三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

李白洛さん 1

2010年04月30日 | 紀州鉱山
 4月27日に、大邱市内の自宅で、李炳植さんから話を聞かせてもらうことができました。
 李炳植さんは、李白洛さんの息子さんです。
 李白洛さん(1913年3月23日生)は、慶尚北道軍威郡軍威面鈒嶺洞から、1944年5月7日に、紀州鉱山に強制連行されていました。
 1946年9月ころ石原産業が三重県内務部に提出した紀州鉱山の朝鮮人にかんする文書(これをわたしたちは、「紀州鉱山1946年報告書」とよんでいます)の71面には、
   「永田白洛 軍威郡軍威面鈒嶺洞 運搬夫」、
   「退所後の処遇 慰労金・退職手当・帰国旅費」、
   「一九四五、一二、二四 終戦ニ依リ帰国」(原文は「元号」使用)
と、「永田白洛」さんが、1945年12月24日に、慰労金と退職手当と帰国旅費を石原産業から受けとって帰国したかのように書かれています。
 しかし、李白洛さんは、1945年6月29日に、紀州鉱山で亡くなっていました。
 李炳植さんに見せていただいたさんの戸籍簿には、日本語で、
   「一九四五年六月弐拾九日午前四時参拾分三重県南牟婁郡入鹿村大字大河内五百六拾四番地ニ於テ死亡
    同居者金田開夫届出同年七月参拾日受附」(原文は「元号」使用)
と書かれていました。 
                                        佐藤正人
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「朝鮮人犠牲者の追悼碑建立 三重・紀州鉱山」

2010年04月29日 | 紀州鉱山
『朝鮮新報』(2010年4月28日号)の記事です。

■朝鮮人犠牲者の追悼碑建立 三重・紀州鉱山
 地元市民団体、調査続け13年

 日本の植民地支配時代に強制連行され三重県旧紀和町(現熊野市)の紀州鉱山で働かされ犠牲となった朝鮮人を追悼する碑が鉱山跡地近くに建立された。
 紀州鉱山では、1940年から45年までに1300人以上の朝鮮人が強制連行され働かされた。ストライキなどの抵抗があったことも伝えられている。これまで35人の犠牲者が判明しており、本籍地が明らかなのは6人。ほとんどが創氏改名によって本名がわからないという。
 碑は、13年前から調査を続けてきた地元の市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が総連、民団両県本部とともに「碑を建立する会」を設立し、市民の募金などで購入した敷地に建てられた。熊野市の協力が得られなかったため、私有地に建てざるをえなかったという。
 碑のプレートには「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった幼い子たち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史的責任を追及していきます」と刻まれている。
 碑の前には、死亡が確認された35人の犠牲者の名が記された同数の石が置かれている。今後の調査で新たな犠牲者が見つかれば石を加えるという。
 3月28日に行われた除幕式には、同胞や日本市民ら100人以上が参列。石に花を手向け犠牲者を追悼した。式では、被害者や遺族らのメッセージが読み上げられた。
 その後、行われた集会では、追悼のあり方、真相調査、責任追及など今後の課題が話し合われた。
 
 【写真】市民の協力で建立された追悼碑
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韓錫さん 1

2010年04月28日 | 「朝鮮報国隊」
 きょう(4月28日)、ソウルで、韓錫さんの妻の李康姫さんと息子の韓光洙さんに話を聞かせてもらうことができました。
 韓錫さん(1922年12月5日生)は、1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され、南東部の陵水で亡くなられていました。
 韓錫さんの古い戸籍簿には、
     「1944年弐月拾七日午後五時海南島陵水朝鮮報国隊ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡邉豊通報
    同年参月参拾壱日受付」(原文は元号使用)
と日本語で書かれています。
                                       佐藤正人
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大阪人権博物館で上映会

2010年04月21日 | 上映会
 ことし7月30日、7月30日、8月1日の3日間、午後から、大阪人権博物館(りばてぃおおさか)で、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』、紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『「朝鮮報国隊」』、海南島近現代史研究会制作『海南島月塘村虐殺』の3本のドキュメンタリーの上映会を開きます(主催:海南島近現代史研究会・紀州鉱山の真実を明らかにする会)。
 場所は、大阪人権博物館のセミナー室です(定員は60人です)。
 大阪人権博物館の入館料は250円ですが、上映会のみに参加する場合には入館料はいりません。
 このブログに2009年5月3日から10回連載した「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」などをみてください。
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李鐘哲領事のあいさつ

2010年04月20日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会に参加した駐名古屋韓国総領事館李鐘哲領事のあいさつ(기주광산 순직 조선인 추모비 제막 연설문 의레적인 인사말)です。

 오늘 기주광산에서 일본 제국주의자들에 의해 강제연행되어 노동하다가 사망하신 조선인들을 추모하기위한 추모비 제막식을 맞아 참석해 주신 여러분들게 감사의 말씀을 올립니다.특히 본 추모비 제막을 위하여 그동안 힘써주신 ‘’기주광산의 진실을 밝히는 회’’의 김정미 회장님을 비룻한 여러 관련단체 임원여러분들께도 감사드립니다.
 저도 사실 교과서를 통해서 일제에 의한 강제징용으로 많은 우리 동포들이 고통받고 또 사망한 사실을 알고 있었습니다만 이렇게 광산현장에 직접와서 보니 그분들의 고통이 얼마나 컸을까 하는 생각이 듭니다. 여기 이곳 기주광산에서 1,300명이 넘는 동포들이 고생하다가 35명이 사망하였다는 사실 하나만으로도 그당시 일제가 얼마나 많은 우리동포들에게 고통을 주었는지 실감하고 있습니다.
 오늘 여기서 돌아가신 분들을 위한 추모비를 제막함으로서 비록 60여년이 흘렀지만 그분들의 명복을 빌고자 합니다. 이것은 또한 일본에 거주하는 우리 대한민국 동포들이 자발적으로 자금을 모아 추모비를 제막함으로서 대한민국국민의 자긍심을 느끼게 합니다. 비록 이분들은 고통속에 돌아가셨지만 지금의 대한민국의 위상이 높아져서 일본과 어깨를 나란히 할 정도로 세계속의 대한민국으로 발전하였다는 것을 아신다면 하늘에서나마 기뻐하실것으로 믿어 의심치 않습니다.
 대한민국은 날이 갈수록 발전하고 있습니다. 일부 분야에서는 일본의 기술력을 넘어서는 분야도 있을 정도로 그 성장세가 놀랍습니다. 불과 몇십년만에 서계 최초로 원조를 받는 나라에서 원조를 주는 나라로 발전하였습니다.이것은 전세계에 있는 우리 동포여러분들이 대한민국이 어려울 때 큰 도움을 주셨기 때문이라는 것을 잘 알고 있습니다. 특히, 여기에 계시는 우리 동포여러분들은 특유의 애국심으로 여러면에서 지원해 주셨고 그 고마움을 잊지 않고 있습니다.
 이제 오늘 고통속에서 순직하신 영령들을 위한 추모비가 제막뒴으로서 그분들의 평화로운 안식과 명복을 빌수 있어서 후손으로서 마음속 깊이 자긍심을 느낍니다.다시한번 오늘 추모비 제막을 위해 힘써 주신 여러분들게 감사의 말씀을 드리며 인사에 대신합니다.
 감사합니다.

【訳文】
 本日、紀州鉱山で日本帝国主義者により強制連行され、労働中に亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕式に御参加いただきました皆様に心から感謝の意を表します。特に本碑の除幕のために努めていただきました“紀州鉱山の真実を明らかにする会”の金チョンミ会長様をはじめ関係者の皆様に感謝申し上げます。
 私は実は、教科書を通じて日本帝国の強制徴用によりたくさんのわが同胞が苦しみ、そして亡くなったことは存じておりましたが、このように鉱山現場に来て直接自分の目で見ますと、亡くなった方々がどんなに苦しんだかがよく伝わって来ます。ここ紀州鉱山で1,300人を超える同胞たちが苦労ばかりさせられ35人の方が亡くなったその事実一つだけでも、その当時日本帝国が数多くのわが同胞たちにどんなに苦しい思いをさせたのかしみじみと実感できます。
 60余年の時は経ちましたが、本日、ここで亡くなった方々を追悼する碑を除幕することで、亡くなった方々の冥福をお祈りしたいと思います。日本に居住しているわが国、大韓民国の同胞達が自発的に資金を集め、碑を除幕することとなったことは、大韓民国の国民として誇らしく存じます。たとえ苦しみの中で亡くなられたとしても、今は大韓民国の位相が高くなり日本と肩を並べるほどで、世界の中での大韓民国の発展ぶりをご覧になり、天国で喜んでくださっていることと存じます。
 大韓民国は日増しに発展しております。一部の分野では日本の技術を超えるほどで、その成長ぶりには驚きます。ほんの何十年で、世界最初に援助を受けた国から援助を与える国へと発展しました。これは全世界におられる我が同胞の皆様が大韓民国が貧しい時に大変なお力添えを頂いたお陰だとよく存じております。特にここにいらっしゃる同胞の皆様は、皆様ならではの愛国心で多様な面でご支援いただき、その有難さは忘れておりません。
 本日、苦しみの中で殉職された英霊を追悼する碑が除幕されたことで、亡くなった方々の安らかな眠りと冥福をお祈りできたことを子孫として心から誇らしく思います。改めて本日の追悼碑の除幕のためお力添えをいただきました皆様に感謝の意を申し上げまして挨拶に代えさせていただきます。
 ありがとうございました。     
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申載永さんのあいさつ

2010年04月19日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会での在日本大韓民国民団三重県地方本部団長申載永さんのあいさつです。

 まず 本日このように追悼碑を完成させ、亡くなられた35名の同胞を偲ぶ序幕集会を開くことに尽力くださった「追悼する碑を建立する会」の関係者の皆様に、今日までの労苦とその努力に感謝の言葉を申し上げます。
 それと共に本日、日本各地から 又遠く韓国からお集まりくださった皆様に、そのご足労を感謝申し上げます。
 我々 大韓民国民団三重県本部は2008年よりこの会に参加して追悼碑を建立する一翼を担ってまいりましたが、実はそれ以前から紀州鉱山で亡くなられた同胞の遺骨にかかわって来ました。
 植民地時代には徴用令で多くの同胞が日本各地の炭鉱、土木現場、軍事施設に労務者として連行されました。劣悪な環境と強制労働のすえ死亡した彼らのうちの多くは無縁仏として放置されたままでした。
 民団では三重県下での遺骨収集を一年余りかけて実施し、今から30年前の1980年10月21日に韓国の国立墓地「望郷の丘」に76柱の無縁故佛を埋葬しました。
 30年前当時は一刻も早く亡くなられた方々の遺骨を故国に戻すことだけを使命と考えましたが、いま振り返りますと死因の調査や遺族探し、それに当時の企業の責任追及などが充分でなかったと悔やまれます。
 その点をふまえますと本日の除幕式は今後の活動の始まりであろうと考えざるを得ません。
 これからも残されている無縁仏の捜査、そして熊野市行政への資料公開要求、当事者企業への責任追及など、やるべきことが多いと思います。
 亡くなられた方々の思いに心を寄せ、その事実を明らかにし、歴史に刻んでいくことが必要だと思います。

 「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の皆さんは、15年前から現場調査や石原産業を訪ねる調査を続けて来ました。
 それと同時に生還者や遺族を何度も韓国に訪ね、聞き取り調査を積み重ねてきました。
韓国政府の「戦時強占下強制動員被害真相究明委員会」にも資料を提供くださいました。
会員の皆さんのたゆまない研究調査に敬意を表します。
 皆さんの研究が戦時中のアジアで一体何が行われたかという歴史的事実を発見することになると思います。
 民団も微力ですが共に参加し、紀州鉱山での真実を明らかにして行きたいと考えています。
 本日の追悼碑除幕式にあたり、以上の言葉を挨拶とさせていただきます。
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金成福さんのあいさつ

2010年04月18日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会での在日本朝鮮人総聯合会三重県本部副委員長金成福さんのあいさつです。 

 尊敬する御参席の皆様
 私は朝鮮総連三重県本部を代表して日帝植民地時代、朝鮮人強制連行と紀州鉱山において過酷な強制労働により亡くなられた35名の名前とその原因、遺骨問題の真相を解明し歴史的名誉の回復を図るため活動を積極的に繰り広げて来られた<紀州鉱山の真実を明らかにする会>の代表及び関係者の皆様に心より敬意と感謝の意を表します。
 私は紀州鉱山に1300人の朝鮮人が強制連行され過酷な労働と地獄のような生活を強要され35名が無残にも亡くなったこの事実が70年と言う長い歳月において解き明かされる事なく暗い闇の中に閉ざされて来た事に対し、また日本政府による戦後処理の歴史的、政治的回避に対し強い怒りを憶えざる負へません。
 私たちはこの集会を機に敗戦から65年、朝鮮人強制連行、強制労働の実態と遺骨問題の国家責任を回避する日本政府の姿勢を追及し一日も早い不幸な 過去の清算を実現するため広範な日本の皆様と頑張る決意を新たに致しました。
 私は最後にこのような不幸な歴史が二度と繰り返されないことを心から念じながら挨拶とさせていただきます。
 カムサハムニダ。
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「朝鮮人差別の墓石戻る」

2010年04月17日 | 木本事件
『毎日新聞』(熊野版 2010年4月15日号)の記事です。

■朝鮮人差別の墓石戻る
 熊野
 1926年に木本町(現熊野市木本町)で亡くなり、差別的な文字が刻まれた朝鮮人の墓石2基が14日、大阪市浪速区の大阪人権博物館から熊野市木本町の極楽寺に戻った。墓石側面には朝鮮人を差別する「鮮人」の文字があり、同寺の足立知典住職(41)や関係者は、墓石を人権教育のために役立てる。 【汐崎信之】
 墓石は土木作業に来ていた朝鮮人労働者たちと住民たちが衝突した「木本事件」で犠牲となった2人をまつる2基で、朝鮮名でなく日本名が刻まれ、極楽寺に安置されていた。日本が植民地支配のため朝鮮人に日本式氏名への改名を進めた創氏改名以前の貴重な資料として、博物館が95年から展示し、寺には代わりにレプリカを置いていた。
 同博物館の文公輝主任学芸員は「墓石の名前は2人が働いていた作業現場で会社側が便宜上、付けていた名前ではないか」とみている。
 墓石が戻るきっかけは07年9月に尾鷲市の小学6年生が学習に来た際、足立住職に「どうして本物がないの」と語った素朴な疑問。足立住職は「本物が地元にあることが教育のためになる」と同11月に大阪人権博物館に返還を求めていた。
 この日は、関係者ら8人が参加し博物館の乗用車で運んだ墓石とレプリカを入れ替えた。

 【写真】大阪人権博物館から戻ってきた墓石の設置作業をする足立住職(奥)や文主任学芸員(手前中央)ら=熊野市で
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「朝鮮人の墓石、極楽寺に戻る」 

2010年04月16日 | 木本事件
『紀南新聞』(2010年4月16日号)の記事です。

■木本事件と差別伝える資料
 朝鮮人の墓石、極楽寺に戻る
 大阪の人権施設から再移設
 朝鮮人に対する民族差別の資料として大阪府浪速区の大阪人権博物館に展示していた2人の朝鮮人、イ・ギユンさんとペ・サンド)さんの墓石が14日、元あった熊野市木本町の極楽寺(足立知典住職)に約15年ぶりに戻された。同博物館の主任学芸員・文公輝さんは「展示資料の中でも、見学者の目を引いたものの1つ。本来あるべき場所で、差別の実態を広く知ってもらうことにつながれば」などと話していた。
 2人は、1926年に木本町(現・熊野市)で発生した木本事件で住民に殺害され、その後、2人の雇い主が墓石を作ったものの、6文字あるべき戒名(かいみょう)が4文字しかなく、日本式の氏名の前に「鮮人」と書かれているなど、差別的な内容になっていた。
 今回、同寺に毎年、尾鷲市の小学生が人権学習に訪れていることから、足立住職が関係者と相談して寺に戻すことに決めた。14日、同事件を調査する市民団体「三重県木本町で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」の金靜美代表ら8人が寺を訪れ、レプリカを取り除いた後、墓石を安置し直した。2つの石が真正面を向いて並ぶよう、位置を調整しながら土の上に置き、玉砂利で周囲を固めた。
 墓石はもともと、同寺の無縁墓地の中に離れ離れに置かれていたのを同会関係者らが発見し、足立住職の好意で墓所の一角に石碑とともにまつられていた。1995年に同博物館の展示資料として移され、レプリカを置いていた。文さんは「朝鮮人への差別を端的に示す資料として、見学の子どもたちの心を動かしていた」と話した。また、金代表は「この場所に現物のあることが、事件の実態を伝えることにつながる」と、安置した墓石を見つめていた。
 
 【写真】墓石を安置しなおす会員ら
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白いトックがふみにじられていた 敬洪さんの記憶から

2010年04月15日 | 木本事件
 あの日、わたしは姉とフロに行った。正月がくるというので、大きなフロに行こうといって、初めてフロ屋に行った。それまではフロ屋に行ったことはなく、家で体を洗っていた。
 フロを出て、姉の背におぶわれて家にもどる途中、ちょうど橋の上まで来たとき、ラッパの音が聞こえ、鉄砲の音が聞こえた。あたりはまだ暗くなりきっておらず、うす暗い感じだったような気がする。ラッパや鉄砲の音を聞いてわたしは、正月の行事がはじまったのかと思い、姉の背でよろこんで足をジタバタさせたことを覚えている。だが、すぐに、どこからか、
  「朝鮮人はあぶないから、みんな逃げろ」
という声が聞こえた。
 その晩は、姉と、お寺にかくれて夜を明かした。小さなお寺だったように思う。
 次の朝、ひもじくなって、家にもどった。
 住んでいたところは、メチャメチャになっていた。正月がくるというので作って、部屋につるしておいた細長い白いトックが、ちらばって、ふみにじられていた。家は大きなバラックだった。

 事件があったのは、おおみそかだった、と思う。いままで、ずっと、一二月三一日を父の命日として、チェサ(祭祀)をしてきた。いまもそうだけど、あの当時も事件のことはかくされていて、ほんとうは一二月三一日なんだけど、かくしきれなくなって、一月三日に発表したのではないかと思う。事件が一月三日になっているということは、金靜美さんの手紙や、当時の新聞を見て、昨年(一九八八年)一一月にはじめて知った。だが、わたしは、いまでも、事件があったのは、ほんとうは一二月三一日だったのではないか、と思っている。正月とか、なにか特別なことでもなかったら、はじめてフロに行くということはなかったと思う。
 それから二、三日あとに、オモニにつれられてお寺に行った。オモニが泣くのを見た。どうして泣くのかわからなかった。
 そこで、白い服を着た人らが、セメントのタルにおしこまれていた死体をひっぱり出して、板の上にのせて、ガーゼで顔をふき、あっちこっち包丁で切ったりしていた。死体は固くなっていたので、切るまえにのばしていた。遠くのほうから顔はみたけど、知らない顔だった。そばには近づけなかった。
 あとから考えると、わたしが長男だったから、立ち会わされたのではないかと思う。
 当時はオモニもだれも、アボヂが日本人に殺されたことは教えてくれなかった。
 オモニは、アボヂは現場長だった、と言っていた。
アボヂが殺されたときはなにも知らず泣かなかったが、オモニが死んだときは泣くだけ泣いた。一〇歳のときだった。姉は、わたしが七歳のときに死んだ。一三歳だった。オモニは三五歳で死んでしまった。オモニが死んだとき、わたしは他人の家にいた。オモニが死んだということを聞いて、走りとうして家に帰ったが、すでに埋葬されたあとで、ここが墓だといってつれていかれた。いまはもう、オモニの墓がどこにあるかわからない。知っている人もいなくなってしまった。
 オモニはいつも、「うらみをはらして(원수 갚아라)」と言っていた。当時は、そのことの意味はわからなかったが……。オモニは、アボヂが殺されたときのことを、わたしがもっと大きくなってから話そうとしていたのだと思う。そのまえに、亡くなってしまったのだろう。叔父(相度氏の弟、三度氏)は、事件についてひとことも話さなかった。
 姉の月淑は、栄養失調で、目が見えなくなって死んだ。姉もオモニもこころを痛めて死んだのだと思う。オモニは病気で死んだが、なんの病気かわからない。
 アボヂも、オモニも、姉も、写真は一枚もない。当時は、写真をとる金はなかった。朝鮮人は米が食えなかった。朝鮮の米は、ぜんぶ日本に持っていかれた。
 オモニが死んだあと何年かたって、かなり大きくなってから、しぜんと、アボヂが日本人に殺されたということがわかるようになった。そのことを知るのが遅くてよかった、といまは思っている。もっと早く知っていたら、日本人に憎しみをつのらせ、幼いときからもっと、もっと、苦しい思いをしたにちがいない。日本に墓石があるということは、去年(一九八八年)の一一月まで知らなかった。

 わたしは、戸籍のうえでは大阪で生まれたことになっているが、ほんとうは、三重県のどこかで生まれたらしい。正確な場所はわからない。木本では、朝鮮人の子供は、わたしひとりだった。だから、ひとりで遊んだ。トンボをとったり、コオロギをとったり。ホタルもいた。魚つりもしたように思う。竹馬にものって遊んだ。いつもひとりだった。姉は学校へ行っていた。
 一度、夏みかんを木からもいで食べたことがある。それをアボヂに見つかって、たたかれ、もう二度とするな、とひどくしかられた。アボヂのことで覚えているのはこれだけだ。顔は思いだせない。アボヂがいなくなってからいままで、こころの底から笑ったことは一度もない。

附記
 相度さんは妻金而敬さんと子どもたち、月淑さん(一〇歳)、敬洪さん(四歳)、良淑さん(二歳)とともに木本で暮らしていました。「事件」後、木本の朝鮮人労働者とその家族は、木本を強制的に追い出され、父を殺された相度さんの家族も釜山に帰りました。
 「事件」から六三年がたった一九八九年の四月、敬洪さんは、「事件」後はじめて木本を訪れました。ここに掲載した文章は、木本に入る前、敬洪さんがキムチョンミに話してくれた「事件」当時の、そして「事件」後の家族の記憶を日本語に訳したものです。
                                      キムチョンミ記 1989年4月
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