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■知りたかった「1月3日のまち」 木本事件99年後を歩く 上」■
1926年1月3日、ふたりの朝鮮人が住民に虐殺された木本事件がおきた。99年後の2025年1月3日、海南市の歴史研究家金靜美さん(75)が、現場の三重県熊野市木本町をあるいた。
李基允さん(当時25)と裵相度さん(当時29)の追悼碑は、ふたりが働いていた木本トンネルのちかくにある。
追悼碑からあるいて数分の笛吹橋へ。幅10メートルもない川にかかる小さな橋だ。ここから南へ真っすぐ200メートルあるくと海辺の木本神社につく。木本町の中心をはしる生活道路は、民家が軒をつらねて今は新年らしい静けさと冷気の中だが、99年まえは「鮮人を見つけ次第殺すと物凄い勢ひ」(1926年1月6日付紀伊新報)の住民であふれていた。
1926年1月3日午後5時ごろ、この200メートルの道路のどこかで、笛吹橋から追いかけてきた住民によって李基允さんは惨殺された。遺体は、笛吹橋と木本神社のあいだにあった有本湯まで引きずられた。2時間後の午後7時ごろ、騒ぎをおさめようとして木本神社から笛吹橋に向かった裵相度さんも群衆にのみこまれて有本湯ちかくで殺された。
郷土史家が書き写していた当時の小学生の作文がある。
「ワアヽと ときの声を上げ劍を持った人鳶口や棍棒など持った人々は下の方から走り来る、上の方よりも来た」「鳶口で頭をなぐられたかと思うと、すぐ腹這いになって倒れた、黒山のようになっていた人達が 前に倒れた人を『このガキやわりんじや』としきりに罵りながら死んで何も知らない人を蹴ったりなぐったりして思ひゝに『このざまをみよ』と 日頃の恨みでも晴らしたかのように 喜び叫んでいる」(女の子の作文)
「血は川のように流れる 顔は血みどろけ、その血はなまぐさい血であった、この血のなまぐさいのをかぐと、胸が悪くなってきた、こんな においをかがぬが良いと思うて ふるえながら内へはいった」(男の子の作文)
笛吹橋を中心に半径300メートルの円を地図上にえがくと、李さんや裵さんら朝鮮人労働者が工事についていた木本トンネルも、住民が襲撃した飯場も、ふたりの遺体が野ざらしにされた極楽寺も事件に関係するほとんどが円内におさまる。それぞれの場所をたずねるだけなら1時間もいらない範囲で木本事件はおきた。
金靜美さんが木本事件についての最初の論文を発表したのは1988年だ。仲間と「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会」をつくり、追悼碑を建て、追悼集会を毎年ひらいている。これまで数えきれないほど現場を取材してきたが、「1月3日の木本町」をたずねたことはなかった。「『1月3日の木本町』の雰囲気を知りたい」という金さんの呼びかけに応じてこの日、「建立する会」の会員や記者ら十数人があつまった。
金さんは、参加者に感想を聞かれてぽつぽつ何かしらを語ったほかは、ところどころで立ち止まって遠くを見つめていた。
「子どもたちはお寺で一晩、どうしていたんでしょうね。寒かっただろうし、おなかもすいただろうし。ほんとうにどうしていたんでしょうね」
金さんは、裵相度さんの子どもたちはどれほど怖かったのだろうかと思って目を赤くした。
裵さんは朝鮮南部・釜山の郊外出身で、来日後は近畿の各地で働き、この間に長男武煥さんを生後6カ月で失っている。木本事件のころは、妊娠9カ月の妻金而敬さん、10歳の長女月淑さん、4歳の次男敬洪さん、2歳の次女良淑さんの5人家族だった。(下地毅)
◆キーワード <木本事件> 現在の三重県熊野市木本町で1926年1月3日におきた。「朝鮮人が襲ってくる」といったデマがひろがり、トンネル工事のため町内に住んでいた朝鮮人労働者と家族を住民が集団で襲った。2年4カ月まえの関東大震災下の虐殺とおなじく、天皇制と植民地支配を背景として朝鮮人を危険視する差別と「自警意識」とがあったと研究者はみている。
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■非業の死 忘却の穴に落とされた 木本事件99年後を歩く 下■
1926年1月3日の夕暮れ、4歳の敬洪さんは、10歳の姉月淑さんにおぶわれて銭湯からの帰り道にいた。ラッパの音や発砲音とともに「朝鮮人は逃げろ」という声も聞こえたため、ちかくの寺の床下にかくれて一晩をすごした。
翌朝に帰った飯場はめちゃくちゃに壊されていた。部屋にぶらさげていた正月用の餅トックも床に散乱していた。数日後、母親に連れられて極楽寺の境内で父裵相度さん(当時29)の遺体と対面した。
木本事件のあと、朝鮮人労働者とその家族は船に押しこまれて木本町(三重県)を追われた。
裵さんの妻で妊娠9カ月だった金而敬さんは、釜山で三男義洪さんをうみ、35歳で死んだ。三男がどうなったのかはわからない。
10歳だった長女月淑さんは、秋山明子という名前で木本小学校に通っていた。同級生によると、おとなしくて勉強もよくできた。朝鮮人だといじめられてもいた。栄養失調で失明して13歳で死んだ。
2歳だった次女良淑さんも20歳で死んだ。
【写真】事件当夜、裵相度さんの10歳と4歳の子どもは寺の床下にかくれて難をのあれた=1月3日、三重県熊野市木本町
翌朝に帰った飯場はめちゃくちゃに壊されていた。部屋にぶらさげていた正月用の餅トックも床に散乱していた。数日後、母親に連れられて極楽寺の境内で父裵相度さん(当時29)の遺体と対面した。
木本事件のあと、朝鮮人労働者とその家族は船に押しこまれて木本町(三重県)を追われた。
裵さんの妻で妊娠9カ月だった金而敬さんは、釜山で三男義洪さんをうみ、35歳で死んだ。三男がどうなったのかはわからない。
10歳だった長女月淑さんは、秋山明子という名前で木本小学校に通っていた。同級生によると、おとなしくて勉強もよくできた。朝鮮人だといじめられてもいた。栄養失調で失明して13歳で死んだ。
2歳だった次女良淑さんも20歳で死んだ。
■ 「隠したい人いる限り、事件は生きている」 木本事件99年後を歩く下■
こうした裵さん一家のその後は、木本事件当時4歳だった次男敬洪さんが釜山で暮らしているのを、海南市の歴史研究家金靜美さん(75)が1988年に突きとめてわかったことだ。
金さんは、倒錯した思いに時折とらわれる。
裵相度さんも李基允さん(当時25)も殺されたことで「救われた」のではないか。それで名前が新聞に記録されたのだから。
すると、裵さんの遺族のむごい人生も「まだまし」となる。事件後の軌跡がすこしはわかっているのだから。
事件当時の朝鮮人労働者とその家族はあわせて60人から70人ぐらいだった。このうち、裁判手続きのひとつ予審の決定書に名前が載った17人は、これも「まし」だろう。
こんなことを考えてしまうほどに、木本事件は忘却の穴に落とされたままだ。李基允さんの妻ら朝鮮人労働者の家族のその後も、公判記録が見つかっていないから事件の詳細も、なにもかもが不明のまま事件から100年になろうとしている。
木本事件は、殺害現場だけならば笛吹橋から木本神社の間のわずか200メートルの路上でおきた。虐殺時間は午後5時から午後7時までの2時間のことだった。
99年後の現場をあるいた金さんの思いは、こうした時間と空間を飛びこえてある。
「99年まえのことと思えないですよ。まるで今のことみたい。それは、なにも解決していないからです。日本政府も熊野市もいまだに虐殺の責任を認めていないし、住民も忘れたがっている。これはここだけの話でしょうか。各地であった朝鮮人の非業の死について行政が責任を認めたところがありますか? 木本事件を忘れたいという人がいるかぎり、隠したいという人がいるかぎり木本事件は生きている」(下地毅)
こうした裵さん一家のその後は、木本事件当時4歳だった次男敬洪さんが釜山で暮らしているのを、海南市の歴史研究家金靜美さん(75)が1988年に突きとめてわかったことだ。
金さんは、倒錯した思いに時折とらわれる。
裵相度さんも李基允さん(当時25)も殺されたことで「救われた」のではないか。それで名前が新聞に記録されたのだから。
すると、裵さんの遺族のむごい人生も「まだまし」となる。事件後の軌跡がすこしはわかっているのだから。
事件当時の朝鮮人労働者とその家族はあわせて60人から70人ぐらいだった。このうち、裁判手続きのひとつ予審の決定書に名前が載った17人は、これも「まし」だろう。
こんなことを考えてしまうほどに、木本事件は忘却の穴に落とされたままだ。李基允さんの妻ら朝鮮人労働者の家族のその後も、公判記録が見つかっていないから事件の詳細も、なにもかもが不明のまま事件から100年になろうとしている。
木本事件は、殺害現場だけならば笛吹橋から木本神社の間のわずか200メートルの路上でおきた。虐殺時間は午後5時から午後7時までの2時間のことだった。
99年後の現場をあるいた金さんの思いは、こうした時間と空間を飛びこえてある。
「99年まえのことと思えないですよ。まるで今のことみたい。それは、なにも解決していないからです。日本政府も熊野市もいまだに虐殺の責任を認めていないし、住民も忘れたがっている。これはここだけの話でしょうか。各地であった朝鮮人の非業の死について行政が責任を認めたところがありますか? 木本事件を忘れたいという人がいるかぎり、隠したいという人がいるかぎり木本事件は生きている」(下地毅)
◆【註記】キムチョンミ 2025年3月7日
「木本事件99年後を歩く(下)」(『朝日新聞』和歌山版2025年1月24日)の記事のなかで、「裵相度さんも李基允さん(当時25)も殺されたことで「救われた」のではないか。それで名前が新聞に記録されたのだから」と書かれています。
この文脈で、「救われた」という表現は、記者の考えなのか、金靜美のことばなのか、あいまいです。読者には、全体の記事の中で、この表現には逆説的な意図があると、読み取ってくれる人がいるかもしれません。
「救われた」という表現は、わたしのことばだろうか、と、この間、考えました。
わたしは、殺された人たちの想い、遺族の気持ちを、わずかな痕跡からなんとかして読み取りたいと願ってきました。
朝鮮が日本の植民地にされていた時代の朝鮮や日本の新聞で、数えきれないおおくの殺された朝鮮人の名前を見ました。殺された場所を、新聞記事で確認しました。
生きていた場所で、労働の現場で、殺された人たち、けがをした人たちは、新聞に記録されることによって、じぶんのいのちをかけて、じぶんの存在をのちの人たちに伝えていなす。
朝鮮が日本の植民地とされていた時代、おおくの朝鮮人が過酷な労働に従事しましたが、その現場や労働状況は、ほとんど明らかにされていません。朝鮮人を働かせた日本軍や日本企業がそうした文書を廃棄したか残さなかったからです。
しかし、当時の新聞には、朝鮮人の名前、その名前が確認された場所がでてきます。それは、朝鮮人が、殺された、あるいは事故で亡くなった、からです。ひとりの朝鮮人がそこにいた、その朝鮮人の名前は、李基允であり、裵相度である。
日本軍や日本企業は、侵略した地域の民衆の働力を酷使しましたが、その実態はほとんどのばあい不明です。
しかし、その労働現場で殺された、あるいは亡くなった人たちは、じぶんのいのちをかけて、じぶんたちの痕跡を残しました。
わたしは、かれらの痕跡を知ることができ、それを伝えることは、わたしのやるべきしごとだと考えました。
日本人の侵略によって被害を受けた人たちは、ほとんどのばあい、じぶん自身でそれを伝えることができませんでした。
1926年1月3日、三重県の当時木本町で何が起き、殺されたのはだれか。
数十年後、新聞記事がひとりの朝鮮人にそれを伝えました。
それに接したわたしは、何をすべきか?
“じぶんはここで殺された” “殺した人間に忘れさせるな”“日本人に思い起こさせよ”と、わたしに伝えているように感じてきました。
このように考えるわたしとの対話のなかで、記者は、犠牲者が生きた痕跡を伝えようとするわずかな手掛かりに接したわたしの思いを、「救われた」と書いてしまったのかもしれない、と思います。
侵略された側が侵略者に虐殺されたとき、それはいかなる意味でも、救われることはありません。