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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2011年秋 海南島で 3

2011年10月31日 | 海南島史研究
 きょう(10月31日)、瓊海市の“三・一”被難公塚で曹靖さんに話を聞かせてもらったあと、曹靖さんに案内されて長仙村に行きました。
 そのあと、月塘村に行きました。
                                佐藤正人
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2011年秋 海南島で 2

2011年10月30日 | 海南島史研究
 きょう(10月30日)、瓊海市長坡鎮楽古昌村と南宝村を訪ねました。
                            佐藤正人
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2011年秋 海南島で 1

2011年10月29日 | 海南島史研究
 きょう(10月29日)朝から、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては20回目、海南島近現代史研究会としては7回目の海南島「現地調査」をはじめました。
 文昌市錦山鎮排坑村を訪問したあと、文昌市東閣鎮金牛流坑村を訪問しました。農暦1942年3月6日(普通暦4月20日)に日本海軍海南警備府第15警備隊の部隊が村人72人虐殺した金牛流坑村では、幸存者の邢福虎さん(83歳)、符和如さん(83歳)、邢谷煌さん(77歳)に話を聞かせてもらうことができました。
                             佐藤正人
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李淵達さんの証言

2011年10月28日 | 紀州鉱山
 李淵達さん (1925年4月生)は、江原道平昌郡大和面から、1945年1月に、紀州鉱山に強制連行された。このとき、97人がいっしょに強制連行された。石原産業の「名簿」には、李淵達さんは、日本式の姓で記録されている。
 以下は、ことし(2011年)10月8日に、韓国江原道春川市郊外の自宅で李淵達さんから聞かせてもらった証言である。わたしたちは、1997年8月に平昌郡大和面を訪ねたが、李淵達さんは、 朝鮮戦争のあと、春川に移住していたので、そのときは会えなかった。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場にたいする課税に抗議する裁判で、被告熊野市は、“日本人も国民徴用令によって徴用されたのであり、朝鮮人と同じであった”と主張した。しかし、朝鮮人の強制連行と日本人の「徴用」とは、社会的歴史的条件も質も違うことである。
                                        キム チョンミ


 大和面からは、いっしょに10人が行った。
 強制だった。村の里長が行けといったら、行かないわけにはいかなかった。逃げるなんて、考えられなかった。
 大東亜戦争の時代だから、反対できない。行けという命令を聞かなければ、反逆者になる。しかたがない。生きていけなくなる。
 令状がきた。大和面長と大和面警察署長の名前だった。
 面長は韓国人、警察署長は日本人。令状には(宛名は)名前だけ書いてあった。それから3、4日たって行った。
 里長が‘差出’すれば、いかなければならない。里長が思い通りにする。
 里長にうまくすれば、行かなくてすむばあいもあった。
 里長、面長、郡長と‘差出’をして、引率者に引き渡す。各面で何人と、人数通りに‘差出’をして、引率者のところに連れていった。
 日本に行くことは知っていたが、紀州鉱山とは知らなかった。
 引率したのは日本人だった。いっしょに行ったのは、100人は超えていたと思う。
 紀州鉱山では、坑内で銅鉱石を掘り出す人もいるし、畑でしごとをする人もいた。
 わたしは、ハッパを仕掛ける手伝いや、石を掘り出したり、掘り出した石をクルマに積んで運び出したりするしごとをした。
 しごとは、朝7時から10時間。
 鉱山の近くに宿所があって、そこに食堂もあった。男ばかりだった。食事を作るのは、男も女もいた。そこの人で、ぜんぶ日本人だった。おにぎりや、‘うどんめし’といって乾かしたうどんをまぜためし、‘テドバク’といって、油を搾った豆かすをまぜためしを食べた。
 米軍の捕虜が100人くらいいた。
 監視をする人は日本人。捕虜がいる宿所の正門には、銃を持った軍人が立っていた。
 解放になって、しごとを、しなくなった。日本では、そのときは汽車もとまった。しばらくたって、故郷にもどった。
 もどってから、なぜわたしを行かせたのだといって、里長を殴った。おおぜいで、家族もいっしょになって殴った。里長は逃げて別のところで暮らしていたが、探し出した。
 里長は、大勢の村人に殴られて死んだ。ほかの村でも同じことがあったと、たくさん聞いた。みんな里長を恨んでいたのだ。
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2011年10月7日、江原道麟蹄で

2011年10月27日 | 紀州鉱山
 10月7日に、江原道麟蹄郡麒麟面を訪ね、丁乙權さんに会って裁判のことを報告し、丁榮さんと丁炳碩さんの墓参りをした。
 江原道議会の副議長である丁乙權さんは、紀州鉱山に強制連行された丁榮さんの孫である。三重県知事が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地に課税したことにたいする抗議文(「嘆願書」)を道議会議員一同が出すとき、中心になってくれた。

■丁炳碩さんの最後のことば
 丁榮さんの子息である丁炳碩さん(1936年12月生)は、昨年の追悼集会に来てくださったとき、
   「アボヂが亡くなったあと、チエサ(法事)のときには、麟蹄からアボヂといっしょに紀州鉱山に強制連行された方たちをお招きして、昔の話を聞いた。
    いまはその方たちもみんな亡くなってしまった」
と話していた。
 今年の追悼集会にも来ると話していた丁炳碩さんは、4月、体調に異変を感じて入院し、6月8日に亡くなられた。丁乙權さんは、「アボヂは入院後、毎日日記をつけていた」といって、その日記をみせてくれた。
 絶筆となった5月21日付の日記には、「裁判が勝利することを信じている」と書かれていた。そして最後に、「また会のみなさんと会い、固い握手をかわします。会いたい」と書かれていたが、その文字を消すかのように線が引かれていた。
 丁乙權さんは、アボヂはこのころ、もう日本には行けないとわかっていたのだろう、と話した。
 丁榮さん(1917年9月生)とは、1996年10月に佐藤正人が会い、その後、1997年5月にわたしも会の仲間といっしょにお会いした。丁榮さんはわたしたちがお会いした2年後の1999年5月に亡くなられた。

■丁榮さんと丁炳碩さんの旧家
 江原道麟蹄郡を38度線が横断している。
 朝鮮戦争休戦時に設定された「軍事境界線」によって韓国の行政区になった。
 丁榮さんの家の敷地を、38度線が通っていたという。解放後、紀州鉱山から故郷の麟蹄にもどった丁榮さんは、家族とともに、その家で朝鮮戦争を経験した(『会報』前号〈55号・10号〉の「丁榮さんと丁炳碩さん」を見てください)。
 丁乙權さんの案内でその家があった所にいった。ソヤンガン(昭陽江)上流の川に沿った、麟蹄と春川をむすぶ街道そばだった。近くに、丁炳碩さんと同じ年で幼馴染だった沈興奎さんが住んでいた。沈興奎さんは、
   「解放後、ソ連の兵隊が来て、家のすぐそばに‘38度線’と書いた木の標識を立てた。
   村人が、その標識を抜いて捨てると、また来て拾って立てた。
   なんども拾って立てるので、川の向こうに捨てた。
   そうすると、木ではない鉄板の標識を立てたので、村の人も抜くのをあきらめた。
   戦争が起きて、南に避難した」。
と話した。
 14歳で朝鮮戦争に参戦した丁炳碩さんが家に戻ったのは、1953年7月だった。
                                         キム チョンミ
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朝鮮人を追悼する碑の土地への不当課税にたいする裁判の報告 4

2011年10月26日 | 紀州鉱山
■裁判の経過 3
三 第一回口頭弁論(2011年8月4日)
(1)求釈明の申立
 第一回口頭弁論において、私たちは裁判提起の目的を説明すると同時に、熊野市にたいして証拠がいかにずさんであるかを問いただし、答弁のいい加減さを問い、三重県にたいしては、処分庁における手続に違法というべき虚偽の回答や教示義務違反があり、歴史的事実を無視して「不知」とすることは許されないことなど、熊野市と三重県にそれぞれ釈明を求めました。
(2)裁判長の指示
 この日、裁判長は、熊野市と三重県に課税の算定基礎を提出するよう指示し、次回の口頭弁論は2011年9月29日であることを告げて口頭弁論を終えました。

四 審理未了の準備書面と、書証および証拠説明書について
 この間、熊野市からは、2011年8月4日付(第一回口頭弁論終了後の当日)で証拠説明訂正書、8月5日付で準備書面(答弁書に記載した乙1号証の日付を訂正)、8月15日付で準備書面、9月18日付で書証と証拠説明書、9月20日付で書証と証拠説明書、9月27日付で準備書面と書証および証拠説明書が郵送されてきました。 
 また、三重県からは、2011年8月19日付で準備書面と書証が、9月9日付で書証と証拠説明書が、それぞれ郵送されてきましたが、これらは、裁判長から指示された課税の算定基礎についての書面と、先の答弁書を補強するものでした。
 そこで、私たちは。9月15日に原告準備書面(2)を、9月29日(第二回口頭弁論当日)朝、原告準備書面(3)を提出しました。
 それは、朝鮮人の追悼碑建立の土地は公共性があるため課税は不当であること、熊野市と三重県には強制連行に加担した地方自治体として行政には歴史に対する責任があること、三重県の手続きミスの問題は違法性を免れないものであること、等を内容とするものでした。
 しかし、この点が審理されないまま裁判長の「弁論終結」宣言となり、2011年12月1日の判決となりました。
                                         竹本昇・佐山和子
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『会報』第56号・第11号合併号

2011年10月25日 | 『会報』
 きょう(10月25日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の『会報』第56号と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』第11号の合併号を発行しました。
 内容は、つぎのとおりです。

佐藤正人「2010年12月~2011年10月」
斉藤日出治「紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどいを終えて」
朴成壽・丁乙權「紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどいへ」
丁乙權「(시) 한국인 징용자는 말한다  (《詩》 韓国人徴用者は語る)」  
江原道議会議員一同の三重県知事にたいする「탄 원 서(嘆願書)」
韓国での報道(「江原道議会 丁乙權副議長 ‘朝鮮人死者追悼の場’不当課税に抗議」ほか)
キム チョンミ「2011年10月7日、江原道麟蹄で」
竹本昇・佐山和子「朝鮮人を追悼する碑の土地への不当課税にたいする裁判の報告」
「朝鮮人追悼碑の土地 課税取り消しを請求」、『朝日新聞』(三重版)2011年3月10日
「紀州鉱山の追悼碑 民有地課税減免を」、『中日新聞』朝刊(三重版)2011年3月19日
「追悼碑土地へ課税不当 取り消し求め県市提訴」、『伊勢新聞』2011年3月19日
「課税取り消しを求め提訴」、『朝日新聞』(三重版)2011年3月19日
「県、熊野市 争う姿勢 追悼碑用地課税取消訴訟」、『中日新聞』2011年8月5日朝刊(三重版)
「旧紀州鉱山の追悼碑・課税訴訟 県と市「適法」争う姿勢」、『伊勢新聞』2011年8月5日
キム チョンミ「李淵達さんの証言」
斉藤日出治「福島、広島、そして紀州鉱山、海南島」
「海南島の死「事実知りたい」」、『朝日新聞』2011年8月30日朝刊(大阪版)
「紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税」、「聯合ニュース」2011年 5月 17日
「日지자체 조선인 추모비 부지에 과세 논란」、「연합뉴스」2011年 5月 17日
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 建立寄金・除幕集会計報告

 B5版24頁。 定価 200円(送料80円)。2011年10月25日発行
 連絡先 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
            大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学 斉藤日出治方
       紀州鉱山の真実を明らかにする会
            和歌山県海南市日方1168 キム チョンミ方
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朝鮮人を追悼する碑の土地への不当課税にたいする裁判の報告 3

2011年10月24日 | 紀州鉱山
■裁判の経過 2
二 三重県にたいして
(1)裁判に至るまでの経過(行政不服審査請求)
 三重県は、2009年11月2日付で不動産取得税を賦課してきました。
 そこで同年11月11日に、竹本昇が紀州県税事務所に減免を電話で申し出たところ、「減免申請書の雛形はない」と、担当者が虚偽の答弁(後日情報開示請求で、「減免申請書の雛形がある」ことが判明)をして減免申請書の提出を教示しませんでした。
 同年11月20日、再度、同処分庁の担当者と減免について電話で話したところ、「不動産取得税の減免について検討する」、「11月30日までの納期は気にしなくてよい」との回答を得、同年11月25日付で、「再調査のため減額します」減額後「税額0円」と記した減額通知書を受け取りました。
 翌年2010年4月30日、紀州県税事務所に調査結果をきいたところ、担当者は、
   「非課税にも減免にも該当しないので、課税させていただく。不服がある場合は不服申し立てをしてください」
といい、「行政不服審査請求」の方に誘導しました。
 担当者は年度が変わり、本件が新たな案件として扱われ、部長通知の10項目に該当しない故に、県税条例施行規則第7条の「減免申請書」を受理した場合、「異例に属する」事案であることが予想されることを知りながら、あえて「減免申請書」提出の教示をしなかったものです。
 2010年6月1日付で、処分庁紀州県税事務所長から原告5名に、再度、前年と同額の「不動産取得税納税通知書」が届けられ、原告らは、担当者の指示に従い、送られてきた「行政不服審査請求」の雛形に従って、2010年8月2日に「審査請求書」を提出しましたが、三重県知事は、部長通知に該当しないものであるので減免しないとして、棄却しました。

(2)手続の違法性と不当課税にたいして裁判提起
 上記経緯の通り、
   ①本件の事務処理において三重県が行った、その手続きの違法性、即ち、法的拘束力をもたない三重県総務部長通知にある10項目の事例に該当するかどうかを優先させて、法的拘束力をもつ三重県県税条例施行規則第7条に基づいて「減免申請書」の提出を教示する義務を故意または過失で怠ったこと、それによって、本件が知事の委任の範囲をこえる「異例に属する事案」であったのに、「異例」として扱わず、知事に進達せずに処分庁の委任された範囲内の事務に摩り替え、部長通知に照らした事務処理に終始したことと、
   ②「知事引継ぎ書」が証明しているように、強制連行に加担した三重県知事がその歴史的責任を自覚して、他の自治体に倣って本件追悼の場の公共性を認め、減免措置を講ずるのが当然であること、
などを請求理由として、私たちは、本年(2011年)3月18日に、三重県知事を被告とする不動産取得税賦課処分取消請求を津地方裁判所に提起しました。

(3)三重県の答弁書 及び 準備書面 と 証拠説明書
 三重県からは2011年7月19日付の答弁書と証拠説明書が津地方裁判所から郵送されてきました。
 その内容は、三重県の三重県県税条例施行規則に基づく業務を執行しなかったという手続きの違法性を糊塗するために、「減免申請書」提出の教示義務を否定し、同申請書を提出しなかった責任を原告に転嫁し、三重県知事が強制連行に関わった歴史的事実については、「不知」として、国と地方自治体が関わった植民地支配と戦争犯罪を封印して、強制連行については、一切触れまいとするものでした。
 さらに2011年8月19日付の三重県の準備書面では、
   「被告は、本件不動産取得税の賦課に関して、公共性の有無によって判断しているものではない」
と断言し、原告らの「審査請求」を棄却としてしりぞけた「裁決書」の知事の立場と矛盾し、部長通知にいう「不動産取得で公共性が強く課税することが不合理であり、減免を行うのが適当である」とまでは認められない故に棄却とした知事の判断を被告知事自身が無効だと認める自己撞着した主張をしてきました。
                                          竹本昇・佐山和子
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朝鮮人を追悼する碑の土地への不当課税にたいする裁判の報告 2

2011年10月23日 | 紀州鉱山
■裁判の経過 1
一 熊野市にたいして
(1)裁判に至るまでの経過(異議申立)
 1300人以上の朝鮮人が三重県熊野市紀和町の紀州鉱山で、劣悪な生活環境の下で、過酷な労働を強制され、これまでわかっているだけでも家族を含めて35人の朝鮮人が命を失わされています。
私たちは、亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立し、その歴史的責任を明らかにするために、熊野市にたいして土地の提供を求めてきました。
 しかし、熊野市は理由も示さず拒否し続けました。
 そこで私たちは、2009年7月10日、熊野市紀和町板屋82-7に宅地214.24㎡を購入し、2010年3月28日に追悼碑の序幕集会をひらきました。
 ところが、その1か月あまり後の5月6日に、熊野市はこの土地の5人の共有名義者に固定資産税を賦課し、公共性を理由とした私達の減免申請を「公共性なし」として6月2日に「減免不承認の決定」をしました。
 私たちは、その1か月後の7月2日に、熊野市長に対して行政不服審査法に基づく異議申立を行いました。しかし、この申立にたいしても、熊野市長は「公共性が認められるものとも解し得ず」として棄却しました。

(2)不当課税と減免不承認にたいして裁判を提起
 上記のような経緯を踏まえ、私たち原告5名(土地所有名義人)は、
   ①追悼碑建立の土地は墓地と共通の公共性があること、
   ②本件と同じく遺骨の無い英国人墓地には「文化財指定」をして公共性を認めてきた熊野市が、朝鮮人を追悼する碑の土地には公共性がないとすることは、民族差別による二重基準の公共性判断と言わざるを得ないこと、
   ③朝鮮人を紀州鉱山に強制連行し強制労働させた過去の歴史に加担した自治体である熊野市が、追悼碑の土地に固定資産税を課すことは、その歴史的責任を取ろうとしていない姿勢を露呈するものであること、
を主な請求の理由として、本年(2011年)3月18日に、熊野市を被告とする固定資産税賦課処分及び減免不承認処分等取消請求の行政訴訟を津地方裁判所に提起しました。

(3)熊野市の答弁書と証拠説明書
 私たちの訴状にたいし、熊野市から2011年7月14日付で答弁書が郵送されてきました。
 その内容は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立の公共性を否定するために、強制連行の事実とその犠牲者の数を限りなく少なく見せ、創氏改名を強要することの暴力性をも小さく見せようとするものでした。
 被告熊野市はその分析材料に、原告らが虚偽の記載もあって信用できない文書ではあるが強制連行の事実を証するものとして提出した「1946年石原産業報告」(甲1号証の2)を用い、何ら点検もせずにそこに記載された人数を事実として扱い、また、1944年9月から1945年3月までの「徴用」のみを強制連行だと勝手に規定し、その書証として、手書きで「1947年7月13日朝日新聞」と記された(実際は1959年7月13日の『朝日新聞』東京版朝刊)記事のコピーを乙1号証として提出してきました。この12年違いの日付の誤記は、熊野市が歴史的事実を調査する姿勢において真摯さに欠け、歴史意識・歴史認識がいかに悪質であるかを示すものでした。
                                       竹本昇・佐山和子
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朝鮮人を追悼する碑の土地への不当課税にたいする裁判の報告 1

2011年10月22日 | 紀州鉱山
■わずか2回の口頭弁論で「弁論終結」
 紀州鉱山に強制連行され亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立した土地に、熊野市は固定資産税を、三重県は不動産取得税を賦課してきました。
 私たちは、ことし3月18日に、不当な課税にたいして津地方裁判所に訴訟を提起しました。
 ところが、裁判長は、9月29日の2回目の口頭弁論において、突然「弁論終結」を宣言し、一方的に「12月1日に判決する」と言って、裁判を打ち切りました。
 「弁論終結」とは、裁判長が判決するに当たり、もうこれ以上、原告と被告の主張を聞く必要がないとするものです。
 熊野市が、紀州鉱山に強制連行されて亡くなった朝鮮人の追悼碑建立の土地に「公共性がない」と断言した誤りや、「英国人墓地」に比して不公平な扱いであることが、ほとんど審理されないまま終結となりました。
 また、三重県が、朝鮮人の強制連行に加担していた歴史的事実と行政としての歴史的責任に対して「不知」とすることは許されないことも、手続きの違法性における三重県の主張の矛盾点も審理されず、さらに、私たちが申し出た証人申請の機会も与えられないままの終結となりました。
                                       竹本昇・佐山和子
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