三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「強制労働の追悼碑除幕 熊野の紀州鉱山」

2010年03月31日 | 紀州鉱山
『中日新聞』(三重版 2010年3月29日号)の記事です。

 太平洋戦争中に熊野市紀和町の紀州鉱山で強制労働に従事して亡くなったとされる朝鮮人労働者の追悼碑の除幕式が28日、同町の広場で開かれた。
 追悼碑は在日本大韓民国民団県地方本部や在日本朝鮮人総連合会県本部などでつくる「追悼する碑を建立する会」が建てた。同会の調査によると、1300人以上の労働者が朝鮮半島から紀州鉱山へ連行され、少なくとも35人が亡くなった。しかし、紀和町史は朝鮮人労働者について触れていない。
 式には会員約100人が出席。「歴史的責任を追及していきます」などと書かれた追悼碑と、死亡者一人一人の名前が書かれた石がお披露目された。参加者は黙とうささげた後、花や酒を手向けていた。
 同会の金静美(キム・チョンミ)さん(60)は「鉱山での真実はまだまだ明らかになっていない。追悼碑は新たな出発の起点だ」と話していた。
 (福田大展)

 【写真】追悼碑に花をささげる会員たち=熊野市紀和町で
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「連行朝鮮人の追悼碑完成 三重・紀州鉱山跡近くで除幕式」

2010年03月30日 | 紀州鉱山
 共同通信社が、3月28日午後7時19分に配信した記事です。3月29日の『熊本日日新聞』、『山形新聞』、『下野新聞』、『静岡新聞』、『富山新聞』、『北國新聞』、『高知新聞』、『山梨日日新聞』、『大阪日日新聞』、『神戸新聞』、『福井新聞』、『岩手日報』、『徳島新聞』、『四国新聞』、『デイリースポーツ』、『山陰中央新報』、『佐賀新聞』、『大分合同新聞』、『北日本新聞』、『東奥日報』、『河北新報』、『西日本新聞』、『山陽新聞』、『中國新聞』、『茨城新聞』、『福島民報』、『秋田魁新報』、『日本海新聞』、『岐阜新聞』、『東京新聞』などに掲載されました。


 第2次世界大戦中、三重県旧紀和町(現熊野市)の紀州鉱山(閉山)に強制連行され、死亡した朝鮮人を追悼する石碑が鉱山跡近くに完成し、除幕式が28日行われた。

 連行されたのは1940~45年に約1300人とされるが、地元でもあまり知られていないため、市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」(キム・チョンミ事務局長)などが約13年前から取り組んできた。

 「なぜここで命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追及していきます」とプレートに書かれた碑の前に、死亡が確認された35人の名を1人ずつ記した同数の石を配置。今後も調査を続け、新たに判明した死亡者の石を加えていくという。

 除幕式には、在日韓国・朝鮮人や学識者、地元住民ら100人以上が参加し、花を手向けた。韓国で死亡者の戸籍調査にかかわった安浩烈さん(57)は「痛々しい過去が明らかになり、日韓関係がより良くなるきっかけになれば」と話した。

 【写真】完成した追悼碑の前に花を手向ける除幕式の参加者=28日午後、三重県熊野市紀和町
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「熊野 「歴史的責任、追及する」 連行朝鮮人の追悼碑を除幕」

2010年03月29日 | 紀州鉱山
『伊勢新聞』(2010年3月29日号)の記事です。

【熊野】
 太平洋戦争中、熊野市紀和町の石原産業・紀州鉱山に千三百人を超える朝鮮人が強制連行され、強制労働に従事させられて、これまでに分かっているだけで三十五人が亡くなったとされる。
 同市紀和町板屋で二十八日、韓国からの四人を含む約百人が参加して「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑除幕集会」が開かれ、碑の除幕の後、韓国伝統舞踊家・金順子(キム・スンジャ)さんが「追悼の舞」をささげ、参加者が一人一人の名を記した石に献花して冥福を祈った。

 集会は、在日本大韓民国民団県地方本部や在日本朝鮮人総聯合会県本部、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」で構成する「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」が主催した。同会によると、熊野市の協力が得られなかったため、鉱山資料館近くの民有地二一四・五平方メートルを購入した。

 追悼碑は、自然石に「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされ、亡くなった人たち」「なぜ、みなさんがここで命を失わなければならなかったかを明らかにし、その歴史的責任を追究していきます」などの追悼文を刻んだ金属製プレートをはめ込んだもの。

 民団県地方本部代表や総聯県本部代表、南牟婁郡御浜町在住の「真実を明らかにする会」会員らの手で除幕され、亡くなった三十五人の名を記した石のリボンが一つずつ解かれた。
 東京在住の韓国伝統舞踊家・金順子さんが、白い民族衣装に身を包み「追悼の舞」を舞った。
 韓国から強制連行された人や遺族のメッセージが次々に読み上げられ、最後に参加者が一人一人の石に献花し、黙とうをささげて冥福を祈った。

 【写真】追悼碑(右)除幕集会で韓国伝統舞踊「追悼の舞」を舞う金順子さん=熊野市紀和町で
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これからのこと

2010年03月28日 | 紀州鉱山
 今日(3月28日)の除幕集会で主催者(紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会)が提案した、「これからのこと」です。

一、追悼集会
     今日の除幕集会を第1回として、ことし秋に第2回追悼集会を開く。
     以後、毎年秋に開く。
二、「追悼の場」の整備
     1、植樹。草花を植える。掃除・草むしりなど。
     2、追悼碑建立宣言板を半永久的なものにする。
     3、説明板をつくる(あるいは説明文をケースに入れて自由にもっていってもらう)。
     4、死者の名を記した石を、死者の名を刻んだ石に変えていく。
三、紀州鉱山の真実を明らかにする作業
     1、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名前と人数を正確に明らかにする。
     2、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働の実態を明らかにする。
         ①韓国でのさらなる「調査」。
         ②朝鮮民主主義人民共和国での「調査」。
         ③日本でのさらなる「調査」。
            とくに、紀和町とその周辺での聞きとり。
            薬師炭鉱跡、妙法炭鉱跡、などでの聞きとり。
     3、石原産業四日市工場で働かされていた朝鮮人についての諸事実を明らかにする。
           何人が働かされていたか。死者は?
四、石原産業・三重県・熊野市にたいして
    1、石原産業に企業責任をとらせる。
    2、三重県の強制連行の関わりを明らにする。
    3、熊野市紀和鉱山資料館紀州鉱山に朝鮮人労働者にかんする展示をさせる。
      さしあたり、説明文を、熊野市紀和鉱山資料館に置く。
    4、熊野市指定文化財「英国人墓地」問題の解決。
    5、熊野市に埋火葬許認可書などの文書を開示させる。
    6、『熊野市史』、『紀和町史』問題の解決。
五、海南島におけるさらなる「調査」
     田独鉱山、「朝鮮村」……。
     「朝鮮報国隊」の軌跡探索。
六、マレーシア、フィリッピンなどでの「調査」
     スリメダン鉄鉱山、ケママン鉄鉱山……。
     カランバヤンガン鉄鉱山、アンチケ銅鉱山、シパライ銅鉱山、ピラカーピス銅鉱山……。
七、冊子編集・発行・販売、ドキュメンタリーの制作・発行・販売・上映会
     冊子 『除幕集会報告』 2010年5月発行。
         『英国人墓地問題』 2010年夏発行。
     ドキュメンタリー『紀州鉱山への朝鮮人強制連行。そしてそののち』 2010年制作。
               『紀州鉱山、田独鉱山・「朝鮮村」、カランバヤンガン鉱山』2011年制作。
八、開かれた事務局会議
九、財政 寄金を募る。
土地購入借入金返済。
        追悼碑建立宣言板を半永久的なものにする資金の確保。
        死者の名を記した石を死者の名を刻んだ石に変えていく資金(彫刻代金など)の確保。
        説明板(あるいは説明文をいれて自由にもっていってもらうケース)製作資金の確保。
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尹東顕さんの証言  

2010年03月27日 | 紀州鉱山
 ことし1月31日に、自宅で聞かせていただいた証言です。尹東顕さん(1923年4月生)は、1943年9月4日に、江原道平昌郡珍富面和義里から紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」)され「配管工」として働かされていました。

 じぶんがいたとき、紀州鉱山で、たぶん3、4人、死んだと思う。
 戻ってくるとき、白いタオルに包んで遺骨箱を身体から離さず背負って連れてきた。金本といったか、金村といったか。3回、紀州鉱山を出たり入ったりして、長いから日本語も達者な人だった。わたしよりいくつか年上だった。病気だったと思う。
 解放後みんないっしょに船に乗って戻ってたが、わたしは遺骨箱を背負い、朝鮮の旗を持って船から降りた。
 釜山にもソウルにも、ヨンミョン会といって、戻ってくる人を迎えて世話する人たちがいた。遺骨箱は、ソウルでヨンミョン会に渡した。
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金炯燮さんの証言

2010年03月26日 | 紀州鉱山
 ことし1月31日に、江原道平昌郡龍坪面梨木亭の自宅で聞かせていただいた証言です。金炯燮さん(1923年1月生)は、1945年1月21日に紀州鉱山に強制連行(「徴用」)され、「雑夫」として働かされていました。

 さいしょは、イタヤに行った。その後、ユノクチに移った。イタヤに行ったら、先に麟蹄から来た人たちがいた。みんなで何人いたかわからない。逃げた人も何人かいた。わたしも誘われたが、どこに行っても同じだと思って、逃げられなかった。
 イタヤには、捕虜収容所があって、軍人が見張っていた。捕虜たちは背が高くて、坑内では立って歩くことができず、はっていた。
 イタヤの宿所は、通路だけは天井が高かったが、両側にあった寝る場所は低くて、立ち上がることができなかった。ユノクチでは、そうではなかった。一間に4人が入った。解放の時には、ユノクチにいた。
 いっしょにいった80人のうち、ふたりが死んだ。向こうで火葬して、戻ってくるとき、遺骨箱を持ってきて、平昌邑に引き渡した。平昌の人だ。当時は日本の名前を使っていたので、姓がなんだったのか、わからない。日本の姓も忘れてしまった。
 ひとりは飢えて死んだようなものだ。もうひとりは車から鉱石をほうり投げたのがあたってけがをした。ほっとかれた。いくら頼んでもだめだった。それで死んだのだ。火葬したあと、会社の人が、戻ることになったら、そのとき渡すと言った。どこに置いておいたのかわからない。
 いっしょに行き、いっしょに苦労したのに、いっしょに生きて戻ってくることができなかったのが辛い。
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申永洙さんの証言

2010年03月25日 | 紀州鉱山
 ことし2月1日に、韓国江原道平昌郡平昌面烏屯里の自宅で聞かせていただいた申永洙さんの証言です。このブログの2月8日の書きこみ(申應龍さん)を見てください。
 申永洙さん(1936年5月5日生)は、申應龍(1920年2月13日生)さんのおいです。
 石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には、申應龍さんの「入所日」は1945年1月21日で、「死亡日」はわずかその1か月後の1945年2月20日と書かれています。

 初等学校2年のとき、おじが行った。ここからいっしょに行った智仁喚さんらが戻ってきたが、おじさんひとりが戻ってこなかった。戻ってきた智仁喚さんらから、働かされていたのは、日本の三重県だと聞いた。
 遺骨箱は見た。そのとき、村の里長が先頭に立って、村で葬式をした。墓をこしらえて、埋めた。その墓は邑の共同墓地のなかにある。いまは、その共同墓地は使っていない。
 おじは、結婚していたが、子どもはいなかった。妻は、解放前後のころ、天然痘が流行して、かかって死んだ。
 智仁喚さんから聞いたが、おじさんは病気で亡くなったらしい。
 金學録さんは、隣りの薬水里の人だ。同じ日に、遺骨箱が来た。
 学校にいるとき、先生が、遺骨が来るから迎えに出ろといった。どういう遺骨か、説明はなかった。道の両側に生徒たちが並んで、しばらくして、車が通り、みんなが手をたたいて迎えた。それから、先生がわたしと金學録さんの弟に、家に帰れという。家に戻ったら、遺骨箱があった。車に乗ったひとはどういう人かわからない。遺骨箱がきたのは、解放前だった。学校には日本の教師がまだいた。
 おじは、通知が来て、歩いて平昌邑までいった。そのころは、平昌邑に出るのに峠を越えていった。おじが日本に連れていかれたのは冬だった。そのとき、祖母はいたが、祖父は亡くなっていた。
 おじが日本で亡くなったのに、いままで、その状況を知らなかった。いま、その内容を少しでも知ることができた。いまの気持ちは、ことばではあらわせない。
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千榮基さんの証言

2010年03月24日 | 紀州鉱山
 ことし2月2日に、千炳台さんの墓のまえで聞かせていただいた千榮基さん(千炳台さんのおい)の証言です。

 捕まっていくようにして、連れていかれた。近くに住んでいた叔父(オモニの弟)もいっしょに連れていかれた。面事務所から職員が来て連れていくのを見た。いまの罪人といっしょだ。
 젯뽕(遺骨箱)がきたのは、解放前だった。そのときのことを覚えている。役所の人間か誰かが持ってきたと思う。それを埋めて墓をつくった。そのなかになにが入っていたかは、知らない。その日を命日にして、チェサをしている。
 叔父は結婚していた。おばは、젯뽕(遺骨箱)が戻ってきたあと、再婚して家をでていった。子どもがいなかった。わたしの弟が養子になって、墓を守っている。
 祖母は、31歳のとき祖父が亡くなって、ひとりになっていた。そういうときに、2番目の息子が死んで戻ってきたのだから、想像してみてください。祖母には辛いことだった。
 おじは無口な人だった。ちょっとでっぷりして、がっしりした人だった。アボヂ、おじさん、兄がチェサをして、ここに埋めた。
 젯뽕(遺骨箱)は、木でできていて、正方形だった。木は白かった。持ってきた人がどういう人かは知らない。解放前だった。
 おじは、同じ村に住んでいたオモニの末の弟、金태한といっしょに日本につれていかれた。金태한が解放後戻ってきて、おじの最後を話してくれた。てんねんとうにかかって死んだ。病気になって、まっくらな独房のようなところに入れられ、食事もちいさな穴から入れた。そのままそこから出てくることができず、死んだという。
 穴からメシをいれたんだ。食べられなくて死んだと聞いた。いくら泣いても、心がはれない。
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千鳳基さんの証言

2010年03月23日 | 紀州鉱山
■ことし2月3日に、韓国慶尚北道安東市の自宅で聞かせていただいた千鳳基さんの証言です。このブログの2月17日~19日の書きこみ(「千炳台さん」1,2,3)を見てください。

 아버지는 내가 6살때 갔다. 그 때는 가만히 바래야지. (산소는) 혼자. 나한테는 작은 아버지래.
 (일본에서 돌아가셨다는 건)그 때 알았지요.그 때는 다로 살았는데 보국대 붓들려 간다고 연락이 와가주고 내가 (도중까지)따라갔다.
 (젯뽕은) 나는 못봤지요.낮에 왔는데 앉혀 놨다가 일본사라이 있는데 왔다갔다 못하고 밤에 일본사람이 모르게 가만히 제사 지냈다.일본사람한테 걸레면 안되니까.오른들이 제사지내가주고 우리집에 와서 그리 얘기하더라고.
 (양자는 언제 들어갔느냐)제사 지내와가주고 오른들이 하더라고.
 아버지가 붓들려 갔을 때 봤다.간다고 연락이 와가주고 배웅나갔다. 모자쓰고 게토르 방맹이찬 지금으로 말하면 헌병이 두명이나 데리로 왔다. 강제로 일본사람인지 한국사람인지 똑 같으니까 그건 모르지. 간다고.그 당시 아버지부부하고는 옆에 다로다로 살았다.둘이 데리러 왔다.그 때 (이 마을에서)외삼춘(천병태씨의)하고 몇이 갔다 왔다

 アボヂは、わたしが6歳のときに行った。そのころは黙って見送るしかない。墓は一人ではいっている。わたしには、アボヂの弟になる。
 (日本で亡くなったということはいつ知ったか)そのときに知った。そのときは別に住んでいたが、報国隊に捕まっていくと知らせが来て、わたしは途中までついていった。
 (遺骨箱は?)わたしは見なかった。昼間に持ってきたが、置いておいて、日本人がいるのに、行ったり来たりできず、夜になって、日本人にわからないように、しずかに葬式をした。日本人にみつかったらいけない。おとなたちが葬式をして、わたしの家に来てそう話しているのを聞いた。
 (養子にはいつなったのか)葬式をすませて、大人たちが話していた。
 アボヂが捕まっていくとき、見た。行くと知らせが来て、みんな見送りに出た。ぼうしをかぶり、ゲートルを巻き、棒を持った、今でいえば憲兵みたいなのがふたり連れにきた。日本人か、韓国人か、同じだから、それはわからない。当時、アボヂ夫婦とは隣同士で別に住んでいた。(この村から)おじさん(千炳台氏のオモニの弟)と何人かいっしょに行った。
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元「外人墓地」を知るアイルランド人の話

2010年03月22日 | 紀州鉱山
 今年の正月に、縁があって、新宮に住むアイルランド人のお宅にお邪魔しました。新宮の高田にあった炭鉱についても調べてくれたりしている方です。
 今の英国人墓地での「慰霊祭」については、納得いかないところがあるそうです。捕虜の扱われ方はとてもひどくて、連れてこられて1年弱で16人も亡くなっているのに、そのことにあまり触れられず、地元の人との温かい交流というように年々美化されてきていて、おかしいと話されていました。
 元捕虜に話を聞かれたら、当時のことはあまり話したくなさそうだったけれども、「ひどいときもあったよ」とだけ言ってくれたそうです。

 わたしたちが新宮に住む別の朝鮮人に紀州鉱山のことについてお聞きしたとき、その方は紀州鉱山で働く朝鮮人に聞いたことですが、捕虜があまりにもやせていてかわいそうなので、おにぎりを作って見張りに見つからないようにこっそりと渡してあげたと話してくださいました。
 
 下の写真は古い「外人墓地」のころの看板です。
 これは建て替えのあと、311号線沿いの今の看板の下に捨てられていたそうです。それを拾って、ご自宅に保管されてありました。イギリスの捕虜関連の博物館があるそうで、そこには今の「英国人墓地」に関してなどはあるそうですが、古いものについてはないそうです。いつかイギリスに帰るとき、持って帰るつもりだそうです。
 この方は胸に下げていたアイリッシュクロスというのを見せてくださいました。アイルランドのもともとの信仰とキリスト教の十字架がくっついたものだそうです。
 またこの方のお知り合いのアイルランド人が日本の植民地下の朝鮮にいたころ、木浦で収容所に入れられていました。実はその人はわたしの父たちが朝鮮に行ったころ、カトリック信者の祖母がお世話になっていた人なのですが、アイルランドの歴史、朝鮮の歴史、日本人の侵略、英国人捕虜への扱い、いろんなものが入り混じって、それが今につながって、残されているとぼんやりと考えています。
                                            日置真理子
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