三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「抗日勝利は台湾人の歴史にあらず」

2016年08月31日 | 台湾
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201608160004.aspx
「フォーカス台湾」 2016/08/16 15:24
■「抗日勝利は台湾人の歴史にあらず」 大学教授ら、平和公園の整備呼びかけ
(台北 16日 中央社)一部の大学教授らで構成される台湾教授協会は15日、政府に対して台湾の歴史に向き合い、第2次世界大戦の終結を記念した平和公園の整備を呼びかけた。戦没者を追悼するため、慰霊碑の設置を提案している。
 同協会はこの日開いた記者会見で、「中華民国政府は昨年、抗日戦争勝利70周年を祝ったが、それは台湾人の歴史的記憶ではない」と強調。日本統治時代の台湾人は徴兵され、連合軍による爆撃を受け、戦後には審判を受けたほか、国民党政権下では台湾の主体性が失われたとした。
 また、先の大戦では台湾人約5万人が亡くなったとされながらも、これまでに慰霊碑などが設置されていないと指摘。平和公園の必要性を主張した。
 記者会見には野党・時代力量の林昶佐立法委員(国会議員)も出席。「台湾化、民主化された今、台湾に必要なのは忘れられた記憶を取り戻すこと」と熱弁をふるった。
 同協会の許文堂秘書長は、長きに渡って中華民国政府は台湾の1945年以前の歴史に目を背けてきたとし、和解したいと述べた。
                (劉麗栄/編集:齊藤啓介)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201608/CK2016081602000119.html
『東京新聞』 2016年8月16日 朝刊
■埋もれた戦争犠牲を伝えたい 大学教授ら訴え「台湾人の慰霊碑を」
 【台北=迫田勝敏】台湾の大学教授らでつくる台湾教授協会(張信堂会長)は十五日、記者会見し、第二次世界大戦中に犠牲になった台湾人を慰霊するため、平和公園の建設と慰霊碑の建立を蔡英文政権に求める運動を始めると明らかにした。台湾は日本の敗戦までは日本統治下にあったが、戦後は中華民国が統治して「戦勝国」となった。このため戦争中の台湾人犠牲者は中華民国のものではないとして、当局による慰霊などは行われていない。
 日本の厚生労働省の統計では、台湾では軍人、軍属約二十万人が徴用され、約三万三千人が死亡した。しかし、戦後に「戦勝国」である中華民国が台湾を統治したため、戦争中に多くの台湾人が犠牲になった事実はあまり知られていない。歴史教科書でも、台湾人犠牲者の存在も含めて戦中・戦前の台湾の歴史は詳しい記載がなく、台湾は戦争中、日本と戦ったと誤解している人も少なくない。
 教授協会の張会長は、こうした埋もれた歴史を若者に伝えることが平和公園と慰霊碑建立の目的だとする。平和公園の建設地は、台北市内の華山文創園区などが候補に挙がっている。同区は日本時代の酒工場跡地で、当時は鉄道駅もあり、ここから台湾人兵士たちが出征したという。
コメント

臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南島經營

2016年08月30日 | 海南島近現代史研究会
■臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南島經營
                                 金勝一
     1、はじめに
     2、海南島に對する臺灣總督府の慾望
     3、臺灣經驗とはなにか
     4、海南島經營に應用された臺灣經驗
     5、おわりに

1、はじめに
 第2次世界大戰末期, 海南島で行われた日帝の韓國人と現地人等に對する殘酷な彈壓行動について十分に理解している韓國人は、今もほとんどない。最近、海外旅行の一環として休息とゴルフ等のため海南島にいく韓國人が増えているため、海南島をただ觀光地としてのみ知っているにすぎない。
 發表者が海南島近現代硏究會會員と3回、韓國獨立記念館獨立運動硏究所硏究員と2回等、合わせて5回にわたって海南島を訪問し、收集した資料及び論文を發表したことによって、硏究者の間で若干知られているだけであり、他の硏究者が発表した論文は1篇もないが、このことは、韓國における海南島硏究が依然として未知の硏究分野であるということを示している。
 海南島は强制徵用及び慰安婦として連行された韓國人と深い關係があり、韓國現代史の非常に重要な部門であるにもかかわらず、このことに關する硏究が手薄で、また、關心を持つ硏究者が現れていないことは、非常にはずかしく思う次第である。しかし、かかる問題は韓國硏究者のみに局限されるべきものものではなく、中華圈の硏究者にも關連する問題であるという點で、海南島近現代硏究會の活動は非常に重要な歷史的意義を持っており、また、未知の硏究分野を開拓していこうとする使命感を持つ團體であると評價すべきであると考える。

 以上述べたように、海南島に關する今までの硏究は質ㆍ量ともに問題を抱えている。今までの海南島に關する硏究狀況をみると、大體5つの方面で分けられる。
 はじめは ‘日本海軍と南進’に焦点を当てた硏究であるが、この方面の硏究は量的に少なくはない。これら硏究の重點は日本陸海軍の‘北進’と‘南進’に對する政治的論爭及びその擴張方向、そして實質的な利益を得る方法に對して論じているのが特徵である。
 二つめは‘海軍軍政’の下の海南島狀況に對する視角である。
 三つめは、日本の海南島占領に對する中國側の視角に對する論文である。これら論文の多くは日本軍統治の保護の下で、日本大企業の海南島資源の掠奪に對する考察である。
 四つめは、臺灣人の海南島經驗に對する議論であり、いつつめは海南島での臺灣拓植會社の役割と影響についての硏究である。
 本論文ではこれらの先行研究とは視角を別にしたものであり、日本政府がなぜ海南島を重視するようになったか、日本政府に先だって海南島を占領しようとした臺灣總督府の行動過程、及びその方法等について考察し、最後に、海南島占領の後、政治的ㆍ社會的ㆍ經濟的に環境が似っていた臺灣植民統治の經驗(いわゆる‘臺灣經驗’)に基づいてどのように海南島を支配したかを考察した。このような分析をおこなうのは日本帝國主義政府の對外擴張努力とその方法を再照射し、日本帝國主義の侵略性の一面を告發するためである。

2、海南島に對する臺灣總督府の慾望
 近代以後, 海南島は淸國によって開發される機會が何回もあった。
しかし、政治的な狀況變化によってその機會を失ってしまった。これに比して日本は、1895年下關條約に基ついて臺灣を占領した後、臺灣總督府を設立して植民統治を開始しつつ、さらに進んで‘南進基地’の必要性を認識し、その野望を達成するために海南島侵略政策を推進した。この政策を遂行するために、尖兵となったのが臺灣總督であった。特に初期の臺灣總督らはすべてが軍人出身であり、それまでの軍內部での謀議によって南進基地の重要性を知っていたので、海南島の地政學的、經濟的の重要性に對して誰よりもよく理解していた。彼らは、海南島を占領するための調査を1908年5月から開始した。
 この調査のため、醫藥品等の原料を確保するためという口實で、臺灣總督府が政治的に曖昧な狀況にあった廣東政府(当時、海南島を管轄していた)を利用して海南島の開發に對する協議をする一方、實質的に廣東政府を支配していた英國と外交的に妥協しようとしたこと等を見ると、これらの動きが南進政策の據點を確保しようとした日本政府と日本軍の戰略的な政策を完成するための布石であったのがわかる。
 しかしながら、中國民衆の反對運動のため、1920年代と30年代には廣東政府との共同開發企劃は頓挫し、
 臺灣總督府は海南島に對する關心を一旦ひっこめたが、南進のためには海南島の地理的な位置が非常に重要であったので、內部では引き続き海南島占領計劃を進めていた。
 そして、再實行の出發點は、日帝が人的·物的資源の總動員のため制定·公布した‘戰時統制の基本法’であり、1938年4月に日本海軍が臺灣に海軍武官部を開設し、‘海南島處理方針’を公布して海南島占領計劃が始まった。この‘海南島處理方針’の冒頭部分には、その要旨が明らかにされている。
   “海南島の軍事的、經濟的な重要性、そして地理的、社會的な特殊性を勘案する時、この
   島の統治にあたっては、當然ほかの占領地域とは異なる政策が行われるべきである。卽
   ち總體的な統治圈を確立することとともに、帝國の外地に對する統治理念を拡大するのを
   主な目標にしなければならない。それため、一つはこの島を統治する時、臺灣を統治した
   經驗を活用し、南方外地の一環として取り扱うべきである。二つは、この島を開發して必要
   な資源を確保しなければならなく、日本、滿洲、中國との經濟協力を强化すると共に、民生
   安定を圖らなければならない。三つは、この島を中心として東沙島ㆍ西沙島ㆍ新南群島に
   對する支配權を確立しなければならない。同時に臺灣および南方外地を統一し、帝國の南
   方政策を推する據點として作るべきである。”

 この文章から、この時点で既に海南島を永久的に占領すべき地域であると考えられていたことがわかる。
この政策を遂行する過程で、英國との外交的葛藤が想定されたので、まず獨立的な自治政府を樹立したあと、傀儡政府を親日派として編成するようにした。そして産業ㆍ金融ㆍ其の他海南島の開發施設に關しては臺灣拓植會社にすべてを委任して經營するようにした。これは臺灣總督府が臺灣經驗を海南島に移植して統治しようとした切迫した心情をよく現わしているといえよう。
 結局、1939年2月10日、日本海軍が主導する中で海南島を占領し、海南島はこの時から敗戰まで6年間日本統治の下に置かれた。このように、臺灣總督府の海南島支配野望は、英國との國際關係、廣東軍閥政府の利用、現地調査、臺灣經驗に基ついた統治方法の構想等すべての點を考えながら、長期的な計劃の下で推進されたことがわかる。

3、臺灣經驗とはなにか
 日帝は海南島を占領した後,照年日本が臺灣を接收して以降、臺灣統治の過程で累積された政治、經濟、社會、産業等の各方面の經驗、卽ち‘臺灣經驗’に基ついて海南島を統治した。日本の著名な經濟雜誌である《ダイヤモンド》の石山賢吉記者は‘臺灣經驗’に對してつぎのように觀察していたことがある。
   “日本は海南島を占領した後、すぐ臺灣を重視することを始めた。なぜなら、海南島を統
   治する時、臺灣統治の經驗が非常に效果的であろうと考えたからであった。例えば、巡査
   の場合日本內地から來た者より、臺灣で採用した巡査がずっと效果的であるからであっ
   た。なぜならかれらは氣候に習れており、中國人を取り扱った經驗があったからであっ
   た。勞動者もまた臺灣人が非常に適合いしていた。農作物の栽培面でも臺灣經驗が應用
   できたからであった。こんど海南島開發に對してわが海軍當局は、資本と技術者を活用
   するにおける經驗があるか、實力がある者を歡迎するという方針を立てている。わが海軍
   はかかる方針に從って30餘個會社に海南島開發を指定した。しかしこれら會社が海南島
   海南對する開發はそんなに熱情的ではなく、ただ機會だけをのぞいているようすであ
   る...........
    なぜならかれらの經驗はすべて內地での經驗であるから熱帶農業についてはよく分から
   ないので、全く手をつける餘地がないのである。しかしその中で一番突出した會社があ
   り、それがすなわち臺灣拓植會社である。臺灣拓植會社は既に試驗栽培の經驗があり、
   整地作業もやった經驗があるので、その成績が非常に優れている。かかる臺灣拓植會社
   の經驗は海南島內のすべての面で非常に有用である...........
    かかる臺灣經驗は臺灣を統治しながら苦心して得られたのであるから、それほど報答が
   あるはずなので、臺灣は南進基地を建設するのに全力を出す使命感を持っているといえよ
   う。”

 これを見ると、日本の臺灣經驗が新たな占領地に對して如何に大きな影響を与えたかが知られる。
では、かかる‘臺灣經驗’は、どのようにして獲得され、蓄積されることができたのであろうか?
 その要因は三つの側面に要約できる。一つめは、日本政府が臺灣總督に軍事執權獨裁專制をおこなうことができる權限を與えたので、‘臺灣經驗’を得ることができたという点である。二つめは、多樣な方面での特殊業務を遂行する警察機關を設立し、恐怖統治を通じて抵抗勢力を封殺できたので、自分の計劃を推進していくのができたという点である。三つめは先の二つの目標を效果的に達成するため、“臺灣で臺灣をおさめる(以台治台)”という政策を實施したためであった。この‘以台治台’の骨格は、厳格な保甲制度と連坐法であった。これらについての具體的な實行狀況は本文を參考していただきたい。
 このような手段によって臺灣において遂行された植民統治は、臺灣を恣意的に蹂躪し、臺灣人を奴隸化するのに非常に効果的であったので、臺灣の財富と資源は容易に掠奪されていった。かかる統治手段は、そのまま海南島占領後の植民統治にも適用され、臺灣と同様に海南島民衆にも苦痛を與え、海南島の資源を掠奪するのに大きな作用を果たしたのである。

4、海南島經營に應用された臺灣經驗
 このように、日本政府はいわゆる‘臺灣經驗’による海南島支配を極大化させた。
 卽ち、“海南島と臺灣の間には早くから多くの交涉があった。往年、南進論を鼓舞する時、先輩たちは海南島の開發に對して相當に苦心した。占領後海南島をどのようにするか?......結局臺灣總督府は軍部側に地理上の各種有利な條件を基礎にして海南島を親日地域と作ることを要求しながら ‘臺灣經驗’に基ついて軍部側の活動を大々的に支援した。”
 これは軍部側にすべての權限を與え、强力な支援を通じて海南島で臺灣のように確固たる植民統治ができる基盤を確保せよという要求であった。
 かかる植民統治は、1938年臺灣總督府內部で事前に決めおいた“海南島處理方針”に從って實行されたのであった。この方針の実行は、1939年4月1日臺灣總督府の事務官も乗船した定期船‘めなど丸’が臺灣を出航し、海口に到着して臺灣總督府事務所を開設した中で始まった。
 この事務所の任務は、海軍、陸軍、外務等によって構成された三省聯合會議及び其の他派遣された駐在機關と協力して事務を處理し,博愛會等總督府關係の諸般團體及び施設、そして調査團に對する總括指揮、臺灣銀行ㆍ臺灣拓植會社ㆍ各種商社等を指揮しながら連絡を取ることであり、關係者に對する指導等の事務及び海南島に對する諸般調査等を管掌することであった。
 臺灣總督府は、かかる應急措置を管掌してその機能を發揮させることのほか、“異民族の統治、熱帶農林業、熱帶醫學”等の領域で、植民地の行政經驗がある者や、知識經驗がある者を派遣して管掌させたり、また、海軍特務部の‘軍政要員’を派遣して敎育關係、日本語學校、農林、畜産、水産關係、專賣關係、電氣通信關係、度量衡關係、産業試驗場、植物檢査所等の各方面を擔當させたりした。
彼らが‘臺灣經驗’を通じて海南島で實行した各種制度及び事業の内容については、本文を參照していただきたい。
 このような狀況を見れば、‘臺灣經驗’が海南島へ移植され、海南島の經營を主導したのが理解されるであろう。このように、日帝の臺灣における植民統治經驗は、‘大東亞共榮圈’を建設するのに實質的に大きな助けになり、海南島もまたその布石のための犧牲地になったことがわかる。

5、おわりに
 日本は内地以外の地域を統治しようとする際に、臺灣をモデルとして經濟を發展させようとし、これを日本帝國の經濟發展の一環としてみなし、自己の經濟圈内で必要なものを補充しようとした。このような基本原則は 海南島にもそのまま適用され、驚くべき方策が提案された。それはまず住民の皇民化を根本政策とすることであった。つぎに計劃經濟を基盤として産業發展を引っ張っていくという方策であった。三つめは臺灣經驗を活用してすべての政策を具體的に樹立して運用するという方策であった。そしてかかる方策の實施に際して‘臺灣經驗’を活用し、約10年間で現在の臺灣と同水準まで統治成果を上げることを目標とした。10年間で臺灣のような‘統治成果’を上げると計劃したことは、いかに‘臺灣經驗’に對して自信を持っていたかということがうかがえる。
 このように‘臺灣經驗’を海南島に普及しようとする切迫した心情は、日本政府の長きにわたっての宿願である南進政策を實現するための橋頭堡を確保したいということと、海南島の豊富な農業資源、林業資源、鑛山資源を開發し、植民地統治及び戰爭において必要な資金を支援しようとしたことの2点に由来するものであった。換言すれば、國防、軍事、南方經營、産業發展という側面から考慮して、海南島を日本の國土に編入することは當時の日本が置かれた狀況においてで最上の方法であり、編入後において最大の效果を得るためには、‘臺灣經驗’による經營が不可欠であったという事實を確認することができる。
コメント

『臺灣日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか

2016年08月29日 | 海南島近現代史研究会
■『台湾日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか ■

                                       竹本昇

 海南島近現代史研究会第5回定例研究会(2010年2月14日)では、「臺灣日日新報」は、日本軍奇襲上陸(1939年2月10日)以降の海南島侵略をいかに報道したかを報告しました(このブログの2010年2月15日の「『台湾日日新報』の記事」をみてください)。
 今回は、1939年2月10日の奇襲上陸前において、海南島侵略を報道していたかについて調べました。

■経済侵略関係
★1908年1月19日 みだし=「蓖麻子油について」 
 記事=「我國に於いては未だ商売的にこれを栽培しやるものなく随って其成績として挙ぐべきものなきを以て参考として廣東省か海南島に於ける栽培法を示すべし」 
     「以上は海南島に於ける栽培法にして移して以って直ちに適用することの良否は未だ遽(には)かに断言し難きも本島に於いては或いは以上の栽培法よりも容易に簡便に栽培し得べし」

★1909年7月9日~14日 みだし=海南島探検(一)~海南島探検(五)
 記事=「今日の如き海上の交通が自由自在なときになっても、同島の事情は、比較的紹介されていない、臺灣あたりでは、全く同島の事情を知ったものはない」
     「殖産局小西嘱託は、此島が天蚕の本場であると云うので、天蚕の状況を調べ、同時に他の動植物や人類産業等の一般状況を調べるために、五月二三日に出発して同島に赴いた」
★1922年2月17日 みだし=凌海丸の遠征 昨日高雄出帆
 記事=「総督府殖産局の水産試験船凌海丸は既報の如く南支那、海南島、佛領印度支那等に於ける水産調査を行うべく一六日午後三時高雄を出帆し遠征の途に就いたが出帆に際し東内務部長を始め州職員其他の有志はランチにて港外まで見送った」
★1922年8月21日 みだし=種豚輸入 海南島から一三頭を
 記事=「臺中の請負師堀土三郎氏は製糖会社の藤の原料採取の為め過般海南島に出張したが同氏は海南島の豚が非常に優良であるらしいので種豚として雄を一頭、雌一二頭計一三頭を本島に輸入した・・・気候風土は本島と毫も異ならず・・・本島に於いては好結果を得るであらうと期待されて居る」
★1925年1月1日 みだし=臺灣から南へ南へ! 海南島へ着目せよ
 記事=「帝國の南方発展策として其使命を完うするには・・・・、帝國の南支南洋支店たる臺灣に更なる南方の何處かにに出張所を設けて貰いたいと思います・・・ソレは廣東省雷州半島に直面し東西交通の咽喉を扼し而も豊饒な土地であり乍ら外國の勢力が餘り及んでゐない海南島であります。此島を是非當局に於いて調査して貰い、一方有力な實業家及資本家に渡航して貰いたいのであります。」
★1928年9月8日 みだし=臺灣に倣って居る 海南島の開發 交通第一主義で押通す黄△氏 ―貴州丸で歸つた平間技師談
★1930年9月23日 みだし=海南島視察記 臺北帝大生土屋米吉 海南島の民情 
★1931年2月16日 みだし=海流瓶の行方 桃園沖から海南島へ
 記事=「總督府水産課では、凌海丸にて海洋調査の際昨年十一月十七日午前十時三十五分桃園沖三十浬の地點で十本の海流瓶を投下したが其中の一本が本年一月二十二日午前八時半頃海南島に到着取得した旨支那人から通知があった。・・・・水産當局の語る所によれば・・・海洋調査から見れば貴重な参考資料」
★1936年9月26日 みだし=製糖事業には有望な海南島 北海から歸つた入江○○談
 記事=「勝間田氏の話では海南島を開發して甘薯を植ゑ製糖をやれば支那全土に供給するだけの砂糖は立派に出来るといふ事だ」
★1936年10月9日 みだし=海南島海口に 俄然排日熱が再燃 馬公で眞否を懸念
 記事=「七日夜ラヂオ放送によつて海南島海口に於て排日熱急に再燃すと報ぜられたが馬公要港部には右(みだしの文)に就いて未だ何等の情報も入つてゐないので其眞否に就き大いに懸念してゐる」
★1936年10月10日 みだし=海南島は南方の寶庫 笹川大尉講演
 記事=「海南島は臺灣よりははるかに資源に富みまだ放置されてゐる寶庫で将来どうしても〇〇の手によって開發せねばならない、今まで餘りに閉脚されてゐた様だ英米の如き多数の人を派し石油其他資源獲得に努めつつあり病院、教會等を通じて人心収攬を行つてゐる、同地の日本人は勝間田氏一人だが家族は既に引あげたとあるから将來の事が思ひやられる。中野氏の死は全く御氣の毒であるが今回の事件によつて日本の海南島に對する認識を深からしめたとするならば同氏の死は決して犬死ではない」
★1936年10月13日 みだし=海南島は招くⅡ この南海の寶庫にも 歐米の魔手は伸びてゐる
記事=「海南島の△業は未開の一語につき、その経済的價値は希望の未知数だ―現在判明してゐる鉱産物の種類は錫、鉛、砂金、鐡、雲母等で凡んど無尽盡と謂われ、全島十四ケ所に小規模な英國系資本で錫の採鑛が行はれてゐるのみである専門家の本格的調査を俟てば脅威に値するものがあらう。資本と科學と人力を持たない島の人達にとつては、寶庫の持ち腐れである。・・・・
 斯の如く總ての事業に於て幼稚の域を脱せず、若し近代式方法を以て開拓すれば島の生産力を数倍加することは容易である。しかしこのバージン・ランドにも歐米の魔手は伸ばされつつあるのだ。・・・勝間田翁は各國の勢力に比して日本の微力なることを遺憾として義久氏と協力し海南事情の書を刊行し、日本朝野の決意を喚起すべく数年前より資料蒐集に努力中であるが、既に草稿の大半を完成してゐるのでその出版は時局柄大いに期待される」
★1936年10月14日 みだし=海南島は招くⅠ 南進 國策の重要な足溜めたらしめよ
 記事=「海南島は我が南進國策の足溜まりとして、経済的のみならず軍事的にも重要性を持つことは贅言を要しないであらう、然し南支那海の制海権を把握するには幾多の重要施設を必要とする、またその時代でもない、無限の寶庫を拓く鍵は資本と科學に先行して、まづ農業移民に與へられてゐる、我が移民を送るに好都合な条件は、島自體が政治的に獨立國形態にあり、・・・。人種的には海南人は穏健であることだ從って島内より抗日排日思想を驅逐することも、政策如何によつては敢えて難事ではない」
★1936年10月22日 みだし=“海南島の開拓をやつて見たい”桑原前基(ジ)隆(ロング)市尹(イン)談
 記事=「私は海南島にどうしても一度行きたいと感がへる領土的野心は持たずに同島を文字通りパラダ
イスにしたい」
★1938年11月30日 みだし=否定された海南島も 企業的生産に成功
                    臺灣生ゴム樹栽培論  (八) 總督府官房外務部 佐多 長春
 記事=「将来のゴム生産に就いて、海南島が重要なる役割を演ずるで有らう事は、想像に難く無い・・・
      その昔完全に否定せられたる海南島のゴムは、今や完全に導馴せられ、企業的生産に立派に成功しつつあるでは無いか?各作物の持つ南限を征服する事が出来、台湾の如き亜熱帯地にも生産し得るので有つて、之即ち台湾山地開發の技術的原理である」

■北海事件関係
★1936年9月9日 みだし=海南島海口で邦人殺害さる 香港總領事館に入電
 記事=「海南島海口在留者勝又善作氏より香港總領事館への入電に依れば雷州半島の西部に當る北海の在留邦人平野某は支那人のため殺害されたと云はれる、原因その他詳細不明」
★1936年9月15日 みだし=海南島にも便衣隊潜入 在留邦人を極力保護
 記事=「目下軍艦嵯峨は北海港外にあり嵯峨艦長は海南島海口に於て同地の公安局及び鞍靖公署の秘書陳香氏と會見した・・・公安局長代理は『去る三日北海で日本人中野を短刀で殺害した事件後當地の日本人に對しても嚴重保護を加へてゐるが現にに勝本某に對して二名の巡警つけて保護してゐる中野を殺したのも一九路軍か便衣隊であらう當地にも便衣隊が入つたと云ふので警戒してゐる』と云ってゐる」
★1936年9月16日 みだし=任務遂行の障害 速かに除去せよ 今明日中に提出か 
                    南遣部隊終結完了
 記事=「海南島に南遣部隊の集結を完了せる我が海軍では事件の調査及び北海に在る居留法人保護の見地から支那側に對して我方の任務遂行に支障を来す一切の障害を速かに除去するよう嚴重申出を今明日に提出する模様である」
     「在上海大使館附海軍武官室は本日左(上記)の發表を爲した 我が海軍の有力なる南遣部隊は今日海南島に集結を完了した」
★1936年9月16日 みだし=我北海調査員 海南島にて待機 國府の保障工作完了まで
 記事=「北海事件に關する我調査員を乗せた軍艦嵯峨は萬一に備へるため集結された第十三駆逐隊と共に海南島某所にありて嚴重なる警戒を行ってゐるが、これら出先當局と密接なる連絡を執りつつ飽くまで支那中央政府を責任ある保障工作をなさしめて後現地を行ふべく努力して居り未だ一歩も惨害地に踏入らず待機の姿勢をとつてゐる」
★1936年9月22日 みだし=蒋氏、海南島の防備強化を計る 獨立第九旅を新設
 記事=「蒋介石氏は日本が北海事件現地調査のため軍艦を海南島北岸海口に派遣せしめた事より時局の尖鋭化を見越し之に對抗する目的をもつて海南島の防備強化を圖り、同島に獨立第九旅を設置することとし、二十日王定暇を旅長に任命之を發表した。獨立第九旅は三個團より成り一旦戦闘勃發せる際は全滅を賭して外敵より海南島を護れと訓辞されてゐると言はる」

■軍事侵略関係
★1933年4月18日 みだし=海南島沿岸に海軍根據地
 記事=「廣東省沿岸防備強化の爲海南島海岸に海軍根據地を建設する案が目下西南派将僚間で計畫されて居るが建設費は特別公債で支出する」
★1937年9月10日 みだし=海南島の防備を強化 日本軍艦現はれたとて
 記事=「海南島瓊州より廣東軍事當局への入電によれば七日夕刻日本軍艦〇隻が瓊州海峽(雷州半島と海南島の間)に現はれ廣州湾を中心に海空より同方面の支那船舶の航行を監視中であるとのことで余漢諜は直に海南島と北海駐屯部隊に對して二十四時間以内に戦闘準備をなすやう命令を發した、北海駐屯部隊は廣西軍の増援を得て目下三万餘の兵力に上つてゐるに對し海南島部隊は十旅にすぎなかつたものが廣東軍の増援を得て三倍の兵力となる模様である」 
★1937年9月19日 みだし=海南島 海口を砲撃 我が軍艦〇隻 一時間に亙り
 記事=「去る一六日午後五時三十分我軍艦〇隻は海南島の主要港海口を砲撃支那側も砲臺より反撃し來り交戦約一時間にして埠頭其他軍用施設に多大の損害を與へて引揚げた」
★1937年11月5日 海南島を望む  写真のキャプション「海南島を遠望」・「偵察に出動の○○艦載機(後方に見ゆるは海南島最南端)・「○○島に碇泊、錨を下す○○艦」   ―總督府許可済―
★1938年1月25日 みだし=海南島楡林港を砲撃 臨檢隊を小癪にも齊射 直ちに反撃、敵陣を粉碎
 記事=「大本營海軍部公表 南支方面海上監視中の我が海軍○○部隊は豫て海南島楡林港に支那戎克船の密航するものあるに注意しつつありしところ本月十九日軍艦○○は午前八時三十分同港に進入し飛行機偵察の結果、港内に戎克多数碇泊中を發見せり、依つて同艦臨檢隊は内火艇及びカツターに搭乗し陸岸に向け航行中、突如港内陸岸倉廩より機関銃及び小銃の齊射を受けたるを以て直ちに反撃を加へ、軍艦○○亦この敵を砲撃、機銃陣地等を粉碎し敵に大打撃を與へ潰走するに至らしめ無事臨檢隊を収容せり、本戦闘に於いて臨檢員に三名の輕傷を出したる外我方に損害なし、尚同港の周圍には砲△を構築しあるを確認せり」
★1938年4月16日 みだし=小癪・敵陣地から 矢庭に一齊迷射 海南島附近で航行遮斷中 
 記事=「先般我が○○が海南島附近で支那戎克船の臨檢に赴いた所何を血迷つたか小癪にも陸上の敵が我に猛射を浴びせかけた、其腹癒せなんてそんなケチな考へでは勿論ないのであるが○○日我が○○は勇猛果敢同地の重要軍事施設に對して猛爆撃を加へた、敵は我が爆撃に對して高角砲で抵抗して来た、連続二日に亘る今回の爆撃に依つて敵の○○重要軍事施設は徹底的に損害を受けた事は確実である、無論我方海の荒鷲に微少の損害だもあらう筈がない、・・・
     支那は遉に宣傅上手な国である、・・・文明国人が文明の新聞に對する觀念を以つて支那殊に現在の支那新聞などを讀んで居たらとんでもない目に遭う、是れはつい最近に事実がであるが、我が○○は去る日的に○○砲台と一寸撃ち合つて、悠々其場を去つて行つた、・・・
     実際は敵の砲弾は弾片さへも受けてゐない・・・それが撃沈とあるから笑はせられる、・・・
     只善良なる一般民衆が迷はされる事が氣の毒であり、又平和促進の阻害となる事をおそれる(原文は漢字)次第である」
★1938年6月19日 みだし=海南島を爆撃
 記事=「艦隊報道發表  十七日中南支一帯は天候極めて險悪時に豪雨來襲せり
     一、揚子江進撃部隊は悪天候により刻々増水しつつある濁流を制し着々水路障碍物を排除進撃を続け續けつつあり
     二、航空部隊は新學線、廣東西江方面を攻撃、・・・又海南島攻撃部隊は海口における警備司令部及び軍事施設を爆撃大なる損害を與へたり」
★1938年11月22日 みだし=海南島の防衛を嚴命 瓊州で重要軍事會議
 記事=「某方面よりの來電に依れば国民政府は此程海南島の防衛に關し嚴命を發したものの如く、最近同島官憲と国民政府との間に頻繁に通電連絡が行はれてゐるが、また同島軍事當局は瓊州に重要軍事會議を開催したと言はれてゐる」
★1939年2月11日 みだし=海南島上陸を祝し 旗行列と提燈行列 あす全島一齊に擧行
 記事=「南支の要地であり色々な点で似た所が多い所から本島とは馴染の深い海南島に皇軍の精鋭の一部が上陸に成功したとの報は五百万島民の上に大きな歓喜を齎(もたら)してゐるが、この島民の歓びと今回の壮挙に従つた皇軍将兵の辛勞に對する感謝を形に表はすべく總督府では十日正午二見長官代理以下部局長が参集協議の結果、十一日の紀元節の佳き日を期し全島一齊に旗行列(畫間建国祭終了後)と提燈行列を行ふ事に決定その旨地方△に通牒を發した」
★1939年2月11日 みだし=瓊州、海口を占領 我が上陸軍先頭部隊
 記事=「我が上陸軍先頭部隊は十日午前十時四十五分瓊州に入城した、又他の有力部隊は午前十一時海口に進入し日章旗を翻した」
           みだし=我に損害殆どなし
 記事=「一.・・・同島第一の都會海口を占領せり
      二.・・・占領により海上部隊の今後に於ける活動を益々容易ならしめ」
           みだし=陸海の荒鷲交々 敵軍に巨彈の雨
 記事=「・・・我が軍は目下〇〇と瓊州間の街道を進撃中で又海南島における二大都市たる瓊州、海口はともに日章旗が全域に翻つてゐる」
           みだし=海南島の攻撃と其の意義
 記事=「一 十日早朝、吾が陸海軍の精鋭部隊が海南島を奇襲、上陸進撃中といふ大本營陸海軍部の公表は、國民の期せずした快哉を叫ぶ一大快報であつた。南支方面作戦の根據地として、又援蒋ルート覆滅といふ上から見ても、海南島攻略の意義は頗る重要なるものあるのである。海南島は、香港とシンガポールの中間に横たはり又佛領印度支那とは、一衣帯水、租借地廣州湾の咽喉を制する共に、比島以南の他南洋方面に對しても無言の壓力を加ふるものである。之に依て香港海防等孤立化し、南支の動脈は掌中に△したものと謂へる。英、佛両國の受けたる動揺は蓋し想像以上のものがなくては叶ふまい。
      二 ・・・新支那は現に生成しつつある。興亜新體制は愈よ運命共同體としての根基を固めつつあるのだ。」
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 1908年には蓖麻子油(潤滑油に使用)の栽培方法を海南島から導入するべきとの主張、その後、製糖の原材料を海南島から手に入れるために海南島を調査したこと、海南島を開発して製糖業を起こすことを主張、軍人の大尉が海南島は南に宝庫だから開発すべきとの主張、鉱産物が無尽蔵にある海南島を開発するための決意を官民に喚起、などの記事が掲載されていました。
 1907年に台湾総督府殖産局が蚕山調査、1922年に殖産局が水産調査、1931年総督府水産課に海洋調査、当局への調査と実業家・資本家への渡航を求める記事、海南島を「南進」の拠点にすることを国策とするべきとの特派員の記事、総督府は台湾でのゴム生産技術の開発を誇っている記事が掲載されていました。
 1933年廣東省沿岸防備強化を理由に、海南島に海軍根拠地建設が計画されたこと。1936年9月3日に起きた「北海事件」により、日本軍は海南島に南遣部隊を配備した記事が掲載されていました。
 1937年7月の日中全面戦争により、同年9月16日海南島海口を砲撃、11月5日の海南島(「最南端」と記載)に軍艦が出動、1938年1月には海南島最南端の三亜の楡林港を銃撃、1938年4月海南島爆撃(場所は〇〇と伏字)、1938年6月海口爆撃の記事が掲載されていました。
 1939年2月10日の奇襲上陸以前にも、日本軍は海南島への武力攻撃を行っていました。

     注=〇〇は、原文記事が〇〇表示。
     △は、マイクロフイルムからのプリントで字が潰れて判読不可能な文字
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海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会 進行表(抄)

2016年08月28日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会 進行表(抄)■
  と き:2016年8月28日13時10分~16時50分
  ところ:クレオ大阪西 研修室            

主題:海南島と台湾

■開会あいさつ 
■主題報告 海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)
                            佐藤正人
■主題報告 臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南經營
                            金勝一
■主題報告 台湾総督府・朝鮮総督府・南洋庁・「海南庁」 
                            金靜美
■主題報告 台湾総督府の南進政策と海南島侵略
                            斉藤日出治
■主題報告 抗日霧社蜂起犠牲者の遺骨略奪と差別研究および海南島調査
          ――台北帝国大学・金関丈夫に即して
                   三木ひかる(紙上参加。紹介:佐藤正人)
■主題報告 『台湾日日新報』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか
                            竹本昇

     休憩
                              
■討論 1945年8月以後の海南島・台湾・ベトナム・フィリピン・インドネシア・朝鮮……日本
■報告 海南島への侵略と支配(所蔵資料1.図版・写真記録関係の紹介)
                            久保井規夫
■調査報告 第29回・第16回海南島「現地調査」(2016年春)   
                            金靜美
■2016年10月の海南島近現代史研究会の17回目の海南島「現地調査」について
■大阪労働学校第一回公開講座「日本の海南島における国家犯罪」について
■閉会あいさつ                            


■懇親会・交流会
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海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」………) 

2016年08月27日 | 海南島近現代史研究会
海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会報告要旨
■海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」………)     佐藤正人

   1 帝国主義諸国の他地域他国侵略史における海南島と台湾
   2 海南島侵略機関としての台湾総督府
   3 台湾人兵士・軍属
   4 台湾報国隊・朝鮮報国隊
   5 海南島の「慰安所」に入れられた台湾人女性
   6 姜延壽さん

1 帝国主義諸国の他地域他国侵略史における海南島と台湾
   琉球王国、台湾民主国、マダガスカル(メリナ王国)、ハワイ王国。
   アヘン戦争、義和団戦争、マジマジ戦争、シベリア戦争。
   シオニストのパレスティナ侵略→「イスラエル国」。

2 海南島侵略機関としての台湾総督府
  国民国家日本は、アイヌモシリ、琉球王国、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部を植民地としたあと、海南島を植民地としようとした。台湾が、海南島植民地化の基地とされた。おおくの台湾民衆が、日本軍の兵士として海南島に送りこまれた。台湾の獄中者が、日本軍用飛行場建設などのために海南島に送りこまれた。台湾の女性が日軍隊性奴隷として海南島に連行された。鉱山労働者として台湾の青年が海南島に強制連行された。日本政府は、台湾総督府に相当する海南島総督府をつくろうとしていた。台湾植民地化と海南島植民地化は連続していた。

※「海南島ニ對スル台湾総督府ノ協力」
 アジア太平洋戦争戦争開始1か月後、1942年1月、台湾総督府は、「南支及海南島ニ對スル台湾総督府ノ協力概要」という文書をだした。それは、「厦門」、「汕頭」、「広東」、「海南島」、「其他」の5章からなり、第4章「海南島」の構成はつぎのようなものであった。
    第一節  政治行政関係、   第二節  宣撫宣伝関係
    第三節  医療防疫関係、   第四節  交通通信及土木関係
    第五節  公共事業関係、   第六節  産業関係調査及指導
    第七節  学術調査隊ノ派遣、 第八節  台湾関係会社銀行ノ進出
    第九節  一般産業開発ニ對スル協力、  第十節  其他
 第九節には、「目下軍ノ要請ニ依リ派遣方手配中ノ石碌鉄山ニ於ケル台湾人労働者二、〇〇〇名ヲ始メ同島開発ニ對スル労務者其他技術員ハ多ク台湾ヨリ派遣セラルヽ等同島開発事業ノ台湾ニ對スル依存性ハ極メテ大ナルモノアリ」と書かれており、第十節には、「台湾人ノ中目下海南島ニ於テ通弁若クハ軍夫トシテ従軍活躍中ノモノ通弁約四百二十名、軍夫千五百余名アリ而シテ現在同島ニ進出セル台湾人ハ右軍関係者ヲ除キ男約二千名、女約百九十余名ニシテ在留邦人約五千名ノ五分ノ二を占ム」と書かれている。

※「海南島の開発と台湾」
 「海南特務部は漸次事実上の行政庁となりつつあるが、その要員は内外地官民各方面より派遣されてゐる。然し台湾よりの派遣員はその大部分を占め、殊に熱帯植民地特殊行政の経験手腕を必要とする教育関係、農林・畜産・水産関係、土地制度・専売制度・衛生制度関係等の分野は全く台湾よりの派遣者を以て構成されてゐる状況である」、
 「現地海軍各部隊に隷下し警察部面より治安確保に協力すべき多数の警察官及び警察官補の派遣があり、又多数の台湾人の軍通弁並びに軍夫を派遣してゐる」。
       青木茂台南州産業部長(前台湾総督府海口出張所長)「海南島の開発
      と台湾」(執筆日1942年10月18日。台湾経済年報刊行会編『台湾経済年
      報』1943年版〈国際日本協会刊〉)。

3 台湾人兵士・軍属
 1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第二三軍司令官田中九一代理)の名でだされた第二三軍司令部の「状況報告」の別表第一「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」には、「海南島地区」の陸軍部隊は68人、海軍部隊は3万3475人、居留民は1万1935人、計4万5478人であり、陸軍部隊は全員が「内地籍」、海軍部隊は、「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「カンセキ」733人、居留民は、「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「カンセキ」1233人と書かれている。ここでは、日本敗戦時に、日本海軍部隊に入れられていた台湾人は、1万5068人であったとされている。
 日本海軍の用紙に手書きで書かれた佐世保鎮守府第8特別陸戦隊「終戦ヨリ内地帰還ニ至ル迄ノ概要」(『海南地区終戦処理概要及現状報告』1946年)には、日本敗戦時、同特別陸戦隊に所属していた「台湾籍軍人軍属」約1500人は1945年11月7日に中国陸軍に「正式ニ移管」し、「朝鮮籍軍人軍属」23人のうち、10人は海口の「朝鮮人民連合会」に加入し、13人が約1600人の日本人とともに「集結地」(田独の「石原鉱山宿舎」)に行き、1946年2月下旬に「正式ニ中国側ニ移管」したと書かれている。

4 台湾報国隊・朝鮮報国隊
 1943年9月25日に、内務大臣安藤紀三郎は、総理大臣東条英機あて文書で、台湾での獄中者の構外作業を監督する職員の増員を閣議決定することを要請していた(「臺湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」1943年9月25日付け内務省臺管第190号)。
 そこに添付された「受刑者構外作業ニ伴フ増員 要綱」には、「海南島鉄鉱開発上急施ヲ要スル鉄道工事……」と書かれていた。また、「受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件 説明」には、
 「日本鉱業株式会社(金瓜石銅鉱山五〇〇人)及株式会社西松組(海南島鉄道建設一、〇〇〇人内第一回分三〇〇人)竝ニ臺南市役所(土木工事二〇〇人)ヨリ夫々収容者出業方要求アリ之等ハ何レモ戦力増強目的ノ上ヨリシテ緊急不可欠ノ事業ニ属スルノミナラズ……」
と書かれていた。「構外作業」する台湾の獄中者を監督する職員の増員は、1943年9月27日に閣議決定された。台湾の刑務所から海南島に連行する獄中者300人を監督するために増員された職員は35人だった(典獄補一、看守長二、看守三〇、保健技師一、教誨師一)。
 その半年前、1943年3月末に、「朝鮮報國隊」に入れられて、朝鮮の刑務所から海南島に連行される朝鮮の獄中者がソウルを出発していた。

 朝鮮総督府法務局行刑課内にあった治刑協会が発行していた月刊誌『治刑』(1944年3月号)に、看守長貴島貞四の「我等は挺身する」と題する文書が掲載されている。そこに貴島は、
 「此の頃の気候は海南島でもつともよい季節で、随て作業能率も大いに増進してゐる」、
 「朝鮮報国隊は各方面とも、予てからその作業振りに対して頗る好評を……」、
 「○○には台湾報国隊も進出し……」
と書いている。この伏字になっている「○○」が具体的にどこなのかははっきりしないが、「台湾報国隊」に入れられた人の一部は、1944年はじめころ、海南島東南部の陵水で働かされていた。

 2000年春に、陵水黎族自治県三才鎮后石村に住む龍起義さん(1926年生)は、
  「朝鮮人と台湾人が、近くで飛行場建設の仕事をさせられていた。朝鮮人が住んでいたところには、門に“朝鮮報国隊”、台湾人が住んでいたところには“台湾報国隊”と書かれた木の板がかけられ、鉄条網で囲まれていた。見張っている人間がいつもいるので罪人だと思っていた」、
  「近くに日本軍人たちの建物があった。門に“海南島海軍施設部陵水工事事務所”という木の板がかかっていた」
と話した。朝鮮で「第7次南方派遣朝鮮報国隊」が編成されたのは1943年末だった。このとき、海南島に「朝鮮報国隊」の人たちを連行した刑務職員は41人で、その総責任者は、朝鮮総督府大田刑務所の看守長であった衣笠一(1913年生)だった。衣笠は、2001年に書いた「(自分史) わが足跡 上」の「陵水時代」の章に、1944年1月に「第7次南方派遣朝鮮報国隊」が陵水飛行場建設現場にトラックで運ばれたとき、そきには、すでに、「朝鮮報国隊」の人たちが450人、「台湾報国隊」の人たちが200人働かされていた、と書いている。

 1943年9月27日に閣議決定された「臺湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」の添付文書に「株式会社西松組(海南島鉄道建設一、〇〇〇人、内第一回分三〇〇人)」と書かれている。 
このとき台湾の刑務所から海南島に連行された「台湾報國隊」の人たちは、黄流~北黎間の軍用鉄道建設工事をさせられたと思われる。
 創業百年史編纂委員会編『西松建設創業百年史』(1978年)には、つぎのように書かれている。
 「西松組は海南島における港湾整備、鉄道建設、鉱山開発のため1941年台北に台北支店を、海南島に海南営業所を開設した」、
 「海南島開発の工事は、大別して三つに分けられる。第一は三亜~北黎間204kmの軍用鉄道建設、第二は日窒海南興業による石碌鉱山開発(西松組担当)、第三は石原産業による田独鉱山開発(清水組担当)である」、
 「海軍省は……軍用鉄道を北黎まで延長することを決定、1943年3月、黄流間80kmを2工区(第4工区、第5工区)に分け、いずれも西松組に特命した」(原文、「元号」使用)。

5 海南島の「慰安所」に入れられた台湾人女性
 朴来順さんは、故郷にもどることなく、1995年に海南島で病死した。
 朴来順さんとおなじ紅沙の「慰安所」に入れられていた台湾の盧満妹さんは、謝罪と賠償を求めて、日本国を被告とする裁判闘争を、1999年にはじめた。2000年12月に東京で開催された女性国際戦犯法廷で盧満妹さんは、看護婦にならないかと騙されて、高尾から軍艦で海南島に連れていかれ、三亜、紅沙の「慰安所」に入れられたと証言した。盧満妹さんによると、その「慰安所」には30人あまりの女性が入れられており、30人が台湾人で、朝鮮人女性や日本人女性もいたという。
 2000年8月15日に大阪で開かれたアジア、太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会で、金靜美さんは盧満妹さんと直接はなしをする時間を持つことができた。そのとき盧満妹さんは、紅沙「慰安所」のすぐ近くには、石原産業の会社事務所があったと話した。

6 姜延壽さん
 1945年8月14日の日本敗戦後、数年間、戦犯裁判が上海、広東、香港、漢口、北京、南京、瀋陽、シンガポール、マニラ、グアム、ラバウル、クアラルンプール、バタビア、メダン、サイゴン、東京、横浜などでおこなわれた。
 東京での裁判(極東国際軍事裁判)以外は、USA軍、イギリス軍、オランダ軍、中国国民党軍、フィリピン軍、オーストラリア軍、フランス軍による軍事裁判としておこなわれた。このとき、中国人とフィリピン人以外のアジア太平洋民衆は証人としては参加したが裁判権を行使することはできなかった(中華人民共和国で瀋陽と太原に特別軍事法廷が開設され戦犯裁判がおこなわれたのは1956年だった)。
 極東軍事裁判の裁判官は、アメリカ合州国、オーストラリア、フィリピン、ソ連、フランス、中華民国、オランダ、カナダ、ニュージーランド、イギリス領インド帝国からのみ、 検察官はアメリカ合州国、中華民国、フィリピン、イギリス、ソ連、オーストラリア、カナダ、フランス、オランダ、ニュージーランド、イギリス領インド帝国からのみ派遣されており、中華民国とフィリピン以外のアジア太平洋諸国・諸地域の人間は裁判権を行使できなかった。
 アジア太平洋地域における最悪の戦犯である天皇ヒロヒトが逮捕されず訴追されなかったことに明白に象徴的に示されているように、戦犯裁判は、不十分で不公正なものであった。
 戦犯裁判において、おおくの台湾人と朝鮮人が国民国家日本の侵略戦争の戦犯として逮捕され裁かれ、その中の約50人が処刑あるいは獄死させられた(『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』(1955年12月1日現在)の「韓国・台湾出身戦争裁判刑・獄死者」の名簿には、朝鮮人23人と台湾人26人の名が書かれている)。
 海南島における侵略犯罪によって広東で処刑された人は7人で、6人は日本人(兼石績海南警備府第15警備隊大尉、富田堯人海南警備府第15警備隊大尉、望月為吉海南警備府第15警備隊中尉、前田三郎海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊中尉、鮫島宗義佐世保鎮守府第8特別陸戦隊巡査部長、中村三郎)、1人は台湾人の姜延壽さんだった。
 前田の「起訴理由概要」には「1945年4月海南島中原事件」(原文「元号」使用)と書かれており、1947年9月16日に広東で銃殺された。鮫島の「起訴理由概要」は、「楽会県互助郷坡村において民衆を集団虐殺せり」というもので、1947年5月10日に、広東で銃殺された。その1週間前の5月3日から、最悪の侵略犯罪者天皇ヒロヒトを「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」する「日本国憲法」が施行されていた。
 兼石の「起訴理由概要」には、第15警備隊大尉富田堯人、第15警備隊中尉望月為吉とともに「被告達三名は共謀して1942年7月頃~1943年11頃迄の間に亘り海南島文昌県文教県に出兵し計画的に且連続して土民の屠殺財物の掠奪家屋の破壊等を行った」(原文「元号」使用)と書かれており、1947年7月26日に、3人が共に広東で銃殺された。中村は、海南島でアヘンを生産・販売していた厚生公司の支配人であったとして1947年4月21日に広東で死刑を執行された。
 姜延壽さんにたいする起訴状には、つぎのように書かれていた。
“被告姜延壽は、1942年8月ころ、日本海軍警察巡査補に任命され、海南島文昌縣煙墩市警察隊に服務し、煙墩の偽治安維持会の会長荘運焜、副会長の呉堅文および密偵洪世光らと結託していた。1943年2月25日、呉堅文らと共に張堯章の家に行き、その息子の妻である龍氏と林氏の2人を逮捕し、軍票1000元を出させてから釈放した。また、この年4月ころ張堯章の家屋の2部屋を破壊し、その帰路の途中に張堯章の息子である張運樺を殺害した。1944年旧暦1月6日に林椅英、その妻林陳氏、その側室を部隊に連行し、同月28日に妻と側室を釈放し、同年3月10日に林椅英を殺害し、林椅英の娘林玉樓を拘禁し罰金3000元を課した。1944年旧暦2月14日に、韓仕準の子韓炎豊を部隊に連行し殺害した。5月2日に梁慶保の子梁好欽を殺害した。日本投降後呉運雄らが瓊山縣警察局に文書をもって告訴した”。

 姜延壽さんを裁いた「広東裁判」の劉賢年裁判長は、ほとんど実質審理をしないで、死刑判決をおこなったようである。
 判決後に劉賢年裁判長にだした「對于判決之陳情書」で、姜延壽さんは、呉運雄氏の証言が偽りであること、事実調べをすべきであること、瓊山警察局で審問されたとき拷問されたことなどを訴えるとともに、徴用されて海南島におくられた台湾人に自由はなかったと述べている。

 日本海軍巡査補として海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属させられていた姜延壽さんが、1947年8月4日に処刑される3か月前の5月9日に、安村對一、奥平定世、稲葉直、鈴木薫、村尾勝雄、黒住真雄、宮本春一、今井豊平、永田武雄氏ら9人の日本人を「広東裁判」を担当していた検察官は不起訴処分にした。
 かれらは、1946年3月に海南島で国民党軍によって戦犯容疑で逮捕され、広東の戦犯拘留所に拘禁されていた。
 防衛研究所戦史研究センター史料室で公開されている「被抑留者(戦犯容疑者)北部地区」によると、日本敗戦当時、安村對一は「所轄:特務部兼司令部」・「配置:政務一、二課長兼参謀」で日本海軍中佐であり、奥平定世は「所轄:特務部」・「配置:政務一課情報係」で嘱託であり、稲葉直氏「所轄:第15警備隊」・「配備:七基地指揮官」で日本海軍大尉であり、鈴木薫は「所轄:司令部」・「配置:掌砲長」で日本海軍少尉であり、村尾勝雄は「所轄:特務部」・「配置:連絡部瓊山派遣所長」で書記であり、黒住真雄は「所轄:特務部」・「配置:政務一課報道宣伝主任」で司政官であり、宮本春一は「所轄:舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊」・「配置:南坤石浮中隊長」で少佐であり、今井豊平は「所轄:特務部」・「配置:連絡部指導官」で海軍巡査だった。
 今井豊平が1978年に発表した『嗚呼天哉命哉』(海南海軍警察隊戦友会発行)には、9人にたいする「国民政府主席広東行轅審判戦犯軍事法庭軍法検察官不起訴処分書」の写真が掲載されている。それには、陶冠文軍法検察官の名で、9人を不起訴にしたのは証拠がないからだ、と書かれている。
 今井豊平は、姜延壽さんが佐世保鎮守府第8特別陸戦隊煙墩市警察隊に海軍巡査補として所属していたときの1943年6月ころ舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊警察隊の海軍巡査をしていた。
 そのときのことを、今井は、つぎのように書いている。
「当海軍巡査隊は若い男の共産「ゲリラ」一名を逮捕して来た。陣地内の中央広場に於て海軍兵士による強制訊問が始まる。数時間に及ぶ強制訊問により仮死状態になる事数度。然し絶対に自白しない。日暮れ近くには遂に両眼が突出した。……八番線の太い針金で両手足と首を縛り広場の大木に縛り合せ再訊問は明朝再開する事にした。翌朝起床と同時に昨日の捕虜は如何にと思い広場に行った処影も形もない……」(『嗚呼天哉命哉』、9頁)。

 「広東裁判」では、「討伐」や「捕虜」拷問に加担していた日本人海軍巡査らが不起訴になり、台湾人巡査補が処刑されていた。
 海南島では、台湾人海軍巡査補であった台湾人は逮捕され処刑されたが、海南島で侵略犯罪を直接指揮していた海南海軍警備府司令長官や参謀たちは逮捕されることなく、日本に帰国した。
 日本海軍省は日本敗戦後、第二復員省と名称変更していた。第二復員省総務局総務課在外部隊調査班が1946年3月31日に出した「在外部隊状況速報第二〇号」には、「海南島状況」として、つぎのように書かれていた。
 「三月十九日大竹着V六〇号竝ニ二十一日田邊着V三八号ニテ海南島南部地区ノ海軍部隊帰還セリ
  主要帰還者、横四特司令青山茂雄大佐、十六警司令能美実、同主計長今井善樹主少佐、海南警備府参謀荒井義一郎少佐、猶海南島地区ハ四月上旬内地着便ニテ還送完了ノ予定」。
 1946年4月25日の「在外部隊状況速報第二十三号」には、「海南島及雷州半島」とのこととして、     「雷州半島部隊ハ海南島海口ニ集結シ海南島部隊ト共ニ帰還セリ。海南島部隊ハ四月六日田邊着ニテ海南警備府長官以下引揚ヲ完了セリ」と書かれている。

 厚生省引揚援護局が作成した『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』(1955年12月1日現在)に、「韓国・台湾出身戦争裁判刑・獄死者」の名簿が掲載されており、朝鮮人23人、台湾人26人の名、生年月日、本籍、裁判国、死亡地、死亡年月日などが示されている。朝鮮人23人はすべて刑死しているが、台湾人26人のうち刑死者は25人で、2人が事故死、1人が自殺、2人が病死している。
 広東で処刑された朝鮮人はいなかった、陳添錦さん、李安さん、姜延壽さんの3人の台湾人が広東で処刑されており、顔新富さんが広東で病死している。
 『韓国、台湾出身戦争裁判受刑者名簿』には、陳添錦さん(1946年11月25日処刑)と李安さん(1947年4月18日処刑)は「通訳」、姜延壽さん(1947年8月4日処刑)は「巡査補」、顔新富さん(1947年11月15日病死)は「商人」と書かれている。
 広東で処刑された日本人は、日本敗戦時に「支那派遣軍第23軍司令官兼香港占領地総督」だった田中久一、「第130師団長」だった近藤新八ら45人だった。

【参考資料】
※今井豊平『嗚呼天哉命哉』(海南海軍警察隊戦友会〈金沢市〉、1978年5月)。
※張子涇『台籍・元日本海軍陸戦隊軍人軍属いずこに(二次大戦緒戦の南進基地海南島 台湾人日本兵苦闘の始末)』(聯邦書局出版事業股份有限公司〈台中市〉、1984年4月)。
※基佐江里編著『旧台湾出身日本兵秘録 聞け! 血涙の叫び』(おりじん書房、1986年8月)。
 海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊第6中隊第2小隊の台湾人兵士だった黄玉珍が、1983年春に日本の国会に送った「陳情書」の抜粋。
 今日まで、私の心の奥に何時までも、終戦後1年以上も経過したのに、未だ台湾に帰れず、遠い異郷の赤水集中営で、台湾籍軍人軍(巡査補)が数百人、餓死又は病死で、悲憤の涙をのんで息絶えた、最後の恨みに燃えた瞳と、飢えて痩せこけた、哀れな顔と身体、絶望的な糧食欫乏の苦労続きで、来てゐる着物は汗と泥まみれの、破れたランニングとパンツだけの死体、この悲惨な光景が残ってゐる。
 終戦と同時に、海南島に派遣されてゐる日本海軍陸戦隊から、除外されて、武装解除された、私達台湾籍軍人軍属〈巡査補〉は、復員船も無く、海南島で一年間も置き去りにされた後で、強制的に対岸の雷州半島に追い渡されて、そこから徒歩で、あらゆる苦労を克服して、赤水の集中営に辿りついたが、規定の糧食給与はなく、衛生設備もないままで、大きい池水一つを頼りに、飲料水から、洗濯、洗澡まで、同じ池の水を使ってゐたので、もとから喰うや食わずで、永い間飢えて骨と皮ばかりに痩せてしまって、疲労し切ってゐた抵抗力の弱い隊員は、アメーバ赤痢に罹り、医薬も無い為に、相継いで死亡した。酷い時は1日に数十人死んだ記録もある。そして死体を包む筵さへない為に、遺体はそのままで、まるでノラ犬の様に、附近の荒野に埋葬された。生き残りの重患者は、その後附近の湛江港に搬ばれて、そこから国際救援会の船に便乗させてもらって、救出されて台湾に引き揚げた〈航海中にも多数の隊員が死亡し、その遺体は即時に水葬にふされた〉。…………
 第2次大戦中に、台湾籍軍人軍属巡査補を徴用して遠い戦地に連れて行ったのは、日本國だから、終戦後同じ様に復員計画にも彼等台籍の軍人軍属を責任を以て、台湾に送り帰したら、上述の様な雷州半島の赤水集中営で起った、多数の餓死者(戦争中に海南島で戦死した巡査補の数よりも、数十倍もある)を出さずに済んだのに。

 『旧台湾出身日本兵秘録 聞け!』に収録されている日本軍の軍属などとして海南島に送られた台湾人やその遺族の発言。
■黄運送(元軍属。苗栗県在住)
 「海南島の東洋一の飛行場で戦争中は働いた。きょうだいは7人で、長男と次男が徴集されたが、両親は「戦争は国のためだから」といって、私たちを送り出した。最後には、海軍特別陸戦隊に配属された。給料ももらえず、郵便貯金も返ってこない。
 戦争が敗けてから1年間は、南方で自給自足で生活していた」。
■黄玉珍(元軍属。南投県在住)
 「1943年20歳で出征して、海軍巡査佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に配属された。戦争も大変だったが、戦後はもっと苦しかった。戦地に台湾兵だけ置き去りにされて、復員したのは1946年の11月だ。海南島にはたくさんの戦友が眠っている」。
■劉福(元軍属。彰化県在住)
 「黄玉珍さんと同じ“八特部隊”にいた。いやあ、戦争は面白かったよ。敵と山の頂上で“鉢合わせ”して、あと一歩というところで死ぬということもあったが、銃座をつけずに腰の位置で弾を撃って命拾いしたこともある。海南島では、うちの部隊は怖がられる存在だった。130名いたが、あるときは10名足らずの兵隊で400名近い敵を全滅させたこともある。一番悲しかったのは8月15日。終戦のあの気持ちは日本も台湾も同じだと思う。「ああ、やっと助かったのか……」、こう思って銃を下ろした。戦運には恵まれていたが、やっぱり戦争はやるべきではない。「挙隊一心、強く正しく朗らかに」、これが八特部隊の標語です。今もこの気持ちだけは忘れないで、養鰻業を営んでいます」。
■李朝江(元日本兵。屏東県在住)
 「海軍陸戦隊として巡査補の名義で海南島に派遣された。中隊長の命令で海南島の共産軍と戦って、中隊長の通弁を仰せつかったこともある。終戦になってからは、現地で1年ぐらいいて、喰うや食わずの生活をした。100名ぐらいで帆かけ船をつくって台湾に帰るつもりだったが、香港に流れ着いてしまい、英国船に助けられて台湾に帰ってきた」。
■高延陵(元軍属。屏東県在住)
 「第1回南方派遣海軍工員として1943年2月4日に高雄港を出発しました。南方へ行く 者は契約1年ですが、海南島に2年いて敗戦になりました。仕事は主に飛行所の土木作業です。九基地ロコ13班に配属されて、1班20名ずついました。ぼくたちの班の1人は焼夷弾を受けて足を1本切断しました。軍属は空襲のときが危険なだけで軍隊のなかでも恵まれていたが、病死した人もたくさん見ました。傷を受けた3名は赤十字の高砂丸で先に帰って、あとの17名は降伏後に台湾に帰りました」。
■黄應菜(元日本兵。屏東県在住)
 「1942年11月に佐世保鎮守府第8特別隊に配属されて、海南島に行った。私は27歳のとき子供3人残して出征したのだが(現在は3男4女)、戦地での給料は1ヵ月60円で、毎月10円ずつを貯金に入れた。このとき小隊長は「これは義務としてやるべき貯金で、戦争が終わったら必ず返すから……」とぼくたちの前でいっていた。
 海南島に4年いて、1946年6月に台湾に帰った。帰るときは、海の上で支那の海賊に遭い持ち物をみんな持っていかれた。残ったのは貯金通帳だけだが、40年以上たっても日本からは何もない」。
■蒋春長(元軍属。高雄県在住)
 「21歳で軍属にとられて、海南島の海軍施設部の飛行場で働いて、それから1年たって香港へ転勤なりました。海南島と香港いるあいだ、毎日空襲あって日に10名の戦友が死んだのです。停戦まで3年、その前も病気とかいろいろありましたから、合わせて4年私は日本のために働きました」。
■曾慈興(元軍属。新竹市在住)
 「海南島の萬寧県にある会社で、農業指導員として働いていた。当時の給料は1ヵ月12円で、だいたい5年分を台湾銀行に預けた」。
■陳金龍(遺族。屏東県在住)
 「陳克平は私の兄です。兄は24歳で出征し、海南島海軍陸戦隊の「ウ二二四」楠木隊に所属していたのです。兄はおそらく海南島で戦死したのだと思います。戦友からは何の連絡もありませんが、貯金通帳は友達が持ってきてくださいました。4200円ぐらいあります。私たちはきょうだいがたくさんいますが、お父さんがいません。
 兄が出征したとき私は学校に通っていて、お母さんや姉2人が働いて生活を支えまし  た。生活はとても困難でした。貯金通帳は、兄が私達に残してくれた財産です」。
■鍾正勝〈遺族。新竹県在住〉
 「鍾善珍は、私の叔父にあたります。叔父は海南島の“海軍特務部経済局第1課農務”につとめていました。終戦となって1945年11月1日に“解雇”されたようですが、それ以降の消息はわかりません。ある話では台湾人だけが現地に残され、食料に困った叔父は、「イモ泥棒をして殺された」という話しがあり、一緒に戦争に行った人の話では「海南島の人に殺された」「病気になって死んだ」と原因がはっきりしません。叔父が亡くなったという確かな証拠はないんですが、“死亡届け”だけは出しました。日本の厚生省にも問い合わせてみましたが、はっきりした返事はもらえませんでした」。
 * 鍾正勝氏の“問い合わせ”に対し、厚生省援護局業務第2課長の「回答」の「死亡証明について」には、以下のような記述が見られる。
 「当課は、旧海軍の残務処理を担当しているところであります。1975年〔原文、元号使用〕3月15日付当局調査課あてに中川金助(鍾善珍)殿に係る戦死証明方の申請がありましたが、当課の記録では、御本人は海南特務部雇員として勤務されていたところ、終戦に伴い1945年〔原文、元号使用〕11月1日現地海南島において解雇されたことになつておりますので、御了承ください。おつて、貴方におかれて御本人が解雇後現地において死亡されたという情報をお持ちでしたら、折返しお知らせを願います」。
 * 鍾正勝氏の母親は死の間際までわが子の生存を信じ、「私の子供はまだ死んでいない」と叫んでこの世を去った。

※鄭麗玲採訪撰述『臺灣人日本兵的戰爭經驗』(臺北縣立文化中心〈台北縣板橋市〉、1995年7月)。
※鄭麗玲「海南島的台湾兵(1937-1945)」(『台湾風物』46巻3期、1996年)。
   一、第二次大戦時期的海南島
     (一)佔領海南島的戦略考量  (二)北海事件
   二、戦争時期在中国的台湾人
   三、海南島佔領與台湾兵
      (一)日軍攻略海南島     (二)各国的反応 
      (三)台湾兵在海南島的職務  (四)戦地生活
   四、悲惨的戦後経歴
※林繼文『日本據台末期(1930-1945)戰爭動員體系之研究』(稻鄉出版社〈台北縣板橋市〉、1996年3月)。
※楊碧川『日據時代台灣人反抗史』(稻鄉出版社〈台北県板橋市〉、1996年6月)。
※王曉波『台湾抗日五十年』(正中书局〈台北市〉、1997年7月)。
※陳銘城‧張國權等編著『台灣兵影像故事』(前衛出版社〈台北市〉、1997年10月)。
※黃金島『二二八戰士 黃金島的一生 』(前衛出版社、2004年12月)。
 黃金島本名黃圳島,1926年9月28日生於台中州南屯犁頭店竹圍農家。1941年留日。1942年派赴海南島受訓成為日本海軍機關助士,當年加入海軍特別志願兵,服役於橫須賀第四海軍陸戰隊,實戰於海南島戰區。戰後被中國政府軍關入北黎八所集中營。後來脫逃,組織自費回台團,海上漂流十七天。回台灣半年多,二二八事件發生,義不容辭參加二七部隊抗暴軍,站在第一線指揮埔里烏牛欄戰役,大勢底定後,在蔣家王朝特務追緝下逃亡六年,其間曾戲劇性地加入中國海軍陸戰隊,1952年在裝甲兵學校被捕入獄,先後拘禁於保密局高砂鐵工廠看守所、台北軍法處看守所、新店軍人監獄、綠島政治犯集中營(新生訓導處)、台東泰源監獄、綠島感訓監獄。1975年出獄。1979年美麗島事件後「重出江湖」。
※柴洋子「海南島へつれていかれた盧満妹阿媽の場合」、『FIFTY  YEARS OF SILENCE 50年間の沈黙 (台湾の元「慰安婦」裁判を支援する会 会報』第6号、2000年11月)。
※安然『台湾民众抗日史』(台海出版社〈北京〉、2003年9月)。
※李展平『前進婆羅洲:臺籍戰俘監視員』(國史館台灣文獻館〈台灣南投縣南投市〉、2005年8月)。
※陈小冲『日本殖民统治台湾五十年史』(社会科学文献出版社〈北京〉、2005年9月)。
※朱徳蘭『台湾総督府と慰安婦』(明石書店、2005年11月)。
※湯熙勇「脱離困境:戰後初期海南島之臺彎人的返臺」(『臺彎史研究』第12巻第2期、中央研究院臺灣史研究所、2005年12月)。
※謝培屏『戰後遣送旅外華僑回國史料彙編:南洋.海南島篇』(國史館〈台北市〉、2007年12月)。
※鍾淑敏「植民と再植民―-日本統治時代台湾と海南島の関係について」(松浦正孝編著『昭和・アジア主義の実像  帝国日本と台湾・「南洋」・「南支那」』〈2007年12月、ミネルヴァ書房〉 第12章)。
※葉碧苓『學術先鋒 : 臺北帝國大學與日本南進政策之研究』(稻郷出版社、2010年6月)。
※蓝博洲『台共党人的悲歌』(中信出版社〈北京〉、2014年8月)。
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「台籍日本兵 遺族悲情史」

2016年08月27日 | 台湾
http://old.ltn.com.tw/2004/new/oct/27/today-life15.htm
「自由新聞網」 2004年10月27日
■台籍日本兵 遺族悲情史
〔記者陳鳳麗╱南投報導〕台籍日本兵董長雄被以日軍戰犯身分判處絞刑,處死前悲傷而卑微的遺書,希望日本政府讓其獨子受教育,五十多年後,才被台灣人把放在日本靖國神社的遺書影印本送回台灣,只是日本政府並未完成董長雄遺願,目前遺族生活困苦,聞者無不鼻酸。
  明年為太平洋戰爭終戰六十週年紀念,台灣文獻館正全力蒐集有關戰爭的史料,四處拜訪台籍日本兵及家屬,希望找到更多不為人知的戰爭故事,文獻館長劉峰松等上週由全國原國軍台籍老兵暨遺族協會會長許昭榮協助,前往屏東縣拜訪董長雄的媳婦孫素珠,才發掘了這個埋藏五十多年的悲傷故事。看到台籍日本兵遺族困苦的生活,劉峰松數度落淚。
  日治時期,董長雄離開妻子和年幼的獨子,被派到南洋管理戰俘營,日本戰敗後,被盟軍國際審判庭當成A級戰犯,判處絞刑,當時有廿六名管理員被處死,但只有兩人被處絞刑。
  董長雄因成為戰犯而被判絞刑所寫的遺書,被放於日本靖國神社,去年許昭榮才被日本人告知,並經由他將遺書影本帶回台灣,交給董長雄家屬,只是這一段路走了五十多年,而他的妻子以及寄望最深的獨子董英明早已病故。
  劉峰松表示,董長雄當時接受日本政府效忠皇軍的洗腦教育,被送上國際審判庭,雖力爭仍無法免除其刑,臨死前並沒有激憤或怨恨,但在昭和廿三年二月十八日寫下遺書,遺書中寫著「我是台灣人,因故我奉獻我的身體,犧牲了妻子,在法庭上力爭,最後失敗而赴死地。我是為了日本,遵守始終一貫的信念來戰鬥。如今國籍雖有變更,但我仍想以日本軍人身分走向那另一國度。若是這法庭不是為正義,而是為報復而進行裁判,那我被判處死刑也毫無怨言。」
  而董長雄一心掛念的是獨子董英明,在遺書中卑微地請求:「大日本帝國若能復興,期望日本政府能給我那一個兒子有接受日本教育的機會。」
  只是日本政府沒有依照其遺願,讓董英明到日本接受教育,更讓董長雄的遺書留在日本靖國神社五十多年。
  去年,許昭榮將遺書影印本帶回台灣,日本政府曾請許昭榮代為探視董英明,了解其近況,但知道董英明在七年前已因癌症病故後,即不再聞問,讓董英明的妻子孫素珠十分難過。
  孫素珠目前靠著打零工為生,但一年只有三個月有工可做,經濟拮据,常靠鄰居資助生活。
コメント

「《前进婆罗洲》简介」

2016年08月26日 | 台湾
http://intimes.com.my/yeo-html/yeo567b.htm
■《前进婆罗洲》简介  文・图:李展平2009年2月1日刊登
     ●《前进婆罗洲》封面。
     ●当年遗留下来的守卫室。
     ●古晋老鼠园防空壕一景。
  
  2005年8月间,经吴岸介绍,认识了三位来自台湾的电视特稿拍摄者,要我陪同前往古晋一些第二次世界大战的遗迹进行拍摄,说是要报导有关被日本征兵派来古晋服役的台湾兵士的事迹。我和他们到巴都林当集中营、老鼠园和长梯头一带,他们猎取了不少镜头。
后来,吴岸传来其中一位名字叫做李展平的所撰写的一本16开型书籍,书名为《前进婆罗洲——台籍战俘监视员》。这本书由台湾文献馆在2005年8月8日出版。由于这本书记载不少第二次世界大战时期台湾籍日本士兵在古晋的事迹,我特意读了一些,觉得可以介绍给“风下”副刊的读者。
《前进婆罗洲——台籍战俘监视员》,厚二百四十余页,图文并茂。作者李展平,生于1952年,是一名报导文学作家,出版过七本书。他在《前进婆罗洲》的扉页写下这样的字句:经过千山万水寻找战犯悲歌。
本书共收录12篇文章:
1,流落南洋的台籍战犯——周庆丰;
2,命运大逆转——死里逃生柯景星;
3,穿过雨林身影——盟军战俘监视员许清泉;
4,难忘心中监狱——屏东麟洛第三分所;
5,厨师上战场——北婆罗洲战俘连阿木;
6,血衣招魂——李彬彩呼天录;
7,被遗忘的影像——婆罗洲台籍男儿;
8,残霄犹得梦依稀——死刑战犯董长雄;
9,高呼台胞幸福——姜延寿广州泣血记;
10,古晋所监视员忆往——萧世儒、陈泽立;
12,古晋台籍战犯——林水木缠讼一生;
附录:日本兵(台籍军属)BC级战犯审判资料。

2005年,是太平洋战争结束60周年,李展平在本书《写在出版前夕》一文中,发出感慨。他说:“谁愿于人间深巷倾听台籍战犯悲凉的心声?” 他对台籍战犯做了一些介绍。以下是他的文章:
据笔者访查:台湾内部派往新竹湖口受训者,除少数留在岛内,大部分派遣菲律宾渡1600部队,俘虏收容所第一分所冈本队;俘虏监视员工建祥(现居埔里)表示:1942年7月,自高雄港启航,前后派遣680名。终战返台者今健在196人,归来后往生者160人,阵亡菲岛109人,战地失踪或失联者210人,死亡惨重。另外俘虏营派遣战线,以北婆罗洲为主,全数来自白河演习所,大致分古晋组、山打根组收容所。他们在1942年7月12日,调到英属北婆罗洲执行看管盟军战俘勤务,被迫杀害或凌虐战俘,导致盟军报复性审判,一生命运曲折悲痛,即使经过60年的岁月疗伤,笔者每探索那一段生命史,皆碰触他们内心,深深伤痛;犹记得几次与(台湾文献馆)馆长刘峰松联袂拜访死刑战犯李琳彩、姜延寿、董长雄家属,当李琳彩侄儿李春生拿出叔父临死“血衣”留言,刘馆长几度哽咽,抿紧嘴唇;当姜延寿在广州被判死刑,虽一再跟(台湾)——国民政府陈冤,最后竟以“空言狡辩”峻拒,临死前高呼“愿台胞幸福”,如此临终前流露殖民同胞的患难与共,自己都快死了,犹祝台胞幸福;而落籍屏东枋山乡的董长雄一表人才,高眺俊秀,毕业于长荣中学,在南洋战场担任通译任务,以“凌虐战犯致死”罪名被盟军判“绞首刑”,临死时遗稿:“为天皇效命终生不悔”……唯一的心愿,将来大日本帝国复兴后,他唯一的儿子董英明,希望能接受日本教育,吾愿已足。事实证明,复兴后的日本,并未理会他的心愿,反将他的遗稿“尘封”,直到几年前日本人野田博爱,自东京“靖国神社”取出董氏遗书,辗转送交其屏东家人;而其子董英明品学兼优,以优异成绩考上屏东师范,十几年前食道癌往生。目前其妻孙素珠女士租屋渡日,生活极为清贫,如此情景,亦让笔者午夜梦回暗自垂泪,一位优秀台湾之子,如此不堪命丧他乡,“有魂无体”漂流南洋战场,日本军方并未将其遗骸骨灰交给家属,导致遗孀伍改只能收拾丈夫遗物,作为衣冠冢,家人伤痛并不随60年前远征的背影消失啊!
日本发动太平洋战争,造成生灵涂炭,两三千万人失去家园和生命,所犯下的罪行,罄竹难书。台籍日军的行为,包括他们是否被迫杀害和凌虐战俘,李展平的观点如何,不是我们评论的范围,就让历史去评价吧。我们转载这本书的部分内容,是要让读者了解,有这么一本书,在叙述台籍战犯在婆罗洲(古晋)的事迹。
本期“风下”副刊,刊登《前进婆罗洲》书中原题为:《命运大逆转——死里逃生柯景星》的文章。编者将题目改为《台籍日军在古晋的经历》,需要声明的是,本文曾经编者删节和某些字句加上说明。
  李展平访问柯景星时,柯已经85岁。他在大正9年6月25日出生,昭和17年(1942)7月12日,柯景星从彰化坐火车到嘉义白河,接受为期两周的训练。在白河训练所结训,大半派到北婆罗洲、菲律宾当监视员,基本上可分古晋组及山打根组。《台集日军在古晋的经历》主要就是介绍他们的情况。
     ●(上图)拍摄防空壕的镜头。
   ●(右图)第二次世界大战期间,盟军战俘的遗物及宿舍模型。像片中人是物件收藏者。



http://blog.xuite.net/mig2178778/twblog/137544685-K%E6%9B%B8%E5%BF%83%E5%BE%97%EF%BC%9A%E5%89%8D%E9%80%B2%E5%A9%86%E7%BE%85%E6%B4%B2%EF%BC%8D%E5%8F%B0%E7%B1%8D%E6%88%B0%E4%BF%98%E7%9B%A3%E8%A6%96%E5%93%A1
「歐貝泰的心情手扎」 2007年11月22日首閱
■K書心得:前進婆羅洲-台籍戰俘監視員

作者:李展平
出版書局:國史館台灣文獻館
出版時間:2005年8月8日

★本書結構分為:
  館長序
  作者序
  流落南洋的台籍戰犯-周慶豐
  命運大逆轉死裡逃生-柯景星
  穿過雨林身影盟軍戰俘監視員-許清泉
  難忘心中監獄-屏東麟洛第三分所
  廚師上戰場-北波羅洲戰俘連阿木
  血衣招魂-李琳彩呼天錄
  被遺忘的影像-波羅洲台籍男兒
  殘宵猶得夢依稀死刑戰犯-董長雄
  高呼台胞幸福-姜延壽廣州泣血記
  古晉所監視員憶往-蕭世儒陳澤立
  古晉台籍戰犯-林水木纏訟一生
  附錄:日本兵台籍軍屬BC級戰犯審判資料

★重要內容摘要:
  根據日本厚生省1973年的公佈,日本統治末期台灣總督府應軍方之請,派出227183人充軍,喪生30304人(館長序),一說53393人(第146頁)
  供奉在境國神社的有28000人之多。
  26名台籍戰犯被處死、173人被判刑,所謂BC級戰犯是也。
  1996年。日本政府決定以120倍的費用支付薪資等等費用。
  1945年6月8日盟軍登陸北婆羅洲。
  山打根死亡行軍,1300名澳洲戰俘僅有6人生還。
  志願兵、高砂義勇隊、海軍少年工員、勤勞特設團、戰俘營 監視員、從軍看護婦等名義。
  日本戰後組日本戰歿者遺骨遺品收集團、生命感恩團等多次進入南洋戰區。
  二戰日軍捕獲35萬名盟軍戰俘,約33000名死於疾病或運輸途中。
  皇民奉公會招募監視員。
  1942到1945年間,台灣成立12處盟軍俘虜營,共計8155名戰俘。
  茶園義男-大東亞戰下外地俘虜收容所,本書74、75頁。
  1942年07月17日,開設台北本所與金瓜石 第一、台中第二、屏東第三、花蓮港 第四分所。
  1943年04月02日,開設玉里第五分所
  1943年06月07日,花蓮港 第四分所移轉到白河庄
  1943年06月15日,玉里第五分所移轉到木柵,開設大第六分所
  1944年11月06日,開設斗六臨時分所,員林臨時分所
  1945年01月16日,員林臨時分所關閉
  1945年01月22日,木柵第五分所關閉
  1945年03月05日,斗六臨時分所關閉
  1945年03月15日,屏東第三分所關閉
  1945年04月12日,台中第二分所關閉
  1945年05月16日,金瓜石 第一分所移往新店庄
  1945年08月15日,台北本所、新店庄第一分所、白河庄第四分所、大直第六分所關閉。
  殖民地出身、軍隊內的非戰鬥員兩種身分。
  1960、1962、1965年,日方三度敦促國府出面協商台籍問題,國府不理會。

★心得:
  這本書主要敘述二戰後期,一些台灣人士,在皇民化以及宣傳機構,加上經濟因素的考量,分別加入皇軍的外圍組織,紛紛遠渡南洋,擔任非軍事或準戰鬥人員。不幸的是,在盟軍收復失地後,紛紛對所謂的日本戰犯以及台籍準戰鬥人員,作出BC級戰犯的審判,這些台籍人士被判死刑、15年或以下的徒刑,分散到南洋各地集中營關押。
  這批台籍人士有的因為執行長官的命令,被迫下令對盟軍戰俘施暴或是槍殺,因此在盟軍收復後,這批台籍人士就被盟軍法院判處若干刑期,命運各自迥異。有的是被日本軍官推諉,推說台籍幹部蠻恨因此對盟軍戰俘施暴,所以被判重刑。有的是被好長官擋下來,有過一肩扛,因此台籍人士的罪行就比較輕。
  當然也有看不慣日軍虐待盟軍戰俘的台籍人士,無論是偷帶食物給戰俘吃,或是幫忙採集草藥,這些善舉日後卻變成這批台籍人士的保命符,這些受會的戰俘有的寫些感謝狀給這批戰俘監視者,日後成了保命狀,有的還被歡迎到英國移民哩。
  這批台籍人士服監期滿後,先被船運到日本,端視其意願,有意願的就留在日本謀生,想回台灣的救回台灣,大部分的人選則回台灣,但是國府的態度卻是:這批人是頑劣份子、忠誠度有疑問,加上228事件又發生,因此這批人一在基隆上岸,就被警總跟監,按奈指紋,返鄉後隨時有人跟監,因為警總常常造訪造成這批人無法擔任公職,只能在下層階級謀生活,很是悽慘。
  被判死刑的遺族,心情很複雜,當有日本友人將故人遺物托人送到台北時,有的遺族因為擔心故人分家產,或是靈位難以安排等等,居然拒領遺物,這種現象有點不可思議,不過,我們沒辦法處在那個時空環境下去設想,因此我也無法說些什。

★插播
  愛利斯的故事。在盟軍於台灣的戰俘營 中,有位英軍戰士在服役前,與一個愛利斯的女孩相戀並訂婚,但是在男主角病死於戰俘營 後,愛利斯並不知道,竟然終身未婚。接著愛利斯透過外交管道等等,都無法取得男主角的消息,接著在何麥克會長的引導下,居然跑到台灣屏東戰俘營 ,弔念男主角的最後遺跡,這真的有點不可思議。
  不過作者以及整個台灣文獻館在寫這本書時有點不好,1937年用了中日軍事衝突而不是中日戰爭,不用日本戰敗而用終戰的字眼。當然我這樣子批評也會惹起很大的爭議。
  按照法理,1937年中國確實沒有對日宣戰,要等到1941年日軍偷襲珍珠港後,國府才對日宣戰,因此嚴格來說算是軍事衝突沒有錯。但是日本政府很討厭,往往細究字面意義,以為1937到1941年期間,中日不是處於戰爭狀態,因此想規避一些義務,這點是很不可取的。在使用中日軍事衝突描述1937到1941年的中日關係時,必須注意日本政府的心態。
  另一個就是終戰,這詞彙很麻煩,用日本戰敗一辭,別人說你大中國主義,用終戰一辭,別人說你媚日附和,我的態度是:一律用日本戰敗後而不用終戰。終戰也好、戰敗也好、戰爭結束也好,日本政府必須擔負起戰後的一些賠償責任,不要用終戰等文字字面意義,規避你們應當負有的義務,如果繼續用這種態度面對亞洲各國,即使日本進入聯合國安理會,也一樣不會得到亞洲各國的認同的啦,認真看一下前西德總理布蘭德怎麼做的吧,不要說些五四三的。
  
★重要參考書籍
  鍾淑敏:俘虜營收容所,國史館台灣文獻館 。
  濱崎紘一:我呀一個台灣人日本兵簡茂松的一生,東京新潮社,2000年。
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「海南島八前慰安婦要求日本賠償」

2016年08月26日 | 日本軍隊性奴隷
http://www.epochtimes.com/b5/1/7/16/n110240.htm
「大紀元」 更新: 2001-07-16 7:09 PM
■海南島八前慰安婦要求日本賠償
【大紀元7月16日訊】八名中國大陸海南島女性,今天向東京地方法院控訴日本政府,疏於對她們過去被迫充當慰安婦的名譽損害加以恢復,要求日本政府謝罪及賠償每人三百萬日圓,這是戰後要求賠償案件中,首樁以名譽問題追究日本的國家責任的控訴。
 這八名向日本政府提訴的女性都是出身海南島少數民族的七十多歲女性。她們在訴訟文中指出,一九四零年代她們年紀只有十四歲至十八歲時,被登陸海南島的日軍監禁強暴,二次大戰結束後雖被釋放,但迄今還被鄰居乃至先生冷眼相待,經常作惡夢而處於心理創傷後遺症 (PTSD) 的痛苦中。訴訟文並指出,日本政府在戰後未對她們受損的名譽加以恢復,疏忽戰後國家應負的責任而要求謝罪及進行總共兩千四百萬日圓 (約十九萬兩千美元) 的賠償。
 日本律師團今天在提出訴訟後指出,這是日本戰後要求國家賠償訴訟中,第一樁以疏忽恢復受害者名譽的責任問題向日本政府提出的訴訟案件。律師團並說明以恢復名譽提出訴訟的理由指出,過去一些慰安婦的訴訟案件遭判處敗訴,要求司法當局對暴行直接受害者賠償困難,因此將控訴焦點集中在疏於恢復受害名譽的責任問題。自一九九0年代初期日本戰時慰安婦問題表面化後,迄今來自亞洲受害鄰國的慰安婦阿媽提出要求謝罪賠償的訴訟案件已達約十件,包括九位台灣阿媽於一九九九年七月向東京地方法院提出而目前還在審理中的謝罪賠償訴訟案。一部份慰安婦阿媽提出的訴訟案在日本的地方法院或高等法院已被判敗訴,日方司法當局作此判決的主要「說詞」是,有關問題已在戰後雙邊國家關係談判中解決,對個人無需進行賠償。
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「遭處死台灣兵 名單尋獲」

2016年08月26日 | 台湾
http://www.epochtimes.com/b5/4/11/6/n710364.htm
「大紀元」 更新: 2004-11-06 9:46 AM
■遭處死台灣兵 名單尋獲
【大紀元11月6日訊】〔自由時報記者蘇福男╱高縣報導〕國史館台灣文獻館對殘存的台籍日本兵進行口述歷史訪談,透過「台灣南星會」總幹事鄭春河提供,尋獲廿六名遭國際法庭審判處死的台灣兵名單,國史館希望透過本報報導,其遺族能主動與該館聯繫,在明年太平洋戰爭終戰六十週年紀念,解開這段埋沒一甲子之謎。
  現年八十五歲的鄭春河,在太平洋戰爭爆發前,被日人徵調於「台灣步兵第二聯隊」,一九四三年間調往印尼帝汶某小島參戰,一九四六年返台後,又遭國民黨政府以「不滿現狀」羅織政治犯罪名,入獄服刑四年。
  鄭春河重獲自由後,將這段不為人知的悲慘史實,以日文鉅細靡遺記錄書寫,先後自費出版「嗚呼大東亞戰爭」、「台灣步兵第二聯隊」、「戰後的日本人」等專文,分贈台、日兩地好友參閱,一九九八年並在日本友人的資助下,出版厚達五百四十二頁的「台灣人的志願兵和大東亞戰爭」一書。
  正在編纂太平洋戰爭台籍日本兵史料的國史館台灣文獻館,館長劉峰松四日到高雄湖內鄉訪談鄭春河,鄭春河提供數十年來相關著作,讓劉峰松大為驚嘆,尤其尋獲戰後遭國際法庭審判處死的廿六名台灣兵名單,更讓他如獲至寶。
  這廿六名台籍日本兵當年因日本戰敗,被列為戰犯處死,之後供奉在日本靖國神社,民國八十七年八月,鄭春河和劉志賢等老兵將這廿六名迎回台灣卻被摒棄在外的亡靈,與其他戰亡者合祀於台中寶覺寺。
  廿六人分別為鄭錦樹、劉長坑、安田宗治、潘進添、木代原雄、林金隆、林一、林義德、鈴木三郎、王壁山、蔣清金、陳添錦、許祺禪、郭張興、楊樹木、陳水雲、陳見章、李安、姜延壽、陳煥彩、顏新富、鐘永吉、董長雄、黃來金、林石藏和彭錦良。
  劉峰松表示,除董長雄,另廿五名台籍日本兵的資料國史館幾乎一無所知,他感慨指出,生還的台灣兵中,有人認為被列為戰犯相當可恥,絕口不提當年事,也有遺族認為先人事蹟不光彩,不願提供文獻資料,益增訪談的困難度。
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海南島と台湾 年表

2016年08月25日 | 海南島近現代史研究会
1592年~1593年 壬辰倭乱、1597年~1598年、丁酉倭乱
1609年 薩摩軍、琉球国に侵入→幕府、琉球国を薩摩藩の「所管」とする
1637年12月~1638年4月 島原・天草烽起。幕府軍、37000人を殺害
1776年7月4日 アメリカ東部13州(「USA」)独立宣言。→先住民織の大地にたいする新たな大規模侵略(「西部開拓」)開始
1828年~1832年 「ブラックウォー」(タスマニア人ほとんど絶滅。フリンダーズ島へ強制移住)。1878年、最後のタスマニア人トルガニーニ、死亡
1830年 フランス、アルジェリアを領土化(1962年まで。独立戦争開始1954年11月1日)。
1830年 USA、先住民にたいする強制移住法制定
1840年~1842年 アヘン戦争
1850年~1864年 太平天国
1855年2月 「日魯和親通好条約」(日本政府とロシア政府は、北方諸民族の「千島列島」を分割、「樺太島」を共有地とした)。
1857年~1859年 インド大反乱(第一次インド独立戦争)
1864年11月29日 USA軍、コロラドのサンドクリーク(シャイアン族とアラパホー族の村)で大虐殺
1864年~1870年  パラグアイ対ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイ戦争(→50万人余のパラグアイ人のうち約30万人が死亡)
1867年 オーストリア=ハンガリー帝国成立(多民族帝国:ドイツ人、マジャール人、スラヴ人、ポーランド人、ウクライナ人、チェコ人、スロバキア人、セルビア人、クロアチア人、イタリア人、ルーマニア人……)
1868年1月~1869年6月 「戊辰戦争」
1869年9月 日本政府(維新政府)、アイヌモシリを日本領土とし「北海道」と名づける。
1871年1月18日 ドイツ帝国成立
1872年10月 日本政府、「琉球藩」設置(琉球国王を琉球藩王・華族に。「第1次琉球処分」)
1872年12月 日本政府、架空の「神武天皇」の即位年をBC660年に設定、「皇紀」使用開始
1873年1月10日 日本政府、徴兵令布告(←1972年2月1日、日本政府、「壬申戸籍」編成開始)
1873年3月 オランダ、アチェ王国侵略開始(1904年、アチェ王国滅亡)
1874年4月5日 日本政府、「台湾蕃地事務局」設置
1874年5月はじめ 西郷従道(「台湾蕃地事務局都督」)が指揮する日本軍が台湾に侵入。5月下旬から「牡丹社」などの村落を襲い住民虐殺(「台湾蕃地処分」)
1879年 琉球王国を日本領土とし「琉球藩」を「沖縄県」と名づける(「第2次琉球処分」)
1894年~1895年 朝鮮日本戦争(甲午農民戦争)→清日本戦争
1895年1月 清日本戦争の最中に、釣魚島(釣魚台)を「沖縄県」に編入すると閣議決定
1895年4月 「日清講和条約」締結(台湾、澎湖列島、遼東半島を日本領土とする)
1895年5月23日 台湾民主国、独立宣言。5月25日 台湾民主国、建国
1895年5月29日 日本軍、台湾侵入開始。以後、長期にわたって台湾民衆を殺害
1895年6月17日 台湾総督府、開庁
1898年11月5日 台湾総督府、「匪徒刑罰令」発布。→多くの抗日戦士を処刑
1900年~1901年 義和団戦争
1905年 大韓帝国を植民地とする。独島、カラフト南部、遼東半島南部、「満鉄附属地」を日本領土とする
1909年 台湾総督府、「五箇年理蕃計画」開始
1910年8月 大韓帝国を日本領土とする
1911年1月1日 中華民国成立
1914年7月28日 第一次世界戦争開始(オーストリア、セルビアに宣戦布告)
1914年8月23日 日本、ドイツに宣戦布告
1914年10月 日本海軍、ドイツが植民地としていたミクロネシア地域(「マーシャル諸島」、「パラオ諸島」、「マリアナ諸島」、「カロリン諸島」)を占領し、「南洋群島」と名付けた。12月に軍政(日本軍守備分隊長が軍政庁長を兼任)
1914年10月 日本陸軍、ドイツの植民地であった中国山東省の青島を攻撃、11月に占領
1917年3月15日 ロシア二月革命
1917年11月7日 ロシア十月革命
1918年7月~8月 「米騒動」
1918年8月~1922年10月 日本軍、シベリアに侵入
1918年11月 オーストリア=ハンガリー帝国崩壊
1919年1月 台湾総督府専売局『海南島事情』(『海南島事情 第一』に相当)発行
1919年3月~5月 3・1独立運動
1919年3月22日 日本軍、イワノフカ村虐殺(アムール州ブラゴベシチェンスク郊外)
1919年4月12日 関東都督府廃止、関東庁設置。関東都督府陸軍部、関東軍に改編
1919年4月13日 イギリス軍、インドのアムリットサルで大虐殺
1919年5月4日 五・四運動
1921年9月 彭程萬(台湾総督官房調査課訳)『海南島事情 第二』(南支那及南洋調査51輯)発行
1921年12月ころ 台湾総督官房調査課『海南島事情 第三』(南支那及南洋調査第66輯)。台湾総督府専売局嘱託村上勝太が「調査復命」したもの。1919年7月に台湾総督府専売局に海南島の「視察」を命じられた村上勝太は、1921年3月までに3回、計約2年間海南島に滞在
1922年4 月1日 日本政府、「南洋群島」に南洋庁設置
1928年4月15日 上海で「日本共産党台湾民族支部」結成
1929年 平間惣三郎(台湾総督府中央研究所技師)『海南島に於ける農産業調査』台湾総督官房調査課(南支那及南洋調査第157輯)発行
1930年 台湾総督府、「蕃地開発調査」開始→「蕃社集団移住」(先住民族、「保留地」へ強制移住)
1930年10月27日~12月 霧社烽起
1931年4月25日 霧社虐殺(216人が殺された。生存者298人)
1931年7月6日 「沖ノ鳥島」を内務省告示で小笠原支庁の管轄区域に加え日本領土とする
1931年9月18日 日本関東軍、中国東北部侵略開始
1931年12月28日 台湾総督府、「理蕃政策大綱」指示
1932年3月1日 「満洲国」偽造(中国東北部・モンゴル東部植民地化)
1936年8 月7日 広田弘毅内閣の五相会議(総理・陸軍・海軍・大蔵・外務の5大臣の会議)で「国策の基準」策定(→8月11日、閣議決定。「帝国トシテ確立スベキ根本国策ハ外交国防相俟ツテ東亜大陸ニ於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共ニ南方海洋ニ進出発展スルニ在リ」、「国防軍備ヲ充実ス」、「国民ノ覚悟ヲ強固ナラシム」)
1936年9月3日 「北海事件」(抗日反日グループ、日本人商人中野順三を殺す)
1936年9月15日 日本海軍軍令部「北海事件処理方針」(「北海方面ニオケル兵力行使終了セバ、所要ノ兵力ヲ海口方面ニ駐メ、爾余ノ兵力ハ所要ノ方面ニ集結ス」、「情況ニヨリ海南島モシクハ青島ノ保障占領ヲ行ナウ」)
1936年9月11日 日本海軍砲艦「嵯峨」が海南島海口に侵入(9月13日に第13駆逐隊の二等駆逐艦「若竹」が、9月15日に軽巡洋艦「球磨」と第16駆逐隊の「朝顔」、「芙蓉」、「刈萱」が、9月16日に軽巡洋艦「夕張」が、9月17日に第4駆逐隊の駆逐艦「太刀風」が海口に侵入)
1936年11月~12月 「綏遠事件(綏東事件)」
1937年7月 中国への全面的侵略開始
1937年12月 日本陸軍、南京大虐殺。日本海軍、三灶島(三竈島)に侵入
1937年12月14日 日本政府、華北に傀儡「臨時政府」製造
1938年1月 日本海軍将兵が海南島南部の楡林に上陸しようとしたが中国国民党軍が反撃し撤退
1938年2月 朝鮮人にたいする陸軍特別志願兵令公布
1938年3月 三灶島虐殺
1938年3月12日 ドイツ、オーストリアを「併合」
1938年3月28日 日本政府、華中に傀儡「維新政府」製造
1938年5月5日 国家総動員法を朝鮮、台湾、樺太で施行
1938年7月29日~8月11日 張鼓峰事件(ハサン湖事件)
1938年9月 台湾総督府、「海南島処理方針」(海南島を軍事占領し台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とする)作成
台湾総督府、「南方外地統治組織拡充強化方策」(「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」)をだす
1938年12月23日 日本政府、海南島のはるか南方の「新南群島」を日本領土に編入すると、閣議決定
1939年1月17日 天皇ヒロヒト、海南島軍事侵略「裁可」
日本大本営陸軍部・海軍部、「北部海南島作戦陸海軍中央協定」締結
1939年 多田恵一『往け海南島へ』南洋開発社出版部
1939年 片山透『海南島はどんな處か』昭和書房
1939年1月 『海南島及附近水路資料』(支那沿岸水路資料第20号)、水路部
1939年2月 台湾総督官房調査課編『海南島』南洋協会台湾支部(台湾総督府内)
1939年2月 千葉燿胤(三井物産株式会社査業課)『海南島の研究』(貿易奨励資料第23輯、付大型地図)、財団法 人貿易奨励会
1939年2月 日本海軍第五艦隊情報部『海南島概略』
1939年2月 拓務省拓務局南洋課『海南島開発要領』
1939年2月10日 日本陸海軍海南島北部に奇襲上陸
1939年2月14日 日本海軍陸戦隊海南島南部に上陸
1939年2月~11月 日本海軍海南島で「Y一作戦」(地域住民虐殺)
1939年2月 三省(日本外務省、海軍省、陸軍省)連絡会議による海南島政治支配開始
1939年2月16日 「海南島占領ニ伴フ政務処理要綱案」
1939年2月22日 東洋協会調査部編『現下の海南島事情』(調査資料パンフレット第38輯)、東洋協会
1939年2月24日 在海南島日本総領事館開館
1939年3月1日 海口連絡会議(現地ニ在ル陸海軍各政務処理機関及外務派遣機関ヲ以テ構成)、「海南島施策要綱」決定
1939年3月1日 海口連絡会議「海南島金融対策要綱(試案)」
1939年3月14日 在広東岡崎総領事「海南島への邦人の渡航制限につき報告」有田外務大臣宛
1939年3月21日 台湾銀行海口市店開業(軍票交換、預金、送金など)
1939年3月30日 台湾総督府令第31号で、「新南群島」を日本の領土とし、台湾高雄市に編入
1939年4月15日 南支調査会編『海南島読本』南支調査会
1939年4月21日 陸軍省・海軍省・外務省「海南島政務暫定処理要綱」決定
1939年5月13日 興亜院、陸軍省、海軍省、外務省「漢口広東及海南島各方面重要事項処理ニ関スル件」申合せ
1939年7月15日 日本軍、傀儡「海南島臨時政府(瓊崖臨時政府)」設立
1939年9月 西からドイツ軍が(9月1日)、東からソ連軍が(9月17日)ポーランドに侵入、分割占領
1939年9月1日 朝鮮総督府、「朝鮮人労務者募集並渡航取扱要綱」を出す(「募集」方式の朝鮮人強制連  行開始)
1939年11月 海南島根拠地隊編成(横須賀鎮守府第4特別陸戦隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、第15警備隊、第16警備隊)。2月以来、海南島軍政を担当していた日本海軍第5艦隊情報部、海南島海軍特務部と改称(規模拡大)
1940年2月~4月 日本海軍海南島で「Y二作戦」(地域住民虐殺)
1940年6月 舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、海南島根拠地隊の編成下に
1940年6月 外務省通商局編『海南島農業調査報告』
1940年6月22日 フランス、ドイツに降伏
1940年7月27日 大本営政府連絡会議(ヒロヒト参加)で「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」決定
1940年8月16日 「経済的大東亜共栄圏ノ完成」を目標とする「南方経済施策要綱」を閣議決定
1940年9月 第一期晋中作戦復行実施要領
1940年9月23日 日本陸軍(第五師団)、「仏領印度」北部(ベトナム北部)に侵入開始
1940年11月14日 石原産業海運株式会社「海南島田独鉄山第一次増産計畫」
1940年11月14日 日本窒素肥料株式会社「海南島石碌鉄山開発計畫」
1940年11月15日 企畫院「海南島鉄鉱資源開発方針」
1941年1月 日本窒素事業所開設(日本軍駐屯地北黎に)
1941年2月3日 大本営政府連絡会議、「対独伊「ソ」交渉案要綱」決定。世界を「大東亜圏、欧州圏(「アフリカ」を含む)、米州圏、「ソ」聯圏(印度「イラン」を含む)の四大圏」に分割し、日本は「大東亜共栄圏地帯に対し政治的指導者の地位を占め秩序維持の責任を負う」とした
1941年2月~3月 日本海軍、海南島で「Y三作戦」
1941年4月1日 海南島根拠地隊、海南警備府に「昇格」。海南警備府司令部、三亜に
1941年4月~10月 日本軍南機関、アウンサンらを、海南島で軍事訓練(1941年12月、アウンサンら、バンコクでビルマ独立義勇軍結成)
1941年5月 海南島海軍特務部、海南海軍特務部と改称(海南島軍政機関の形態整備)
1941年6月6日 大本営陸海軍部、「対南方施策要綱」決定
1941年6月24日 日本海軍、海南島楽会県北岸郷で住民虐殺
1941年7月2日 ヒロヒトら「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」決定(「帝国は……大東亜共栄圏を建設……」、「帝国は……自存自衛の基礎を確立する為南方進出の歩を進め又情勢に対し北方問題を解決す」)
1941年7月 海南島警備府司令部『海南島敵匪情况』(機密海南部隊命令第七号別冊)
1941年7月24日 「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入する日本陸軍第25軍約4万人をのせた輸送船39隻、海南島楡林港に集結完了
1941年7月25日 日本海軍の艦艇約50隻と日本陸軍第25軍を輸送する39隻の計約90隻の船団、楡林港から「仏領印度」南部に出港→28日に侵入開始
1941年8月 日本海軍海南島で「Y四作戦」(地域住民虐殺)
1941年9月6日 ヒロヒトら「帝国国策遂行要領」決定(「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」)
1941年11月5日 ヒロヒトら、ふたたび「帝国国策遂行要領」を決定(開戦時を12月上旬に設定。これは、11月2日の大本営政府連絡会議で決定されていた)
1941年11月6日 大本営陸軍部・大本営海軍部、グアム島、ビスマルク諸島占領を決定
1941年11月 大本営、海南島三亜港周辺に機雷敷設指示
1941年11月15日 海南警備府司令長官「現状申告書」
1941年11月18日 マレー作戦陸海軍協定、サイゴンで調印
1941年11月20日 大本営政府連絡会議「南方占領地行政実施要領」決定
1941年11月~42年1月 日本海軍海南島で「Y五作戦」(「南方」侵略の基地海南島の「治安」確保のため)
1941年11月15日 第五師団先頭部隊、上海から海南島三亜に出発
1941年11月26日 日本海軍「ハワイ作戦機動部隊」、エトロフ島ヒトカップ湾出発
         日本海軍「馬来部隊(南遣艦隊)」
1941年12月1日 ヒロヒトと日本政府・日本軍の「指導者」らは、11月5日の「帝国国策遂行要領」に基づいて、アメリカ合州国、イギリス、オランダと戦争することを最終決定
     マレー半島東海岸に奇襲上陸する日本陸軍第25軍先遣兵団(第5師団・第18師団)、海南島楡林港に集結完了
1941年12月2日 大本営、「ニイタカヤマノボレ」(パールハーバー奇襲攻撃命令)発信
1941年12月4日 日本海軍軍艦(「馬来部隊」)が護衛する日本陸軍第25軍先遣兵団の船団、海南島楡林港から出港
1941年12月8日 午前1時半、日本軍コタバル奇襲、アジア太平洋戦争開始。午前3時、パールハーバー奇襲。午前4時、ホンコン侵入。午前8時、グアム島奇襲爆撃、午前9時半、ルソン島ツゲガラオ飛行場・バギオ兵営奇襲爆撃
1941年12月10日 日本軍、グアム島、タラワ島、マキン島の軍事占領開始
1941年12月18日 日本軍、ホンコン占領
1942年3月 「高砂挺身報国隊」(「第一回高砂義勇隊)募集。
1942年4月 台湾で陸軍特別志願制実施
1942年6月5日~7日 ミッドウエー海域で日本海軍大敗北
1942 年7月 日本で海南島海軍軍属(保安警察的事務従事)募集
1942 年7月 海南島陸軍司令部政務班「「セ」号作戦ト期ヲ一ニシテ行ハレシ海南島海軍聯合討伐並Y六作戦ノ敵側ニ與ヘタル影響」
1942 年8月 海南海軍特務部「海南島土地処理要項」
1942年秋 海南島でも抗日軍のたたかい活発化(日本軍基地、軍用車両など攻撃)
1942年9月 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の一部、マーシャル群島ミレ島へ(1943年6月、第66警備隊に)
1942年9月23日 フィリピン抗日ゲリラ部隊、パナイ島のアンチケ鉱山の銅鉱石を略奪する石原産業を攻撃(従業員14人死亡)。日本陸軍航空隊が爆撃
1942年11月 三省(日本外務省、海軍省、陸軍省)連絡会議廃止。海南島の「政務処理」を海南海軍特務部が独占
1942年11月~43年4月 日本海軍海南島で「Y七作戦 1期」(海南島東北部住民虐殺)
1943年1月 海南警備府「海南島政務処理ノ現状」、「海南警備府部隊作戦及警備概要申告覚書」
1943年1月 海南海軍特務部政務局「一般財政政策要綱(案)」
1943年3月 「朝鮮総督府受刑者海南島出役に伴う監督職員等増員に関する件」日本政府閣議決定
1943年3月30日 第1次「南方派遣朝鮮報国隊」ソウル出発→海南島へ
1943年4月~5月 日本海軍海南島で「Y七作戦 2期」(海南島東部の住民虐殺)
1943年5月 USA軍、海南島三亜・楡林地域爆撃。住民死傷
1943年5月29日 アッツ島の日本軍守備隊全滅
1943年6月 USA軍、海南島海口地域爆撃。住民死傷
1943年6月 日本海軍海南島で「Y七作戦 3期」(海南島西北部の住民虐殺)
1943年6月 大本営、海南島楡林港外における機雷敷設指示
1943年7月 朝鮮人にたいする海軍特別志願兵令公布
1943年8月 「海南島人労務者管理規定」
1943年9月8日 イタリア、「連合軍」に全面降伏
1943年9月30日 ヒロヒト・日本政府・日本軍、「今後採るベき戦争指導の大綱」決定。「帝国戦争遂行上、太平洋及印度洋方面に於て絶対確保すべき要域を、千島、小笠原、内南洋(中、西部)及西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む区域とす」。「絶対国防圏」を「大東亜共栄圏」より縮小して設定
1943年11月 「絶対国防圏」東端のマキン島とタラワ島の日本軍壊滅
1943年12月から1年間断続的に  日本海軍海南島で「Y八作戦」(地域住民虐殺)
1944年3月~7月 「インパール作戦」。日本陸軍兵士数万人・「インド国民軍」兵士数千人死亡
1944年6月15日~7月9日 アメリカ合州国軍、サイパン島占領
1944年7月21日~8月10日 アメリカ合州国軍、グアム島再占領
1944年9月 日本大津島に回天(=人間魚雷)基地建設
1944年10月 小野卯一(海南海軍特務部経済局海軍技師)「五ヶ年間に於ける海南島農業開発概観」
1944年10月10日 オキナワ10・10大空襲
1944年10月21日~1945年8月15日 特攻隊(死者 海軍 4156人〈航空隊2531人、特殊潜航艇440人、回天104人、震洋1081人〉。陸軍 1689人〈航空隊1417人〉。計5845人。他に第二艦隊3751人など8164人。総計1万4009人)
1944年10月23日~25日 レイテ沖海戦
1944年12月 日本海軍海南島で「Y九作戦」(地域住民虐殺)
1944年12月 大本営陸軍部『軍事秘密 海南島概説』(附、海南島近傍兵要地誌図)
1945年1月4日~6月~ ルソン島戦(フィリピン人犠牲者110万人)
1945年1月 台湾に徴兵制度施行
1945年1月 USA軍の海南島上陸を予想し、日本陸軍独立混成第23旅団、雷州半島から海南島に→5月に、海南島から広東方面に
1945年2月 日本海軍特攻部隊震洋隊、海南島に「配備」
1945年2月3日~3月3日 マニラ大虐殺(フィリピン人犠牲者10万人)
1945年2月19日~3月17日 硫黄島戦(日本側死者2万人余、アメリカ合州国側死者6821人)
1945年3月26日 アメリカ合州国軍、沖縄慶良間諸島の座間味島などに上陸。沖縄戦開始。以後、アメリカ合州国軍と日本軍によって沖縄人15万人が殺された
1945年4月1日 アメリカ合州国軍、沖縄本島中部西海岸に上陸
1945年4月2日 読谷村チビチリガマで「集団自決」(140人のうち83人)
1945年4月27日 沖縄阿嘉島で日本軍、朝鮮人軍夫約10人虐殺
1945年4月30日 ヒトラー自殺
1945年5月7日 ドイツ無条件降伏
1945年6月13日頃 沖縄で日本海軍大田司令官自殺。6月22日頃、日本陸軍牛島司令官自殺
1945年6月21日 沖縄真栄平村で日本軍、住民虐殺。「南北之塔」
1945年6月27日 沖縄久米島で日本軍、住民虐殺
1945年8月6日、9日 アメリカ合州国政府・軍、広島、長崎に原爆投下(14万人、7万4千人殺害)
1945年夏 日本海軍海南警備府第16警備隊の兵士ら、「朝鮮報国隊」の朝鮮人を虐殺
1945年8月14日 日本無条件降伏
         当時、海南島の台湾人約23000人。
1945年10月 中国陸軍粤桂南区統指揮部前進指揮所・中国杭州空軍第6区地区司令、海南島の日本軍施設接収
1946年3月12日~19日 海南島楡林港から日本へ「帰還船」4回出港(第16警備隊・横須賀鎮守府第4特別陸戦隊・佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の兵士、「居留民」など1万4948人乗船)→大竹・田辺へ
1946年3月22日~24日 海南島秀英港から日本へ「帰還船」3回出港(第15警備隊・舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の兵士、「居留民」など9401人乗船)→浦賀・田辺へ
1946年4月 海南島から、朝鮮へ「帰還船」出港→釜山へ
1947年2月~3月 「二二八事件」
1947年5月3日 ヒロヒト、「日本国の象徴」兼「日本国民統合の象徴」となった。アジア太平洋各地で、侵略犯罪をくりかえしていた日本軍の将兵は、日本にもどって、ヒロヒトを「象徴」とする日本国で「平和」に暮らしつづけた。
1947年7月 元第15警備隊文昌中隊長兼石績、元文昌中隊長冨田堯人、元文昌中隊小隊長望月為吉、住民を虐殺したとして広東で処刑。
1947年8月4日 姜延壽、広東で処刑
1948年4月9日 デイルヤシーン村虐殺→イスラエルによるパレスチナ人虐殺。パレスチナに侵入したシオニスト武装集団は、アメリカ合州国をはじめとする帝国主義諸国の軍事・経済・政治支援のもとに、「イスラエル国」をつくった。
1948年4月 海南鉄礦田独礦区の労働者、田独鉱山に「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」建立
1948年6月 香港のオーストラリア軍法廷で、元海南警備府横須賀鎮守府第4特別陸戦隊司令官と軍医長に絞首刑判決
1948年10月 元海南島第16警備隊司令官能美実、USA軍捕虜殺害で、横浜裁判で終身刑宣告
1949年4月 国民党政府、海南特別行政区設置
1949年10月1日 中華人民共和国成立(首都、北京)
1949年12月7日 中国国民党政府、首都を台北に
1950年5月1日 中国人民解放軍、海南島「解放」。海南島の国民党軍台湾へ
1950年6月25日 朝鮮戦争開始
                           佐藤正人作成

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