三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

除幕集会ののち 2

2011年06月30日 | 紀州鉱山
2011年2月28日 韓国江原道議会議員一同、三重県知事にたいする「嘆願書」をだす。
2011年3月10日 『朝日新聞』三重版に、「朝鮮人追悼碑の土地 課税取り消しを請求 真実を明らかにする会 14日にも提訴」。
2011年3月13日 3月11日の東北大地震のため、津市内で開催を予定していた紀州鉱山の真実を明らかにする会主催「紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどい」を延期。
2011年3月14日 三重県と熊野市を被告とする訴状を津地方裁判所にだすのを延期。
          韓国江原道議会、『일제 강제징용에 의한「기주광산」한극인 희생자에 관한 자료』(日帝強制徴用による「紀州鉱山」韓国人犠牲者に関する資料)』丁乙權江原道議会付議長編)発行。
2011年3月18日 三重県と熊野市を被告とする訴状を津地方裁判所にだす。
          韓国江原道議会議員一同の三重県にたいする「嘆願書」を知事に渡すために三重県庁に行く。阪三雅人三重県政策部知事室副室長が、「嘆願書」を必ず直接知事に届け、知事が江原道議会議員一同に返信するようにすると確約。
2011年3月19日 『伊勢新聞』に、「追悼碑土地へ課税不当 取り消し求め県市提訴 熊野市の市民団体」。
         『中日新聞』三重版に、「紀州鉱山の追悼碑  民有地課税減免を 県など市民団体提訴」。
         『朝日新聞』三重版に、「課税取り消しを求め提訴」。
2011年5月17日 聯合ニュース「日지자체 조선인 추모비 부지에 과세 논란(日本地方自治体朝鮮人追悼碑敷地に課税論難)」配信。追悼碑の写真とともに、『中央日報』、『ソウル新聞』、『忠清日報』、『京郷新聞』、『朝鮮日報』、『釜山日報』、『韓国日報』など10数紙に掲載。「MBCニュース」、「SBSニュース」、「KBSニュース」……などで30あまりのウェブサイトでも紹介。
        聯合ニュース(日本語版)ウェブサイトに「紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税」掲載。
2011年5月19日 第1回裁判(口頭弁論)期日決定。
2011年6月8日 丁炳碩さん急死。
2011年7月10日 津市で、紀州鉱山の真実を明らかにする会主催「紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどい」開催。
2011年8月4日 津地方裁判所で、第1回裁判(口頭弁論)。
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除幕集会ののち 1

2011年06月29日 | 紀州鉱山
2010年3月28日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑、除幕。一人ひとりの名を記したひとつひとつの石に結んだリボンを解く。
         共同通信社が、「連行朝鮮人の追悼碑完成 三重・紀州鉱山跡近くで除幕式」配信。
2010年3月29日 共同通信社記事、『熊本日日新聞』、『山形新聞』、『下野新聞』、『静岡新聞』、『富山新聞』、『北國新聞』、『高知新聞』、『山梨日日新聞』、『大阪日日新聞』、『神戸新聞』、『福井新聞』、『岩手日報』、『徳島新聞』、『四国新聞』、『デイリースポーツ』、『山陰中央新報』、『佐賀新聞』、『大分合同新聞』、『北日本新聞』、『東奥日報』、『河北新報』、『西日本新聞』、『山陽新聞』、『中國新聞』、『茨城新聞』、『福島民報』、『秋田魁新報』、『日本海新聞』、『岐阜新聞』、『東京新聞』、などに掲載。
     『中日新聞』紀州版に、「朝鮮人労働者 追悼碑を除幕/熊野の紀州鉱山」。
     『産経新聞』伊賀版に、「朝鮮人の追悼碑を建立」。
     『伊勢新聞』に、「「歴史的責任、追究する 連行朝鮮人の追悼碑を除幕」。
     『読売新聞』三重版に、「紀州鉱山強制連行 真実への思い刻む/朝鮮人追悼碑の除幕集会」。
2010年3月30日 『毎日新聞』熊野版に「戦時中 紀州鉱山で犠牲に 朝鮮人追悼碑 除幕/100人参列」
        『紀南新聞』伊勢路版に「紀和の紀州鉱山 35人をしのび碑除幕 朝鮮人労働者を追悼/「不幸な歴史を繰り返させない」」
2010年4月2日 『週刊金曜日』793号に、山本柚「刻まれたのは”欠けた”名前 旧紀州鉱山に朝鮮人労働者の追悼碑建立」。
2010年4月14日 紀州鉱山の真実を明らかにする会、熊野市役所に行き、2月1日の再質問書((熊野市指定文化財「史跡 英国人墓地」にかかわる重大な疑問に明快に答えることを要求する文書)への回答を求める。
2010年4月20日「話し合い設け誠実に回答を 市文化財・英国人墓地問題 市民団体が市教委に要望」、『紀南新聞』。
2010年4月22日~4月29日 韓国で、紀州鉱山で亡くなった李白洛さんの子の李炳植さん、紀州鉱山で亡くなった劉太相さんの旧友などに会う。
2010年4月28日 『朝鮮新報』に、「朝鮮人犠牲者の追悼碑建立 三重・紀州鉱山 地元市民団体、調査続け13年」。
2010年5月1日 『月刊イオ 이어』2010年5月号に、金里映「紀州鉱山 名も故郷もわからない朝鮮人の境遇ものがたる(1世の軌跡を辿る・旅編)」。
2010年5月25日 『悍』第4号に、「写真構成・紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑除幕集会」。
2010年7月4日 紀和町、新宮市で聞きとり。
2010年8月20日 『中日新聞』三重版に、「熊野・紀州鉱山/戦跡は語る 65年後の記憶 朝鮮人ら強制労働従事」。
2010年12月5日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい。丁炳碩さん(紀州鉱山に強制連行された丁榮さんの息子さん)が韓国江原道から参加。
2010年12月6日 『朝日新聞』三重版に、「旧紀州鉱山 朝鮮人労働者悼む 熊野で集会 「責任追及」誓う」。
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紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどい

2011年06月28日 | 紀州鉱山
 熊野市が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する土地を提供しなかったため、わたしたちは、適切な空き地を探し、2009年7月に、購入しました。
 その土地に、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税を課税してきました。
 わたしたちは、納税を拒否し、課税の取消しを求める訴訟を提起することにしました。
 土地購入のさい、わたしたちは、在日朝鮮人有志から無期限無利子で200万円を借用しましたが、そのうち、おおくの方がたの寄金を得てこれまで返済できたのは85万円です。したがって、多額の弁護費用をあらたに準備するのが難しく、訴訟は、弁護士をつけず、本人訴訟のかたちでおこなうことにしました。
 昨年11月から、わたしたちは、論点を整理し、訴状と書証について検討を重ね、今年3月18日に三重県の津地方裁判所に提訴しました。
 三重県が課税し強制徴集(差し押さえ)した不動産取得税は2、6300円で、熊野市が課税し督促している固定資産税は年額16、200円です。
 日本に強制連行され強制労働させられ日本で命を失った朝鮮人を追悼する場に課税する思想は、朝鮮人強制連行・強制労働を肯定する思想です。
 わたしたちが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場に対する税金を、1円でも納入することは、日本の行政機関の侵略犯罪に加担することだと思います。このブログの今年3月10日の「朝鮮人を追悼する場の課税に対する訴訟について」、5月28日の「対三重県訴状 「請求の趣旨」」、5月29日の「対熊野市訴状 「請求の趣旨」」、5月30日の「対三重県訴状 「結論」」、5月31日の「対熊野市訴状 「結論」」などを見てください。
 5月19日に、追悼する場への三重県と熊野市の課税に抗議し取消しを要求する訴訟の第1回裁判(口頭弁論)の期日が、8月4日(木曜日)11時開廷と決まりました。
 第1回裁判を前にして、紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどいを開きます。

 とき 7月10日(日) 午後1時から午後4時半まで
 ところ 三重県教育文化会館本館5階中会議室
      津市桜橋2-142 電話059-228-1122
      JR紀勢本線津駅、近鉄名古屋線津駅の東出口から東に徒歩7分ほどです。
 参加費は無料です。
 おおくのみなさんの参加をおまちしています。
 主催 紀州鉱山の真実を明らかにする会
     http://kisyukouzan-lj-hp.web.infoseek.co.jp
     連絡先 090-8860-9961(竹本昇)

 1、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動の経過
 2、裁判提訴の意義
 3、訴状について
     三重県にたいし
     熊野市にたいし
 4、韓国からのあいさつ( 予定。代読)
     江原道議会
     麟蹄郡
     江原道韓国文化院協議会
     太平洋戦争被害者補償推進協議会
     民族問題研究所
     そのほか
 5、日本各地からのあいさつ
     在日本朝鮮人総聯合会三重県本部
     在日本大韓民国民団三重県地方本部
     そのほかのみなさん
 6、意見交換会
 7、閉会
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朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行 6

2011年06月27日 | 海南島史研究
■(7)海南島1945年
    海南島から帰国できた朝鮮人・海南島から帰国できなかった朝鮮人
 1944年11月から日本の敗戦時まで海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が1946年4月10日付けで提出した「帰還報告書」によると、日本の敗戦時の朝鮮人は、1620人で、「朝鮮報国隊」 に所属する朝鮮人は658人とされている。
  「朝鮮報国隊」に入れられて海南島に強制連行された朝鮮人は、約2000人であったから、仮に伍賀啓次郎の記述を信用するとしても、1945年以前に帰国した人を除いて、1000人以上の「朝鮮報国隊」の人びとが海南島で殺害されたと考えられる。海南島に連行された朝鮮人の多くは、国家にも故郷にも帰還できなかった。
  「朝鮮村」での朝鮮人大虐殺は、海南島の「朝鮮村」とその周辺の村人が目撃している。
 しかし、その事実を、虐殺した者たちは、隠しつづけてきたため、朝鮮や日本では知られていなかった。
 1998年に、朝鮮と日本で、はじめてその事実の一端が伝えられた。
    ★「中國하이난島서 한국인 학살 1945年」(朴雅蘭記者)、『朝鮮日報』1998年3月2日。
    ★「旧日本軍が朝鮮人連行者1000人を虐殺」『民族時報』1998年3月11日。
    ★紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島1998年夏 田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・‘朝鮮村’」、『パトローネ』35号、1998年10月。
 海南警備府司令長官であった伍賀啓次郎が、1946年4月10日付けで日本政府に提出した「帰還報告書」には、日本敗戦時に海南島にいた朝鮮人の総数は1620人(軍人175人、軍属110人、「其ノ他」1335人)であったと書かれている。
 1946年5月に出された日本陸軍第23軍司令部の「状況報告」には、「海南島地区」の海軍部隊3万3475人のうち733人が「韓籍」、居留民1万1935人のうち1233人が「韓籍」と書かれている。

                                       佐藤正人
  
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朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行 5

2011年06月26日 | 海南島史研究
■(6)海南島に連行され日本軍性奴隷とされた朝鮮人女性
 1939年9月19日、日本軍は、海南島北部の新盈一帯を空爆し、9月25日に新盈港から上陸した。日本軍は、新盈の高台に司令部を置き、周囲に壕を掘り、砲台、火薬庫、宿舎、給水塔などを建設し、1940年1月に、「慰安所」をつくった。その「慰安所」で洗濯や炊事をしていた宋福海さんは、「慰安所は日本軍に属していた。中年の日本人女性ふたりが管理し、4人の慰安婦がいた。ひとりは若い朝鮮人だった」と証言している。
 慶尚南道咸安に生まれた朴来順さんは、1942 年2 月、日本の軍艦で海南島に連れてこられ、海口の「慰安所」に入れられ、1943 年1 月に、田独鉱山近くの三亜紅沙の「慰安所」に移された。そこには、台湾人と朝鮮人が50 数人おり、日本軍人だけでなく、石原産業関係者も来たという。
 朴来順さんや김옥주さんらが入れられていた海口の「慰安所」は、日本軍司令部の近くにあって、時計台が見えたという。
 石碌の「慰安所」は、女性の逃亡を防ぐため、日本軍が厳重に警戒していた。女性たちは、朝鮮、香港や広州から連れてこられ、多くの女性が暴行死、病死、餓死した。
 朴来順さんは故郷に戻ることなく、1995年に、海南島で亡くなり、海南島保亭黎族苗族自治県保亭郊外に埋葬されている。
 김옥주さんは海南島東部から1946年に帰国し、2005年に亡くなった。李玉今さんは海南島西部から1946年に帰国し、2008年に亡くなった。 
                                      佐藤正人
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朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行 4

2011年06月25日 | 海南島史研究
■(5)海南島の鉄道・飛行場・港湾・道路・橋梁建設工事における朝鮮人強制労働
 海南島全土を軍事的・経済的に支配するために、日本政府と日本軍と日本企業は、鉄道・飛行場・港湾・道路・橋梁などを建設した。
 1940 年6月に日本軍は、海南島最大の河川南渡江に鉄橋の建設をはじめ、1943 年3 月に完成させた。日本の清水組が基礎工事をし、朝鮮人、台湾人を働かせた。
 東方市感恩には「朝鮮報国隊」がつくらされた鉄橋の数メートルの土台が、いまも10基あまり残されている。
 石碌鉱山の鉄鉱石を日本に運び出すために、日本軍・西松組・日本窒素は、鉱山から海岸まで約50キロの鉄道と積出港(八所港)を急造した。この工事にも「朝鮮報国隊」の人たちが働かされた。
 三亜飛行場建設工事には、「朝鮮報国隊」の人びとも働かされた。「朝鮮報国隊」の宿所は、回新村のはずれにあった。第1次「朝鮮報国隊」に入れられて1943年春に西大門刑務所から海南島に強制連行された「政治犯」のなかに、柳濟敬さん(1920年10月に西大門刑務所で獄死した柳寛順さんの甥)がいた。柳濟敬さんは、特別に、1944年春に一人だけ3人の日本人看守といっしょに帰国したという。
 日本軍は陵水や英州などでも飛行場を建設しようとしたが完成以前に、日本が敗北した。
 「朝鮮報国隊」の人びとは、陵水や英州でも働かされた。
 「朝鮮報国隊」に入れられ陵水に連行された韓錫さん(1922年12月5日生)、金東赫さん(1920年4月17日生)、金晋鐵さん(1922年5月20日生)、崔鍾復さん(1906年2月29日生)、李興成さん(1911年9月14日生)は、「陵水朝鮮報国隊隊員病舎」で死亡したと現在韓国で保管されている除籍簿に書かれている。
                                    佐藤正人
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朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行 3

2011年06月24日 | 海南島史研究
■(4)海南島と日本と朝鮮における石原産業
    海南島田独鉱山・日本紀州鉱山での朝鮮人強制労働
海南島占領直後から、石原産業は、日本海軍とともに海南島の資源調査を開始し、1940年7月から田独鉱山の鉱石を日本の八幡製鉄所に送りはじめた。
 田独地域を「警備」していたのは、日本海軍海南島警備府の第16警備隊であった。
 「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍・朝鮮総督府によって海南島に強制連行された人たちも、石原産業が経営する海南島の田独鉱山で働かされていた。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されている。
 日本の「南方」侵略とともに成長した企業である石原産業は、1934年7月に、日本三重県入鹿村に、紀州鉱山(銅鉱山)を開設し、1940年から1945年までの間に、そこでのべ1300人を越える朝鮮人を江原道・慶尚北道などから強制連行し働かせた。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山で働いていた朝鮮人がいた。
 紀州鉱山で、35人以上の朝鮮人が死んだ。そのなかには、朝鮮の故郷から強制連行されて、わずか1か月後に命を失った人もいた。
 1941年12月8日、日本軍は、マラヤのコタバル、フィリピンのマニラ、ハワイの「真珠湾」を同時に攻撃してアジア太平洋戦争を開始した。コタバルに侵入した日本軍は、その4日まえに、海南島の三亜から出港していた。海南島は、日本のアジア太平洋侵略の基地であった。
 フィリピンを占領した日本軍に従って、1942年1月から、石原産業は、フィリピンで、ルソン島のカランバヤンガン鉄山、ネグロス島のシパライ銅山、パナイ島のアンチケ銅山やピラカピス銅山などの「経営」を開始した。石原産業は軍とともに「労働者強制徴発の強行」をおこない、「日本人職員」は暴行をおこなった。
                                  佐藤正人
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朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行 2

2011年06月23日 | 海南島史研究
■(3)海南島と朝鮮における日本窒素
    海南島石碌鉱山での朝鮮人強制労働
 海南島で、日本企業は、日本占領下の海南島に入り込み、資源を略奪し、住民を虐待し、朝鮮や台湾、中国大陸各地から連行した人たちを酷使し、暴行死・事故死・病死・餓死させた。
 日本企業の経済侵略は、日本軍の軍事侵略とむすびついていた。日本企業は、鉱山資源・森林資源・漁業資源を略奪しただけでなく、日本軍の軍事施設を建設し、軍需物資を調達した。日本企業(熱帯産農産物の事業会社など)は、日本軍の軍事力に支えられて土地を略奪し、コメ、綿花、ゴム、サトウキビ、香料、茶、タバコなどの栽培事業をおこなった。
 日本占領下の海南島に侵入していた日本企業は、日本窒素、三菱鉱業、石原産業、三井物産、三井農林、三井倉庫、王子製紙、西松組、浅野セメント、トヨタ自動車、明治製糖、日本油脂、台湾銀行、台湾拓殖、横浜正金銀行、日本製鉄、島田合資、大阪商船、東亜海運、大阪商船、三越、資生堂、武田薬品、塩野義製薬、東亜塩業、大阪窯業、木村珈琲、明治屋などであった。
 これらの企業のほとんどすべてが、日本支配下の朝鮮にも侵入していた。
 なかでも、日本窒素は、朝鮮に侵入した日本企業のうち最大規模の企業だった。
 日本窒素は、1926年以降、朝鮮で、大規模水力発電所や肥料工場、油脂工場、化学工場、火薬製造工場、大豆調味料製造工場などを経営し、朝鮮の資源・労働力を掠奪していた。
 1940年4月に、日本窒素は、日本海軍に援助されて、海南島西部の石碌鉱山の調査をはじめ、1941年1月に、石碌鉱山に近い日本軍駐屯地である北黎に、日本窒素海南事業所の現地事務所を設置した。
 石碌鉱山の鉄鉱石略奪のため、日本窒素は、①石碌鉱山の鉱石採掘施設、②石碌鉱山から八所港(積み出し港)までの鉄道、③八所港の港湾施設、④発電用ダムと発電所を建設した。
 朝鮮に基盤をおく日本窒素は、海南島で石禄鉱山を経営し、朝鮮人を働かせた。「朝鮮報国隊」の人びとも石碌鉱山で働かされた。石碌鉱山で死んだ朝鮮人は少なくない。
 海南島の日本窒素関係の工事を担当したのは、西松組であった。
  
                                      佐藤正人
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朝鮮から海南島への朝鮮人強制連行 1

2011年06月22日 | 海南島史研究
  (1)海南島総督府
  (2)朝鮮から海南島への「朝鮮報国隊」の強制連行
     海南島での「朝鮮報国隊」大虐殺
  (3)海南島と朝鮮における日本窒素
     海南島石碌鉱山での朝鮮人強制労働
  (4)海南島と日本と朝鮮における石原産業
     海南島田独鉱山・日本紀州鉱山での朝鮮人強制労働
  (5)海南島の鉄道・飛行場・港湾・道路・橋梁建設工事における朝鮮人強制労働
  (6)海南島に連行され日本軍性奴隷とされた朝鮮人女性
  (7)海南島1945年
     海南島から帰国できた朝鮮人・海南島から帰国できなかった朝鮮人

■(1)海南島総督府
 国民国家日本は、1895年に台湾を植民地とすると、統治機関として台湾総督府を設置した。
 国民国家日本は、1910年に大韓帝国を併合すると、統治機関として朝鮮総督府を設置した。
 国民国家日本は、アイヌモシリ(「北海道」)、琉球王国、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部(「満州」)を植民地としたあと、海南島を植民地としようとした。
 国民国家日本は、1939年に海南島を占領すると、統治機関として海南島総督府を設置しようとした。

■(2)朝鮮から海南島への「朝鮮報国隊」の強制連行
    海南島での「朝鮮報国隊」大虐殺
 海南島南部の三亜市郊外の茘枝溝鎮に、日本の敗戦後に「朝鮮村」と名づけられた地域がある。
 日本占領時期に、「朝鮮村」に朝鮮人の収容所があった。
 日本支配下の朝鮮の刑務所に入れられている人びとを海南島で強制労働させようとする日本海軍の要請に応じた朝鮮総督府は、1943 年春から、獄中者を選んで「南方派遣報国隊」(「朝鮮報国隊」)を組織し、海南島に強制連行しはじめた。1944年末までに朝鮮人獄中者約2000人が、「南方派遣報国隊」(「朝鮮報国隊」)と名づけられて海南島に強制連行された。
 朝鮮各地の監獄から海南島に強制連行された「朝鮮報国隊」の人びとは、海南島三亜や陵水県三才鎭后石村や陵水県英州鎭大坡村などで飛行場建設をさせられたり、田独鉱山や石碌鉱山で採鉱させられたり、八所で港湾建設をさせられたり、石碌鉱山ー八所ー三亜間の鉄道建設をさせられたり、感恩の鉄橋建設をさせられたり、陵水県新村の特攻艇格納用洞窟建設などをさせられた。
 採鉱や飛行場建設が中断されてから、そのうちの1000人(あるいはそれ以上)が、南丁村に連行され、道路工事、井戸ほり、トンネルほり、軍用施設建設などをさせられた。
 日本敗戦近くまでに生き残っていた「朝鮮報国隊」の人びとは、茘枝溝鎮南丁村に集められ、軍用道路建設、軍用洞窟掘りなどをさせられたあと、1945年夏に殺された。
その名は、まだ、一人も明らかになっていない。
 日本軍がいなくなってから、南丁村は、そこで殺された朝鮮人を悼んで、「朝鮮村」と改名された。
 「朝鮮村」には、朝鮮の刑務所から強制連行されて働かされ殺された朝鮮人が、いまも埋められている。
 海南島で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていない。
 「朝鮮報国隊」とともに海南島に行った朝鮮総督府の法務官僚や刑務官は、数十人(あるいはそれ以上)であり、そのなかには「朝鮮村」虐殺に直接かかわった者もいると思われるが、日本の敗戦後、かれらは、海南海軍第16警備隊や施設部の関係者と同様に、「朝鮮報国隊」あるいは「朝鮮村」虐殺にかんして沈黙しつづけた。「朝鮮報国隊」に朝鮮総督府の法務官僚として深くかかわった藤間忠顯は、日本に戻って広島高等裁判所の裁判官などになったが、「朝鮮報国隊」にかんして語ることはなかった 。
 1942年6月から1944年6月まで海南海軍施設部にいた芹沢定雄は、「囚人部隊」を働かさせていたと証言している(芹沢定雄「海南島施設部風景」、『海軍経理学校第八期補修学生の記録』1972年11月)。海南島に日本人の「囚人部隊」はいなかったから、この「囚人部隊」とは、「朝鮮報国隊」のことである。
                                       佐藤正人

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李康姫さん

2011年06月21日 | 海南島近現代史研究会
 韓錫さんの妻の李康姫さんに、ことし8月28日の海南島近現代史研究会第5回総会にソウルから来て証言していただけることが、きょう(6月21日)決まりました。
 韓錫さん、李康姫さんについては、このブログの2010年4月28日の「韓錫さん 1」と7月17日の「韓錫さん 2」を見てください。
 去年8月21日の集会「「韓国併合」から100年 遺族の証言を聞くつどい 戻らなかったアボヂ」と8月22日の海南島近現代史研究会第4回総会で、韓錫さんの息子の韓光洙さんから話を聞かせていただきました。
 このブログの2010年6月24日の「戻らなかったアボヂ 1」と6月28日の「戻らなかったアボヂ 2」を見てください。
                                      佐藤正人
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