三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 48

2013年08月31日 | 海南島史研究
(一八) 二〇一〇年五月 3
■海口市雲龍鎮玉仙村、海口市内南渡河望楼跡、海口市長流鎮傳桂村で
 五月二九日に、玉仙村、南渡河望楼跡、傳桂村を訪ねた。
 玉仙村は、南渡江をはさんで海口市龍塘鎮谭口村の対岸にあり、一九三九年二月に日本軍が海南島侵入してきたとき、海南共産党抗日部隊と日本侵略軍とが最初に戦闘した地域である。
 玉仙村の近くの南渡江渡船場に、「谭口渡口狙撃戦纪念碑」が建てられていた。
 村の自宅で、冼応孝さん(八〇歳)は、
   “あの戦闘のとき、わたしは銃声を聞いた。村人のおおくは付近の山に逃げ、一年あまりそ
   こで隠れて暮らした。たくさんの村人が病気で死んだ。餓死した人も多かった。
    村の鶏や羊などは、みんな日本兵に奪われた。家も焼かれた。
    山に隠れているとき、一四、五歳だった姉が病死した。九歳だった妹の髪は全部抜けてし
   まった。
    当時、村のまわりには樹木が茂っていた。
    日本兵は、三か月間、村人に周囲の樹木を切り倒させた。洗国興が樹を切るのを拒否す
   ると、日本兵は棍棒が折れるまで何度も殴った”、
と話した。

 傳桂村で、呉金用さん(七七歳)は、自宅の近くの広い畑の前で、
   “わたしが一〇歳ころのことだった。日本人がここに罌粟を植えさせた。罌粟の種からアヘ
   ンができるが、ザクロの種ほどの大きさだった。
    日本人が罌粟の種を植えたのはこの年だけで、その後は植えなかった。
    雨が多くて、罌粟の栽培に失敗したのだと思う”、
と話した。
 日本政府・日本軍は、海南島でも、アヘンを生産・販売し、侵略の資金をつくろうとしていた。日本陸軍がコタバルに上陸し、日本海軍がパールハーバーを攻撃した日、1941年12月8日づけで、海南島三省連絡会議は、「海南島阿片専売制要綱」をだした(『海南島三省連絡会議決議事項抄録』81頁~89頁)。
 そこには、つぎのように書かれていた。
   「本島阿片専売ノ目的ハ禁煙主義ニ基ク漸減方策ヲ採用シ以テ島民保健ノ向上ニ資セン
   トス」、
   「阿片専売ノ完璧ヲ期センガ為禁烟局内ニ取締係ヲ設ケ密輸、密造、密売買等ノ取締ニ関
   シ警察側ニ協力ス」、
   「阿片烟膏製造ノ代行機関トシテ資本金拾万円ノ合益公司ヲ指定シ禁烟局ニ於テ定メタル
   規格ノ阿片烟膏ヲ製造セシム」、
   「阿片烟膏製造ニ就テハ台湾専売局ノ指導下ニ在リテ斯業ニ経験ヲ有スル株式会社南興
   公司ヲシテ実質的ニ参加セシメントス」、
   「台湾ニ於ケル阿片制度施行当時ニ於ケル阿片隠者ノ数ハ総人口ノ六.一%ヲ示し、今之
   ヲ海南島ニ適用シ吸食者ノ数ヲ推算スレバ、本島ノ帰順セル良民ハ一七五〇〇〇〇人
   (一九四一年八月現在)ニシテ其ノ中阿片を吸食セザル蕃人二〇〇〇〇〇人ヲ控除スレ
   バ一五五〇〇〇〇人其ノ六.一%ハ九四五五人トナリ、台湾ニ於ケル吸食量ハ年約三〇
   二五六〇匁(三〇二五六両)ナルヲ以テ、大体一ヵ年需要量ヲ三〇〇〇〇両、月二五〇
   〇程度ニ推測セントス」(原文は「元号」使用)。
                                        佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 47

2013年08月30日 | 海南島史研究
(一八) 二〇一〇年五月 2
■昌江黎族自治県海尾鎮で
 一九九七年一月に発行された政治協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史工作室編『昌江文史』第六輯(暴行与反暴行専輯)に掲載されている韋充文・李玉親・趙志賢整理「日軍摧残海尾村実録」に、日本軍が、一九四〇年農暦一月一二日に海尾村に侵入し村人を殺傷したこと、一九四二年五月に村に共産党員がいるといって二日間にわたって「捜索」し一二人の村人を虐殺したこと、一九四三年七月に村人が抵抗したとして村人一三人を拷問して殺害したこと、村の女性をしばしば強姦したことなどが記録されている。
 『昌江文史』第六輯(暴行与反暴行専輯)は、一九九八年六月に、初対面の趙志賢さんからいただいたものだった。それから、一二年後に、ようやく、同書に書かれている海尾村に行くことができた。
 五月二七日朝、海口から二日前に美桃村に行くのと同じ道をたどって長流、老城を経由して、白蓮の手前で高速道路に入った。この高速道路は一二年前にはできていませんでした。平均時速一〇〇キロほどで進み、海口から二時間あまりで、石碌への出口に着きました。そこから左(東方)に行くと石碌だ。反対の右(西方)に進んだ。そこは、十月田鎮の中心部だった。
 十月田鎮の北が海尾鎮だ。海尾鎮は海南島の北部湾に面し、その東光村では、一か月前の四月五日に原子力発電所建設工事が始められていた(二〇一四年末発電開始予定)。
 ゴム林を過ぎると原発用地から立ち退かされた人たちの「模範村」があった。
 石碌の出口を出てから三〇分ほどで海尾中学前に着いた。近くに石碌・海尾間のバスが停車していた。
 海尾村委員会に着くと委員会の人びとが迎えてくれ、当時のことを知っている人を紹介してくれた。
 海尾村には、日本軍が常時駐屯しており、港に望楼と宿舎があった。『海南警備府戦時日誌』には、一九四三年三月に、海尾に日本海軍横須賀鎮守府第四陸戦隊の守備隊本部があり、一〇人が駐屯していたと書かれている。
 村長の桂樹槐さんは、一〇年ほど前に、日本人(女性)が、自分の父(海尾の日本軍守備隊の隊長で、抗日武装部隊に殺された)のことを知りたいと言って、海尾に来たことがあると言った。
 日本軍がいなくなったあとまもなく日本軍の望楼も宿所も破壊され、日本軍隊長の墓の場所もわからなくなっていたという。
 海尾の海尾村委員会で、桂永昌さん(八二歳)は、次のように話した。
   “日本軍は、海岸に望楼をつくった。そのそばに兵舎もつくった。そこに日本兵が一〇
   人ほどいた。そのうちの二人が日本人で、あとは台湾人だった。わたしは、日本兵の兵
   舎で食事を作らされていたので、よく知っている。日本兵のなかに朝鮮人はいなかった
   と思う。望楼には機関銃が、大きいのと小さいのと、二台あった。
    海尾に駐屯していた日本兵とは違う日本兵が、機関銃を持って村を襲ったことが何度
   もある。その日本兵がどこから来たのかは、わからなかった。
    そのたびにわたしは、父や母と山に逃げた。
    山から村に戻ると、村人が二人つかまっていて、十字架のような木に縛りつけられて
   いるのを見たことがある。両腕を広げさせられ腕をくくられていた。その一人の名は、
   麦元堂だ。
    日本兵は、この二人は共産党だと言っていた。
    二人は、木に縛り付けられたまま、市場の入り口の道路に寝かされた。日本兵は、そ
   こを通る村人に足で踏ませた。むりやりだ。わたしは子どもだったから踏まされなかっ
   た。
    村人が二人を強く踏むことはなかった。日本兵は、最後に馬で二人を踏み潰して殺し
   た。
    日本軍は、村に学校をつくった。わたしは、三~四か月ほど通ってやめた。両親が、
   やめるように言ったからだ。すると、まもなく日本兵が家にやってきて、両親に子ども
   を学校に行かせないと家族全員を殺すと言った。それで、また行くことになった。
    日本語を教えられた。教えたのは日本人だった。軍人ではなかった”。
 羊允国さん(八三歳)は、
   “わたしの父は漁師だった。父は船をもっていなくて、雇われていた。
    一〇歳になったころから、わたしも父といっしょに船にのった。日本軍の飛行機が漁
   船に爆弾を落としたことがある。
    日本軍のつくった学校で‘キミガヨ’を歌わされた”、
と話した。

■昌江黎族自治県十月田鎮保平村で
 『昌江文史』第六輯(暴行与反暴行専輯)に、韋充文・李玉親・趙志賢整理「日軍摧残海尾村実録」に続いて、孫唐康整理「日軍突襲大陽基村的惨案」が掲載されている。
 そこには、一九四〇年の秋から冬にかけて、北黎の日本軍(日本海軍横須賀鎮守府第四特別陸戦隊)兵士と漢奸が、大陽基村を包囲・襲撃し、住居や学校を焼き、抗日遊撃隊隊員ら一九人を北黎の日本軍司令部に連行し、地面に穴を掘らせ、その穴に身体を埋め、首を切った、と書かれている。
 大陽基村は、いまの昌江黎族自治県十月田鎮保平村東南の紅陽村委員会に所属しているというので、五月二七日午後、海尾村から保平村に向かった。保平村で聞きとりをするためと、大陽基村の正確な位置を知るためだった。
 海尾村から南に一五キロほど行くと烏烈鎮の中心部に着き、そこから東に一〇キロほど行くと保平村だ。『海南警備府戦時日誌』には、一九四三年三月に日本海軍横須賀鎮守府第四陸戦隊の保平守備隊本部に八二人が駐屯していたと書かれている。海尾の一〇人の八倍以上だ。
 保平は、石碌炭鉱と横須賀鎮守府第四陸戦隊司令本部のある北黎を結ぶ日本侵略期の幹線道路の中間に位置していた。そのため、八二人もの日本兵が常駐していたのだろう。
 保平村に着いたのは、午後三時だった。雨が降りはじめてきた。海尾は漢族の村だったが、保平は黎族の村だった。
 保平村委員会の前の広場に集まっていた人たちに、日本軍がいたときのことを聞かせてほしいと頼んだ。雨が降り始めていたので、一人のひとが、話し合う場所として保平村委員会の一室を借りに、休息中だった保平村の委員の家に行ったが、その委員は、公式の依頼書がないと言って拒否した。
 鍵のかけられて保平村委員会の建物の前で、王雲臣さん(八一歳)は、
   “日本軍の望楼と宿所がこの近くにあった。日本軍は学校もつくった。私も通った。先生、見し、タバコ。
    一年あまり通った。生徒は多かった。一〇〇人以上いたと思う。キミガヤチヨニサザ
   レ……ウウスウマデ を歌わされた。アイウエオ カキクケコ サシスセソ 。学校に
   は毎日行った。
    教師が日本人だったか台湾人だったかわからない。教師はみんな日本語を話してい
   た。
    日本軍は、保平にたくさん人をつれてきて道路や橋を作らせた。村人も多かったが、
   それよりホンコンなどから連れてこられた外地人が多かった。外地人は、マラリヤなど
   でたくさん死んだ。日本軍は病気が広がるのを怖がって、マラリヤにかかったと思われ
   る人をまだ生きているのに焼いた。火の中に病人を入れるのは日本兵でなかった。日本
   兵は、外地人に病気の外地人を火の中に入れさせた。仲間にそのようなことをしないと
   いう人は、その人も火の中にむりやり入れられた”、
と話した。陳聖康さん(八一歳)は、
   “ワラノウエカラソダテテヨ ホラカケテイコカヨ オカノミチ ハイドハイドカケテ
   ミロ 学校の先生に教えられた。タカクセンセイ アサセンセイ。よく殴られた。ワタ
   シ イチネンセイ。女の生徒もいた。
    日本兵が捕まえてきた人の首を切ったのを見たことがある。殺されたのは村人ではな
   かった。四〇歳くらいだった。その人は穴を掘らされた。日本兵はその穴に遺体を埋め
   た。朝早かった。日本軍は、たくさん人を殺したが、このときの殺し方が、わたしが見
   たなかでいちばん残酷だった。
    外地人が焼かれた場所は、いまははっきりしなくなっている。あのときは、ほんとう
   に多くの人が死んで焼かれた”、
と話した。符栄輝さん(七七歳)は、
   “子どものとき、橋を作る現場で働いたことがある。
    父がいないので母が働きに行かなくてはならなくなったとき、わたしが代わり行った。
    わたしが子どもだったので、監督していた日本兵はわたしに、昼に食べるご飯を見張
   っておけと言った。そして間もなくどこかに行った。しばらくして帰ってきた日本兵は
   鶏をもってきた。近くから盗んだものだ。かれらはそれを自分たちで料理して全部自分
   だけで食べた。
    日本軍は、毎朝、トラックにのせて橋をつくる人たちを運んできていた。わたしは、
   日本軍の食べ物の見張りや掃除などをさせられた。母は車に乗ると酔うので働きにいけ
   なかった”、
と話した。邢康さん(六〇歳代)は、
   “わたしが幼いころ、父がいなくなった。
    あとで母に聞くと、石碌の鉄鉱山に連れていかれたと言った。父は戻らなかった。わ
   たしは、父の顔をはっきり覚えていない。
    父といっしょに石碌に連れて行かれて戻った人から、父は火葬されて埋められたと聞
   いた。父が埋められている場所はわからない”、
と話した。保平から石碌鉱山までは、直線距離で一五キロほど、道なりに行って二五キロほどだ。日本軍と日本窒素と西松組は、石碌鉱山や石碌・八所鉄道建設や八所港建設などで多くの人を酷使し病死・餓死させた。そのなかに、保平などの近隣の村の人たちもいたことが、邢康さんの証言ではっきりした。
 八〇人あまりの日本兵が常駐していた横須賀鎮守府第四特別陸戦隊保平守備隊の望楼と宿所は、日本敗戦後まもなく国民党軍が破壊したという。
 保平村委員会の建物の入り口前で話を聞かせてもらっているとき、突然驟雨がはげしく降りだし三〇分以上止まなかった。建物入り口のひさしが短く、雨を避けきることができず、みんな、下半身がずぶぬれになった。保平守備隊分遣隊の望楼と宿所があった場所、外地人が生きたまま焼かれた場所に案内してもらうのは、あきらめなければならなかった。この日は、大陽基村にも行けなかった。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 46

2013年08月29日 | 海南島史研究
(一八) 二〇一〇年五月 1
■定安県雷鳴鎮梅種村で
 五月二三日に、符如来さんに案内されて、海口市の南の梅種村に行った。村の入り口に、許如梅さん(一九一八年~一九四三年)と周春雷さんの墓がある。符如来さんは、許如梅さんの娘さんだ。
 梅種村で、一九四三年一〇月に、許如梅さんと周春雷さんは日本軍に殺され、首を切られ、定安県城の門にさらされたという。許如梅さんと周春雷さんの墓には、頭の骨は埋められていない。
 許如梅さんは、一九四一年に、生まれてから一か月の符如来さんを、澄邁県花場の知人に託して、抗日武装組織の隊列に戻り、その二年後に、日本軍に殺された。 
 許如梅さんと周春雷さんを殺害したのは、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊に所属する日本兵だった。『海南警備府戦時日誌』には、一九四三年三月一日現在、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊の定安守備隊には七二人の日本兵が、舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊の雷鳴守備隊には四二人の日本兵が駐屯していると書かれている。定安とその南方の雷鳴は二〇キロ近く離れており、梅種村は、雷鳴の北東七キロほどのところにある。
 梅種村の中で、王広瑞さん(八〇歳)と王開権さん(八八歳)から、当時のことを聞かせてもらった。
 王広瑞さんは、
   “日本兵は、許如梅さんを殺害するところを、村人が見るのを強制した。そのとき、日
   本兵は、日本刀を使わないで、村人が持っていた豚を殺す包丁をとりあげて使った。
    前夜、梅種村では、瓊崖縦隊の隊員たち一四~一五人が会議を開いていた。そのと
   き、当時、村長だった男が村からいなくなったので、わたしは、そのことを瓊崖縦隊の
   周春雷に伝え、危険だから村を去ったほうがいいと警告した。
    翌朝、機関銃を持った日本軍が村を包囲し、周春雷は殺され、許如梅はいったんは逃
   れたが、村のはずれ の大きな榕樹の下で血のついた衣服を着替えているとき、戻って
   きた日本兵にみつかりそうになった。また逃げて王広詩さんの家の台所に隠れたが、つ
   かまってしまった”。
 話を聞き終わったあと、王広瑞さんと王開権さんに、許如梅さんが隠れた場所と殺害され首を切られた場所に案内してもらった。符如来さんは、ここに来たのは初めてだ、と言った。
 王広詩さんの家は、廃墟になっていた。その一角を指差して、王開権さんは、ここが台所だった、と教えてくれた。
 符如来さんが、梅種村を訪れたのは二回目で、はじめて来たのは、一九七七年で、父(符哥洛さん。許如梅さんの夫)といっしょだったという。符哥洛さん(一九一〇年生)は、一九二七年に革命に参加し、瓊崖縦隊第二支隊隊長だったそうです。符如来さんがはじめて父に会ったのは、一九五〇年ころだったという。

■澄邁県大豊鎮美桃村で
 五月二五日に、美桃村に行った。
 村の中央に大きなガジュマルの樹があった。日本軍が村に侵入してきたときにもあった樹だという。
 村長の李世勝さん(一九七〇年生)に案内されて「美桃村的抗戦避難山洞」に向かった。
 ガジュマルの樹から二キロほど行くと、土が剥き出しになっている広い高台に出た。それは、そこに生えていた潅木や樹木をすべて切り倒して造成したバナナ畑だった。前年一〇月に造成をはじめ、苗を植え始めたばかりだった。そこで働いているのは、貴州から来た人たちで、地権者は台湾人だとのことだった。
 バナナ畑のはずれの高さ一〇~二〇メートルほど、長さ二〇〇メートルあまりの崖の下、日本軍の攻撃を避けて美桃村の村人が掘った避難壕が一〇個あった。入り口が潰れているのもあると思われるので、当時はもっとたくさん作られていたと思われる。
 一〇個の壕の大きさはさまざまで、大きなものは、入り口の横幅一メートルあまり、高さ一メートルほどで、内部の広さは一五平方メートルほどだった。
 この一〇個の洞窟が掘られているのとは別の近くの崖に二個の洞窟、さらにその近くの別の崖に四個の洞窟があった。あたりは、丘陵地帯で、当時は密林だったという。最近、樹木が切り倒され、洞窟が露出するようになったようだ。
 しかし、開発がさらに進むと、これらの洞窟は破壊され、バナナやマンゴーなどの畑に変えられていくのではないかと、美桃村の李世勝村長は、おそれていた。
 洞窟群をたずね歩いたあと、美桃村に戻り、李世勝さんに案内されて、李守芳さんを訪ねた。
 方形に切った火山岩を積み上げた家と家の間の道を通っていくと、李守芳さんの家があった。
 李守芳さんは、一〇〇歳を越しているとのことだったが、しっかりした口調で、当時のことを話してくれた。
 李守芳さんは、つぎのように話した。
   “日本兵はしばしば村に来て、豚や鶏などを奪い、村人に乱暴した。わたしたちは、山に逃
   げた。
    一九四〇年ころから、山のなかに洞窟を掘ってそこで暮らすようになった。
    洞窟は、尖った鉄の棒などを使って手で掘った。岩は硬く、兄の李守蕃と二人で掘っ
   て一か月あまりかかった。わたしが三〇歳のころだった。何十個もの洞窟があった。掘
   ったのは美桃村の村人だけではなかった。
    近くにきれいな水が流れている川があったので水には困らなかった。山の中で芋など
   を掘って食べたが、ときどきは村に戻って食料を運んだ”。
 李守芳さんと別れたあと、李世勝さんは、旧日本軍の望楼に案内してくれた。
 それは、三階建てで、それぞれの階の四方に銃口が作られていた。屋上から美桃村の家々の屋根のかなたに遠くの山が見えた。
                                         佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 45

2013年08月28日 | 海南島史研究
(一七) 二〇〇九年六月 4
■三亜市鳳凰鎭羊欄村で
 六月二七日に高峰からバスで三亜市内にもどる途中、鳳凰鎭羊欄村で下車し、蘇水長さん(六六歳。漢族)の家で旧日本軍の大型飯盒と短剣を見せてもらった。
 蘇水長さんは、
   “この日本軍の飯盒と剣は、父が持っていた。
    父(蘇定勲)は、飛行場工事の組長をしていた。父は、日本軍のために強制的に労働
   者を集めさせられていた。父は、人を集めるのが少ないといって日本兵に殴られ、腰を
   痛め、一九五三年ころ、五〇歳で死んだ。
    父は死んだので、父といっしょに働いていた人たちから聞いたのだが、労働者は三亜
   村の人たちで、一日に一角もらったという。食べ物は日本軍がくれた。一碗のごはん、
   一匹の魚。しごとが遅いと殴られたという。
    朝鮮人もおおぜい土を背負って運んでいたという。朝鮮人があるとき、命令を聞かな
   いといって、殴られて死んだ。父とともだちが話しているときそばにいて聞いた”、
と話した。
 鳳凰鎭羊欄村は、旧日本軍の三亜飛行場の近くにある。蘇水長さんの父が話していたという朝鮮人は、「朝鮮報国隊」の人たちのことだと思われる。

 六月二八日に、羊欄村を再訪し、黎金茂さん(一九二七年生。漢族)に話を聞かせてもらった。
 黎金茂さんは、こう話した。
   “日本軍が来た時、わたしの両親は死んでしまっていた。わたしは、叔父にかわって日
   本軍のために働いた。日本兵は大人をしょっちゅう殴ったが、子どもや年寄りは殴らな
   かったからだ。
    一二~一三歳ころ、わたしは、日本軍が三亜飛行場をつくるときに働かされた。工事
   している人のところに茶や水を運んだ。一日二回。二人が組んでいっしょに運んだ。
    日本兵は、働いている大人に昼食をだした。子どもにもだしてくれることがあった。
    毎日午後に仕事が終わると、日本兵はわたしたち子どもに一毛くれた。軍票だった。
   大人は五毛だった。
    日本軍は、朝鮮人や台湾人をたくさんつれてきて、飛行場をつくらせた。当時、わた
   しは、日本兵が朝鮮人を殴るのをいつも見ていた。朝鮮人は食べるものがあまりないの
   で、すこし休んでいると、日本兵はすぐになまけているといって殴った。朝鮮人はおお
   ぜい日本兵に殴り殺された。殺された朝鮮人は埋められた。
    朝鮮人は、毎日、朝早く並ばされ、歌をうたってから仕事をはじめた。
    朝鮮人が着ていた服は、青色だった。背中に白い字で番号が書かれていた。服はボロ
   ボロだった。
    朝鮮人はかごを背負って、土を運んでいた。朝鮮人は、滑走路や防空洞をつくってい
   た。防空洞は飛行機をいれる所だ。日本軍はアメリカ軍が飛行機から爆弾を落とすのを
   恐れていた。
    はじめてアメリカ軍が飛行場に爆弾を落としたとき、そこで働いていた朝鮮人がたく
   さん死んだ。
    日本軍は、この近くの妙林村のそばに日本農民をたくさんつれてきて六郷村をつくっ
   た。六郷村で日本農民は、コメや野菜をつくっていた。
    当時、日本軍が派遣した台湾人がわたしたちや朝鮮人を管理していた。台湾人は白い
   服を着ていた。日本兵は軍服を着ていた。
    日本軍が来てから、農民の生活は苦しくなった。着る物もなくなった。日本軍の仕事
   をさせられ自分たちが生きるための仕事ができなくなったからだ。
    当時、ある日本人が「野菜会社」をつくった。農民たちが野菜をその会社にもってい
   くと、その会社は、布地と交換した。
    日本が敗ける前に、朝鮮人はいなくなっていた。どこにいったかわからなかった。
    日本軍の船が海にいるのを見たことがある。小さかったがとても早かった。
    日本軍は敗けたとき、武器を各地に埋めた。
    日本軍が敗けたときは、とてもうれしかった”。

■海南島の特攻艇基地跡
 USA軍の上陸を予想して、日本軍は、海南島の三亜と新村に特攻艇「震洋」の基地をつくった。
 海南島に侵入した震洋隊は三部隊で、第三二震洋隊(指揮官、辻田悌三郎)の基地は新村に、第三三震洋隊(指揮官、福田進治)と第一〇三震洋隊(指揮官、益田善雄)の基地は三亜につくられた。 
 防衛研究所図書館にある『海南海軍警備府引渡目録』中の「引渡目録」によると、中国国民党軍は、第三二震洋隊の施設を一九四五年一一月二六日に、第三三震洋隊の施設と第一〇二震洋隊の施設を接収している。そこでは、第三二震洋隊の場所は陵水県新村市、第三三震洋隊の場所は南辺嶺、第一〇三震洋隊の場所は三亜岬と書かれている。
 第三二震洋隊基地の近くには住民が住んでいたが、第三三震洋隊基地と第一〇三震洋隊基地は人家のない場所につくられていた。したがって、第三三震洋隊と第一〇三震洋隊について当時のことを知っている住民に出会うことはかんたんではない。とくに第三三震洋隊基地のあった場所は、現在中国海軍の基地内にあるので、近づくこともできない。
 六月二九日に、三亜港に面した鹿回頭角の突端の第一〇三震洋基地跡を再訪した(前回、はじめてこの基地跡に行ったのは、二〇〇七年一月だった)。
 この日、第一〇三震洋隊基地跡から二キロほど離れた三亜市鹿回頭村で、羅煥高さんから話を聞かせてもらうことができた。鹿回頭村は黎族の村で、二〇〇五年に鹿回頭村から兄弟村に改名され、村の入り口に「兄弟村」と刻まれた大きな石碑が建てられているが、いまでも村人の多くは、鹿回頭村と呼んでいる。
 自宅の前で、羅煥高さん(一九三八年生)は、つぎのように話した。
   “当時、日本兵は、ときどき村に来て、村人を整列させて、手を検査した。手が柔らか
   い人は文字が書け働かない人だとしてどこかにつれていかれた。手が荒れている人はつ
   れていかれなかった。
    日本軍は鹿回頭村の南辺嶺にレーダーを設置した。日本軍は、三亜海岸から南辺嶺ま
   での道路を村人につくらせた。わたしの父親も母親も日本軍に道路工事をさせられた。
   日本軍から、毎日、六~七毛をもらった。軍票だった。
    日本兵は、子どもには優しかった。子どもたちを見つけると、あめやビスケットを配
   った。
    日本軍は広州からたくさんの人をつれてきた。村の水尾嶺の石場から石を切り出さ
   せ、道路工事につかわせた。わたしは、日本兵が広州人をなぐっているのをなんどもも
   見た。餓死した広州人も多かった。たぶん、一日か二日おきに、二人くらいの広州人が
   死んだと思う。
    あるとき、わたしの叔父羅亜帝(当時、二〇歳あまり)が、石場にあった日本軍のダ
   イナマイトをつかって魚をとったことがあった。日本軍は叔父を捕まえ、司令部につれ
   て行った。次の日、叔父は首を切られて殺された。司令部は三亜の飛行場の近くにあっ
   た。
    日本軍が投降していなくなったとき、わたしたちは、すぐにはそのことを知らなかっ
   た。
    防空洞に快速艇が放置されていた。わたしたち子どもは、牛に草を食べさせるのに近
   くに行ったとき、それで遊んだ”。
                                          佐藤正人
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日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 44

2013年08月27日 | 海南島史研究
(一七) 二〇〇九年六月 3
■三亜市鳳凰鎮高峰郷で
 海南島に侵入した日本軍は、武器・弾薬、食料・物資などを秘匿・保管する軍用洞窟をつくった
 これまで、海口市永興鎮雷虎嶺、三亜市荔枝溝鎮中村、「朝鮮村」、保亭黎族苗族自治県南林などに残されている旧日本軍の軍用洞窟跡を調査してきたが、二〇〇九年六月二七日には、三亜市鳳凰鎮高峰郷に行き、日本軍の軍用洞窟跡を調査するとともに、聞きとりをさせてもらった。
 三亜市内から、北西に一〇キロあまり行くと高峰郷の入り口の村に着いた。そこに、旧日本軍がつくった洞窟が残っていた。
 洞窟前の舗装道路(二車線)の路上で周志忠さん(五三歳。黎族)は、
   “この道は日本軍がつくった。そのときの道は、自動車一台が通れるだけの幅しかなか
   った。
    日本軍は、洞窟を秘密にするために、洞窟を掘った労働者を生きたまま殺した、と年
   寄りから聞いたことがある。
    どんな人たちが洞窟を掘ったのか、わたしは知らない”、
と話した。
 三亜方面から来て、道路の右側の崖に、三本の洞窟があった。それぞれは、二〇メートルほど離れており、そのうちの一本は、入り口が崩れていて入ることができなかった。あとの二本は、幅二メートル、高さ一メートル半、奥行き一〇メートルあまりだった。洞窟のなかの地面は厚い泥に覆われていたが、露出していた壁面や天井部分には、ダイナマイトを埋め込む穴の跡が残っていた。

 日本軍が侵入していたころのことを知っている人に出会おうとして、近くの村をいくつか訪ねた。
 洞窟のすぐ近くの村には、六〇歳代以上の人がいなかったので、バスに乗り、人で賑わっている南島農場の市場で降りてみた。しかし、南島農場の人たちのほとんどは大陸から来た人たちで、昔の事はよく知らないとのことだった。
 ふたたびバスに乗り、来た道を戻り、高台に派出所がある場所で降りた。そこは、日本軍の駐屯地があったところだった。
 高台の坂道を上っていくと、派出所の後ろ側にでた。そこに住んでいる符学芸さん(一九五四年生。黎族)は、
   “この家のあるところには、日本兵の家があった。
    派出所を建てるとき、あたりを掘ったら、日本軍の建物の跡が出てきた。
    レンガでつくった建物だった。日本軍の糧庫(食料庫)だったらしい。
    近くに慰安所があった、と年寄りから聞いたことがある”、
と話した。
 符学芸さんは、近くの日本兵の炊事場や風呂があったという場所に案内してくれた。そこから、さらに灌木が茂ったところを降りた所で、符学芸さんは、“開墾するためにここを掘ったら、銃と弾薬が出てきた。弾丸は三〇〇個くらいあった”、と言った。
 符学芸さんに案内されて、当時のことを知っているという符亜貴さん(七四歳。黎族)を訪ねた。途中、符学芸さんは、道の脇の広いくぼみを指差して、“ここに日本軍の食糧庫があった”、と教えてくれた。
 符亜貴さんは、子どものとき、日本軍の馬の世話をしたという。符亜貴さんはほとんど耳が聞こえず、くわしく話を聞かせてもらうことができなかった。
 符学芸さんの家に戻り、近くに住む符亜形さん(九〇歳。黎族)に、話を聞かせてもらった。 符亜形さんは、太い声で、二時間近くもの間、ほとんどとぎれなく、次のように証言してくれた。
   “この近くに日本軍の宿舎があった。細長い建物で、レンガで作ってあった。
    そばに風呂があった。
    日本軍は、ふたりの女性をやとって、川から水を運ばせ、湯を沸かさせていた。
    日本兵は午後五時にふろに入る。
    わたしも、川から水を運んだ。
    この下のほうに馬屋があった。いまは政府の倉庫になっている。馬がたくさんいた。
    日本軍は地元の人を働かせて道を作った。わたしも道路工事をさせられた。
    日本軍が来る前は、人が歩くだけの山道だったが、自動車が通れる幅に広げられた。
    日本兵は、働いている人たちをよく殴った。“バカジャナイカ”と言って。
    人をよつんばいにさせて、そのうえにまた人をよつんばいにさせたこともあった。
    男、女、男、女……。五人ぐらい。
    一番下の人が支えきれないで、倒れそうになると、日本兵は腹の下に棒をわたして、
   両側からあげた。
    日本の女の人は見たことはない。日本軍は、慰安婦を連れてきた。一週間くらい、い
   た。一〇人くらい。ほかのところから来た人。地元の人ではなかった。すそが広がった
   長いスカートをはいていた。髪は短かかった。
    慰安所の場所は、派出所がいま建っているところだ。
    日本兵は、食事の時は、“メシ、メシ”といった。“タバコ”“バカヤロウ” “ニイ
   サン、シゴトヲシロ”“サカナ”“バカジャナイカ”“オマエ”……という日本語を覚え
   ている。
    日本のタバコを吸ったことがある。働いていたときに、日本兵からもらった。
    一日働くと五角、塩切符一枚、米券一枚もらった。米券一枚は米一斤。五角は、軍票
   でもらった。
    道路工事のとき、鉄鎬(つるはしか?)で殴られたことがある。しりを殴られたので、
   排便するときつらかった。ときどき、いまも痛い。
    日本軍が来てからは、道路工事などをさせられて、しっかり農業生産ができなくなっ
   た。
    日本軍が来る前は、生産がたくさんできた。食べるものもたくさんあった。
    日本軍はここに三年くらいいたと思う。日本軍に食料はたくさんあった。馬もたくさ
   んいた。自動車もあった。
    日本人は嫌いだ。あのとき以来、日本人に会うのははじめてだ。
    日本兵の中に台湾人もいた。
    台湾兵は海南語を使っていた。だから台湾人だとわかった。日本兵と台湾兵は、いっ
   しょにしごとをしていた。
    日本軍が来たとき、わたしは結婚していた。子どもはまだいなかった。
    日本軍がいなくなったときは知らなかった。いつのまにかいなくなった。次の日に知
   った”。
                                          佐藤正人
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「沖縄との違いに、がくぜんとした」

2013年08月26日 | 紀州鉱山
■沖縄との違いに、がくぜんとした
                                   金城実(彫刻家)

 紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』13号が手渡されたのが、今年6月22日に「恨之碑」(金城実制作)像を前に追悼式が開催された日である。
 「恨之碑」は、沖縄に日本軍の「軍夫」として強制連行され、故郷に帰ることができなかあった朝鮮人を追悼する碑である。そのなかには、イモ、イネを取って食べたという理由で日本軍に銃殺された人もいた。日本帝国主義の朝鮮人に対する植民地意識の表れた事件であった。
 「恨之碑」は、読谷村行政も積極的に応援している。集団強制死の碑(チビチリガマ世代を結ぶ平和の像)も私が指導して遺族と共同制作したもので、この記念碑も読谷村行政が戦争記念碑としている。今年の追悼式にも読谷村村長が参加し、追悼のことばを述べた。
 さて、紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』13号を読んで、沖縄との違いに、がくぜんとした。
 特に「追悼の場」に税金をかけているというニュースは、われわれ沖縄人にとっても世界の常識ある人から見ても恥ずべき行政の行為であり、世界のわらい物になる事件である。この事件は、明らかに朝鮮人に対する差別と排外主義の表れであり、いまだに植民地意識への反省のなさを露呈したもので、今世紀において、人権感覚が欠落した日本人の恥である。
 7月4日午後2時から津地裁で裁判がおこなわれるという。徹底的に糾弾してほしい。
 これからの裁判はまさに今、日本国内だけでなく国連人権機関でも問題化され、すでに日本政府に勧告がだされている「慰安婦」問題とも関連する裁判でもあり、歴史問題ともからんで意義ある闘いである。


      ☆      ☆      ☆      ☆      ☆                                     

 1999年8月17日に韓国慶尚北道英陽(阿嘉島に「軍夫」として強制連行された姜仁昌さんの故郷)に、アジア太平洋戦争・沖縄戦に「徴発」された朝鮮人を追悼する「한의 비석」(恨之碑)」が建てられ、その7年後の2006年5月13日に、読谷村に同じかたちの「恨之碑」が建てられた。それ以後、毎年碑の前で、追悼の集いが開かれている。
 去年の「恨之碑」前での集いのときには、一昨年と去年、李基允さんと相度氏さんを追悼する集い、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集いのときに歌ってくれた李陽雨さんが追悼の歌を歌った。
 今年の「恨之碑」前での追悼の集いのあとの学習会の席で、金城実さんに、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に三重県と熊野市が課税してきたことを話すと、とても驚かれ、すぐにその場でこの『会報』への原稿を一気に書いてくれた。
 韓国の「恨之碑」にも沖縄の「恨之碑」にも、金城実さんの同じ彫刻が刻まれている。
                                          キム チョンミ(金靜美)
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海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会報告

2013年08月25日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(8月25日)、主題を「海南島と沖縄」とする海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会が開催されました。
 はじめに、知花昌一さんが、現在のなかに過去と未来があると述べ、現在の沖縄は、辺野古新基地建設やオスプレイの配備に示されている構造的差別にもとづく第5の琉球処分に直面していると話しました。
 知花さんは、
   “1945年の沖縄戦は第2の琉球処分であった。このとき日本軍は沖縄の住民を守らず住
   民を虐殺した。住民虐殺は、日本軍が沖縄の住民をスパイと見なして直接処刑したこと
   だけでない。「集団自決」というコトバでいわれてきた集団強制死もまた実体は住民虐
   殺であった。日本政府は教科書から沖縄における集団強制死という事実を抹消しようと
   した。これに対して沖縄県民は、2007年9月に、10万人の県民大会で抗議した。
    読谷村の9か所で強制的な死を余儀なくされた。そのひとつのチビチビリガマで83人
   の村人が強制死させられ、2人がアメリカ兵に射殺された。
    チビチリガマでの集団強制死については、1983年までは、語る人はほどんどいなかっ
   た。わたしもこのときまでは、行ったことがなかった。強制死させられた人の名も数も
   明らかにされていなかった。1983年に、下嶋哲朗さんが中心になって「調査」をはじめ、
   わたしも協力した。
    生き残った人たちの証言を聞いて、天皇制教育、軍国教育の恐ろしさを実感した。
    わたしは、1987年10月26日に読谷村で海邦国体ソフトボールがおこなわれたとき会
   場のメインポールの「日の丸」を焼き捨てたが、あのとき、読谷村では、直前までは
   村長も「日の丸」をあげるのに反対していたし、村議会でも日の丸強制反対決議を採
   択していた。
    沖縄への歴史的差別、障害者差別、部落差別、朝鮮人差別、ハンセン病への差別と
   いう構造的差別にたいする現在のたたかいのなかに未来がある”、
と語りました。
 つづいて、キムチョンミさんが、朝鮮の獄中から「朝鮮報国隊」の隊員として海南島に連行され殺害された朝鮮人が埋められている「朝鮮村」の現場が、1998年の最初の訪問時から現在までどのように変化しているかについて、それぞれの時期の映像を示しながら報告しました。また、「朝鮮報国隊」がどのように海南島に派遣され、どのような強制労働がおこなわれたのかについて、生還した「朝鮮報国隊」の人たちの韓国での証言に基づいて報告しました。最後に、これまで会が「朝鮮報国隊」について聞き取りや調査を通して明らかになったことをまとめた報告集を作成中である、との案内がありました。
 斉藤日出治は「住民虐殺と強制集団死-海南島と沖縄」というテーマで報告しました。まず、今年の3月に海南島の昌江黎族自治県の各地の村を訪問して聞き取りをした住民虐殺、強制労働と虐待、性暴力、村の焼却などの実態について報告しました。とりわけこの地域は石碌鉱山が近くで、各村の人たちがこの鉱山に組織的に大量動員され、過酷な労働を強いられたこと、マラリアが流行した時に患者および患者の疑いのある人を生きたまま焼き殺されたこと、などについてあちこちの村で聴きました。また沖縄の集団強制死が沖縄では日本軍による「住民虐殺の中に位置づけられており、日本軍が海南島で行ったのと同じこと(住民虐殺、性暴力、食糧の略奪、強制労働など)が沖縄でもおこわれていたことを指摘しました。
 佐藤正人さんは、日本の海南島侵略と「琉球処分」と宮古・八重山地域植民化について報告しました。佐藤さんは、1869年から1879年にかけての日本政府のアイヌモシリ植民地化、「琉球処分」、「台湾蕃地処分」は、現在にいたる日本国家の他地域・他国侵略の起点であると述べ、その侵略の歴史を、文書資料だけでなく証言を聞きとる過程で具体的に明らかにすることの意味について話しました。そのなかで、1945年4月2日の読谷村における住民虐殺を記録する作業とその1か月後の5月2日の海南島の月塘村での住民虐殺を記録する作業が同じ質の作業であると述べました。最後に佐藤さんは、
   “硫黄島戦も沖縄戦も、天皇制国家体制(「国体」)を維持するために天皇ヒロヒトら
   少数の権力者が遂行した戦争であった。天皇ヒロヒトらが遅くても1944年7月にアメリ
   カ合衆国軍のサイパン島・グアム島再占領時に戦争をやめていれば、それ以後、アジ
   ア太平洋各地の民衆が犠牲になることはなかった。沖縄戦で、10数万人の沖縄人・朝鮮
   人が殺されることはなかった。
    しかし、天皇ヒロヒトは、1947年9月に「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望
   む」という「メッセージ」(1979年に「発見」され、2008年3月から沖縄公文書館で公
   開)をだしていた。現在の「琉球処分」、アジア太平洋侵略責任をとろうとしない日本
   政府の政策は、天皇制の維持とむすびついている”、
と述べました。
 休憩をはさんで、参加者全員の間で、活発な意見が交わされました。
 海南島の住民虐殺の歴史的な責任の問題は、知花さんが構造的差別という指摘をしたように、現在の日本の状況の問題と関わらせて受け止めるべきだという意見が出されました。
 天皇の戦争責任と国民の戦争責任との関係を問う発言も何人かから寄せられました。
 沖縄における住民虐殺、海南島における住民虐殺の事実を知れば知るほど、重い気持ちになる。天皇に侵略責任があることは言うまでもないが、もし天皇が敗戦のときに退位していたとしても、はたして日本人は戦争の責任をみずからが進んでとったかどうか疑問だ、という意見がありました。それは、戦時中に、庶民が軍部の虚偽の情報を見抜けずに侵略戦争に動員されて行ったことともつながっているという意味でもあるとのことでした。
 国民に真実を教えない教育が今日もなお続けられていることの恐ろしさについての発言もありました。
 歴史的責任の問題を自分の身近な人間関係や自身の名前の由来や自分の出身地と関わらせて発言した人もいました。自分のおじさんが沖縄の読谷村で日本軍として戦死したという人、沖縄出身で「内地」の男性と結婚した女性からみた日本人観など、自身の体験にもとづいた発言がありました。
 何人かが、日本国家の侵略犯罪にかかわる事実を具体的に知ること、知らせることが、現状を変えていくために重要だと発言しました。
 総会の最後に、海南島の旦場村の追悼碑建立のための強力を海南島近現代史研究会が呼びかけ、参加者の多くの方から寄金が寄せられました。
 総会終了後おこなわれた懇親会でも知花さんを囲んで、これからどうしていくのかについて議論が深められていきました。
                                         斉藤日出治
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住民虐殺と強制集団死  海南島と沖縄

2013年08月24日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、明日(8月25日)の海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会での報告の要旨です。
                             斉藤日出治

■住民虐殺と強制集団死  海南島と沖縄
一 海南島の住民虐殺
  2013年3月末の海南島昌江黎族自治県の各村の訪問について
   1 住民虐殺
     旦場村 1939年11月4日深夜完全武装で襲い、93人を殺害、うち5人
        は妊婦、4人の女性を強姦し、30件以上の民家を焼いた。
         「日寇惨殺旦場同胞(哀嘆長恨歌))」文天性さんが1947年
        に作り、王永效さんが文字にした。
   2 強制労働と虐待
     ①、保平村―符鍾春 母親と3人兄弟で、3人とも仕事をさせられた
         =水運び、叉河までの道路を造るための、土盛りや草刈り、
        伐採。 
     ②、大風村 郭仁愛さん(81歳)-山に逃げた後、「帰順」して「良
          民証」を受け取り、道路工事をさせられる―村から叉河ま
          での道路工事、保塁作り、木橋の建設の仕事。
           仕事をしないと言って、村人が7-8人殺された。
     ③、耐村―昌化江の橋づくり―民家を壊して材料に使う、1日8軒を
        壊した。望楼づくり。
   3 性暴力―日常的な強姦
       大風村
       昌化鎮の港
       保平村―「慰安所」 保平の守備隊には10-20人くらいの女性
          がいた。
          保平村の性暴力事件
   4 石碌鉱山の強制労働
       石碌鉱山の労働に昌化地域の村から強制供出
     ①、保平村からは叉河まで歩いて、そこから石碌までは鉄道に乗った
        石碌鉱山では、マラリアが流行した時にマラリアにかか
       った人を生きたまま焼き殺した。
     ②、大風村の鍾文強さんの祖父が石碌鉱山で焼き殺された。
         徒歩、トラック、鉄道で鉱山に移動
     ③、昌化鎮―自分は15歳の時に父の代わりに行った。各家
         からひとりは石碌に行かされた。ここから八所ま
         で歩いて行き、そこから石碌まで鉄道で行った。
         2-3年働いて、又交代した。 
     ④、光田村―石碌で、朝鮮報国隊を見た。
     ⑤、進村に住んでいるという女性(符勇利さん)の兄さんは、
      石碌鉱山で、体が弱って動けないのをマラリアにかかったと
      疑われ、焼き殺された。
   5 村の焼却
       昌化鎮の港に横須賀鎮守府第4特別陸戦隊が入ってきた時、
      30軒ほどあったすべての家が焼かれた。
   6 日本語学校
      保平村の日本語学校―日本人と中国人が教師で、日本語
        と漢語を教えた
      昌城村の日本語学校―杜国光さん
        生徒は100人足らず、教師は昌城の人で、日本語を教
       えた。卒業後、八所の日本語学校に行った。1942-43年
       の1年間.ここには生徒が1000人以上いた。卒業後、石
       碌の病院で日本人女医の手伝いをした。
   7 抗日闘争
     ①、昌化鎮の光田村―共産党の抗日闘争の根拠地
        1945年3月日本軍に2名が殺され、8名が逮捕、拷問を
       受けた。8名が並べてうつぶせに寝かされ、1枚の板を通
       して充てられ、背中や尻を鉄の棒でたたかれた。そのあ
       と、監獄に50日ほど閉じ込められ、後ろ手に縛られ、足
       かせをはめられたまま、食事も排便もそのままの状態。
     ②、海尾鎮白沙村の望楼の襲撃
   8 住民虐殺の地元民による記録
     ①、旦場村の村歌「日寇惨殺旦場同胞(哀嘆長恨歌))」
     ②、耐村 李文運『統耐村受日頑固残殺命如下』1939年10月
     ③、光田村―鍾経倫『光田村血泪史』
二 沖縄の強制集団死
   1 海南島の住民虐殺と沖縄の住民虐殺(資料別添)
   2 「1億総玉砕」と地上戦における日本の民間人の集団死
       地上戦のあったところで、民間人の強制集団死は繰り返
      された
     =サイパン島、グァム島、テニアン島、フィリピン、沖縄戦、
     「満州」
     → 「本土決戦」「1億総玉砕」の想定
     「本土決戦」の目的=「国体の護持」
     1945年7月25日 関東軍の「全満防衛会議」
       「帝国としては政略攻勢により戦争の決を求めざるを得
       ず。この際の条件は唯一国体の護持在るのみ。しかして
       国体護持のためには、一億総玉砕あるのみ」
     民間人への自決の強要と放置
      「日系婦女子は自決セシメ、第二の拠点に隠遁す」
         ↓
     「玉砕」としての「集団自決」
     ①、全滅という言葉の意味を和らげる
     ②、軍上層部の責任を回避する=死者の自己責任にする
     ③、軍事作戦の用語であるにもかかわらず、軍人に限定され
      る言葉が民間人にまで適用される=官民一体の死
   3 住民虐殺と強制集団死とのつながり
     ①、捕虜を拒否する軍人の思想
      山形有朋―1882年軍人勅諭
        戦いに於いては「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽し
       と心得よ」と、「死は或いは泰山より重く或いは鴻毛よ
       り輕し」
         ↓
      1941年「戦陣訓」東条英機
        「生きて虜囚の辱めを受けず」
     ②、軍人思想の民間人への浸透
        「捕虜になることの恥」
        「鬼畜米英」に対する恐怖心=「鬼畜米英に犯される
       恥」+ 山県による「日本人の死生観作り」=「集団自
       決に具現される死生観」
        これに加えて、「鬼畜米英の残虐非道」のプロパガン
       ダが浸透していく。
       =捕虜にならずに死ぬしかないという意識は、アジアに
       おける日本軍の住民虐殺や略奪や性暴力が招いた帰結。
       → 集団死の賛美と自己責任への転嫁
 
資料
 「慰安婦問題」、「住民虐殺」に対する県の見解 2012年
     県は、「慰安婦問題」「住民虐殺」については、沖縄戦の特徴
    として後世に語り継がなければならない重要な史実であると認識
    しており、沖縄県平和祈念資料館において、次のように展示して
    います。
  ≪慰安婦について≫
    慰安所の分布図を展示し、その説明文として下記のように記載し
   ています。
     沖縄の慰安所
       沖縄でも各地の部隊の後方施設として慰安所が併設され、
      民家などが慰安所として使用された。「慰安婦」の多くは
      朝鮮半島から強制的に送られた女性であった。
       彼女たちは部隊と共に移動させられたため、戦場で多くの
      人々が犠牲となった。
  ≪住民虐殺について≫
    スパイ虐殺だけでなく、『住民犠牲の諸相』として、次のように
   展示しています。
    住民犠牲の諸相
       沖縄戦の最大の特徴は、正規軍人より一般住民の犠牲者数
      がはるかに多かったことである。戦闘の激化に伴い、米英軍
      の無差別砲爆撃による犠牲のほか、日本軍による住民の殺害
      が各地で発生した。
       日本軍は沖縄住民をスパイ視して拷問や虐殺をしたり、壕
      追い出しや、米軍に探知されないために乳幼児の殺害などを
      おこなった。その他、食糧不足から住民の食糧を強奪したり、
      戦闘の足手まといを理由に、死を強要した。住民は逃げ場を
      失い、米軍に保護収容される者もいたが、食糧不足による餓
      死や追い込まれた住民同士の殺害などもおこり、まさに地獄
      の状況であった。
    日本軍による住民犠牲
       日本軍は、兵員、兵器、弾薬、食料などすべてが不足する
      中で沖縄戦に突入した。
       このため、食料・避難壕などの強奪や戦場での水汲み、弾
      薬運搬への動員などによる多くの犠牲を住民に強いた。さら
      にスパイ視による住民殺害など残忍な行為もあり、なかには
      投降の呼びかけや説得にきた住民を殺害した例もあった。
    壕追い出し
       自分たちの住む町や村が戦場となった住民にとって、壕や
      墓などが避難場所であった。
       しかし、出血持久作戦をとり首里から南部へ撤退してきた
      日本軍は、陣地として使用するという理由で、壕や墓などを
      強奪した。避難場所を追われた多くの住民は、砲弾が飛び交
      う戦場で犠牲となった。
    スパイ視虐殺
       軍民雑居の戦場となった沖縄の日本軍は、住民から軍の機
      密が漏れるのを極度に恐れた。「沖縄語ヲ以テ談話シアル者
      ハ間諜トミナシ処分ス」という命令も出されていた。米軍の
      投降勧告ビラを持っていたり、投降を呼びかけてきた住民は
      非国民とみなされて、虐殺された例もあった。
    日本軍の強制による集団死
       日本軍は、住民と同居し、陣地づくりなどに動員した。住
      民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降すること
      を許さなかった。迫りくる米軍を前に「軍民共生共死」の指
      導方針をとったため、戦場では命令や強制、誘導により親子、
      親類、知人同士が殺しあう集団死が各地で発生した。その背
      景には、「天皇のために死ぬ」という国を挙げての軍国主義
      教育があった。
    食料強奪
       食料を入手できなくなった地域では、日本兵による住民の
      食料強奪が相次いだ。なけなしの食料を強制的に提供させら
      れたり、拒否する場合には殺害されることもあった。さらに、
      食料の乏しい離島では、日本軍にすべての食料を管理され、
      住民は飢餓に苦しんだ。
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年表:海南島と沖縄 (抄) 2

2013年08月23日 | 海南島近現代史研究会
■年表:海南島と沖縄 (抄)2 1945年夏以後
1945年8月20日 日本海軍久米島守備隊(鹿山正兵曹長ら約30人。6月26日に久米島にアメリ
      カ合州国軍が上陸してから住民虐殺を続けていた)、具仲会(「谷川昇」)一家
      全員7人を虐殺。鹿山正は9月7日にアメリカ合州国軍に投降、
1945年10月 中国陸軍粤桂南区統指揮部前進指揮所・中国杭州空軍第6区地区司令、海南
     島の日本軍施設接収
1945年12月 海南島韓国人民聯合会の金元植会長、元日本海軍特務部政務局長溝口大佐を
     射殺
1946年11月3日 天皇制を維持する日本国憲法公布(1946年11月3日施行)
1947年7月 楽会県互助郷坡村長仙三古南橋雅昌佳文風嶺吉嶺官園等村抗戦死難民衆公墓
     建設
1947年7月 元第15警備隊文昌中隊長兼石績、元文昌中隊長冨田堯人、元文昌中隊小隊長
     望月為吉、住民を虐殺したとして広東で処刑
1947年9月 天皇ヒロヒトの「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」という「メッセー
     ジ」がシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた(この「メッセージ」は
     1979年に「発見」され、2008年3月から沖縄公文書館で“天皇メッセージ”として公
     開)
1948年4月 海南鉄礦田独礦区の労働者、田独鉱山に「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」建
     立
1948年10月 元海南島第16警備隊司令官能美実、アメリカ合州国軍捕虜殺害で、横浜裁判で
     終身刑宣告
1950年5月 中国人民解放軍、海南島「解放」
1952年4月28日 「サンフランシスコ平和条約」発効(奄美群島・琉球列島、アメリカ合州国の
       軍事支配下に)
1953年4月 アメリカ合州国民生府、沖縄で「土地収用令」公布→土地強制収用
1953年12月24日 「奄美群島返還日米協定」調印
1959年6月 嘉手納基地のアメリカ合州国軍戦闘機、石川市宮森小学校に墜落(生徒11人、一
     般人6人死亡)
1960年4月 沖縄県祖国復帰協議会結成
1965年2月 沖縄のアメリカ合州国海兵隊航空ミサイル大隊、ベトナム南部のダナンに上陸
1965年5月 立法院・行政院、アメリカ合州国軍の沖縄県民にたいするべトナム行き輸送船乗
     船要請に抗議
1965年7月 沖縄から発進したアメリカ合州国軍のB52、ベトナムを爆撃
1966年10月 日本海上自衛隊練習艦、那覇に入港
1970年12月20日 「コザ反米騒動」
1972年5月15日 「沖縄返還協定日本国(琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合
       衆国との間の協定)」発効(1971年6月17日調印)
1974年8月20日 久米島に「痛恨の碑(天皇の軍隊に虐殺された久米島住民久米島在朝鮮人
      痛恨の碑)」建立
1975年6月25日 船本洲治、沖縄嘉手納基地第二ゲート前で「皇太子の訪沖阻止!」の言葉を
       残し焼身決起
1975年7月17日 ひめゆりの塔を訪れた皇太子夫妻に、知念功ら火炎瓶投擲
1986年3月 読谷高校卒業式で校長が掲揚しようとした「日の丸」を、女子卒業生が奪って溝に
    捨てる
1987年4月2日 チビチリガマに「平和の像(チビチリガマ世代を結ぶ平和の像)」建立(1887
    年11月8日に破壊され、1995年3月に再建)
1987年10月26日 知花昌一、読谷村の海邦国体ソフトボール会場のメインポールの「日の丸」
       を焼き捨てる
1988年 海南省政府・東方県政府、「日軍侵瓊八所死難労工紀念碑」建立
1995年8月 海南省政協文史資料委員会編『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』発行 
1999年8月13日 「国旗国歌法(国旗及び国歌に関する法律)」公布・施行
2001年7月 日本軍隊性奴隷とされた黄玉鳳ら8人、日本国を被告として、「名誉及び尊厳の回
     復のための謝罪」と「名誉及び尊厳の回復がなされてこなかったことに対する損害
     賠償」を求めて訴状を東京地裁に(「海南島戦時性暴力被害訴訟」)
2001年初め 海南省人民政府・三亜市人民政府、「田独万人坑死難坑砿工紀念碑」建立
2006年5月13日 読谷村に「恨之碑(アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之
       碑)」建立(1999年8月17日に韓国慶尚北道英陽に建立)
2006年8月 東京地方裁判所、海南島における日本軍の性犯罪事実とその不法性を認定しな
     がら日本政府を免罪する不当判決。原告・弁護団直ちに控訴。中国人戦争被害賠償
     請求事件弁護団・海南島戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団共同抗議声明。中華
     全国律師協会・中華全国婦女聨合会・中国人権発展基金会・中国法律援助基金会・
     中国抗日戦争史学会共同抗議声明
2007年10月 海南島月塘村で、「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑領導小組」結成
2008年4月26日(農暦3月21日) 月塘村の村民、「月塘“三・廿一”惨案紀念碑」建立
2008年9月7日 宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会、祈念碑「女たちへ」と「アリ
      ランの碑」を建立
2008年10月 月塘村村民から委託されて、海南島近現代史研究会、日本政府に、月塘村で虐
     殺をおこなった日本軍人の姓名開示要求などの「致日本国政府要求書」を出す
2009年3月 「海南島戦時性暴力被害訴訟」東京高等裁判所判決。控訴棄却。原告、上告
2010年3月 最高裁判所第3小法廷、上告を棄却し上告受理申立を不受理とする決定。海南島
    戦時性暴力被害賠償請求事件弁護団と中国人戦争被害賠償請求事件弁護団、抗議声
    明
2010年5月28日 アメリカ合州国軍普天間基地の移設先を辺野古に押しつける日米共同宣言
2012年10月1日 アメリカ合州国軍、「オスプレイ」の普天間基地への配備開始
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「構造的差別がまかり通っていいのでしょうか」

2013年08月22日 | 海南島近現代史研究会
 以下は、知花昌一さんからきょう(8月22日)海南島近現代史研究会に届いた、8月25日の海南島近現代史研究会第7回総会・第12回定例研究会(主題:海南島と沖縄)での報告の「要旨」です。


構造的差別がまかり通っていいのでしょうか
   (親鸞聖人に学ぶ非戦・平和   日本復帰41年と米軍基地問題)
                              真宗大谷派僧侶 知 花 一 昌
■はじめに
 阿弥陀経に「今現在説法」という言葉がある。「今、現にましまして説法されておられる」と直訳されるが 阿弥陀仏の光明のよって、私が呼び返えされている作用のことです。
 おまえの生き方はそれでいいのかと呼び返されているのです。そのことを、「今の私」が聞き取れているのかということでしょう。
 仏教は「今・現在」を大切にする宗教です。
 「現在」は「過去・現在・未来」という時間軸で、流れていくものとして考えるのではなく、「過去・未来・現在」として「現在」の中に「過去と未来」を内包するものとして捉えています。私は、そしてあなたは、過去を包み込み、未来を見据えて「今・現在」生きているのであり、「未来は現在にある」のです。この「場」がどういう場であろうと否応なしに私は、 あなたは「現在」に居合わせているのです。
 私達の今はどういう「今」なんでしょうか。

■1、沖縄の今は 日本復帰41年を迎えていますが、多くのウチナーチュは構造的差別による
   第5の琉球処分がなされようとしていると認識しています。
 仏教は、物事は無常の中で変化し、「因」と「縁」の関係性によって「果」が生起すると理解します。差別は社会的意図によって生起し、「する側」と「される側」の関係性・「する側」の無自覚によって維持されます。
 「処分」とは 権力作用の発動で一方的に決着をつけることであり、強いものの意思により、弱いものが組み伏せられていく状況です。

 第1の琉球処分は、1879年3月27日に強行された琉球国の軍事併合です。
明治政府は、薩摩に植民地化されていた琉球国を一方的に琉球藩としたが、琉球国側が従わなかったので600名の軍隊・警官をもって武力威圧のもとで首里城明け渡しを命じ、国王を東京に拉致し、琉球国を廃し沖縄県とした。

 第2の琉球処分は、1945年3月から9月までの沖縄戦です。
 本土防衛と称して筆舌しがたい地上戦を強いられ、20万人余の犠牲を生じさせ、「捨て石」として処分した。

 第3の琉球処分は、1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約の発効です。
 3条で「合衆国は領水を含むこれら(沖縄を含む南西諸島等)の領域及び住民に対して行政・立法及び司法上の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」とされ、それは「25年ないし50年間米国が琉球諸島を占有することが望ましい。日本国民はそれを許すでしょう」とした1947年の天皇メッセージなどが反映されたことになり、日本の主権回復と同時に、日本政府は沖縄を米国による屈辱の異民族軍事独裁支配下植民地として処分した。

 第4の琉球処分は、1972年5月15日 沖縄返還=本土復帰である。
沖縄は、屈辱の元凶である米軍基地もない本土並みと平和憲法を求め、コザ反米民衆蜂起などの激しい本土復帰闘争を展開したが、日米政府は米軍基地維持を目的とした沖縄返還を強行し、日米安保のもと米軍基地として処分した。その結果在日米軍基地の実に74%が日本国土の0.6%の沖縄に密集することになっている。生活している人は140万人。

 第5の琉球処分は、2010年5月28日の辺野古新基地建設の日米共同宣言と今日までの沖縄政策です。辺野古基地建設、オスプレイ配備をめぐって沖縄側の意思が一切反映されることなく米軍基地維持の日本政府の強権的、差別的沖縄政策がなされようとしているのです。

 沖縄はこれまで4回にわたり10万人規模の県民大会を開き、日本政府の沖縄政策に異議を突きつけてきた。
 1995年10月 少女暴行事件に対する地位協定改正の県民大会、
 2007年9月 沖縄戦「集団自決」の教科書改ざんに抗議する県民大会、
 2010年4月 辺野古新基地建設の中止を求める県民大会、
 そして去年の2012年9月 オスプレイ配備の中止を求める県民大会である。
 10万3千人もの県民が一堂に会し、県知事、県議会全会一致、全41市町村長、議会がこぞって配備に反対する中を、一顧だにせず日米政府は危険さオスプレイを強硬配備した。
 まさに屈辱ともいえる仕打ちにたいして、言い知れもない怒り、いきどうり、やり場もない悔しさ、哀しさで一杯です。
 民主的手段でこれでもかこれでもかと訴えてきたが、これらの何一つ解決に前進してない。10万人規模の大会を実現するにどれほどの時間とエネルギーと資金が必要か日本政府はもとより、本土民衆も知ってほしい。
 「もう抗議とか訴えではなく、具体的な抵抗が必要だ」との声が出始めてきた。大方の民衆は日和見であり、保守的である。しかし日和見や保守的に優る怒りが熟成すると一気に燃え上がる。
 沖縄はその経験を1970年12月、80台もの米軍車両を焼き捨てた「コザ民衆蜂起」で経験している。県知事でさえ今の状況を「地下のマグマが燃え上がってきている」と表現する。マグマの爆発に期待と不安の入り混じった複雑な思いである。

 米軍は、03年ラムズフィイルド国防長官さえ世界一危険だと認知している普天間基地に世界一危険なオスプレイ24機を強行配備し、日本政府はそれを追認・推進してきた。沖縄では県知事、那覇市長以下全県的に猛烈に反対しているにもかかわらず、強硬配備してきた。本土の都道府県でこれだけの意思表示がなされても政府はその地域の意思に反して物事を強行するようなことをするだろうか。決してしないだろう。このようなことを第5の琉球処分と思っており、あれほど求めた日本復帰が、いまでは琉球独立ととの声が日増しに増えている。

 日本政府は、沖縄米軍基地問題については常に「米国との信頼関係の維持」 「日米安保における抑止力の維持」を理由にしている。いわゆる「国策としての日米安保」のためには沖縄140万人の意思など関係ないとの態度が日本政府に一貫している(日本の大方の民衆もそれに加担)。そして米軍基地=日米安保=国策の 迷惑・犠牲には「札束」で黙らそうとしてきた。
 それは「原発村」にも全く同じ構造が見える。

 人間は「お金」のために生きているのではない。精神的にも社会環境的にも豊かに生きていく手段として「お金」はある。沖縄も福島の民衆もこれまでお金で黙らされてきた経緯があるが、そのことを気附いてきたのです。

 沖縄も福島も政治的辺境です。辺境からは中央部が、この国の姿が、やり方が見えるのです。国策=国益=国権に対して、民衆の生き様を、人間としての権利を、民権を!

 人間は思いを馳せることができる動物です。「今現在説法」(おまえの生き方はそれでいいのか)を自分に問い続けていきたい。

2、沖縄に米軍基地を置き続ける必然性はない。
  地政学的必要性や抑止力はまやかし

 「学ぶにつけ海兵隊は抑止力が維持できるという思いに至った」2010年5月
 「海兵隊の抑止力は方便だったといえばそうである。」2011年2月鳩山元総理

 日本の面積の0.6%沖縄に、在日米軍基地の74%を置き、世界遺産的過密
 国民多数の意思により戦後68年間現状→構造的沖縄差別
 財政的優位性があれば米軍はどこにでも展開する→多額な思いやり負担
 海兵隊は突撃部隊で抑止力ではなく、侵略力である。あえて抑止力と言えば空軍・海軍の核兵器などの大量破壊兵器である→軍事的常識

3、この国の主権者は誰なのか、米軍なのか 米軍優先の政治
 1972年沖縄返還における日米密約隠ぺい事件(核持ち込み、米軍基地整備の費用負担、裁判権行使の放棄、通貨交換によるドルの米国へ無利子預金)
 噴出する米軍犯罪、日米地位協定により国民が蹂躙されていても、痛みも屈辱も感じない政府
 公務中の事件の裁判権は米国、公務外でも基地に逃げれば逮捕なし
 2004年8月沖国大米軍ヘリ墜落事件、事件現場を仕切ったのは米軍

4、基地が返還されると沖縄は困るのではないか?
 米軍基地が無くても沖縄は生活できるようになった。
 全米軍基地返還での生産誘発額は年間9155億円、雇用期待2.7倍(県議会)
 米軍基地があるゆえに日本政府の年間投下額は現在3255億円(2010年)

 ●軍用地料が無くなると心配?
  軍用地主3,8万人 軍用地料783億円→日本政府
  跡地開発により財産価値が高くなる。返還地の賃貸借料が軍用地料並

 ○経済的困窮が話題になったことはない。

 ●米軍・家族の消費が無くなると心配?
  米軍人関係45000人(軍人軍属25500人、家族19500人)
  米軍直轄事業260億円 家庭消費金額138億円

 ○経済依存度が小さくなっている。1972年返還時17%→今4%
  ドルと円との交換レート1972年1$=360円→今90円
  観光客1972年44万人→600万人、収入1972年324億円→4104億円

 ●基地従業員が失業すると心配?
  約9000人 給与521億円→日本政府、現在沖縄の完全失業率7.5 %

 ○米軍基地があるのは日本政府の責任、
  沖縄の米軍基地は沖縄側が誘致したことはない。後始末まで責任を持つべきであり、財政
 的にも駐留米軍経費7146億円(思いやり予算1900億円)がある。

 ◎返還跡地の経済効果
  ハンビー飛行場=北谷町美浜=アメリカンビレッジ
  返還前従業員数100人→今2259人、税収357万円から→今1億850万円
  経済波及効果総事業費1726億7100万円
  牧港住宅地区=那覇新都心
  返還前従業員数196人→今7168人 税収10億4863万円(06年度)
  天願通信所4人→今2431人、那覇空軍・海軍補助施設470人→今6769人


怒りとは
 「法蔵の願心とは、如来の怒りをあらわす心である。
 怒りを忘れた慈悲心、怒りなき信仰は、無性格であり、そこに何らの行証はない。
 今日、宗教を語り、信心を学ぶ人は多い。
 しかし、そこに怒りをもてまことを求める人は少ない。
 法蔵の願心は、もと純粋な憤怒の言葉ではなかろうか。
 本願の第一歩は、「国に地獄・餓鬼・畜生あらば われ正覚をとらじ」である。 信心は凡夫の心に興起した法蔵の願心である。されば信心は、まことなき世にまことを求める心に始まり、まことなき世にまことに生きんとすること に帰すると言っていい。

(佛の名のもとに)
 親鸞聖人の生き方と教え
 1206年承元の法難が浄土真宗としての源
 「非僧非俗」 教行信証の後序と「歎異抄」流罪文
 このような生き方・在り方があるだろうか。
 親鸞さんは肉食妻帯=俗として生きてこられた。
 釈尊の「自灯明法灯明、犀の角のように1人で歩め」の生き方を「非僧非俗」と表現され、自分の根底に据えることで 「独立した一人」になれる、自由になれることが見えてきた。
 仏教は平和と平等をめざす宗教である、行動する仏教、変革する仏教。
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