1945年5月2日に、襲ってきた日本兵に銃撃されたり銃剣で刺されたりしながらも、30人あまりの村人は命をとりとめました。
そのうち、いまもご健在の方は15人です。
わたしたちは、台湾に住んでいる朱開巻さんと広東省湛江に住んでいる朱開其さん以外の13人の方(朱進春さん、朱学超さん、朱建華さん、朱光清さん、崔金蘭さん、朱秀花さん、朱開琨さん、朱深根さん、朱五弟さん、李家和さん、李建栄さん、李全冶さん、李玉菊さん)すべてから、話を聞かせていただきました。
10月10日午後、わたしたちは、朱学基さんに、月塘村の1945年当時の中心部を通って、その近くの崔金蘭さんの家を訪問しました。崔金蘭さんは84歳で、腰の調子がよくないと言っていましたが、声に力がありお元気そうでした。崔金蘭さんは、つぎのように話しました。
佐藤正人
「朝、9時ころだった。わたしは家の入り口にいた。日本兵は、
わたしを見つけ、すぐに銃で撃った。左足のももと、下腹部と、
左肩の3か所撃たれた。わたしは気を失った。
わたしの夫の妹は、台所に隠れたので、日本軍に見つからな
かった。再び日本軍が来たとき、わたしは、すこし目覚めはじ
めていた。夫の妹は、わたしに、声を出さないでと言った。
そのとき、夫の妹が、日本軍にみつかって、殺された。夫の
妹は20歳あまりで、名前は朱興妹。
日本兵がわたしの家を出ていったあとも、銃の音がいつまで
も聞こえた。とても怖かった。
あのとき、夫の母は、隣の家に遊びに行っていて、そこで殺
された。男たちは、作物が取られないように見張りするために
畑に行っていた。
日本兵に村人がたくさん殺されたあと、すぐに激しい雨が降
った。わたしの家の庭いちめんに、血が流れた。
夫が戻ってきて、わたしを介抱してくれた。下腹部を撃たれ
たが、そのあと子どもが3人生まれた。
わたしを殺そうとした日本鬼子は、もしいま見つけたら、す
ぐに刀で刺して復讐したい」。
そのうち、いまもご健在の方は15人です。
わたしたちは、台湾に住んでいる朱開巻さんと広東省湛江に住んでいる朱開其さん以外の13人の方(朱進春さん、朱学超さん、朱建華さん、朱光清さん、崔金蘭さん、朱秀花さん、朱開琨さん、朱深根さん、朱五弟さん、李家和さん、李建栄さん、李全冶さん、李玉菊さん)すべてから、話を聞かせていただきました。
10月10日午後、わたしたちは、朱学基さんに、月塘村の1945年当時の中心部を通って、その近くの崔金蘭さんの家を訪問しました。崔金蘭さんは84歳で、腰の調子がよくないと言っていましたが、声に力がありお元気そうでした。崔金蘭さんは、つぎのように話しました。
佐藤正人
「朝、9時ころだった。わたしは家の入り口にいた。日本兵は、
わたしを見つけ、すぐに銃で撃った。左足のももと、下腹部と、
左肩の3か所撃たれた。わたしは気を失った。
わたしの夫の妹は、台所に隠れたので、日本軍に見つからな
かった。再び日本軍が来たとき、わたしは、すこし目覚めはじ
めていた。夫の妹は、わたしに、声を出さないでと言った。
そのとき、夫の妹が、日本軍にみつかって、殺された。夫の
妹は20歳あまりで、名前は朱興妹。
日本兵がわたしの家を出ていったあとも、銃の音がいつまで
も聞こえた。とても怖かった。
あのとき、夫の母は、隣の家に遊びに行っていて、そこで殺
された。男たちは、作物が取られないように見張りするために
畑に行っていた。
日本兵に村人がたくさん殺されたあと、すぐに激しい雨が降
った。わたしの家の庭いちめんに、血が流れた。
夫が戻ってきて、わたしを介抱してくれた。下腹部を撃たれ
たが、そのあと子どもが3人生まれた。
わたしを殺そうとした日本鬼子は、もしいま見つけたら、す
ぐに刀で刺して復讐したい」。