■関東大震災虐殺2年4か月後の朝鮮人虐殺■
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
■追悼碑
1926年1月3日、三重県木本町(現、熊野市)で、二人の朝 鮮人が町民に虐殺されました。関東大地震のときの地域住 民による朝鮮人・中国人虐殺の2年4か月後のことでした。 1997年11月20日、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者 (李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、木本トンネ ルの入り口近くの高台にお二人を追悼する碑を建立しま した。
その碑文は、次のとおりです。
◆碑文
一九二五年一月、三重県が発注した木本トンネルの工事 がはじめられました。この工事には、遠く朝鮮から、もっ とも多いときで二〇〇人の朝鮮人が働きに来ていました。
工事が終わりに近づいた一九二六年一月二日、朝鮮人労 働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切 りつけられました。 翌一月三日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木 本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏 が殺されました。さらに木本警察署長の要請をうけて木本 町長が召集した在郷軍人らの手によって、裵相度氏が路上 で殺されました。
そのときから三日間、木本町や近隣の村々(現熊野市) の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民 は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警 察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人 を追跡し、とらえました。
木本トンネルは、地域の住民の生活を便利にするための ものでした。そのトンネルを掘っていた朝鮮人労働者を、 地域の住民がおそい、ふたりを虐殺したのです。さらに、 三重県当局 は、旧木本 町に住んで いたすべて の朝鮮人を 町から追い 出したので す。
李基允氏 と裵相度氏 が、朝鮮の 故郷で生活 できずに、 日本に働き にこなけれ ばならなか ったのも、 異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日 本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が 原因でした。
朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流も生 まれていました。 裵相度氏の長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生 で、仲のよい友だちもできていいました。襲撃をうけたと き、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者と ともに立ち向かったひともいました。
わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのでき なかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴 史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この 碑を建立しました。
一九九四年一〇月
■朝鮮では
朝鮮では、1926年1月5日、事件の第1報が『東亜日報』、 『朝鮮日報』によって報道されました。翌1月6日の『朝鮮 日報』は、「警察は朝鮮人のみを続々検挙」、7日には、 「トンネル内に避難した朝鮮人を包囲攻撃!」と報道して います。 1月11日の『東亜日報』の記事のあと1週間、朝鮮総督府 は、事件の報道を禁止しました。 朝鮮では日本より早く、朝鮮労農総同盟が「三重県事件 調査会」を発足させようとしましたが、1月13日に、16日 に予定していた集会が禁止され文書も押収されました。 1月23日の『東亜日報』に掲載された1月21日付け朝鮮総 督府警務局発表の事件の経過には、「日本人の軽挙妄動が 原因 三重県血闘事件真相」と書かれていますが、これは、 日本では報道されませんでした。
■裁判
1926年5月3日の安濃津地方裁判所(現、津地方裁判所) の「予審決定書」によれば、朝鮮人側15人、日本人17人が 起訴されています。朝鮮人側には、朝鮮人とともに働いて いた3人の日本人がふくまれていました。 9月29日の第1審の最終弁論で、朝鮮人側の弁護人は、在 郷軍人や消防組など木本町民の「暴虐無人」を指摘し、朝 鮮人がダイナマイトを町民に投げつけたのは「急迫不法の 侵害を防衛するため」「多数出動し鮮(ママ)人をくるしめ た在郷軍人が一名も被告となつて居らぬこと等を察すれ ば警察官も同町民に加担してをつたことは明かである」と 指摘しています。
■63年後からの出発
「放置された惨死体には からすが無心に群がる」 (「事件」を伝える記事) 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度) の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日にさいしょの準 備会を開きました。
翌1989年4月22日に、裵相度氏の二男裵敬洪さんが「事 件」後始めて63年ぶりに日本を訪れ、24日に熊野市の極楽 寺の無縁墓地におかれたあった裵相度さんと李基允さん の「墓石」に対面しました。
6月4日に、追悼碑を建立する会は、大阪で結成集会を開 きました。ふたたび日本にきた裵敬洪さんも参加してくれ ました。
三重県津で、李基允氏と裵相度氏が虐殺され、ふたりを 虐殺した木本町民を「義人」「愛町心の発露」とする地域 の歴史を書き換えさせ、「木本事件」の真実を明らかにす る活動が、事件から63年後に出発することになりました。
結成集会では、熊野市と熊野市教育委員会にたいし、
1、「事件」の再検証と、『熊野市史』(1983年3月)の書き 換え、
2、熊野市民に「事件」の真相を伝えること、
3、遺族、熊野市、建立する会の3者で、追悼碑を建立 する、
など4項目の要望書を採択し、翌5日に、熊野市で教育長に 手渡しました。
その後、熊野市、熊野市教育委員会との話し合いを繰り 返しましたが、熊野市は「木本事件」の真相を明らかにす る努力はせず、『熊野市史』における誤った記述も訂正せ ず、追悼碑を共同で建立することについては、わたしたち の会の名称から「虐殺」をとることを要求しました。熊野 市は、木本町民が朝鮮人を虐殺したという事実を認めず、 人道的な立場から追悼碑の建立に協力するとし、共同で作 成するとした碑文を、勝手に作り、追悼碑の建立日を「吉 日」として、わたしたちに示しました。
わたしたちは、事件当時アボヂ裵相度氏の死に直面し、 臨月であったオモニの代わりにアボヂの解剖に立ち会っ たという裵敬洪さんのお元気なときに追悼碑を建立する ことに決めました。裵敬洪さんは重い糖尿病とたたかって いました。
「事件」後、李基允氏と裵相度氏の遺体は、極楽寺に数 日置かれていました。一度埋葬されたふたりは掘りおこさ れて、その場で解剖されたといいます。
極楽寺には、李基允氏と裵相度氏の「墓石」があります。 「事件」の裁判がはじまったころの1926年5月、工事の「請 負人」がふたりの「墓石」を作りました。トンネルの石で 作られたという「墓石」には正面に、ふたりの日本名から 取った「春雪信士」「秋相信士」と刻まれ、左側面には生 年のほかに「鮮人」と彫られています。普通は6文字であ る戒名が4文字であること、差別的に使われていた「鮮人」 と彫られていること、などから、わたしたちは、これを朝 鮮人差別を示すものと考えています。朝鮮人は一般的には 「墓石」はつくりません。
極楽寺の現住職は、「木本事件」のことを知り、極楽寺 が「事件」とかかわりが深く、ふたりの「墓石」があるこ とを知って、2000年11月、ふたりの本名を正面に刻んだ「墓 石」と碑を建てました。石は李基允氏の故郷、慶州産のも のだそうです。2000年に、わたしたちが建立した追悼碑と はまた別の追悼碑が、極楽寺に置かれました。
■李基允氏と裵相度氏の故郷
李基允氏は、新聞記事によれば、妻と木本町に来ていま した。李基允氏の故郷は慶尚北道慶州郡内東面排盤里です。 複数の会のなかまが慶州を訪ね、尋ね廻りましたが、遺族 とは出会えませ んでした。李基允 氏の妻の名前も わかりません。
裵相度氏の故 郷は慶尚南道東 莱郡(現、釜山市 東莱区)です。わ たしは、東莱区庁 に手紙を出して、 裵相度氏の子で ある敬洪さんと 出会うことがで きました。1921年 2月、大阪で生ま れた裵敬洪さんは、「事件」当時、アボヂ、オモニ、姉月 淑さん、妹良淑さんといっしょに木本町の飯場で暮らして いました。
臨月であった裵相度氏の妻、金而敬さん(1896年生)は、 「事件」後、3人の幼子を連れて帰郷し、2月13日に、義洪 さんを生みました。月淑さんは衰弱していき、目が見えな くなって、1928年の大晦日に亡くなりました。13歳8か月 でした。その3年後、1931年12月5日、金而敬氏が亡くなり ました。35歳でした。二女良淑さんは、1943年に、オモニ と同じ日に亡くなりました。20歳でした。
1927年3月、金而敬氏は、釜山警察署を通じて、木本警 察署に、「遺族扶助金」の支払いにかんする問い合わせを おこなったが、木本警察署は、「遺族の境遇には同情する が斯る規定はない」と答えたと、1927年4月1日付け『紀南 新報』は伝えています。
■朝鮮人とともにたたかった日本人
1990年10月5日に、「予審決定書」に書かれていた「東 牟婁郡川口村」という住所を手がかりにして、杉浦新吉さ んの和歌山県の故郷を訪ねました。 杉浦新吉さんは、1932年10月1日に病死しており、むす 李基允氏と裵相度氏を追悼する碑 1994年11月20日、建立 めさんの杉浦哲栄さん(1930年生)から話を聞かせてもら いました。杉浦新吉さんは、1926年1月3日に、襲撃してく る木本の在郷軍人らにたいして、林林一さん(岐阜県)、高 橋萬次郎さん(岩手県)たちと、朝鮮人労働者とともにたた かった日本人労働者です。
■追悼碑を建立するまでに、おおくの出会いがありました
木本小学校に通っていた裵相度氏の一女、月淑さんと親 しかった同級生のMさんにぐうぜん出会いました。
Mさんは、「(「事件」のあと)日本人が、朝鮮人はあ ほうやというて。うちはちがう、あほうなのは日本人やい うて、反対したよ。かわいそうやのう、朝鮮人が。おとな のなかにも、日本人が悪いという人、おおぜいいたよ」 (1988年11月8日)、と話しました。
差別戒名が刻まれたふたりの「墓石」が、数千基あると 思われる極楽寺の無縁仏のなかでどこにあるか、場所を教 えてくれたのは、極楽寺近くに住む松島繁治さん(1909年3 月生)でした。 松島繁治さんは、関東大震災のときには、東京で丁稚奉 公をしていたといいます。関東大震災後、故郷の木本町に 戻ってきました。松島繁治さんは、関東で、朝鮮人の虐殺 を目撃し、帰郷した木本町で、朝鮮人の虐殺を目撃しまし た。そして、それを絵日記に書きのこしました。金靜美が はじめて会ったとき、松島繁治さんは、“朝鮮人はなにも しとらんのにのう。いつか、ふたりのことをちゃんとして くれる人が現れるとおもってた”と話していました。追悼 碑除幕の17日前、1994年11月3日に、松島繁治さんは亡く なりました。
■「木本事件」は、日本敗戦後、地域史でどう書かれてい るか
事件当時、木本小学校の教師で、在郷軍人会副会長であ った谷川義一は、1973年に発表した「鮮人騒動の記」(『木 本小学校百年誌』創立百年祭実行委員会広報部編著)に、 「彼等(朝鮮人)の無法地帯的な行状に泣いたこの地方(木 本町および周辺の住民)の人々こそあわれというべく、こ うした騒動の勃発もあながちあながち無理とも言えない」 と書いていました。
岡本実は、「木本トンネル騒動」(『熊野市史』中巻、 熊野市、1983年)に、朝鮮人虐殺を「誠に素朴な、愛町心 の発露」と書いていました。
2017年11月の時点で、熊野市立図書館は、「木本事件」、 紀州鉱山(熊野市紀和町)への朝鮮人強制連行にかんする 資料の購入を拒否しました。熊野市立図書館は、熊野市民 が地域の歴史を知る権利を侵害しています。地域の歴史を あるがままに知ることなくして、自分たちが住む地域と日 本の侵略の歴史を知ることはできません。
■これからのこと
1923年9月の関東大震災時の朝鮮人の虐殺について、木 本町に本社を置く『紀南新報』は、9月7日に、「鮮人が毒 を入れた 井水は飲む事出来ぬ=飢喝にあえぐ百萬人=」、 「鮮人は見付け次第殺して終へ! =私も始めて手を下 した=」という記事を掲載していました。
「木本事件」について、朝鮮では、『東亜日報』が1926 年1月14日と15日に、「渡日労働同胞 三重事件の教訓」 と題する社説を連載しました。そこで、「三重県事件は、 はからずも、日本に住むあなたたちの境遇を明らかにし た」、「無数の小さな三重県事件は日常茶飯のこととして ほとんど毎日のように起こっている」とし、「搾取者とし てのその鮮明な存在をあらわにした日本」と書いています。
関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺が明らかになってき ていた1926年1月、海と山に囲まれた三重県南端の木本町 で、規模はちがいますが、関東大震災の時のように、朝鮮 人が、木本住民に襲撃され、ふたりが虐殺されました。ふ たりの姿は、「二目と見られぬ惨状で、体中は竹槍その他 の兇器に突かれて蜂の巣の如く頭はトビ口でつゝかれて ゐる」と、1926年1月8日の『和歌山新報』は書いています。
民族差別に根ざした偏見が、これほどまでの惨殺を正当 化し、いまも取り消されていません。『東亜日報』の社説 の「無数の小さな三重県事件は日常茶飯のこととして… …」は過去のことではありません。
おおくの李基允氏と裵相度氏が、日本および日本が侵略し たアジア太平洋の各地にいまなお残されています。
1989年6月4日に採択された熊野市と熊野市教育委員会 への4項目の要望はひとつも実現していません。 わたしたちは、これからも、わずかでも、会の目標の実 現に取り組んでいきたいと思います。
《付記》
■紀州鉱山の真実を明らかにする会
熊野市の紀和町に、紀州鉱山(銅鉱山)があります。「木 本事件」の調査の過程で、紀州鉱山に朝鮮人が強制連行さ れていたことを知りました。わたしたちは、紀州鉱山に強 制連行された朝鮮人の名簿を入手し、そこに記された住所 を手掛かりに、韓国で、紀州鉱山に強制連行された人たち から話を聞くことができました。紀和町(現、熊野市。2005 年に合併)や韓国での調査の過程で、1997年2月、紀州鉱山 の真実を明らかにする会が結成されました。
紀州鉱山では、亡くなった朝鮮人35人の名前を明らかに することができました。紀州鉱山の真実を明らかにする会 は、追悼碑の建立を在日本大韓民国民団三重県地方本部、 在日本朝鮮人総聯合会三重県本部によびかけ、紀州鉱山の 真実を明らかにする会が購入した土地に追悼碑を建立し、 2010年3月28日、追悼碑の除幕式をおこないました。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「土地は、強制連 行・強制労働という歴史的事実を明らかにし、紀州鉱山で 亡くなった朝鮮人を追悼するための場であり、公共の使用 を目的としている」として追悼碑の敷地について、三重県 と熊野市 にたいし、 不動産取 得税と固 定資産税 の減免申 請をしま したが、 却下され ました。 そのため、 課税賦課 処分の取 り消しなどを求める行政訴訟を津地裁におこしましたが、 最高裁で敗訴が決定し、現在まで、固定資産税が差し押さ えされています。
泰緬鉄道工事で生き残ったイギリス人捕虜が紀州鉱山 に強制連行され、16人が亡くなりましたが、その碑は熊野 市指定文化財の「史跡英国人墓地」(遺骨は、横浜にある「英 連邦戦死者墓地」に移されています)とされ、紀和鉱山資料 館には、英国人捕虜について、詳しく展示がされています。 『紀和町史』下巻(紀和町教育委員会、1993年発行)には、 「英国軍捕虜と紀和町」、「英軍捕虜 鉱山へ」と題され た箇所に詳しい記述がありますが、朝鮮人強制連行につい ては「不足する労働力」と題された箇所に事実と異なる短 い記述があるだけです。
紀州鉱山の真実を明らかにする会では、紀和町長、紀和 町教育委員会にたいし(合併後は、熊野市にたいし)、1998 年から、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行について調査し、 『紀和町史』に明記すること」「紀州鉱山への朝鮮人強制 連行に事実を示す展示がない鉱山資料館の展示内容を変 更し、解説を書きかえること」などを要求してきましたが、 現在まで実現していません。
■海南島近現代史研究会
紀州鉱山は石原産業株式会社が経営していました。石原 産業は、1920年代から日本南方の鉱山資源収奪を開始して いました。
1939年2月10日に、日本軍は海南島に奇襲上陸し、1945 年敗戦まで占領しました。石原産業は、海南島南部の田独 にある鉄鉱山を経営し、そこに、「朝鮮報国隊」として朝鮮 の刑務所から連行された人たちを強制労働させました。 「朝鮮報国隊」の「隊員」として海南島に連行された朝鮮 人は2000人以上と推定されますが、何人が帰郷できたか不 明です。海南島では、いまも犠牲になった人たちが埋めら れたままです。
紀州鉱山の真実を明らかにする会では、海南島に強制連 行された朝鮮人のことを調査するために、1998年6月には じめて海南島に行きました。
海南島では、日本政府、日本 軍、日本企業が、中国大陸、台湾から強制連行した人たち や海南島の住民たちを、軍事施設、資源積み出しのための 鉄道や港湾建設で強制労働させました。台湾からは、朝鮮 と同じく、「台湾報国隊」として刑務所から海南島に強制 連行しました。
日本軍によって焼かれた村も多く、かろう じて生き残った人たちは、日本軍がいなくなったあと、村 に戻り、日本軍に殺された人たちの名前をさまざまなかた ちで記録に残そうとしています。
海南島で性被害にあった女性たち8人が、2001年7月16日 に日本政府を訴えました(「海南島戦時性暴力被害賠償請 求事件」)。2010年3月2日に、最高裁は、上告を「棄却」し ました。
2007年8月5日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員 が中心になって海南島近現代史研究会を創立し、海南島の 人たちとの共同作業も進めました。
海南島近現代史研究会の会則に、 「本会は海南島近現代史の研究・究明を目的とします」、 「本会は、とりわけ日本の海南島占領期(1939年2月~ 1945年8月)の侵略犯罪の実態を解明します」、 「本会はこの海南島における日本の侵略犯罪の実態を 具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済 的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを 究明します」、 「本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を可 能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及しま す」、 「日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の抗日反日 闘争の時代でした。 本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明し ます」、 と記しています。