■臺灣經驗に基づいた臺灣總督府の海南島經營
金勝一
1、はじめに
2、海南島に對する臺灣總督府の慾望
3、臺灣經驗とはなにか
4、海南島經營に應用された臺灣經驗
5、おわりに
1、はじめに
第2次世界大戰末期, 海南島で行われた日帝の韓國人と現地人等に對する殘酷な彈壓行動について十分に理解している韓國人は、今もほとんどない。最近、海外旅行の一環として休息とゴルフ等のため海南島にいく韓國人が増えているため、海南島をただ觀光地としてのみ知っているにすぎない。
發表者が海南島近現代硏究會會員と3回、韓國獨立記念館獨立運動硏究所硏究員と2回等、合わせて5回にわたって海南島を訪問し、收集した資料及び論文を發表したことによって、硏究者の間で若干知られているだけであり、他の硏究者が発表した論文は1篇もないが、このことは、韓國における海南島硏究が依然として未知の硏究分野であるということを示している。
海南島は强制徵用及び慰安婦として連行された韓國人と深い關係があり、韓國現代史の非常に重要な部門であるにもかかわらず、このことに關する硏究が手薄で、また、關心を持つ硏究者が現れていないことは、非常にはずかしく思う次第である。しかし、かかる問題は韓國硏究者のみに局限されるべきものものではなく、中華圈の硏究者にも關連する問題であるという點で、海南島近現代硏究會の活動は非常に重要な歷史的意義を持っており、また、未知の硏究分野を開拓していこうとする使命感を持つ團體であると評價すべきであると考える。
以上述べたように、海南島に關する今までの硏究は質ㆍ量ともに問題を抱えている。今までの海南島に關する硏究狀況をみると、大體5つの方面で分けられる。
はじめは ‘日本海軍と南進’に焦点を当てた硏究であるが、この方面の硏究は量的に少なくはない。これら硏究の重點は日本陸海軍の‘北進’と‘南進’に對する政治的論爭及びその擴張方向、そして實質的な利益を得る方法に對して論じているのが特徵である。
二つめは‘海軍軍政’の下の海南島狀況に對する視角である。
三つめは、日本の海南島占領に對する中國側の視角に對する論文である。これら論文の多くは日本軍統治の保護の下で、日本大企業の海南島資源の掠奪に對する考察である。
四つめは、臺灣人の海南島經驗に對する議論であり、いつつめは海南島での臺灣拓植會社の役割と影響についての硏究である。
本論文ではこれらの先行研究とは視角を別にしたものであり、日本政府がなぜ海南島を重視するようになったか、日本政府に先だって海南島を占領しようとした臺灣總督府の行動過程、及びその方法等について考察し、最後に、海南島占領の後、政治的ㆍ社會的ㆍ經濟的に環境が似っていた臺灣植民統治の經驗(いわゆる‘臺灣經驗’)に基づいてどのように海南島を支配したかを考察した。このような分析をおこなうのは日本帝國主義政府の對外擴張努力とその方法を再照射し、日本帝國主義の侵略性の一面を告發するためである。
2、海南島に對する臺灣總督府の慾望
近代以後, 海南島は淸國によって開發される機會が何回もあった。
しかし、政治的な狀況變化によってその機會を失ってしまった。これに比して日本は、1895年下關條約に基ついて臺灣を占領した後、臺灣總督府を設立して植民統治を開始しつつ、さらに進んで‘南進基地’の必要性を認識し、その野望を達成するために海南島侵略政策を推進した。この政策を遂行するために、尖兵となったのが臺灣總督であった。特に初期の臺灣總督らはすべてが軍人出身であり、それまでの軍內部での謀議によって南進基地の重要性を知っていたので、海南島の地政學的、經濟的の重要性に對して誰よりもよく理解していた。彼らは、海南島を占領するための調査を1908年5月から開始した。
この調査のため、醫藥品等の原料を確保するためという口實で、臺灣總督府が政治的に曖昧な狀況にあった廣東政府(当時、海南島を管轄していた)を利用して海南島の開發に對する協議をする一方、實質的に廣東政府を支配していた英國と外交的に妥協しようとしたこと等を見ると、これらの動きが南進政策の據點を確保しようとした日本政府と日本軍の戰略的な政策を完成するための布石であったのがわかる。
しかしながら、中國民衆の反對運動のため、1920年代と30年代には廣東政府との共同開發企劃は頓挫し、
臺灣總督府は海南島に對する關心を一旦ひっこめたが、南進のためには海南島の地理的な位置が非常に重要であったので、內部では引き続き海南島占領計劃を進めていた。
そして、再實行の出發點は、日帝が人的·物的資源の總動員のため制定·公布した‘戰時統制の基本法’であり、1938年4月に日本海軍が臺灣に海軍武官部を開設し、‘海南島處理方針’を公布して海南島占領計劃が始まった。この‘海南島處理方針’の冒頭部分には、その要旨が明らかにされている。
“海南島の軍事的、經濟的な重要性、そして地理的、社會的な特殊性を勘案する時、この
島の統治にあたっては、當然ほかの占領地域とは異なる政策が行われるべきである。卽
ち總體的な統治圈を確立することとともに、帝國の外地に對する統治理念を拡大するのを
主な目標にしなければならない。それため、一つはこの島を統治する時、臺灣を統治した
經驗を活用し、南方外地の一環として取り扱うべきである。二つは、この島を開發して必要
な資源を確保しなければならなく、日本、滿洲、中國との經濟協力を强化すると共に、民生
安定を圖らなければならない。三つは、この島を中心として東沙島ㆍ西沙島ㆍ新南群島に
對する支配權を確立しなければならない。同時に臺灣および南方外地を統一し、帝國の南
方政策を推する據點として作るべきである。”
この文章から、この時点で既に海南島を永久的に占領すべき地域であると考えられていたことがわかる。
この政策を遂行する過程で、英國との外交的葛藤が想定されたので、まず獨立的な自治政府を樹立したあと、傀儡政府を親日派として編成するようにした。そして産業ㆍ金融ㆍ其の他海南島の開發施設に關しては臺灣拓植會社にすべてを委任して經營するようにした。これは臺灣總督府が臺灣經驗を海南島に移植して統治しようとした切迫した心情をよく現わしているといえよう。
結局、1939年2月10日、日本海軍が主導する中で海南島を占領し、海南島はこの時から敗戰まで6年間日本統治の下に置かれた。このように、臺灣總督府の海南島支配野望は、英國との國際關係、廣東軍閥政府の利用、現地調査、臺灣經驗に基ついた統治方法の構想等すべての點を考えながら、長期的な計劃の下で推進されたことがわかる。
3、臺灣經驗とはなにか
日帝は海南島を占領した後,照年日本が臺灣を接收して以降、臺灣統治の過程で累積された政治、經濟、社會、産業等の各方面の經驗、卽ち‘臺灣經驗’に基ついて海南島を統治した。日本の著名な經濟雜誌である《ダイヤモンド》の石山賢吉記者は‘臺灣經驗’に對してつぎのように觀察していたことがある。
“日本は海南島を占領した後、すぐ臺灣を重視することを始めた。なぜなら、海南島を統
治する時、臺灣統治の經驗が非常に效果的であろうと考えたからであった。例えば、巡査
の場合日本內地から來た者より、臺灣で採用した巡査がずっと效果的であるからであっ
た。なぜならかれらは氣候に習れており、中國人を取り扱った經驗があったからであっ
た。勞動者もまた臺灣人が非常に適合いしていた。農作物の栽培面でも臺灣經驗が應用
できたからであった。こんど海南島開發に對してわが海軍當局は、資本と技術者を活用
するにおける經驗があるか、實力がある者を歡迎するという方針を立てている。わが海軍
はかかる方針に從って30餘個會社に海南島開發を指定した。しかしこれら會社が海南島
海南對する開發はそんなに熱情的ではなく、ただ機會だけをのぞいているようすであ
る...........
なぜならかれらの經驗はすべて內地での經驗であるから熱帶農業についてはよく分から
ないので、全く手をつける餘地がないのである。しかしその中で一番突出した會社があ
り、それがすなわち臺灣拓植會社である。臺灣拓植會社は既に試驗栽培の經驗があり、
整地作業もやった經驗があるので、その成績が非常に優れている。かかる臺灣拓植會社
の經驗は海南島內のすべての面で非常に有用である...........
かかる臺灣經驗は臺灣を統治しながら苦心して得られたのであるから、それほど報答が
あるはずなので、臺灣は南進基地を建設するのに全力を出す使命感を持っているといえよ
う。”
これを見ると、日本の臺灣經驗が新たな占領地に對して如何に大きな影響を与えたかが知られる。
では、かかる‘臺灣經驗’は、どのようにして獲得され、蓄積されることができたのであろうか?
その要因は三つの側面に要約できる。一つめは、日本政府が臺灣總督に軍事執權獨裁專制をおこなうことができる權限を與えたので、‘臺灣經驗’を得ることができたという点である。二つめは、多樣な方面での特殊業務を遂行する警察機關を設立し、恐怖統治を通じて抵抗勢力を封殺できたので、自分の計劃を推進していくのができたという点である。三つめは先の二つの目標を效果的に達成するため、“臺灣で臺灣をおさめる(以台治台)”という政策を實施したためであった。この‘以台治台’の骨格は、厳格な保甲制度と連坐法であった。これらについての具體的な實行狀況は本文を參考していただきたい。
このような手段によって臺灣において遂行された植民統治は、臺灣を恣意的に蹂躪し、臺灣人を奴隸化するのに非常に効果的であったので、臺灣の財富と資源は容易に掠奪されていった。かかる統治手段は、そのまま海南島占領後の植民統治にも適用され、臺灣と同様に海南島民衆にも苦痛を與え、海南島の資源を掠奪するのに大きな作用を果たしたのである。
4、海南島經營に應用された臺灣經驗
このように、日本政府はいわゆる‘臺灣經驗’による海南島支配を極大化させた。
卽ち、“海南島と臺灣の間には早くから多くの交涉があった。往年、南進論を鼓舞する時、先輩たちは海南島の開發に對して相當に苦心した。占領後海南島をどのようにするか?......結局臺灣總督府は軍部側に地理上の各種有利な條件を基礎にして海南島を親日地域と作ることを要求しながら ‘臺灣經驗’に基ついて軍部側の活動を大々的に支援した。”
これは軍部側にすべての權限を與え、强力な支援を通じて海南島で臺灣のように確固たる植民統治ができる基盤を確保せよという要求であった。
かかる植民統治は、1938年臺灣總督府內部で事前に決めおいた“海南島處理方針”に從って實行されたのであった。この方針の実行は、1939年4月1日臺灣總督府の事務官も乗船した定期船‘めなど丸’が臺灣を出航し、海口に到着して臺灣總督府事務所を開設した中で始まった。
この事務所の任務は、海軍、陸軍、外務等によって構成された三省聯合會議及び其の他派遣された駐在機關と協力して事務を處理し,博愛會等總督府關係の諸般團體及び施設、そして調査團に對する總括指揮、臺灣銀行ㆍ臺灣拓植會社ㆍ各種商社等を指揮しながら連絡を取ることであり、關係者に對する指導等の事務及び海南島に對する諸般調査等を管掌することであった。
臺灣總督府は、かかる應急措置を管掌してその機能を發揮させることのほか、“異民族の統治、熱帶農林業、熱帶醫學”等の領域で、植民地の行政經驗がある者や、知識經驗がある者を派遣して管掌させたり、また、海軍特務部の‘軍政要員’を派遣して敎育關係、日本語學校、農林、畜産、水産關係、專賣關係、電氣通信關係、度量衡關係、産業試驗場、植物檢査所等の各方面を擔當させたりした。
彼らが‘臺灣經驗’を通じて海南島で實行した各種制度及び事業の内容については、本文を參照していただきたい。
このような狀況を見れば、‘臺灣經驗’が海南島へ移植され、海南島の經營を主導したのが理解されるであろう。このように、日帝の臺灣における植民統治經驗は、‘大東亞共榮圈’を建設するのに實質的に大きな助けになり、海南島もまたその布石のための犧牲地になったことがわかる。
5、おわりに
日本は内地以外の地域を統治しようとする際に、臺灣をモデルとして經濟を發展させようとし、これを日本帝國の經濟發展の一環としてみなし、自己の經濟圈内で必要なものを補充しようとした。このような基本原則は 海南島にもそのまま適用され、驚くべき方策が提案された。それはまず住民の皇民化を根本政策とすることであった。つぎに計劃經濟を基盤として産業發展を引っ張っていくという方策であった。三つめは臺灣經驗を活用してすべての政策を具體的に樹立して運用するという方策であった。そしてかかる方策の實施に際して‘臺灣經驗’を活用し、約10年間で現在の臺灣と同水準まで統治成果を上げることを目標とした。10年間で臺灣のような‘統治成果’を上げると計劃したことは、いかに‘臺灣經驗’に對して自信を持っていたかということがうかがえる。
このように‘臺灣經驗’を海南島に普及しようとする切迫した心情は、日本政府の長きにわたっての宿願である南進政策を實現するための橋頭堡を確保したいということと、海南島の豊富な農業資源、林業資源、鑛山資源を開發し、植民地統治及び戰爭において必要な資金を支援しようとしたことの2点に由来するものであった。換言すれば、國防、軍事、南方經營、産業發展という側面から考慮して、海南島を日本の國土に編入することは當時の日本が置かれた狀況においてで最上の方法であり、編入後において最大の效果を得るためには、‘臺灣經驗’による經營が不可欠であったという事實を確認することができる。