三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「紀州鉱山に朝鮮人の追悼碑設置へ 市民団体、苦節13年」

2009年12月26日 | 紀州鉱山
 共同通信社が12月26日に配信した記事です。


 【共同通信】 2009/12/26 17:37
 http://www.47news.jp/CN/200912/CN2009122601000317.html

■紀州鉱山に朝鮮人の追悼碑設置へ 市民団体、苦節13年
 三重県旧紀和町(現熊野市)の紀州鉱山(閉山)に第2次世界大戦中、強制連行され死亡した朝鮮人を追悼する石碑が来年3月末、同鉱山跡近くに設置されることになった。
 約13年前から碑設置に取り組んできた市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」(キム・チョンミ事務局長)は「これを機に地元でもあまり知られていない鉱山への強制連行の歴史を知ってほしい」と話している。
 同会によると鉱山は当時、大阪市の石原産業が経営。1940~45年に千人以上の朝鮮人が強制連行され、うち30人以上が死亡したとされるが、遺骨は共同墓地や寺に分散。鉱山事務所跡にある熊野市営の鉱山資料館には、朝鮮人が働いていたことを示す展示もない。
 熊野市は、紀州鉱山で亡くなった英国人捕虜16人について「史跡英国人墓地」として慰霊。キムさんらは朝鮮人追悼の場も設置するよう求めてきたが、市は「英国人墓地は石原産業から譲り受けた」として退けてきた。
 このため同会は今回、市への要求を断念。自費で土地を購入し、碑を設置することを決めた。
 
 《写真》 第2次大戦中、強制連行された朝鮮人30人以上が死亡したとされる紀州鉱山跡=10月、三重県熊野市
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1941年12月8日 11

2009年12月18日 | 海南島
 「Y五作戦戦訓所見摘録」の「八、奥地事情調査」には、つぎのように書かれていた。

  「○佐八特
   (1)一般状況
      樹木、雑草ノ繁茂状況、樹幹ノ寄生植物等ヨリ観テ雨量多ク気温逐次低下ノ傾向ニ在リト推定セラル
      総シテ当地帯ハ気候、風土共ニ概ネ良好ニシテ土産物資ノ産出モ奥地ニモ拘ラズ相当豊富ナルヲ以テ奥地進駐
     治安ノ回復ヲ得バ資源開発ノ実績相当挙ガルベキモノアリト思考ス
   (2)敵情
      土民殆ンド逃避シ居リシ為充分ナル調査ヲナシ得ザリシモ今次Y五第一期作戦ニ於ケル徹底的糧道討伐ニヨル影
     響甚大ニシテ甘藷蔬菜等代用食増産ヲ奨励スル如キ伝単アリタル点ヨリ見テ主食物タル米穀ニ関シテハ相当ノ窮乏
     ヲ告ゲ居ルモノト推定ス
      逮捕セル土民ノ言ニ依レバ敵保安団ハ金銭ノ徴収ハ行ハズ物納(白米等)ニテ徴収シ居ルモ極度ノ搾取的施政ハ
     ナシオラザルモノノ如ク土民ノ保安団ニ対スル怨嗟ノ声ヲ聞カズ
      塩,燐寸、被服、煙草等ハ保安団ノ手ヲ経テ搬入セラレ其ノ価格ハ塩一斤八円、被服一着百数拾円程度ニテ配付
     シ軍資金トシテ使用シ居ルモノト推定セラルルヲ以テ之等物資ノ搬入防遏ヲ一層強化スル要アリ
   (3)米其ノ他ノ食料品
      奥地各所産米豊富ニシテ水田ノ開発亦有望ナリ蔬菜、大豆、甘藷ヲ栽培シ比較的良好ナル如シ
   (4)各種資源
       (イ)鉱物資源
          深坡嶺附近ノ砂金少量ノ外特記スベキモノナシ
       (ロ)畜産資源
          水牛、黄牛、豚、鶏等ノ飼育状況良好ニシテ自給自足ノ程度ナラント推定セラル
       (ハ)林産資源
          主トシテ濶葉樹林ニシテ南閭市、楓木市ヲ中心トシテ各地ニ楓樹林アリ
          東斗嶺(中興市北西六粁)大同北方地区附近ニ護謨園(成樹一二〇〇本)アリ
   (5)人口種族
      住民ノ殆ンド全部避難シ居ルヲ以テ現在ノ人口ハ不明ナリ
      種族ハ概ネ漢民族、黎族ナリト思料ス
   (6)交通其ノ他
      奥地ニモ拘ラズ道路網整備セラレ交通ノ便ハ概ネ良好ナリト思考ス

   ○横四特
   第一期
   (万冲峒、番陽峒方面)
   (1)一般状況
      温順ニシテ南部南渓流域ト略同様ナリ
   (2)敵状
      番陽峒一帯ニハ崖感思県遊撃隊ノ一部及保安隊約二個支隊蟠踞シ居ルモノノ如ク特ニ南渓支流会合点対岸ニハ
     堅固ナル陣地ヲ構築セル外各所ニ陣地見張所ヲ設置シアリ
   (3)米其ノ他ノ食料品
      米及野菜類ハ極メテ豊富ナリ
   (4)資源
      未調査
   (5)人口種族等
      住民ハ黎族ヲ主トシ山奥ニハ苗族居ルモノノ如シ
   (6)交通其ノ他
      牛車道路ヲ通ズル外間道アリ房曼ヨリ番陽峒、南渓支流会合点迄「トラツク」道路建設易ナルモノト認ム
   第二期
   (沙県方面)
   (1)一般状況
      下黎村ヨリ白沙県城ニ到ル間ハ往復共細雨ニシテ気温寒冷雲低ク陰鬱ナリ此ノ方面ハ晴天少キモノノ如シ
      元門峒、什寒、黎果十字路方面ト南下スルニ従ヒ気温々暖トナリ従テ農作物豊富ナリ
   (2)敵状
      奉門、白沙峒、元門峒、什寒、南渓流域ハ敵保安団、遊撃隊ノ南豊番陽峒間ノ連絡地ニテ且最良ノ避難地最良ノ
     補給地ナリト認ム
      今期討伐ニテ敵ト遭遇セシハ奉門新村及白沙峒苗村ノミナリシガ敵兵舎等ハ随所ニ散在ス
      連続討伐ヲ行ヒ白沙方面ニ進駐スルニアラザレバ之ガ根絶ハ容易ナラザルモノト認ム
   (3)米其ノ他ノ食料品
      白沙峒ハ廃田多ク籾モ見受ラレズ奉門元門峒什寒毛西番响ト南下スルニ従ヒ漸ク物資豊富トナリ毛西番响ノ如キ
     ハ住家一ニ対シ約五棟ノ籾倉ヲ有スル状況ナリ又野菜ハ什寒以南ニ南瓜アリテ徴発ニ不自由ナシ
      極メテ良種ノ鶏ヲ奉門合豹附近ニ認メタリ
   (4)各種資源
      砂金採集ノ形跡アルヲ各所ニ認メタルモ特ニ資源ナシ
   (5)人口種族等
      部落ハ黎人ヲ主トスルモ漢人文化ノ浸入甚シキヲ認ム
      尚部落民ハ何レモ皇軍ノ進撃ヲ見ルヤ逃亡シ姿ヲ見セズ
   (6)交通其ノ他
      白沙方面ノ道路ハ極メテ不良ニシテ幅狭ク泥濘ナリ
   第三期
   (南渓流域)
   (1)一般状況
      南渓流域ハ気候概ネ温順ニシテ土地肥沃且水利ノ便良好ニシテ農耕ニ適ス
   (2)敵状
      流域各地ニ亘リ敵兵舎多数存在シ大部隊ノ敵常ニ移駐シツツアルハ明白ナリ
   (3)米其ノ他ノ食料品
      特ニ見ルベキモノナシ
   (4)資源
      今期討伐中左記箇所ニ鉄鉱石ヲ発見調査中ナルモ相当有望ナルモノト認ム
      抱扛峒冲率嶺南西約三粁ノ望楼渓支流
      優良ナル鉄鉱石ノ転石多数見受ラル
   (5)人口種族等
      黎族ヲ主トシ相当稠密ナル人口ヲ有スルモノノ如シ
      但シ住民ハ概ネ敵性ニシテ皇軍ノ進撃ニ際シテハ何レモ逃避ス
   (6)交通其ノ他
      道路ハ一般ニ極メテ不良ナルモ四通ニ発達シ通行意外ニ便ナリ 」。
                                                佐藤正人
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1941年12月8日 10

2009年12月17日 | 海南島
 「Y五作戦戦訓所見摘録」の「七、道路建設ニ住民ヲ有効ニ協力セシムル方策」には、つぎのように書かれていた。

   「○十五警
   (1)本作戦中当隊第3期掃蕩区域ハ宣撫地ニシテ之ガ附近住民ニハ彼等ノ尤モ慾スル塩、マツチ等ヲ配給スルヲ
     可ト認ム
   (2)作業後帰宅ヲ許可スル際常ニ集合ノ上敵匪困窮状況且ツ道路建設ノ交通上民衆ノ利益ヲ熟知セシム
   (3)一定区域ヲ定メ部落ヲ指定シ協力セシメ其ノ成績如何ニ依リ賞金ニ依ル奨励法モ効果アリ

   ○舞一特
   (1)占拠区内ニ於テ治安維持会長及村長等ヲ利用シ部落民ヲ人夫トシテ使用シ海南島文化事業トシテ道路建設ヲ
     為ス様宣伝指導シ道路完成後ハ各部落ニ割当テ之ガ補修ニ任ゼシメ相当ノ効果ヲ挙ゲツツアルモ農閑期ヲ利用
     シ相当強力ニ指導セザレバ成績挙ラズ
   (2)新進駐地附近討伐道路建設ニ対シテハ現地指揮官ノ強力ナル命令ニ依り帰順部落ト匪地区タルトヲ問ハズ住民
     ヲシテ道路建設ニ当ラシメ時々彼等ガ困窮シ居ル塩、マツチ、塩魚等ヲ宣撫用ニ極少量宛配給スル事トシ相当ノ成
     績ヲ挙ゲツツアリ

   ○佐八特
   (1)道路建設ハ敵匪掃滅ノ根本問題ニシテ結局彼等住民ノ為ナルコトヲ認識セシム
   (2)道路ヲ建設セントスル場合ハ予メ通告シ置キ作業ニ適スル用具(鶴嘴ヲ含む)ヲ準備セシム
   (3)作業ニ当リテハ怠惰性ヲ極力除去スルタメ道路区劃ノ割当ヲ定メ責任ヲ持タシムソレニハ責任者ヲ一名定メ置クモ
     一法ナリ
   (4)監督者トシテ兵員ヲツケ徹底的ニ実施セシム
   (5)休憩ト作業時間ヲ明確ニ区切リヲツケ実施ス
   (6)労力ニ対シ適当シタル代価(金銭物品)ヲ支払フ
   (7)維持会ヲシテ出席名簿ニ登録セシメ勤惰表ヲ作製信賞必罰ヲ励行ス

   ○横四特
   建設スベキ道路附近ノ部落ヲ徹底的ニ掃蕩シ敵ノ乗ズル暇ナカラシメタル後部落民ニ対シ強度ノ圧力ヲ加ヘ道路建設
  ノ目的即チ住民ハ之ニ依リ皇軍ノ充分ナル保護ヲ受クルト共ニ文化流通シ甚ダ便トナル旨ヲ詳説シ皇軍ニ対スル信倚ノ
  念ヲ抱カシムルニ努メ共ニ建設ニ強力スベキコトヲ誓ハシム、実施ニ当リテハ最初ハ至厳ヲ旨トシ何等報酬モ与ヘズ漸
  次宣撫品等ヲ支給シ宣撫工作ト相俟ツテ実施セバ有効ナル協力ヲ得ルモノト認ム
                                             佐藤正人
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1941年12月8日 9

2009年12月16日 | 海南島
 「Y五作戦戦訓所見摘録」の「三、奥地敵中補給対策」には、つぎのように書かれていた。

   「○十五警
   (1)「トラック」ニ依ル補給法ヲ採用セリ
   (2)特警、苦力ニテ運搬セシム
   (3)背嚢「リユツクサツク」ヲ装備シ飯盒米、缶詰、乾麺麭ヲ約三日程度携帯セシムルヲ可トス
   (4)包囲対峙戦等補給不可能ノ場合ハ飛行機ニ依ル空中補給ヲ可トス
   (5)散水車又ハ多数ノ石油空缶等ニテ飯料水補給竝ニ濾過器ヲ配給携行セシムルヲ可トス
   (6)自動車修理班ヲ編成シ各進撃隊ニ適宜交代配属セシムルハ有効ナリ

   ○舞一特
   (1)奥地敵中補給対策トシテハ武器弾薬ノ補給糧食ノ補給ヲ考慮シ得ルモ前者ハ当隊ニ於テハ所要量ヲ常ニ携行セシ
     ムルヲ以テ特ニ考究ノ要ナシト認メ糧食ノ補給対策ヲ考究ス
   (2)奥地敵中糧食補給対策トシテハ次ノ如キ方法ヲ考慮スルヲ得
      (イ)「トラツク」、「オート」三輪車、大八車、荷車、「リヤカー」ニ依ル補給
      (ロ)牛車、一輪車ニ依ル補給
      (ハ)水牛、黄牛、馬ニ荷物運搬用ノ鞍ヲ付ケ運搬セシムル方法
         海南島馬ノ運搬能力ハ支那人人夫ノ二倍乃至三倍程度ナルモ部隊ト共ニ行動シ得ル点其ノ他便利ナル事多
        シ水牛、黄牛ノ利用ハ余リ聞カザルモ飼主ヲ付ケレバ或ル程度有効ナラシム
      (ニ)支那人人夫ヲシテ擔ハシムル方法
      (ホ)航空機ニ依ル補給
   (3)糧食品トシテハ生糧品ハ主トシテ現地徴発ヲ立前トシ補給ハ米、麦其ノ他調味料程度ニ止ムル様計畫スルヲ要ス
   (4)結論
      (イ)要スルニ奥地敵中敵中補給対策トシテ最モ重要ナル事ハ後方ノ確保ト道路ノ建設ニシテ足固メセル上新進駐
        地ニ進出スル如ク計畫スルハ補給上ハ最善ノ方法ニシテ今期作戦中補給上些少ノ困難モ感ゼザリシハ一ツニ
        之ガ為ナリ
      (ロ) 又今期Y作戦ノ経験ニ依レバ作戦上止ムヲ得ザル場合ハ二日掛リ程度ノ戦闘ナレバ飯食(飯盒或ハ弁当)二
        食分及乾麺麭五食分程度ノ携行三日掛リ程度ナレバ飯盒炊事ヲ以テ補フコトヲ得
      (ハ)右(イ)(ロ)ノ如キ方法ニ依ルヲ得ザル場合ハ水牛、黄牛、馬等ニ荷物運搬用ノ鞍ヲ置キ糧食ヲ運搬補給セシ
        ムルヲ最良策トス、支那人夫ヲシテ擔ハシムルハ人数多数ヲ要スル割ニ運搬能力少キ為反復補給トナリ繁雑ニ
        シテ且補給隊ニ特ニ警戒兵ヲ割ク要アリ猶補給隊襲撃ノ機会ヲ敵ニ与ヘル事トモナル然レ共斯ク如キ場合ヲ予
        想シ運搬用ノ棒、菴等ヲ用意シ置キ又支那人苦力相当数用意シ置カバ火急ノ用ニ応ジ得ルモノト認ム

   ○佐八特
   (1)補給基地設定シタル場合ノ補給法
      Y五第一期作戦ノ場合ノ如ク補給基地ヲ設定シタル場合ニハ進駐当日迄ニ「トラツク」ニテ輸送シ爾後逐次補給スル
     程度ニテ可ナリト認ム
   (2)移動スル場合ノ補給法
      軍馬、支那人夫ヲ使用スルヲ最適ト認ム
   (3)奥地ニ於ケル土産物資ハ相当豊富ト認メラルルニ付生糧品等ハ現地ニテ調達充当可能ト思考ス
   (4)携帯口糧ニ関シテハ圧縮セル小型トシタルモノヲ設定配給サルレバ運搬容易ニシテ利用価値大ナリト思考ス

   ○横四特
   第一期
   (1)補給隊ヲ附スル場合
      補給隊ヲシテ銃隊ニ劣ラザル機動性ヲ与フルハ最緊要事ナリ然シテ補給隊ノ機動性ヲ最モ阻害スルモノハ糧食及
     予備弾薬運搬ノ人夫ナリ故ニ人夫ノ減少及携行法ノ改善ヲ図ルヲ要ス
   (2)其ノ他
      (イ)味噌、野菜等ノ乾燥セルモノヲ利用スルヲ可トス
      (ロ)飛行機ニ依ル補給ハ応急ノ場合トシテ最有効ナルモノトシテ認ム
   第二期
   (1)現地徴発
      元門峒、黎界十字路方面ハ籾、野菜ノ徴発容易ナリ
      但シ精米器具は杵臼ノ外求メ得ザルヲ以テ精米ニ相当ノ時間ト労力トヲ要ス
   (2)人夫体力ニ関シ
      討伐隊ニ補給隊ヲ附シ多数ノ人夫ヲ使用スル際人夫ノ体力ハ補給能力ニ至大ノ関係アリ
      普通二人ニテ約三〇瓩ノ荷ヲ負フヲ最大トスルモ山路等ニテハ便宜考慮スル要アリ又黎人ハ漢人ニ比シ一般ニ体
     力優レ山路ニ馴レ居ルヲ以テ奥地討伐ノ補給隊人夫トシテ適当ナリ特ニ対漢人ノ宣撫ヲ考慮スル時ハ黎人ノ使用ヲ
     最適ト認ム 」。
                                               佐藤正人
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1941年12月8日 8

2009年12月15日 | 海南島
 「Y五作戦戦訓所見摘録」の「二、戦法 (五)小兵力ヲ以テ擔任区域奥地ヲ確保スル方策」には、つぎのように書かれていた。

   「○十六警
   (1)討伐道路ヲ開設ス其ノ道路ハ環状トナス
   (2)道路ノ両側ハ見透シ充分ナル如ク樹木ヲ伐採ス
   (3)橋梁ハ破壊、焼却流出ノ被害ヲ小ナラシムルタメ少クトモ橋脚ハ「コンクリート」トス
   (4)電話線モ環状式トス
   (5)兵力ヲ置クベキ建築物ハ「トーチカ」式トシ少クトモ一日間位ハ敵ノ攻撃ニ堪ユル如クス
   (6)付近ノ民衆ヲ獲得スルタメ充分ノ宣撫ヲ行フ

   ○十五警
   (1)極力防御陣地ノ強化ヲ図リ特ニ堅固ナル「トーチカ」陣地ヲ構築スルハ絶体必要ナリ
   (2)今回ノ経験ニ鑑ミ被襲撃ニ際シ敵ノ火力止ミタルヲ制圧セシト誤認シ小兵力ヲ以テ出撃スルハ大ニ慎重ナルヲ要
     シ伏兵、地雷等アルヲ察シ極力陣地ノ保持ニ努ムルヲ要ス
   (3)兵器ヲ完備スルト共ニ進撃部隊不在中各留守隊ニ軽機三挺ハ必要ナリ
   (4)軍用犬ハ偵察、警戒、伝令等ニ利用価値大ナリ
   (5)証明装置ヲ装備シ陣地外方ノ証明ハ有効ナリ

   ○舞一特
   駐軍地ノ陣地ヲ要塞化シ通信網ト道路網ヲ完備シ後方ニ相当ノ有力部隊駐軍セバ小兵力ヲ以テシテモ奥地ノ擔任区
  域ヲ確保スル事可能ト思ハルルモ小兵力ノミヲ以テスル奥地ノ確保ハ陣地構築竝ニ補給ニ於テ相当ノ困難アルモノト
  認ム

   ○佐八特
   (1)先ヅ現有家屋等ノ利用等ハ顧慮セズ専ラ防禦ニ至便ナル陣地ヲ有スル地ヲ選定シ防禦施設ノ完備ヲ期スルコト
     先決問題ナリ又適当ノ前進陣地ヲ構築ス
      但シ資材等ヨリシテ多少ノ困難ハ伴フモ極力右方針ニテ実施ス
   (2)道路網ヲ建設シ各派遣隊トノ交通便ナル如クシ又通信連絡ノ完備ヲ期シ道路両側ノ伐採ヲ実施ス
   (3)駐屯地附近一帯ノ見通シ悪キ個所ノ伐採実施二十米以上ノ見張台ヲ建設ス
   更に区域確保ノ為ノ民衆利用方策トシテハ
   (1)最初帰順方策トシテハ道路伐採等ノ肉体労働ヲ代価トナサシメ一定ノ労働ヲナシタル後ニ帰順ヲ許ス又進駐直後
     直チニ帰順ヲ許可スルヨリ少クトモ一ヶ月以上ヲ経テ許可スルヲ可ト認ム良民證公布ニ対シテモ同ジ
   (2)維持会等ヲ設置シ部落民ヲ引キツケ且ツ確保シ置キ敵匪潜入等ノ情報ハ速ニ報告セシム之ヲ連帯責任的ニ実施
     セシム
   (3)哨兵線内ニハ絶体ニ支那人ヲ入レザル如クシ且ツ彼等ノ交通路ヲ指定シ進行セシム
   (4)警衛隊ヲ新設教育訓練ヲ実施シ之等ヲ利用セバ相当効果アリ尚当隊ニ於テ確保スベキ価値アル地域ハ南閭、烏
     坡、楓木、嶺門一帯ノ平原ニシテ之ニ対シテハ更ニ少クトモ二ヶ中隊半以上ノ兵力ヲ要スルモノト思考ス

   ○横四特
   討伐道路ノ完成ト相俟テ情報蒐集竝ニ対住民及対敵宣伝示威行軍ヲ実施シ積極的討伐ヲ実施スルニアリ 」。

                                             佐藤正人
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1941年12月8日 7

2009年12月14日 | 海南島
 「Y五作戦戦訓所見摘録」の「二、戦法 (二)敵ヲ誘引近距離ニ於テ一挙ニ撃滅スル方策」には、つぎのように書かれていた。

  「○十六警
   確実ナル敵情ヲ得ルヲ要ス
   之カ為常ニ情報ノ蒐集ニ努メルト共ニ密偵及道案内ヲ必要トシ払暁月夜又ハ降雨等ニ乗ジ隠密裡ニ接敵急襲ヲ行フコト
  アリ尚敵ハ我カ攻撃ニヨリ潰走スルモ再ビ其ノ兵舎ニ帰投スルヲ常トスルヲ以テ討伐隊ハ引キ揚ゲタル如ク見セカケ要所
  ニ包囲的ニ潜伏シ敵ノ帰還ヲ待チ充分ニ引キツケ一挙ニ撃滅スルヲ要ス此ノ方策モ度々用フレバ敵ニ察知セラルルヲ以テ
  状況ニ応シ採用スルヲ可トス
   何レノ場合ニアリテモ一方面ノ部隊ノ過早ノ射撃開始ニヨリ敵ヲ逸スルコトアルヲ以テ軽便無線電話器等ニテ連絡ヲ計リ
  包囲隊指揮官ノ命ニヨリ喇叭等ニヨリ最初ノ一回ハ一斉射撃的ニ射撃開始ヲ行フヲ可トス
  
   ○十五警
   (1)潜伏的行動ヲ行ヒ小部隊ヲ先遣之ト交戦セシメ主力ハ奇襲的ニ敵ノ側背ヨリ攻撃セバ大ナル戦果ヲ挙グルモノト
     認ム、但シ此ノ場合先遣部隊ニ対スル危険ヲ伴フヲ以テ充分ノ注意ト救援手段ヲ考慮シ置クヲ要ス
   (2)敵ノ逃避ハ巧妙ニシテ迅速ナル為敵ノ動揺ヲ察知セバ一挙ニ突入追撃ヲ必要トス

   ○舞一特
   (1)積極性ニ乏シキ敵ヲ誘引スル事ハ極メテ困難ナルヲ以テ先ヅ前項ノ如キ方法ニヨリ敵ニ対シ完全ナル包囲陣ヲ制リ
     タル後正面(敵ノ概ネ予想セル方面)ニ小兵力ヲ出シ之ヲ誘引シ大兵力ヲ以テ各部ヨリ一挙ニ撃滅スル方策ニ依ルヲ
     可トス
   (2)毒瓦斯(発煙剤、催涙剤、「クシヤミ」瓦斯ニテモ可)ヲ密林ニ使用セバ充分敵ヲ誘引シ近距離ニテ一挙ニ撃滅スル
     事ヲ得ルモノト認ム
   (3)連日道路作業中ノ支那人夫被襲撃等ノ場合予メ大迂回ヲ為シ敵ノ退路ヲ断チタル後支那人夫ヲ若干前進セシメ之ニ
     当ル敵ヲ急襲スルモ一法ナリ此際出来得レバ機銃陣地ヲ秘シ充分引キ附ケタル後一據ニ銃火ノ威力ヲ発揮セバ相
     当ノ効果ヲ収メ得ルモノト認ム
   (4)橋梁ニ夜間灯火ヲ残シ或ハ渓間ニ敵ノ利用シ易キ茅屋ヲ置キ潜行部隊ヲ以テ之カ監視ニ当ラシメ敵ノ之ニ引掛ル者
     アラバ一挙ニ夜襲殲滅スルヲ良策ト認ム
      此際要スレバ三日分位ノ糧食ヲ携行野宿シ敵ノ来ル迄待ツノ覚悟アルヲ要ス
   (5)兵力ヲ極力隠蔽接敵シ一部兵力ヲ発見セラレ射撃ヲ受クルモ応戦セズ死角ヲ利用シ極メテ近距離ニ接近シ敵ノ出
     デ来ルヲ一挙ニ撃滅ス

   ○佐八特
   現在迄ノ経験ヨリシテ海南島敵匪ヲ誘引スルコトハ極メテ至難不可能ナリ

   ○横四特
   当隊警備区域内敵匪ハ我ニ対シ戦意ナク又大部隊合同シ行動駐屯スルコト稀ナルヲ以テ誘引戦法ニ対スル具体策
  ナシ 」。
                                               佐藤正人
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1941年12月8日 6

2009年12月13日 | 海南島
  「Y五作戦戦訓所見摘録」の「二、戦法 (一)敵ヲ確実ニ捕捉近距離ニ於テ包囲スル方策」には、つぎのように書かれていた。

  「○十五警
   当隊警備地区ノ敵ハ殆ド共匪ニシテ集結スル事少ナク武器ハ分散隠匿セルモノノ如シ、襲撃ヲ企図スル場合ハ直
  チニ集結其ノ行動敏速ナリ
   皇軍進駐地ヲ撤退スレバ道路橋梁ヲ破壊シ又戦車壕、障害物等閉鎖手投ヲ採リ捕捉困難ナリ
   (1)平素訓練セル密偵(便衣着用)ヲ使用シ情報蒐集ニ努メ敵ノ動静ニ着目スルノヲ第一義トスルモ情報取得時ハ
     概ネ他ニ行動シ且ツ見張ヲ高地ノ展望良キ逃走ニ便ナル地点ニ配シ其ノ行動敏速ナル現状ナリ
      故ニ夜間雨天等ニ隠密ニ包囲スルヲ良策トスルモ地形ノ関係ト協同困難ニシテ往々錯誤ヲ生ジ易シ
      故ニ敵情ノ探知ニ務ムルト共ニ徹底的ニ討伐ヲ実施シ包囲スルヲ要ス
   (2)敵発見時濫射ヲ避ケ至近距離ニテ一斉発射ヲ行ヒ奇襲スルハ有効ナリ
   (3)広範囲ニ敵ヲ包囲シ敗走ヲ予想サルル方面ニ大部隊ヲ配シ敵ノ退路ヲ遮断シ撃滅スル如ク心掛クルヲ要ス

   ○舞一特
   (1)確実ナル情報ノ入手ニ務ム
      密偵ノ活用宣撫部落民ノ利用
      今次作戦ニ於テハ奥地敵地ヨリ米穀ヲ搬入スル土民ノ利用等ニ依リ相当ノ信頼性アル情報ヲ得タルモ実力ヲ
     以テ敵状偵察スルコト最良ノ方法ナリ
   (2)敵駐屯地附近ノ地形ハ指揮官ハ勿論部下列兵ニ至ル迄充分了解シアルヲ要ス
      之ガ為ニハ部隊ハ屡々偵察兼討伐ヲ繰返ス事
   (3)平素ノ訓練ニテ包囲攻撃法ヲ演練シ置クベキ事
   (4)戦機ヲ捕へ敵情ヲ得バ機ヲ逸セズヨク天象、地象ヲ利用シ敵ニ我カ軍ノ行動ヲ厳秘シ迅速隠密裡ニ包囲隊形ヲ
     制ル事
   (5)攻撃目標ノ区分攻撃開始時期味方識別等ヲ定メ各隊ノ連繋ヲ密ニシ一斉ニ急襲攻撃ヲ開始スルヲ要ス
   (6)敵見張ハ相当遠距離ノ高所ニ配置シアルヲ以テ行動開始前予メ之ヲ包囲捕捉 又ハ殲滅シ置クヲ要ス
   (7)遊撃隊共匪ハ皇軍ノ服装特ニ銃隊ヲ見レバ逃走スルヲ以テ之ガ捕捉ノ一手段トシテ前方ニ便衣ノ拳銃隊、中間
     ニ便衣ノ自動火器(須式拳銃、軽機)、後方ニ有力ナル銃隊ヲ配置シ良結果ヲ得タルコトアリ

   ○横四特
   第一期
   (1)出来得ル限リ情報蒐集敵情探知ニ務ム
      奥地進撃中ハ特ニ通過地部落民或ハ道路上遭遇者(旅行者)等ヨリ極力附近情報探知ニ努メ航空機ノ協力ヲ
     求メテ各種状況ヲ確実ナラシムルノ手段ヲ講ズ
   (2)隠密裡ノ接近包囲
      天象、気象ヲ利用シ或ハ山中森林地ヲ迂回スル等極力我カ行動ヲ秘匿シ出来得レバ敵背面ニ一部隊ヲ迂回
     潜伏セシメ近距離ニ接近包囲ノ実ヲ挙グル如クス
   第二期
     敵ヲ確実ニ捕捉近距離ニ於テ包囲スル方策
     白沙峒及黎界十字路方面ノ敵ハ概ネ前方ニ河川ヲ控へ後方ハ開濶地又ハ山地ニシテ逃走ニ便ナル箇所ニ駐屯
    スルコト多シ特ニ敵陣地ハ河川ノ水深最モ大ナル測ヲ控ヘタル所ニ設クルヲ常トス…… 」。

                                             佐藤正人
 
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1941年12月8日 5

2009年12月12日 | 海南島
 海南警備府が1942年2月25日に出した「Y五作戦戦訓所見摘録」(「海南警備府機密第四〇号ノ三九」)の「Y五作戦主要研究項目」は、つぎのような8項目であった。
    「一、編成竝ニ準備資材
        (一)奥地山嶽戦ニ於ケル陸戦隊ノ適当ナル編成装備竝ニ準備資材
        (二)討伐部隊ニ随行スル設営隊ノ適当ナル編成竝準備資材
        (三)対敵宣伝上必要ナル資材竝ニ宣伝隊ノ適当ナル編成
     二、戦法
        (一)敵ヲ確実ニ捕捉近距離ニ於テ包囲スル方策
        (二)敵ヲ誘引近距離ニ於テ一挙ニ撃滅スル方策
        (三)対「ゲリラ」戦戦法特に「トラック」被襲撃対策
        (四)応急渡河法及適当ナル応急渡河資材
        (五)小兵力ヲ以テ擔任区域奥地ヲ確保スル方策
        (六)海南島敵匪ニ対スル戦車、火砲、自転車、騎馬隊ノ有効ナル使用法
     三、奥地敵中補給対策
     四、迅速確実ナル通信連絡法
     五、徹底的「マラリヤ」予防対策
     六、敵投降帰順勧誘方策
     七、道路建設ニ住民ヲ有効ニ協力セシムル方策
     八、奥地事情調査 」。

 日本海軍は、1939年11月に海南島根拠地隊を編成して海南島を軍事支配しようとしていたが、1940年4月に海南島根拠地隊を海南警備府に改編した。そのとき日本海軍は、海南島全域を、第15警備隊、第16警備隊、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の5部隊に分割軍事支配させようとした。第15警備隊と第16警備隊は、呉鎮守府に所属する陸戦隊で形成されていた。日本海軍が鎮守府を置いていたのは横須賀、呉、佐世保、舞鶴の4か所であり、すべての日本海軍鎮守府の陸戦隊が、海南島で侵略犯罪をつづけていた。第15警備隊の司令部は海口に、第16警備隊の司令部は三亜に、佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の司令部は嘉積(現、瓊海)に、舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊の司令部は那大(現、儋州)に、横須賀鎮守府第四特別陸戦隊の司令部は北黎におかれていた。各司令部の管轄下に総数200個以上の守備隊が海南島各地に常駐していた。

  「Y五作戦戦訓所見摘録」には、「十六警」(第16警備隊)、「十五警」(第15警備隊)、「舞一特」(舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊)、「佐八特」(佐世保鎮守府第8特別陸戦隊)、「横四特」(横須賀鎮守府第4特別陸戦隊)の5部隊それぞれにかんする「Y五作戦戦訓所見」が個別に書かれている。
                                           佐藤正人
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1941年12月8日 4 

2009年12月11日 | 海南島
 1941年12月X日に海南警備府司令部が出した「南方作戦開始ニ際シ参謀長口述覚」(「海南警備府機密第三〇号ノ二一七」)には、つぎのように書かれていた。
     「Y五作戦ハ元来現在ノ時局ヲ見透シ案畫セルラレタル作戦即南方作戦基地タル海南島ノ後方治安ヲ速ニ確立
    スルガ為実施サレタル作戦ナルヲ以テ南方作戦開始セラレタル場合ト雖モ各隊ニ於テハ益々本作戦ヲ活潑果敢
    ニ実施シ新作戦必勝ノ信念ノ下ニ一意所期ノ本作戦目的達成ニ邁進サレ度」。
 この文書の実際の筆者は明らかでないが、この時の海南警備府参謀長は、宇垣完爾(前呉鎮守府参謀長)であった。

 海南警備府『海南警備府戦時日誌』(1942年1月1日~1月31日)の冒頭部には、つぎのように書かれていた。
     「緒戦三旬ニシテ早クモ大東亜戦争ハ不敗ノ戦略的態勢ヲ完整シ南方諸域ニ於ケル友軍ノ戦果拡充ニ伴ヒ本島
    ハ其ノ中継基地竝ニ戦要資源供給源トシテ繁忙且重要ナル使命ヲ擔当スル事トナレリ
      島内ニ於テハY五作戦着々ト進捗中ニシテ保安団游撃隊共産軍等最後ノ足掻ヲ見セツツアリ」、
     「敵ハ屡々積極的ナル反撃ニ出デ我方ノ損害亦従来ノ各作戦ニ比シ尠カラザルモノアリタリ」、
     「兵器、人員共ニ相等量雷州半島ヨリ搬入セラレタルモノノ如シ」、
     「敵ノ配備ハ王毅以下李春濃ヲ幹部トスル保安団約二千有余ハ新興市、西昌市方面山中ニ分配シツツ甲子市
    方面ニ随時移動我ノ連日的討伐ヲ専ラ退避シツツアリ共産軍ハ馮白駒ヲ中心ニ依然トシテソノ主力ハ樹徳頭
    以北ニ分散ソノ勢力約千余我軍ノY五作戦実施中ハ只管ソノ鋭峰ヲ避ケ北東部海岸近ク移動潜伏シアリシモ
    ノノ如シ」。
     「Y五作戦ハ二十五日ヲ以テ結了大ナル成果ヲ収メタリ
      作戦終了後ハ左ノ指導方針ヲ明示各隊ノ作戦ヲ指導ス
       (1)占領地域ノ粛正強化
           (イ)海岸密輸地帯ノ封鎖強化 
           (ロ)占拠地域内ノ道路網整備
       (2)未占領地域ニ対スル圧迫強化
           (イ)航空部隊ニ依ル奥地敵策源地竝雷州半島密輸戎克策源地ノ攻撃
           (ロ)対敵道路網ノ整備
           (ハ)連続討伐ノ励行」。
                                            佐藤正人
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1941年12月8日 3

2009年12月10日 | 海南島
 日本政府・日本軍がコタバル奇襲上陸を立案したのがいつなのかははきりしないが、天皇ヒロヒトらが合同会議で対アメリカ合州国・イギリス・オランダ戦争の開戦時を12月上旬に設定した1941年11月5日以前だろう。 
 海南島は、1941年12月8日にコタバルに奇襲上陸した日本陸軍部隊の「出撃基地」であった。
 海南島に侵入していた日本海軍は、1941年11月25日から1942年1月25日まで「Y5作戦」をおこなったが、それは、対アメリカ合州国・イギリス・オランダ戦争開戦前後期に日本の東南アジア・太平洋侵略の基地としての海南島の治安を強化するためであった。
 海南警備府『海南警備府戦時日誌』(1941年12月1日~12月31日)の冒頭部には、つぎのように書かれている。
   「日米交渉ハ十二月八日ヲ以テ大東亜戦争ニ発展各方面ノ我軍ハ緒戦ニシテ早クモ赫々タル戦果ヲ収メツツアリ、当隊モ開戦後機ヲ失セズ敵船舶ノ拿捕ニ成功スルト共ニ陸軍部隊ト協力在島敵権益ヲ盡ク接収セリ一方我方ハ早クモ西太平洋方面ノ敵主力一掃ニ成功セシタメ本島ハ残存敵潜襲撃ノミヲ受クルニ止マレリ」、
   「島内Y五作戦ハ予期ノ如ク進捗奥地敵拠点ヲ着々ト占領確保シツツ敵糧道断絶ノ意図ノ下ニ効果的ニ籾押収ヲ実施、道路網ノ拡大ト相俟ツテ各隊益々士気旺盛作戦目的完遂ニ邁進シツツアリ開戦ヲ期シテ急速整備ニ鋭意努力中ナリシ本島竝ニ仏印ノ諸軍事施設ハ上旬殆ンド完成シ更ニ作戦ノ進捗ト共ニ本府建設部隊モ共ニ進駐仏印馬来ノ軍事基地設営竝ニ補給整備ニ任ジツツアリ」。
                                           佐藤正人
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