三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

木本事件99年後を歩く  『朝日新聞』和歌山版

2025年03月09日 | 木本事件
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■知りたかった「1月3日のまち」  木本事件99年後を歩く 上」■
 1926年1月3日、ふたりの朝鮮人が住民に虐殺された木本事件がおきた。99年後の2025年1月3日、海南市の歴史研究家金靜美さん(75)が、現場の三重県熊野市木本町をあるいた。
 李基允さん(当時25)と裵相度さん(当時29)の追悼碑は、ふたりが働いていた木本トンネルのちかくにある。
 追悼碑からあるいて数分の笛吹橋へ。幅10メートルもない川にかかる小さな橋だ。ここから南へ真っすぐ200メートルあるくと海辺の木本神社につく。木本町の中心をはしる生活道路は、民家が軒をつらねて今は新年らしい静けさと冷気の中だが、99年まえは「鮮人を見つけ次第殺すと物凄い勢ひ」(1926年1月6日付紀伊新報)の住民であふれていた。
 1926年1月3日午後5時ごろ、この200メートルの道路のどこかで、笛吹橋から追いかけてきた住民によって李基允さんは惨殺された。遺体は、笛吹橋と木本神社のあいだにあった有本湯まで引きずられた。2時間後の午後7時ごろ、騒ぎをおさめようとして木本神社から笛吹橋に向かった裵相度さんも群衆にのみこまれて有本湯ちかくで殺された。
 郷土史家が書き写していた当時の小学生の作文がある。
 「ワアヽと ときの声を上げ劍を持った人鳶口や棍棒など持った人々は下の方から走り来る、上の方よりも来た」「鳶口で頭をなぐられたかと思うと、すぐ腹這いになって倒れた、黒山のようになっていた人達が 前に倒れた人を『このガキやわりんじや』としきりに罵りながら死んで何も知らない人を蹴ったりなぐったりして思ひゝに『このざまをみよ』と 日頃の恨みでも晴らしたかのように 喜び叫んでいる」(女の子の作文)
 「血は川のように流れる 顔は血みどろけ、その血はなまぐさい血であった、この血のなまぐさいのをかぐと、胸が悪くなってきた、こんな においをかがぬが良いと思うて ふるえながら内へはいった」(男の子の作文)
 笛吹橋を中心に半径300メートルの円を地図上にえがくと、李さんや裵さんら朝鮮人労働者が工事についていた木本トンネルも、住民が襲撃した飯場も、ふたりの遺体が野ざらしにされた極楽寺も事件に関係するほとんどが円内におさまる。それぞれの場所をたずねるだけなら1時間もいらない範囲で木本事件はおきた。

 金靜美さんが木本事件についての最初の論文を発表したのは1988年だ。仲間と「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」をつくり、追悼碑を建て、追悼集会を毎年ひらいている。これまで数えきれないほど現場を取材してきたが、「1月3日の木本町」をたずねたことはなかった。「『1月3日の木本町』の雰囲気を知りたい」という金さんの呼びかけに応じてこの日、「建立する会」の会員や記者ら十数人があつまった。
 金さんは、参加者に感想を聞かれてぽつぽつ何かしらを語ったほかは、ところどころで立ち止まって遠くを見つめていた。
 「子どもたちはお寺で一晩、どうしていたんでしょうね。寒かっただろうし、おなかもすいただろうし。ほんとうにどうしていたんでしょうね」
 金さんは、裵相度さんの子どもたちはどれほど怖かったのだろうかと思って目を赤くした。
 裵さんは朝鮮南部・釜山の郊外出身で、来日後は近畿の各地で働き、この間に長男武煥さんを生後6カ月で失っている。木本事件のころは、妊娠9カ月の妻金而敬さん、10歳の長女月淑さん、4歳の次男敬洪さん、2歳の次女良淑さんの5人家族だった。(下地毅)

◆キーワード  <木本事件> 現在の三重県熊野市木本町で1926年1月3日におきた。「朝鮮人が襲ってくる」といったデマがひろがり、トンネル工事のため町内に住んでいた朝鮮人労働者と家族を住民が集団で襲った。2年4カ月まえの関東大震災下の虐殺とおなじく、天皇制と植民地支配を背景として朝鮮人を危険視する差別と「自警意識」とがあったと研究者はみている。


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■非業の死 忘却の穴に落とされた  木本事件99年後を歩く 下■
 1926年1月3日の夕暮れ、4歳の敬洪さんは、10歳の姉月淑さんにおぶわれて銭湯からの帰り道にいた。ラッパの音や発砲音とともに「朝鮮人は逃げろ」という声も聞こえたため、ちかくの寺の床下にかくれて一晩をすごした。
 翌朝に帰った飯場はめちゃくちゃに壊されていた。部屋にぶらさげていた正月用の餅トックも床に散乱していた。数日後、母親に連れられて極楽寺の境内で父裵相度さん(当時29)の遺体と対面した。
 木本事件のあと、朝鮮人労働者とその家族は船に押しこまれて木本町(三重県)を追われた。
 裵さんの妻で妊娠9カ月だった金而敬さんは、釜山で三男義洪さんをうみ、35歳で死んだ。三男がどうなったのかはわからない。
 10歳だった長女月淑さんは、秋山明子という名前で木本小学校に通っていた。同級生によると、おとなしくて勉強もよくできた。朝鮮人だといじめられてもいた。栄養失調で失明して13歳で死んだ。
 2歳だった次女良淑さんも20歳で死んだ。

【写真】事件当夜、裵相度さんの10歳と4歳の子どもは寺の床下にかくれて難をのあれた=1月3日、三重県熊野市木本町

 翌朝に帰った飯場はめちゃくちゃに壊されていた。部屋にぶらさげていた正月用の餅トックも床に散乱していた。数日後、母親に連れられて極楽寺の境内で父裵相度さん(当時29)の遺体と対面した。
木本事件のあと、朝鮮人労働者とその家族は船に押しこまれて木本町(三重県)を追われた。
 裵さんの妻で妊娠9カ月だった金而敬さんは、釜山で三男義洪さんをうみ、35歳で死んだ。三男がどうなったのかはわからない。
 10歳だった長女月淑さんは、秋山明子という名前で木本小学校に通っていた。同級生によると、おとなしくて勉強もよくできた。朝鮮人だといじめられてもいた。栄養失調で失明して13歳で死んだ。
 2歳だった次女良淑さんも20歳で死んだ。

■ 「隠したい人いる限り、事件は生きている」  木本事件99年後を歩く下■
 こうした裵さん一家のその後は、木本事件当時4歳だった次男敬洪さんが釜山で暮らしているのを、海南市の歴史研究家金靜美さん(75)が1988年に突きとめてわかったことだ。
 金さんは、倒錯した思いに時折とらわれる。
 裵相度さんも李基允さん(当時25)も殺されたことで「救われた」のではないか。それで名前が新聞に記録されたのだから。
 すると、裵さんの遺族のむごい人生も「まだまし」となる。事件後の軌跡がすこしはわかっているのだから。
 事件当時の朝鮮人労働者とその家族はあわせて60人から70人ぐらいだった。このうち、裁判手続きのひとつ予審の決定書に名前が載った17人は、これも「まし」だろう。
 こんなことを考えてしまうほどに、木本事件は忘却の穴に落とされたままだ。李基允さんの妻ら朝鮮人労働者の家族のその後も、公判記録が見つかっていないから事件の詳細も、なにもかもが不明のまま事件から100年になろうとしている。
 木本事件は、殺害現場だけならば笛吹橋から木本神社の間のわずか200メートルの路上でおきた。虐殺時間は午後5時から午後7時までの2時間のことだった。
 99年後の現場をあるいた金さんの思いは、こうした時間と空間を飛びこえてある。
 「99年まえのことと思えないですよ。まるで今のことみたい。それは、なにも解決していないからです。日本政府も熊野市もいまだに虐殺の責任を認めていないし、住民も忘れたがっている。これはここだけの話でしょうか。各地であった朝鮮人の非業の死について行政が責任を認めたところがありますか? 木本事件を忘れたいという人がいるかぎり、隠したいという人がいるかぎり木本事件は生きている」(下地毅)
 こうした裵さん一家のその後は、木本事件当時4歳だった次男敬洪さんが釜山で暮らしているのを、海南市の歴史研究家金靜美さん(75)が1988年に突きとめてわかったことだ。
 金さんは、倒錯した思いに時折とらわれる。
 裵相度さんも李基允さん(当時25)も殺されたことで「救われた」のではないか。それで名前が新聞に記録されたのだから。
 すると、裵さんの遺族のむごい人生も「まだまし」となる。事件後の軌跡がすこしはわかっているのだから。
 事件当時の朝鮮人労働者とその家族はあわせて60人から70人ぐらいだった。このうち、裁判手続きのひとつ予審の決定書に名前が載った17人は、これも「まし」だろう。
 こんなことを考えてしまうほどに、木本事件は忘却の穴に落とされたままだ。李基允さんの妻ら朝鮮人労働者の家族のその後も、公判記録が見つかっていないから事件の詳細も、なにもかもが不明のまま事件から100年になろうとしている。
 木本事件は、殺害現場だけならば笛吹橋から木本神社の間のわずか200メートルの路上でおきた。虐殺時間は午後5時から午後7時までの2時間のことだった。
 99年後の現場をあるいた金さんの思いは、こうした時間と空間を飛びこえてある。
 「99年まえのことと思えないですよ。まるで今のことみたい。それは、なにも解決していないからです。日本政府も熊野市もいまだに虐殺の責任を認めていないし、住民も忘れたがっている。これはここだけの話でしょうか。各地であった朝鮮人の非業の死について行政が責任を認めたところがありますか? 木本事件を忘れたいという人がいるかぎり、隠したいという人がいるかぎり木本事件は生きている」(下地毅)

◆【註記】キムチョンミ 2025年3月7日
 「木本事件99年後を歩く(下)」(『朝日新聞』和歌山版2025年1月24日)の記事のなかで、「裵相度さんも李基允さん(当時25)も殺されたことで「救われた」のではないか。それで名前が新聞に記録されたのだから」と書かれています。
 この文脈で、「救われた」という表現は、記者の考えなのか、金靜美のことばなのか、あいまいです。読者には、全体の記事の中で、この表現には逆説的な意図があると、読み取ってくれる人がいるかもしれません。
 「救われた」という表現は、わたしのことばだろうか、と、この間、考えました。
わたしは、殺された人たちの想い、遺族の気持ちを、わずかな痕跡からなんとかして読み取りたいと願ってきました。
 朝鮮が日本の植民地にされていた時代の朝鮮や日本の新聞で、数えきれないおおくの殺された朝鮮人の名前を見ました。殺された場所を、新聞記事で確認しました。
生きていた場所で、労働の現場で、殺された人たち、けがをした人たちは、新聞に記録されることによって、じぶんのいのちをかけて、じぶんの存在をのちの人たちに伝えていなす。
 朝鮮が日本の植民地とされていた時代、おおくの朝鮮人が過酷な労働に従事しましたが、その現場や労働状況は、ほとんど明らかにされていません。朝鮮人を働かせた日本軍や日本企業がそうした文書を廃棄したか残さなかったからです。
 しかし、当時の新聞には、朝鮮人の名前、その名前が確認された場所がでてきます。それは、朝鮮人が、殺された、あるいは事故で亡くなった、からです。ひとりの朝鮮人がそこにいた、その朝鮮人の名前は、李基允であり、裵相度である。
 日本軍や日本企業は、侵略した地域の民衆の働力を酷使しましたが、その実態はほとんどのばあい不明です。
 しかし、その労働現場で殺された、あるいは亡くなった人たちは、じぶんのいのちをかけて、じぶんたちの痕跡を残しました。 
 わたしは、かれらの痕跡を知ることができ、それを伝えることは、わたしのやるべきしごとだと考えました。
 日本人の侵略によって被害を受けた人たちは、ほとんどのばあい、じぶん自身でそれを伝えることができませんでした。
 1926年1月3日、三重県の当時木本町で何が起き、殺されたのはだれか。
 数十年後、新聞記事がひとりの朝鮮人にそれを伝えました。
 それに接したわたしは、何をすべきか? 
 “じぶんはここで殺された” “殺した人間に忘れさせるな”“日本人に思い起こさせよ”と、わたしに伝えているように感じてきました。
 このように考えるわたしとの対話のなかで、記者は、犠牲者が生きた痕跡を伝えようとするわずかな手掛かりに接したわたしの思いを、「救われた」と書いてしまったのかもしれない、と思います。
 侵略された側が侵略者に虐殺されたとき、それはいかなる意味でも、救われることはありません。
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暴徒にあらがった日本人がいた 朝鮮人虐殺「木本事件」100年へ

2024年12月14日 | 木本事件
 1926年1月3日の「木本事件」のとき、襲ってくる地域住民に抗して、朝鮮人とともに3人の日本人(高橋萬次郎、林林一、杉浦新吉)が闘い、爆薬物取締違反・騒擾などで逮捕され基礎されました。
 高橋萬次郎さんの本籍は岩手県、林林一さんの本籍は岐阜県、杉浦新吉さんの本籍は木本から西南130キロほどの東牟婁郡川口村でした。
 以下は、2024年12月11日の『朝日新聞』岐阜版に掲載された記事です。                                  
                                    三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会

■暴徒にあらがった日本人がいた 朝鮮人虐殺「木本事件」100年へ■
 林林一さんのことを知りませんか――。1926年、三重県南部で2人の朝鮮人が虐殺された木本事件で、暴徒に抵抗した日本人の若者がいた。事件から100年となるのをまえに歴史研究者が手がかりをさがしている。

【写真】 木本トンネル(木本隧道〈ずいどう〉)は鬼ケ城歩道トンネルと名を変えて今も地域住民が往来につかう。虐殺された朝鮮人労働者2人の追悼碑は、事件のあった木本町側のトンネル口そばに建てられた=三重県熊野市木本町
  
 1926年の三重県木本町(現熊野市)には、県発注の木本トンネルをうがつため、各地から集まった日本人と、最盛期は200人の朝鮮人とが工事についていた。 
 事件は1月3日におきた。在郷軍人会・消防組・青年団を中心とする住民が、鳶口・竹槍・銃剣・日本刀で武装し、朝鮮人の飯場を襲撃したあと2人を惨殺した。 
 当時の報道や目撃者の手記によると、李基允(イギユン)さん(当時25)は鳶口を頭に打ちおろされ、遺体は町中を引きずられた。裵相度(ペサンド)さん(当時29)も凶器を頭に振りおろされた。2人の遺体は野ざらしにされた。  
 裁判所の予審決定書によると、木本町と隣の有井村の町村民17人が傷害致死罪や建造物損壊罪などで起訴された。抵抗した朝鮮人側も15人が騒擾罪などに問われた。 

◆研究者「民衆の連帯あった」
 和歌山県海南市の歴史研究者金靜美(キムチョンミ)さん(75)は、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」を1989年につくり、事件をしらべている。  
 金さんが着目しているのは、朝鮮人側15人のなかに、和歌山県の杉浦新吉さん(当時24)、岩手県の高橋萬次郎さん(当時21)、岐阜県の林林一さん(当時20)という3人の日本人がいたことだ。  
 杉浦さんの遺族は事件から64年後の90年に突きとめた。和歌山県熊野川町(現新宮市)に妹と娘の家はあった。  
 妹と娘によると、杉浦さんは9人きょうだいの次男で、兄が早世したため早くからいかだ乗りをして家計を支えていた。木本町から帰郷後、結核を患って30歳をまえに亡くなった。事件のことは語らなかった。  
 妹は「正直で、みんなに好かれた人だった。歌がうまくて走りもはやかった」と語った。  
 杉浦さんが亡くなったときは2歳だった娘哲栄さんは、以降、金さんのたびたびの来訪をよろこび縁側で話してくれた。朝鮮人の追悼碑のためにと、くらしは楽そうではないのに寄付金を金さんに託した。数年まえに亡くなった。 

【写真】杉浦新吉さんの遺児哲栄さんの家に立つ歴史研究者・金靜美さん 新宮市熊野川町
 
 予審決定書によると、林さんはトンネル工事用ダイナマイトを投げて、高橋さんは棍棒を振りまわして抵抗した。それ以上の情報はない。  
 「建立する会」は94年に木本トンネル口に碑を建て、毎年の追悼集会はことし31回をかぞえた。2026年1月に事件100年となるのを機に、これまでの調査結果を1冊の本にするつもりだ。岩手県と岐阜県での調査も考えている。  
 なにをしでかすかわからないという差別語「不逞鮮人」がひろがっていた事件当時、なぜ3人の若者は朝鮮人と行動をともにしたのかと考えて、金さんは「朝鮮と日本の民衆の連帯があった」という結論にいたった。「名もなき彼らの記録をのこして未来の子どもたちに託したい」と話している。  
   
◆キーワード  <木本事件> いざこざをきっかけに「朝鮮人が襲ってくる」というデマがひろがり、住民が集団で朝鮮人を襲った。李基允さんを殺害したとして3人が実刑判決を受けたが、昭和天皇即位の恩赦で出所した。裵相度さん殺害の犯人は不明とされた。2年4カ月まえの関東大震災下の虐殺とおなじく、朝鮮人を危険視する差別と「自警意識」とが背景にあったと研究者は見ている。 

     情報はメール(pada@syd.odn.ne.jp)へ。(下地毅) 
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木本事件100年へ

2024年12月04日 | 木本事件
■木本事件100年へ:上  『朝日新聞』2024年11月28日 朝刊 和歌山版■
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■(木本事件100年へ:上) 朝鮮人襲撃、抗した3人
 和歌山県の杉浦新吉さん、岩手県の高橋萬次郎さん、岐阜県の林林一さんを知りませんか――。2人の朝鮮人が虐殺された1926年の「木本事件」で、暴徒に抵抗した日本人がいた。海南市の歴史研究者が3人の手がかりをさがしている。
 1926年の三重県木本町(現熊野市)には、県発注の木本トンネルをうがつため、各地から集まった日本人と、最盛期は200人の朝鮮人とが工事についていた。
事件は1月3日におきた。在郷軍人会・消防組・青年団を核とする住民が、鳶口(とびぐち)・竹槍(たけやり)・銃剣・日本刀で武装し、河川敷にあった朝鮮人の飯場を襲撃したあと、町の中心で2人を惨殺した。
 裁判所の予審決定書によると、木本町と隣の有井村の町村民17人が傷害致死罪や建造物損壊罪などで起訴された。抵抗した朝鮮人側も15人が騒擾(そうじょう)罪などに問われた。
 海南市の歴史研究者金靜美(キムチョンミ)さん(75)は、「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」を89年につくり、事件をしらべている。94年に木本トンネル口に碑を建て、毎年の追悼集会はことし31回をかぞえた。
 金さんが着目しているのは、朝鮮人側として裁かれた15人のなかに、東牟婁郡(ひがしむろぐん)の杉浦新吉さん(24)、岩手県の高橋萬次郎さん(21)、岐阜県の林林一さん(20)という3人の日本人がいたことだ。
 杉浦さんの遺族は事件から64年後の90年に突きとめた。「東牟婁郡」だけを手がかりに県南部の町村を聞きあるき、熊野川町(現新宮市)の清流ぞいに妹と娘の家を見つけた。
 妹と娘によると、杉浦さんは9人きょうだいの次男で、兄が早世したためはやくからいかだ乗りをして家計を支えていた。木本町から帰郷後、結核を患って30歳をまえに亡くなった。事件のことは語らなかった。
 訪ねてきた金さんに、妹は畑仕事の手をやすめて「正直で、みんなに好かれた人だった。歌がうまくて走りもはやかった。やさしい人で親孝行だった」と語った。
 杉浦さんが亡くなったときは2歳だった娘哲栄さんは、以降、金さんのたびたびの来訪を歓迎して縁側で話をしてくれた。朝鮮人2人の追悼碑計画をよろこび、くらしは楽そうではないのに寄付金を押しつけるように託してきた。
 金さんが娘哲栄さん宅を最後に訪ねたのは2021年7月だ。家に人の気配はなく、数年まえに亡くなっていた。  予審決定書によると、林さんはトンネル工事用ダイナマイトを投げて、高橋さんは棍棒(こんぼう)を振りまわして抵抗した。それ以上の情報はない。
 「追悼碑を建立する会」は、26年1月に事件100年となるのにあわせて調査結果を1冊の本にするつもりだ。岩手県と岐阜県での調査も考えている。
 なにをしでかすかわからないという差別語「不逞(ふてい)鮮人」がひろがっていた事件当時、なぜ3人の若者は朝鮮人と行動をともにしたのかと考えて、金さんは「朝鮮と日本の民衆の連帯があった」と結論づけた。そうして「名もなく死んでいったであろう彼らの生きた記録をのこし、未来の子どもたちに託したい」と話している。
 情報はメール(pada@syd.odn.ne.jp)へ。(下地毅)

【写真】杉浦新吉さんの遺児哲栄さんの家に立つ歴史研究者・金靜美さん 新宮市熊野川町
【写真】杉浦家のお墓を調べる「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」の金靜美さんと佐藤正人さん 新宮市熊野川町


■木本事件100年へ:下  『朝日新聞』2024年11月29日 朝刊 和歌山版■
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■(木本事件100年へ:下) 「自警意識」、戦後も根強く
 日本は朝鮮を1910年に植民地化した。19年に独立運動がおこると、なにをしでかすかわからないという差別語「不逞(ふてい)鮮人」が報道で全国にひろがった。危険視と蔑視とが「自警意識」となり、23年の関東大震災で朝鮮人虐殺をおこした。 
 このころの紀伊半島の地域紙をしらべると、「朝鮮人は女子供を見れば暴行し、殺戮(さつりく)する」といった報道が見つかる。このような朝鮮人観を下地として、関東大震災から2年4カ月後に三重県木本町(現熊野市)で木本事件はおきた。海南市の歴史研究者金靜美(キムチョンミ)さん(75)は「関東大震災の強い影響をうけて同質のことが繰りかえされた」と指摘する。
 はじまりは26年1月2日夜だった。ひとりの朝鮮人が、木本町内の映画館にいる友人に会おうとした。もうすぐで終映だからと入場料の支払いを拒むと、日本人に日本刀で切られて重傷を負わされた。
 翌3日、朝鮮人が木本神社にあつまった。半鐘とラッパが鳴り、「鮮人が襲ってくる』というデマが木本町を覆う。町長が在郷軍人会などに出動を要請した。
 当時の報道、目撃者の手記、子どもたちの作文によると、ひどいものだった。李基允(イギユン)さん(25)は鳶口(とびぐち)を頭に打ちおろされ、遺体は町中を引きずられた。裵相度(ペサンド)さん(29)は、むしろ朝鮮人側をおさえにかかっていたのに、凶器を頭に振りおろされた。2人の遺体は野ざらしにされ、なお損壊する住民もいた。
 「鮮人を見つけ次第殺すと物凄(ものすご)い勢ひ」の住民を、「止めて見たところで到底止まらぬ」と警察は黙認した。また警察は事件の原因を「鮮人の日常の行動」にもとめ、虐殺も「民衆の防御」と正当化した。
 警察も検察も裁判所も、襲われた朝鮮人側に厳しく、襲った住民に甘かった。
朝鮮人側は起訴された15人のうち、4人が最長懲役3年の実刑判決をうけ、11人は執行猶予がついた。木本町の朝鮮人は家族もろとも追放され、その後どうなったのか分からない。裵さんの遺族だけは韓国・釜山市に突きとめたが、多くが極貧のうちに早死にしていた。
 住民側は起訴された17人のうち、李さんを殺害した3人が懲役2年を科されて服役したが、昭和天皇即位の恩赦で出所した。裵さん殺害の犯人は不明とされた。
 金さんら「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」がもっとも恐れているのは、事件当時の「自衛意識」が戦後も生きていることだ。目撃者の数人は70年代から80年代にかけて手記を発表し、「自警意識」「自衛観念」による「正当防衛」だったのだと、戦前とおなじ「日本人が被害者」論を展開した。いまも、金さんらの調査や追悼集会に少数を例外として熊野市当局も住民も冷たい。
 金さんは「殺された人たちは、殺されることで命をかけて私たちに存在を知らせてくれたとも言える。事実を調べ、記録し、日本人に忘れさせないために伝えていく」と話している。
     (下地毅)

【写真】 木本トンネル(木本隧道〈ずいどう〉)は鬼ケ城歩道トンネルと名を変えて今も地域住民が往来につかう。虐殺された朝鮮人労働者2人の追悼碑は、事件のあった木本町側のトンネル口そばに建てられた=三重県熊野市木本町
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「「木本事件」98年前に殺害された朝鮮人2人を追悼 犠牲者のひ孫らが参加 三重県熊野市」

2024年11月19日 | 木本事件
「メーテレニュース」 2024年11月17日 18:31
■「木本事件」98年前に殺害された朝鮮人2人を追悼 犠牲者のひ孫らが参加 三重県熊野市
 98年前、三重県熊野市で日本人に殺害された2人の朝鮮人を追悼する集会が開かれました。
 集会に参加したのは、追悼碑を建てた市民団体や犠牲となった朝鮮人のひ孫など17人です。
 団体などによりますと、1926年1月、トンネル工事の労働者だった朝鮮人、イ・ギユンさん(当時26歳)とペ・サンドさん(当時29歳)が映画館で始まった日本人と朝鮮人の間の騒動がきっかけで、流言飛語を信じて武装した日本人らに殺害されました。
 この出来事は、当時の木本町で起きたことから「木本事件」と言われ、市民団体が1994年に追悼碑を建てました。
 参加者は追悼碑に献花し、事件現場となった通りなどを歩いて回りました。
 集会は毎年開かれていて、今後も続けていくということです。 
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「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて

2023年11月15日 | 木本事件
■「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて■
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動を支持し、協力してくださった方がたへ
 
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』66号・21号(2021年11月1日)で、「「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて」を、『会報』67号・22号(2022年11月1日)で、「「木本事件」 と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネル その後」」と題して、わたしたちの会のパネルの行方と現状について報告しました。

 2023年3月7日、わたしたちの会のパネルは、元の管理者、金靜美のもとに戻りました。
 この間、わたしたちのパネルは、居場所がわかりませんでした。
 2019年の追悼集会のさいの熊野市民交流センターでのパネル展示をさいごに、この間、新型コロナ感染症のために集会の規模を縮小し、パネル展示をおこなっていませんでした。

 パネルは、2019年11月10日、パネル展示をしていた熊野市民交流センターから竹本昇が持ち帰りました。
 その後、2023年3月7日、わたしたちの会にもどるまでの直前の居場所は、わたしたちの会の名称を詐称し、わたしたちの会の『会報』郵送用封筒を盗用し、「改組三会」をでっち上げたひとりである斎藤日出治が関係する大阪労働学校でした。
 
 以下で、この間の経緯をかんたんに書きます。
 1、竹本昇は2020年、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会をやめました。
 そのため、2021年4月30日、あずけていたパネルを受け取ろうと竹本昇にメールを送信したところ、同日、返さない、という返信が届きました。
 2、その後、パネルにかんして、2021年8月27日、「改組三会」では、わたしたちの会に返却するということが「確認された」と、当時「改組三会」の「運営委員」のひとりであったK氏から8月31日に連絡がありました。
 3、2021年9月8日、竹本昇にパネルを受け取りに行くと連絡をしました。
 4、同日9月8日、竹本昇は、パネルは「改組三会」のものである、というメールを送ってきました。
 2021年9月8日のメールでは、竹本昇は、「写真パネルと解説パネルの返還は、お断わりします」「改組三会は、…… 写真パネルと解説パネルの返還を求められる筋合いはありません」と書いています。
 また9月19日のメールで竹本昇は、「パネルは、改組三会のものであることは、改組三会の会議で決めたことです。竹本昇のものではありません」と書いています。
 5、2023年2月26日、K氏が、斎藤日出治の関係する大阪労働学校にパネルを取りに行き、斎藤日出治からパネルを受け取りました。
 斎藤日出治がわたしたちのパネルを持っていたのは、K氏によれば、つぎのような経緯でした。
 ① 2022年に開催を予定していた「アジアから問われる日本の戦争展」で活用するとして、竹本昇からK氏に渡された。
 ② パネルが大部であり、そのまま使用することが困難であり、また、コロナ禍で、「アジアから問われる日本の戦争展」が中止され、K氏が(「改組三会」として保管するとして)斎藤日出治へ渡した。

 6、2023年2月28日、「改組三会」の運営委員をやめていたK氏から電話がありました。
 K氏の話では、「改組三会」の以前の決定通り(2021年8月27日)、パネルの本来の所有者であるわたしたちの会にパネルを返却する、とK 氏が「改組三会」の斎藤日出治や、「改組三会」をやめたという竹本昇らに「通告」(K氏のことば)した、ということです。
 K氏の説明によれば、2021年9月8日、竹本昇が、パネルは「改組三会」のものである、というメールを発信したのは、竹本昇が独断でしたことであり、「改組三会」で決定したことではない、ということでした。
 7、2023年3月7日、金靜美がK氏から、パネルを受け取りました。

 わたしたちの会のパネルは、個人がかってに誰かに貸与したり、所有を移転したりできるものではありません。
 竹本昇は、わたしたちのパネル返還要請を拒否した2021年4月30日から、パネル盗奪者となり、そのご、パネルは、「改組三会のものであることは、改組三会の会議で決めたこと」と強弁しました。
 竹本昇がパネルをなぜ、どのような過程を経て「改組三会のもの」としたのか、わかりません。
 しかし、わたしたちの会の『会報』郵送用封筒を盗用した斎藤日出治は、わたしたちのパネルを返却しないという竹本昇に同調し、K氏を除いて、他の「改組三会」の運営委員という人たちは、パネルが「改組三会のもの」であるという竹本昇に異議をとなえなかったようです。

 パネルにかんする事実はかんたんで、明瞭です。
 わたしたちの会は、竹本昇にパネルの預かりを依頼し、竹本昇が会をやめた時点で、パネルの返却を要請しました。 返却を拒否した竹本昇は、わたしたちのパネルの盗奪者です。
 あきらかな盗奪を傍観することは、盗奪という犯罪への共犯者です。
 わたしたちは、「改組三会」に協力する人たちを、日本の侵略犯罪を明らかにしようとする民衆運動に敵対する人たちだと断定します。

 わたしたちのパネルは、居場所を転々とし、不用品、じゃまもの扱いで、最後は、斎藤日出治が関係する大阪労働学校で、斎藤日出治からK氏に引き渡されました。

 パネルは、盗奪者たち、竹本昇や斎藤日出治がわたしたちの会に返すべきものであるとして、わたしたちのもとに戻ってきたのではありませんでした。
 竹本昇や斎藤日出治は、じぶんたちにパネルを所有する権利がないことを自覚し、反省して、わたしたちに返したのではありません。
 じぶんたちにパネルを所有する権利がないことを自覚し、反省して、わたしたちに返すのであれば、返却をK氏に託すことはなかったでしょう。

 わたしたちのパネルは、写真パネルと解説パネルに分かれています。 展示のさいには、それらをセットにしなければなりません。
 竹本昇や斎藤日出治をふくむ「改組三会」では、わたしたちのパネルを盗奪していた間、展示を企図したようですが、じぶんたちは写真パネルと解説パネルのセットを作ることができないということがわかったようです。
 そのため、いっさいパネル制作にかかわっていないにもかかわらず、斎藤日出治は、K氏に、費用は出すのでパネルを作り直してくれないかと依頼したそうです。
 K氏はそれを断ったそうです。
 この斎藤日出治のK氏への依頼に、竹本昇や「改組三会」の運営委員たちがどのように関与したかはわかりませんが、盗奪者たちは盗奪したものを本来の所有者に返すどころか、盗奪品に変更を加えようとしました。 かれらの卑劣さには、ことばもありません。

 竹本昇は、パネル盗奪の責任を「改組三会」に転嫁し、斎藤日出治は使いこなせないパネルを持っている意味を感じなかったのでしょう。 竹本昇と斎藤日出治、「改組三会」は、パネルをもてあましたのです。 それでも最後まで、かれらは、わたしたちの会に返却するということには進んで賛同しなかったようです。
 いま、わたしたちの元にパネルはありますが、竹本昇がパネルの盗奪者であり、斎藤日出治や「改組三会」に協力したものたちが共犯者であることには変わりはありません。

 わたしたち、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会の名称を詐称し、さらにわたしたちの活動の歴史をも偽造し、竹本昇や斎藤日出治たちは「改組三会」としていますが、わたしたちの会は、「改組三会」とはいっさい関係がないのみならず、 かれらはわたしたちの活動を妨害し敵対していることを、ここで明らかにしておきます。

 2023年3月16日 
   三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
   紀州鉱山の真実を明らかにする会
                               金靜美
                                 
                               
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関東大震災虐殺2年4か月後の朝鮮人虐殺

2023年08月02日 | 木本事件
■関東大震災虐殺2年4か月後の朝鮮人虐殺■
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会 

■追悼碑
 1926年1月3日、三重県木本町(現、熊野市)で、二人の朝 鮮人が町民に虐殺されました。関東大地震のときの地域住 民による朝鮮人・中国人虐殺の2年4か月後のことでした。 1997年11月20日、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者 (李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、木本トンネ ルの入り口近くの高台にお二人を追悼する碑を建立しま した。
 その碑文は、次のとおりです。

◆碑文
 一九二五年一月、三重県が発注した木本トンネルの工事 がはじめられました。この工事には、遠く朝鮮から、もっ とも多いときで二〇〇人の朝鮮人が働きに来ていました。
  工事が終わりに近づいた一九二六年一月二日、朝鮮人労 働者のひとりが、ささいなけんかから日本人に日本刀で切 りつけられました。 翌一月三日、朝鮮人労働者がそれに抗議したところ、木 本の住民が労働者の飯場をおそい、立ち向かった李基允氏 が殺されました。さらに木本警察署長の要請をうけて木本 町長が召集した在郷軍人らの手によって、裵相度氏が路上 で殺されました。 
 そのときから三日間、木本町や近隣の村々(現熊野市) の在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民 は、竹槍、とび口、銃剣、日本刀、猟銃などをもって、警 察官といっしょになって、山やトンネルに避難した朝鮮人 を追跡し、とらえました。 
 木本トンネルは、地域の住民の生活を便利にするための ものでした。そのトンネルを掘っていた朝鮮人労働者を、 地域の住民がおそい、ふたりを虐殺したのです。さらに、 三重県当局 は、旧木本 町に住んで いたすべて の朝鮮人を 町から追い 出したので す。 
 李基允氏 と裵相度氏 が、朝鮮の 故郷で生活 できずに、 日本に働き にこなけれ ばならなか ったのも、 異郷で殺されたのも、天皇(制)のもとにすすめられた日 本の植民地支配とそこからつくりだされた朝鮮人差別が 原因でした。
  朝鮮人労働者と木本住民のあいだには、親しい交流も生 まれていました。 裵相度氏の長女、月淑さんは、当時木本小学校の四年生 で、仲のよい友だちもできていいました。襲撃をうけたと き、同じ飯場の日本人労働者のなかには、朝鮮人労働者と ともに立ち向かったひともいました。 
 わたしたちは、ふたたび故郷にかえることのことのでき なかった無念の心をわずかでもなぐさめ、二人の虐殺の歴 史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、この 碑を建立しました。 
            一九九四年一〇月

 ■朝鮮では 
 朝鮮では、1926年1月5日、事件の第1報が『東亜日報』、 『朝鮮日報』によって報道されました。翌1月6日の『朝鮮 日報』は、「警察は朝鮮人のみを続々検挙」、7日には、 「トンネル内に避難した朝鮮人を包囲攻撃!」と報道して います。 1月11日の『東亜日報』の記事のあと1週間、朝鮮総督府 は、事件の報道を禁止しました。 朝鮮では日本より早く、朝鮮労農総同盟が「三重県事件 調査会」を発足させようとしましたが、1月13日に、16日 に予定していた集会が禁止され文書も押収されました。 1月23日の『東亜日報』に掲載された1月21日付け朝鮮総 督府警務局発表の事件の経過には、「日本人の軽挙妄動が 原因 三重県血闘事件真相」と書かれていますが、これは、 日本では報道されませんでした。

 ■裁判 
 1926年5月3日の安濃津地方裁判所(現、津地方裁判所) の「予審決定書」によれば、朝鮮人側15人、日本人17人が 起訴されています。朝鮮人側には、朝鮮人とともに働いて いた3人の日本人がふくまれていました。 9月29日の第1審の最終弁論で、朝鮮人側の弁護人は、在 郷軍人や消防組など木本町民の「暴虐無人」を指摘し、朝 鮮人がダイナマイトを町民に投げつけたのは「急迫不法の 侵害を防衛するため」「多数出動し鮮(ママ)人をくるしめ た在郷軍人が一名も被告となつて居らぬこと等を察すれ ば警察官も同町民に加担してをつたことは明かである」と 指摘しています。

 ■63年後からの出発 
 「放置された惨死体には からすが無心に群がる」 (「事件」を伝える記事) 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度) の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日にさいしょの準 備会を開きました。
  翌1989年4月22日に、裵相度氏の二男裵敬洪さんが「事 件」後始めて63年ぶりに日本を訪れ、24日に熊野市の極楽 寺の無縁墓地におかれたあった裵相度さんと李基允さん の「墓石」に対面しました。 
 6月4日に、追悼碑を建立する会は、大阪で結成集会を開 きました。ふたたび日本にきた裵敬洪さんも参加してくれ ました。 
 三重県津で、李基允氏と裵相度氏が虐殺され、ふたりを 虐殺した木本町民を「義人」「愛町心の発露」とする地域 の歴史を書き換えさせ、「木本事件」の真実を明らかにす る活動が、事件から63年後に出発することになりました。 
 結成集会では、熊野市と熊野市教育委員会にたいし、
  1、「事件」の再検証と、『熊野市史』(1983年3月)の書き 換え、
  2、熊野市民に「事件」の真相を伝えること、 
 3、遺族、熊野市、建立する会の3者で、追悼碑を建立 する、 
など4項目の要望書を採択し、翌5日に、熊野市で教育長に 手渡しました。 
 その後、熊野市、熊野市教育委員会との話し合いを繰り 返しましたが、熊野市は「木本事件」の真相を明らかにす る努力はせず、『熊野市史』における誤った記述も訂正せ ず、追悼碑を共同で建立することについては、わたしたち の会の名称から「虐殺」をとることを要求しました。熊野 市は、木本町民が朝鮮人を虐殺したという事実を認めず、 人道的な立場から追悼碑の建立に協力するとし、共同で作 成するとした碑文を、勝手に作り、追悼碑の建立日を「吉 日」として、わたしたちに示しました。 
 わたしたちは、事件当時アボヂ裵相度氏の死に直面し、 臨月であったオモニの代わりにアボヂの解剖に立ち会っ たという裵敬洪さんのお元気なときに追悼碑を建立する ことに決めました。裵敬洪さんは重い糖尿病とたたかって いました。 
 「事件」後、李基允氏と裵相度氏の遺体は、極楽寺に数 日置かれていました。一度埋葬されたふたりは掘りおこさ れて、その場で解剖されたといいます。 
 極楽寺には、李基允氏と裵相度氏の「墓石」があります。 「事件」の裁判がはじまったころの1926年5月、工事の「請 負人」がふたりの「墓石」を作りました。トンネルの石で 作られたという「墓石」には正面に、ふたりの日本名から 取った「春雪信士」「秋相信士」と刻まれ、左側面には生 年のほかに「鮮人」と彫られています。普通は6文字であ る戒名が4文字であること、差別的に使われていた「鮮人」 と彫られていること、などから、わたしたちは、これを朝 鮮人差別を示すものと考えています。朝鮮人は一般的には 「墓石」はつくりません。 
 極楽寺の現住職は、「木本事件」のことを知り、極楽寺 が「事件」とかかわりが深く、ふたりの「墓石」があるこ とを知って、2000年11月、ふたりの本名を正面に刻んだ「墓 石」と碑を建てました。石は李基允氏の故郷、慶州産のも のだそうです。2000年に、わたしたちが建立した追悼碑と はまた別の追悼碑が、極楽寺に置かれました。 

■李基允氏と裵相度氏の故郷
  李基允氏は、新聞記事によれば、妻と木本町に来ていま した。李基允氏の故郷は慶尚北道慶州郡内東面排盤里です。 複数の会のなかまが慶州を訪ね、尋ね廻りましたが、遺族 とは出会えませ んでした。李基允 氏の妻の名前も わかりません。 
 裵相度氏の故 郷は慶尚南道東 莱郡(現、釜山市 東莱区)です。わ たしは、東莱区庁 に手紙を出して、 裵相度氏の子で ある敬洪さんと 出会うことがで きました。1921年 2月、大阪で生ま れた裵敬洪さんは、「事件」当時、アボヂ、オモニ、姉月 淑さん、妹良淑さんといっしょに木本町の飯場で暮らして いました。 
 臨月であった裵相度氏の妻、金而敬さん(1896年生)は、 「事件」後、3人の幼子を連れて帰郷し、2月13日に、義洪 さんを生みました。月淑さんは衰弱していき、目が見えな くなって、1928年の大晦日に亡くなりました。13歳8か月 でした。その3年後、1931年12月5日、金而敬氏が亡くなり ました。35歳でした。二女良淑さんは、1943年に、オモニ と同じ日に亡くなりました。20歳でした。 
 1927年3月、金而敬氏は、釜山警察署を通じて、木本警 察署に、「遺族扶助金」の支払いにかんする問い合わせを おこなったが、木本警察署は、「遺族の境遇には同情する が斯る規定はない」と答えたと、1927年4月1日付け『紀南 新報』は伝えています。 

■朝鮮人とともにたたかった日本人 
 1990年10月5日に、「予審決定書」に書かれていた「東 牟婁郡川口村」という住所を手がかりにして、杉浦新吉さ んの和歌山県の故郷を訪ねました。 杉浦新吉さんは、1932年10月1日に病死しており、むす 李基允氏と裵相度氏を追悼する碑 1994年11月20日、建立 めさんの杉浦哲栄さん(1930年生)から話を聞かせてもら いました。杉浦新吉さんは、1926年1月3日に、襲撃してく る木本の在郷軍人らにたいして、林林一さん(岐阜県)、高 橋萬次郎さん(岩手県)たちと、朝鮮人労働者とともにたた かった日本人労働者です。

■追悼碑を建立するまでに、おおくの出会いがありました 
 木本小学校に通っていた裵相度氏の一女、月淑さんと親 しかった同級生のMさんにぐうぜん出会いました。 
 Mさんは、「(「事件」のあと)日本人が、朝鮮人はあ ほうやというて。うちはちがう、あほうなのは日本人やい うて、反対したよ。かわいそうやのう、朝鮮人が。おとな のなかにも、日本人が悪いという人、おおぜいいたよ」 (1988年11月8日)、と話しました。
  差別戒名が刻まれたふたりの「墓石」が、数千基あると 思われる極楽寺の無縁仏のなかでどこにあるか、場所を教 えてくれたのは、極楽寺近くに住む松島繁治さん(1909年3 月生)でした。 松島繁治さんは、関東大震災のときには、東京で丁稚奉 公をしていたといいます。関東大震災後、故郷の木本町に 戻ってきました。松島繁治さんは、関東で、朝鮮人の虐殺 を目撃し、帰郷した木本町で、朝鮮人の虐殺を目撃しまし た。そして、それを絵日記に書きのこしました。金靜美が はじめて会ったとき、松島繁治さんは、“朝鮮人はなにも しとらんのにのう。いつか、ふたりのことをちゃんとして くれる人が現れるとおもってた”と話していました。追悼 碑除幕の17日前、1994年11月3日に、松島繁治さんは亡く なりました。

 ■「木本事件」は、日本敗戦後、地域史でどう書かれてい るか 
 事件当時、木本小学校の教師で、在郷軍人会副会長であ った谷川義一は、1973年に発表した「鮮人騒動の記」(『木 本小学校百年誌』創立百年祭実行委員会広報部編著)に、 「彼等(朝鮮人)の無法地帯的な行状に泣いたこの地方(木 本町および周辺の住民)の人々こそあわれというべく、こ うした騒動の勃発もあながちあながち無理とも言えない」 と書いていました。 
 岡本実は、「木本トンネル騒動」(『熊野市史』中巻、 熊野市、1983年)に、朝鮮人虐殺を「誠に素朴な、愛町心 の発露」と書いていました。
  2017年11月の時点で、熊野市立図書館は、「木本事件」、 紀州鉱山(熊野市紀和町)への朝鮮人強制連行にかんする 資料の購入を拒否しました。熊野市立図書館は、熊野市民 が地域の歴史を知る権利を侵害しています。地域の歴史を あるがままに知ることなくして、自分たちが住む地域と日 本の侵略の歴史を知ることはできません。 

■これからのこと
 1923年9月の関東大震災時の朝鮮人の虐殺について、木 本町に本社を置く『紀南新報』は、9月7日に、「鮮人が毒 を入れた 井水は飲む事出来ぬ=飢喝にあえぐ百萬人=」、 「鮮人は見付け次第殺して終へ! =私も始めて手を下 した=」という記事を掲載していました。 
 「木本事件」について、朝鮮では、『東亜日報』が1926 年1月14日と15日に、「渡日労働同胞 三重事件の教訓」 と題する社説を連載しました。そこで、「三重県事件は、 はからずも、日本に住むあなたたちの境遇を明らかにし た」、「無数の小さな三重県事件は日常茶飯のこととして ほとんど毎日のように起こっている」とし、「搾取者とし てのその鮮明な存在をあらわにした日本」と書いています。 
 関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺が明らかになってき ていた1926年1月、海と山に囲まれた三重県南端の木本町 で、規模はちがいますが、関東大震災の時のように、朝鮮 人が、木本住民に襲撃され、ふたりが虐殺されました。ふ たりの姿は、「二目と見られぬ惨状で、体中は竹槍その他 の兇器に突かれて蜂の巣の如く頭はトビ口でつゝかれて ゐる」と、1926年1月8日の『和歌山新報』は書いています。 
 民族差別に根ざした偏見が、これほどまでの惨殺を正当 化し、いまも取り消されていません。『東亜日報』の社説 の「無数の小さな三重県事件は日常茶飯のこととして… …」は過去のことではありません。 
 おおくの李基允氏と裵相度氏が、日本および日本が侵略し たアジア太平洋の各地にいまなお残されています。 
 1989年6月4日に採択された熊野市と熊野市教育委員会 への4項目の要望はひとつも実現していません。 わたしたちは、これからも、わずかでも、会の目標の実 現に取り組んでいきたいと思います。

 《付記》 
■紀州鉱山の真実を明らかにする会 
 熊野市の紀和町に、紀州鉱山(銅鉱山)があります。「木 本事件」の調査の過程で、紀州鉱山に朝鮮人が強制連行さ れていたことを知りました。わたしたちは、紀州鉱山に強 制連行された朝鮮人の名簿を入手し、そこに記された住所 を手掛かりに、韓国で、紀州鉱山に強制連行された人たち から話を聞くことができました。紀和町(現、熊野市。2005 年に合併)や韓国での調査の過程で、1997年2月、紀州鉱山 の真実を明らかにする会が結成されました。 
 紀州鉱山では、亡くなった朝鮮人35人の名前を明らかに することができました。紀州鉱山の真実を明らかにする会 は、追悼碑の建立を在日本大韓民国民団三重県地方本部、 在日本朝鮮人総聯合会三重県本部によびかけ、紀州鉱山の 真実を明らかにする会が購入した土地に追悼碑を建立し、 2010年3月28日、追悼碑の除幕式をおこないました。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「土地は、強制連 行・強制労働という歴史的事実を明らかにし、紀州鉱山で 亡くなった朝鮮人を追悼するための場であり、公共の使用 を目的としている」として追悼碑の敷地について、三重県 と熊野市 にたいし、 不動産取 得税と固 定資産税 の減免申 請をしま したが、 却下され ました。 そのため、 課税賦課 処分の取 り消しなどを求める行政訴訟を津地裁におこしましたが、 最高裁で敗訴が決定し、現在まで、固定資産税が差し押さ えされています。 
 泰緬鉄道工事で生き残ったイギリス人捕虜が紀州鉱山 に強制連行され、16人が亡くなりましたが、その碑は熊野 市指定文化財の「史跡英国人墓地」(遺骨は、横浜にある「英 連邦戦死者墓地」に移されています)とされ、紀和鉱山資料 館には、英国人捕虜について、詳しく展示がされています。 『紀和町史』下巻(紀和町教育委員会、1993年発行)には、 「英国軍捕虜と紀和町」、「英軍捕虜 鉱山へ」と題され た箇所に詳しい記述がありますが、朝鮮人強制連行につい ては「不足する労働力」と題された箇所に事実と異なる短 い記述があるだけです。 
 紀州鉱山の真実を明らかにする会では、紀和町長、紀和 町教育委員会にたいし(合併後は、熊野市にたいし)、1998 年から、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行について調査し、 『紀和町史』に明記すること」「紀州鉱山への朝鮮人強制 連行に事実を示す展示がない鉱山資料館の展示内容を変 更し、解説を書きかえること」などを要求してきましたが、 現在まで実現していません。

 ■海南島近現代史研究会 
 紀州鉱山は石原産業株式会社が経営していました。石原 産業は、1920年代から日本南方の鉱山資源収奪を開始して いました。 
 1939年2月10日に、日本軍は海南島に奇襲上陸し、1945 年敗戦まで占領しました。石原産業は、海南島南部の田独 にある鉄鉱山を経営し、そこに、「朝鮮報国隊」として朝鮮 の刑務所から連行された人たちを強制労働させました。  「朝鮮報国隊」の「隊員」として海南島に連行された朝鮮 人は2000人以上と推定されますが、何人が帰郷できたか不 明です。海南島では、いまも犠牲になった人たちが埋めら れたままです。 
 紀州鉱山の真実を明らかにする会では、海南島に強制連 行された朝鮮人のことを調査するために、1998年6月には じめて海南島に行きました。
 海南島では、日本政府、日本 軍、日本企業が、中国大陸、台湾から強制連行した人たち や海南島の住民たちを、軍事施設、資源積み出しのための 鉄道や港湾建設で強制労働させました。台湾からは、朝鮮 と同じく、「台湾報国隊」として刑務所から海南島に強制 連行しました。
 日本軍によって焼かれた村も多く、かろう じて生き残った人たちは、日本軍がいなくなったあと、村 に戻り、日本軍に殺された人たちの名前をさまざまなかた ちで記録に残そうとしています。 
 海南島で性被害にあった女性たち8人が、2001年7月16日 に日本政府を訴えました(「海南島戦時性暴力被害賠償請 求事件」)。2010年3月2日に、最高裁は、上告を「棄却」し ました。
  2007年8月5日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員 が中心になって海南島近現代史研究会を創立し、海南島の 人たちとの共同作業も進めました。
  海南島近現代史研究会の会則に、 「本会は海南島近現代史の研究・究明を目的とします」、 「本会は、とりわけ日本の海南島占領期(1939年2月~ 1945年8月)の侵略犯罪の実態を解明します」、 「本会はこの海南島における日本の侵略犯罪の実態を 具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済 的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを 究明します」、 「本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を可 能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及しま す」、 「日本の海南島侵略の時代は,海南島民衆の抗日反日 闘争の時代でした。 本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明し ます」、 と記しています。 
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「朝鮮人犠牲者へ 花たむけて献杯  三重・熊野で追悼集会」

2021年11月16日 | 木本事件
■朝鮮人犠牲者へ 花たむけて献杯  三重・熊野で追悼集会■
 「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会」と「紀州鉱山の真実を明らかにする会」が14日、それぞれ28回目と14回目の追悼集会を三重県熊野市でもった。ムグンファ(ムクゲ)の花をたむけて献杯し、歴史を思った。
 熊野市木本町で1926年1月、トンネル工事に就いていた25歳の李基允(イギユン)さんと29歳の裵相度(ペサンド)さんの2人は、「朝鮮人が襲ってくる」といったデマにあおられた日本人の集団に殺された。熊野市の山中にあった紀州鉱山では戦時中、1300人の朝鮮人が働いていた。
 二つの会を率いる海南市の歴史研究者金靜美(キムチョンミ)さん(72)は「木本事件」や紀州鉱山における強制連行・強制労働の調査を続けており、事件の現場と紀州鉱山のふもとの2カ所に碑を建ててからは毎年この時期に追悼式を営んでいる。
 東京都から参加した福祉施設職員米持匡純さん(33)は「私たちは、多くの朝鮮人と中国人の犠牲と骨の上につくられた線路と道路とダムを使っていることをいっときも忘れてはならない」、三重県の小学教員麻生瑞樹さん(29)は、「韓国の歴史を学べると聞いて初めて来ました。未来を担う子どもたちに伝えたい」と話した。
 追悼集会には駐名古屋大韓民国総領事館の領事や在日本大韓民国民団三重県本部の団長ら約50人が集まった。  

【写真】虐殺された2人の朝鮮人の追悼碑=三重県熊野市木本町

 下地毅
『朝日新聞』2021年11月16日朝刊(和歌山版)
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杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日

2021年11月01日 | 木本事件
■杉浦哲栄さんのこと 2021年7月26日■
                       金靜美

  木本隧道工事には朝鮮人といっしょに、日本の各地から来た日本人も働いていた。
1926年1月3日、地元住民の襲撃にたいして、朝鮮人といっしょにたたかった日本人がいた。そのうちのひとり、杉浦新吉さんには娘さんがいた。その娘さんのお名前は哲栄さん(1930年7月生)。
 はじめてお会いしたのは、1990年10月5日だった。その後、1994年11月、2013年10月3日、2014年9月7日にも訪ねてお会いした。
 今年2021年7月26日、会のなかま二人といっしょに、杉浦哲栄さんを訪ねた。熊野川にそそぐ赤木川沿いにある杉浦哲栄さんが住んでいた家は、人の気配がなかった。すぐ近くに小雲取山(450メートル)登山口があり、階段状になった土地に10軒ほどの家がある。杉浦哲栄さんのことを知っている人がいないか、近所の家を訪ねたが、だれにも会えなかった。
 赤木川に架かる橋をもどり、近くの家を訪ねた。4軒目で、ようやく、杉浦哲栄さんと付き合いがあったという女性に会えた。
 女性の話 “杉浦哲栄さんは施設に入り、数年前に亡くなった。お連れ合いは、その前に亡くなっていた。子どもはいなかったので、親族らしい人が来て、後の整理をした”。
 7年ぶりに訪ねた杉浦哲栄さんは亡くなっていた。


 
■杉浦哲栄さんとの出会い■
                                      金靜美

◆六十三年後からの出発
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の結成は1989年6月だった。1926年1月の「木本事件」の63年5か月後だった。
 結成集会の日(6月4日)に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会準備会は、小冊子『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』を発刊した。
 それから1年半後、「木本事件」の65年後の1991年1月3日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1年半あまりの活動の報告を追記して、『六十三年後からの出発 朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて』の増補版を発行した。その「あとがき」のいちばん最後に、わたしは、
    「最近、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんに会うことができました。
    杉浦新吉氏は、65年前のあの日、日本刀や銃剣などをもって襲撃してくる木本の在 郷軍人らにたいして、朝鮮人労働者とともにたたかった日本人労働者のひとりです。「朝鮮・日本民衆の真の連帯」の一つの核心が、あの日にきずかれていました。
    1926年1月3日は、その意味では、しっかりと受け継ぐべきたたかいの出発の日でした」
と書いた。
 「木本事件」の63年後から出発した会は、追悼碑建立という課題を結成5年後の1994年に果たすことができた。
 追悼碑建立は、日本の他地域他国侵略という国家犯罪とそれをささえてきた日本企業の侵略犯罪の実体をあきらかにし、責任をとらせるべきものにとらせていくという運動のひとつの根拠地をきずくことだった。
 会結成から25年、追悼碑建立から19年、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は運動をつづけてきた。

◆1990年・1994年・2013年
 当時の「予審決定書」に書かれていた「東牟婁郡川口村」という住所を手がかりにして、杉浦新吉氏の故郷を訪ねたのは、1990年10月5日だった。
 杉浦新吉氏は、1932年10月1日に病死しており、妹さんとむすめさんの杉浦哲栄さん(1930年生)から話を聞かせてもらった(そのときのことは、『会報』11号で報告し、今号に再掲載しました)。
 その1年後、1994年11月20日の追悼碑の除幕集会が近づいたとき、ふたたび杉浦哲栄さんを訪ね、除幕集会に来てくださいと誘ったが、体調が悪いということで参加されなかった。
 20回目の追悼集会をまえにして、きのう(10月3日)夕刻、19年ぶりに杉浦哲栄さんを訪ねた。
 杉浦哲栄さんは、お元気だった。熊野川町上長井の熊野川にそそぐ小口川の川岸の高台にある家は、白い大きな夕顔の花、白式部の花に囲まれていた。
 話しているうちに、少しずつ、お互いに記憶を取り戻していった。以前見せていただいた杉浦新吉氏のただ1枚の写真は、熊野那智大社で焼いたとのことだった。
 帰り際に、「今は足も悪くなっていて、20年目の追悼集会にはいけないが……」と、多額の寄金をしてくださった。固辞したが、「それでは心がやすまらない」といわれて、ありがたく受けとった。
 追悼碑のまえに花の樹を植えることにしよう。
                              2013年10月4日



■杉浦新吉氏のこと■      
                                         金靜美

 1926年1月3日夜、銃剣・日本刀・鳶口などをもって襲ってくる木本の在郷軍人や消防手にたいして朝鮮人労働者とともに日本人労働者もたたかった。つらいトンネル工事の現場でいっしょに働くなかで堅い仲間意識が育っていったのであろうか。
 当時、何人の日本人労働者が働いていたかはわからないが、岐阜県出身の林林一氏(18歳)、岩手県出身の高橋万次郎氏(19歳)、和歌山県出身の杉浦新吉氏(22歳)、栃木県出身の神上(あるいは高橋)勝美氏(27、28歳)、高知県出身の川竹亀吉氏(25歳)の名が新聞にでている。日本の各地から木本に働きにきていたのである。
 このうち林林一氏、高橋万次郎氏、杉浦新吉氏は逮捕され、神上勝美氏は官憲や住民の追跡を断ち切り、飯場で寝ていた川竹亀吉氏は朝鮮人とまちがわれて消防手に重傷を負わされている。
 逮捕された3人の日本人労働者は、12人の朝鮮人労働者とともに起訴され、朝鮮人側被告として法廷にたった。襲撃してくる在郷軍人の集団にたいして金明九氏とともにダイナマイトで反撃した林林一氏には騒擾罪と爆発物取締罰則が、高橋万次郎氏と杉浦新吉氏には騒擾罪が適用された。
 津の地方裁判所でおこなわれた一審で検事は、林林一氏に懲役三年、高橋万次郎氏と杉浦新吉氏に懲役一年を求刑したが、裁判官は執行猶予つきの判決をだした(金明九氏は懲役3年の実刑)。

 最近ようやく杉浦新吉氏のむすめさんに会うことができた。
 当時の新聞では杉浦新吉氏の本籍は東牟婁郡川口村となっていた。しかし当時、東牟婁郡には川口村がなく、新聞の地名はしばしばまちがっているので、裁判記録で確認してから杉浦新吉氏らのことを尋ねようと考えていた。だが、裁判記録をなかなか見ることができないので、今年7月に、川口とよく似た東牟婁郡熊野川町小口(当時小口村)にいき、杉浦新吉氏のことを尋ねた。小口に代々住むという杉浦さんの家で聞いたが、新吉という人はいなかったという。同じ東牟婁郡の明神のほうに川口という村があるのでそこではないかということになり、8月にその村にいってみた。しかしその村は当時は明神村字川口といい、杉浦という姓の家は昔も今もないという。
 そして、その後もういちど小口でたずね歩きをしようとしていたやさきに小口の杉浦さんから電話があった。杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんが近くに住んでいるのだという。杉浦新吉氏は、小口では「いさなに」と呼ばれており、新吉という戸籍名では地元の人もすぐにはわからなかったのだ。「いさなに」というのは勇という杉浦新吉氏の通名が「いさあに」となり、さらに「いさなに」となったものだという。
 10月5日、電話をいただいた杉浦さんのところにいき、杉浦新吉氏のむすめさんと妹さんの家の住所を教えていただいた。そのとき杉浦さんは会にカンパをしてくださった。
 むすめさんと妹さんの家は、そこから熊野川の支流の和田川沿いの道を700~800メートルくだったところにあった。はじめに、むすめさんの家を訪ねた。
 杉浦新吉氏は、1932年10月1日、むすめさんが2歳のときに病死していた。30歳になっていなかった。むすめさんには父親の記憶はほとんどないという。父親の遺品は失われ、今、むすめさんの手に残されているのは、父親が友人といっしょに写真館でとった写真一枚だけだという。写真の杉浦新吉氏は、冬の旅支度をしており、ひきしまった表情をしている青年だった。
 杉浦新吉氏は男2人女7人の9人きょうだいで、兄が3歳くらいのとき病死したため、男ひとりの杉浦新吉氏は、早くから家計をたすけて働いたようだ。1932年の秋も杉浦新吉氏は病気をおして農作業をしていたという。むすめさんは小学校5年生のとき、祖母から次のような話をきいたという。
    おまえの父親は、自分のいのちがなくなることを覚悟したときに、おまえをそばにおい
   て、こういった。むすめは育てられないから里子にだしてくれ。そして、河原の石に杉浦新
   吉と名前をほって建ててくれ。この子がたずねてきた時に、父親がここにいたということが
   わかるように。
 むすめさんから話を聞いたあと、妹さんをたずねた。1916年生まれだという妹さんは畑仕事の手をやすめて、こう話してくれた。
    あの人は正直で、みんなに好かれ、だいじにされたええ人じゃった。むかしはこの前の川
   でとうさんも兄さんも筏にのっていた。歌が上手で、走りもはやかった。
    わたしが小学校にいっているころ、半年ほど朝鮮にいって筏のりをし、帰りにモスの反物
   を妹とわたしに1反ずつこうてきてくれた。むらさきのがらだった。
    やさしい人で、親孝行だった。狭いところにおおぜいで住んでいたので、ひき散らかした
   ら怒った。鴨緑江節を歌っていたことを覚えている。
    あの人の病気は結核だった。病院にいけなかった。いまだったら死なないですんだのに
   なあ。
 杉浦新吉氏が、筏のりとして朝鮮にいったのが、朝鮮人労働者とともに木本でたたかった後なのか前なのかは、わからない。あるいは、両方だったのかもしれない。冬は鴨緑江は氷結するため、冬場の仕事として言えから歩いて1日たらずのところにあるトンネル工事の現場で働いたのかもしれない。相度氏の長女、月淑さんは1915年生まれであった。杉浦新吉氏は小口に住む自分の妹とほぼ同じ年の月淑さんに会ったことがあるはずである。
 李基允氏と相度氏が殺された1か月後、1926年2月10日付けで在日本朝鮮労働総連盟、在東京朝鮮無産青年同盟会ら在日朝鮮人4組織が合同でだした「三重県撲殺事件に際して全日本無産階級に訴ふ」の一節に「我々朝鮮人労働者が今に生命を失はんとする刹那林林一、高橋万次郎等日本労働者は勇敢にも我々に味方してタイナマイト(ママ)を取った……」と書かれている。
 その日本人労働者のひとり杉浦新吉氏のことがやっとすこしわかった。
 杉浦新吉氏の死後50年を期して、むすめさん夫婦がちかくの墓地の河原の石の墓標を石碑にかえた。むすめさんと妹さんからはなしを聞いたあと、わたしはそこへいき杉浦新吉氏をしのんだ。戒名は丹桂清香信士だった。
 
  三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』11号(1990年11月20日発行)
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李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」に案内板を設置しました

2021年10月30日 | 木本事件
■李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」に案内板を設置しました■
                                    金靜美
 
 2020年11月、李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」の手すりに案内板をつけました。
 案内板は2種類で、「李基允氏と裵相度氏の追悼碑」と「追悼碑入口 階段ご注意」です。
 李基允氏と裵相度氏を追悼する「追悼の場」は、木本隧道木本口左手の高台にあり、崖に面しています。
 「追悼の場」に行くには、自然石を並べた細くて急な階段をのぼらなければなりません。
 2014年11月、2019年11月、2回にわけて、階段と、「追悼の場」の道路側に手すりを付けました。
 2004年、熊野地域が世界遺産に指定されましたが、その前後から、熊野市内にさまざまな案内板がふえました。李基允氏と裵相度氏の「追悼の場」の下の道路は、木本隧道をへて、太平洋を望む鬼ケ城につづきます。熊野古道にいたる松本峠入口が木本隧道近くにあります。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会では、熊野市にたいし、2008年10月16日の熊野市との話し合いの席で、直接に、その後、文書などで、熊野市内に案内板が増えたことと関連し、李基允氏と裵相度氏の「追悼の場」の案内板を設置するように要請しましたが、熊野市は応じないままでした。
 「追悼の場」にたびたび行ってくれる人たちから、木本隧道につづく道を歩く人たちが、すぐ上に何があるのかわかるように、案内板を付けたらどうかという提案がありました。熊野市への案内板設置要請は継続することにし、会で独自に案内板を設置することにしました。
 案内板は、「追悼の場」の道路に面した崖に設置すると、道路からよく見えるのですが、提案者のひとりの調査によれば、崖につけるばあい、費用がかさむことと、崖の地権者が不明確で手続きが複雑、また、草が生い茂る時期には見えにくくなる などで、この案はやめることにしました。
 案内板のことばは、約20個、提案されたのですが、最初の二つになりました。
 案内板のことばにはなりませんでしたが、いくつかここで記しておきます。

 ◇トンネル工事中、デマで命を奪われた二人」 ◇「木本事件」で亡くなった若者たち
 ◇トンネル工事と「木本事件」が伝えることは…… ◇侵略と差別の歴史を問う
 ◇歴史に刻まれた1926年1月3日 ◇故郷に帰れなかった二人
 ◇遠い昔のこと? いや今もこれからも私たちは問い続ける



■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 建立基金について■
                                    金靜美

 2008年3月9日、紀州鉱山の真実を明らかにする会が主催して、はじめて紀州鉱山で亡くなった 朝鮮人を追悼する集会を、選鉱所前でおこないました。 
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会がよびかけ、2008年8月31日、在日本大韓民国民団三 重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部と紀州鉱山の真実を明らかにする会の三者で、 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の発会式を、津でおこないました。 
 2009年9月6日、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の第2回集会を、津で おこないました。 

 紀州鉱山の真実を明らかにする会では、2008年3月9日の第1回追悼集会以降、追悼碑建立のため のさまざまな作業に取り掛かり、追悼碑建立基金を設けました。 
 2009年4月時点で、追悼碑建立基金には、471088円が寄せられていました。 
 2009年5月、熊野市紀和町を通る311号線沿いの土地を、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑 を建てる用地として購入を決めましたが、不足する購入資金や整備費用のため、2009年5月25日、 200万円を、在日朝鮮人1世の方から、無利子、無期限で、お借りしました。 
 2010年3月28日におこなった紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の序幕集会ののち、 2011年10月24日に第1回目の返済をし、その後3回に分けて返済し終わりました。最後は、ことし 2021年6月9日でした。 
 在日朝鮮人1世の方、ありがとうございました。  
 みなさまのご支援、ご協力、感謝します。
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わたしたちの立場

2021年10月29日 | 木本事件
■わたしたちの立場■
                                金靜美
                              
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、1988年9月11日、朝鮮人がよびかけ、第1回目の準備会をひらきました。
 翌年の1989年4月23日、三重県津で、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・三重結成集会をおこない、つづいて6月4日に、大阪で、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の結成集会をおこないました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の準備会が1988年11月30日に出した「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑建立を!」には、次のように書かれています(抄録)。

◆ 「事件は終わっていない」
 「いま、李基允、裵相度の死は、かたちを変えて日本でくり返されています。ふたりが日本に働きに来ざるをえなかったのは、日本の植民地支配によって祖国の生活と土地を奪われたからです。現在の日本でも、同じようにしてアジア各地から数多くの外国人労働者が出稼ぎのために来日し、低賃金や劣悪な労働条件の下で、差別・虐待を受け、なかには餓死や自殺に追い込まれた人もいます。敗戦前もいまも、日本はアジアの富を奪い、アジア民衆の犠牲の上に豊かさを享受しているにもかかわらず、日本人の多くはそのことに無自覚なままでいます」、
 「木本事件は、1923年の関東大地震の際の日本人による朝鮮人・中国人の大虐殺や、アジア各地で行われた、天皇ヒロヒトを最高指揮者とする軍隊(「皇軍」)による民衆虐殺に比べたら小さな事件ですが、それらの出来事とけっして無関係な事件ではありません。そして、『奥熊野百年誌』(1968年)、『木本小学校百年誌』(1973年)、『熊野市史』(1983年)などにおける記述が現在もなお、この事件の事実を包み隠し、歪めて伝えていることからも明らかなように、この事件に対する熊野市当局や市民の対応のしかたの中にも、日本人がおのれの歴史に対する責任を回避しようとする態度が表れています」。

◆「歴史から学びつつ」
「李基允。裵相度の死の陰には、無数の朝鮮人労働者の死が隠されています。北海道、紀伊半島(三重県、奈良県、和歌山県)、信濃川流域新潟県、九州の炭鉱など日本全国のいたるところで、数多くの朝鮮人労働者が鉄道工事、道路工事、発電所工事、炭鉱の採掘に際して「事故死」させられ、葬り去られてきました。わたしたちは、李基允、裵相度の無念の声を聞き取り、さらに名を知られることさえなく暗闇の中で殺されていった朝鮮人やその他のアジア人の遺志をたずね、ふたたび同じ悲劇が起こらぬように努力していかねばなりません」。
 
 わたしたちはこの文書を、わたしたちの会の活動の指針とし、次のことを目的として運動をすすめてきました。
 ①李基允氏と裵相度氏を追悼する碑を建立する。
 ②多くの李基允氏たち、裵相度氏たちの無念の声を聞き取り、アジア人の遺志をたずね、同じことをくりかえさせない。
 ③「木本事件」の事実を明らかにし、地域史におけるまちがった記述を訂正させる。

 わたしたちの会の活動は、①の「李基允氏と裵相度氏を追悼する碑を建立する」は実現しましたが、②③は実現していません。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の活動の過程で、1997年2月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の発足集会を開きました。
 第1回目の紀州鉱山「現地調査」は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が主催しました。李基允氏と裵相度氏を追悼する第2回目の集会の翌日1995年11月19日でした。第2回目の紀州鉱山「現地調査」も、主催は第1回目と同じで、李基允氏と裵相度氏を追悼する第3回目の集会の翌日、1996年11月17日におこないました。

◆紀州鉱山の真実を明らかにする会 会則◆
1、名称
 本会の名称を、紀州鉱山の真実を明らかにする会とする。
2、目的
 三重県紀和町の紀州鉱山(石原産業経営)における朝鮮人強制連行・強制労働の調査を包括的におこない、さらに、紀伊半島における朝鮮人・中国人強制連行・強制労働の調査を包括的におこなうことによって、紀伊半島の歴史を、19世紀末以降における日本の東アジア太平洋侵略の歴史のなかに、位置づけることを目的とする。
3、会員
 本会の会員は、本会の目的に賛同する個人によって、構成される。
4、運営
 ①本会は、事務局をもって運営される。事務局には、本会員であれば、自由に参加することができる。
 ②事務局会議は、随時におこなわれる。
 ③本会の経費は、基本的に、会員の会費によってまかなわれるものとする。
5、会費
  会費は、年会費3000円とする。

 この会則は、会の発足日である1997年2月9日から実施する。 
                                         


■「改組三会」の『会報』1号における虚偽記述について■                                                                                                                                                                                                        
                                   金靜美

 今年5月1日付で『三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会 紀州鉱山の真実を明らかにする会 海南島近現代史研究会 総称改組三会 会報第1号』が「改組三会」から発行されました。
 この『会報』1号には、昨年11月7日夜、「改組三会」という「会」がつくられたと書かれています。昨年11月7日昼には、斎藤日出治さんや竹本昇さんが中心になって、偽りの「追悼集会」を開いていました。
 斎藤日出治さんと竹本昇さんは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会・紀州鉱山の真実を明らかにする会・海南島近現代史研究会を2020年にやめていました。会をやめたふたりが中心になって、それまで会の活動にまったく、あるいはほとんどかかわっていなかった人たちが加わり、まぎらわしい名称を付けた「改組三会」という「会」を作ったといっています。
 会をやめたと広言した人たちが、会の名称を変え、あるいは、そのまま使い、それぞれ、歴史、経緯、活動の内容がちがう三つの会を、「総称 改組三会」としたことに、ひじょうに憤りを感じます。
 「改組三会」が発行した「会報第1号」には、この会の実体が象徴的に示されています。でたらめ、虚偽、歴史偽造です。
(一)この「冊子」の最終頁に木本町の地図と「木本事件とは」と題する700字ほどの「解説」が掲載されています(15頁)。筆者は明らかにされていませんが、この地図と短い「解説」には、何か所も、事実とことなる虚偽の歴史が書かれています。 
①この地図の有本湯の斜め前に「裵相度さん虐殺の現場」と書き込まれていますが、その場所は裵相度さんが虐殺された場所ではありません。当時の地域新聞の記事などによると、虐殺された李基允さんの遺体は有本湯の前まで虐殺者らによって引きずられて放置され、その後同じ場所に裵相度さんの遺体が虐殺者らによって引きずられて放置されました。
②裵相度さんが包囲された現場は、笛吹橋の近くであった。 「木本事件とは」には、「裵相度さんは……有本湯付近で自警団に包囲され、鳶口で 殺された」という虚偽が書かれている。 
③「木本事件とは」には、「李基允さんたちは、笛吹き橋付近でダイナマイトで抵抗した後、山やトンネルに逃げた」と書かれている。だが、朝鮮労働者と日本人労働者がダイナマイトで反撃したのは李基允さんが虐殺された後であった。 

(二)『総称改組三会 会報第1号』と題する「冊子」には、「姫リンゴの花」のカラー写真が掲載されている。その説明文の全文はつぎのとおりだ(13頁)。 
 「木本の追悼碑前には姫リンゴの花が咲き、やがて可愛いリンゴがたくさん実る。 
杉浦新吉さん(飯場襲撃に対して、朝鮮人と共に闘った三人の日本人労働者の一人)の孫娘さんに贈られた苗木が気丈に育っている」。 
  • 「木本の追悼碑前には姫リンゴの花が咲き……」と書かれているが、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑の前には「姫リンゴ」の樹は植えられていない。 この「冊子」に掲載されている「孫娘さんに贈られた苗木」の写真は、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑とは、まったく無関係のものである。
  • 杉浦新吉さんには「孫娘さん」はいない。
  • 「朝鮮人と共に闘った三人の日本人労働者」と書かれているが、朝鮮人といっしょにたたかった日本人は、3人だけではない。
(三)「はじめて会の運営規約を採択」(4頁)。
  三つの会には、会則、規約などがある。
(四)「数年以上にわたって事務局会議を開催することなくメールの交信のみで活動してきた旧三会」(14頁)。
  わたしたちは、最近の数年間に限っても、事務局会議を開き、追悼集会、総会、定例研究会を開き、「アジアから見た日本の戦争」という名の展示会批判をおこない、「関西地域 民族教育関係者 研修会」に参加し、日本政府に「日韓合意」の撤回を求め、海南島・韓国で「現地調査」をおこなっている。



■「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルについて■                                                                                                       
                                  キム チョンミ

 「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真パネルと解説パネルは、1999年7月6日~8月29日まで、大阪人権博物館(リバティ大阪 現在は閉館)で開かれた、企画展「“木本事件”ー熊野から朝鮮人虐殺を問うー」のために、大阪人権博物館が作成した写真パネルと解説パネルが主なものです。
 企画展で使用した写真パネルと解説パネルは、大阪人権博物館の担当学芸員が、企画の趣旨に沿って独自に選定・作成したパネルも数点ありますが、基本的には、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会のキム チョンミが写真を選定し、解説を作成しました。
 企画展では、「木本事件」だけではなく、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山を経営していた石原産業が海南島で現地人や朝鮮人を強制連行して働かせていた田独鉱山のパネルも展示しました。
 企画展の終了後、これらのパネルは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会が、大阪人権博物館から譲り受け、キム チョンミが管理してきました。
 「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行のパネルは、企画展の終了後、1999年11月の追悼集会のさい、極楽寺で展示しました。
 2000年11月の追悼集会のさいには、熊野市立図書館ではじめて展示し、その後、毎年、追悼集会のさい、熊野市立図書館(のち、熊野市民文化センター)で展示をしてきました。
 その後、上記の二つの会では、佐藤正人さん、小谷英治さん、キム チョンミが中心になって、「大逆事件」など、随時あたらしくパネルを制作し、いまの枚数になっています。
 これらのパネルは、すべて、キム チョンミが保管し、追悼集会のさいに熊野に運びましたが、2015年、慶尚北道議員団が追悼集会に参加したさい、キム チョンミが議員団とともに紀和町から和歌山方面に向かわなければならなかったため、パネルの撤収作業に参加できず、竹本昇さんに一時的に保管をお願いしました。そのご、竹本昇さんが「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんするパネルを一時的に保管してきました。

 竹本昇さんが昨年、上記二つの会をやめたため、今年4月30日、パネルの返却を要請したところ、同日、返さないといってきました。
 その「理由は、金静美さんの独裁による会の運営を認められないからです」、ということです。
 竹本昇さんがわたしが会で「独裁」をしていたと考えることについて、わたしは竹本昇さんと議論するつもりはありませんが、パネルは、会のものです。
 竹本昇さんは、会の活動と会員の個人にたいし、誹謗中傷し、虚偽をまき散らして会をやめた人たち、会の活動にほとんどかかわっていなかった人たちとともに、昨年、「改組 三会」というものをつくりました。
 わたしは、この「改組 三会」というものは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の活動を妨害していると判断します。
 その竹本昇さんは、アジア民衆歴史センターの主催者である久保井規夫さん(「改組三会」の運営委員でもあります)の借用依頼にかんし、個人的に了解の返事をしたと、久保井規夫さんからのメールで知りました。
 これらのパネルは、会をやめた竹本昇さんには、いっさい関係がありません。また、いかなる人間でも、個人的に貸与したりできるものではありません。
 会をやめた人間が、担当していた事務の引き継ぎの提案に「排除」だといって応じない、預かっていた会のものの返却要請に応じず個人的に貸与しようとする、すでにある会則を無視して「改組 三会」というものの会則をつくる。
 「改組 三会」というものの不正義、モラルのなさは、見苦しいほどです。
 人のものを奪って恥じないという考え方に、侵略者の論理が重なります。
 竹本昇さんが、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会の写真と解説パネルを返却するように、ご協力をよろしくお願いします。
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