三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島での日本軍のアヘン栽培・管理・販売

2015年08月31日 | 海南島史研究
 海南海軍特務部は、厚生公司をつかって阿片栽培をおこなっていました。
 日本敗戦後、海南島における侵略犯罪によって広東で処刑された人は7人で、6人は日本人、1人は台湾人の姜延壽さんでした。処刑された日本人の1人は、中村三郎厚生公司支配人でした。
 海南島での日本軍のアヘン栽培、アヘン管理、アヘン販売にかんしては、このブログの2007年6月24日~6月28日の「白蓮鎮で」1~5、2007年06月29日~7月3日の「海南島でのアヘン生産」1~5、2008年5月11日の「烈楼で」、2008年9月8日の『海南島三省連絡会議決議事項抄録』5、2010年5月31日の「厚生公司曾在海南強迫村民種鴉片斂財」、2010年8月7日の『海南島三省連絡会議決議事項抄録』ノート 5」、2012年1月31日の「「広東裁判」・「香港裁判」」5、2012年2月2日の「「広東裁判」・「香港裁判」」7、2013年8月7日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告」31、2013年8月31日の「日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告」48などをみてください。
 
                            佐藤正人
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「日军曾在海南岛生产鸦片牟取暴利」

2015年08月31日 | 海南島史研究
http://www.haijiangzx.com/2015/0830/251730.shtml
「海疆在线」 时间:2015-08-30 13:25:04 作者:海南老邱
■独家披露:日军曾在海南岛生产鸦片牟取暴利
  导读:近日,由南海出版公司出版的《真相》一书,首次披露了日本学者佐藤正人考证的事实:日军侵略海南期间,不仅屠杀、奴役海南岛的居民,还与一些日本企业勾结,种植罂粟生产鸦片,以牟取暴利。

  近日,由南海出版公司出版的《真相》一书,首次披露了日本学者佐藤正人考证的事实:日军侵略海南期间,不仅屠杀、奴役海南岛的居民,还与一些日本企业勾结,种植罂粟生产鸦片,以牟取暴利。
  《真相》一书详细收录了日本海南岛近代史研究会学者17年来27次到海南实地考察的研究成果。
  上世纪九十年代,佐藤正人参加日本民间组织“查明纪州矿山事实真相的自治会”,偶然得知日本侵略海南岛掠夺铁矿的情况。为追查真相,1998年6月,他和自治会会员、在日本工作的韩国学者金静美女士首次到海南。
  随着调查的深入,日军在海南的暴行不断让他们感到震惊。 为了更清楚地了解日本侵略海南期间犯下的罪行,佐藤正人于2007年创办成立了海南岛近现代史研究会。
  佐藤正人等人在察看日本财务省的 《关于日本人海外活动的历史调查·海南岛篇》(1947年)的资料时发现了相关线索。 该资料记载:“日本在海南岛的‘厚生公司’经营农场,生产稻米、蔬菜、黄麻。”但是调查发现了一个惊人的事实,这家所谓的“厚生公司”在海南岛生产的农作物,并不是蔬菜、稻米等,而是鸦片。
  2007年4月底,自治会成员通过各种渠道找到了当年日军在海南岛生产鸦片的相关负责人山田行夫。 山田行夫1942年春天成为“厚生公司”研究员,1943年夏天被派遣到日军海南海军特务部。 其在海南岛的工作主要是负责改良适应当地土地条件的罂粟品种,改良鸦片用罂粟的品种,调查、搜集野生的麻药原料等。
  据山田行夫介绍,“厚生公司”在海南的农场主要分布在老城、白莲、金江、瑞溪、土艳、那大、洛基、南丰、和庆等地。山田行夫先是被派去洛基,然后又去了那大、和庆。 “和庆土壤肥沃,适合栽培罂粟。那大的土壤虽然没有那么好,但是有适应本地土壤的那大种罂粟,所以鸦片采集量很大。”
  2007年5月31日—6月1日,研究会成员等走访了澄迈县白莲镇,听李爱连(1925年生)、李学三(1929年生)两位老人讲述了当年日军及日本企业在白莲生产鸦片的情况。
  “日军来的时候,我住在离这里3千米左右的罗驿村,”李爱连老人说,“日军掠夺土地,让村民种植稻谷、鸦片和甘蔗。在村外建了制糖厂,从甘蔗中获取砂糖。 我曾经也在鸦片农场被强制劳动过。”
  李学三老人带着研究会成员等来到罗驿村,那里有块1000平方米左右的空地,曾经是日军的罂粟栽培试验场地。 老人回忆说:“1939年农历十二月廿二上午 9 点左右,日军的飞机来到罗驿村上空,投下了5枚炸弹。 3间房子被毁,1个小孩和1个老人被炸死了。孩子的身体被掀起,内脏挂在了树枝上。 那天日军听说共产党员隐藏在罗驿村附近的潭池村,于是杀了他们怀疑藏匿共产党员的村民。”
  日军为什么要在海南岛进行鸦片生产? 佐藤正人从山田行夫那里得到的答案是:“通过鸦片获得军饷。”
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 7

2015年08月30日 | 海南島近現代史研究会
■「参加海南岛的调查/崎久保雅和」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』36号(2002年10月21日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。

  
     海南島調査に参加して
                        久保雅和

 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の活動を海南島へむすびつけていったのは、田独鉱山(石原産業)、朝鮮村(日本軍による朝鮮人虐殺)であり、日本がおこなった侵略の問題、戦後責任の問題だと思います。わたしはこの会での調査活動を通じてはじめて海南島での虐殺や強制連行、強制労働の問題を知り、今春(02年3月・4月)、はじめて海南島での現地調査活動に参加しました。
 この海南島の問題が現在に続く問題であることを思った出来事がありました。
 わたしが今回の現地調査に先立ち、日本に現在も生きている、海南島を占領した日本軍(海南警備府)に所属していた日本人男性への直接聞き取り調査に同行したときのことです。待ち合わせの場所にはやくついたわたしはぶらぶらとあたりを歩きまわっていたのですが、偶然、家が立ち並ぶなかに小さな墓地を見つけました。こじんまりとした、でも手入れの行き届いた閑静な住宅街に似合うような小さな墓石を見て歩いていると、その風景のなかで異様なまでに背の高い、先のとがったおおきな墓石に行きあたりました。そのいかにも居丈高で硬質な感じを与える墓石には「陸軍……島で戦死」などの文字がきざまれているのが見てとれました。 
 会のみなさんと落ち合ったとき、見せてもらったのが、海南島の朝鮮村で見つかった、日本軍に虐殺された朝鮮人の遺骨の写真でした。それは激しい損傷を受け、土の中に埋められたままの遺骨でした。
 その日、聞き取りを行う男性は、この朝鮮村での虐殺について知っている可能性のある人でした。自宅の玄関前でわたしたちと会った、その老人はわたしたちの質問に答えようとはしませんでした。ただ、後日、再度訪れた竹本さんの、「海南島は暑かったですか」との質問に対して、彼は「木下はそんなに熱くはなかった」と答えたということを聞いたとき、わたしはある生々しさを感じていました。
 わたしの前に、象徴するかのようにあらわれた、年老いた彼、彼が家族とともに住むであろう彼の「家」、小さな墓地の異様に大きな墓石、その墓石と彼の閑静な「街」。そして、朝鮮村で見つかった、その名もわからない朝鮮人の遺骨。彼はあの墓石のように固く口を閉ざして死んでいくのだろうか、この社会は、自らがおこなった侵略、虐殺、強制労働を隠しつづけ、あの「墓石」だけを歴史に残していこうというのだろうか……。なぜ海南島にわたしは行くか、その答えを知ったような気がする聞き取り調査でした。
 
 海南島では、歴史の説明ではわからない、ことばにできないような次元から多くの体験をしたと思います。わたしが歴史を語るときのことばからはあふれ出てしまう現実。それ以上に、実際に体験した人にとってはどれほどのものだったろう。
 歴史のヨコ軸を広げていくと見えてくる日本の歴史の姿というものがあると思います。それをわたしは、この一連の聞き取り調査をつうじて、それぞれの人たちの人生に刻まれた歴史のなかから見たのだと思います。被害を受けた、殺された多くの人の存在を隠しつづけ、「今」を当然に生きていってしまう、そんなことでいいのだろうか。埋められた歴史をあきらかにして、わたしの、わたしたちのあり方を問うていきたい。

 わたしの海南島調査についての報告は、「月刊むすぶno.377、no.378、no.380、no.382」に載ってます。
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 6

2015年08月29日 | 海南島近現代史研究会
■「参加海南岛的调查/日置真理子」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』36号(2002年10月21日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。

 
     海南島調査に参加して
                           日置まり子

 今年の春の海南島調査に初めて参加しました。三亜、黄流、石碌、新盈、海口、陵水、保亭とまわりました。ちょうど海南島を西回りで一周した形になります。時間切れで東部分はあまりまわれませんでした。調査の内容はパトローネや月刊むすぶに他の方々が丁寧に書いてくれているので、わたしは感想を書こうと思います。
 キムさん、佐藤さん、斉藤さんがこれまでの調査でしりあった人を探してまた聞いたり、移動の間に老人を見つけて飛び込んで聞いたり、運転手に教えてもらったりなどの手段を取りました。老人の記憶、昔こんなことを聴いたことがあるとか今も残っている建物などから日本軍の侵略の歴史を知っていきました。黄流の田んぼの真中にある大きな日本軍の飛行場跡が今は住民のトイレがわりになっていたり、イモや作物を干すのに使われていたりしました。また新盈では「慰安所」に使われていた建物(元々旅館だったそうです)に人が住んでいました。「慰安所」に実際立ってみると日本人であるわたしが居てていいのかという気持ちになります。ちょうど雨が降りだして、子どもたちがたうさんまわりにいて……その空気は忘れられません。一緒にいる日本人の男性で昔の日本兵の誰かに似ている人がいたら、その土地の人は本当にいやな思いをしてしまうだろう、などと想像していました。その土地にも人々の記憶や生活の中にこんな侵略のあとがあるということに本当に驚きました。一方侵略した側の日本に住んでいる日本人であるわたしは侵略したという記憶を自分でかなりの努力をしなければ持つことができません。わたしは海南島という名前も昨年始めて聞きました。友達にも知っている人はいませんでした。このことがわたしも含めて日本社会は侵略の歴史をずっと取ってきていないということを示していると思います。
 海南島ではたくさんの人に助けてもらいました。運転手の人たちは海南語を漢語に訳してくれましたし、街の人が手続きのことで間に入ってくれたり、行く先々で多くの人が寄ってきて世話を焼いてくれました。中でも石碌ダムに連れて行ってくれた黎さんは忘れられません。春にはおなかにいたあかちゃんが8月5日に生まれたとこないだ手紙がきました。書ききれないほどたくさんの手助けの中でわたしはいろんなことを知り、反省しました。
 もうひとつ大きかったのは経済格差のことです。大きな街に行くと、ゴミ捨て場におばあさんが座っていたり、半地下になった広いゴミ捨て場をふとのぞくと人が住んでいるのを見ました。市場の近くでは女の人が顔をタオルや帽子で隠すようにして麻袋に拾ったものを集めていました。ある街では夜に子どもが二人、大きすぎる服を着てやはり麻袋にものを集めていました。恐ろしいことですが、障がい者にほとんど会うことがありませんでした。海南島の生活は日本に住む私にとってはとても安かった。おどろくことに京都から関西空港までの行き来のほうが、2週間弱の海南島の生活費を上回るほどであったということです。海南島ではあまりお菓子もないし、電話もテレビも普及していません。洗濯機などありません。村では子どもたちは裸足で、学生も非常に少ない。わたしの住む日本がアジアに対する経済侵略の上に成り立っているということを実感しました。
 先日、海南島で会った数少ない学生から手紙をもらいました。袁さんと言います。手紙には侵略した日本人は冷血な怪物でその三世代、四世代とも一緒に食事をしたくないと思っていたと書いてありました。わたしはその三世代です。そして日本は侵略をしつづけ、ともに生活する在日朝鮮人を日本人は差別し続けています。わたしは袁さんにどう返事を書くか、今ものすごく悩んでいます。
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 5

2015年08月28日 | 海南島近現代史研究会
■「抗日志士邢诒壮/邢越」は、海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号(2011年2月10日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。


     抗日英雄 邢诒壮
                   邢 越

  日本侵占海南时期,在海南南部沿海的黄流出现了一个为抗日而大义灭亲、视死如归的英雄,他就是名震当年的游击队崖县第五区区长的邢诒壮(1918-1943)。
  邢诒壮乃黄流镇的佛老村人,1918年出生,1936年在崖县中学就读,是该校的优等生。1937年日本发动了对中国的全面侵略,一时大片国土沦陷,此时此景,中国人民的抗日意志也达到了高潮。位于海南岛天涯海角的崖县,是离中国大陆最远的地方,然而,这里的人们乃随国家的命运脉搏一起跳动着。当时以崖县中学为中心的校园内外,师生们所组织的抗日救亡活动此起彼伏。邢诒壮当时是学生中的活跃分子,他除了在崖县中学校刊上发表多篇抗日文章外,还和学友陈国风(1953年前后曾当过崖县县委书记)一起组织并带领学校宣传队深入到乡村进行抗日宣传。他身材高大魁梧,仪表堂堂,善于演讲,是当时热血青年学子中的佼佼者。
  1939年海南失守,崖县中学被迫停课,学生们也失学回家了。沦陷后的黄流,日本军为了加快黄流机场和铁路等的工程进度,肆意占领平民耕地和拆毁民房,民众稍有反抗,则进行血腥腥的镇压。日本军的暴行确实是吓坏了一些人,但更多地激起了众多爱国志士的抵抗。停学在家的邢诒壮再也坐不住了,他和几位志同道合的青年倾其家产,购置枪械,组成了游击队(不久被收编入游击队第二中队)。
  成立后的游击队虽然人员不多,枪支也不足,但他们都是抗日的精英,他们多次对日军的运输物资进行偷袭和截击,因而日本军对这支新兴队伍恨之入骨。
  游击队员的生活是艰苦的,处境是险恶的,他们风餐露宿,居无定所。听说为提防日军和汉奸队的跟踪偷袭,他们多是3人为一小分队进行活动。晚上睡觉,枪必枕头下。而且睡觉时,他们常分散睡在不同的三点,形成“品”字势,以互为照应。

  邢诒壮和我家是同村且同宗,按辈分他称我爷爷为“四爹”。我家当时位于佛老村的村边,家的后面则是灌木、藤蔓相连的荒山。
  听我伯父(当时十三岁左右)说:“他小时曾见邢诒壮晚上几次从我家后门悄悄进来,每次我奶奶都给他准备一点吃的,他吃完东西,简单洗个澡,就离开,也不久留,有时也让我爷爷去喊某某人到我家里和他谈话”。  对邢诒壮的外貌,伯父是这样描述的:“他身材高大,仪表不凡,是少见的美男子。他每次都穿着长袍衣,他的一支驳壳手枪和一支左轮手枪就藏放在袍衣的两个大袋里,腰间还系着几枚手榴弹。”

  1941年是中国抗日斗争最困难时期。黄流日本军在各乡村设立了维持会长、保长,以及“青年团(衣队)”等反动组织,并让他们充当日本军的马前卒,因而许多抗日志士遭到杀害,各乡的抗日力量和人民的抗日意志正经受着严峻的挑战。
  邢诒壮在学生时代就宣传抗日,是意志坚定的热血青年,在抗日形势日益严峻的环境下,他所组织和领导的游击队却不断壮大,此事早就引起上级领导的关注。同年,经过党务考察,国民党崖县县长李尚芬特委任他为崖县第五区的区长,让他来整合、领导崖县第五区的抗日力量,那时他二十二岁。
  当区长后,他的第一战就是领导精干队员潜入黄流村,对作恶最凶的黄流日伪青年团(衣队)进行袭击并使其遭受重创。消息传开,群众称快,军心大振。接着,他又组织“除奸队”,打击各乡的维持会长、保长等那些为日军服务的帮凶。
  在这次行动中,他经历了一段痛苦的选择。原来他老婆的伯父(老婆父亲的哥哥)就是XX村的日军保长,他在多次劝说“勿再为日本人卖命”后,但是他伯父竟不知时务,毫无改意,最后,他命令游击队员把其拉出去枪毙。此次行动,他所领导的游击队先后击毙了伪维持会长3人,伪保长2人,伪班长1人。他的大义灭亲之举,是海南抗战以来的首例,影响深远。在一段时间内,那些为日军卖命的人一闻邢诒壮之名则神魂颠倒,惶惶不可终日。
  游击队的行动使日本军苦心经营的组织瘫痪,这样,游击队必然会招致日军的强烈反制。日军在各乡贴出布告,重金收买邢诒壮人头。日本军亲自组织的几次捉捕行动,均都在群众的拥护下安全转移。

  1943年6月,他率小分队队驻乌榕岭,准备袭击佛罗日军。当他们出外侦察返回时,不慎被敌情报员发现。半夜,日军和伪军共100多人包围了他们的睡处。外围3位队员在睡梦中不幸被捕,但此时队员的挣扎反抗声也惊醒了他,他于是掏出双枪和手榴弹进行反击。他一人独战漫山的敌人,双方枪战持续了3个多小时,后因受伤流血过多昏迷而被捕。此次枪战,他共击毙了5名敌人,其中一位为日本军。
  被捕后,日军采取了软硬兼施的办法对其进行诱降,但他始终不为所动。日军领教了他坚不可摧的意志后,于是把他五花大绑,拉上街示众,目的是为威慑抗日群众。面对街上越聚越多的群众,他精神抖擞地向群众进行政治宣传,他说日本鬼子即将失败,中国的抗战必将迎来胜利。日军感觉不妙,紧命人上来堵住了他的嘴。
  当时黄流第三任伪维持会长也奉日军之命,前来劝邢诒壮说:“你年轻有为,更应该懂得珍惜生命,这是你最后一次机会了”。邢诒壮一听,横眉一瞪,大骂民族败类、汉奸并举脚踢翻桌子,把他吓出一身冷汗。
  一场威慑示众会却演变成为名副其实的现场抗日的宣传会,日本军没办法,只好把邢诒壮押回,然后对其施行酷刑。日军先挥剑砍断他的四肢,后再剜心取胆,手段极其残忍。他牺牲时年方24岁。和他同时被捕的三位队员也宁死不屈,惨遭杀害。
  邢诒壮虽然牺牲了,但他大义灭亲、视死如归的的抗日精神乃在鼓舞着人们,他的游击队的抗日事迹至今还在广为流传。

  日本投降后,黄流地区实力派人物邢谷瑚发动群众把邢诒壮等抗日时期被日本军杀害并遗尸公共坟场的抗日志士的遗骨收齐,建起了抗日志士公墓并立碑。时任国民党陆军中将吉章简将军和琼崖党务督导专员曾三省分别以:“尽忠报国,虽死犹生”和“勇敢可风”等挽言相赠并刻字立碑。文革结束后,胞弟以传统仪式把邢诒壮灵魂迁葬到家乡的家族墓地。
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 4

2015年08月27日 | 海南島近現代史研究会
■「海南岛记事/金智媛」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』28号(1998年10月18日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。これを書いたとき、金智媛さんは19歳でした。


   海南島でのこと
                金智媛

 6月の末にキム チョンミさんと佐藤正人さんと歴史の調査のために中国の海南島に行った。
 海南島は中国というよりも東南アジアのようだった。ビルが立ち並ぶような街もあったが、田舎ののどかな風景が残る場所がたくさんあって、緑のジャングルとたんぼと赤茶色の土の道と、その道ばたを牛が散歩しているような光景によく出会った.
 私は移動中のタクシーやバスの中で窓の外の景色を見るのが楽しかった。海南島の人たちはとても親切で田舎へいけばいくほど私達はものめずらしげに見られた。海南島で私は政治協商会議に行った。初めての調査だった。私達が海南島に来た目的を話すと、政治協商会議のおじさんは丁寧に色々な戦争当時の話をきかせてくれて、その話はすごくリアルで胸に響くようだった。私はどうして今までこういう話を聞かずにいれたんだろうと思った。私たちは話を聞き、何が起こったのか、誰がなにをしたのかをまず知らなくてはならないと思う。そして私はそこで話を聞いて初めて、戦争のこと、調査のことや色々なことを実感することができた。
 そして私は、キム チョンミさんと佐藤正人さんや調査であった人達の会話なんかを聞いて思うことがあった。何か同じ思いや目的を持つ人たちはそれだけで仲間になれるのだ。すごく羨ましい。
 私は戦争の話をたくさん聞き、実際にそれが起こった場所や追悼碑も見に行った。話を聞かせてくれる人の中には、体験者である人もいた。私は第二次大戦中、日本が海南島で何をしてきたかを知った。海南島だけではなくアジアの他の国でもだ。その傷跡は今も至るところに残っているのだろう。日本ではその事実は多くは知られていないそうだ。私も行く前は海南島という島があることさえ知らなかった。その問題には興味を持たないで、今現在の日本とアジアとそして世界の関係しか見ていない人は多いと思う。私もそのうちの一人だった。すこしは知ってはいても、忘れていることの方が多かった。私は今の日本の姿を多く見ていた。私はそのことを思い出し、更に多くのことを知る機会に恵まれて良かったと思う。戦争はその形や大きさの違いはあるとしても、結局どちら側にもたくさんの傷を残す。たくさんの人が死んで、たくさんの哀しみや憎しみが生まれて、今もそれは続いている。
 私は今回の旅行で、初め期待していた以上に多くの物を得ることができた。中国に行くことができて良かった。
 日本に帰ってしばらく中国での事が頭から離れなくて、いつもの生活になれるのに時間がかかった。考えることが沢山あった。だけど今はその半分も考えない。私は今中国で学んだことを忘れないようにしなくてはならないのだと思う。
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 3

2015年08月26日 | 海南島近現代史研究会
■「第一次访问海南岛的想法/竹本升」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』44号(2006年11月10日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。


     初めての海南島訪問で考えたこと                       
                                  竹本昇 

 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては、11次におよぶ日本の侵略の事実を解明する海南島訪問であったが、私は海南島へは今回が「初めて」の訪問でした。この場合の「初めて」というのは私にとっては「初めて海南島に来た」という意味だけではなく、「加害者としての責任がある私が、初めて犠牲者と対面した」という意味での初めてです。
 私たちは、この度、海南島での日本軍・日本企業の虐殺と収奪の事実を調査し聞き取りをしました。そのなかで、后石村を訪れたときのことです。私たちは、そこの村民に案内されて、村外れの雑木林に案内されました。その場所は、突如、村を襲撃した日本軍が、村人100人のうち、軍の言うことを聞かないという理由で50人の村人を一箇所に集め、銃剣で虐殺した所でした。
 乳飲み子を抱いた母親が、日本軍によって銃剣で切り殺されたが、そのとき母親に抱かれていたという60歳を超えている男性が在住していると聞かされ、その男性の家を訪れました。その男性は、母親が切り殺されたとき、自分の後頭部も刀で切られ一生傷として残っていると言って私に傷跡を確かめさせようと後頭部を差し出しました。60年以上の傷跡であり細胞が再生されているため専門家でない私には、傷跡を鮮明には確認できませんでしたが、かすかに毛髪の付け根の一箇所の部分が、少し盛り上がっているように見え、毛髪も少なく見えました。
 さらに、日本軍の侵略を直接体験した人がいる、という村人の案内を受けて、その人の住んでいる家に案内されました。その老人から私は日本軍の侵略の話を聞かせてもらうことになったときのことです。私はその老人から、「なに人か?」と問われました。このとき私は躊躇しながら「日本人です」と答え、「日本が酷いことをしたことをお詫びします」と答えました。このときの私の内面では、「辛い、申し訳ない」という想いで一杯でした。
 しかし、問題は、私はこの老人にお詫びしたらそれで済むということではない、ということでした。老人と対面した私は、今後、この老人に対して、どう責任をとっていくのかを私自身の中に打ち立てなければならないと思いました。
 責任の取り方について、私は完全な答えを見出していません。
 殺された親・妻・夫・子ども・兄弟姉妹・孫・祖父母は、もう二度と帰ってこないのですから、本当の責任は取れるものではないと思います。しかし、私なりの責任のとり方はなにかと自問したとき、私はこの事実を、日本が海南島を襲撃し多くの住民を虐殺した事実を、知らない人に知らせていくことを担っていこうと思いました。
 自分のできる方法と自分のできる範囲でしかできませんが、この侵略の事実を知らせていくことを担っていこうと思っています。
 こんな生ぬるいことでは犠牲者や遺族の方々から、肯定されることではないかも知れませんが、紀州鉱山の真実を明らかにする会が制作したドキュメントビデオの上映を開催していくことを通じて、この侵略の事実を知らせていこうと思います。 
                                    2006年10月15日 
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 2

2015年08月25日 | 海南島近現代史研究会
■「第一次参加调查日军侵略海南岛活动/佐山和子」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』47号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』2号(2007年11月9日発行)に掲載されたものです。その全文はつぎのとおりです。


    この運動に初めて参加して
                               佐 山 和 子

1) 出会いは、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で、60年前は昨日のこと』
 丁度1年前、2006年11月4日でした。
 伊賀上野交流研修センタ-でこのドキュメンタり-映像に出会ったのは全くの偶然で、その前日11月3日の《三重9条の会》の総会で、人権団体アムネステイの猪島さんに勧められたためでした。
 それまでの私は『海南島』の位置も、そこで日本軍が為した侵略犯罪の事実も、軍と手を携えて他民族を強制労働で使い捨て、多くの人を死に至らしめた悪徳企業の存在も全く知りませんでした。恥ずかしいことですが、三重県内に住居しながら、80年前『二人の朝鮮人労働者虐殺事件』を起こした【紀州鉱山】の経営者が、「テロシルト」の【石原産業】だったことも初めて知ったのでした。正に「知は力なり」です。この出会いが私を一歩前進させました。
 この『海南島』の映像はショッキングでした。美しい自然、その中で素朴に生きる生存者が語る生々しい証言、その老いの身に今も残る痛ましい傷跡、曲がったままの不自由な脚で歩く老女、彼等の無念の表情と涙。「この事実はもっと多くの人に知られねばならない。
 時は今、史実を歪曲し、南京大虐殺も性奴隷の存在も否定し、改憲の企てを進めつつある日本の現状の中で、この『海南島』での戦争犯罪を何としても多くの日本人に知らせねばならない」と思い、「名張の隣人にも是非観てもらいたい」と発言しました。それが〔名張市武道館〕での2007年2月25日の上映会の企画・実現につながったのでした。
 名張での上映会のことは、前々回「会報」第45号で崔文子さんが報告された通りです。これに実行委員として参加した私は、「一人でも多くの人に観てほしい」と思いました。都合よく私は《なばり9条の会》の世話人の1人でもあり、会議でこの『海南島』の事実を紹介し、4百人余の《なばり9条の会》賛同者全員にチラシを配ってもらいました。更に、会場が「会議室から多目的ホ-ルに変更」になったのを好機と、再度世話人を訪ね、「関心のある方に一言お口添え下さるよう」お願いしました。
 上映会当日は、10年前に名張市の住民運動でお世話になり、その学問的業績の幅広さに驚き尊敬している斉藤日出治先生にも駆けつけて頂き、ここでのうれしい再会が明日を予感させたのでした。

2)【海南島近現代史研究会】創立と、「この運動の二つの意義」
 2007年8月5日の【海南島近現代史研究会】の創立集会に参加した私は、即日入会致しました。
 これまで「木本事件」に端を発してアジアの人々の強制労働の真実を追い、『海南島』の事実調査を含む真実究明の活動を続けてきた《紀州鉱山の真実を明かにする会》は、その18年に及ぶ活動の実績を踏まえながら、今後は『海南島』での日本の戦争犯罪に焦点をあて、その調査・究明を目的とする本会の創立に至ったのでした。
 ここで最新作のドキュメンタリ-映像によって紹介された【月塘村虐殺】は、海南島における日本軍の残虐行為の中でも「ベトナムのソンミ村の虐殺」に匹敵するような酷い虐殺事件であり、【月塘村】村民の「追悼碑建立計画」に私達も参加協力する必要性と意義があること、それ故本会でも『月塘村追悼碑建立基金』の募金をすること、がこの創立集会で諮られ、承認されました。
 若者の右傾化を心配していた私にとって、もう一つのうれしいことは、ハイナンネットの若い学生が複数参加しており、その元気な発言に新しい可能性を感じたことでした。
 全くの素人で、高齢の上に持病があり、遠い現地での調査活動のお手伝いなどとてもできない私に、さて何ができるかと考えあぐねていると、いくつかの顔が眼前をよぎりました。それは、名張の市民運動で出会った仲間であり、護憲・平和の活動等で手を携えたきた人々でした。
私にできることがあるとすれば、そうした心通い合う人達に、『海南島』で日本軍と癒着した悪徳企業が何をしたか。日本の過去の戦争の実像を知らせ、本研究会の活動の意義を伝え、この活動の理解者を増やすことでしょうか。
 思うに、この会の活動にはかけがえのない二つの意義があり、その一つは、改憲の企みがある中で、「日本が先の戦争で何をしたか、戦争の真の姿を戦争を知らない若い世代に示すこと」であり、それは「この日本を再び戦争をする国にしない」ためです。
 いま一つは、「既に高齢になっている日本の侵略戦争の犠牲者達が近隣のアジア諸国にまだ生きている今のうちに真実を掘り起すことで、世界史の欠落を埋めること。」今それをしておかなければ、真実は隠蔽されたまま永遠に埋もれてしまうからです。
 この会の方々が、日本の侵略犯罪の実態究明をライフ・ワークとし、13回に及ぶ『海南島』での現地調査を私費で行い莫大な時間を投じてきたのは、その「世界史的意義」を思えばこそかと私は理解します。この大事な活動の邪魔にならないよう心掛けながら、私に少しだけお手伝いができればと思っております。 
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『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章 1

2015年08月24日 | 海南島近現代史研究会
 『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』第五章は、「海南岛近现代史研究会主要成员文章摘录」です。
 その目次は、つぎのとおりです。
      调查文昌市昌美村“九·廿二”惨案/佐藤正人………………………………………233
      第一次参加调查日军侵略海南岛活动/佐山和子…………………………………·238
      第一次访问海南岛的想法/竹本升 …………………………………………………241
      参加海南岛的调查/日置真理子 ……………………………………………………243
      参加海南岛的调查/崎久保雅和·……………………………………………………245
      海南岛记事/金智媛·…………………………………………………………………247
      观看纪录片《日本占领下的海南岛 60年前如昨日》/足立正生……………………249
      站在“侵略犯罪没有时效”立场的历史证言――看摄影集《日本侵略
     海南岛与抗日反日斗争》/太田昌国 …………………………………………………251
      抗日志士邢诒壮/邢越 ………………………………………………………………254
 収録されている文章は、すべて、南海出版公司編写組が、独自に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』、紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』、海南島近現代史研究会『会誌』などから選択したものです。
 同書には漢語文のみが掲載されています。

■「观看纪录片《日本占领下的海南岛 60年前如昨日》/足立正生」の原文は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』41号(2005年5月1日発行)に掲載されたもので、その全文はつぎのとおりです。


  ドキュメンタリー・ビデオ「日本が占領した海南島で」を観て
                    
                           足立正生  2005年2月

 ビデオ作品「日本が占領した海南島で」を観ていると、どくどくどくと鼓動が弾み始め、映像を焼き付けた脳裏が独りでに蠢動を始め、全身が映像の中に吸い込まれて行く。
 この、紺碧の空と濃緑に囲まれた美しい海南島の郷土で、強制連行され強制労働で痛めつけられた「朝鮮村」の人々が、何を恨んで死んで行ったかを感じ取ろうとする。
 今はただただ荒野の滑走路跡にどれほどの血と魂が吸い込まれているのか。その島を占領した日本の軍隊と国策企業が強行した戦争犯罪の史実の実態を記憶しようとする。
 生き残った現地の人々の語りが聞こえる。日本語のナレーションが語る。
そう。そこに描かれていくのは、例え60年以上が経つ今でも、決して風化していない事実である。事実の実態である。
 いや、ビデオを観ているうちに、その事実と事実が相乗して、いつの間にかビデオ映像が繰り広げる事実の世界に降り立ち、観る側にいたはずの視点がいつの間にか逆転して、事実の側から自分自身を照射していることに気付く。
 人々に降り注いだ厄災の数々は、今も村の人々のなかで事実として生きられている。
 彼らは、それを抱きかかえ、その重みの中で日々の生を紡ぎ続けている。
 そう。彼らは、血肉に蘇える怨念を、今も事実の姿として語るのである。
 私は、既に高鳴り始めた脈拍と鼓動の中で、生き残った海南島の人々が物語る言葉に、一々共鳴する。語る老爺の目元と表情に溶け込んで、思いは傍に寄り添って手を握りしめている。
 そして、この老爺の掌の温もりを感じた時、いつもこうなのだ、と一緒に頷く。
 そして、全く同じような事実の世界に抱かれていた時間を思い起こす。
 26年間、私が生活を共にしていたパレスチナの人々も、家族を虐殺され村を焼かれて追われた難民生活の中で、自分に降りかかった厄災の数々を語った。しかし、迸り出る言葉さえもどかしくなり、自然と伸びた両手が故郷の村の姿を描き始め、瞳はその村の光景を見つめて虐殺の現場にたどり着く。全身が一瞬凝固して、やがて、全てを飲み込んで胸をかき抱き、オリーブの木が、母が、父が、兄弟姉妹が、子供たちが、と瞑目したまま動かなくなる。それを今、新たに海南島の人々の語りに共鳴させて聞いているのだ。
 今、「日本が占領した海南島で」の中で人々が語るのは、風化しようにも風化できない事実なのである。
 私たちは、この事実を、よしんば認めた時、それを「60年前の史実」だと言う。
 しかし、果たして「60年前の史実」にくくって納得することで済むのだろうか。このビデオが史実を事実として語るのを観て、史実は今もおき続けている現在の事実実態でしかないことを感得させられる。
 このビデオを観て始まった私の、止みそうにも無い蠢動は、その60年前の史実を現在の事実として共にきることを問われて起こった驚きの実態だろう。史実という認識と今感得した事実が矛盾したのか。いや、今語られている事実に直面し、史実の彼方に葬り去ろうとした人々の血と魂が私を揺さぶっているのだと思う。
 恐らく、「日本が占領した海南島で」を何度も何度も見続けることによって、史実を事実に手繰り寄せる試みを、自分が今生きている喜びにしていくことになるだろう。(了)      
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海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会の報告

2015年08月23日 | 海南島近現代史研究会
■『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』出版まで
 海南島近現代史研究会はその前史もふくめて17年間、日本が海南島の占領期(1939年2月~1945年8月)に犯した犯罪(住民殺戮、性奴隷化、強制連行、労働強制、食糧・資源の略奪、村の破壊など)の実態を究明し、その責任の所在を明らかにするための活動に取り組んできました。
 これまで27回にわたって現地の海南島を訪問し、被害者とそのご家族、抗日戦士のかたがたから当時の話を聴かせていただきました。日本軍は「共産部落ハ之ヲ清掃ス」という方針のもと、海南島の各地の村を襲い、乳幼児、妊婦、高齢者、児童などの区別なく銃剣や銃弾で殺害し、住民を家に押し込めて焼き殺し、女性に乱暴して殺害しました。逃げのびた人びとは山中をさまよい、餓死や病死の苦難を強いられました。村の生活や人間関係は断ち切られ、村全体が消滅してしまったところもありました。日本軍は、兵舎、望楼、トンネルなどの軍用施設、軍用道路、飛行場などの建設に住民を駆りだし、そこでも「働かない」などと言っておおくの人を殺しました。また乏しい食事で体力の弱っている人が病死しました。鉱山労働では、コレラなどの疫病にかかった人が感染を恐れた日本軍によって生きたまま焼き殺されました。
 このようにして殺害された人、亡くなった人の氏名およびその数は、いまだに明らかにされていません。日本国家の犯罪行為が、その被害に対する責任追及や謝罪や損害賠償はおろか、事実の究明すらなされないままに今日まで放置されてきたのです。
 わたしたちはこの17年にその実態を明らかにするために、海南島を訪問し、被害者やその遺族の方々に出会い、殺された方の名前やそのときの状況についての聞き取りを進めてきました。

 昨年、海南島の南海出版公司が海南島近現代史研究会の海南島「現地調査」に注目し、若い編集者が昨年秋と今年春にわたしたちの「現地調査」の全日程に同行しました。
 昨年秋の共同行動のあと、南海出版公司からこれまでの会の活動の軌跡を出版したい、という提案を受けました。
 海南島近現代史研究会が、これまでの活動の資料や会誌、会報、写真集、ドキュメンタリーなどを提供し、南海出版公司編写組がそれをもとに編集をして、わずか半年という短期間で出版されました。書名は、『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡迹』です(同書の目次は、このブログの8月16日の「『真相 海南島近現代史研究会海南島 17 年(27 次)調査足跡』詳細目次」をみてください)。

■主題報告
 南海出版公司から編集担当者をはじめとする15人のメンバーが、その新刊書を携えて来日し、きょう(8月23日)開催された海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会総会(主題:「17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと」)に参加しました。

 はじめに会の佐藤正人さんが主題報告を行いました。そこで佐藤さんはつぎのように話しました(佐藤さんの報告要旨は、このブログの8月22日の「「朝鮮村」・月塘村・長仙聯村・沙土・旦場村……」をみてください)。
   「わたしたちが海南島で聞き取りをするときの最大の問題は、現地の言葉(黎語、
   苗語、海南語、臨高語……)をほとんどわからないことだ。しかし、海南語にかん
   しては、この問題を乗り越える大きな出会いがあった。海南島で会の活動を深く
   理解して通訳を引き受けてくれるふたりの協力者と偶然に出会った。
    証言者は、日本から来た質問者にたいしてというよりも、海南島人である通訳者
   に向かって語る。それが聞き取りの内容を深いものにする。
    海南島で日本軍・日本企業が殺害した人の名を確かめることは、基本的な課題で
   ある。海南島には、日本軍に殺害された犠牲者の名を刻んだ碑があるが、多くはな
   い。しかも、これらの碑はそれぞれの村人が建立した碑で、政府機関が犠牲者の名
   を調査し、その名を刻んだ碑を建立していない。
    犠牲者、遺族、目撃者が高齢となっているいま、聞きとりを組織的に急いで進め
   記録しなければならない。この17年間のあいだに出会った多くの人が亡くなり、聞
   き取りの機会がますます失われ、聞き取りが困難になっている。
    聞き取りをしていると、村の人から“なぜ、何のために聞き取りをするのか”、
   と聞かれる。事実を明らかにして、日本政府に責任をとらせるためだ、と答えるが、
   それがなかなか進まない。
    海南島における日本の侵略犯罪は、19世紀後半にアイヌモシリ、琉球を植民地と
   した日本国家の他地域他国侵略史のなかで解明すべきである。その侵略史は、1945
   年に終わっていない。20世紀末の1999年の国旗国歌法、周辺事態法などを契機とし
   て、現在、新たな日本国家の侵略の時代が始まりつつある。
    海南島で刊行された『真相』は、中国の政府機関によって「抗日戦争勝利・反フ
   ァシスト戦争勝利70周年重点図書」に指定されている。中国人にとっては、2015年
   は抗日戦争勝利70周年であろうが、日本人にとっては、日本の他地域他国侵略阻止
   70周年ではない。1945年の70年後、日本国家は、他地域他国軍事侵略の政治・軍事・
   文化的体制の再編成をすすめている。
    そのような日本国家に抗して、日本民衆がさらなる抗日闘争を強めていくことに
   よって、日本民衆はアジアの民衆との連帯が可能になるのではないか。海南島での
   聞き取りと責任追及の活動は、そのような抗日闘争の一環である」。

 つぎに、2010年から共に「現地調査」をつづけてきた海南島人の邢越(シン ユエ)さんがつぎのような報告をしました。このブログの8月18日の「日本侵略犯罪歴史的可掩盖性和無可抹滅性」をみてください。
   「日本による海南島での大虐殺はさまざまなかたちで行われた。村を飛行機で爆撃し、
   その後村を襲撃して、住民を無差別に殺害した。山に逃げた人は食糧がなくて餓死し
   たり、マラリアなどの流行病にかかって病死した。とくに高齢者や乳幼児は病気の
   抵抗力がなくて死んでしまう。鉱山労働や道路建設に駆りだされた人は殴られたり
   銃で撃たれたり銃剣で刺されて死んだ。
    日本軍の工事のために海南島だけでなく、広東省、香港、台湾、朝鮮の各地から
   多くの人が連行され、病気や飢餓や虐待で亡くなったが、これらの人の遺体は捨て
   られ、いまだに遺骨の所在も死者の数も分からないままである。当時の海南島の
   200万人の人口のうち20万人が亡くなったと思われる。これは海南島のこれまでの
   歴史のなかで、もっとも死者の多かった時期だと言える。
    ところが、これほどの重大犯罪が、様々な理由で隠蔽され、その痕跡が見えない
   ようにされている。その理由のひとつは、1945年に日本軍が撤退した後、共産党と
   国民党の内戦のために社会が混乱に陥り、日本の侵略犯罪を調査する機会が奪われ
   たことである、さらに、共産党政権樹立後、文化大革命の混乱、さらにそれに続く
   開放経済体制下の開発政策が進められる中で、侵略犯罪の証拠となるさまざまな遺
   跡がきちんと保存されることなく破壊されてしまった。日本軍が作った鉄橋の脚は
   砂が崩れて崩壊し、八所の港湾建設でおびただしい数の犠牲者が出た場所に建立さ
   れた記念碑は、不動産開発のために破壊された。監獄などの遺跡は場所を移動させ
   られた。目に見える遺跡が少なくなった時、この重大な犯罪の事実を子どもたちに
   伝えるのは困難になる。
    しかし、日本の犯した犯罪行為を完全に隠しきることはできない。各地の村には
   村人が犠牲者の名前を刻んだ追悼碑が建立されている。そして新たに犠牲者の数を
   調べ、記念碑を作ろうとする動きが出ている。月塘村、旦場村、石馬村などで犠牲
   者の名前を刻んだ追悼碑が建てられ、あるいは建てられようとしている。自分たち
   の辛くて悲しい体験を長歌にして記録し伝える村もある。辛い記憶をかたちにする
   運動を通して、日本の侵略犯罪が顕わになってくる」。

 続いて、南海出版公司編写組から張媛(チャン ユアン)さん、何怡欣(ホ イシン)さん、呉雪(ウ シュエ)さんが報告し、そのなかで次のように話しました(3人の報告要旨は、このブログの8月17日の「南海出版公司編写組の3人の報告要旨」をみてください)。
   「昨年秋と今年春、「現地調査」に参加する中で、日本の海南島侵略の歴史をさら
   に追及しようと考えるようになった。
    研究会の二回の調査活動に参加する中で、南海出版公司編写組が、撮った写真は
   3000枚、撮影した時間は100時間、記録した文字数は2万字を越えた。過去の歴史の
   真相を明らかにする仕事の大切さと同時に、この作業の難しさも感じた。
    戦争の経験のない者が、現地での聞き取りの活動に参加して、日本軍のやったこ
   とを具体的に聞き取りを通してこの目と耳で確認したとき、はじめて日本軍が何を
   したのかを理解することができた。この本は研究会の活動を広く知らせ、多くの人
   に勇気を与えてくれる」。

■全体討論
 主題報告の後で、会場の参加者から発言を受けました。
 参加者の皆さんは、それぞれが主体的にさまざまな社会運動や研究活動に取り組んでいて、自分の運動や研究とのかかわりでの発言が目立ちました。
 現在争点となっている戦争法案反対の運動に取り組んでいる人は、
   「現在が戦争体制に入りつつあるときに、かつての戦争で何があったのかを知って、
   過去に対する責任を持つことが大切だ。その歴史をしっかりと知ることを通して、
   南海出版社の皆さんとこのようなかたちで、民衆レベルでつながることの大切さを
   感じる」
と話しました。
 奈良で脱原発の運動に取り組んでいる女性は、
   「安倍首相の談話は日本の将来世代の歴史的責任をうやむやにしようとしているが、
   歴史をきちんと見据える必要がある。その意味でこの集会の意義は大きい」
と話しました。
  「慰安婦問題に取り組んでいる」と自己紹介した参加者からは、「海南島の虐殺についてはまったく知らなかった。短期間で研究会の活動を本にまとめた南海出版会社の若い編集委員のエネルギーに感動した。このエネルギーを、戦争を止める力にしたい」という発言をうけました。
 パレスチナでオリーブの植樹の支援運動をしている参加者は、
   「研究会の活動を本にしていただいたことに対して南海出版会社に感謝したい。今
   日このような集会で、日本の侵略について出版社の皆さんとともに考えることがで
   きてうれしい。
    死者の名前を明らかにすることは侵略責任を果たす重要な作業で、今後とも南海
   出版社と共に持続的な協力体制をとっていきたい。そしてそれが日本の戦争を阻止
   する力になればよいと思う」
と話しました。
 アイヌ民族と連帯する会の方からは、アイヌ民族の遺骨の返還を北大や京大に要求している運動と海南島との関わりについて、つぎのような発言がありました。
   「戦前に日本の人類学者は軍隊の侵略に先立って、研究という名目でアジアの他地
   域に侵入し遺骨を盗掘したり調査を行っていて、琉球民族の遺骨の発掘、台湾の
   ‘霧社事件’のときに犠牲になった先住民の遺骨の発掘などを進め、さらに海南島
   でも黎族などの先住民の遺骨の発掘や名前の調査や体力調査を実施して、日本軍の
   労働力として彼らを動員するための調査活動を進めた。海南島では金関丈夫という
   人類学者などが海軍に協力してこの調査を進めている。アイヌの遺骨については、
   京都大学に返還を求めて昨年話し合いをしようとしたが拒否された」。
 海南島の農業について研究している中国の留学生は、
   「当時の海南島は農業の開発のために日本の技術が大きな役割を果たした。台湾総
   督府が日本の南進政策に基づいて台湾から軍人や警察官だけでなく、農業技術者も
   派遣し、海南島の農業開発に貢献した。住民虐殺は悪いことだが、同時に開発の側
   面もあることを見る必要がある」
と発言しました。
 また同じく海南島の近現代史研究に取り組んでいる海南島出身の留学生からは、「日本の海南島における軍事占領を解明するためには、台湾に重要な資料があるのでそれを活用すべきではないか」との意見が出されました。
 「日本人は軍事占領で殺された犠牲者の視点から戦争に反対するのではなく、自分たちの利益だけを考え、日本人だけが平和であればよいと考えている。だから、自民党は倒れないし、戦争がもう一度行われることになる」という、現在の戦争法案に反対する日本人の運動を海南島の住民虐殺の視点から批判する意見も出されました。
 海南島近現代史研究会の運動がさまざまな民衆運動とつながり、民衆運動のネットワークを強め、民衆の歴史認識を深めていく重要な意義を持っていることが、これらの発言に示されていると思いました。

 参加者全員での討論のあと、金靜美(キㇺ チョンミ)さんが、ことし春に、海南島の旦場村、旦場園村、英顕村、海頭鎮、松涛村、長田村、腰子村、大良田村、尖石村、南坤鎮、西昌鎮、大同村、龍門鎮、老王村、金牛流坑村、林村村、大府村、東郊鎮、上苑村、龍湖鎮、南福嶺村、南曲村、大水村、土卜村、儒東村、純雅村、常樹村、長嶺村などを訪ねたときのことを、写真を上映しながらで報告しました。
 会場には、写真パネルを展示しました(このブログの8月20日の「海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会で展示する写真パネル」をみてください)。

                                   斉藤日出治
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