肯定し、他国他地域侵略を肯定する立場で書かれている。
このような『熊野市史』は書きかえさせなければならないが、それは、熊野地域だけの問題ではない。日本各地の都道府県史、市町村史のおおくに、『熊野市史』問題とおなじ性質の問題がある。

 1869年に、日本政府がアイヌモシリの一部を「北海道」と名づけ、植民地としてから、大量の植民者が侵入し、アイヌの大地と海を奪った。
『北海道史』も「北海道」の各市町村が発行している市町村史のほとんども、アイヌモシリ侵略・植民地化を「北海道開拓」とし、肯定的に記述している。
 日本人は、アイヌ民族にも、「ヒノマル」「キミガヨ」をおしつけた。植民地とした朝鮮で朝鮮民族にも「ヒノマル」「キミガヨ」を強制した。
 朝鮮人虐殺を「愛町心の発露」とする思想、アイヌ民族から大地と海・いのち・ことばを奪ってきた侵略を「開拓」とする思想の根を断ち切る民衆運動を!
         (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 6

2006年10月24日 | 木本事件
 朝鮮人が在郷軍人や消防組員らに襲撃されたとき、金明九さんら朝鮮人とともにダイナマイトを投げて反撃した林林一さんは騒擾罪と爆発物取締罰則で、高橋萬次郎さんと杉浦新吉さんは騒擾罪で起訴された。
 1926年5月7日の『紀南新報』に掲載されている「予審決定書」には、林林一さん(岐阜県。20歳)、高橋萬次郎さん(新潟県。18歳)、杉浦新吉さん(和歌山県東牟婁郡川口村。24歳)の名が書かれている。わたしたちは、3人の行方をたずねた。
 1990年10月5日、ようやく、東牟婁郡小口(川口ではなかった)で、杉浦新吉さんの娘さんと妹さんに会うことができた。
 杉浦新吉さん1932年10月1日に病死していた。娘さんが2歳のときだったという。
 1916年生まれの妹さんは、
   「あの人は正直で、みんなに好かれた。むかしはこの前の川で、父さんも兄さんも筏にのっていた。歌がうまく、走るのも速かった。
   わたしが小学校にかよってるとき、朝鮮にいって筏のりをし、帰るときにモスの反物を買ってきてくれた。紫のがらだった。
  親孝行だった。鴨緑江節を歌っていたことを覚えている。
  病気は結核だった」
と、畑仕事の手を休めて話した。
 娘さんは、追悼碑を建立する会に基金を寄せてくれた。
 
 在日本朝鮮労働総連盟、在東京朝鮮無産青年同盟会、三月会、一月会が、1926年2月10日に連名で出した檄文「三重県撲殺事件に際して全日本無産階級に訴ふ」に、次のような1節がある。
    「我々朝鮮人労働者が今に生命を失はんとする刹那林林一、高橋萬次郎等
    日本労働者は勇敢にも我々に味方してタイナマイトを取った……」。

 相度さんは、妻(金而敬さん)と3人の幼い子ども(月淑さん、敬洪さん、良淑さん)といっしょに木本に働きにきていた。みんなほかの朝鮮人労働者といっしょに、いまの木本高校の近くにあった飯場でくらしていた。夫が殺されたとき、金而敬さんは妊娠9か月だった。
 長女の月淑さんは、杉浦新吉さの1916年生まれの妹さんより1歳年上で、木本小学校にかよっていた。学校には仲のよい友達がいた。
 そのひとり、橋谷ますえさんは、1988年11月8日に、こう話していた。
      「小学生のとき、朝鮮人の同級生がいた。姓は秋山。無口で、勉強はよく
    できた。かわいかったよ。いちばんの仲よしだった。
      いつもいっしょに遊んでいた。家が飯場に近かった。
      お父さんが殺されて、学校やめて大阪に行った。泣きもて別れた。
      船、見送ったよ。もう一度、会いたいわの」。

 敬洪さんは、当時4歳だったが、姉の月淑さんが学校にいったあと、同じ年ごろの子どもと遊ぶこともなく、ひとりで虫をとったり、竹馬にのったりしていたという。
 朝鮮に戻ったあと、月淑さんは、1928年12月31日に13歳8か月の生涯をおえた。金而敬さんもその3年後に亡くなった。  (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 5

2006年10月23日 | 木本事件
 李基允さんと相度さんの追悼碑の碑文板に、木本虐殺の事実経過が、つぎのように記されている。

   「1925年1月、三重県が発注した木本トンネルの工事がはじめられました。
   この工事には、遠く朝鮮から、もっとも多いときで200人の朝鮮人が働きに来ていました。
   工事が終わりに近づいた1926年1月2日、朝鮮人労働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切りつけられました。
   翌1月3日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏が殺されました。
さらに木本警察署長の要請をうけて木本町長が召集した在郷軍人らの手によって、相度氏が路上で殺されました。
   その時から3日間、旧木本町や近隣の村々(現熊野市)の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人を追跡し、とらえました」。

 1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻に、町民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれている(岡本実「木本トンネル騒動」)。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立大会の翌日、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで17年間、求めつづけてきた。
 だが、熊野市も熊野市教育委員会も、日本人町民集団による朝鮮人襲撃・虐殺を「まことに素朴な愛町心の発露」とする歴史認識を、木本虐殺(熊野虐殺)後80年後のいまも、まだ、変えることができないでいる。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/kmsisikaki.html

 木本トンネルは、地域住民の生活を便利にするためのものであった。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、地域の住民が集団で襲撃し、ふたりを虐殺した。木本警察は、虐殺者を逮捕しようとしないで、逆に、虐殺者集団である在郷軍人会、消防組などとともにすべての朝鮮人を逮捕しようとし、山狩りをおこなった。
 その事実を、「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の書きかえを求めようとする熊野市民は、少ない。

 虐殺した者たちが特定されることも、木本町長や木本警察署長らの責任が問われることもなかった。
 虐殺203日後、1926年7月26日に、木本トンネルの竣工式が行なわれた。町民は、「旗行列」をしてトンネル開通を祝った。
 その1週間後、8月2日に、安濃津地方裁判所で、「木本事件」の第1回公判が開かれた。
 被告は朝鮮人側15人、日本人側17人だった。朝鮮人側被告には、林林一さん、高橋萬次郎さん、杉浦新吉さんの3人の日本人がいた。この3人は、朝鮮人労働者とともに、襲撃してくる日本人集団に対抗してたたかったのである。 
                       (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 4

2006年10月22日 | 木本事件
 はじめて会ったとき、松島繁治さんは、キム チョンミさんに、
   「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かならず、いつか来ると思っ
て待っていた。
    あのころ、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでいた。部屋の窓から
ふたりの遺体を見たことがある。むしろが、かぶされていた。
    事件の夜は、こわくて家にかくれていた。
    2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公をしていた」
と言ったという。
 そのとき松島さんは、キム チョンミさんを極楽寺墓地に案内し、30段ほどの石の
階段にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかにあったふ
たりの墓石のありかを教えてくれたという。
 松島繁治さんと在日朝鮮人キム チョンミさんとの出会いがなかったら、ふたりの
墓石は、極楽寺の無縁墓地にいつまでも放置されたままだったろう。

 追悼碑を建立する会が結成されると、松島さんは、たいへん喜び、じぶんができ
ることはなんでもやる、と言い、事実調査のために、さまざまなかたちで協力して
くれた。
 あるとき、松島さんは、町の人に、「あんたは朝鮮人か」と言われたという。
 松島繁治さんは、石屋だったが、引退し、家業は息子さんが継いでいた。ふたり
の追悼碑は、その息子さんにつくってもらった。
 1994年5月1日に起工式をおこなった追悼碑は、10月23日に建ちあがった。
 その日松島さんは、家で高齢のため臥せっていたが、ぜひ見たいと言った。
 会員の斎藤日出治さんが松島さんを背負い、キム チョンミさんが後ろから支えて
細い石段をのぼって、追悼碑の前までお連れした。
 11月1日、松島繁治さんが急死した。85歳だった。
 そして、11月20日に、追悼碑除幕。
 木本虐殺の2か月まえ、1925年10月に、李基允さんと相度さんが傷害罪容疑で
不当に裁判にかけられてとき、松島繁治さんは、その裁判を傍聴し、ふたりを見て
いる(判決は、無罪)。松島繁治さんが亡くなり、ふたりの顔を覚えている人がいな
くなった。李基允さんと相度さんの写真は残されていない。

 高木顕明さんの住職差免・擯斥処分が取り消されたのは、1996年4月1日であり、
「高木顕明師顕彰碑」が建てられたのは、1997年9月25日、李基允さんと相度さん
を追悼する碑が建ってから3年後だった。
 わたしたちは、虐殺後68年も経ってからの建立を、あまりにも遅かったと感じて
いたが、“大逆事件”犠牲者の「復権」は、それよりも遅かった。
 
 1946年11月3日、「明治天皇」の誕生日に、ヒロヒトの名で、「日本国憲法」が公布
され、その半年後から施行され、戦犯ヒロヒトが、「日本国」と「日本国民統合」の象
徴となった。
 「大逆罪」は、1947年になくなったが、天皇制は廃絶されていない。
 「日本国憲法」下の護憲運動は、天皇制を維持する運動でもあった。
 「大逆罪」は日本刑法から削除されたが、“大逆事件”の時代は終わっていない。
 “大逆事件”の再審請求は、1967年に最終的に棄却され、現存も、国民国家日本
は、26人を「有罪」としたままである。     (佐藤正人)
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木本虐殺後80年 3

2006年10月21日 | 木本事件
 差別戒名と差別語が刻まれ、本名ではなく「日本人名」が刻まれている墓石。
 その墓石は、大阪人権博物館(リバティおおさか)で「常設展示」されること
になり、1995年11月10日、豪雨の中、大阪人権博物館に運ばれた。11月18日に、
レプリカが極楽寺墓地に置かれた。
 1年後、1996年12月に、足立知典さんが極楽寺の新しい住職になった。
1999年7月6日から8月29日まで、大阪人権博物館で、企画展「“木本事件”
――熊野から朝鮮人虐殺を問う――」が開かれた(主催:三重県木本で虐殺
された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会・大阪人権博
物館)。
 会期中の7月24日に、「関連行事」として、「“木本事件”を語り継ぐ」という
集まりがもたれた。この日、大阪人権博物館を訪れた足立知典さんは、はじめ
て実物の「墓石」に対面した。
 そのことを、足立知典さんは、つぎのように書いている(追悼碑を建立する
会『会報』31号、2000年3月)。
  「墓石を拝見しました時、当時のことを想像し、改めて心が痛みました。
住職になるまで、“木本事件”について、 “差別戒名”について何も知りま
せんでした。
   私は当山において差別戒名があることを知った時、非常に残念に思い、
また憤りを感じました。
   歴代の住職の責任は現在の住職である私の責任であると感じています」。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する
会は、1994年10月に追悼碑を建立してから、毎年、追悼碑まえの広場で追悼集
会を開き、参加者は、そのあと虐殺現場をとおって極楽寺墓地に行っている。
 1999年11月21日には、6回目の追悼集会のあと、極楽寺墓地に行き、さらに
本堂で記念集会をもち、ふたつの「墓石」に刻まれている民族差別について話し
合った(1998年の追悼集会のあとも極楽寺本堂で集まりをもっている)。
 翌2000年11月18日、7回目の追悼集会のあと、参加者は、極楽寺墓地に行った。
そこには、李基允さんと相度さんの墓碑が建てられてあった。足立知典極楽
寺26世住職が建てたものだ。石は、韓国から運ばれたものだという。
除幕式が行なわれた。
 この墓碑には、李基允さんと相度さんの名が刻まれている。
  
 今年(2006年)1月、曹洞宗宗務庁は、『仏種を植ゆる人――内山愚童の生涯と
思想――』を出版した。その筆者のひとりである池田千尋さんは、極楽寺の西方
30キロあまりの中辺路にある曹洞養命寺の住職であり、「内山愚童」和尚顕彰碑
建立準備会委員だった人である。
 池田千尋さんは、しばしば、李基允さんと相度さんの追悼集会に参加してい
る。昨年12月3日、12回目の追悼集会のとき、池田千尋さんは、この年4月に内山
愚童さんの「顕彰碑」が建てられたと話した。
 その報告を聞きながら、わたしは、“大逆事件”と木本虐殺の歴史的つながり
を考えていた。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
(準備会)が発足したのは1988年9月11日だった。
 その年の夏に極楽寺を訪れたキム チョンミさんに、当時の住職は、
   「過去帳は火災のとき焼けてしまった。ふたりの墓石はない。わたしは見
たことがない。ふたりが埋葬されたという場所は知っているが……」
と言ったという(金静美「三重県木本における朝鮮人襲撃・虐殺について」、
『在日朝鮮人史研究』18号、在日朝鮮人運動史研究会、1988年10月)。
 
 極楽寺の無縁墓地に、ふたりの墓石があるはずだといい、その場所を教えてくれ
たのは、近くに住む松島繁治さんだった。
                     (佐藤正人)

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木本虐殺後80年 2

2006年10月20日 | 木本事件
 李基允さんと相度さんを追悼する碑から20キロほど離れた新宮市南谷墓地に
「高木顕明師顕彰碑」が建っている。
 これは、1997年9月25日に、建てられたものである。
 その左横に立てられている「高木顕明師を顕彰する」と題された「真宗大谷派
(東本願寺)」の説明版には、つぎのように書かれている。
   「このたび、時の宗門当局が国家に追随して行った師への遺憾なる行為と
それを今日まで放置してきた宗門の罪責を深く慚愧し心から謝罪して、1996年4月
1日、住職差免及び擯斥処分を取り消した」。

 1910年6月に「大逆罪」違反容疑で逮捕された和歌山県東牟婁郡新宮馬町の真
宗大谷派浄泉寺の住職高木顕明さん(1864年生)を、真宗大谷派は、11月10日に
住職差免し、さらに死刑判決がなされたその日、1911年1月18日に擯斥(僧籍剥
奪・宗門追放)処分にしていた。
 その85年後に、真宗大谷派は、高木顕明さんにたいするこの処分を取り消し、翌
年「顕彰碑」を建てた。

 “大逆事件”では、高木顕明さん、内山愚童さん、峯尾節堂さんらの3人の仏教
僧侶が犠牲になっている。また、死刑判決翌日無期刑に減刑された佐々木道元
さんは、浄土真宗本願寺派寺族であった(1916年7月15日、千葉監獄で獄死)。
 1911年1月24日に幸徳秋水さんらとともに殺された曹洞宗の内山愚童さん(1874
年生)にたいして、曹洞宗宗務院は、1910年6月21日に、「宗内擯斥」処分(教団から
の永久追放・除名処分)をおこなっていた。曹洞宗宗務庁が内山愚童さんにたいす
る「宗内擯斥」処分を取り消したのは、それから83年後の1993年4月13日だった(内
山愚童さんは、箱根大平台の林泉寺第20世住職に復籍)。

 2005年4月25日、林泉寺にある内山愚童さんの墓碑名のない墓石の傍に「顕彰
碑」が建てられた。その曹洞宗署名の解説板(内山愚童さんが殺されてから94年
後の2005年1月24日付)には、「宗門は、真の仏教者であった愚童師に対して、
あまりにも不誠実であり冷酷でありました。人間としての尊厳と僧侶としての
名誉を踏みにじったまま、八十有余年の歳月を埋もれさせてしまったのです」
と書かれている。

 李基允さんと相度さんは、虐殺されたあと、現場近くの極楽寺の墓地に放置
された。
 1926年2月4日の『朝鮮日報』は、ふたりの「惨死体」に烏だけが「雲集」していた
と報道している。のちに、1926年2月の日付で、ふたりを「雇用」していた田中孫右
衛門が極楽寺墓地北側のすみに墓石を建てた。それには、「春雪信士」「鮮人 春
山清吉」「秋相信士」「鮮人 秋山正吉」という文字が刻まれていた。
 この墓石は、30年ほどまえ、極楽寺の無縁墓地に移された。こころない当時の
住職は、ふたりの墓石を離ればなれに置いた。
 1989年4月24日、木本虐殺後、相度さんの二男敬洪さんが、はじめて熊野
市を訪れた。このとき、ふたりの墓石は階段状の無縁墓地から地上に降ろされ、
並べられた。
 極楽寺は、内山愚童さんの林泉寺とおなじ曹洞宗の寺である。
                       (佐藤正人)

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