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海南島の朝鮮人兵士 17

2010年10月29日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■鄭明出さんが海南島から持ち帰ったもの 1
 鄭明出さんは、1946年4月に帰国するとき、朝鮮軍人自営隊の名簿、日本敗戦後に三亜・楡林地域に集まった朝鮮人の名簿、帰国船がでる楡林港近くの宿所前で撮影された110人ほどの朝鮮人の写真などを持って船に乗ることができました。
 鄭明出さんによると、ここに写っている人のなかには、「朝鮮報国隊」の人たちもいたそうです。写真は、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が2006年12月に発行した『強制動員寄贈資料集』に収録されています。
 2種類の名簿の原本は、いま、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が保管しており、「海南島強制連行帰還者名簿」と名づけられて、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会が2009年12月に発行した『強制動員名簿解題集1』で紹介されています。
 横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に所属させられていた朝鮮軍人が日本敗戦後に結成した朝鮮軍人自営隊の名簿は4枚で、51人の隊員の名前、生年月日、故郷の住所、戸主の名前、趣味、役職(隊長、総務長、警務長、医務長……)が、日本海軍の用紙に手書きされています。この名簿は、朝鮮軍人自営隊の隊長であった金吉俊さん(一九二四年一二月二七日生、咸鏡南道端川郡端川邑)の指示で、鄭明出さんが、八所で作成したものだとのことです。
 日本敗戦後に三亜・楡林地域に集まった朝鮮人の名簿(以下、帰還者名簿とします)は22枚で、名前、年齢、故郷の住所のほかに、「海軍水兵長」、「海軍主計兵長」、「海軍機関兵長」、「運転員」、「整備員」「機関員」「甲板員」などという「職種」が書かれています。
 「発序」という文字が記された帰還者名簿の表紙には、青と赤の色がつけられた太極旗の中心の円が画かれ、その下に「愛国歌」の歌詞が書かれ、その左横に
     「高麗の大地の陽光が宇宙に輝くとき、高麗人よ、雄大な理想をもって、独立
    の闘士として闘おう。海南島三亜田独にいて、新国家の暁鐘を鳴らした人びと
    を、懐かしい故郷を、訪ねあてても、心に暁鐘を、○○きみたちを、忘れないで
    おこう。○○韓国 民楽国○○」(○の部分は文字が消えています)
と記されています。
 鄭明出さん、金吉俊さんの名前は、帰還者名簿にはありません。帰還者名簿は、三亜・楡林地域に集結した朝鮮人全員の名簿ではありません。2種の名簿で重複している人はいません。

 鄭明出さんは、自分の名札を3個持ち帰っていました。
 ひとつは、左上に赤青黒の三色で太極旗が書かれ、その横に黒色で「海南島南区韓籍軍人 Korean」、その下に黒色で「鄭明出 MyengChul Jyeng」と書かれているもの、あとのふたつは、「朝鮮軍人自営隊 第二班長 鄭明出」、「朝鮮軍人自営隊 情報長 鄭明出」書かれているものです。このイングランド語は金吉俊さんが教えてくれたものだとのこことでした。
 鄭明出さんは、「辞令 鄭明出 右者情報長을命함 民国三五年二月四日 朝鮮軍人自営隊長 金吉俊」と日本海軍の用紙に書かれたものを持ち帰っており、「朝鮮軍人自営隊 情報長 鄭明出」という名札は、1946年2月4日ころつくられたものだと思われます。
 
 このブログに、2010年5月1日、6月25日、27日、7月9日、10日に連載した、「朝鮮軍人自営隊」1~5を参照してください。
                                 佐藤正人
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