三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

野中の清水のトンネル 1

2009年10月31日 | 個人史・地域史・世界史
■10年以上まえのあの日
 1997年11月16日、前日の李基允氏と相度氏の追悼集会を終え、紀州鉱山の「現地調査」のあと、帰途についた。新宮、本宮をへて、中辺路を通る道。野中の村の細い道路際に、ちいさなトンネルを見た。
 あのころは、川に沿い、山のふもとを廻り、谷をすすみ、山あいの村の中を通る細い道だったが、その数年後に中辺路を通る道に新しいトンネルが完成し、道路は広げられ、野中の村の中を通らなくなった。
 それまでは、この野中の清水のトンネルは、いつも熊野に行くときに見て気になっていたが、行くときは立ち止まる時間がなく、帰りは遅くなり暗くなるので、また止まる時間がなかった。
 10年以上まえのあの日は、紀和町和気の本龍寺で朝鮮人の遺骨にはじめて出会ったあと、帰途につき、野中にはまだ明るいうちに着いた。
 清水のトンネルの入り口は、道からわずかにはいったところにある。道の際とトンネル入り口のあいだに、女性と子どもたちが何人かいた。
 トンネルのことをたずねた。年配の女性が、
   「朝鮮のひとがつくった。トンネルの向こうで炭を焼いていて、その炭を出すためのトンネルだった。
   朝鮮人たちは、村はずれに住まいをつくって住んだ。野菜なんか、買いにきた」
と話した。

■朝鮮人の足跡をたずねて
 わたしは、70年代末から十数年あまり、和歌山地域の朝鮮人の足跡をたずねて、各地に行った。
 紀伊半島は平野が少なく、海岸線のおおくは近くに山が迫っている。紀伊半島西部の和歌山の各地で、林道開削・改修工事や山間のトンネル工事を朝鮮人がしたと聞いた。
 「八・一四」以前も以後もである。
 紀勢線工事も、ほとんどの線で、朝鮮人が、初期の線路を敷く道を切り開く工事やトンネル開削工事をおこなった。事故を報道する新聞記事によって、それらの工事に朝鮮人が働いていたことがわかる。
 朝鮮人の労働の跡をたずねながら、新聞記事に記された名前を見ながら、この工事をした朝鮮人は、その後どこにいったのだろうか? どうしてこの山奥にまで工事に来たのだろうか? 朝鮮からいつ日本にきたのだろうか? 朝鮮にもどったのだろうか? いまも日本に住んでいるのだろうか? と、考えていた。
                                     キム チョンミ
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熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」について 3

2009年10月30日 | 紀州鉱山
■「戦争遺跡」
 1998年2月に発行された三重県歴史教育者協議会編『三重の戦争遺跡』(つむぎ出版)には、「紀州鉱山に残る戦争遺跡」として「英兵捕虜墓地」が挙げられ、「1944年6月に紀州鉱山に連行された300人のイギリス兵のうち、敗戦までに死亡した16人の墓地が、当時の収容所付近に作られています」と書かれている。
 2002年6月に発行された十菱駿武・菊地実編『しらべる戦争遺跡の事典』(柏書房)には、「指定文化財・登録文化財となった戦争遺跡」のうち市指定のものは20件、町指定のものは18件であると書かれており、町指定のものとして、「三重県紀和町外人墓地(紀州鉱山労働英国人捕虜墓地)」や「沖縄県南風原町南風原陸軍病院壕」が挙げられている。
 同書で菊地実氏は、「戦争遺跡とは、近代以降の日本の国内、対外(侵略)戦争とその遂行過程で形成された遺跡である」と述べているが、「戦争遺跡」概念は、いまだ明確に規定されていない。

■「16名は……墓標の下に眠っている」?
 紀和町がその「墓地」を文化財に指定したのは、1965年2月1日であった。そのときすでに、そこには、イギリス兵の遺骨は埋められていなかった。
 しかし、紀和町が1993年3月に発行した『紀和町史』下巻には、「英国人16名の霊が眠る墓地(所山)」という説明がつけられた写真が掲載されており、
   「16名は、異郷で故郷の空を慕いながら寂しく病没した。現在所山の英国兵墓地に葬られ十字架の墓標の下に眠っている」
と書かれている。
 この記述では、頭部骨折や頭蓋骨骨折で死亡した人がいた事実を隠しつつ、「所山の英国兵墓地」に病没したイギリス兵が埋められているとしている。

■「個人で作ったもの」?
 現在、「英国人墓地」には、「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題する碑が建てられている。その碑文の日付は1987年6月であり、紀和町教育委員会が署名している。
 2009年10月16日付け回答で、熊野市は、
   「現在の英国人墓地は1981年頃に、紀和町の住民の方が個人で作ったもの」、
   「現在の英国人墓地は、1981年頃に紀和町の住民の方が個人で移設した史跡」
と述べている。
 しかし、われわれの調査では、現在熊野市が指定文化財としている「英国人墓地」は、久保幸一氏が紀和町教育長だった1987年に現在地に移されたものである。
 いま、熊野市は、「1981年頃」に「個人で作ったもの」、「個人で移設した史跡」を市の指定文化財としていると言明しているが、「史跡 外人墓地 紀和町指定文化財」と題する碑の裏面には、「協賛者 石原産業、紀州砕石、奥建設奥岩太(ママ)、和文書吉井淳、英文書大川寿子」と書かれている。

■誰が「英国人墓地」に埋められているのか
 2009年10月16日付け回答で、熊野市は、はじめて、「英国人墓地」に、イギリス兵の遺骨が埋葬されていないと述べた。
 熊野市・熊野市教育委員会は、1926年1月に熊野市(当時は木本町)で在郷軍人らが朝鮮人労働者を虐殺したことを「誠に素朴な愛町心の発露であった」とする『熊野市史』をいまなお書きかえようとしていない。
 「英国人墓地」にかかわる社会的・文化的諸問題は、日本の一地域だけの問題ではない。

                                     佐藤正人
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2009年10月29日 | 「朝鮮報国隊」
 在海口日本総領事館警察署が『治安月報』(1942年4月分)に「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山」と書いている「田独鉄山」は石原産業が、「石碌鉄山」は日本窒素が「経営」していました。
 石原産業の経営者だった石原廣一郎は、日本軍が海南島に奇襲上陸してから2か月後の4月に、日本海軍の部隊に護衛され、海南島の田独村などを回りました。
 石原は、1939年4月1945年12月末から1948年12月末までA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘禁されていましたが、そのころ書いたと思われる「回顧録」の「海南島資源調査」と題する部分でつぎのように言っています。
   「海口に新たに台湾銀行支店が昨日開設せられたので、ここに立寄った。
   ……昨日開店したばかりであるが昨日一日中に預金が三、四万円あった。
   その預金者は慰安婦のみであるという話を聞いた時、当地占領後わずか二ヵ月に過ぎないが早くも慰安婦が来て、かくも稼いだかと思うとまた変な感じがする。
   帰りに街を注意して見ると、各所に慰安所という看板が上がっていることに気付く。
   慰安婦は……日本人、朝鮮人、台湾人などであって……」、
   「文嶺は……戦闘のあとで所々人家は破壊され町人はほとんど退散して空家となり……。
   討伐に出掛けると、どこからか兵隊が豚や鶏を徴発してくるのが兵隊の唯一の楽しみであった。
   文嶺を中心として鉄鉱、石炭、鉛、亜鉛などの調査をしたが……」、
   「田独鉄山と楡林港。
   鉄鉱の小塊が各所に点在している。いずれの石をとっても皆立派な赤鉄鉱であった。
   山頂付近に行くと一丈数尺もある大岩石状の鉄鉱露頭あって、実に見事なものであった。
   楡林は……湾内はかなり広くして……。
   田独鉄山はわずか六、七「キロ」の所にこの良港を持っていることは、経営上いかに好条件であるか」、
   「石碌山の銅鉱は相当なものでないかと予想されるが、いまだ皇軍の占領地域にあらざるのみかこの地を手に入れるまでには相当日数を要すべく、今回調査できざるは残念である。……上空から飛行機調査をすることとし……。
   石碌山一帯を一日も早く討伐して頂きたいものであると述べたるに、太田司令官御尤もな御意見である、その方針で作戦をやりますと答えられた。
   これに基づき討伐を進められ、四、五ヵ月の後に石碌山の調査ができるようになって調査した結果、石碌は銅鉱にあらずして鉄鉱であったがその鉱量は数億屯を埋蔵する一大鉄山であることが発表され……」。

 石原産業は、1940年7月から田独鉱山の鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめました。 
 田独鉱山での採鉱と、鉱石を積み出す楡林港までの鉄道建設のために、海南島の人たちだけでなく、上海、広州、厦門、汕頭などの中国本土と香港、台湾、朝鮮から連行された人びとが酷使されました。病気や栄養失調や強制労働や暴行によって毎日のように労働者が死に、遺体は鉱山の近くで石油をかけて焼かれたといいます。
 田独鉱山の犠牲者が埋められた場所には、1948 年4月に海南鉄礦田独礦区の労働者が「日冦時期受迫害死亡工友紀念碑」を、2002年に海南省人民政府と三亜市人民政府が「田独万人坑死難砿工紀念碑」を建立しました。「田独万人坑死難砿工紀念碑」の碑文には、「朝鮮、印度、台湾、香港、および海南省各市県から連行されてきた労働者がここで虐待され労働させられて死んだ」と書かれています。
                                     佐藤正人
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2009年10月28日 | 「朝鮮報国隊」
 在海口日本総領事館警察署の『治安月報』(1942年4月分)に、
   「戦時資源として万難を排し開発中の田独石碌両鉄山は労力不足の為島内に於て半ば強制的に人夫の狩り集めを為し就役せしめつヽありたるが最近人夫の逃出者続出し石碌の如きは地元人夫四千名中五百名を残し他は殆んど逃亡し田独に於ても五百名の逃亡ありたるが……共産党側の煽動ありしものと見るを至当とし……」
と書かれています。
 また、日本海軍海南警備府の1942年11月付け『石碌鉄山開発状況調査書』には、
   「開発開始以来十一月始迄に死亡せる者職員三十一名人夫実に四〇七六名を算するの惨状を呈し……」
と書かれています。
 日本海軍と朝鮮総督府が、朝鮮各地の刑務所から朝鮮人獄中者を海南島で強制労働させる策動を開始したのは、1942年末でした。
 翌1943年3月末、「第1次南方派遣報国隊」が「京城刑務所」から「南方」(海南島)に出発しました。
 1943年4月12日付けで内務大臣湯澤三千男が内閣総理大臣東條英機に提出した「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件」(内務省発管第72号)には、
   「海南島労務需給ノ現状ニ鑑ミ朝鮮総督府受刑者約二千名ヲ同島ニ出役セシメ不足労務ヲ充足スル為第二予備金支出ニ依リ別紙ノ通増員ノ必要ヲ認ム
   右閣議ヲ請フ」
と書かれています(原文は「元号」使用)。この文書には、1943年4月19日付けの法制局の「本件ニ係ル増員ハ支障無之」という付箋がつけられています。
 「朝鮮総督府受刑者海南島出役」にかかわって日本政府の閣議決定がなされていました。
                                     佐藤正人
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2009年10月27日 | 「朝鮮報国隊」
 「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行された人たちの一部は、旧日本海軍の三亜飛行場建設現場で働かされました。そのことを、わたしたちは、海南島三亜や韓国で聞くことができた証言によって確認しました。
 三亜飛行場では、1943年10月1日に、三亜海軍航空隊と第254海軍航空隊が「開隊」しましたが、三亜海軍航空隊は1944年5月1日に「解隊」し、その前後から、第254海軍航空隊は、北方の山地に疎開しはじめました。
 第254海軍航空隊の通信兵だった田川定男氏は、その疎開先の地名を、自著『激流に生きる』(文芸社、2000年10月)に‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’と書いており、2005年4月に、わたしたちにもそう話しました。
 その後、わたしたちは、海南島三亜周辺の‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’と思われる地域になんども行って探しましたが、行きつくことができませんでした。
 2008年4月に、わたしたちは、‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’の近くと思われる三亜市郊外の林家村(三亜市鳳凰鎮妙林管区林家村)を3度訪ねました(林家村での聞きとりの一部を、このブログで、2008年6月2日~4日とに報告しています)。
 このとき林家村で、邢師全さん(1925年生)とその弟の邢師光さん(1928年生)から話を聞かせてもらうことができました。「朝鮮報国隊」についての邢師全さんの証言の概要はつぎのとおりでした。

   飛行場の工事で働かされているとき、朝鮮人を見た。300人くらいいた。
   荔枝溝でも見た。
   朝鮮人は、草でつくった帽子をかぶっていた。
   青い服を着ていた。腰を帯でしばっていたが、その帯の色も青かった。ズボンも青色だった。
   背中に、朝鮮報国隊と書いた白い布が縫い付けてあった。
   それで、朝鮮人だとわかった。
   休憩がおわったとき日本人が笛をならして、すぐに集まらないと、殴り殺した。
   朝鮮人には自由がなかった。
   腹が痛いので働けないといっている朝鮮人を、日本兵が刺し殺したのを見たことがある。
   日本兵は、仕事が遅いとか、歩き方がのろいといって、働いている人たちを、いつも殴っていた。

 邢師光さんは、
   「朝鮮人を飛行場で見たことがある。朝鮮人は、飛行機を入れるところ(掩体壕? 格納庫?)をつくっていた。
   着ていた服の色は青かった。麦わら帽子をかぶっていた」
と話しました。

 わたしたちは、海南島で、初対面の人に、朝鮮人にかんする証言を聞かせてもらうときに、自分のほうからは「朝鮮報国隊」という言葉をすぐには発しないことにしています。
 このときもそうでした。
 邢師全さんは、「朝鮮報国隊」という言葉を覚えていました。「朝鮮報国隊」という文字が服に書いてあったと話すとき、邢師全さんは軽く左手を右肩に置きました。
                                     佐藤正人
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2009年10月26日 | 「朝鮮報国隊」
 日本支配下の朝鮮各地の刑務所から「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行された朝鮮人は、田独鉱山・石碌鉱山での採掘、三亜飛行場・陵水飛行場・英州飛行場の建設、石碌~八所間の鉄道建設、八所港湾建設、三亜~楡林間の道路建設、感恩の鉄橋建設、新村の特攻艇格納洞窟開削、「朝鮮村」(当時は南丁)・中村・南林での軍用洞窟開削などをさせられました。
 「朝鮮報国隊」の隊員として海南島に連行された朝鮮人ひとりひとりの軌跡どころか、その名前すらほとんど明らかになっていませんが、わたしたちは、金慶俊さん(1915年10月生)の「戸籍簿」を、甥の金忠孝さんから2005年に見せてもらうことができました。金忠孝さんは、太平洋戦争被害者補償推進委員会の会員です。
 金慶俊氏さんの「戸籍簿」には、日本語で、
   「1943年拾壱月壱日午后拾壱時参拾分南支那海南島白沙縣石碌朝鮮報国隊隊員病舎ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡邊豊届出同年拾弐月弐拾四日受付」
と書かれてありました(原文は、日本「元号」使用)。
 金慶俊さんは、「朝鮮報国隊」に入れられ、日本窒素が「経営」していた海南島の石碌鉱山に連行され、そこの「朝鮮報国隊隊員病舎」で、28歳の誕生日の1か月後に亡くなっていました。7か月前に妻の鳳業さんとのあいだに男の子、金忠萬さんが生まれたばかりでした。

 金忠孝さん(1936年生)は、2005年にソウルで、わたしたちにつぎのように話しました。
   「わたしは、日本海軍基地のあった慶尚南道鎮海で生まれた。
   釜山に移って小学校にはいった。学校では、朝鮮語は禁止された。
   友達と朝鮮語で話したら日本人教師になぐられた。
   学校にはいった年に、叔父の金慶俊が徴用されそうになったので逃げたが、捕まってしまった。
   叔父の姿を最後に見たのは、釜山の裁判所でだった。
   編み笠をかぶせられていた。
   わたしの父、金鉄珎は船を持っていたが、船も父も日本軍に徴用された。
   その船は、魚雷にやられて沈没し、父も死んだ。日本に殺されたのだ。
   父は二男で、叔父は三男だった。
   叔父は背が高く、がっしりした、やさしい人だった。
   捕まったとき結婚したばかりで、叔母の金鳳業は妊娠していた」。

 「朝鮮報国隊」にかんする日本政府文書・日本軍文書は、ほとんど隠されたままですが、内務省の用紙にタイプ印刷された「朝鮮総督府受刑者海南島出役実施要綱」(1943年4月?)には、
   「海南島鉄鉱開発並ニ軍事施設造成ノ為多量ノ労務ヲ要シ島内ハ固ヨリ台湾、南支等ノ労務ヲ重点的ニ配置シツツアルモ尚不足セル処朝鮮ニ於ケル刑務所収用力ハ既ニ飽和状態ニ達シ収容余力尠キ事情ニ鑑ミ朝鮮総督府受刑者ノ一部ヲ同島ニ出役セシメ労務ノ充足ニ資スルモノトス」
と書かれており、朝鮮総督府の『第八六回帝国議会説明資料』(1944年12月)には、
  「海南島出役人員ハ三亜及陵水ニ於ケル海軍施設工事ニ対シ1500名石碌ノ日窒鉄鉱採掘作業ニ500名合計2000名ニシテ克ツ万難ヲ克服シテ之又優秀ノ成績ヲ挙ケツツアリ」(法務課)
と書かれています。

 金忠孝さんは、金慶俊さんについて日本の厚生労働省に照会しました。それに対して、厚生労働省からは、子でもなく兄弟でもないので教えることができないという文書がきたそうです。
                                     佐藤正人
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2009年10月25日 | 「朝鮮報国隊」
 2007年7月17日と20日、および2008年5月24日に、わたしたちは、韓国仁川で、呂且鳳さん(1913年生)から話しを聞かせてもらうことができました。
 「第7次南方派遣朝鮮報国隊」に入れられていた呂且鳳さんの証言内容は、つぎのとおりです。
 2007年7月23日と29日にこのブログに連載した「呂且鳳(ヨチャボン)さん」を参照してください。
                                      佐藤正人


 わたしは、光州刑務所に入れられていた。
 傷害致死で、懲役3年。 出獄まで、1か月たらずになったある日、突然、看守から、朝鮮を出てどこかに働きに行けと言われた。 
 巡査と同じくらいのカネもやるという。
 わたしは、もうすぐ出獄できるのだから、知らないところに行きたくない、出所したら故郷に帰るから嫌だと断った。
 監房をでようとせず、食事を拒否して抵抗したが、ダメだった。
 逃げようもなく、行かないわけにはいかなかった。
 明日、自由の身になるというのに、今日、地獄に来ることになった。
 光州刑務所から全部で5人が、ソウルの刑務所に移された。朝鮮各地の刑務所から大勢の朝鮮人囚人が集められていた。
 1944年だったと思うが、よく覚えていない。季節は夏ではなかった。
 ソウルから釜山に連れて行かれた。 明け方日本に行くと言われ、釜山を出発して日本九州の小倉に着いて小倉刑務所にいれられた。
 そこで1泊か2泊。朝は体操させられた。どこに行くのかというと、八幡に行くという。乗る前は、それでも親切にしてくれた。
 30歳にならない若い女性たちも乗っていた。
 船底に入れられた。
 どこに行かされるのか分からなかったが、朝鮮人看守がそっと行き先は海南島だと教えてくれた。
 だが、海南島がどこにあるのか、どんなところなのかは、わからなかった。
 
 2週間ほど船に乗って、海南島に着いた。
 われわれは7次だった。第7次というのははっきり覚えている。
 宿所には別の人たちがいたようだ。食堂も、電気がきていた。ボイラーもあった。水道もあった。
 前にいた人たちがどこかにいったあと、われわれが入ったようだ。
 宿所から5メートルほど離れたところに、鉄条網が張り巡らされていた。
 門がふたつあった。門を見張っていたのは2人。だから4人で監視していた。われわれが出入りすると、閉めてしまう。
 木造の飯場で、一部屋8人ずつだった。
 毎朝5時から飛行場作りの仕事に連れて行かれた。5時になったらもどった。
 中国人の共同墓地だったところを、ならして飛行場をつくらされた。3人一組で、土を運んだ。
 暑いし、2時間しごとをしたら、汗で服がくっつく。
 スコールが1日3回来る。服を脱いで雨を浴びた。
 朝鮮人看守がいた。わたしと同じ呂という姓の人もいた。
 看守はわれわれに自分の名前を言わなかった。われわれは、看守を、「担当」とよんだ。
 われわれの名前も必要なかった。番号だった。全部番号でよばれた。誰も名前を知らない。イチバン、ニバン、サンバン。
 宿舎からは海は見えなかった。飛行場の周りになにもなかった。飛行場の近くに丘があって、ちょっと行くと、海が見えた。
 マラリア、熱病、空腹で多くの朝鮮人が死んだ。
 朝の点呼の時、弱って仕事が出来なくなった仲間は運ばれて行って、どこでどうなったのか二度と戻って来ないのも多かった。
 仕事をさせるために連れて来たのか。殺すために連れて来たのか。
 病気で働くことができなくなった人は、翌日の明け方4時半とか5時になれば、車が来て乗せられて行った。
 どこに連れて行くのかと日本兵に聞いたら、“お前が知って、どうするんだ”と言われた。どこにいったかわからない。
 海南島で忘れられないことは、ある朝、運動をして、列をつくって仕事に行った。
 食堂の下水道がつまったので、われわれは、下水道を作っていた。
 現場に行く途中に、木に火がついているのが見えた。木は古くなると中が腐って外が乾いて燃えやすくなる。
 近づいてよく見ると、木に人間が縛り付けられていた。こんなにして、座っていた。足元にはまだ火がついていた。
 油をかけて焼かれたらしく、死体の腹から腸がとび出していた。

 食べ物がなかった。
 わたしは、背はあまり大きくなかったが誰よりも体格がよく、74キロあった。
 宿舎では、日本人にものをいうのはじぶんだけだった。8人づつ寝る。200人くらい。かやをつって、4人分に8人が寝た。
 日本人に遠慮しないたちの自分は、コメを盗んで殺されそうになった。
 3人の日本兵から死ぬまで殴ると言われ、服を脱がされ、逆さまにぶら下げられて、頭も身体も情け容赦なく滅多打ちにされた。
 3人は50歳代くらい、タチの悪い極悪な日本人だった。名前は覚えていない。
 殴られているのか、どうかもわからないくらい殴られた。
 頭から血が流れた。顎が砕けるほど殴られて口がこんなにまがってしまった。そのときは、話すことができなかった。
 縛られたまま寝かされた。頭の方にドラム缶の小便桶が置かれていた。小便が流れてきて、濡れるままだった。
 動くことができなかった。
 3か月、そこで、大小便にどれほどつかっていたか。
 部屋に戻されてから仲間が水もくれて、ワカメ汁も作ってくれた。それで生きた。

 飛行場にアメリカ軍の爆弾がおちてきた。
 空襲がひどくなって、日本兵が爆弾を避けて山に行けと言うので山に逃げた。
 殴られ大怪我をしていたので、話すことも、歩くこともできなかった。あごがはずれ、顔がゆがんでいた。
 歩けないわたしを、仲間が背負ってくれた。
 そのときわれわれは、100人たらずになっていた。
 避難した所は、山の中。なにも見えない。海も見えない。
 仕事をなにもしなかった。そこでは、死んだ人はいなかった。
 食べる物が無くて非常に苦労した。
 ある日、夕食を食べたあと、解放になったと知った。
 解放を聞いた時は気分がよかった。みんな、踊りを踊った。
 わたしは殴られて身体をよく動かせず、歩くこともできなかった。
 海口から朝鮮人民会の人が来て、治療を受けた。男の人と女の人がふたり。
 あの時は、口もきけなかったが、治ってきて、少しずつ話せるようになった。
 日本兵は、われわれになにも言わずにひとりもいなくなっていた。
 近くに石油倉庫があったが、そこにいっても、いなくなっていたという。
 怖くて逃げたんだろうと思った。
 それからは、日本人を殺そうと、みんな必死に探しまわった。
 海口の朝鮮人民会から、日本人を殴ったり、殺したりするなと言ってきた。
 朝鮮人民会から、朝鮮に戻るから海口に集まれと言ってきた。
 最初わたしは、戻っても生きることができないと思って、戻らないと言った。
 人が来て、故郷に戻ったら、空気もいいし、薬もある、そんなに簡単に死にはしないから帰ろう、という。
 解放後、3~4月たってから海口から船に乗って釜山に戻った。
 月給の3ウォンは一度も貰わなかったが、最後に船を降りるとき、3ウォンもらった。
 朝鮮人看守はいっしょに戻らなかった。
 わたしは自由の身になったから、こんな話しもできる。解放になったから、みんなのおかげで生きのびた。
 解放になっていなかったら、わたしもあそこで死んだ人間だったかもしれない。
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2009年10月24日 | 「朝鮮報国隊」
 高福男さん(1917年生)は、つぎのように話しました。

   「ピョンヤンで 日本警官とけんかをして殴った。
   それで 刑務所に入ることになった。刑期は2年だった。
   服役中の1943年3月に、行き先をはっきり知らされなかったが、南方に6か月間行ってくれば刑を停止するといわれて、志願した。
   志願してから“京城刑務所”に移された。
   銃を撃つなどの訓練を受けた。銃は持たないで、まねだけした。
   南総督の演説を聞かされた。
   第2次“南方派遣朝鮮報国隊”に入れられた。
   5月ころ、“京城刑務所”を出発するとき、青い服に、“南方派遣報国隊”と書かれた白い腕章をつけた。
   そのときには、行き先が海南島だということは知っていた。
   800人が行った。
   リュックサックを背負い、戦闘帽をかぶって、脚半をつけ、”チカタビ“はいて。
   リュックサックには、1か月分の食料と塩。
   ソウル駅から汽車に乗って釜山について、夕方、関釜連絡線にのった。下関に着いて、一晩、小倉刑務所で寝た。
   小倉刑務所で訓練を受けて2日間いた。
   輸送船に乗って、魚雷を避けて、台湾の高雄、ホンコン、広州に寄った。
   3層くらいの船底にいた。救命袋をひとつづつ着けた。
   釜山から1か月くらいかって海南島の海口に着いた。
   海口からトラックに乗せられて、夜遅く感恩に着いた。
   宿所は1000平方メートルくらいで、両側に板間があって、真ん中に廊下があった。
   夜に就寝ラッパ。朝には起床ラッパ、そして点検。
   はじめ、飛行機を入れる掩体壕をつくる仕事をさせられた。土を車に入れて運んだ。
   仕事に行くのは、50~60人の部隊で、他の人たちがどこでどんな仕事をするのかは分からなかった。
   めしは少ないし、仕事はきつい。
   めしも少しずつ減って、かゆになり、辛いから逃げるものが多かった。
   仕事を早くしないといって、腕立て伏せの姿勢をさせられて、つるはしの柄で殴られた。
   こうしても死ぬ、ああしても死ぬ。
   8人で 逃げようと相談した
   長くチャンスがなかったが、ある日、次の日が祭日の晩に逃げることにした。
   逃げるとき8人がばらばらになった。
   わたしは、頼っていった台湾人の紹介で船乗りのしごとを 2~3か月していて、捕まった。
   逃げた仲間は、みんな捕まっていた。
   つるはしの柄で殴られて、気を失い、気が付くとまた殴られ、また殴られ……。
   足首に木を2本はめられ、後ろ手に縛られてぶら下げられた。
   手首がはれあがって腐ってきた。鎖が食い込んでしまった。大便もそのままし、小便もそのまま。飯もそのまま食べた
   縛られているのは何人もいたが、縛られたまま、みんな死んでしまった。
   わたしは、死なないで、そのあと宿舎の廊下につながれた。
   ある仲間が、“なぜわたしを置いて逃げたんだ。生きるのも一緒、死ぬのも一緒ではないか”と言った。
   みんなが夜しごとから戻ってくると、交代で足をもんでくれ、手をさすってくれた。
   わたしも若かったからだんだんよくなっていった。
   からだが直ったあと、死体搬送係りをやれといわれた。
   死んだ人を運んで埋めた。ふたりでやった。
   病気で死んだ人もいた。米軍飛行機の爆撃で死んだ人もいた。逃げてつかまって殴られて死んだ人もいた。
   砂浜に埋めた。3か月くらい、この仕事をした。山口という日本人看守がいた。
   その後看病夫をやらされた。
   また逃げて、台湾人の家にいたら、1か月くらいで解放だった。
   “朝鮮報国隊”の人で日本語も中国語も上手だったコバヤシが逃げていたが、解放後、中国遊撃隊の小隊の隊長となって戻ってきて、われわれを助けてくれた。
   コバヤシの本名はわからない。
   海南島から帰るとき海口で船に乗った。
   われわれだけで、220~230人。“挺身隊” の女性たちもいっしょに乗った。
   広東に寄り、そこで100人くらいの光復軍が乗った。
   “挺身隊”の女性たちが、甲板でスヂエビやマンドウを作ってくれた。
   釜山まで来たが、コレラ患者がいて、1か月間船を降りられなかった。
   ピョンヤンに戻った。アボヂは亡くなっていた。
   オモニに会ったが、すぐに一人で南に来た。オモニは後から南に来た」。

 高福男さんの腕首には、大きな痕跡が残っています。
 後ろ手に縛られた状態を示す高福男さんと高福男さんが描いたつるはしの写真は、紀州鉱山の真実を明らかにする会編『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』(2007年2月)97頁に掲載されています。
                                     佐藤正人
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パランオッ・藍色衣服・青い服 10

2009年10月23日 | 「朝鮮報国隊」
 2003年秋に、紀州鉱山の真実を明らかにする会のキム チョンミさんと佐藤正人は、韓国の独立紀念館から、海南島での日本の侵略犯罪についての原稿を依頼されました(金靜美「일본점령하 하이난섬에 있어서의 조선인)と佐藤正人「海南島에 있어서  日本政府・日本軍・日本企業의 侵略犯罪調査」が掲載された独立紀念館韓国独立運動史研究所編『일제하 국외 한인피해 실태 조사보고서 1  중국 해남도지역 』(独立紀念館)は、2005年4月に発行されました)。
 その打ち合わせ会議のとき、編集を担当していた韓国独立運動史研究所の조범래さんから、「朝鮮報国隊」に入れられていた柳濟敬さんが大田市に住んでおられることを知らされました。 
 柳濟敬さんは、3・1独立運動に参加し投獄され西大門刑務所で獄死した柳寛順さんの甥で、独立紀念館が証言をしてもらっているとき、海南島でのことを聞いたとのことでした。

 すぐに、조범래さんに電話で柳濟敬さんを紹介してもらいました。
 柳濟敬さん(1917年生)は、2003年11月1日に、自宅で、つぎのように話してくれました。

   「1941年に、公州の長岐小学校の6年生を担任しているとき、“天皇もおなじ人間だ。2~3年たったら日本はほろびる”と言ったという理由で逮捕され、大田の裁判所で治安維持法違反で3年の実刑判決を受けた。
   25歳の5月に結婚して、7月に逮捕された。
   西大門刑務所に入れられた。
   1年半ほどたったある日、薬剤課長から、もどったら釈放するから海南島にいかないか、といわれた。
   第1次南方派遣朝鮮報国隊だった。
   200人で、みんな青色の囚人服を着ていた。刑務所で着ていたのと同じだ。
   1943年の春だったと思う。釜山から九州に行き、そこから昌慶丸という船に乗せられて海南島に行った。
   看守は10人ほどで、そのうち3人が朝鮮人看守だった。
   楡林に上陸してから40分ほど歩いた。そこに宿所があった。宿所はひとつで、そこに全員がいれられた。まわりは鉄条網で囲まれていた。
   わたしは、ひとりだけ、医務のしごとをさせられた。宿所のなかで。
   マラリヤ患者や風土病の患者の面倒をみた。
   風土病にかかると顔が大きくはれる。薬は不足がちだった。
   薬がなくて死んだ同胞もいた。病気でしごとにいけない同胞は、宿所で寝ていた。
   病死した同胞がどこに埋められたかも知らない。
   同胞が殺されたのを見たことがある。見たというより見せられたのだ。
   宿所のなかの者は全員がそれを見ないわけにはいかなかった。
   海南島に行って1年くらいたったころだった。
   あの日は日本の何かの祭日だったが、仕事はせず、休んでいるときだった。みんな部屋に集まっていた。
   何回か逃亡してつかまった人だったが、その人をみなが見る前で、逆さに縛って天井にひっぱり上げて、ぶらさげて殺した。
   金老麻という40代の人でした。
   みなが見ましたよ。本当に死刑執行ですよ。吊るされてからすぐに死んだ。
   許されないことだ。
   ひっぱりあげた人間は、看守部長だった。分隊長が貴島ですよ。
   性質が荒くてね。一般の受刑者にたいして、恐怖感を与える
   遺体はどこに埋められたかわからない。だれが運んだかも覚えていない。
   宿所で同胞といろいろな話しをした。みんな英雄だ。えらい人間ですよ。
   200人のうち多くが三亜の飛行場建設で働かされた。
   田独鉱山で働かされた人もいたがあまり多くなかった。
   逃亡した人は多かった。
   わたしは、飛行場にも鉱山にも行ったことがない。 
   わたしだけは特別だった。故郷の父母に手紙をだすことはできた。
   1944年の春に、わたし1人だけ、3人の日本人看守といっしょに帰国した。西大門刑務所で薬剤課長と約束していたのだ。
   残された200人の同胞のことは分からない。 
   治安維持法違反の者は、わたし一人だった。
   南島からもどってから仮釈放になったが、完全に自由ではなかった」。

 柳濟敬さんから話しを聞かせてもらったあと、東京中野にある矯正図書館で、朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会発行『刑務職員録』(1943年11月1日現在)を見ると、「京城刑務所南方作業所 貴島貞四看守長」の名がありました。
 朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会発行『治刑』(1944年3月号)に貴島南星「我等は挺身する」が掲載されており、そこには、
   「此の頃の気候は海南島でもつともよい季節で、随て作業能率も大いに増進してゐる」、
   「朝鮮報国隊は各方面とも、予てからその作業振りに対して頗る好評を受けつゝあつたが……」、
   「○○には台湾報国隊も進出し……」
と書かれています。貴島南星は、貴島貞四の筆名だと思われます。
                                     佐藤正人
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パランオッ・藍色衣服・青い服 9

2009年10月22日 | 「朝鮮報国隊」
 2001年3月1日、韓国MBC(文化放送)は、3・1独立運動記念番組として、『海南島の大虐殺』(紀州鉱山の真実を明らかにする会協力)を放映しました。
 この「朝鮮村」での虐殺にかんするドキュメンタリーを制作する過程で、MBCのスタッフは、「朝鮮報国隊」についての情報提供を、テレビでくりかえし呼びかけるとともに、韓国内の「朝鮮報国隊」関係者を探しました。
 MBCからの連絡を受けて、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2001年4月に、第1次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられて海南島に連行され、幸運にも帰国できたAさん(1920年生)とBさん(1922年生)に会うことができました。

 Aさんは、ソウル市内の自宅でつぎのように語りました。
   「海南島に行ったときは23歳だった。麻浦刑務所から歩いてソウル駅にいった。
   ソウルから釜山に行き船にのった。船の名は‘日本丸’。大きい船で大砲がついていて軍人がたくさん乗っていた。
   長崎、台湾に寄って、8日目に海南島の楡林についた。
   それから石碌につれていかれた。10か月いた。満期の4か月まえだった。
   病気でたくさん死んだ。1944年に帰国して、麻浦刑務所にもどり、翌日釈放された。
   日本人の歩哨がいて、逃げたら銃殺するといっていた。
   宿所の入口に、朝鮮報国隊と書いた木の板がかけられてあった」。

 Bさんは、忠清南道瑞山市の自宅でつぎのように語りました。
   「看守の元村が朝鮮人だとは、はじめ知らなかった。
   ある日、元村が、自分も朝鮮人だといい、おまえは初犯だから‘報国隊’に入ればすぐに出られるといった。
   元村もいっしょに海南島に行った。三亜の荒れ地に飛行場をつくった。
   最初は建物も何もなくて、自分たちで仮小屋をつくった。米軍の空襲がたびたびあった。
   防空壕にいた朝鮮人3人、中国人1人、日本人2人がいっぺんに死んだこともあった。
   わたしは食事班だった。食事班は9人いて、飯をつくって運んだ。
   半年くらいたって帰国した。元村もいっしょだった」。

 その後、わたしたちは、2003年11月にBさんを再び訪ねましたが、あまりおおくは語ってくれませんでした。2005年にBさんは亡くなりました。
                                     佐藤正人
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