三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会事務局会議

2011年04月30日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(4月30日)、海南島近現代史研究会の事務局会議を開きました。
 議題は、つぎのとおりでした。
 
■海南島近現代史研究会第7回定例研究会(2011年2月13日)のまとめ
  主題:海南島とパレスチナ
    報告1  パレスチナでの参戦経験      足立正生
    報告2 今も続くイスラエルの攻撃と占領について  オマイヤ・アブード
    【研究報告Ⅰ】 マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 5   竹本昇
    【研究報告Ⅱ】 海南島占領支配の実相   久保井規夫
    【調査報告】  祖父が海南島で何をしたのか    糟谷尚子
    2011年2月末~3月初めの海南島「現地調査」の主目的と日程
    海南省民族学会、海南民間抗戦研究会準備会との共同研究・共同調査
■海南島近現代史研究会第5回総会・第8回定例研究会  
   2011年8月21日、あるいは28日に開催
   主題:これから何をするか! 戦時性暴力犯罪にたいして
■海南島近現代史研究会第9回定例研究会 2012年2月
■2011年春の海南島「現地調査」・交流 2月26日~3月8日
  海口市東山(舞鶴第1特別陸戦隊守備隊跡)、月塘村、「朝鮮村」、楽東黎族自治県黄流鎮佛老村、黄流旧日本軍飛行場跡、「金鶏嶺」(横須賀第4陸戦隊守備隊跡)、楽東黎族自治県黒眉村、東方市高園村、東方市板橋、東方市新龍鎮新村、東方市八所、澄邁県沙土。
  海南島近現代史研究会海南島会員との会議。
  海南民間抗戦研究会準備会との合同会議。
  海南島の歴史研究者との話し合い。
  文献探索、資料収集。
■次回 海南島「現地調査」・交流  2011年秋
  沙土で集中的に幸存者・目撃者の証言を聞く。
  東方市新龍鎮新村……再訪。
  月塘村、長仙聯村……で幸存者・目撃者の証言を聞く。
  「朝鮮村」で目撃者の証言を聞く。
  東方県旦場村(住民虐殺現場)、昌江黎族自治県保平郷太陽基村(住民虐殺現場) 昌江黎族自治県昌城郷光田村(住民虐殺現場)、澄邁県石浮(舞鶴第1特別陸戦隊守備隊跡)、海口市雲龍郷(住民虐殺現場)。
  海南民間抗戦研究会準備会・海南島近現代史研究会合同会議
■会誌『海南島近現代史研究』第2号・第3号 合評
■会誌『海南島近現代史研究』第4号  2011年8月発行
    2011年春海南島「現地調査」報告
■海南島近現代史研究会『会報』 3・4合併号
■「海南島戦時性暴力被害訴訟」最高裁判決後、どうするか
■月塘村全村民の日本政府に対する要求実現のために
■「朝鮮村」虐殺真相究明(←「朝鮮村」発掘)
■韓国での聞きとり
  2010年:4月22日~4月29日、6月下旬、9月29日~10月6日、11月下旬。
  2011年:5月……
■日本での聞きとり
■研究、資料・文献収集
■出版計画
  1、『海南島現代史 抗日戦争期(1939年~1945年)』
    『海南島近現代史研究 1939年~1945年』
  2、冊子『月塘村惨案』(漢語+日本語)
  3、冊子『“朝鮮報国隊”』(朝鮮語版、日本語版)    
  4、えほん『日本がせんりょうした海南島で』
  5、「海南島文庫」(ブックレット)連続発行 A5版、50~80頁、写真多数
       1 日本は海南島で何をしたか、2 海南島における抗日反日闘争、
       3 許如梅さん、4 「朝鮮村」、5 林亜金さん、6朴来順さん、
       7 田独鉱山・紀州鉱山、8 興南・水俣・石碌、9 回新村の歴史、
       10 后石村、11「朝鮮報国隊」・「台湾報国隊」・「図南報国隊」、
       12 六郷村、13 高福男さんと柳済敬さん、14 海南島の朝鮮人兵士、
       15 月塘村虐殺、16 沙土虐殺、17 長仙聯村虐殺、18 秀田村虐殺、
       19 旧日本軍用洞窟(南林、中村、高峰、雷虎嶺、石山)、20 黒眉村、
       21 特攻艇「震洋」基地(新村、三亜)、22 日本軍用飛行場・鉄道・道路、
       23 新龍鎮新村で。
  6、証言集。
  7、写真集。
■上映運動  
   2010年7月30日~8月1日:連続上映会(大阪人権博物館で)。
   2011年:
■新ドキュメンタリー制作    海南島人、中国人、朝鮮人、日本人……の共同作業。
  『抗日闘争期海南島民衆史 日本が占領した海南島で』
  『海南島秀田村虐殺』
  『海南島沙土虐殺』
■パネル展・企画展・シンポジウム・証言集会……  
■ウェブサイト
■今後の事務局会議
■財政
■恒常課題   海南島・韓国・日本で
  「現地調査」・証言聞き取り・記録・保存・資料収集、共同展示・出版・シンポジウム。
■長期課題
  海南島近現代史研究を深め、共同研究の輪を広げる。
  日本政府・日本企業に関係文書を開示させ、責任を追及する。
  日本本政府に侵略犯罪の真相を究明させ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させる。
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東山鎮で 4

2011年04月29日 | 海南島
 東山から南の定安に行くには、海南島最長の大河、南渡江を渡らなければなりません。
 海南島に侵入した日本軍の一部は、東山鎮南西の馬坡村を通って南に進みました。
 わたしたちは、昌尾村で陳秀花さんから話を聞かせてもらったあと馬坡村を訪ねました。
 日本侵略期に治安維持会の会長をしていた人が昨年12月に亡くなったとのことでしたが、たまたま店でお茶を飲んでいた陳信才さん(83歳)から話を聞かせてもらうことができました。
 陳信才さんは、つぎのように話しました。

  「この前の道は、“日本通り”と呼ばれていた。わたしが13歳のとき、日本軍が来て、この道を通って、南渡江を渡って南に行った。
  日本軍がなんども通ったので、“日本通り”と呼ばれた。この道は日本軍が来るまえに国民党の軍隊がつくった。日本軍が通る時、道の両側に並んで歓迎した人たちもいた。
  日本軍は、南渡江に船を並べ板を渡して通った。戦車やトラックも通った。馬も通った。トラックは2台いっしょに通ったが、戦車は1台づつ通った。
  南渡江の対岸は定安だ。定安に日本軍の基地があった。
村の近くに馬屋があった。日本軍といっしょに来た背のたかい皮膚の色が黒い人が馬の世話をしていた。
  日本兵は日本の旗を見ると礼をしていた。日本兵が子どもを椰子の樹に登らせて実をとらせるので、村人が椰子の樹を切り倒したことがあった」。

 話を聞かせてもらった後、村人に案内してもらって南渡江の岸に行きました。渇水期で水流は2筋にわかれており、それぞれ10メートルほどでした。増水期には100メートルほどになるとのことでした。
                                     佐藤正人
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東山鎮で 3

2011年04月28日 | 海南島
 陳秀花さんは、結婚してから龍山村で暮らしており、生まれ育ったのは、近くの昌尾村でした。昌尾村にも日本軍の望楼があったというので、案内してもらいました。
 望楼があった場所は、周辺を遠くまで見通すことができる広い高台で、東山鎮のゴミ捨て場が造成中でした。
 その中央部の一本の立ち木のそばで、陳秀花さんは、つぎのように話しました。

 「このあたりに日本軍の望楼があった。2階建てだった。宿舎もあった。
  わたしは、ここでも、子どものとき、望楼をつくる仕事をさせられた。ここで昌尾村の村人が何人も働かされた。
  日本兵は、仕事をしないといって、人を刺し殺した。何人も殺した。わたしは、仕事をしているとき、見たことがある。怖かった。
日本兵は、日本刀で腹を刺して殺した。遺体は、仕事をさせられていた人に、この向こうの崖下の穴に捨てさせた。まだ生きているのに穴に埋められた人もいた。
殺された人の遺族が、あとで遺体を掘り出したこともあった。いまも残されている遺骨もあるだろう」。

 遺体が埋められたところは、日本軍の望楼がった高台のはずれの崖下で、あたりは墓地になっていました。遠くに東山鎮の市街地が見えました。
 東山鎮昌尾村の旧日本軍の駐屯地跡は、ゴミ捨て場に変えられつつありました。ゴミ捨て場の造成がまだ終わっておらず、10ヘクタールほどの広場にはまだゴミはあまり積まれていませんでしたが、何年か後には、望楼跡はゴミで覆われているでしょう。
 日本軍が侵入したアジア太平洋の各地は、国民国家日本の侵略犯罪の場であり、抗日反日闘争の場です。しかし、目撃者・戦闘者・加害者の証言がなければ、その場で具体的にどのような犯罪と闘争がおこなわれていたかを知ることは困難です。
                                        佐藤正人
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東山鎮で 2

2011年04月27日 | 海南島
 2011年2月26日11時過ぎに東山鎮の中心部に着いて、旧日本軍の守備隊本部があった場所をたずねましたが、はっきり場所を知っている人に出会うことができませんでした。
 東山鎮の中心部から北東に3キロほどの永華村に旧日本軍の望楼があったらしいと聞いたので、その村を訪ねることにしました。栄華村委員会が下管している龍山村に行くと、陳秀花さん(1931年生)が旧日本軍の望楼があった場所を知っているというので、案内してもらうことができました。
 そこは、龍山村のすぐ近くの高台で、潅木が密生している雑木林になっていました。10年あまりまえにブルトーザーで地ならしをしたので、何も残っていないだろうとのことでした。
 そのまえで、陳秀花さんはつぎのように話しました。

 「望楼は石造りで2階建てだったと思う。鉄条網で囲まれており、周りに堀がつくられていた。
  望楼の上には機関銃を置くようにしてあり、地下室もあった
  地下室は防空壕にもなっていた。地下室には風呂もあった。わたしは、別のところから水を汲んで運ぶ仕事をさせられた。竹の籠に土を入れて運ぶ仕事もさせられた。しごとをしても食べ物もお金もなにもくれなかった、食事は自分でした。
  若い男の人は望楼作りをさせられなかった。それは日本軍が自分たちの身の安全を守るためだったと思う。
  日本兵は20人くらいいたと思う。望楼の周りには鉄条網が張られていた。兵士のなかには台湾人もいて通訳として仕事をしていた。
  日本軍は、望楼の前を通る村人にかならずおじぎさせた。おじぎしないと殴られた。村人は、「シェンシャントリ」と言って3回ほどおじぎした。「先生に敬礼」と言う意味だ。
  ある老人が、言い方をまちがえて、「シェンシャンヴェティ」と言ったことがあった。それは、「あなたはもうすぐ死ぬ」という意味だ。日本兵は、あたりの雰囲気からそのことに気づいてその人を殴って重傷をおわせた。
  日本兵のなかには台湾人もいた。台湾人は通訳をしていた。日本人も台湾人も同じ軍服を着ていたので、見ただけでは区別がつかなかった」。
                                       佐藤正人
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東山鎮で 1

2011年04月26日 | 海南島
 2011年2月26日に、海南島近現代史研究会の6人が海南島民間抗戦史研究会準備会の2人といっしょに海南島北部の海口市東山鎮に行きました (このブログの2011年2月26日の「海南島で 2011年春 1」、3月16日の「【第19次来海南調査日軍侵瓊罪行】1 海口東山鎮」を見てください)。
 日本軍が海南島に侵入していた時期に、東山には、日本海軍海南警備府舞鶴第1特別陸戦隊の守備隊が「駐屯」していました。『海南警備府戦時日誌』(1943年3月)のなかの「陸上部隊兵力配備要図(3月1日現在)」には、東山守備隊の兵員数は32と書かれています。
 1945年に日本軍兵士として東山守備隊にいたことのある李西根さんは、昨年秋にソウルで、つぎのように話していました (このブログの2010年11月28日の「李西根さんの証言 2」、および『海南島近現代史研究』第2号・第3号〈2011年2月10日発行〉に掲載した金靜美・佐藤正人「海南島の朝鮮人兵士」を見てください)。

   「1945年7月に東山分遣隊に行った。
    東山分遣隊の兵士は30人で、韓国人はわたしひとりだった。
    東山分遣隊で、わたしは、歩哨をやった。抗日軍の襲撃はなかった。
    近くにちいさな村があり、その村の名前が東山。村の近くに古城があった。
    山の頂上に分遣隊の望楼があり、すぐ近くに宿所があった。
    望楼は3階建てで、石でつくってあったように思う。一番上には銃座があった。
    水は、井戸があってポンプでくみ上げていたように思う」。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2007年1月21日に東山で話を聞かせてもらったことがあります(このブログの2007年1月28日の「東山で」、および写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈紀州鉱山の真実を明らかにする会制作。2007年2月10日発行〉41頁を見てください)。
                                     佐藤正人
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黒眉村 6

2011年04月25日 | 海南島
 邢亜响さんの右足の太ももには、傷跡が残っていました。邢亜响さんは、つぎのように話しました。

 「この傷は、嶺頭で日本軍と戦ったときの傷だ。
  交戦中に日本軍の銃を奪おうとして、3人で前に出た。そのとき、2人が射殺され、わたしは太ももを撃たれ弾が貫通したが、生き残った。日本軍と戦っているときには、死を恐れなかった。あのとき、日本兵も何人か死んだらしい。
山にいる遊撃隊に、日本軍は飛行機から機関銃を撃ってきたこともあった。爆弾を落としたこともあった。
  山で、遊撃隊の歌を教えてもらった。教える人がどこからきたかは知らない。
  歌ってから日本兵と戦うと怖くない。
  わたしの父は、黒眉村で日本軍に頭を銃で撃たれて殺された。ここではない。もと黒眉村はここからもっと山のほうにあった。20年ほどまえにここに村ごと引っ越してきた。
  もとの黒眉村では、日本軍に家を焼かれた。父が殺されたとき、村人がたくさん殺された。そのあと、わたしは、共産党の遊撃隊に入った。18歳だった。村の若者で遊撃隊に入った人は多い。日本軍がなんども村を襲って人を殺し家を焼くから、戦争しなければならない。そのまま座っていても死ぬ。
  日本軍がいなくなってから村にもどって農業をした。結婚して男の子は2人、女の子が1人生まれた」。

 邢亜响さんは、1993年7月1日に共産党からもらった「共産党参加五十年栄誉賞」と刻まれた金色のメダルを見せてくれました。
 別れ際に、邢亜响さんは、わたしに、「前にここに来たとき、納屋のかもいに頭をぶつけた人だね」と言いました。話をしている間に、5年前のことを思い出してくれたようです。
                                   佐藤正人
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黒眉村 5

2011年04月24日 | 海南島
 遊撃隊で歌った歌がありますか、と聞くと、邢亜响さんは、大きな声で歌ってくれました。わたしたちが記録したいと言うと、なんども歌ってくれました。

    日本鬼的大砲 カッ カッ カッ コン コン コン
    衝向敵人獲機槍 打敵人
    拿起鋤頭 守着陣地 不做忘国奴
    中国我母親 向前方 向前方 為了祖国的光栄

 「カッ カッ カッ コン コン コン」は、大砲の音だとのことでした。
 邢亜响さんは納屋から弓と矢をもってきて、柱の陰から射る構えをしました。
 やじりの部分に黄色の薬きょうがついている矢、やじりの部分に黒色の薬きょうがついている矢、尖った鉄片がついている矢がありました。
 黄色の薬きょうがついている矢を示しながら、邢亜响さんは、「この矢は、当たったら日本兵は手では抜き出せない。手術しなければならない。深く入ったら、そのまま死んでしまう。矢じりの薬きょうは日本軍のものだ」と話しました。
 弓と矢はすべて邢亜响さんが自分でつくったもので、薬きょうの矢じりのついた矢は当時のもので、尖った鉄片の矢じりのついた矢と弓は10年ほどまえに鳥などを撃つために遊撃隊のときつくったものと同じものをつくったそうです。鳥を弓矢で獲るのはいまは禁止されているそうです。
                                     佐藤正人
  
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黒眉村 4

2011年04月23日 | 海南島
 邢亜响さんは、つぎのように話しました。

 「遊撃隊に入って日本軍と戦った。黒眉村の村人のなかから何人が遊撃隊に入ったかは、はっきりとは言えないが、20人ほどだったと思う。銃を持った人はいなかった。
日本軍が村を攻めてきたら、共産党の組織がみんなを山のほうに逃がした。
遊撃隊に入った村人は、みんな弓と矢で戦った。
日本軍が追いかけてくると場所をすぐに変えて戦った。何度も戦った。日本兵が近づいてくるのを狙って矢を撃った。撃ってすぐに場所を変えた。
 遊撃隊には女性もいた。はじめは弓矢で日本軍と戦ったが、負傷した隊員の治療をするようになった。日本軍が敗けたあと、海南島の政府が勉強させて、医者になったひともいる。今は退職しているが、まだ元気だと聞いている。昌江県のほうにいるらしいが、くわしい住所は知らない。
遊撃隊は、山の中に隠れて暮らしていた。食べ物は少なかった。周りの村人が食べ物や薬を届けてくれた。
 スパイに案内させて日本軍が山のなかに来ても、すぐに隠れて弓矢で戦った。7日間続けて戦ったこともあった。日本軍は小銃、機関銃をもっており、短い大砲ももっていた。
 遊撃隊は、日本軍から奪った銃をもっていた。手榴弾や地雷は、日本軍から奪ったものもあるが、遊撃隊がつくったのもあった。火薬は、共産党の組織が運んできた。どこから運んできたかはわからない。
 遊撃隊が捕虜にした日本兵のなかに台湾人が2人いた。嶺頭からきた兵士だった。その2人は、遊撃隊の上の組織にわたした」。
 
 当時、黒眉村から7キロほど西の嶺頭には横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の守備隊基地がありました。
                                    佐藤正人
 
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黒眉村 3

2011年04月22日 | 海南島
 中共海南省委党史研究室と海南省地方志办公室のウェブサイト「海南史志网」には、「眉反扫荡之战」についてつぎのように書かれています。
  http://www.hnszw.org.cn/data/news/2010/09/47274/
■眉反扫荡之战
  1939~1941年间,中共地方组织在眉地区建立了抗日大后方——眉抗日民主根据地。根据地农民,组织“青抗会”、“妇救会”、“儿童团”等组织,村成立“民兵抗日中队”,团结一致,打击日本侵略军。眉地区的民兵、儿童团等抗日游击队,数次潜入日军驻地,抗袭日军据点;常常在黄流开往八所的交通沿线上伏击,烧毁日军军车多辆,击毙日军多名,粉碎了日军50多次的“军事扫荡”和“蚕食行动”,为抗日救国写下了光辉的篇章。
  1941年9月15日,日军从那大、八所、三亚、黄流等地所属的几个司令部,调集1000多兵力,分五路,向眉根据地发动疯狂“扫荡”。张开泰率领琼崖独立总队第三支队指战员300多人,在西北团(7个民兵中队,400余人)和西南团(20个民兵中队,700余人)民兵抗日游击队的配合下,在老包岭、打铁岭、产岭周围,同日军展开激战。部队和民兵集中主力,利用有利地形,一举歼灭第一次进攻的200多名日军,首战获胜。
  日军第一次进攻受到惨重损失,不敢冒险冲锋,在山下用大炮向山上轰击,并采取步步逼进的战法。敌强我弱,部队和民兵撤上老包岭,并在岭的周围路口上挖洞穴、安铁尖、埋地雷,开展地雷战、伏击战和“麻雀战”等游击战,把攻进山里的日军打得晕头转向。战斗持续七昼夜,共打死打伤日军500多人,缴获枪支30多支。我方伤亡40多人。
  1942年间,日军对眉的“扫荡”进一步升级,对眉地区的一些村庄实行血腥的“三光政策”,烧毁民房,屠杀百姓,其毒辣程度,前所未有。但是,抗日军民并没有被吓倒,他们“坚壁清野”,坚持斗争,村村挖地洞,放竹签,埋地雷,与敌人周旋。
  1943~1944年,眉、田沟等乡村的民兵协同部队先后粉碎了日军4次大规模的军事“清剿”。
  拔除望楼港日军据点之战 1945年春,琼纵二支队第三大队,在中共崖县四区区委配合下,拔除了驻望楼港日军分遣小队据点。战斗打响前有个战士不慎枪支走火,过早暴露行动,据点里的10多名敌人全部逃遁。我军共缴获长短枪支20多支、子弹2000多发和一批军用物资,离开据点时放火烧毁日军营房。

 海南省東方市档案馆のウェブサイト「東方档案」には、「眉岭战斗」についてつぎのように書かれています。
  http://archives.hainan.gov.cn/html/dongfang/new_page_4_6.htm
■眉岭战斗
  抗日战争时期的1941年9月间,张开泰率领的琼崖抗日独立总队第三支队从白沙转下昌感地区开展游击战争,驻扎在眉岭(现属乐东县)下。因汉奸告密,日军调100多人围攻。“三支”获情报后,立即选择有利地形进行伏击,打死打伤日军60多人,缴枪20余支。日军不甘心失败,恼羞成怒,马上从各处集中近1000人的兵力再次进攻。大敌当前,“三支”立即转移上山继续反击,英勇杀敌,又打死打伤日军50多人,日军拼命包围抄山,并以猛烈的火力开路,在此紧要关头,“三支”化整为零,组成游击小组作战。经过七天七夜的激战,打死打伤日军共110多人,取得辉煌的战果,威慑敌胆,大大地鼓起了群众的斗志。
                                      佐藤正人

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2011年3月2日 21

2011年04月21日 | 海南島
 以下は、2011年3月2日の張亜香さんの証言です(その一部は、このブログの「2011年3月2日 10」に掲載してあります)。
                               佐藤正人


 「夫は、17歳のときに革命に参加した。ここにあった家の地下室で死んだとき、23歳だった。子どもは2歳半だった。わたしは18歳のときに結婚した。夫が死んだときは22歳だった。夫が死んだのは、正月18日だった。
 夫は、夜、もの運んだり、情報を伝える仕事をしていた。隊長と呼ばれていた。
 夫が、共産党の活動をしていることは知っていたが、具体的なことは、はっきりとは解らなかった。夫は家にいる時間は少なかった。ほとんど家を離れていた。わたしは、夫の両親と、農作業をして暮らしていた。
 夫が地下室で爆死した日、日本軍が来るというので、わたしは子どもを連れて逃げていた。このころわたしも子どももほとんど家に戻らなかった。
 わたしの家では、ときどき共産党の人たちが休憩や会議をした。しかし、安全な場所ではなかったので、なにかあったらすぐ隠れる地下室をつくってあった。家の中では、食事や話ができるが、急になにか変なことがあったら、すぐに地下室に入る。狭いが、2~3人はゆっくり入れるほどの広さだった。
 あの日、日本軍が来たとき村にいた6人のうち、文昌からきていた党員は日本軍を見て逃げた。逃げて、地下室の方に戻ってきた。あの人を日本軍が追いかけてきた。逃げるときには、絶対に、自分の同志や友だちの方に行ってはならないのに……。
 あの人は、逃げるのが遅かったので、日本軍につかまってしまった。つかまって、少し聞かれてから、すぐに、中のことを日本軍に教えた。
 日本兵は、地下室に声を掛けたが、誰も返事をしなかった。
 日本兵は、村人に命令して、地下室の天井には板がはってあってその上に土をのせて床にしていた。その床の土を掘っていくと板にぶつかる。
 その音を聞いて、中にいた4人は、自殺することにした。自分たちが、地下室から出て日本兵と戦ったら、あとでは村人たちがひどい目にあうと判断したようだ。4人は日本軍と直接戦うことをやめ、もっていた銃と手りゅう弾で地下室の中で自殺した。日本兵は、このとき平服で7~8人のグループだったから、闘うこともできたが、4人はそうせずに、自死の道を選んだ。
 銃を自分に撃った人がいた。手榴弾を爆発させた人もいた。
 日本兵は、村人に地下室で倒れている4人を掘り出させた
 ひとりはまだ生きていたので、村人が息をしているのが日本兵にわからないように顔を下に向けさせた。しかし、日本兵は顔を見て生きているのがわかったのでが、拳銃で頭を何発も撃った。脳が砕けて飛び散ったという。3人の遺体は手も足も砕かれていた。
 朝8時ころに爆弾の音が聞こえ、煙が上がるのが見えた。わたしは、日本軍がいなくなってから、村に戻り、死んだ4人の遺体を見た。夫の頭に弾の穴があいており、手は無かった。
 そのあと、日本兵は、家に火をつけてからすぐ帰った。それから、2~3日ごとに村に様子を見に来た。
 隠れ家を教えた文昌出身の党員は同志を裏切ったということで、あとで共産党に処刑された」。
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