■10年以上まえのあの日
1997年11月16日、前日の李基允氏と相度氏の追悼集会を終え、紀州鉱山の「現地調査」のあと、帰途についた。新宮、本宮をへて、中辺路を通る道。野中の村の細い道路際に、ちいさなトンネルを見た。
あのころは、川に沿い、山のふもとを廻り、谷をすすみ、山あいの村の中を通る細い道だったが、その数年後に中辺路を通る道に新しいトンネルが完成し、道路は広げられ、野中の村の中を通らなくなった。
それまでは、この野中の清水のトンネルは、いつも熊野に行くときに見て気になっていたが、行くときは立ち止まる時間がなく、帰りは遅くなり暗くなるので、また止まる時間がなかった。
10年以上まえのあの日は、紀和町和気の本龍寺で朝鮮人の遺骨にはじめて出会ったあと、帰途につき、野中にはまだ明るいうちに着いた。
清水のトンネルの入り口は、道からわずかにはいったところにある。道の際とトンネル入り口のあいだに、女性と子どもたちが何人かいた。
トンネルのことをたずねた。年配の女性が、
「朝鮮のひとがつくった。トンネルの向こうで炭を焼いていて、その炭を出すためのトンネルだった。
朝鮮人たちは、村はずれに住まいをつくって住んだ。野菜なんか、買いにきた」
と話した。
■朝鮮人の足跡をたずねて
わたしは、70年代末から十数年あまり、和歌山地域の朝鮮人の足跡をたずねて、各地に行った。
紀伊半島は平野が少なく、海岸線のおおくは近くに山が迫っている。紀伊半島西部の和歌山の各地で、林道開削・改修工事や山間のトンネル工事を朝鮮人がしたと聞いた。
「八・一四」以前も以後もである。
紀勢線工事も、ほとんどの線で、朝鮮人が、初期の線路を敷く道を切り開く工事やトンネル開削工事をおこなった。事故を報道する新聞記事によって、それらの工事に朝鮮人が働いていたことがわかる。
朝鮮人の労働の跡をたずねながら、新聞記事に記された名前を見ながら、この工事をした朝鮮人は、その後どこにいったのだろうか? どうしてこの山奥にまで工事に来たのだろうか? 朝鮮からいつ日本にきたのだろうか? 朝鮮にもどったのだろうか? いまも日本に住んでいるのだろうか? と、考えていた。
キム チョンミ
1997年11月16日、前日の李基允氏と相度氏の追悼集会を終え、紀州鉱山の「現地調査」のあと、帰途についた。新宮、本宮をへて、中辺路を通る道。野中の村の細い道路際に、ちいさなトンネルを見た。
あのころは、川に沿い、山のふもとを廻り、谷をすすみ、山あいの村の中を通る細い道だったが、その数年後に中辺路を通る道に新しいトンネルが完成し、道路は広げられ、野中の村の中を通らなくなった。
それまでは、この野中の清水のトンネルは、いつも熊野に行くときに見て気になっていたが、行くときは立ち止まる時間がなく、帰りは遅くなり暗くなるので、また止まる時間がなかった。
10年以上まえのあの日は、紀和町和気の本龍寺で朝鮮人の遺骨にはじめて出会ったあと、帰途につき、野中にはまだ明るいうちに着いた。
清水のトンネルの入り口は、道からわずかにはいったところにある。道の際とトンネル入り口のあいだに、女性と子どもたちが何人かいた。
トンネルのことをたずねた。年配の女性が、
「朝鮮のひとがつくった。トンネルの向こうで炭を焼いていて、その炭を出すためのトンネルだった。
朝鮮人たちは、村はずれに住まいをつくって住んだ。野菜なんか、買いにきた」
と話した。
■朝鮮人の足跡をたずねて
わたしは、70年代末から十数年あまり、和歌山地域の朝鮮人の足跡をたずねて、各地に行った。
紀伊半島は平野が少なく、海岸線のおおくは近くに山が迫っている。紀伊半島西部の和歌山の各地で、林道開削・改修工事や山間のトンネル工事を朝鮮人がしたと聞いた。
「八・一四」以前も以後もである。
紀勢線工事も、ほとんどの線で、朝鮮人が、初期の線路を敷く道を切り開く工事やトンネル開削工事をおこなった。事故を報道する新聞記事によって、それらの工事に朝鮮人が働いていたことがわかる。
朝鮮人の労働の跡をたずねながら、新聞記事に記された名前を見ながら、この工事をした朝鮮人は、その後どこにいったのだろうか? どうしてこの山奥にまで工事に来たのだろうか? 朝鮮からいつ日本にきたのだろうか? 朝鮮にもどったのだろうか? いまも日本に住んでいるのだろうか? と、考えていた。
キム チョンミ