■杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日■
金靜美
木本隧道工事には朝鮮人といっしょに、日本の各地から来た日本人も働いていた。
1926年1月3日、地元住民の襲撃にたいして、朝鮮人といっしょにたたかった日本人がいた。そのうちのひとり、杉浦新吉さんには娘さんがいた。その娘さんのお名前は哲栄さん(1930年7月生)。
はじめてお会いしたのは、1990年10月5日だった。その後、1994年11月、2013年10月3日、2014年9月7日にも訪ねてお会いした。
今年2021年7月26日、会のなかま二人といっしょに、杉浦哲栄さんを訪ねた。熊野川にそそぐ赤木川沿いにある杉浦哲栄さんが住んでいた家は、人の気配がなかった。すぐ近くに小雲取山(450メートル)登山口があり、階段状になった土地に10軒ほどの家がある。杉浦哲栄さんのことを知っている人がいないか、近所の家を訪ねたが、だれにも会えなかった。
赤木川に架かる橋をもどり、近くの家を訪ねた。4軒目で、ようやく、杉浦哲栄さんと付き合いがあったという女性に会えた。
女性の話 “杉浦哲栄さんは施設に入り、数年前に亡くなった。お連れ合いは、その前に亡くなっていた。子どもはいなかったので、親族らしい人が来て、後の整理をした”。
7年ぶりに訪ねた杉浦哲栄さんは亡くなっていた。
■杉浦哲栄さんとの出会い■
金靜美
◆六十三年後からの出発
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の結成は1989年6月だった。1926年1月の「木本事件」の63年5か月後だった。
結成集会の日(6月4日)に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会準備会は、小冊子『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』を発刊した。
それから1年半後、「木本事件」の65年後の1991年1月3日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1年半あまりの活動の報告を追記して、『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』の増補版を発行した。その「あとがき」のいちばん最後に、わたしは、
「最近、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんに会うことができました。
杉浦新吉氏は、65年前のあの日、日本刀や銃剣などをもって襲撃してくる木本の在 郷軍人らにたいして、朝鮮人労働者とともにたたかった日本人労働者のひとりです。「朝鮮・日本民衆の真の連帯」の一つの核心が、あの日にきずかれていました。
1926年1月3日は、その意味では、しっかりと受け継ぐべきたたかいの出発の日でした」
と書いた。
「木本事件」の63年後から出発した会は、追悼碑建立という課題を結成5年後の1994年に果たすことができた。
追悼碑建立は、日本の他地域他国侵略という国家犯罪とそれをささえてきた日本企業の侵略犯罪の実体をあきらかにし、責任をとらせるべきものにとらせていくという運動のひとつの根拠地をきずくことだった。
会結成から25年、追悼碑建立から19年、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は運動をつづけてきた。
◆1990年・1994年・2013年
当時の「予審決定書」に書かれていた「東牟婁郡川口村」という住所を手がかりにして、杉浦新吉氏の故郷を訪ねたのは、1990年10月5日だった。
杉浦新吉氏は、1932年10月1日に病死しており、妹さんとむすめさんの杉浦哲栄さん(1930年生)から話を聞かせてもらった(そのときのことは、『会報』11号で報告し、今号に再掲載しました)。
その1年後、1994年11月20日の追悼碑の除幕集会が近づいたとき、ふたたび杉浦哲栄さんを訪ね、除幕集会に来てくださいと誘ったが、体調が悪いということで参加されなかった。
20回目の追悼集会をまえにして、きのう(10月3日)夕刻、19年ぶりに杉浦哲栄さんを訪ねた。
杉浦哲栄さんは、お元気だった。熊野川町上長井の熊野川にそそぐ小口川の川岸の高台にある家は、白い大きな夕顔の花、白式部の花に囲まれていた。
話しているうちに、少しずつ、お互いに記憶を取り戻していった。以前見せていただいた杉浦新吉氏のただ1枚の写真は、熊野那智大社で焼いたとのことだった。
帰り際に、「今は足も悪くなっていて、20年目の追悼集会にはいけないが……」と、多額の寄金をしてくださった。固辞したが、「それでは心がやすまらない」といわれて、ありがたく受けとった。
追悼碑のまえに花の樹を植えることにしよう。
2013年10月4日
■杉浦新吉氏のこと■
金靜美
1926年1月3日夜、銃剣・日本刀・鳶口などをもって襲ってくる木本の在郷軍人や消防手にたいして朝鮮人労働者とともに日本人労働者もたたかった。つらいトンネル工事の現場でいっしょに働くなかで堅い仲間意識が育っていったのであろうか。
当時、何人の日本人労働者が働いていたかはわからないが、岐阜県出身の林林一氏(18歳)、岩手県出身の高橋万次郎氏(19歳)、和歌山県出身の杉浦新吉氏(22歳)、栃木県出身の神上(あるいは高橋)勝美氏(27、28歳)、高知県出身の川竹亀吉氏(25歳)の名が新聞にでている。日本の各地から木本に働きにきていたのである。
このうち林林一氏、高橋万次郎氏、杉浦新吉氏は逮捕され、神上勝美氏は官憲や住民の追跡を断ち切り、飯場で寝ていた川竹亀吉氏は朝鮮人とまちがわれて消防手に重傷を負わされている。
逮捕された3人の日本人労働者は、12人の朝鮮人労働者とともに起訴され、朝鮮人側被告として法廷にたった。襲撃してくる在郷軍人の集団にたいして金明九氏とともにダイナマイトで反撃した林林一氏には騒擾罪と爆発物取締罰則が、高橋万次郎氏と杉浦新吉氏には騒擾罪が適用された。
津の地方裁判所でおこなわれた一審で検事は、林林一氏に懲役三年、高橋万次郎氏と杉浦新吉氏に懲役一年を求刑したが、裁判官は執行猶予つきの判決をだした(金明九氏は懲役3年の実刑)。
最近ようやく杉浦新吉氏のむすめさんに会うことができた。
当時の新聞では杉浦新吉氏の本籍は東牟婁郡川口村となっていた。しかし当時、東牟婁郡には川口村がなく、新聞の地名はしばしばまちがっているので、裁判記録で確認してから杉浦新吉氏らのことを尋ねようと考えていた。だが、裁判記録をなかなか見ることができないので、今年7月に、川口とよく似た東牟婁郡熊野川町小口(当時小口村)にいき、杉浦新吉氏のことを尋ねた。小口に代々住むという杉浦さんの家で聞いたが、新吉という人はいなかったという。同じ東牟婁郡の明神のほうに川口という村があるのでそこではないかということになり、8月にその村にいってみた。しかしその村は当時は明神村字川口といい、杉浦という姓の家は昔も今もないという。
そして、その後もういちど小口でたずね歩きをしようとしていたやさきに小口の杉浦さんから電話があった。杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんが近くに住んでいるのだという。杉浦新吉氏は、小口では「いさなに」と呼ばれており、新吉という戸籍名では地元の人もすぐにはわからなかったのだ。「いさなに」というのは勇という杉浦新吉氏の通名が「いさあに」となり、さらに「いさなに」となったものだという。
10月5日、電話をいただいた杉浦さんのところにいき、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんの家の住所を教えていただいた。そのとき杉浦さんは会にカンパをしてくださった。
むすめさんと妹さんの家は、そこから熊野川の支流の和田川沿いの道を700~800メートルくだったところにあった。はじめに、むすめさんの家を訪ねた。
杉浦新吉氏は、1932年10月1日、むすめさんが2歳のときに病死していた。30歳になっていなかった。むすめさんには父親の記憶はほとんどないという。父親の遺品は失われ、今、むすめさんの手に残されているのは、父親が友人といっしょに写真館でとった写真一枚だけだという。写真の杉浦新吉氏は、冬の旅支度をしており、ひきしまった表情をしている青年だった。
杉浦新吉氏は男2人女7人の9人きょうだいで、兄が3歳くらいのとき病死したため、男ひとりの杉浦新吉氏は、早くから家計をたすけて働いたようだ。1932年の秋も杉浦新吉氏は病気をおして農作業をしていたという。むすめさんは小学校5年生のとき、祖母から次のような話をきいたという。
おまえの父親は、自分のいのちがなくなることを覚悟したときに、おまえをそばにおい
て、こういった。むすめは育てられないから里子にだしてくれ。そして、河原の石に杉浦新
吉と名前をほって建ててくれ。この子がたずねてきた時に、父親がここにいたということが
わかるように。
むすめさんから話を聞いたあと、妹さんをたずねた。1916年生まれだという妹さんは畑仕事の手をやすめて、こう話してくれた。
あの人は正直で、みんなに好かれ、だいじにされたええ人じゃった。むかしはこの前の川
でとうさんも兄さんも筏にのっていた。歌が上手で、走りもはやかった。
わたしが小学校にいっているころ、半年ほど朝鮮にいって筏のりをし、帰りにモスの反物
を妹とわたしに1反ずつこうてきてくれた。むらさきのがらだった。
やさしい人で、親孝行だった。狭いところにおおぜいで住んでいたので、ひき散らかした
ら怒った。鴨緑江節を歌っていたことを覚えている。
あの人の病気は結核だった。病院にいけなかった。いまだったら死なないですんだのに
なあ。
杉浦新吉氏が、筏のりとして朝鮮にいったのが、朝鮮人労働者とともに木本でたたかった後なのか前なのかは、わからない。あるいは、両方だったのかもしれない。冬は鴨緑江は氷結するため、冬場の仕事として言えから歩いて1日たらずのところにあるトンネル工事の現場で働いたのかもしれない。相度氏の長女、月淑さんは1915年生まれであった。杉浦新吉氏は小口に住む自分の妹とほぼ同じ年の月淑さんに会ったことがあるはずである。
李基允氏と相度氏が殺された1か月後、1926年2月10日付けで在日本朝鮮労働総連盟、在東京朝鮮無産青年同盟会ら在日朝鮮人4組織が合同でだした「三重県撲殺事件に際して全日本無産階級に訴ふ」の一節に「我々朝鮮人労働者が今に生命を失はんとする刹那林林一、高橋万次郎等日本労働者は勇敢にも我々に味方してタイナマイト(ママ)を取った……」と書かれている。
その日本人労働者のひとり杉浦新吉氏のことがやっとすこしわかった。
杉浦新吉氏の死後50年を期して、むすめさん夫婦がちかくの墓地の河原の石の墓標を石碑にかえた。むすめさんと妹さんからはなしを聞いたあと、わたしはそこへいき杉浦新吉氏をしのんだ。戒名は丹桂清香信士だった。
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』11号(1990年11月20日発行)