三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「個人」と「組織」

2018年10月21日 | 木本事件
 今年の冬に私が子供の頃からよく知っている方が亡くなりました。70歳でした。バイタリティあふれる方で、まだまだこれから色々と活躍されるかと思っていましたが、突然の人生の終わりでした。この方が亡くなってから、「死」というよりも「人生」の終わりというものを意識するようになりました。当たり前のことですが、人は死に、人生もいずれ終わります。
 しかしながら「組織」は、その「組織」が存在している以上、終わりなく、継続されます。「組織」に属する人々が入れ替わることで継続されます。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会」が1989年に結成されて以来、お二人の追悼碑の建立や木本町民による二人の虐殺を「愛町心の発露」が原因であったと記載した「熊野市史」の書き換えを熊野市に要求し、行政交渉を行ってきましたが、いずれも受け入れられていません。熊野市は受け入れるつもりはありません。「組織」である熊野市は、「個人」の集まりである当会の要求も当会のことも無視し続けるでしょう。
 彼らにとって無視し続けることが一番の解決策であると彼らは思っているに違いない。無視できない「こと」が必要に思う。
                                       S 記
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2017年の追悼集会(1) 三重県木本で虐殺された李基允さんと裵相度さんを追悼する集会

2018年10月18日 | 木本事件
■三重県木本で虐殺された李基允さんと裵相度さんを追悼する集会■
 2017年11月18日、お二人を追悼する碑の前で、24回目の追悼集会を行いました。
 はじめに会を代表してキム・チョンミさんが、開会の挨拶をしました。

  みなさん、雨の中ありがとうございます。1989年に会がスタートし、1994年に追悼碑が建立されました。当初、熊野市は碑の建立に協力すると言っていましたが、碑文の内容で合意に至らず、わたしたちは独自に土地を購入し、建立しました。
当時、碑の建立に関心を見せなかった民団、総連のかたがたもきょうは参加してくれました。中国人も参加しています。
  この追悼碑が、多くのひとがともに考えていく場になりつつあることを喜びたいと思います。

■参加者の発言
 それから、参加者一人ひとりが自分の思いを述べました。一部ですが以下に紹介します。

 Jさん 在日2世のコリアンです。腹が立つことばかりです。サンフランシスコの「慰安婦」像の件で、大阪市の市長が、像がサンフランシスコ市に寄贈されたら姉妹提携をやめる、と言っている。どこでもそうだけれど、やられたほうは忘れてほしくないから、このようにその事実を刻もうとする。これからも怒っていきたい。これからも吠えていきたいです。

 Kさん 八王子から来ました。キムさんが冒頭で言ったように、「素朴な愛町心」が人を殺す、日本はずっとそのようにしてアジアの民衆を殺してきたのです。わたしたちは、愛町心・愛国心に対する民衆の抵抗の運動を組織しなければなりません。

 Iさん 体調を崩してしまい、来られるかどうか危ぶまれたのですが、参加できてよかったです。いくつになっても来たいです。寝たきりになっても連れてきてくれ、とみんなに言っています。

 Nさん 八王子に中島飛行機の浅川地下壕がありましたが、そこでも朝鮮人の子どもが駆り出されて亡くなっています。八王子でも、そのような事実と向き合い、追悼碑を建立したいと思います。

 Sさん 四日市の朝鮮人学校の教師をしている在日3世で、在日本朝鮮同盟三重県本部の者です。三重県の朝鮮人強制連行・強制労働の歴史については、三重の北西地域についてはほぼ調べてきましたが、熊野のような南部については今日初めて来ました。わたしの祖母の父は関東大震災のときに偶然虐殺を免れました。生き延びて、朝鮮学校を建てました。熊野での「木本事件」が関東大震災の朝鮮人虐殺と共通しているということを、四日市の子どもたちにもしっかりと伝えていきたいと思います。

 Nさん 地元の木本に住んでいます。事件のことは祖父から聴いていました。殺された朝鮮人は、事件の前までは、地元の若者とも仲が良かったそうです。ちょっとしたことがきっかけで「やったれー」となって、もう止めようがなかった。祖父は軍刀まで抜いて止めようとしたが、止められなかった。群集心理は本当に怖いと思います。

 Sさん 碑ができてから23年がたちます。そのとき感じたのは、やっと闘いの根拠地ができた、と言う思いです。「木本事件」で教訓として一番心に残っていること、それは朝鮮人といっしょに日本人の労働者が闘ったことです。杉浦新吉さんという日本人とあとふたりの日本人がいっしょに闘いました。

 民団三重県本部のみなさん
  殺されたふたりの朝鮮人と同じ民族として、追悼集会に参加すべきだ、と提案して、9人で来ました。仲間に入れてください。
  長い間この碑を守ってくださったことを感謝したい。この碑について、若い世代がよく理解して、ここに来てもらえるように、わたしたちも努力したい。


 そのあと、一人ひとりが献花しました。
 集会を終えたあと、はじめての参加者を中心にして、木本トンネル、労働者がダイナマイトを投げ抵抗した地点、飯場のあった場所、裵相度さんが虐殺された場所など、「木本事件」の現場をめぐったあと、おふたりの「墓石」が置かれている極楽寺に行きました。事件後数日間、極楽寺の墓地の隅に裵相度さんの遺体が放置されていたといいます。

                                        斉藤日出治記
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1988年9月11日  

2018年10月17日 | 木本事件
■三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の出発
 1988年9月11日、李基允さんと裵相度さんを追悼する碑を建立するための第1回準備会を大阪で開いた。この会は、3人の在日朝鮮人が呼びかけた。そのうちのひとりはわたしだった。
 準備会では、会の名称をどうするか、会の目的はなにか、朝鮮人と日本人の立場の違いを会の活動にどう反映させるかなどで、毎回、熱心な意見交換がおこなわれた。
準備会は翌年春まで毎月1回、大阪で開いた。
 会の名称が決まり、津で結成集会を開いたのは翌年4月23日で、6月4日には大阪でも結成集会を開いた。
 準備会発足後まもまく、李基允さんと裵相度さんの遺族を探すために、韓国の行政機関に問い合わせの手紙を送った。11月に、当時家族とともに木本町にいて、「事件」のあと、オモニ、妹たちといっしょに故郷の釜山に帰った裵敬洪さん(裵相度さんの二男)と連絡が取れた。
 さいしょの準備会から30年が過ぎた。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会(以下、木本の会とする)はこの30年でなにをすることができたのか。なにができなかったのか。木本の会は、この30年、なにを経験してきたのか。

■「木本事件」の「現地調査」
 1989年1月28日―29日、第1回「木本事件」の「現地調査」をおこなった。28日の夜、宿所で地元の人たちも参加して、「木本事件」について話し合ったが、1926年に木本町でおきたことが、1989年の時点で、地元の人たちにもまだ記憶が生々しいことにおどろいた。
 この「現地調査」まで、わたしは7回か8回、熊野を訪ね、関係者や高齢の人たちに話を聞いたが、朝鮮人にたいする反感もふくめ、この地域の朝鮮人とのかかわりの深さに気づかされた。それらは、「木本事件」に根をもつものだ。
 この30年、熊野に通いつつ、熊野と朝鮮人とのかかわりは、この“根”を、地域の人たちの朝鮮人にたいする認識をあらたにするほど力強く育てることにはいたっていない、とわたしは考える。「この“根”を育てる」とはどういうことか? 地域の人たちとともに、「木本事件」の真相を明らかにし、繰り返さないためにどうするかを考え、李基允さんと裵相度さんを追悼する方法を考える。
 熊野地域とわたしたちは、深いかかわりをもったのも事実である。多くはないが熊野の人たちとの出会いが、わたしたちを励まし、支えてくれている。熊野の風景が見慣れたものになり、そこでの人びとの暮らしをおびやかす自然の脅威を心配する。だからこそ、この一見穏やかな街並みで起きた恐ろしい「事件」の真相を何十年たっても明らかにしたいと思うのである。
 
■熊野市への要請
 わたしたちは、6月4日の大阪での結成集会のとき、
   1、「事件」の再検証と、『熊野市史』(1983年3月)の書き換え。
   2、熊野市民に「事件」の真相を伝える。
   3、遺族、熊野市、建立する会の3者で、追悼碑を建立する。
   4、1990年1月3日あるいはその近い日に、三者で追悼行事を行う、
を会の参加者とともに決め、翌6月5日、結成集会に参加した裵敬洪さんと裵哲庸さん(裵相度氏の孫)とともに、はじめての熊野市との話し合いをおこない、この4項目を記した要望書を熊野市と熊野市教育委員会にわたした。
 木本の会は、1994年8月2日まで15回、熊野市と話し合いをおこなったが、この4項目を、実現させることができていない。
 1994年11月20日、木本の会は、土地の購入、石の選定などに協力者、賛同者から多くの力を得て、追悼碑の除幕式をおこなった。

■木本町から紀和町へ  紀州鉱山の真実を明らかにする会の結成 
 木本町から西に30キロほどのところに紀和町がある。毎年秋の「木本事件」の追悼のつどいと「現地調査」の翌日、紀和町で、紀州鉱山の「現地調査」をおこなった。紀州鉱山に1930年代末から朝鮮人が働き、おおぜいが亡くなったと、それまで地元の人たちの証言を得、複数の資料でも確認していた。
 1997年2月9日に、木本の会のメンバーが中心になって紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成された。新しく会を作り、紀州鉱山への強制連行の真相をさらに明らかにする必要があるのではないかと、みんなで考えたからである。
 現在でも紀和町に行くのは、かんたんではない。朝鮮から紀州鉱山への道のりは、1930年代ははるかに厳しいものだったろう。韓国で聞いた証言はそれを裏付けてくれる。

■紀州鉱山に強制連行された朝鮮人に会いに韓国へ  
 木本の会が『1946年石原産業報告書』(1946年9月に石原産業が三重県内務部に提出した報告書。本文と紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の名簿からなる)のコピーを1996年に入手し、そこに記載された当時の住所をもとに、はじめて生存者を訪ねたのは同年10月だった。
 さいしょは紀州鉱山に強制連行された人がいちばん多い江原道の麟蹄、12月に旌善を訪ねた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会を結成の3か月後、1997年5月には江原道麟蹄、旌善、平昌で紀州鉱山に強制連行された人たちを訪ねた。翌年、8月末~9月、2番目に多くの人が強制連行された慶尚北道を訪ねた。
 『1946年石原産業報告書』に記載された住所や名簿は、植民地時代のもので、姓名も「創氏改名」されていたが、行政機関の職員、地域の高齢者の助けで、出会えた人がおおい。各地の「敬老堂」には、よくお世話になった。

■紀和町から海南島へ
 紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本軍が1939年2月、海南島に侵入してからは、日本軍とともに海南島に入り込み、海南島南部の田独鉱山で鉄鉱を略奪した。わたしたちは、1998年6月、はじめて海南島に行った。そして、日本政府・日本軍が海南島に、植民地朝鮮の刑務所から、獄中者を連行し、おおぜいの朝鮮人を殺害したことを知った。
 海南島に強制連行された獄中者は約2000人。そのうち、1000人以上が殺害されたと考えられるが、名前が確認できた人はわずかである。
 海南島では、朝鮮人だけでなく、台湾人、海南島人、大陸から連行された中国人、連合軍捕虜などが強制労働のはて、命を落とした。日本が海南島でおこなった侵略犯罪の実相はほとんど隠されたままである。

■海南島近現代史研究会
 2007年8月5日、木本の会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが中心になって、海南島近現代史研究会を創立した。海南島での日本の侵略犯罪は、日本政府も日本軍兵士や日本企業社員もみずからはほとんど明らかにしていない。

■この30年
 この30年、木本町、紀和町、朝鮮南部の各地、海南島の各地を訪ね歩き、そこで何があったのか、そこに住んでいた人びとになにがおきたのかを、知り、記録し、考えた。
 
                                      金靜美
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熊野市にたいする抗議・要請 2016年11月26日 

2017年01月25日 | 木本事件
 きょう(1月25日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と第23回追悼集会参加者一同は、河上敢二熊野市市長と倉本勝也熊野市教育長に、抗議と要請の文書を送りました。 文書の日付けは、李基允・さんと裵相度さんを追悼する昨年の23回目の追悼集会の日である2016年11月26日です。抗議・要請文の全文はつぎのとおりです。
       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会

 
■抗議・要請■
 本日、わたしたちは木本トンネル入り口の追悼碑の前で23回目の追悼集会を開催しました。この追悼集会には、例年と同じく、地元の方々はもとより、各地から参加者が結集しました。
 1994年に朝鮮半島を向いて建立された李基允さんと裵相度さんの追悼碑は、その後22年の間、地元の方々の協力によって草取りや整地や植樹がおこなわれ、守られ、維持されてきました。
 狭くて登るのに苦労する入り口の階段には手すりをつけ、追悼碑のある高台の危険な崖の縁には防護柵を設けて、追悼碑の敷地はすこしずつ整備され、熊野の地域にしっかりと根づいた碑となっています。
 李基允さんと裵相度さんの命を奪った「木本事件」は、熊野の地域住民が引き起こした虐殺事件であるにもかかわらず、熊野市はこの事件の実態がどのようなものであり、なぜこのような虐殺事件が起きたのかについて、その究明を積極的に行おうとしてきませんでした。わたしたちがその究明を求めて毎年発している質問にも熊野市は答えようとしていません。
 このような熊野市の態度は、事件を二度と起こしてはならぬものとして教訓化し、次世代に伝えていこうとする姿勢を欠落させるものであり、それどころか事件を引き起こした地元住民の差別意識を温存することにもつながっています。
 2016年9月1日に、「「木本事件」の発端」という会員の佐藤正人が書いた記事に対して、「木本人」という署名で、「朝鮮人の捏造記事」というコメントが投稿されました。その全文は、つぎのとおりです。
   「木本事件の内容は父から聞いた事があります。当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨で
   あったらしく、朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖
   がらせ大問題になっていたらしく、小さな村の木本警察などでは、手に追えなかったら
   しいです」。
 また、その前々日の8月30日に、「木本水道」という署名で「実際」と題するコメント投稿されていました。その全文はつぎのとおりです。 
   「私は父からこの事件について話を聞いたことがあります。
    このトンネルは実家の直ぐ近くにありますが、父も事件を見ていたそうですが、私が
   聞いた話とは、随分違う様にかんじますが…」。

 「木本人」は、「当時朝鮮人労働者の迷惑ぶり」、朝鮮人労働者たちの「徒党を組んで傍若無人の振る舞い」を理由とすることによって、地元住民によるふたりの朝鮮人殺害をやむを得ないこと、あるいはしごく当然なこと、であるかのように語っています。
 この事件が起きた当時の地元新聞のコラム欄では、お二人を殺害した住民の行動を「吾が民衆の先駆者」と呼び、事件当時在郷軍人会副会長だった谷川義一氏の手記(「鮮人騒動の記」、『木本小学校百年誌』、1973年発行)には、朝鮮人労働者の「無法地帯的な行状に泣いたこの地方の人々こそあわれ」だとして、住民によるお二人の殺害を「あながち無理とも言えない」と肯定しています。
 事件後に、朝鮮人労働者を殺害した住民の行動を「あながち無理とも言えない」などと肯定することが、今回の「木本人」の発言となって再現しているのです。
 この事件を根源から問い直すためには、朝鮮人虐殺を正当化するこのような発言がなぜ生まれたのか、そのような発言とその背後にある民族差別意識をどうしたら克服できるのかを考え、その課題に取り組むのが熊野市に課せられた責務なのです。しかし、熊野市はわたしたちの呼びかけにもかかわらず、なすべきその責務を放棄してきました。
 たとえば、事件から50数年が経過した1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻の「木本トンネル騒動」のなかでも、住民による朝鮮人への襲撃と虐殺を、「木本町民としては誠に素朴な愛町心の発露であった」としています。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、すでに1989年6月4日の創立集会の翌日に、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで27年あまりの間、この文言の削除を求めると同時に、「木本トンネル騒動」の記述全体の書き換えを求めてきたのですが、熊野市はその要請に応えてきませんでした。
 木本トンネルは、木本町民らの生活を便利にするために作られたものです。そのトンネルを日本人労働者とともに掘っていたのは、日本による朝鮮の植民地支配によって日本に働きに来ざるをえなくなった朝鮮人労働者でした。木本町の住民たちはその朝鮮人を集団で襲い虐殺したのです。さらに、在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りまでしました。
 熊野市と熊野市教育委員会が、「木本事件」について事実をみずから明らかにし、その歴史的責任をとろうとし、このような犯罪がくりかえされることを阻止する活動に積極的に取り組んでいたならば、「木本人」がこのようなコメントをすることはなかったでしょう。
 「木本人」が上記のような発言をするという状況を許してきた熊野市・熊野市教育委員会の責任は重大です。
 熊野市長、および熊野市教育長は、朝鮮人虐殺を事実上肯定する発言が「木本人」から発せられたことについて、どう考え、どのように対処すべきだと考えるのか、責任のある回答を文書で求めます。
 同時に、昨年の抗議要請文をここに添付し、そこでわたしたちが求めた質問事項に対する速やかな回答を求めます。回答は、2月末日までに必ずお送りください。(2017年1月25日発信)


抗議・要請            2015年11月7日
 熊野市長   河上敢二さま
 熊野市教育長 倉本勝也さま

   三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
   第22回追悼集会参加者一同

 本日、わたしたちは木本トンネル入り口の追悼碑の前で22回目の追悼集会を開催しました。
 木本町(現熊野市)でお二人を殺害したのは在郷軍人会や消防組などの地元住民の組織であり、その組織に出動を指示した木本町長はお二人の殺害に重大な責任を負っています。
 したがって貴職らは地元行政機関の責任者として「事件」の原因を究明し、遺族に謝罪し、このような事件が2度と起きないような人権教育に真摯に取り組む責務があります。
 私たちは会を結成した当初から、熊野市に対し、地元の行政機関として、この事件がなぜ起きたのかについて地元住民とともに考え、地元の歴史教育に積極的に取り組むべきであると述べてきました。そしてつぎのような課題を提起してきました。
 1 『熊野市史』における「木本トンネル騒動」の記述で、地元の住民がとった行動を「誠に素朴な愛町心の発露」として弁護する文言があることを指摘し、この文言を削除すると同時に、『熊野市史』の記述全体を再検討すること。
 2 お二人の追悼碑を建立するために、熊野市が土地を確保し建立の資金を市民から募って、追悼碑の建立活動に取り組むこと。
 3 地元で「木本事件」を考えるための歴史教育・人権教育に積極的に取り組むこと。
 4 「木本事件」の詳細を明らかにすること。

 しかし、熊野市は当初は我々の会と協力して上記の取り組みを進めるという方針を立てながら、中途でその取り組みを放棄しました。
 1の課題については、熊野市は『熊野市史』の「誠に素朴な愛町心の発露」と言う文言の削除を約束しながら、削除要請通知を一部の『熊野市史』の購読者(主として、熊野市が『熊野市史』を寄贈した相手)に送っただけで、削除が実際に行われているかの確認をも誠実に行ってはきませんでした。
 わたしたちが各地の公立図書館に所蔵されている『熊野市史』を調べたところ、実際に文言の削除がなされていない図書館が多数あることを確認しました。その後、わたしたちは文言の削除が的確になされているかどうかの確認を熊野市と熊野市教育委員会に求めましたが、いまだにその確認はおこなわれていません。
 2の追悼碑の建立については、熊野市議会で了承がなされ、200万円の予算が計上され、なおかつ追悼碑の建立予定地まで確保しながら、碑文を作成する段階で、熊野市は追悼碑の建立そのものを拒絶するに至りました。
 3の課題については、熊野市はこれまでまったく取り組む姿勢をみせていません。それだけでなく、熊野市の図書館に「木本事件」に関する資料コーナーを設けてほしい、という当会の要求を拒否し続けてきました。
 4の「木本事件」の詳細を明らかにするという課題は、熊野市がかならず組織的に全力をあげて早急に進めなければならない課題であるにもかかわらず、熊野市は、現在にいたるまで、まったくなにもおこなっていません。

 22回目の追悼集会にあたって、わたしたちは以上のようなこれまでの熊野市の対応に強く抗議するとともに、あらためて以下の要求を行います。
 1 『熊野市史』における「木本トンネル騒動」に記載された文言「誠に素朴な愛町心の発露」について、『熊野市史』の公的・私的な購入者に対する削除の通知を徹底していただきたい。また削除の通知をするだけでなく、なぜ削除するのかについての理由を明記していただきたい。
 2 熊野市市議会は当初、追悼碑を当会とともに建立するために200万円の予算を計上しそれを可決したが、その予算は執行されていません。現在、その200万円がどのように扱われているのか、説明していただきたい。
 関連して、新屋英子さんが熊野市に追悼碑建立の基金として渡された10万円がどのように処理されたのかについて説明をしていただきたい。
 3 熊野市図書館に「木本事件」の資料コーナーを早期に設置していただきたい。設置しないのであれば、なぜ設置しないのかについての理由を説明していただきたい。
 4 お二人がなぜ異郷の地で無残に殺害されるに至ったのかについて、地元の学校で、あるいは社会教育を通して、反省する機会を設けていただきたい。
 5 昨年9月30日に熊野市の教育委員会の社会教育課に対して追悼碑の案内板を設置するように要望をしました。しかし、教育委員会からはいまだに回答がありません。早急に回答をしていただきたい。
 6 「木本事件」の詳細を明らかにし、お二人が無残に殺害された歴史的社会的原因を究明する機関を設置し、「木本事件」の真相を明らかにする調査報告書を、わたしたちの会とともに作成・発行していただきたい。

 昨年の追悼集会のあと、ほぼ同じ抗議要請文を貴職に送りましたが、回答をいただいておりません。ただひとつ、昨年9月30日に熊野市建設課を訪問し追悼碑の下のがけの危険個所について整備を要請したところ、この整備については調査と工事がおこなわれました。しかし、この工事の実施について、当会のほうには何の報告もありません。今年の9月になって当会が建設課に問い合わせて工事が実施されたということを初めて知りました。追悼碑の土地の管理者であり所有権者である会に対して、工事の事前連絡も事後報告もおこなわないまま工事を実施したのは異常な事態と言えます。
 いずれにしても、上記の市民団体の要請を無視する態度はあきらかに行政の説明責任を放棄するものです。 今回の6点の要望については、そのようなことのないよう、12月28日までにかならず文書での回答を求めます。
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「朝鮮人労働者を虐殺した「木本事件」から90年の追悼」

2016年12月31日 | 木本事件
『週刊金曜日』1115号、2016年12月2日 
■朝鮮人労働者を虐殺した「木本事件」から90年の追悼
 歴史隠蔽の動きに危機感

 三重県発注の木本トンネル建設工事に従事していた朝鮮人2人が地域住民に殺害された「木本事件」から90年。犠牲者の李基允さん、裵相度さんを追悼する集いが11月26日、熊野市木本町の追悼碑前で開かれた。23回目を迎える今年も在日朝鮮人、日本人が集まり、植民地支配の歴史に向き合った。
 「木本事件」は、関東大震災時の朝鮮人虐殺から間もない1926年1月2日に起こった。ささいなことから口論になり、日本人が朝鮮人を刀で切りつけて重傷を負わせたできごとが発端だった。翌日、「朝鮮人が襲ってくる」との流言が飛び、木本町長の要請で出動した消防組を中心とする住民が飯場を襲い、李さんを殺害。その後、在郷軍人らに朝鮮人も応戦するなかで、裵さんが殺害された。事件後、すべての朝鮮人が町から追放された。
 事件の真相解明と責任追及をめざす「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」は、在日朝鮮人の歴史研究者、金靜美(キム チョンミ)さんを代表に89年に結成。資料調査や住民への聞き取りをし、『熊野市史』の「(事件は)素朴な愛町心の発露」とした記述の書き換えなどを求めた。その後、碑の建設費として市も予算計上したが、事件の行政責任など碑文を巡り会と見解が対立した。韓国在住の遺族の体調面などから建立を急ぎ、94年に会独自で碑を建てた。
 追悼集会では、安保法制定に折り重なる歴史隠蔽の動きに参加者が次々と危機感を表明、異国で生を絶たれた朝鮮人に思いを馳せた。
 翌27日は、アジア・太平洋戦争時に同市紀和町の旧石原産業紀州鉱山で働き、犠牲となった朝鮮人を追悼する集いも開催した。鉱山では、延べ1300人以上の朝鮮人が働いていたとされ、史実を知った「追悼碑を建立する会」のメンバーは、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」を結成。死亡が確認された35人の名を刻む石を見守るように立つ追悼碑を2010年に建立した。さらに、会員らは同じ石原産業の鉱山があり、日本の南方政策の拠点とされた中国海南島における軍の加害行為の解明も続けている。会員の佐藤正人さんは「日本がアジア全域で行なった事実の真相究明を通し、私たちの歴史認識を絶えず検証していかない限り、国家の侵略の歴史に回収されてしまう」と話した。

                             山本柚・ライター
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「朝鮮人虐殺「木本事件」 15回目の追悼集会」

2016年12月29日 | 木本事件
http://www.kinyobi.co.jp/backnum/antenna/antenna_kiji.php?no=434
『週刊金曜日』2008/12/12 金曜アンテナ
■朝鮮人虐殺「木本事件」 15回目の追悼集会
 三重県木本町(現・熊野市)で一九二六年、トンネル工事に従事していた朝鮮人労働者二人が在郷軍人などに虐殺された「木本事件」の一五回目の追悼集会が一一月二二日、同市であった。追悼碑を建立した「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・ペ相度)の追悼碑を建立する会」の竹本昇さんは「事件をどのように認識するかは、今に生きる私たちの課題だ。歴史を忘れようとする社会に問い続けたい」と訴えた。
 集会の冒頭で碑の前にマッコルリ(どぶろく)が捧げられ、参加者全員で献杯しながら、事件の記憶を継承することを誓った。
 同会によると、事件は関東大震災時の朝鮮人虐殺から二年四カ月後に起こった。ささいなことをきっかけに日本人が朝鮮人を刀で切りつけた。その後、町中を「朝鮮人が復讐してくる」というデマが飛び交い、在郷軍人や消防組員が飯場を襲って、騒ぎを抑えようとした二人を殺した。
 八九年に結成された同会では、現在でも事件を「素朴な愛町心の発露」と伝える「熊野市史」の書き換えを求めている。一方で、地元の小学生が総合学習で現場に足を運ぶなど事件の教訓を学ぼうという動きも広がっている。
 紀伊半島の南端に近い人口五〇〇〇人ほど(当時)の小さな町で起こった事件だが、歴史的に持つ意味は重い。
 同会の佐藤正人さん(六六歳)は「一九二〇年代の新潟・中津川事件(水力発電所工事現場での朝鮮人虐殺)や関東大震災時の大量虐殺と根を同じくしている。植民地支配に基づく民族差別を原因とし、現在も真相や責任の所在はあいまいなままだ。(木本事件では)明らかにした事実に基づいて、行政の責任追及を続けてゆきたい」と話した。

                             山本柚・ライター
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李基允さんと裵相度さんを追悼する23回目の集会

2016年11月26日 | 木本事件
 今日(11月26日)午後2時から木本トンネル入り口の追悼碑前の広場で、23回目の李基允さんと裵相度さんを追悼する集会(이기윤씨와 배상도씨를 추도하는 모임)を開きました。
 追悼集会開会前の午後1時から、熊野市文化交流センターで、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働についてのパネル展示を明日午後5時までの予定で開催しました。

 集会には、日本各地からおおくの人たちが参加しました。
 はじめに、追悼碑に参加者ひとりひとりが献花したあと、全員で献杯しました。
 そのあと、参加者は、追悼碑の前で、つぎのように語りました。
 Aさん:毎年参加している。毎年日本の状況は良くならなければならないのに、悪くなって
    きている。
     1926年1月の事件から90年以上が過ぎたが、2人の犠牲者に加害者である日本人
    がしっかり向き合ってこなかったという罪科を、わたしは日本人として感じている。
 Bさん:3人の子どもといっしょに参加した。
 Cさん:おおくの日本人は加害責任をとろうとしていない。
 Dさん:1994年のこの追悼碑の除幕集会に参加した。
     徹底的な調査と研究をすすめながらこの会が運動を長い間続けてきていることを、
    感じている。
 Eさん:イジメと差別は、超々近い。日本人の民族差別は続いている。
 Fさん:この近くに住んでいる。この集会に参加している皆さんに会うとうれしい。仲間だと
    思う。
 Gさん:アリランを演奏します。
 Hさん:ポーランドのビルケナウに行ってきた。
 Iさん:木本トンネルは三重県が発注した。三重県にも責任がある。
 Jさん:「木本事件」についてあまりくわしく学んでいないが、朝鮮人と結婚して子どもが生ま
    れ、子どもが育っていく過程で歴史を知ってほしいと思っている。
 Kさん:22年まえにここに追悼碑が建てられたとき、民衆運動のひとつの根拠地がつくられた、
    ここが根拠地だと感じ、うれしかった。
     この碑を中心にして、多くの出会いがあった。木本町(熊野市)の住民との新しい出会
    いもあった。最近、「木本人」のような発言もあったが、この広場は、差別と侵略に対決
    する民衆運動の拠点でありつづけると思う(「木本人」の発言にかんしてはこのブログの
    2016年11月10日~13日の「「木本事件」は終っていない」1~4をみてください)。     
 Lさん:毎年、この集会に参加して、新しい歴史をつくっていけるという確信がつよまっている。
 
 閉会後、「木本事件」の現場のあとをたどりつつ極楽寺に行き、李基允さんと裵相度さんの墓碑に花を献じました。
 その後、熊野市文化交流センターの展示会場で、展示を見にきてくれた人たちと話しあい、さらに紀和町の宿所に移動しました。

 夕食後、交流会を開きました。そこで、夜遅くまでみんなで話しあいました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と李基允さんと裵相度さんを追悼する集会の参加者、紀州鉱山の真実を明らかにする会と紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会の参加者は、これまで会の要請に応えてこなかった熊野市長と熊野市教育長にたいして抗議と要請をおこなってきました(昨年の抗議・要請については、このブログの2015年12月10日の「「木本の会」の熊野市に対する抗議・要請」および2015年12月11日の「紀州鉱山の真実を明らかにする会の熊野市に対する抗議・要請」をみてください)。
 交流会では、「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる熊野市の行政責任を問い、ふたたび同じ犯罪がくりかえされることのない政治的・社会的・文化的情況をつくりだしていく民衆運動についても話しあいました。
               
                                   佐藤正人
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「木本事件」は終っていない 4

2016年11月13日 | 木本事件
「木本事件」は終っていない
     ―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――

■追悼碑のある場所はひとつの根拠地
 1994年5月1日に起工した追悼碑は、10月23日に建ち上がりました。工事をしてくれたのは、極楽寺のすぐ前の松島石材店の松島秀和さんでした。
 松島秀和さんの父、松島繁治さんは、1988年初夏にはじめて会員の金靜美が熊野市を訪れたとき、極楽寺の無縁墓地にふたりの「墓石」があるはずだといい、その場所を教えてくれた人です。そのとき、松島さんは、極楽寺墓地の30段ほどの急な斜面にぎっしり積み上げられている1000個ほどの「無縁」の墓石のなかの李基允さんと裵相度さんの「墓石」のありかを教えてくれました。松島繁治さんは、金靜美に、
    「ふたりのことをちゃんとしてくれる朝鮮人が、かならず、いつか来ると思って待って
   いた。
     事件のとき、わたしは、極楽寺墓地の前の家に住んでいた。部屋の窓からふたり
   の遺体を見たことがある。むしろが、かぶされていた。事件の夜は、こわくて家にかく
   れていた。
     その2年半ほどまえの大地震のときには、東京で丁稚奉公をしていた」
と話しました。
 裵相度さんの娘さんである月淑さんと木本小学校の同級生で仲の良かった橋谷ますえさんは、1989年4月25日に裵相度さんの孫の哲庸さんと会ったとき、月淑さんと「そっくりやのう」と繰り返しました。

 「LUZの熊野古道案内」というブログに2014年 11月 2日に掲載された「熊野の旅 熊野の負の遺産 木本事件」に、つぎのように書かれています。http://je2luz.exblog.jp/21263588
    「木本には世界にも知られている事件の歴史があります。木本事件」と言われるもの
   で、1926年正月に起きた集団殺人事件です。
    今も残る「木本隧道」の工事中に起きた事件で、工事に従事していた朝鮮人労働者
   と地元民との間に諍いが起こり、一部町民の制止にも関わらず、2名の朝鮮人を殺し
   てしまったのです。
    私の祖父はその現場に居て、若い衆を止めようとしても止められなかったそうです。
   「群集心理は怖い物だ・・・」と語ってくれました。
    殺された朝鮮人は日頃は地元の人とも仲良く出来ていて、「良いやつだった」とも聞
   きました」。

 筆者のLUZさんは、これを書いたとき熊野市議会の議員でした。

 当時も現在も、木本町(現、熊野市)に、「木本人」のように朝鮮人を敵視し、差別し、朝鮮人虐殺を肯定する日本人だけが住んでいるのではありません。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、当時の「木本人」によって殺された李基允さん裵相度さんを追悼する碑の碑文の後半に、新聞記事や聞きとりにもとづいて、つぎのように記しています。
   「朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流もうまれていました、裵相度氏の
  長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生で、仲のよい友だちもできていました。襲撃
  をうけたとき、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者とともに立ち向かった
  ひともいました」。
 
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑が建立されてから、22年が過ぎました。これまで、この追悼碑は傷つけられることがありませんでした。追悼碑の近くに住む熊野市民は、追悼碑の維持をたすけてくれています。
 追悼碑と追悼碑のある場所は、民衆の運動のひとつの根拠地となっています。

       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
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「木本事件」は終っていない 3

2016年11月12日 | 木本事件
「木本事件」は終っていない
     ―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――

■朝鮮人虐殺を肯定する「木本人」
 「木本人」は、「当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨であったらしく、朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖がらせ大問題になっていたらしく……」と述べてはいますが、当時の「木本人」が朝鮮人を虐殺した事実は述べていません。こうして「木本人」は、当時の多くの木本町民と同じく、朝鮮人虐殺を肯定しています。
 「木本人」は、当時朝鮮人が住民のために木本に来てトンネルを掘っていたことを知りながら、「当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨であったらしく……」と書いています。
 そして、その朝鮮人労働者を当時の木本町民が集団で殺害した事実を知りながら、
    「朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖がら
   せ大問題になっていたらしく、小さな村の木本警察などでは、手に追えなかった
   らしいです」
と述べ、朝鮮人虐殺を肯定しています。こうして「木本人」は、木本虐殺90年半後に、木本町民の朝鮮人虐殺に加担しています。
 「私は父からこの事件について話を聞いたことがあります」と言う「木本人」に、本名を名乗ること、「木本人」が証言者としている「父」の名も明らかにすることを求めます。

■「木本事件」は終っていない
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、「木本事件」の63年後に出発しました。
 「木本事件」から90年。いまなお、朝鮮人虐殺を肯定する木本町民(現、熊野市民)がいます。
 「木本人」の発言は、熊野市が30年あまりまえの1983年に発行した『熊野市史』中巻に、住民が朝鮮人を襲撃・虐殺したことが、「木本町民としてはまことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれている問題につながっています。
 木本トンネルは、木本町民らの生活を便利にするためのものでした。そのトンネルを遠い朝鮮から来て掘っていた朝鮮人労働者を、木本町民らが集団で襲撃し、ふたりを虐殺しました。在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りをしました。
 その事実を、「まことに素朴な愛町心の発露」とする『熊野市史』の書きかえを求めようとする熊野市民は、少ない。
 熊野市は、いまなお、このような記述が『熊野市史』でおこなわれた原因を明らかにしようとしておらず、この記述を取消していません。
 「木本人」の「朝鮮人の捏造記事」というコメントは、『熊野市史』問題が解決されていないことを示しています。熊野市と熊野市教育委員会が、「木本事件」について事実をみずから明らかにし、その歴史的責任をとろうとし、このような犯罪がくりかえされることを阻止する活動をすすめていれば、「木本人」が、このようなコメントをすることはなかったでしょう。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、1989年6月4日の創立集会の翌日、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで27年あまりの間、求めつづけていますが、熊野市も熊野市教育委員会も、拒否しつづけています。
 「木本人」がこのような発言をするという状況を維持しつづけてきた熊野市・熊野市教育委員会の責任は重大です。

       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
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「木本事件」は終っていない 2

2016年11月11日 | 木本事件
「木本事件」は終っていない
     ―― いま、「木本人」はなぜ朝鮮人虐殺を肯定するのか ――

■「木本人」のコメント
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のブログは、読者が各記述にたいする意見を自由に発表できるよう設定してあり、これまで、さまざまな投稿が寄せられています。
 ことし、9月1日に、「「木本事件」の発端」という佐藤正人の記事に、「木本人」という署名で、「朝鮮人の捏造記事」というコメントが投稿されていました。その全文は、つぎのとおりです。
「木本事件の内容は父から聞いた事があります。当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨であったらしく、朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖がらせ大問題になっていたらしく、小さな村の木本警察などでは、手に追えなかったらしいです」。

 また、その前々日の8月30日に、「木本水道」という署名で「実際」と題するコメント投稿されていました。その全文はつぎのとおりです。
「私は父からこの事件について話を聞いたことがあります。
このトンネルは実家の直ぐ近くにありますが、父も事件を見ていたそうですが、私が聞いた話とは、随分違う様にかんじますが…」。

 「「木本事件」の発端」に引用している1926年1月5日の『紀伊新報』の記事には、「(新宮に住む永光夫が)日本刀を携へて来り、鮮人工夫の肩も骨も砕ける程殴り……」と書かれています。
 「木本人」はブログの「木本事件」についてのほかの記事も読んでいると思いますが、「「木本事件」の発端」に掲載されている碑文の前半を読み、さらに日本刀をもった日本人が朝鮮人を「肩も骨も砕ける程」殴ったという当時の地域新聞の記事を読んだうえで、「朝鮮人の捏造記事」と題するコメントを「「木本事件」の発端」に書き入れています。
 「木本人」は、当時の地域の新聞の記事を「捏造記事」であるとし、それが「捏造」である「証拠」として、「父から聞いた」という「木本事件の内容」を、2016年9月1日に示しています。
 「木本人」は、「朝鮮人の捏造記事」というコメントを9月1日に投稿したことの意味を自覚していないようにも思われますが、客観的な意味は大きいと思います。
 朝鮮での1919年の3・1独立運動の4年半後、1923年9月1日の関東大地震の翌日9月2日から約1週間のあいだに、日本人は、関東地域(東京、横浜、神奈川、千葉、埼玉、群馬……)の都市や村で、6000人以上の朝鮮人を、600人以上の中国人を、被差別部落民を、社会主義者を殺戮しました。朝鮮人と思って日本人を殺した自警団員もいました。
 その2年半後、木本町の在郷軍人、消防組員らは、朝鮮人を虐殺しました。
 現在の「木本人」のコメントには、1926年1月当時の「木本人」の朝鮮人差別意識が、あからさまに、90年半後に表現されています。
 このようなコメントが関東大虐殺の93年後である2016年9月1日に投稿にされたことは、現在の日本の思想・社会状況を示していると思います。
  
        三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
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