三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

旦場村で 1

2013年01月31日 | 海南島
 1939年11月4日(農歴9月23日)に日本軍が海南島西部の昌化江河口の東方市四更鎮旦場村を襲撃した。
 海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(『海南文史資料』第11輯、1995年8月)に収録されている呉昌雄「東方県旦場村惨案」には、つぎのように書かれている。当時旦場村は昌江県に属していた。「昌感」とは、昌江県と感恩県を意味しており、現在は昌江県のうち昌化川南部と感恩県全域は東方市に属している。
   「1939年2月、日本軍は海南島に侵入し、7月に昌感県(現、東方県)を占領し、北黎に駐
   屯し、司令部を設置した。日本軍は昌感県内で、殺人し放火し姦淫し略奪しあらゆる
   悪事をおこなった。旦場村虐殺は海南島侵略日本軍が昌感地域でひきおこした残虐事件
   のひとつである。
    旦場村は海南島西部昌化江の河口にあり、約200戸で1000人あまりが住んでいた。1939
   年8月、日本軍は近くの四更村に治安維持会を設立したあと、旦場村を蹂躙した。旦場村
   の住民の大部分は妻子とともに野外に住み日本軍のもたらす災難を逃れた。9月上旬、漢
   奸の董必安が日本軍の命令を受けてしばしば旦場村に来て住民を威嚇し日本軍に降順
   するように脅迫した。…………憤激した民衆は治安維持会が降順させようとしてもってき
   た日本国旗をその場で破り捨てた。…………
    9月23日の夜明け、日本軍は、“抗令拒申”を理由にして、多数で旦場村を包囲した。100
   人あまりの駐北黎日本軍が、漢奸に案内されて、東、南、北の3方向から旦場村に突
   入してきた。…………
    この日、日本軍は、旦場村で村民93人を殺害し(その後殺された人をあわせると110人
   あまりになる)、家38軒を焼き、4人の女性を犯した」。
 戴澤運「日軍在昌感若干暴行記述」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県文史委員会編『東方文史』第10輯〈1995年3月〉。海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続(『海南文史資料』第13輯〈1996年8月〉に再録)には、日本軍の旦場村襲撃について、つぎのように書かれている。
   「1939年9月23日早朝、日本軍は、“抗令拒申”を理由にして、3方面から旦場村を包囲
   した。村に侵入した日本軍は、家を一軒づつ捜索し、村人をみつけると、白髪の老人も
   嬰子も殺した。逃げるこことができなかった村人はすべて殺された。30人を越す村人が
   日本軍に追われて海辺に行き、あるものは銃で撃たれ、あるものは海で溺れて死んだ。
   この日、101人が殺され、家が38戸焼かれ、女性4人が犯された」。

                                          佐藤正人
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長久保赤水「改正日本輿地路程全図」が示していること 2

2013年01月30日 | 個人史・地域史・世界史
 長久保赤水(1717年~1801年)の「改正日本輿地路程全図」は、長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」(『歴史地理学』127号、1984年)によれば、1779年から1871年までに7回出版されているようである。このうち長久保赤水の生前に発行されたのは、1779年の初版と1791年の2版である。
 「改正日本輿地路程全図」には、「竹島一云磯竹島」(現、欝陵島)と「松島」(現、独島)が記載されているが、わたしが20年あまり前に入手した1791年版では、日本は彩色されているが、竹島と松島は、朝鮮と同じく彩色されていない。1779年の初版でも同じであろう。また1811年に発行された3版でも同じであった。「改正日本輿地路程全図」の初版、2版、3版では、竹島、松島は、朝鮮とされていた。
 しかし、外務省の『竹島 竹島問題を理解するための10のポイント』にカラー写真が掲載されている「改正日本輿地路程全図」の1846年版(6版)の竹島と松島は隠岐の島と同じく黄色で着色されている。1864年に東都書肆から出版された「大日本海陸全図」は長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」を加工したものだが、この地図の「竹島」も「マツシマ」も黄色で着色されている。
 1833年に出版された「改正日本輿地路程全図」をわたしはみていないが、「竹島」と「松島」に着色がなされたのは1830年代以後(あるいは1840年代以後)である。
 また、「鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載している地図は多数存在します」という外務省の『竹島 竹島問題を理解するための10のポイント』の断言も虚言である。
 「海南島と独島」を主題とする2月10日の海南島近現代史研究会第11回定例研究会では、長久保赤水「改正日本輿地路程全圖」(1791年版)、林子平「三國通覧圖説 朝鮮八道之圖」(写本、1785年)、高柴英三雄「大日本國郡輿地全圖」(1849年)、秋田兼吉「最近踏査満韓西比利地圖」(1904年5月)、東洋拓殖會社「朝鮮在留内地人及東洋拓殖株式會社所有地分布圖」(1912年2月現在)などの独島にかかわる諸地図の原本を展示する(海南島近現代史研究会 第11回定例研究会については、このブログの2012年12月18日の「海南島近現代史研究会 第11回定例研究会 主題:海南島と独島(竹島)」をみてください)。
                                         佐藤正人

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長久保赤水「改正日本輿地路程全図」が示していること 1

2013年01月29日 | 個人史・地域史・世界史
 2008 年2 月に、外務省アジア大洋州局北東アジア課は、『竹島 竹島問題を理解するための10のポイント』と題するA4版16頁の冊子の日本語版、朝鮮語版、イングランド語版を同時発行した。
 それは、独島(「竹島」)を「我が国固有の領土」であるという主張などの根拠を「10のポイント」で示そうとするものであった。
 これにたいして、内藤正中さんは『竹島=独島問題入門 日本外務省『竹島』批判」(2008年10月、新幹社)を発表し、『竹島 竹島問題を理解するための10のポイント』が史実に反するものであり「内容のないきわめてずさんな刊行物」であることを簡潔に論証している。
 韓国では2012年はじめにソウル大学校出版文化院から慎鏞廈『독도영유의 진실이해  16포인트와 150문답』(独島領有の真実理解  16ポイントと150問答)が出版され、2012年7月に同書第1編の日本語版『世界の人々の独島の真実を理解するための16ポイント』(企画・翻訳韓国独立運動史研究所)が独立記念館から出版されている。同書においても、『竹島 竹島問題を理解するための10のポイント』が「真実を歪曲」していることが資料に基づいて論証されている。
 『竹島 竹島問題を理解するための10のポイント』の「Point 1」は、「日本は古くから竹島の存在を認識していました」というものであり、その全文はつぎのようなものである。
   「現在の竹島は、我が国ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹
   島」と呼ばれていました。竹島や鬱陵島の名称については、ヨーロッパの探検家等によ
   る鬱陵島の測位の誤りにより一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」
   の存在を古くから承知していたことは各種の地図や文献からも確認できます。例えば、
   経緯線を投影した刊行日本図として最も代表的な長久保赤水の「改正日本輿地路程全
   図」(1779年初版)のほか、鬱陵島と竹島を朝鮮半島と隠岐諸島との間に的確に記載し
   ている地図は多数存在します」。
 また、この「ポイント1」の本文の下には、「「改正日本輿地路程全図」(1846年)(写真提供:明治大学図書館)」という説明がつけられた地図のカラー写真が掲載されている。
 外務省は、本文では、長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779年初版)を、「我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたこと」を示す証拠としていながら、写真では1846年版の「改正日本輿地路程全図」を示している。
 これは、外務省が「改正日本輿地路程全図」の初版の写真を入手できなかったからではない。。「改正日本輿地路程全図」の1779年の初版に依拠しては、独島(「竹島」)を「我が国固有の領土」であるとすることができないからなのである。
                                          佐藤正人
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アメリカ合州国海軍艦船のオタル入港容認に抗議

2013年01月28日 | 個人史・地域史・世界史
 オタル港湾管理者であるオタル市長は、1月25日に、アメリカ合州国軍艦「ラッセン」のオタル港入港を容認し、小樽港長に港町ふ頭3番バースを手配するように連絡しました。
 それにたいして、米空母に反対する市民の会と改憲阻止!労働者・市民行動は、きょう(1月28日)、オタル市長に抗議しました。
 以下は、抗議・要請文の全文です。
 神戸市は、1975年いらい入港する外国軍の艦船に「非核証明書」の提出を義務付けています。1975年以後、フランス軍・イタリア軍・インド軍・イギリス軍の艦船は「非核証明書」を出して神戸港に入港していますが、アメリカ合州国軍の艦船は「非核証明書」をだすことができないので一度も神戸港に入港してしません。
 オタル市も、アメリカ合州国軍の艦船を含むすべての外国軍の艦船に「非核証明書」の提出を求めるべきです。
                           米空母に反対する市民の会 佐藤正人
 
■米海軍第七艦隊ミサイル駆逐艦「ラッセン」のオタル港への入港許可に対する抗議・要請

 わたしたちは今回の米海軍第七艦ミサイル駆逐艦艦「ラッセン」の入港をオタル市が認めたことに強く抗議します。
 これまでも、オタル港には幾度となく米軍艦船が入港してきました。
 米軍艦船は1961年以降、「ラッセン」でなんと74回もオタル港使用しているのです。
 もはや米軍の補給港ともいえるほどの入港が繰り返されています。
 今回の入港要請については米軍からの通知から回答まで実質1日だけという異常な要求は「友好・親善」の為ではなく米軍の「日米安保体制」を拡大解釈した軍事行動の実績作りの一環です。
 オタル市は米軍艦船の入港を認める要件として「核兵器搭載がない事の確認」を米国および米軍に対して行わず外務省からの文書で要件を達成したと判断するという「核兵器廃絶平和都市宣言」の名に相応しくない判断を繰り返しています。
 「当該艦船については、核兵器搭載能力がない以上、核兵器を搭載していないことにつき、我が国政府として疑いを有していません」という外務省回答は、今までの核持ち込み承認の密約が明らかになる前の「事前協議がないので核を積んでいない」とくりかえし入港を認めていた時の回答となんら変らりません。
米軍はすべての核弾頭を廃棄してはいません、核弾頭搭載可能なミサイルはいまだ存在しています。
 ラッセンは原子力空母ジョージ・ワシントンのバトルチーム艦として行動しています。米軍がこれまでアフガニスタンやイラクにたいして行ってきたさまざまな攻撃、破壊は多くの犠牲者を出し重大な環境破壊を引き起こしています。
 ラッセンはこのような戦闘行為を任務とする軍艦で核弾頭搭載可能なトマホークミサイルを装備しています。
 米軍は核兵器を現在も所持しています。米軍は個別の艦船や航空機にたいしての核非搭載については明らかにしないとしている以上「搭載の可能性」がないという証明にはなりません。
 またもや日本政府(外務省)の言いなりになったことに私たち市民は強い怒りをもっています。
神戸では、米国が軍事上明らかに出来ない「個別の艦船についての核搭載の有無」の確認を求める、いわゆる「神戸方式」を実行しています。核兵器非搭載を明示しない軍艦船は入港できません、中央政府に負けず、このような地方民間港の自治行政をオタル市が実践していくよう私たちは要請します。
 今回、中松義治オタル市長がミサイル駆逐艦ラッセンのオタルへの入港を認めたことに対して抗議するとともに、オタル港の平和的利用のために、軍艦の利用を一切認めることがないよう強く要請します。
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 29

2013年01月22日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 20
 第10回海南島「現地調査」 3
 日本軍が海南島に侵入していた時期、海南島南部の尖峰嶺地域には、抗日軍の根拠地がきずかれていた。2006年3月末から4月初めにかけて、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、尖峰嶺地域の村々を訪ね、王子製紙がおこなった企業犯罪を調査した。楽東黎族自治県尖峰鎮紅湖村に、王子製紙の軽便鉄道の跡が残っていた。
 王子製紙は、アイヌモシリ(「北海道」・「カラフト」)、朝鮮、中国東北部、海南島に侵入し、大量に樹木を奪い、原始林を破壊しつづけた。王子製紙は、樹木伐採・輸送などのために軽便鉄道をつくり、原木を確保するとともに安価な電気を確保し販売するためにダム建設をおこなった。
 「北海道」北部の雨龍ダム建設のとき、強制連行されてきた朝鮮人をふくむおおくの労働者が、酷使され、いのちを奪われた。その雨龍ダム建設をおこなった雨龍電力株式会社は王子製紙の子会社だった。
 海南島尖峰嶺地域の樹木を奪い輸送するために、王子製紙が、嶺頭駅(石碌鉱山―三亜間鉄道の駅)から尖峰嶺山麓の土崙までの軽便鉄道の建設を始めたのは、雨龍ダム発電開始半年後の1944年2月であった(1945年3月完成)。そのとき使った機関車は「北海道」のトマコマイから運んできたもののようである。
 紅湖村は、王子製紙の軽便鉄道の起点(終点)である嶺頭駅から東に4キロほどのところにある。嶺頭駅から東北に4キロほどいくと黒眉村が、8キロほどいくと高園村がある。日本占領期には嶺頭駅の南側には日本軍守備隊の兵舎があったという。
 紅湖村の村人に案内されて、裏畑を抜けると、細い一直線の道に出た。鉄道の敷石に使われていたと思われる小さな石がたくさんあった。村人が、その道が軽便鉄道の線路の跡だと教えてくれた。尖峰嶺の方向(東方)に1キロほど歩くと、湖から水を引く水路にかかるコンクリートの小さな橋があった。その橋はむかしは木橋で、そのうえを軽便鉄道が通っていたとのことだった。

★楽東黎族自治県尖峰鎮紅湖新村で
 紅湖村に近い紅湖新村の自宅の庭の樹の下で李玉球さん(1930年生。黎族)は、つぎのように話した。
   「昔、鉄道を作る工事をさせられた。鉄道を作った目的はわからなかった。10歳あまり
   のときだった。兄弟が順に参加した。‘輪戸’だった。10数人行って、戻ったら、また
   次の10数人が行った。自分の意思ではなく、順番があったから、行かなければならなか
   った。
    建設がはじまってからできあがるまで1年くらい働かされた。毎日70人~80人が働いて
   いた。女性もいた。
    朝6時から夜9時ころまで働かされた。土を運んだ。100メートルくらい離れたところか
   ら、土を運ぶ。監督がいたら、なるべくいっぱい土を入れたが、いなかったら、少し入
   れる。監督は恐かった。子どもはあまり殴られなかったが、工事をしていたとき、殴っ
   ているところを見た。死ぬまでではなかった。保長が、‘輪戸’を決めた。工事の監督
   は日本人。銃は持っていなかった。村民でひとり選ばれた組長は、労働しなくてもよか
   った。監督は日本兵。台湾人がいた。民間の日本人は見なかった。銃を持った日本人
   は、8人~10人くらいいた。
    朝6時から夜9時ころまで働かされた。1時から昼の休憩があって、食べ物はいっぱい
   で、なんでも食べられた。肉はなかった。魚、野菜。
    賃金は一定ではなかった。10何元のときもあった。賃金で、食料とか服を買っった。
    買い物は、嶺頭でした。老板(経営者)は、中国人だった
    日本軍が来たときわたしが住んでいたのはこの近くの老李落村だった。
    共産党員が村に隠れているといって、日本軍は、2回か3回、村に入ってきた。
    日本軍が村に来ると、全部焼いたから、食べ物も服も家もなくなってしまった。
    祖母(母の母)は歩けなかったので、両手両足に大やけどした。そのとき、7人がつか
   まって連れていかれた。母もつかまって連れていかれた。その後、みんな帰されたが、2
   か月くらいつかまっていた。共産党員をかくまったという疑いで。この近くの村も、全
   部やられた。日本軍は、村があればすぐはいって、村人をつかまえ、殺したり殴ったり
   した。
    わたしが羊追いに出ようとしたとき日本軍が入ってきたことがあった。羊は機関銃で
   殺された。わたしは逃げた。
    日本軍は、嶺頭に駐屯していた」。

 紅湖新村で周文華さん(1930年生)は、こう話した。
   「生まれ育ったのは紅湖村だ。山のふもとにあった。紅湖村も紅湖新村も黎族の村だ。
    日本軍が紅湖村に来て、機関銃で生きているものをみんな殺した。日本軍は何回も来
   た。紅湖村と黒眉村には共産党の人間がいるといって。
    そのころわたしは、食べるものもなく服もなく、下ばきしか身に付けていなかった。
    森林鉄道の工事をさせられた。小石を拾って、コンクリートに混ぜた。夜は家に帰っ
   た。監督は台湾人で、朝しか来なかった。日本兵は、銃を持って監視した。台湾人は白
   い服。日本兵は軍服を着ていた。 
    台湾人が、まじめに仕事をしなくて、日本兵に殴られたのを見たことがある。日本兵
   が火をつけて台湾人を殺したこともあった。
    仕事をまじめにしないといって、日本軍にほほを殴られたことがある。逃げようと思
   ったが、小さかったから、逃げる道を知らなかった。賃金はなかった。食べ物は塩漬け
   の魚とつけもの。軍票ももらっていない。
    当時、家は農業をしていた。父も鉄道工事をさせられた。日本軍が村に共産党を探し
   に来たとき、父は知らないと言って殴られた。父はそのとき、52歳だった」。

★楽東黎族自治県尖峰鎮尖峰村(旧、水馬田村)で
 符亜秋さん(1923年生。漢族)は、尖峰村の自宅でつぎのように話した。
   「昔は山に住んでいたが、11歳か12歳のとき日本軍につかまった。日本軍はさいしょ、
   2、30人で村に入ってきた。武器、銃を持って。肩に掛けている人も、構えている人もい
   た。
    16、7歳まで5、6年間、王子製紙の森林鉄道工事をやらされた。鉄道は、15キロ作っ 
   た。殴られなかったが、食べ物は少ししかくれなかった。仕事は、朝から晩まで。日本
   の兵士と、台湾人がいた。台湾人は、働きながら、監督をしていた。日本人と台湾人
   は、見分けるのがむずかしかった。朝鮮人は見たことがない。軍人以外には、通訳がい
   た。
    逃げようと思った。逃げて軍隊に入りたかったが、つかまるともっとたいへんなの
   で、逃げられなかった。この村からは、4、5人が11、12歳から働かされた。それより小
   さい子は、行かなかった。もっと小さい子は炊事の仕事をさせられた。
    働きに行かなかったら殴られた。逃げた人がいた。何人逃げたかはわからない。つか
   まったら、殺された。遺体は焼かれた。
    病気のときでも言えなかった。言ったら、ガソリンをかけて生きたまま焼かれた。焼
   いた灰を箱に入れて、家族に届けた。
    仕事には家から通った。保長、甲長が仕事に行く人間を決めて、交代で働きに行かさ
   れた。ある人は、死ぬまで働かされた。樹を切りに山に行ったときは、10日に1回くらい
   家に帰ることができた。八所に行かされたときには、2、3か月に1回帰ってきた。工場の
   宿舎で寝泊りした。朝7時から夜中の12時まで働かされたこともある。夕方の6時ころ、
   ご飯を食べた。1日3食。ほかは何時だったかはっきり覚えていない。
    おなかはいつもすいていた。魚のあらと少しのご飯だった。おなかいっぱいにならな
   かったから、野菜をとって、自分でも作って食べていた。(賃金は?)1日3角で1か月9
   元ほどだった。現金だった。そのころ、1角で一斤(500グラム)の魚を買うことができ
   た。布は布票がないと買えなかった。布の品質はとても悪かった。布がいらなくても買
   わなくてはらなかったから、賃金はほとんど残らなかった。1人分の布を買うと、6角
   で、家族全員に買うと、賃金はほとんど残らなかった。布以外には、買わなかった。名
   札を配って、給料をもらうときに、名札を回収された。給料は、全部布を買わされた。
    給料はまとめてくれたから、ハラがへっても、毎日何かを買うことはできない。給料
   の日に、現金と布票は別々にもらった。布票は、証明書。買うときは、現金を払う。布
   票は、買う権利があるということ。日本人が経営している倉庫があって、そこで布を買
   った。
    抗日戦争に参加したかったが、家には男の子どもはわたししかいなかったので、でき
   なかった。姉は鉄道工事をしていた。そのとき日本軍の兵士だった台湾人が日本軍の機
   銃は、姉、台湾人が黒眉村にいた共産党員に届けた。黒眉村は共産党の根拠地だった。
    その台湾人と姉は結婚したが、台湾人は、そのあと戦死した。わたしは、黒眉村の戦
   闘には参加しなかったが、米や野菜など食料を運んだ。
   日本が敗けて日本軍が逃げるときは、倉庫などを全部燃やしていった。鉄道しか残らな
   かった」。

★楽東黎族自治県尖峰鎮風田村で
 邢治懐さん(旧名、邢亜光。1929年10月生。黎族)は、風田村の自宅で、つぎのように話した。
   「嶺頭、尖峰嶺、北黎、楡林、三亜などで、日本軍と戦った。
    日本軍が来るまでは、畑のしごとをしていた。父母は日本軍に殺された。父母がつか
   まったとき、わたしは遊撃隊の隊員として部隊にいた。父母が殺されたことをほかの人
   から聞いた。父母が殺されたのがいつなのかは、はっきりわからない。小さいときか
   ら、苦しい生活だった。
    黒眉村にいたとき、日本軍から攻撃を受けた。そのとき日本軍は嶺頭にいた。
    黒眉村でおおぜい殺された。生き残った人は山のほうに逃げた。日本軍は、悪魔だ。
    朝鮮人が石碌で道路工事をしているのを見たことがあった。
    海南島が解放されてから、解放軍の志願軍の隊員として朝鮮戦争に参戦した。朝鮮人
   と人民解放軍は連合して戦った」。
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 28

2013年01月21日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 19
 第10回海南島「現地調査」 2
★感恩鎮高園村で
 防衛研究所図書館に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊が海南島でおこなった犯罪の記録(「感恩県高園村附近討伐戦戦闘詳報」)がある。そこには、嶺頭分遣隊の海軍少尉太田良知ら43人が、1945年5月22日未明から高園村地域を襲撃し、「高園村三〇戸全部焼却ス」と、書かれている。
 高園村は黎族の村である。
 周亜華さん(85歳)は、高園村の自宅でこう話した。
   「日本軍はここに来て家を壊して、火をつけた。にわとりや豚や牛を奪い、女性を強姦
   した。
    村びとを道路工事に行かせた。行きたくないといったら、殴った。石碌鉱山に送られ
   た人もいた。病気になって仕事ができなくなったら、焼かれた。
    共産党の張應煥が、よくこの村に来て泊まった。もし共産党の組織がなければどうな
   るか、といって、共産党に入るように誘った。仕事を積極的にする人、秘密を守れる人
   は、地下組織に入ることができるといった。
    わたしが地下党員になったのは、18歳ころ。張應煥は、30歳代だった。
    嶺頭で日本軍と戦ったことがあった。火薬銃で。火薬銃は先祖から伝わったもの。村
   の人はほとんど持っていた。火縄銃がなかったら、弓で戦った。小さい弓、太い弓。
    太いのは、腕くらいの太さ。弓は、いのししを捕まえたりするのにみんな持ってい
   た。
    わたしが共産党に入ったことは、妻も子ども知らなかった。共産党に加入したら、党
   費を納めなくてはいけない。金がなくて、マッチを党費として納めた。
    張應煥は、非常に勇気がある人だった。戦場では勇ましかったが、部下にはやさしか
   った。
    7日間、瓊崖縦隊で戦った。何百人もの民兵が戦った。このなかに女性がいた。10人か
   ら20人。ひとりは銃に撃たれて、弾ほほからほほに抜けた。女性の民兵は、炊事や看
   護、薬の仕事。
   (この戦闘の連絡はどのようにして受けとったのか?)文昌と瓊海の共産党員が戦うよ
   うに言ってきた。嶺頭では、数百人が戦闘に参加した。志堡嶺では何百人が犠牲になっ
   た。
    黒眉村と高園村は、革命根拠地。この戦闘に民兵は全員が参加した。民兵は、地方の
   軍隊だ。
   (戦場はどこだったのか?)嶺頭と黒眉村の間。日本軍が先に攻撃してきて、戦闘にな
   った。死体は数えられないほどだった。くさくてもう……。
    いとこが殺された。いとこも部隊で、感恩の加富村で日本軍と戦って殺された」。
 周亜華さんの妻王亜娘さん(1920年生)は、
   「生まれたのは、黒眉村の近くの村。夫が共産党員だと、まったく気づかなかった。解
   放後に知った」、
と話し、周亜華さんは、
   「妻に知らせなかったのは、漢奸に知られると危険だからだ。宣伝活動であちこちの村
   を廻った。妻には、帰ってきて、出張だったと言った。組織からたまに、おにぎりをも
   らうことがあった。それを、土産だといって、持って帰った」
と言った。
 そのあと、周亜華さんに同じ村の林秋華さんに家に案内してもらった。
 林秋華さん(1916年5月生。黎族)は、つぎのように話した。
   「日本軍が来たとき、この村には50戸ほどの家があった。日本軍はしばしば襲ってき
   た。人を殺したり、殴ったりした。家も燃やした。羊、牛、豚、とりを奪った。村人は山
   に逃げた。子どもを背負って逃げた。日本軍がいなくなったら、また村に戻ってきた。
    1943年、瓊崖縦隊に入った。そのときはまだ結婚していなかった。東方県中沙郷(?)
   に行き、部隊の上司に勧められて、5月に共産党に入った。
    国民党と日本軍と戦った。攻撃された戦ったのだ。戦闘に参加したことは、300回も
   あった。感城での戦闘がいちばん激しかった。わたしたちは、300人。こっちが勝った。
   日本軍は30人。日本軍は機関銃もあった。感城では日本軍の機関銃などを手にいれた」。
                                          佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 27

2013年01月20日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 18
 第10回海南島「現地調査」 1
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2006年3月19日から4月6日まで10回目の「現地調査」をおこない、日本軍の侵略拠点と抗日根拠地がかさなりあっていた地域で、おおくの人から話しを聞かせてもらうことができた。後半に、丹波マンガン記念館館長の李龍植さん、大阪人権博物館の学芸員文公輝さん、高麗博物館理事の山田貞夫さんが参加した。
 このときの海南島「現地調査」では、5月はじめに予定している「朝鮮村試掘」の最終事前準備もおこなった

★瓊中県黎母山鎮松涛郷松涛で
 海南島中央の黎母嶺北方の松涛は、先住民族黎族の村である。
日本軍は、黎母嶺地域を軍事制圧しようとして、ここに侵略拠点をおいた。わたしたちは、松涛二村の村長黄国東さん夫妻に案内されて日本軍の炮楼跡に行った。
 約400坪の敷地の中央部に高さ10メートルほどの土塁があった。黄国東さん夫妻は、それが炮楼跡だと教えてくれた。敷地を囲んで幅2メートルあまり、深さ1メートルあまりの濠が掘られていた。出入り口が2か所あり、コンクリートの建築物の基盤も残っていた。この侵略拠点を作らされたのは、松涛の住民だったという。
 黄国東さんの父、黄春漢さんが、この炮楼建設工事をさせられていたというので、話しを聞きに近くの自宅を訪ねた。
 黄春漢さん(1930年生)は、
   「日本軍ははじめ飛行機から爆撃を落とし、そのあと村に入ってきた。1939年だった。
   炮楼は1941年につくられた。松涛の村人が土を運んで基礎工事をさせられた。子どもた
   ちも働かされた。子どもは土を運んだ。わたし、李國静、符亜業は、当時9歳。粱駿章は
   7歳だった。働いてもなにももらえなかった。自分で飯を持って現場に行った。
    わたしや李國静は、日本軍がつくった日本語学校に通った。教師は中国人ひとり、日
   本人ひとりで、生徒は、50人前後だった」、
と話した。李國静さん(1930年生)は、
   「‘コンバンワ’‘オハヨウゴザイマス’‘コンニチワ’を言って礼をしなかったら、
   ほほを殴られた」、
と話し、黄春漢さんは、
   「‘アリガトウゴザイマス’と言わなければ殴られた。‘アリガトウ’では殴られた」、
と証言した。

★瓊中県黎母山鎮黎母山で
 松涛から15キロ南の黎母山にも、日本軍は軍事拠点をつくった。
 丘の上にある炮楼跡で、楊定永さん(1931年生)は、こう話した。
   「日本軍に、父を殺された。働きに行かないと拒否して、殺された。殺されるところを
   見た。
    3人がいっしょに殺された。日本軍は、父ともう一人の男の人を並ばせて一度に射っ
   た。女性はその近くで殺された。
    村のなかに家があったが、日本軍が強制的に働かせようとしたので、家族みんなで山
   に逃げた。しばらくして腹が減って、煮炊きをしたのだが、その煙が日本軍に見つかっ
   て、父が捉まって殺された。(日本人にたいしてどう思うか?)恨。
    日本軍が村に入ってくる前に飛行機がきて、爆撃して、この村をぜんぶこわした。
    この炮楼は、日本軍がここの村人たちに作らせた。お金はくれなかった。1日、1個の
   めしだけ。わたしも働かされた。日本兵に両頬を殴られたことがある。仕事をしてい
   て、失敗すると、殴られた。日本軍に村人がおおぜい連れて行かれるのを見た。どうな
   ったか知らない」。

★瓊中県黎母山鎮榕木で
 黎母山から7キロ東南の榕木で、許明添さん(1926年生)は、こう話した。
   「日本軍は道路を作らせた。村人に、いろんな労働を強制した。わたしは当時12歳こ
   ろだったが、道路工事をやらされた。おおぜいの人がいっしょだった。日本軍は、年寄
   りも、女の人も、子どもも、むりやり働かせた。朝8時から5時まで。日本軍は、食べる
   ものもくれなかった。
    万人坑がある。共産党員ではないのに、共産党員だといって、殺した」。
 許明添さんの案内で、広いゴム林をぬけて、「万人坑」に行った。許明添さんは、
   「遺骨はまだそのまま残っている。ここは殺されたところだから、家を作ったり、何か
   を植えたりはしない」
と語った。「万人坑」一帯は、ゴムの植林をしないで草木が生えるままにしてあった。かなり深い穴で、草木に覆われているが、窪んでいた。

★瓊中県湾嶺鎮嶺門で
 嶺門にある碑碣嶺の山頂からは、360度を見渡すことができる。日本軍は碑碣嶺と南方の登高嶺に軍事拠点をつくった。
 わたしたちは、嶺門に住む張平涛さん(1951年生)に案内されて、碑碣嶺山頂に行った。
 碑碣嶺の日本軍要塞も、深い濠と塀に囲まれていたようだ。それを示すコンクリート塊、たくさんの瓦片などが残っていた。小高くなっているところが、炮楼があったところだ、と張平涛さんが教えてくれた。 ‘労工’としてここの工事に従事させられた祖父や両親は、張平涛さんに、当時のことをつぎのように話していたという。     
   「‘労工’は、付近の村から集められた。‘良民証’を労働に出る人はみんな持たされ
   ていた。もらったのはおにぎりだけ。70人くらいの軍人がいた。大きな木があって、そ
   こで日本軍は何人もの人を刺し殺した。共産党だといって」。
 嶺門小学校の校庭に、日本軍の不発弾があった。3個あったが、村びとがこわして今は1個だけが残っているという。鐘として使われていた。

★楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅で
 日本軍は、黄流の飛行場建設のために、黄流周辺の住民だけでなく、10キロ以上も離れた仏羅村の住民も強制労働させた。仏羅村からは石碌鉱山にもおおぜい連れていかれたという。
 殺された人たちが埋められた穴を掘って遺体を掘り出した石英物さん(1913年生)は、仏羅村の自宅で、こう話した。
   「响土村の殺された人たちの家族に頼まれて、堀り出した。殺されて4日後、夜中に掘っ
   た。遺体は20人だった。村人40人くらいがいっしょになって、ふたりでひとりの遺体を
   運んだ。
    20人の中に、共産党員がいると思われて殺された。頭をつるはしで割られて、ひとり
   づつ穴に放り込まれた。
    わたしは、日本兵に何回も殴られた。会うたびに‘良民証’を見せろといわれて、見
   せなかったら、殴られた。もし‘良民証’がにせものだったら、死ぬまで殴られただろ
   う。
    ‘良民証’は、日本軍が村に入ってきて作らせた。作らないと殺された。日本軍の基
   地にもらいに行って‘良民証’を渡されたが、何が書いてあるかわからなかった」。
 仏羅村には、「7人坑」と呼ばれている黄流で殺された人の墓があった。遺族が、遺体を黄流から運んできて、ここに埋めたという。遺族の一人である方陳生さん(67歳)は、自宅でつぎのように話した。         
   「3歳のとき、父が殺された。父の名前は、方賢香。
    父はマンゴーの仕入れをしていて、その帰り道でつかまった。墓は、親戚と家族が作
   った。日本が敗けた後、お金を出して遺骨を掘り出して、黄流からここに連れてきた。    母から聞いた話だ。母は亡くなった。
    殺されたとき、父は22歳くらいだった。6人はいっしょに殺されて、いっしょに連れて
   きた。殺された6人は、父、母の2番目の弟林芳明、3番目の弟林清などだ。殺された理
   由は知らない。6人は何も悪いことはしていなかったが、漢奸が、ある人の妻を手に入れ
   たくて7人を捕まえた。
    解放後、漢奸が、なぜ7人を捕まえたのかと聞かれて、「ある人の妻を手に入れたくて
   夫を殺そうと思って7人を捕まえた」と答えた。その夫は金を出して、帰されたそうだ。
   ほかの6人が殺された。
    「7人坑」と呼ばれているが、埋められているのは6人だ。母は、よく話してくれた。3
   歳からひとりで育ててくれて、これからもちゃんと墓参りをしなさいと言われた。父は
   何もしていなかったのに、なぜ殺されたのか。どうしようもない」。
                                         佐藤正人
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「朝鮮村」1998年6月~2012年11月 26

2013年01月19日 | 「朝鮮報国隊」
■紀州鉱山の真実を明らかにする会による「朝鮮村試掘」までの道程 17
 2004年7月21日から8月15日まで大阪人権博物館(リバティ大阪)で開催されることになっていた展示会『海南島で日本はなにをしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』(大阪人権博物館主催・紀州鉱山の真実を明らかにする会後援)が、開会50日前の5月30日に突然一方的に延期されてから1年あまり後、2005年9月17日から12月14日まで、京都市右京区京北下中の丹波マンガン記念館で、特別展『日本は海南島でなにをしたのか』(主催:丹波マンガン記念館、後援:京都市、協力:紀州鉱山の真実を明らかにする会)が開催された。
その趣旨は、つぎのようであった。
    「海南島は、ベトナムの東、アジア太平洋地域の中心部に位置する、九州や台湾と同
    じぐらいの面積の島です。
     日本は、この島を1939年から45年まで占領していました。海南島住民による、武器
    を手にした抵抗が続くなか、日本軍は各地の村を襲い、多くの人を殺しました。日本
    軍による性暴力の被害を受けた女性も多くいます。
     日本は、海南島を東南アジア、太平洋地域侵略のための基地とし、さらには植民地
    とするために、各地に軍事施設を建設し、鉄鉱石などの資源を奪いました。
     占領の直後から日本軍とともに活動をはじめた、日本の民間会社も多くありまし
    た。危険でつらい労働をさせられたのは、だまされたり、無理やり連れてこられたり
    した、海南島や中国大陸の住民、植民地だった朝鮮や台湾などの人でした。病気、飢
    え、事故などで多くの労働者が死んだり、殺されたりしたといわれています。
     今年はアジア太平洋戦争が終わって60年の節目の年にあたります。
     この特別展では、日本が海南島でおこなった過去の行為、そして、被害者が放置さ
    れ、加害の責任も果たされていないという現在の状況を紹介します。これらのことを
    通して、日本が戦争のなかで何をおこなったのか、現在何が問われているのかを考え
    ようとするものです。

 展示の内容は、つぎのようであり、これは、大阪人権博物館で予定されていたものと、ほぼ同じであった。
    海南島近現代史
    軍事侵略、抗日闘争
    経済侵略:土地と資源の略奪・労働強制
    「朝鮮村」虐殺
    海南島における日本軍隊性奴隷制
    旧日本軍兵士の証言
    侵略犯罪に時効はない!

 会期中の毎週土曜日に、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(紀州鉱山の真実を明らかにする会制作)が上映され、9月25日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人が、「日本が海南島を占領した6年半。 それを“調査”した6年半。 そして、これから」を主題として報告をした。
                                        佐藤正人
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アメリカ合州国軍将兵との友好・親善、拒否

2013年01月18日 | 個人史・地域史・世界史
 きょう(1月18日。金曜日)午後4時過ぎに、オタル市から米空母に反対する市民の会に、アメリカ合州国軍の艦船がオタル港への寄港を、オタル港長(オタル海上保安部長)をつうじてオタル港湾管理者(オタル市長)に求めてきた、という連絡がありました。
 艦船名は「LASSEN(ラッセン):DDG82」、入港予定日時は2月4日午前9時、出港予定日時は2月8日午前9時、一日最大上陸人数は225人、入港目的は「親善及び友好」とされているとのことです。
 アメリカ合州国海軍は、1月17日付け(オタル市長に届いたのは1月18日)で、「ラッセン」のオタル寄港のための「岸壁手配」を求め、一方的に「回答期限」を、わすか4日後(実質的にはわずか3日後)の1月21日としてきています。
 オタル市では、毎年「雪あかりの町」というイベントがおこなわれており、ことしは15回目で、2月8日から17日まで開催されることになっています。サッポロ市でも毎年「雪まつり」というイベントがおこなわれており、ことしは64回目で、2月5日から11日まで開催されることになっています。
 これまでも、この時期にオタル港や石狩湾新港に入港しようとしたアメリカ合州国艦船は、その入港目的を、「親善」と「友好」としてきていました。
 「ラッセン」は、核兵器を搭載している可能性があるミサイル駆逐艦(イージス艦)で、2005年10月に「親善・友好」を目的にしてムロラン港に入港しています。
 戦争犯罪をくりかえしているアメリカ合州国艦船の乗組員(将兵)たちとの「友好」や「親善」という関係をもつことは、侵略戦争に協力することです。
 米空母に反対する市民の会は、1月21日(月曜日)に、オタル港湾管理者であるオタル市長を訪問し、「ラッセン」のオタル寄港を許可しないことを求めます。
                            米空母に反対する市民の会 佐藤正人
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海南島と独島 11

2013年01月11日 | 個人史・地域史・世界史
 1905年4月17日の『東京朝日新聞』に、「敵艦隊益ゝ北上(行先はパラセラス)」と題するつぎのような記事が掲載されていた。
   「十五日上海特派員発電 上海タイムズの香港特電に曰く汽船コーナ号は十一日コンドー
   ル島沖に於てバルチツク艦隊を見たり捜索巡洋艦は同船に向つて積荷行先を問ひ臨検の
   後立去れり
    艦隊は快速なる哨艦に依りて掩護せられ戦艦と巡洋艦は石炭船と運送船を中心として
   其外側線を保護し居れり艦隊の状態は良好にして速力十節艦隊数碼の海草に掩はるとの
   談は虚妄なり
    同艦隊は石炭積入の為パラセルス群島(海南島の南方)に向へるものと察せらる(号外
   再録)」。
 
 ここに書かれている海南島南方の「パラセルス群島」(中国名は「西沙群島」)とその南方の「スプラトリー諸島(中国名は、南沙諸島)」を、日本政府は「新南群島」となづけていたが、1939年2月10日の日本陸海軍の海南島奇襲上陸50日後、3月30日に台湾総督府に「管轄」させることにした。
                                            佐藤正人
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