三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

月塘村で 9

2007年11月30日 | 月塘村
 1945年5月2日に、襲ってきた日本兵に銃撃されたり銃剣で刺されたりしながらも、30人あまりの村人は命をとりとめました。
 そのうち、いまもご健在の方は15人です。
 わたしたちは、台湾に住んでいる朱開巻さんと広東省湛江に住んでいる朱開其さん以外の13人の方(朱進春さん、朱学超さん、朱建華さん、朱光清さん、崔金蘭さん、朱秀花さん、朱開琨さん、朱深根さん、朱五弟さん、李家和さん、李建栄さん、李全冶さん、李玉菊さん)すべてから、話を聞かせていただきました。

 10月10日午後、わたしたちは、朱学基さんに、月塘村の1945年当時の中心部を通って、その近くの崔金蘭さんの家を訪問しました。崔金蘭さんは84歳で、腰の調子がよくないと言っていましたが、声に力がありお元気そうでした。崔金蘭さんは、つぎのように話しました。
                                     佐藤正人

    「朝、9時ころだった。わたしは家の入り口にいた。日本兵は、
   わたしを見つけ、すぐに銃で撃った。左足のももと、下腹部と、
   左肩の3か所撃たれた。わたしは気を失った。
    わたしの夫の妹は、台所に隠れたので、日本軍に見つからな
   かった。再び日本軍が来たとき、わたしは、すこし目覚めはじ
   めていた。夫の妹は、わたしに、声を出さないでと言った。
    そのとき、夫の妹が、日本軍にみつかって、殺された。夫の
   妹は20歳あまりで、名前は朱興妹。
    日本兵がわたしの家を出ていったあとも、銃の音がいつまで
   も聞こえた。とても怖かった。
    あのとき、夫の母は、隣の家に遊びに行っていて、そこで殺
   された。男たちは、作物が取られないように見張りするために
   畑に行っていた。
    日本兵に村人がたくさん殺されたあと、すぐに激しい雨が降
   った。わたしの家の庭いちめんに、血が流れた。
    夫が戻ってきて、わたしを介抱してくれた。下腹部を撃たれ
   たが、そのあと子どもが3人生まれた。
    わたしを殺そうとした日本鬼子は、もしいま見つけたら、す
   ぐに刀で刺して復讐したい」。
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『会報』を発行しました

2007年11月21日 | 『会報』
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』47号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』2号の合併号を11月8日に発行しました。
 目次は次のとおりです。

1頁 追悼碑写真
2頁 熊野市への要望書
3頁 「熊野市の話し合いの拒否に強く抗議する」
4頁 佐山和子「この運動に初めて参加して」
6頁 チェムンジャ・キムチョンミ「ヨ チャボンさんの証言」
8頁 足立正生「写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』を読
  んで 歴史再考の旅立ちへ誘われる」
9頁 斎藤日出治「海南島報告」
10頁 斉藤日出治「海南島近現代史研究会が創立されました」
11頁 ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨
  日のこと』紹介
    写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』紹介
    冊子『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷
  化 抗日反日闘争』紹介
12頁 ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』紹介
    ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』紹介
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李基允氏と相度氏の追悼集会のご案内

2007年11月17日 | 木本事件

 と き:2007年11月23日(金) 午後3時 開会
 ところ:李基允氏と相度氏の追悼碑前(木本トンネル熊野市側入
    り口)       (JR熊野駅から尾鷲方面に徒歩8分)
  追悼集会と合わせて、パネル展、ドキュメンタリー上映会、紀州
   鉱山「現地調査」などをおこないます。
  場所は、熊野市民会館1階ラウンジです。(熊野駅から尾鷲方面
   に徒歩3分)
 ●「パネル展」 11月23日(金)~24日(土)    
     「木本事件」、「大逆事件」に関する写真パネルなどを展示し
     ます。
 ●ドキュメンタリー上映会
   とき:11月23日(金) 午後1時~2時40分 
        24日(土) 午後1時~5時
    上映ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で ―60年まえ
             は昨日のこと―』、『“朝鮮報国隊”』、
             『海南島月塘村虐殺』
 ●紀州鉱山「現地調査」 11月24日(土)午前9時~午後1時         参加希望の方は、午前9時に熊野市民会館にお集まりください。 

 ■追悼集会前日の22日に熊野市との話し合いを予定しています。
  みなさんの参加をお待ちしています。 
  11月22日午後2時に、熊野市役所前に集まってください。

 <宿泊と交流会のご案内>
 宿泊先は、民宿「しずか」(熊野市民会館の近く。
TEL 0597-89-1318))です。
 民宿「しずか」で23日午後7時から「交流会」を行います。
 (宿泊を希望される方は、下記連絡先に申し込み下さい。
1泊2食付 5,500円です。)

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏と相度氏)の追悼碑を建立する会
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月塘村で 8

2007年11月08日 | 月塘村
 11月6日、朱学平さんといっしょに、62年前の1945年5月2日に朱学平さんが、瀕死の妹、朱彩蓮さんを抱いて歩いた道をたどりました。
 月塘村の南を西から東に流れる太陽河の左岸沿いの道を2キロメートルほどさかのぼった所で、朱学平さんは立ち止まりました。そのあたりが、朱彩蓮さんを運んできたところだとのことでした。
 その場所で、朱学平さんは、つぎのように話しました。

   「あのとき、母が殺された部屋に座り続けて涙が出てこなくなる
   ほど泣いていると、年寄りが、泣いていてもしかたがない、妹を
   背負って別の人について早く逃げろと言った。
    妹を抱いて、前を走っていく人について、逃げた。妹が痛いと
   いうと、いったん下におろし、また抱えて走るようにして逃げ
   た。雨が降りそうになったので急いだ。
    ここまで逃げてきて隠れた。ここには100人あまりが隠れた。
    あの日、午後3時ころだったと思うが、大雨が降った。夜には
   止んだ。
    ここには、すぐには食べるものがなかったが、まもなくさつ
   まいもを探して掘って煮て食べた。鍋は、‘坡’に住んでいた
   人に借りた。水は太陽河から汲んできた。
    妹は、3日後に死んだ。妹は、なにも食べようとしないで、水
   だけ飲んで死んでしまった。妹は、ただ、痛い、痛いと言って、
   水だけを欲しがった。
    痛い、痛いと言い続け、かすかに目を閉じ、死んでしまった。
    妹のからだは、年寄りに助けてもらって近くに埋めた。いまで
   は、どこなのかはっきりしない。
    叔父(朱洪昆)が日本兵に10か所あまり刺された。からだに虫
   がわいて、何日もたたないうちに死んだ」。

 こう話したあと、朱学平さんは、樹と草の茂みに入って行きました。そして、声をあげて泣きながらら、
    
   「ナグゥサン(ひどい)、ナグゥサン。思い出す。悲しい。ホレン
   (可怜)。食べるものも着るものもなかった。土の上に麻の袋を
   敷いて、蓑をかけて寝た。
    ナグゥサン、ナグゥサン。ここで何か月も暮らした。捨てられて
   いるサツマイモのくずを探して食べた。ひとりで何年も暮らした。
   怖かった。思い出すと涙がでてくる。
    60年あまりが過ぎた。あのとき死ななかったのは運がよかっ
   た。
    母が刺されたとき、わたしは柱にもたれて気を失っていた。そ
   れで日本兵はわたしが死んだと思ったのだ」
と語りました。

 岩場の多い太陽河が、逆光で光って流れていました。月塘村も「坡」も太陽河の北側です。
 帰りには、太陽河の川辺にでて下流に進んですこし歩きました。銀白色のススキが風に大きく揺れていました。
 夕方、借りていた帽子をかえしに、朱学平さんの家に行きました。朱学平さんは不在でした。連れ合いさんが、“午後、「坡」から戻ってから、夫はずっと泣いていた”、と話しました。

 きのう(11月7日)の夕方、李家和さんに自宅で話を聞かせてもらったあと、そこから近い朱学平さんの畑に行ってみました。ちょうど朱学平さんが水桶を天秤をかついて帰ろうとしているところでした。
 朱学平さんは、父(朱開廉)も日本兵に殺されたと話しました。
 夜、朱学基さんが書いたことし10月10日付けの「簡介日本侵略軍殺害月塘村民情況」を見ると、「1940年11月28日朱開廉去東澳買魚被日寇開槍撃死在東澳坡」(1940年11月28日に朱開廉は、東澳に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれ、東澳の坡で死んだ)と書かれてありました。

             ※朱学平さんについては、このブログのことし
              2月1日の書きこみ、写真集『日本の海南島侵
              略と抗日反日闘争』18頁、三重県木本で虐殺
              された朝鮮人労働者(李基允、相度)の追
              悼碑を建立する会『会報』45号13頁を見てく
              ださい。
                                  佐藤正人
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