李淵達さん (1925年4月生)は、江原道平昌郡大和面から、1945年1月に、紀州鉱山に強制連行された。このとき、97人がいっしょに強制連行された。石原産業の「名簿」には、李淵達さんは、日本式の姓で記録されている。
以下は、ことし(2011年)10月8日に、韓国江原道春川市郊外の自宅で李淵達さんから聞かせてもらった証言である。わたしたちは、1997年8月に平昌郡大和面を訪ねたが、李淵達さんは、 朝鮮戦争のあと、春川に移住していたので、そのときは会えなかった。
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場にたいする課税に抗議する裁判で、被告熊野市は、“日本人も国民徴用令によって徴用されたのであり、朝鮮人と同じであった”と主張した。しかし、朝鮮人の強制連行と日本人の「徴用」とは、社会的歴史的条件も質も違うことである。
キム チョンミ
大和面からは、いっしょに10人が行った。
強制だった。村の里長が行けといったら、行かないわけにはいかなかった。逃げるなんて、考えられなかった。
大東亜戦争の時代だから、反対できない。行けという命令を聞かなければ、反逆者になる。しかたがない。生きていけなくなる。
令状がきた。大和面長と大和面警察署長の名前だった。
面長は韓国人、警察署長は日本人。令状には(宛名は)名前だけ書いてあった。それから3、4日たって行った。
里長が‘差出’すれば、いかなければならない。里長が思い通りにする。
里長にうまくすれば、行かなくてすむばあいもあった。
里長、面長、郡長と‘差出’をして、引率者に引き渡す。各面で何人と、人数通りに‘差出’をして、引率者のところに連れていった。
日本に行くことは知っていたが、紀州鉱山とは知らなかった。
引率したのは日本人だった。いっしょに行ったのは、100人は超えていたと思う。
紀州鉱山では、坑内で銅鉱石を掘り出す人もいるし、畑でしごとをする人もいた。
わたしは、ハッパを仕掛ける手伝いや、石を掘り出したり、掘り出した石をクルマに積んで運び出したりするしごとをした。
しごとは、朝7時から10時間。
鉱山の近くに宿所があって、そこに食堂もあった。男ばかりだった。食事を作るのは、男も女もいた。そこの人で、ぜんぶ日本人だった。おにぎりや、‘うどんめし’といって乾かしたうどんをまぜためし、‘テドバク’といって、油を搾った豆かすをまぜためしを食べた。
米軍の捕虜が100人くらいいた。
監視をする人は日本人。捕虜がいる宿所の正門には、銃を持った軍人が立っていた。
解放になって、しごとを、しなくなった。日本では、そのときは汽車もとまった。しばらくたって、故郷にもどった。
もどってから、なぜわたしを行かせたのだといって、里長を殴った。おおぜいで、家族もいっしょになって殴った。里長は逃げて別のところで暮らしていたが、探し出した。
里長は、大勢の村人に殴られて死んだ。ほかの村でも同じことがあったと、たくさん聞いた。みんな里長を恨んでいたのだ。