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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「朝鮮人犠牲者へ 花たむけて献杯  三重・熊野で追悼集会」

2021年11月16日 | 木本事件
■朝鮮人犠牲者へ 花たむけて献杯  三重・熊野で追悼集会■
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会」と「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が14日、それぞれ28回目と14回目の追悼集会を三重県熊野市でもった。ムグンファ(ムクゲ)の花をたむけて献杯し、歴史を思った。
 熊野市木本町で1926年1月、トンネル工事に就いていた25歳の李基允(イギユン)さんと29歳の裵相度(ペサンド)さんの2人は、「朝鮮人が襲ってくる」といったデマにあおられた日本人の集団に殺された。熊野市の山中にあった紀州鉱山では戦時中、1300人の朝鮮人が働いていた。
 二つの会を率いる海南市の歴史研究者金靜美(キムチョンミ)さん(72)は「木本事件」や紀州鉱山における強制連行・強制労働の調査を続けており、事件の現場と紀州鉱山のふもとの2カ所に碑を建ててからは毎年この時期に追悼式を営んでいる。
 東京都から参加した福祉施設職員米持匡純さん(33)は「私たちは、多くの朝鮮人と中国人の犠牲と骨の上につくられた線路と道路とダムを使っていることをいっときも忘れてはならない」、三重県の小学教員麻生瑞樹さん(29)は、「韓国の歴史を学べると聞いて初めて来ました。未来を担う子どもたちに伝えたい」と話した。
 追悼集会には駐名古屋大韓民国総領事館の領事や在日本大韓民国民団三重県本部の団長ら約50人が集まった。  

【写真】虐殺された2人の朝鮮人の追悼碑=三重県熊野市木本町

 下地毅
『朝日新聞』2021年11月16日朝刊(和歌山版)
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杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日

2021年11月01日 | 木本事件
■杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日■
                       金靜美

  木本隧道工事には朝鮮人といっしょに、日本の各地から来た日本人も働いていた。
1926年1月3日、地元住民の襲撃にたいして、朝鮮人といっしょにたたかった日本人がいた。そのうちのひとり、杉浦新吉さんには娘さんがいた。その娘さんのお名前は哲栄さん(1930年7月生)。
 はじめてお会いしたのは、1990年10月5日だった。その後、1994年11月、2013年10月3日、2014年9月7日にも訪ねてお会いした。
 今年2021年7月26日、会のなかま二人といっしょに、杉浦哲栄さんを訪ねた。熊野川にそそぐ赤木川沿いにある杉浦哲栄さんが住んでいた家は、人の気配がなかった。すぐ近くに小雲取山(450メートル)登山口があり、階段状になった土地に10軒ほどの家がある。杉浦哲栄さんのことを知っている人がいないか、近所の家を訪ねたが、だれにも会えなかった。
 赤木川に架かる橋をもどり、近くの家を訪ねた。4軒目で、ようやく、杉浦哲栄さんと付き合いがあったという女性に会えた。
 女性の話 “杉浦哲栄さんは施設に入り、数年前に亡くなった。お連れ合いは、その前に亡くなっていた。子どもはいなかったので、親族らしい人が来て、後の整理をした”。
 7年ぶりに訪ねた杉浦哲栄さんは亡くなっていた。


 
■杉浦哲栄さんとの出会い■
                                      金靜美

◆六十三年後からの出発
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の結成は1989年6月だった。1926年1月の「木本事件」の63年5か月後だった。
 結成集会の日(6月4日)に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会準備会は、小冊子『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』を発刊した。
 それから1年半後、「木本事件」の65年後の1991年1月3日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1年半あまりの活動の報告を追記して、『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』の増補版を発行した。その「あとがき」のいちばん最後に、わたしは、
    「最近、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんに会うことができました。
    杉浦新吉氏は、65年前のあの日、日本刀や銃剣などをもって襲撃してくる木本の在 郷軍人らにたいして、朝鮮人労働者とともにたたかった日本人労働者のひとりです。「朝鮮・日本民衆の真の連帯」の一つの核心が、あの日にきずかれていました。
    1926年1月3日は、その意味では、しっかりと受け継ぐべきたたかいの出発の日でした」
と書いた。
 「木本事件」の63年後から出発した会は、追悼碑建立という課題を結成5年後の1994年に果たすことができた。
 追悼碑建立は、日本の他地域他国侵略という国家犯罪とそれをささえてきた日本企業の侵略犯罪の実体をあきらかにし、責任をとらせるべきものにとらせていくという運動のひとつの根拠地をきずくことだった。
 会結成から25年、追悼碑建立から19年、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は運動をつづけてきた。

◆1990年・1994年・2013年
 当時の「予審決定書」に書かれていた「東牟婁郡川口村」という住所を手がかりにして、杉浦新吉氏の故郷を訪ねたのは、1990年10月5日だった。
 杉浦新吉氏は、1932年10月1日に病死しており、妹さんとむすめさんの杉浦哲栄さん(1930年生)から話を聞かせてもらった(そのときのことは、『会報』11号で報告し、今号に再掲載しました)。
 その1年後、1994年11月20日の追悼碑の除幕集会が近づいたとき、ふたたび杉浦哲栄さんを訪ね、除幕集会に来てくださいと誘ったが、体調が悪いということで参加されなかった。
 20回目の追悼集会をまえにして、きのう(10月3日)夕刻、19年ぶりに杉浦哲栄さんを訪ねた。
 杉浦哲栄さんは、お元気だった。熊野川町上長井の熊野川にそそぐ小口川の川岸の高台にある家は、白い大きな夕顔の花、白式部の花に囲まれていた。
 話しているうちに、少しずつ、お互いに記憶を取り戻していった。以前見せていただいた杉浦新吉氏のただ1枚の写真は、熊野那智大社で焼いたとのことだった。
 帰り際に、「今は足も悪くなっていて、20年目の追悼集会にはいけないが……」と、多額の寄金をしてくださった。固辞したが、「それでは心がやすまらない」といわれて、ありがたく受けとった。
 追悼碑のまえに花の樹を植えることにしよう。
                              2013年10月4日



■杉浦新吉氏のこと■      
                                         金靜美

 1926年1月3日夜、銃剣・日本刀・鳶口などをもって襲ってくる木本の在郷軍人や消防手にたいして朝鮮人労働者とともに日本人労働者もたたかった。つらいトンネル工事の現場でいっしょに働くなかで堅い仲間意識が育っていったのであろうか。
 当時、何人の日本人労働者が働いていたかはわからないが、岐阜県出身の林林一氏(18歳)、岩手県出身の高橋万次郎氏(19歳)、和歌山県出身の杉浦新吉氏(22歳)、栃木県出身の神上(あるいは高橋)勝美氏(27、28歳)、高知県出身の川竹亀吉氏(25歳)の名が新聞にでている。日本の各地から木本に働きにきていたのである。
 このうち林林一氏、高橋万次郎氏、杉浦新吉氏は逮捕され、神上勝美氏は官憲や住民の追跡を断ち切り、飯場で寝ていた川竹亀吉氏は朝鮮人とまちがわれて消防手に重傷を負わされている。
 逮捕された3人の日本人労働者は、12人の朝鮮人労働者とともに起訴され、朝鮮人側被告として法廷にたった。襲撃してくる在郷軍人の集団にたいして金明九氏とともにダイナマイトで反撃した林林一氏には騒擾罪と爆発物取締罰則が、高橋万次郎氏と杉浦新吉氏には騒擾罪が適用された。
 津の地方裁判所でおこなわれた一審で検事は、林林一氏に懲役三年、高橋万次郎氏と杉浦新吉氏に懲役一年を求刑したが、裁判官は執行猶予つきの判決をだした(金明九氏は懲役3年の実刑)。

 最近ようやく杉浦新吉氏のむすめさんに会うことができた。
 当時の新聞では杉浦新吉氏の本籍は東牟婁郡川口村となっていた。しかし当時、東牟婁郡には川口村がなく、新聞の地名はしばしばまちがっているので、裁判記録で確認してから杉浦新吉氏らのことを尋ねようと考えていた。だが、裁判記録をなかなか見ることができないので、今年7月に、川口とよく似た東牟婁郡熊野川町小口(当時小口村)にいき、杉浦新吉氏のことを尋ねた。小口に代々住むという杉浦さんの家で聞いたが、新吉という人はいなかったという。同じ東牟婁郡の明神のほうに川口という村があるのでそこではないかということになり、8月にその村にいってみた。しかしその村は当時は明神村字川口といい、杉浦という姓の家は昔も今もないという。
 そして、その後もういちど小口でたずね歩きをしようとしていたやさきに小口の杉浦さんから電話があった。杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんが近くに住んでいるのだという。杉浦新吉氏は、小口では「いさなに」と呼ばれており、新吉という戸籍名では地元の人もすぐにはわからなかったのだ。「いさなに」というのは勇という杉浦新吉氏の通名が「いさあに」となり、さらに「いさなに」となったものだという。
 10月5日、電話をいただいた杉浦さんのところにいき、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんの家の住所を教えていただいた。そのとき杉浦さんは会にカンパをしてくださった。
 むすめさんと妹さんの家は、そこから熊野川の支流の和田川沿いの道を700~800メートルくだったところにあった。はじめに、むすめさんの家を訪ねた。
 杉浦新吉氏は、1932年10月1日、むすめさんが2歳のときに病死していた。30歳になっていなかった。むすめさんには父親の記憶はほとんどないという。父親の遺品は失われ、今、むすめさんの手に残されているのは、父親が友人といっしょに写真館でとった写真一枚だけだという。写真の杉浦新吉氏は、冬の旅支度をしており、ひきしまった表情をしている青年だった。
 杉浦新吉氏は男2人女7人の9人きょうだいで、兄が3歳くらいのとき病死したため、男ひとりの杉浦新吉氏は、早くから家計をたすけて働いたようだ。1932年の秋も杉浦新吉氏は病気をおして農作業をしていたという。むすめさんは小学校5年生のとき、祖母から次のような話をきいたという。
    おまえの父親は、自分のいのちがなくなることを覚悟したときに、おまえをそばにおい
   て、こういった。むすめは育てられないから里子にだしてくれ。そして、河原の石に杉浦新
   吉と名前をほって建ててくれ。この子がたずねてきた時に、父親がここにいたということが
   わかるように。
 むすめさんから話を聞いたあと、妹さんをたずねた。1916年生まれだという妹さんは畑仕事の手をやすめて、こう話してくれた。
    あの人は正直で、みんなに好かれ、だいじにされたええ人じゃった。むかしはこの前の川
   でとうさんも兄さんも筏にのっていた。歌が上手で、走りもはやかった。
    わたしが小学校にいっているころ、半年ほど朝鮮にいって筏のりをし、帰りにモスの反物
   を妹とわたしに1反ずつこうてきてくれた。むらさきのがらだった。
    やさしい人で、親孝行だった。狭いところにおおぜいで住んでいたので、ひき散らかした
   ら怒った。鴨緑江節を歌っていたことを覚えている。
    あの人の病気は結核だった。病院にいけなかった。いまだったら死なないですんだのに
   なあ。
 杉浦新吉氏が、筏のりとして朝鮮にいったのが、朝鮮人労働者とともに木本でたたかった後なのか前なのかは、わからない。あるいは、両方だったのかもしれない。冬は鴨緑江は氷結するため、冬場の仕事として言えから歩いて1日たらずのところにあるトンネル工事の現場で働いたのかもしれない。相度氏の長女、月淑さんは1915年生まれであった。杉浦新吉氏は小口に住む自分の妹とほぼ同じ年の月淑さんに会ったことがあるはずである。
 李基允氏と相度氏が殺された1か月後、1926年2月10日付けで在日本朝鮮労働総連盟、在東京朝鮮無産青年同盟会ら在日朝鮮人4組織が合同でだした「三重県撲殺事件に際して全日本無産階級に訴ふ」の一節に「我々朝鮮人労働者が今に生命を失はんとする刹那林林一、高橋万次郎等日本労働者は勇敢にも我々に味方してタイナマイト(ママ)を取った……」と書かれている。
 その日本人労働者のひとり杉浦新吉氏のことがやっとすこしわかった。
 杉浦新吉氏の死後50年を期して、むすめさん夫婦がちかくの墓地の河原の石の墓標を石碑にかえた。むすめさんと妹さんからはなしを聞いたあと、わたしはそこへいき杉浦新吉氏をしのんだ。戒名は丹桂清香信士だった。
 
  三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』11号(1990年11月20日発行)
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李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」に案内板を設置しました

2021年10月30日 | 木本事件
■李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」に案内板を設置しました■
                                    金靜美
 
 2020年11月、李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」の手すりに案内板をつけました。
 案内板は2種類で、「李基允氏と裵相度氏の追悼碑」と「追悼碑入口 階段ご注意」です。
 李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」は、木本隧道木本口左手の高台にあり、崖に面しています。
 「追悼の場」に行くには、自然石を並べた細くて急な階段をのぼらなければなりません。
 2014年11月、2019年11月、2回にわけて、階段と、「追悼の場」の道路側に手すりを付けました。
 2004年、熊野地域が世界遺産に指定されましたが、その前後から、熊野市内にさまざまな案内板がふえました。李基允氏と裵相度氏の「追悼の場」の下の道路は、木本隧道をへて、太平洋を望む鬼ケ城につづきます。熊野古道にいたる松本峠入口が木本隧道近くにあります。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会では、熊野市にたいし、2008年10月16日の熊野市との話し合いの席で、直接に、その後、文書などで、熊野市内に案内板が増えたことと関連し、李基允氏と裵相度氏の「追悼の場」の案内板を設置するように要請しましたが、熊野市は応じないままでした。
 「追悼の場」にたびたび行ってくれる人たちから、木本隧道につづく道を歩く人たちが、すぐ上に何があるのかわかるように、案内板を付けたらどうかという提案がありました。熊野市への案内板設置要請は継続することにし、会で独自に案内板を設置することにしました。
 案内板は、「追悼の場」の道路に面した崖に設置すると、道路からよく見えるのですが、提案者のひとりの調査によれば、崖につけるばあい、費用がかさむことと、崖の地権者が不明確で手続きが複雑、また、草が生い茂る時期には見えにくくなる などで、この案はやめることにしました。
 案内板のことばは、約20個、提案されたのですが、最初の二つになりました。
 案内板のことばにはなりませんでしたが、いくつかここで記しておきます。

 ◇トンネル工事中、デマで命を奪われた二人」 ◇「木本事件」で亡くなった若者たち
 ◇トンネル工事と「木本事件」が伝えることは…… ◇侵略と差別の歴史を問う
 ◇歴史に刻まれた1926年1月3日 ◇故郷に帰れなかった二人
 ◇遠い昔のこと? いや今もこれからも私たちは問い続ける



■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 建立基金について■
                                    金靜美

 2008年3月9日、紀州鉱山の真実を明らかにする会が主催して、はじめて紀州鉱山で亡くなった 朝鮮人を追悼する集会を、選鉱所前でおこないました。 
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会がよびかけ、2008年8月31日、在日本大韓民国民団三 重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部と紀州鉱山の真実を明らかにする会の三者で、 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の発会式を、津でおこないました。 
 2009年9月6日、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の第2回集会を、津で おこないました。 

 紀州鉱山の真実を明らかにする会では、2008年3月9日の第1回追悼集会以降、追悼碑建立のため のさまざまな作業に取り掛かり、追悼碑建立基金を設けました。 
 2009年4月時点で、追悼碑建立基金には、471088円が寄せられていました。 
 2009年5月、熊野市紀和町を通る311号線沿いの土地を、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑 を建てる用地として購入を決めましたが、不足する購入資金や整備費用のため、2009年5月25日、 200万円を、在日朝鮮人1世の方から、無利子、無期限で、お借りしました。 
 2010年3月28日におこなった紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の序幕集会ののち、 2011年10月24日に第1回目の返済をし、その後3回に分けて返済し終わりました。最後は、ことし 2021年6月9日でした。 
 在日朝鮮人1世の方、ありがとうございました。  
 みなさまのご支援、ご協力、感謝します。
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わたしたちの立場

2021年10月29日 | 木本事件
■わたしたちの立場■
                                金靜美
                              
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日、朝鮮人がよびかけ、第1回目の準備会をひらきました。
 翌年の1989年4月23日、三重県津で、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・三重結成集会をおこない、つづいて6月4日に、大阪で、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の結成集会をおこないました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の準備会が1988年11月30日に出した「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑建立を!」には、次のように書かれています(抄録)。

◆ 「事件は終わっていない」
 「いま、李基允、裵相度の死は、かたちを変えて日本でくり返されています。ふたりが日本に働きに来ざるをえなかったのは、日本の植民地支配によって祖国の生活と土地を奪われたからです。現在の日本でも、同じようにしてアジア各地から数多くの外国人労働者が出稼ぎのために来日し、低賃金や劣悪な労働条件の下で、差別・虐待を受け、なかには餓死や自殺に追い込まれた人もいます。敗戦前もいまも、日本はアジアの富を奪い、アジア民衆の犠牲の上に豊かさを享受しているにもかかわらず、日本人の多くはそのことに無自覚なままでいます」、
 「木本事件は、1923年の関東大地震の際の日本人による朝鮮人・中国人の大虐殺や、アジア各地で行われた、天皇ヒロヒトを最高指揮者とする軍隊(「皇軍」)による民衆虐殺に比べたら小さな事件ですが、それらの出来事とけっして無関係な事件ではありません。そして、『奥熊野百年誌』(1968年)、『木本小学校百年誌』(1973年)、『熊野市史』(1983年)などにおける記述が現在もなお、この事件の事実を包み隠し、歪めて伝えていることからも明らかなように、この事件に対する熊野市当局や市民の対応のしかたの中にも、日本人がおのれの歴史に対する責任を回避しようとする態度が表れています」。

◆「歴史から学びつつ」
「李基允。裵相度の死の陰には、無数の朝鮮人労働者の死が隠されています。北海道、紀伊半島(三重県、奈良県、和歌山県)、信濃川流域新潟県、九州の炭鉱など日本全国のいたるところで、数多くの朝鮮人労働者が鉄道工事、道路工事、発電所工事、炭鉱の採掘に際して「事故死」させられ、葬り去られてきました。わたしたちは、李基允、裵相度の無念の声を聞き取り、さらに名を知られることさえなく暗闇の中で殺されていった朝鮮人やその他のアジア人の遺志をたずね、ふたたび同じ悲劇が起こらぬように努力していかねばなりません」。
 
 わたしたちはこの文書を、わたしたちの会の活動の指針とし、次のことを目的として運動をすすめてきました。
 ①李基允氏と裵相度氏を追悼する碑を建立する。
 ②多くの李基允氏たち、裵相度氏たちの無念の声を聞き取り、アジア人の遺志をたずね、同じことをくりかえさせない。
 ③「木本事件」の事実を明らかにし、地域史におけるまちがった記述を訂正させる。

 わたしたちの会の活動は、①の「李基允氏と裵相度氏を追悼する碑を建立する」は実現しましたが、②③は実現していません。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の活動の過程で、1997年2月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の発足集会を開きました。
 第1回目の紀州鉱山「現地調査」は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が主催しました。李基允氏と裵相度氏を追悼する第2回目の集会の翌日1995年11月19日でした。第2回目の紀州鉱山「現地調査」も、主催は第1回目と同じで、李基允氏と裵相度氏を追悼する第3回目の集会の翌日、1996年11月17日におこないました。

◆紀州鉱山の真実を明らかにする会 会則◆
1、名称
 本会の名称を、紀州鉱山の真実を明らかにする会とする。
2、目的
 三重県紀和町の紀州鉱山(石原産業経営)における朝鮮人強制連行・強制労働の調査を包括的におこない、さらに、紀伊半島における朝鮮人・中国人強制連行・強制労働の調査を包括的におこなうことによって、紀伊半島の歴史を、19世紀末以降における日本の東アジア太平洋侵略の歴史のなかに、位置づけることを目的とする。
3、会員
 本会の会員は、本会の目的に賛同する個人によって、構成される。
4、運営
 ①本会は、事務局をもって運営される。事務局には、本会員であれば、自由に参加することができる。
 ②事務局会議は、随時におこなわれる。
 ③本会の経費は、基本的に、会員の会費によってまかなわれるものとする。
5、会費
  会費は、年会費3000円とする。

 この会則は、会の発足日である1997年2月9日から実施する。 
                                         


■「改組三会」の『会報』1号における虚偽記述について■                                                                                                                                                                                                        
                                   金靜美

 今年5月1日付で『三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会 紀州鉱山の真実を明らかにする会 海南島近現代史研究会 総称改組三会 会報第1号』が「改組三会」から発行されました。
 この『会報』1号には、昨年11月7日夜、「改組三会」という「会」がつくられたと書かれています。昨年11月7日昼には、斎藤日出治さんや竹本昇さんが中心になって、偽りの「追悼集会」を開いていました。
 斎藤日出治さんと竹本昇さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会を2020年にやめていました。会をやめたふたりが中心になって、それまで会の活動にまったく、あるいはほとんどかかわっていなかった人たちが加わり、まぎらわしい名称を付けた「改組三会」という「会」を作ったといっています。
 会をやめたと広言した人たちが、会の名称を変え、あるいは、そのまま使い、それぞれ、歴史、経緯、活動の内容がちがう三つの会を、「総称 改組三会」としたことに、ひじょうに憤りを感じます。
 「改組三会」が発行した「会報第1号」には、この会の実体が象徴的に示されています。でたらめ、虚偽、歴史偽造です。
(一)この「冊子」の最終頁に木本町の地図と「木本事件とは」と題する700字ほどの「解説」が掲載されています(15頁)。筆者は明らかにされていませんが、この地図と短い「解説」には、何か所も、事実とことなる虚偽の歴史が書かれています。 
①この地図の有本湯の斜め前に「裵相度さん虐殺の現場」と書き込まれていますが、その場所は裵相度さんが虐殺された場所ではありません。当時の地域新聞の記事などによると、虐殺された李基允さんの遺体は有本湯の前まで虐殺者らによって引きずられて放置され、その後同じ場所に裵相度さんの遺体が虐殺者らによって引きずられて放置されました。
②裵相度さんが包囲された現場は、笛吹橋の近くであった。 「木本事件とは」には、「裵相度さんは……有本湯付近で自警団に包囲され、鳶口で 殺された」という虚偽が書かれている。 
③「木本事件とは」には、「李基允さんたちは、笛吹き橋付近でダイナマイトで抵抗した後、山やトンネルに逃げた」と書かれている。だが、朝鮮労働者と日本人労働者がダイナマイトで反撃したのは李基允さんが虐殺された後であった。 

(二)『総称改組三会 会報第1号』と題する「冊子」には、「姫リンゴの花」のカラー写真が掲載されている。その説明文の全文はつぎのとおりだ(13頁)。 
 「木本の追悼碑前には姫リンゴの花が咲き、やがて可愛いリンゴがたくさん実る。 
杉浦新吉さん(飯場襲撃に対して、朝鮮人と共に闘った三人の日本人労働者の一人)の孫娘さんに贈られた苗木が気丈に育っている」。 
  • 「木本の追悼碑前には姫リンゴの花が咲き……」と書かれているが、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑の前には「姫リンゴ」の樹は植えられていない。 この「冊子」に掲載されている「孫娘さんに贈られた苗木」の写真は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑とは、まったく無関係のものである。
  • 杉浦新吉さんには「孫娘さん」はいない。
  • 「朝鮮人と共に闘った三人の日本人労働者」と書かれているが、朝鮮人といっしょにたたかった日本人は、3人だけではない。
(三)「はじめて会の運営規約を採択」(4頁)。
  三つの会には、会則、規約などがある。
(四)「数年以上にわたって事務局会議を開催することなくメールの交信のみで活動してきた旧三会」(14頁)。
  わたしたちは、最近の数年間に限っても、事務局会議を開き、追悼集会、総会、定例研究会を開き、「アジアから見た日本の戦争」という名の展示会批判をおこない、「関西地域 民族教育関係者 研修会」に参加し、日本政府に「日韓合意」の撤回を求め、海南島・韓国で「現地調査」をおこなっている。



■「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて■                                                                                                       
                                  キム チョンミ

 「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルは、1999年7月6日~8月29日まで、大阪人権博物館(リバティ大阪 現在は閉館)で開かれた、企画展「“木本事件”ー熊野から朝鮮人虐殺を問うー」のために、大阪人権博物館が作成した写真パネルと解説パネルが主なものです。
 企画展で使用した写真パネルと解説パネルは、大阪人権博物館の担当学芸員が、企画の趣旨に沿って独自に選定・作成したパネルも数点ありますが、基本的には、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会のキム チョンミが写真を選定し、解説を作成しました。
 企画展では、「木本事件」だけではなく、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山を経営していた石原産業が海南島で現地人や朝鮮人を強制連行して働かせていた田独鉱山のパネルも展示しました。
 企画展の終了後、これらのパネルは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が、大阪人権博物館から譲り受け、キム チョンミが管理してきました。
 「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行のパネルは、企画展の終了後、1999年11月の追悼集会のさい、極楽寺で展示しました。
 2000年11月の追悼集会のさいには、熊野市立図書館ではじめて展示し、その後、毎年、追悼集会のさい、熊野市立図書館(のち、熊野市民文化センター)で展示をしてきました。
 その後、上記の二つの会では、佐藤正人さん、小谷英治さん、キム チョンミが中心になって、「大逆事件」など、随時あたらしくパネルを制作し、いまの枚数になっています。
 これらのパネルは、すべて、キム チョンミが保管し、追悼集会のさいに熊野に運びましたが、2015年、慶尚北道議員団が追悼集会に参加したさい、キム チョンミが議員団とともに紀和町から和歌山方面に向かわなければならなかったため、パネルの撤収作業に参加できず、竹本昇さんに一時的に保管をお願いしました。そのご、竹本昇さんが「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんするパネルを一時的に保管してきました。

 竹本昇さんが昨年、上記二つの会をやめたため、今年4月30日、パネルの返却を要請したところ、同日、返さないといってきました。
 その「理由は、金静美さんの独裁による会の運営を認められないからです」、ということです。
 竹本昇さんがわたしが会で「独裁」をしていたと考えることについて、わたしは竹本昇さんと議論するつもりはありませんが、パネルは、会のものです。
 竹本昇さんは、会の活動と会員の個人にたいし、誹謗中傷し、虚偽をまき散らして会をやめた人たち、会の活動にほとんどかかわっていなかった人たちとともに、昨年、「改組 三会」というものをつくりました。
 わたしは、この「改組 三会」というものは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の活動を妨害していると判断します。
 その竹本昇さんは、アジア民衆歴史センターの主催者である久保井規夫さん(「改組三会」の運営委員でもあります)の借用依頼にかんし、個人的に了解の返事をしたと、久保井規夫さんからのメールで知りました。
 これらのパネルは、会をやめた竹本昇さんには、いっさい関係がありません。また、いかなる人間でも、個人的に貸与したりできるものではありません。
 会をやめた人間が、担当していた事務の引き継ぎの提案に「排除」だといって応じない、預かっていた会のものの返却要請に応じず個人的に貸与しようとする、すでにある会則を無視して「改組 三会」というものの会則をつくる。
 「改組 三会」というものの不正義、モラルのなさは、見苦しいほどです。
 人のものを奪って恥じないという考え方に、侵略者の論理が重なります。
 竹本昇さんが、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の写真と解説パネルを返却するように、ご協力をよろしくお願いします。
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部落解放同盟全国連合会機関紙『部落解放新聞』の虚偽記事について

2021年10月25日 | 木本事件
■解放同盟全国連合会機関紙『解放新聞』の虚偽記事について■
      三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
      紀州鉱山の真実を明らかにする会
                             2021年10月20日

■解放同盟全国連合会機関紙『解放新聞』2021年2月10日号
 解放同盟全国連合会の機関紙『解放新聞』2021年2月10日号(第359号)に、「木本事件、紀州鉱山追悼集会が開かれる(三重県)」という表題の記事(馬場彰子署名、解放同盟全国連合会大久保支部(準)発信)が掲載されました。
 この記事の冒頭に、「2020年11月7日・8日、三重県で第27回木本、第13回紀州鉱山追悼集会が開かれた」と書かれています。 
 この記事は、事実を伝えておらず、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の運動を妨害するものです。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、李基允さん・裵相度さんを追悼する27回目の集会を2020年11月22日に開催し、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する13回目の集会を2020年11月22日に開催しました。

■解放同盟全国連合会への『解放新聞』2021年2月10日号記事取消し要求
2021年6月29日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会は、関係文書を同封したうえで、解放同盟全国連合会に、解放同盟全国連合会と『解放新聞』編集部が独自に調査し、事実を知ったら、速やかに、『解放新聞』に、偽りの記事掲載理由を報告し、偽りの記事を取り消す記事を掲載することを文書で求めました。
 しかし、解放同盟全国連合会から応答がなく『解放新聞』の偽りの記事も取り消されなかったので、8月16日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会は、再度、解放同盟全国連合会に応答を求めました。だが、それにも、いまだ応答がありません。
 機関紙『解放新聞』に掲載された偽りの記事を放置しておくことは、解放同盟全国連合会が、その偽りを肯定し伝播し続けていることを意味します。

 2021年5月1日付けで、『三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会 紀州鉱山の真実を明らかにする会 海南島近現代史研究会 総称改組三会 会報第1号』と題する「冊子」が出され、それに、「2020年11月7日、わたしたちは追悼集会の後、熊野の湯ノ口温泉に宿泊し、総会を開いて、会としてはじめて会の運営規約を採択しました」という「説明」のあとに「規約全文」なるものが掲載されており、その「付則」に、「総会で選出された運営委員は、下記の9名」と書かれていました。その9名に三宅法雄さんと馬場彰子さんが入っていました。
 解放同盟全国連合会大久保支部(準)の会員である三宅法雄さんと解放同盟全国連合会の会員である馬場彰子さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の運動を妨害する記事を解放同盟全国連合会の機関紙に発信して、解放同盟全国連合会という組織に重大な危害を加えました。

付記(一)
 解放同盟全国連合会も『解放新聞』編集部も、この問題にかんする事実をあまり把握していなかったので、解放同盟全国連合会大久保支部(準)が発信した「2020年11月7日・8日、三重県で第27回木本、第13回紀州鉱山追悼集会が開かれた」という記事が偽りであることを知らずに機関紙に掲載したと、わたしたちは判断し、次の文書を2021年6月29日に同封しました、
 ◆三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』65号・紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』20号。
 ◆「2020年11月22日の追悼集会のご案内」
 ◆「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』の読者のみなさんへ」。
 ◆『朝日新聞』2020年12月9日記事「現場へ! アジア人への冷たさ 根深く  強制労働の足跡をたどる3」。
 ◆『朝日新聞』(和歌山版)2020年11月28日記事「つながる道 歴史しること」。
 ◆三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』64号、紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』19号。
 ◆紀州鉱山の真実を明らかにする会編刊『紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会  報告と記録』(3刷り。2019年11月10日発行)。

付記(二)
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の会員、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員である佐藤正人は、解放同盟全国連合会大久保支部(準)が発信した「木本事件、紀州鉱山追悼集会が開かれる(三重県)」という表題の記事について、2021年5月2日にメール(件名:「2020年11月7日・8日、三重県で第27回木本、第13回紀州鉱山追悼集会が開かれた」という記事について)で、解放同盟全国連合会大久保支部(準)の三宅法雄さんに問い合わせましたが、一か月あまり経っても応答がありませんでした。 
 6月10日に、さらに問い合わせましたが、応答がありませんでした。
 いつまでも放置しておけない問題なので、10月8日に三度目の問い合わせをメール(件名:解放同盟全国連合会機関紙の虚偽記事について)を送りました。 
 三宅法雄さんは、現在まで、まったく応答していません。
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三重県熊野市で李基允さんと裵相度さんが虐殺されてから94年

2020年07月25日 | 木本事件
 以下は、2020年7月21日の『朝日新聞』東海版朝刊社会面に掲載された記事の全文です。この記事は、「朝日新聞デジタル」2020年6月24日に「デマ拡散の先に起こること 94年前の教訓「木本事件」」という表題で発表されていました。https://www.asahi.com/articles/ASN6N6FMHN6MONFB01M.html
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が熊野市で大滝哲彰記者の取材に応じたのは、2020年4月10日でした。
              三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会

■広がったデマ 奪われた命
 三重県で94年前 トンネル工事従事の朝鮮人2人殺害
 「木本事件 コロナ広がる今、教訓に」

【写真上】木本事件の犠牲者2人を追悼する石碑の前に立つ金靜美さん
【写真下】木本事件の犠牲者2人も工事に関わっていたトンネル=いずれも三重県熊野市木本町

 新型コロナウイルスの感染者や関係者へのデマや差別的な言動が、インターネット上を中心に広がっている。デマが広がると何が起きるのか。三重県南部の町では94年前、地域にデマが広がったことで、2人の命が奪われる事件が起きていた。地元には当時と今を重ね合わせる人もいる。
 三重県熊野市木本町の石碑に、2人の朝鮮人の名前が刻まれている。1926年1月、地元住民に殺された李基允(イギユン)さん(当時25)と裵相度(ペサンド)さん(当時29)。事件は後に、「木本事件」と呼ばれるようになった。
 市民団体「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」の調査によると、木本町には当時、多くの朝鮮人がトンネル工事の労働者として働いていた。そして、ささいなことから日本人が朝鮮人を刀で切りつけ、けんかになった。
 「朝鮮人が復讐(ふくしゅう)のために襲ってくる」。 そんなデマが町中に広がり、行政側が在郷軍人や消防組(現在の消防団)に出動を要請。地域住民らも加わる騒動の中で、2人の朝鮮人が殺された。その後、町に住んでいた朝鮮人は、すべて追い出されたとされている。
 89年、歴史研究家の金靜美(キムチョンミ)さん(70)=和歌山県海南市=らが「追悼碑を建立する会」を発足。このころ、金さんは会員らと月に1度、熊野市に足を運んで地元住民や当時の関係者らから、木本事件についての聞き取りを始めた。
 「今さら掘り返してほしくない」と語らない人や、朝鮮人に対する差別的な態度を見せる人もいたが、当時を知る人の脳裏には半世紀以上たっても、生々しく記憶されていた。
 当時の新聞報道や事件を目撃していた小学生の日記などとも照合し、真相究明を進めた。94年、同会はカンパを集めて碑を建てた。碑文には2人がデマから殺されたことについて、「日本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が原因」と明記した。
 事件をめぐっては、83年に熊野市が出した市史には「木本トンネル騒動」として、「木本町民としては誠に素朴な愛町心の発露であった」と記述。市は同会の指摘を受け、文言の削除を県内の公立図書館などに要請した。だが、同会は市史自体の書き換えを求め、市と市教育委員会に要請文を出し続けている。金さんは「町を守るためなら人を殺してもよいと捉えられる。市はいまだに地域の歴史的責任を隠そうとしている」と批判する。
 一方、犠牲者2人の墓石がある極楽寺(熊野市)の住職足立知典さん(52)は社会から差別や偏見がなくなればという思いから、地域の学生らに、木本事件について語ってきた。 「自分の身を守るために人を傷つけてしまうという人間の本質を表している。コロナが広がる今の社会でも、形は違っても同じことが起きている。木本事件が社会の教訓になるはずだ」と言う。
 足立さんは2000年11月、韓国・慶州から取り寄せた石で2人の新しい墓石を建てた。そこにはこんな文言を刻んだ。「ご遺族の悲しみ、差別される人の悲しみが癒されることを願う。差別する人の心が啓(ひら)かれることを祈る」。
            (大滝哲彰)
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「個人」と「組織」

2018年10月21日 | 木本事件
 今年の冬に私が子供の頃からよく知っている方が亡くなりました。70歳でした。バイタリティあふれる方で、まだまだこれから色々と活躍されるかと思っていましたが、突然の人生の終わりでした。この方が亡くなってから、「死」というよりも「人生」の終わりというものを意識するようになりました。当たり前のことですが、人は死に、人生もいずれ終わります。
 しかしながら「組織」は、その「組織」が存在している以上、終わりなく、継続されます。「組織」に属する人々が入れ替わることで継続されます。
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会」が1989年に結成されて以来、お二人の追悼碑の建立や木本町民による二人の虐殺を「愛町心の発露」が原因であったと記載した「熊野市史」の書き換えを熊野市に要求し、行政交渉を行ってきましたが、いずれも受け入れられていません。熊野市は受け入れるつもりはありません。「組織」である熊野市は、「個人」の集まりである当会の要求も当会のことも無視し続けるでしょう。
 彼らにとって無視し続けることが一番の解決策であると彼らは思っているに違いない。無視できない「こと」が必要に思う。
                                       S 記
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2017年の追悼集会(1) 三重県木本で虐殺された李基允さんと裵相度さんを追悼する集会

2018年10月18日 | 木本事件
■三重県木本で虐殺された李基允さんと裵相度さんを追悼する集会■
 2017年11月18日、お二人を追悼する碑の前で、24回目の追悼集会を行いました。
 はじめに会を代表してキム・チョンミさんが、開会の挨拶をしました。

  みなさん、雨の中ありがとうございます。1989年に会がスタートし、1994年に追悼碑が建立されました。当初、熊野市は碑の建立に協力すると言っていましたが、碑文の内容で合意に至らず、わたしたちは独自に土地を購入し、建立しました。
当時、碑の建立に関心を見せなかった民団、総連のかたがたもきょうは参加してくれました。中国人も参加しています。
  この追悼碑が、多くのひとがともに考えていく場になりつつあることを喜びたいと思います。

■参加者の発言
 それから、参加者一人ひとりが自分の思いを述べました。一部ですが以下に紹介します。

 Jさん 在日2世のコリアンです。腹が立つことばかりです。サンフランシスコの「慰安婦」像の件で、大阪市の市長が、像がサンフランシスコ市に寄贈されたら姉妹提携をやめる、と言っている。どこでもそうだけれど、やられたほうは忘れてほしくないから、このようにその事実を刻もうとする。これからも怒っていきたい。これからも吠えていきたいです。

 Kさん 八王子から来ました。キムさんが冒頭で言ったように、「素朴な愛町心」が人を殺す、日本はずっとそのようにしてアジアの民衆を殺してきたのです。わたしたちは、愛町心・愛国心に対する民衆の抵抗の運動を組織しなければなりません。

 Iさん 体調を崩してしまい、来られるかどうか危ぶまれたのですが、参加できてよかったです。いくつになっても来たいです。寝たきりになっても連れてきてくれ、とみんなに言っています。

 Nさん 八王子に中島飛行機の浅川地下壕がありましたが、そこでも朝鮮人の子どもが駆り出されて亡くなっています。八王子でも、そのような事実と向き合い、追悼碑を建立したいと思います。

 Sさん 四日市の朝鮮人学校の教師をしている在日3世で、在日本朝鮮同盟三重県本部の者です。三重県の朝鮮人強制連行・強制労働の歴史については、三重の北西地域についてはほぼ調べてきましたが、熊野のような南部については今日初めて来ました。わたしの祖母の父は関東大震災のときに偶然虐殺を免れました。生き延びて、朝鮮学校を建てました。熊野での「木本事件」が関東大震災の朝鮮人虐殺と共通しているということを、四日市の子どもたちにもしっかりと伝えていきたいと思います。

 Nさん 地元の木本に住んでいます。事件のことは祖父から聴いていました。殺された朝鮮人は、事件の前までは、地元の若者とも仲が良かったそうです。ちょっとしたことがきっかけで「やったれー」となって、もう止めようがなかった。祖父は軍刀まで抜いて止めようとしたが、止められなかった。群集心理は本当に怖いと思います。

 Sさん 碑ができてから23年がたちます。そのとき感じたのは、やっと闘いの根拠地ができた、と言う思いです。「木本事件」で教訓として一番心に残っていること、それは朝鮮人といっしょに日本人の労働者が闘ったことです。杉浦新吉さんという日本人とあとふたりの日本人がいっしょに闘いました。

 民団三重県本部のみなさん
  殺されたふたりの朝鮮人と同じ民族として、追悼集会に参加すべきだ、と提案して、9人で来ました。仲間に入れてください。
  長い間この碑を守ってくださったことを感謝したい。この碑について、若い世代がよく理解して、ここに来てもらえるように、わたしたちも努力したい。


 そのあと、一人ひとりが献花しました。
 集会を終えたあと、はじめての参加者を中心にして、木本トンネル、労働者がダイナマイトを投げ抵抗した地点、飯場のあった場所、裵相度さんが虐殺された場所など、「木本事件」の現場をめぐったあと、おふたりの「墓石」が置かれている極楽寺に行きました。事件後数日間、極楽寺の墓地の隅に裵相度さんの遺体が放置されていたといいます。

                                        斉藤日出治記
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1988年9月11日  

2018年10月17日 | 木本事件
■三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の出発
 1988年9月11日、李基允さんと裵相度さんを追悼する碑を建立するための第1回準備会を大阪で開いた。この会は、3人の在日朝鮮人が呼びかけた。そのうちのひとりはわたしだった。
 準備会では、会の名称をどうするか、会の目的はなにか、朝鮮人と日本人の立場の違いを会の活動にどう反映させるかなどで、毎回、熱心な意見交換がおこなわれた。
準備会は翌年春まで毎月1回、大阪で開いた。
 会の名称が決まり、津で結成集会を開いたのは翌年4月23日で、6月4日には大阪でも結成集会を開いた。
 準備会発足後まもまく、李基允さんと裵相度さんの遺族を探すために、韓国の行政機関に問い合わせの手紙を送った。11月に、当時家族とともに木本町にいて、「事件」のあと、オモニ、妹たちといっしょに故郷の釜山に帰った裵敬洪さん(裵相度さんの二男)と連絡が取れた。
 さいしょの準備会から30年が過ぎた。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会(以下、木本の会とする)はこの30年でなにをすることができたのか。なにができなかったのか。木本の会は、この30年、なにを経験してきたのか。

■「木本事件」の「現地調査」
 1989年1月28日―29日、第1回「木本事件」の「現地調査」をおこなった。28日の夜、宿所で地元の人たちも参加して、「木本事件」について話し合ったが、1926年に木本町でおきたことが、1989年の時点で、地元の人たちにもまだ記憶が生々しいことにおどろいた。
 この「現地調査」まで、わたしは7回か8回、熊野を訪ね、関係者や高齢の人たちに話を聞いたが、朝鮮人にたいする反感もふくめ、この地域の朝鮮人とのかかわりの深さに気づかされた。それらは、「木本事件」に根をもつものだ。
 この30年、熊野に通いつつ、熊野と朝鮮人とのかかわりは、この“根”を、地域の人たちの朝鮮人にたいする認識をあらたにするほど力強く育てることにはいたっていない、とわたしは考える。「この“根”を育てる」とはどういうことか? 地域の人たちとともに、「木本事件」の真相を明らかにし、繰り返さないためにどうするかを考え、李基允さんと裵相度さんを追悼する方法を考える。
 熊野地域とわたしたちは、深いかかわりをもったのも事実である。多くはないが熊野の人たちとの出会いが、わたしたちを励まし、支えてくれている。熊野の風景が見慣れたものになり、そこでの人びとの暮らしをおびやかす自然の脅威を心配する。だからこそ、この一見穏やかな街並みで起きた恐ろしい「事件」の真相を何十年たっても明らかにしたいと思うのである。
 
■熊野市への要請
 わたしたちは、6月4日の大阪での結成集会のとき、
   1、「事件」の再検証と、『熊野市史』(1983年3月)の書き換え。
   2、熊野市民に「事件」の真相を伝える。
   3、遺族、熊野市、建立する会の3者で、追悼碑を建立する。
   4、1990年1月3日あるいはその近い日に、三者で追悼行事を行う、
を会の参加者とともに決め、翌6月5日、結成集会に参加した裵敬洪さんと裵哲庸さん(裵相度氏の孫)とともに、はじめての熊野市との話し合いをおこない、この4項目を記した要望書を熊野市と熊野市教育委員会にわたした。
 木本の会は、1994年8月2日まで15回、熊野市と話し合いをおこなったが、この4項目を、実現させることができていない。
 1994年11月20日、木本の会は、土地の購入、石の選定などに協力者、賛同者から多くの力を得て、追悼碑の除幕式をおこなった。

■木本町から紀和町へ  紀州鉱山の真実を明らかにする会の結成 
 木本町から西に30キロほどのところに紀和町がある。毎年秋の「木本事件」の追悼のつどいと「現地調査」の翌日、紀和町で、紀州鉱山の「現地調査」をおこなった。紀州鉱山に1930年代末から朝鮮人が働き、おおぜいが亡くなったと、それまで地元の人たちの証言を得、複数の資料でも確認していた。
 1997年2月9日に、木本の会のメンバーが中心になって紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成された。新しく会を作り、紀州鉱山への強制連行の真相をさらに明らかにする必要があるのではないかと、みんなで考えたからである。
 現在でも紀和町に行くのは、かんたんではない。朝鮮から紀州鉱山への道のりは、1930年代ははるかに厳しいものだったろう。韓国で聞いた証言はそれを裏付けてくれる。

■紀州鉱山に強制連行された朝鮮人に会いに韓国へ  
 木本の会が『1946年石原産業報告書』(1946年9月に石原産業が三重県内務部に提出した報告書。本文と紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の名簿からなる)のコピーを1996年に入手し、そこに記載された当時の住所をもとに、はじめて生存者を訪ねたのは同年10月だった。
 さいしょは紀州鉱山に強制連行された人がいちばん多い江原道の麟蹄、12月に旌善を訪ねた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会を結成の3か月後、1997年5月には江原道麟蹄、旌善、平昌で紀州鉱山に強制連行された人たちを訪ねた。翌年、8月末~9月、2番目に多くの人が強制連行された慶尚北道を訪ねた。
 『1946年石原産業報告書』に記載された住所や名簿は、植民地時代のもので、姓名も「創氏改名」されていたが、行政機関の職員、地域の高齢者の助けで、出会えた人がおおい。各地の「敬老堂」には、よくお世話になった。

■紀和町から海南島へ
 紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本軍が1939年2月、海南島に侵入してからは、日本軍とともに海南島に入り込み、海南島南部の田独鉱山で鉄鉱を略奪した。わたしたちは、1998年6月、はじめて海南島に行った。そして、日本政府・日本軍が海南島に、植民地朝鮮の刑務所から、獄中者を連行し、おおぜいの朝鮮人を殺害したことを知った。
 海南島に強制連行された獄中者は約2000人。そのうち、1000人以上が殺害されたと考えられるが、名前が確認できた人はわずかである。
 海南島では、朝鮮人だけでなく、台湾人、海南島人、大陸から連行された中国人、連合軍捕虜などが強制労働のはて、命を落とした。日本が海南島でおこなった侵略犯罪の実相はほとんど隠されたままである。

■海南島近現代史研究会
 2007年8月5日、木本の会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーが中心になって、海南島近現代史研究会を創立した。海南島での日本の侵略犯罪は、日本政府も日本軍兵士や日本企業社員もみずからはほとんど明らかにしていない。

■この30年
 この30年、木本町、紀和町、朝鮮南部の各地、海南島の各地を訪ね歩き、そこで何があったのか、そこに住んでいた人びとになにがおきたのかを、知り、記録し、考えた。
 
                                      金靜美
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熊野市にたいする抗議・要請 2016年11月26日 

2017年01月25日 | 木本事件
 きょう(1月25日)、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と第23回追悼集会参加者一同は、河上敢二熊野市市長と倉本勝也熊野市教育長に、抗議と要請の文書を送りました。 文書の日付けは、李基允・さんと裵相度さんを追悼する昨年の23回目の追悼集会の日である2016年11月26日です。抗議・要請文の全文はつぎのとおりです。
       三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会

 
■抗議・要請■
 本日、わたしたちは木本トンネル入り口の追悼碑の前で23回目の追悼集会を開催しました。この追悼集会には、例年と同じく、地元の方々はもとより、各地から参加者が結集しました。
 1994年に朝鮮半島を向いて建立された李基允さんと裵相度さんの追悼碑は、その後22年の間、地元の方々の協力によって草取りや整地や植樹がおこなわれ、守られ、維持されてきました。
 狭くて登るのに苦労する入り口の階段には手すりをつけ、追悼碑のある高台の危険な崖の縁には防護柵を設けて、追悼碑の敷地はすこしずつ整備され、熊野の地域にしっかりと根づいた碑となっています。
 李基允さんと裵相度さんの命を奪った「木本事件」は、熊野の地域住民が引き起こした虐殺事件であるにもかかわらず、熊野市はこの事件の実態がどのようなものであり、なぜこのような虐殺事件が起きたのかについて、その究明を積極的に行おうとしてきませんでした。わたしたちがその究明を求めて毎年発している質問にも熊野市は答えようとしていません。
 このような熊野市の態度は、事件を二度と起こしてはならぬものとして教訓化し、次世代に伝えていこうとする姿勢を欠落させるものであり、それどころか事件を引き起こした地元住民の差別意識を温存することにもつながっています。
 2016年9月1日に、「「木本事件」の発端」という会員の佐藤正人が書いた記事に対して、「木本人」という署名で、「朝鮮人の捏造記事」というコメントが投稿されました。その全文は、つぎのとおりです。
   「木本事件の内容は父から聞いた事があります。当時朝鮮人労働者の迷惑ぶりは悲惨で
   あったらしく、朝鮮労働者達は徒党を組んで傍若無人の振る舞いにより、町の人々を怖
   がらせ大問題になっていたらしく、小さな村の木本警察などでは、手に追えなかったら
   しいです」。
 また、その前々日の8月30日に、「木本水道」という署名で「実際」と題するコメント投稿されていました。その全文はつぎのとおりです。 
   「私は父からこの事件について話を聞いたことがあります。
    このトンネルは実家の直ぐ近くにありますが、父も事件を見ていたそうですが、私が
   聞いた話とは、随分違う様にかんじますが…」。

 「木本人」は、「当時朝鮮人労働者の迷惑ぶり」、朝鮮人労働者たちの「徒党を組んで傍若無人の振る舞い」を理由とすることによって、地元住民によるふたりの朝鮮人殺害をやむを得ないこと、あるいはしごく当然なこと、であるかのように語っています。
 この事件が起きた当時の地元新聞のコラム欄では、お二人を殺害した住民の行動を「吾が民衆の先駆者」と呼び、事件当時在郷軍人会副会長だった谷川義一氏の手記(「鮮人騒動の記」、『木本小学校百年誌』、1973年発行)には、朝鮮人労働者の「無法地帯的な行状に泣いたこの地方の人々こそあわれ」だとして、住民によるお二人の殺害を「あながち無理とも言えない」と肯定しています。
 事件後に、朝鮮人労働者を殺害した住民の行動を「あながち無理とも言えない」などと肯定することが、今回の「木本人」の発言となって再現しているのです。
 この事件を根源から問い直すためには、朝鮮人虐殺を正当化するこのような発言がなぜ生まれたのか、そのような発言とその背後にある民族差別意識をどうしたら克服できるのかを考え、その課題に取り組むのが熊野市に課せられた責務なのです。しかし、熊野市はわたしたちの呼びかけにもかかわらず、なすべきその責務を放棄してきました。
 たとえば、事件から50数年が経過した1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻の「木本トンネル騒動」のなかでも、住民による朝鮮人への襲撃と虐殺を、「木本町民としては誠に素朴な愛町心の発露であった」としています。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、すでに1989年6月4日の創立集会の翌日に、熊野市に『熊野市史』の書きかえを求め、それ以後、これまで27年あまりの間、この文言の削除を求めると同時に、「木本トンネル騒動」の記述全体の書き換えを求めてきたのですが、熊野市はその要請に応えてきませんでした。
 木本トンネルは、木本町民らの生活を便利にするために作られたものです。そのトンネルを日本人労働者とともに掘っていたのは、日本による朝鮮の植民地支配によって日本に働きに来ざるをえなくなった朝鮮人労働者でした。木本町の住民たちはその朝鮮人を集団で襲い虐殺したのです。さらに、在郷軍人、消防組員らを中心とする住民集団は、2人の朝鮮人を虐殺したあと、警察官らとともに、襲撃を逃れようとした朝鮮人を捕まえようとして、徹夜で山狩りまでしました。
 熊野市と熊野市教育委員会が、「木本事件」について事実をみずから明らかにし、その歴史的責任をとろうとし、このような犯罪がくりかえされることを阻止する活動に積極的に取り組んでいたならば、「木本人」がこのようなコメントをすることはなかったでしょう。
 「木本人」が上記のような発言をするという状況を許してきた熊野市・熊野市教育委員会の責任は重大です。
 熊野市長、および熊野市教育長は、朝鮮人虐殺を事実上肯定する発言が「木本人」から発せられたことについて、どう考え、どのように対処すべきだと考えるのか、責任のある回答を文書で求めます。
 同時に、昨年の抗議要請文をここに添付し、そこでわたしたちが求めた質問事項に対する速やかな回答を求めます。回答は、2月末日までに必ずお送りください。(2017年1月25日発信)


抗議・要請            2015年11月7日
 熊野市長   河上敢二さま
 熊野市教育長 倉本勝也さま

   三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
   第22回追悼集会参加者一同

 本日、わたしたちは木本トンネル入り口の追悼碑の前で22回目の追悼集会を開催しました。
 木本町(現熊野市)でお二人を殺害したのは在郷軍人会や消防組などの地元住民の組織であり、その組織に出動を指示した木本町長はお二人の殺害に重大な責任を負っています。
 したがって貴職らは地元行政機関の責任者として「事件」の原因を究明し、遺族に謝罪し、このような事件が2度と起きないような人権教育に真摯に取り組む責務があります。
 私たちは会を結成した当初から、熊野市に対し、地元の行政機関として、この事件がなぜ起きたのかについて地元住民とともに考え、地元の歴史教育に積極的に取り組むべきであると述べてきました。そしてつぎのような課題を提起してきました。
 1 『熊野市史』における「木本トンネル騒動」の記述で、地元の住民がとった行動を「誠に素朴な愛町心の発露」として弁護する文言があることを指摘し、この文言を削除すると同時に、『熊野市史』の記述全体を再検討すること。
 2 お二人の追悼碑を建立するために、熊野市が土地を確保し建立の資金を市民から募って、追悼碑の建立活動に取り組むこと。
 3 地元で「木本事件」を考えるための歴史教育・人権教育に積極的に取り組むこと。
 4 「木本事件」の詳細を明らかにすること。

 しかし、熊野市は当初は我々の会と協力して上記の取り組みを進めるという方針を立てながら、中途でその取り組みを放棄しました。
 1の課題については、熊野市は『熊野市史』の「誠に素朴な愛町心の発露」と言う文言の削除を約束しながら、削除要請通知を一部の『熊野市史』の購読者(主として、熊野市が『熊野市史』を寄贈した相手)に送っただけで、削除が実際に行われているかの確認をも誠実に行ってはきませんでした。
 わたしたちが各地の公立図書館に所蔵されている『熊野市史』を調べたところ、実際に文言の削除がなされていない図書館が多数あることを確認しました。その後、わたしたちは文言の削除が的確になされているかどうかの確認を熊野市と熊野市教育委員会に求めましたが、いまだにその確認はおこなわれていません。
 2の追悼碑の建立については、熊野市議会で了承がなされ、200万円の予算が計上され、なおかつ追悼碑の建立予定地まで確保しながら、碑文を作成する段階で、熊野市は追悼碑の建立そのものを拒絶するに至りました。
 3の課題については、熊野市はこれまでまったく取り組む姿勢をみせていません。それだけでなく、熊野市の図書館に「木本事件」に関する資料コーナーを設けてほしい、という当会の要求を拒否し続けてきました。
 4の「木本事件」の詳細を明らかにするという課題は、熊野市がかならず組織的に全力をあげて早急に進めなければならない課題であるにもかかわらず、熊野市は、現在にいたるまで、まったくなにもおこなっていません。

 22回目の追悼集会にあたって、わたしたちは以上のようなこれまでの熊野市の対応に強く抗議するとともに、あらためて以下の要求を行います。
 1 『熊野市史』における「木本トンネル騒動」に記載された文言「誠に素朴な愛町心の発露」について、『熊野市史』の公的・私的な購入者に対する削除の通知を徹底していただきたい。また削除の通知をするだけでなく、なぜ削除するのかについての理由を明記していただきたい。
 2 熊野市市議会は当初、追悼碑を当会とともに建立するために200万円の予算を計上しそれを可決したが、その予算は執行されていません。現在、その200万円がどのように扱われているのか、説明していただきたい。
 関連して、新屋英子さんが熊野市に追悼碑建立の基金として渡された10万円がどのように処理されたのかについて説明をしていただきたい。
 3 熊野市図書館に「木本事件」の資料コーナーを早期に設置していただきたい。設置しないのであれば、なぜ設置しないのかについての理由を説明していただきたい。
 4 お二人がなぜ異郷の地で無残に殺害されるに至ったのかについて、地元の学校で、あるいは社会教育を通して、反省する機会を設けていただきたい。
 5 昨年9月30日に熊野市の教育委員会の社会教育課に対して追悼碑の案内板を設置するように要望をしました。しかし、教育委員会からはいまだに回答がありません。早急に回答をしていただきたい。
 6 「木本事件」の詳細を明らかにし、お二人が無残に殺害された歴史的社会的原因を究明する機関を設置し、「木本事件」の真相を明らかにする調査報告書を、わたしたちの会とともに作成・発行していただきたい。

 昨年の追悼集会のあと、ほぼ同じ抗議要請文を貴職に送りましたが、回答をいただいておりません。ただひとつ、昨年9月30日に熊野市建設課を訪問し追悼碑の下のがけの危険個所について整備を要請したところ、この整備については調査と工事がおこなわれました。しかし、この工事の実施について、当会のほうには何の報告もありません。今年の9月になって当会が建設課に問い合わせて工事が実施されたということを初めて知りました。追悼碑の土地の管理者であり所有権者である会に対して、工事の事前連絡も事後報告もおこなわないまま工事を実施したのは異常な事態と言えます。
 いずれにしても、上記の市民団体の要請を無視する態度はあきらかに行政の説明責任を放棄するものです。 今回の6点の要望については、そのようなことのないよう、12月28日までにかならず文書での回答を求めます。
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