1939年11月4日(農歴9月23日)に日本軍が海南島西部の昌化江河口の東方市四更鎮旦場村を襲撃した。
海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(『海南文史資料』第11輯、1995年8月)に収録されている呉昌雄「東方県旦場村惨案」には、つぎのように書かれている。当時旦場村は昌江県に属していた。「昌感」とは、昌江県と感恩県を意味しており、現在は昌江県のうち昌化川南部と感恩県全域は東方市に属している。
「1939年2月、日本軍は海南島に侵入し、7月に昌感県(現、東方県)を占領し、北黎に駐
屯し、司令部を設置した。日本軍は昌感県内で、殺人し放火し姦淫し略奪しあらゆる
悪事をおこなった。旦場村虐殺は海南島侵略日本軍が昌感地域でひきおこした残虐事件
のひとつである。
旦場村は海南島西部昌化江の河口にあり、約200戸で1000人あまりが住んでいた。1939
年8月、日本軍は近くの四更村に治安維持会を設立したあと、旦場村を蹂躙した。旦場村
の住民の大部分は妻子とともに野外に住み日本軍のもたらす災難を逃れた。9月上旬、漢
奸の董必安が日本軍の命令を受けてしばしば旦場村に来て住民を威嚇し日本軍に降順
するように脅迫した。…………憤激した民衆は治安維持会が降順させようとしてもってき
た日本国旗をその場で破り捨てた。…………
9月23日の夜明け、日本軍は、“抗令拒申”を理由にして、多数で旦場村を包囲した。100
人あまりの駐北黎日本軍が、漢奸に案内されて、東、南、北の3方向から旦場村に突
入してきた。…………
この日、日本軍は、旦場村で村民93人を殺害し(その後殺された人をあわせると110人
あまりになる)、家38軒を焼き、4人の女性を犯した」。
戴澤運「日軍在昌感若干暴行記述」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県文史委員会編『東方文史』第10輯〈1995年3月〉。海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続(『海南文史資料』第13輯〈1996年8月〉に再録)には、日本軍の旦場村襲撃について、つぎのように書かれている。
「1939年9月23日早朝、日本軍は、“抗令拒申”を理由にして、3方面から旦場村を包囲
した。村に侵入した日本軍は、家を一軒づつ捜索し、村人をみつけると、白髪の老人も
嬰子も殺した。逃げるこことができなかった村人はすべて殺された。30人を越す村人が
日本軍に追われて海辺に行き、あるものは銃で撃たれ、あるものは海で溺れて死んだ。
この日、101人が殺され、家が38戸焼かれ、女性4人が犯された」。
佐藤正人
海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下(『海南文史資料』第11輯、1995年8月)に収録されている呉昌雄「東方県旦場村惨案」には、つぎのように書かれている。当時旦場村は昌江県に属していた。「昌感」とは、昌江県と感恩県を意味しており、現在は昌江県のうち昌化川南部と感恩県全域は東方市に属している。
「1939年2月、日本軍は海南島に侵入し、7月に昌感県(現、東方県)を占領し、北黎に駐
屯し、司令部を設置した。日本軍は昌感県内で、殺人し放火し姦淫し略奪しあらゆる
悪事をおこなった。旦場村虐殺は海南島侵略日本軍が昌感地域でひきおこした残虐事件
のひとつである。
旦場村は海南島西部昌化江の河口にあり、約200戸で1000人あまりが住んでいた。1939
年8月、日本軍は近くの四更村に治安維持会を設立したあと、旦場村を蹂躙した。旦場村
の住民の大部分は妻子とともに野外に住み日本軍のもたらす災難を逃れた。9月上旬、漢
奸の董必安が日本軍の命令を受けてしばしば旦場村に来て住民を威嚇し日本軍に降順
するように脅迫した。…………憤激した民衆は治安維持会が降順させようとしてもってき
た日本国旗をその場で破り捨てた。…………
9月23日の夜明け、日本軍は、“抗令拒申”を理由にして、多数で旦場村を包囲した。100
人あまりの駐北黎日本軍が、漢奸に案内されて、東、南、北の3方向から旦場村に突
入してきた。…………
この日、日本軍は、旦場村で村民93人を殺害し(その後殺された人をあわせると110人
あまりになる)、家38軒を焼き、4人の女性を犯した」。
戴澤運「日軍在昌感若干暴行記述」(中国人民政治協商会議海南省東方黎族自治県文史委員会編『東方文史』第10輯〈1995年3月〉。海南省政協文史資料委員会編 『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』続(『海南文史資料』第13輯〈1996年8月〉に再録)には、日本軍の旦場村襲撃について、つぎのように書かれている。
「1939年9月23日早朝、日本軍は、“抗令拒申”を理由にして、3方面から旦場村を包囲
した。村に侵入した日本軍は、家を一軒づつ捜索し、村人をみつけると、白髪の老人も
嬰子も殺した。逃げるこことができなかった村人はすべて殺された。30人を越す村人が
日本軍に追われて海辺に行き、あるものは銃で撃たれ、あるものは海で溺れて死んだ。
この日、101人が殺され、家が38戸焼かれ、女性4人が犯された」。
佐藤正人