三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「「血の日曜日事件」から50年 正義求める遺族 北アイルランド」

2022年01月31日 | 国家・社会
「AFP」 2022年1月31日 17:23 発信地:ロンドンデリー
■「「血の日曜日事件」から50年 正義求める遺族 北アイルランド」

【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーで、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」を追悼して当時の公民権デモのルートを行進する人々(2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 
【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーで、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」の犠牲者を描いた壁画の前で十字架を掲げる人々(2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 
【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーで、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」を追悼して犠牲者の慰霊碑に献花するアイルランドのミホル・マーティン首相(中央、2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 
【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーで、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」の追悼行事に集まった人々(2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 
【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーのボグサイド地区で、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」の犠牲者の写真を手に行進する遺族(2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 
【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーで、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」を追悼して、遺族を先頭に当時の公民権デモのルートを行進する人々(2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 
【写真】英領北アイルランド・ロンドンデリーで、1972年にカトリック系住民が英治安部隊に射殺された「血の日曜日事件」の犠牲者を追悼する慰霊碑に手向けられた花(2022年1月30日撮影)。(c)Paul FAITH / AFP 

【1月31日 AFP】英領北アイルランドは30日、カトリック系住民の公民権デモを英治安部隊が弾圧した1972年の「血の日曜日事件(Bloody Sunday)」からちょうど50年を迎えた。カトリック系への不平等撤廃を求めて行進していたデモ参加者13人が射殺されたロンドンデリー(Londonderry)では、数百人が集まって追悼行事が行われ、遺族が法の正義の実現を訴えた。
 1972年1月30日にカトリック系住民が「デリー」と呼ぶロンドンデリーで起きた事件では、後に負傷者1人が死亡し、計14人が犠牲となった。追悼行事では、当時のデモのルートを人々が行進。アイリッシュフルートの調べが響く中、慰霊碑の前で犠牲者の名前が読み上げられた。
 当時のデモ参加者らも歌った公民権運動を象徴する歌「ウィ・シャル・オーバーカム(We Shall Overcome、勝利をわれらに)」の合唱など、音楽や詩もささげられた。
 追悼行事は毎年行われているが、今年は初めてアイルランド首相が出席。ミホル・マーティン(Micheal Martin)首相が慰霊碑に献花した。
 アイルランドのバンド「U2」のボノ(Bono)さんとジ・エッジ(The Edge)さんは、事件を歌った代表作「ブラディ・サンデー(Sunday Bloody Sunday)」のアコースティックバージョンをソーシャルメディアで公開した。
 追悼行事に出席した遺族の一人、マイケル・マッキニー(Michael McKinney)さんは、英政府は裁判で新事実が明らかになるかもしれないことを「恐れている」ため、事件に関与した元英兵の訴追を認めようとしないと批判した。
 英政府は2010年、犠牲者は武器を持っておらず、発砲は命令違反だったと結論付ける報告書を発表し、当時のデービッド・キャメロン(David Cameron)首相が議会で歴史的な謝罪をした。2019年には発砲した英軍の空挺(くうてい)隊員1人が殺人罪で起訴されたが、検察は昨年、有罪判決の見込みが乏しいとして起訴を取り下げた。
 北アイルランドでは今、 英国の欧州連合(EU)離脱(ブレグジット、Brexit)が新たな緊張をもたらしている。北アイルランドの英国統治存続を望むプロテスタント系住民は、ボリス・ジョンソン(Boris Johnson)政権に対し、ブレグジット後の北アイルランドに適用されている英本土と異なる貿易規則の撤廃を求めている。
           (c)AFP/Jitendra JOSHI
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「 紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税」

2022年01月30日 | 紀州鉱山
https://www.wowkorea.jp/news/korea/2011/0517/10083923.htm


「wowKorea」 2011/05/17 09:04配信 最終更新: 2011/05/17 09:59
■紀州鉱山の朝鮮人追悼碑、日本自治体が私有地課税
【ソウル17日聯合ニュース】日本の植民地時代に強制動員されて死亡した朝鮮人を追悼するために建立した記念碑の土地に、日本の地方自治体が「公共性がない」として税金を課し、現地市民団体が強く反発している。
 日本の市民団体「紀州鉱山の真実を明らかにする会」によると、同団体は昨年3月に、三重県熊野市の紀州鉱山に強制動員され、現地で死亡した朝鮮人35人を追悼する碑を建立した。
 同碑には「朝鮮の故郷から遠く引き離され、紀州鉱山で働かされて、亡くなった人たち。父母とともに来て亡くなった幼い子たち。わたしたちは、なぜ、みなさんがここで命を失わなければならなかったのかを明らかにし、その歴史的責任を追及していきます」と書かれている。
 市民団体は当初、鉱山を運営した石原産業と熊野市に土地提供や資金などの支援を要請したが、断られた。そのため、在日韓国人有志に資金を借り、2009年7月に土地を直接購入した。
 熊野市は「公共性のない私有地」として、その土地に不動産取得税2万6300円と固定資産税1万6200円を課税した。市民団体側は、「土地は朝鮮人強制動員事実を伝え、歴史的責任所在を明らかにする公共的場所」と主張。朝鮮人を追悼する場に対する税金を、1円でも納入することは、日本の行政機関の侵略犯罪に加担することだとして強く反発している。
 これと関連し、同団体は3月18日に三重県と熊野市に課税賦課処分の取り消しなどを求める行政訴訟を津地裁に起こした。
 紀州鉱山は1934~1978年に運営され、1940~1945年に江原道を中心に朝鮮人1000人余りが強制労働を強いられた。熊野市当局は当時、鉱山に強制動員されて死亡した英国人捕虜16人の墓地は史跡と指定して管理しているが、朝鮮人死亡者と関連しては何の措置も行っていないという。
 民族問題研究所の朴漢竜(パク・ハンヨン)研究室長は、「日本の市民が朝鮮人強制動員現場を保存したのは誤った過去を繰り返さないという重大な成果。自治体が公共性を否定するなら、真の韓日友好と連帯を妨げる行為だ」と話した。
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「寄宿学校跡地でさらに93の墓発見か カナダ」

2022年01月29日 | 国家・社会
https://www.afpbb.com/articles/-/3387118?pid=24131905
「AFP」 2022年1月26日 21:32 発信地:モントリオール/カナダ
■寄宿学校跡地でさらに93の墓発見か カナダ

【写真】カナダ・オタワの議会付近に並べられた、消息不明の先住民の子どもたちに思いを寄せて集められた靴(2021年9月30日撮影、資料写真)。(c)Lars Hagberg / AFP

【1月26日 AFP】カナダ・ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州の先住民居住区は25日、寄宿学校跡で93の墓とみられるものを発見したと発表した。同国では昨年、各地の寄宿学校跡から何百人もの子どもの遺骨が見つかり、全土を震撼(しんかん)させた。
 先住民居住区ウィリアムズレーク・ファースト・ネイション(Williams Lake First Nation)は同日の発表で、寄宿学校「セント・ジョセフズ・ミッション(St. Joseph's Mission)」跡地を調査したところ、「人間の埋葬を示す」特徴が93か所で見つかったと明かした。
 昨年5月以降、宗教団体が運営していた「先住民寄宿学校」の周辺で1000以上の無名の墓が見つかり、カナダ史の暗部と先住民の強制同化政策に注目が集まった。
 政府は今月に入り、セント・ジョセフズ・ミッションでの調査に190万加ドル(約1億7000万円)を拠出すると発表した。
 当局によると、4000〜6000人の先住民の子どもが消息不明とされ、カナダ各地で寄宿学校跡地の調査が進められている。
 同国では1990年代までに、先住民の子ども約15万人が国内139か所の寄宿学校に送られ、家族から引き離された上、母語や伝統文化に触れないまま長期間の生活を強いられた。この問題に関する調査委員会は2015年、政府の失策は「文化的ジェノサイド(集団殺害)」に当たると結論付けている。


https://www.afpbb.com/articles/-/3356542?cx_part=latest
「 AFP」 2021年7月14日 14:24 発信地:モントリオール/カナダ
■墓標のない墓さらに160基超、先住民族寄宿学校跡地近くで発見 カナダ

【写真】カナダ中部サスカチワン州の寄宿学校跡地を訪れ、墓標のない墓が見つかった場所を視察するジャスティン・トルドー首相(右から2番目、2021年7月6日撮影、資料写真)。(c)Liam Richards / POOL / AFP

【7月14日 AFP】カナダ西部の先住民族ペンラカット(Penelakut)人コミュニティーは、先住民族の子どもを収容していた寄宿学校の跡地近くから、墓標のない墓が160基以上見つかったと発表した。同国でこうした墓が見つかるのは、ここ数週間で4例目。
 ペンラカット人のリーダー、ジョアン・ブラウン(Joan Brown)氏は、8日の発表で、ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州の居留地で、記録に残されておらず、墓標もない墓が160基以上見つかったと明らかにした。
 ブリティッシュコロンビア先住民族首長連合(Union of British Columbia Indian Chiefs)の副連合長を務めたボブ・チャンバリン(Bob Chamberlin)氏は、「氷山の一角にすぎない」と述べ、見つかっていない墓が数十基あるとの推定を示した。
 ジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は13日、「ペンラカット人コミュニティーと、国内のすべての先住民族コミュニティーを思い、心を痛めている」と記者団に語った。「亡くなった人々を生き返らせることはできないが、真実を語り続けることはできるので、語り継いでいく。同様に、差別や制度的人種差別と闘うために、先住民族の人々と協力し続けていく」
 今回墓が見つかった寄宿学校は、バンクーバー(Vancouver)の西に位置するペンラカット島にあり、19世紀末から1975年まで先住民族の子どもが在籍していた。


https://www.afpbb.com/articles/-/3355602
「AFP」 2021年7月8日 15:02 発信地:カナダ
■トルドー首相、大量の墓見つかった先住民寄宿学校跡地を訪問

【写真】先住民団体カウェセス・ファースト・ネイションのカドマス・デローム代表(手前)の言葉に耳を傾けるジャスティン・トルドー首相(右)。カナダ・カウェセスで(2021年7月6日撮影)。(c)SHANNON VANRAES / AFP
【写真】カナダ中部サスカチワン州の寄宿学校跡地で、テディベアを置き亡くなった子どもたちを追悼するジャスティン・トルドー首相(2021年7月6日撮影)。(c)shannon VANRAES / POOL / AFP
【写真】先住民団体カウェセス・ファースト・ネイションのカドマス・デローム代表と握手を交わすジャスティン・トルドー首相。カナダ・カウェセスで(2021年7月6日撮影)。(c)Kayle Neis / AFP
【写真】先住民団体カウェセス・ファースト・ネイションのカドマス・デローム代表と面会し、連邦政府から児童福祉に関する権限の返還を定める書類に署名するジャスティン・トルドー首相。カナダ・カウェセスで(2021年7月6日撮影)。(c)Kayle Neis / AFP

【7月8日 AFP】カナダのジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は6日、墓標のない墓が数百基見つかった同国中部サスカチワン(Saskatchewan)州にあるカトリック寄宿学校の跡地を訪問した。学校跡地から見つかった墓や遺骨は、寄宿学校で生活していた先住民の子どもたちのものだった。
 トルドー首相は同日、児童福祉に関する権限を連邦政府から先住民に戻すことを定める協定に署名した。署名を前に「ここカウェセス(Cowessess)、そして全国で、寄宿学校をめぐる有害な政策によって子どもたちが命を落とした。これは恥ずべきことだ」と語った。
 先住民団体カウェセス・ファースト・ネイション(Cowessess First Nation)のカドマス・デローム(Cadmus Delorme)代表らとも面会したトルドー首相は、墓が見つかった場所に足を運び、テディベアを手に亡くなった子どもたちを追悼した。
 カナダでは1990年代までに、先住民の子ども約15万人が強制的に国内139か所の寄宿学校に送られ、家族や母語、先住民文化から引き離された。寄宿学校では子どもたちに対する劣悪な待遇や性的虐待が横行し、4000人以上が死亡したとされる。この問題に関する調査委員会は、カナダが「文化的ジェノサイド(大量虐殺)」を行ったと結論した。


https://www.afpbb.com/articles/-/3354857?cx_part=latest
「AFP」 2021年7月3日 12:29 発信地:オタワ/カナダ
■カナダで教会や英女王像への破壊行為相次ぐ、トルドー首相が非難

【写真】墓標のない墓が多数見つかったカナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地(2021年6月25日撮影)。(c)Geoff Robins / AFP 
【写真】墓標のない墓が多数見つかったカナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地で、祈りをささげる男性(2021年6月25日撮影)。(c)Geoff Robins / AFP 
【写真】カナダのジャスティン・トルドー首相。首都オタワでの記者会見で(2021年6月25日撮影)。(c)Sean Kilpatrick / POOL / AFP 

【7月3日 AFP】カナダのジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は2日、教会や英女王の像に対する破壊行為が国内各地で相次いでいることを非難した。
 こうした破壊行為は、先住民の子どもを収容していた寄宿学校の跡地から墓標のない墓が1000基以上発見されたことを受けたもの。 この問題では、先住民コミュニティーなどからは怒りと悲しみの声が上がり、カナダの植民地時代の歴史が再認識されている。
 トルドー氏は記者会見で、「カトリック教会に対するものを含め、国内各地で行われている破壊行為は容認できず、間違っている」とする一方、「連邦政府や、カトリック教会のような組織に対する怒りは理解している」とも述べた。
 1日の建国記念日「カナダ・デー(Canada Day)」では、英植民地時代の痛ましい過去が振り返られたが、複数の都市では毎年恒例の祝賀行事が中止された。
 カルガリー(Calgary)では、10か所の教会が破壊行為を受けた。 マニトバ(Manitoba)州ウィニペグ(Winnipeg)では、抗議活動の参加者らが、州議会にあるビクトリア女王(Queen Victoria)の像や、付近にあるエリザベス女王(Queen Elizabeth II)の像を引き倒した。
 英首相官邸は、2人の女王の像が倒されたことを非難する一方、「悲劇的な(墓の)発見を受けて、われわれはカナダの先住民コミュニティーに心を寄せており、これらの問題を注視し、先住民問題についてカナダ政府に引き続き協力していく」と述べた。
  先住民寄宿学校に通っていたベリンダ・バンデンブルーク(Belinda Vandenbroeck)さんは地元紙ウィニペグ・フリープレス(Winnipeg Free Press)に対し、「この女王(ビクトリア女王)は、私たちの土地を毛皮商人に与えた」と述べた。 「だから、私の心に女王が入る余地はない」。 


https://www.afpbb.com/articles/-/3354357?pid=23488408
「AFP」 2021年7月1日 10:09 発信地:オタワ/カナダ
■墓標ない墓さらに182基 カナダ先住民学校問題、教会で不審火相次ぐ

【写真】墓標のない墓が多数見つかったカナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地で、追悼集会を開く人々(2021年6月26日撮影)。 (c) Geoff Robins / AFP
【写真】カナダ・サスカチワン州マリーバルの先住民寄宿学校跡地で、墓標のない墓が見つかった場所にともされた明かり(2021年6月27日撮影)。 (c) Geoff Robins / AFP

【7月1日 AFP】カナダで先住民の子どもを収容していたカトリック寄宿学校の跡地から墓標のない墓が多数見つかった問題で、同国の先住民団体は6月30日、3校目の学校から同様の墓が182基見つかったと発表した。 先住民学校での虐待に対する謝罪をローマ教皇に求める声が上がっており、国内では同日、2か所の教会で放火の可能性がある火災も発生した。
 先住民団体ロウアー・クートニー・バンド(Lower Kootenay Band)の発表によると、西部ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州クランブルック(Cranbrook)近くの聖ユージーン・ミッション・スクール(St Eugene's Mission School)で、専門家チームが地中レーダー探査を実施したところ 、7~15歳の児童・生徒の遺骨とみられるものが多数見つかった。
 ブリティッシュコロンビア州では5月にも、カムループス・インディアン・レジデンシャル・スクール(Kamloops Indian Residential School)の跡地で、墓標のない墓から先住民の子ども215人の遺骨が見つかっていた。 さらに先週には、中部サスカチワン(Saskatchewan)州の学校でも墓標のない墓が751基発見された。
 カナダでは1990年代までに、先住民の子ども約15万人が強制的に国内139か所の寄宿学校に入れられた。 子どもたちは自分たちの文化や言語から引き離され、教職員から暴行や性的虐待を受けた。 この問題に関する調査委員会は、4000人以上が病気や世話の放棄により死亡し、カナダが「文化的ジェノサイド(大量虐殺)」を行ったと結論付けた。
 警察によると、6月30日にはアルバータ(Alberta)州とノバスコシア(Nova Scotia)州の教会で火災が発生。 捜査当局は、放火の可能性があるとして調べを進めている。 カナダでは最近、このほか6か所の教会で不審火が発生。 教会の大半は先住民地域に位置しており、赤いペンキで落書きされた施設もある。


https://www.afpbb.com/articles/-/3353662?cx_part=latest
「AFP」 2021年6月27日 8:10 発信地:モントリオール/カナダ
■動画:カナダ先住民学校、墓標ない墓751基 先月に続き発見
【6月25日 AFP】カナダ中部サスカチワン(Saskatchewan)州マリーバル(Marieval)で、先住民の子どもを収容していたカトリック寄宿学校の跡地周辺から、墓標のない墓が751基見つかった。 先住民団体の代表が24日、明らかにした。 同国では先月にも、西部ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州の先住民寄宿学校跡地から215人の子どもの遺骨が発見され、国内に衝撃が広がっていた。
先住民団体カウェセス・ファースト・ネイション(Cowessess First Nation)のカドマス・デローム(Cadmus Delorme)代表は学校跡地で報道陣に対し、「きのうまでに墓標のない墓を751基発見した。 集団墓地ではない。 これらは墓標のない墓だ」と述べた。
 見つかった墓には過去に墓標があった可能性もあるが、「カトリック教会の代表者らがこれらの墓石を撤去した」とデローム氏は説明。 カナダでは墓標の撤去は犯罪であり、墓が見つかった場所は「犯罪の現場」として扱われているという。
 カナダでは1990年代までに、先住民の子ども約15万人が強制的に国内139か所の寄宿学校に送られ、家族や母語、先住民文化から引き離された。 寄宿学校では子どもたちに対する劣悪な待遇や性的虐待が横行し、4000人以上が死亡したとされる。 この問題に関する調査委員会は、カナダが「文化的ジェノサイド(大量虐殺)」を行ったと結論した。
 ジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は今回の発見を受け、カナダは先住民に対する人種差別の歴史に向き合い、「より良い未来を築く」必要があると表明した。
 映像は25日撮影。


https://www.cnn.co.jp/world/35172907.html
CNN.co.jp 2021.06.24 20:00
■墓標のない墓を大量に発見、先住民寄宿学校の跡地から カナダ

【写真】1923年当時の先住民寄宿学校の遠景/From Library and Archives Canada

(CNN) カナダ中部サスカチュワン州の先住民連合組織(FSIN)は23日、先住民寄宿学校の跡地から数百基の墓標のない墓が見つかったと明らかにした。
カナダの先住民は主に「ファースト・ネーション」と呼ばれる。 FSINの声明によると、そのうちの一つ、カウエゼス・ファースト・ネーションが24日に記者会見を開き、「恐ろしく衝撃的な発見」について発表する予定。
声明によると、今回見つかった墓標のない墓の数は、カナダで過去最多規模になるとみられる。
 カナダでは5月下旬、ブリティッシュコロンビア州カムループスの寄宿学校付近で子ども215人の遺骨が発見されていた。 先住民の指導者や寄宿学校の卒業生は当局に対し、国内にある全ての寄宿学校の跡地を徹底調査するよう求めている。
 FSINによると、サスカチュワン州の地元指導者は遺骨について通知するため、元生徒やその家族に連絡を取っているという。
 FSINの広報は「生き残った人と家族の健康、癒やし、幸福が最優先だ」と述べた。
 カウエゼス・ファーストネーションの居留地は州都レジャイナから約150キロのブロードビューの近くに位置する。


https://www.afpbb.com/articles/-/3353390
「AFP」 2021年6月25日 2:39 発信地:モントリオール/カナダ
■カナダ先住民学校、墓標ない墓751基 先月に続き発見

【写真】カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、先住民寄宿学校の跡地近くで遺骨が見つかった215人の子どもを追悼する先住民の人々(2021年6月4日撮影)。(c)Cole Burston / AFP
【写真】カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、215人の子どもの遺骨が見つかった先住民寄宿学校の跡地近くに集まった人々(2021年6月5日撮影)。(c)Cole Burston / AFP 
【写真】カナダ西部ブリティッシュコロンビア州カムループスで、先住民に対する抑圧を象徴するために地面に立てられた十字架と子ども服(2021年6月5日撮影)。(c)Cole Burston / AFP 

【6月25日 AFP】カナダ中部サスカチワン(Saskatchewan)州マリーバル(Marieval)で、先住民の子どもを収容していたカトリック寄宿学校の跡地周辺から、墓標のない墓が751基見つかった。先住民団体の代表が24日、明らかにした。同国では先月にも、西部ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州の先住民寄宿学校跡地から215人の子どもの遺骨が発見され、国内に衝撃が広がっていた。
 先住民団体カウェセス・ファースト・ネイション(Cowessess First Nation)のカドマス・デローム(Cadmus Delorme)代表は学校跡地で報道陣に対し、「きのうまでに墓標のない墓を751基発見した。集団墓地ではない。これらは墓標のない墓だ」と述べた。
 見つかった墓には過去に墓標があった可能性もあるが、「カトリック教会の代表者らがこれらの墓石を撤去した」とデローム氏は説明。カナダでは墓標の撤去は犯罪であり、墓が見つかった場所は「犯罪の現場」として扱われているという。
 カナダでは1990年代までに、先住民の子ども約15万人が強制的に国内139か所の寄宿学校に送られ、家族や母語、先住民文化から引き離された。寄宿学校では子どもたちに対する劣悪な待遇や性的虐待が横行し、4000人以上が死亡したとされる。この問題に関する調査委員会は、カナダが「文化的ジェノサイド(大量虐殺)」を行ったと結論した。
 ジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は今回の発見を受け、カナダは先住民に対する人種差別の歴史に向き合い、「より良い未来を築く」必要があると表明した。


https://vancouver.keizai.biz/headline/2675/
「バンクーバー経済新聞」 2021.06.06
■バンクーバーの道路沿いにオレンジシャツ215枚 先住民族寄宿学校跡での遺体発見受け

【写真】UBC近くのマリンドライブ沿いに並べられたオレンジシャツ

 バンクーバーのマリンドライブ沿いUBC近くに現在、215枚のオレンジ色のシャツが並べられている。ブリティッシュ・コロンビア州カムループスの先住民族寄宿学校の跡地で遺体が発見された215人の子どもたちへの追悼の意で。
 シャツを並べたのはバンクーバーを含むブリティッシュ・コロンビア州の先住民族マスキーム族の人々。道路沿いを数キロメートルにわたり続く215枚のオレンジシャツの列は、あまりにも多くの子どもたちが犠牲になったという事実を再認識させる。
 カナダでは先住民族の人々に対する同化政策の元、1880年代から1990年代まで各地で主にカトリック教会が寄宿学校を運営。15万人以上の子どもたちが家族と離れての生活を強制された。寄宿学校在籍中に行方がわからなくなった子どもについては記録もなく不明とされてきたが、先住民族の人々は校内での死亡事例も含めて調査を求めていた。今後、全国にある寄宿学校跡地での調査が進めば更なる遺体が見つかる可能性もあるという。
 カナダ全土では27日の遺体発見のニュースは重く受け止められており、多くの学校や公共施設で追悼の集会や寄宿学校に関する教育活動が行われた。小学生の子どもとオレンジ色のシャツを見ていた女性は「小さな子どもたちのことを思うと胸が痛む。最後の学校が閉まったのが90年代と聞きあまりにも最近なので驚いた。全ての国民がきちんと事実を知り、向き合う必要がある問題だと思う」と話した。
 オレンジ色のシャツを着ることはカナダで寄宿学校に対しての意識を高めるための方法とされており、「オレンジシャツ・デー」は、1973年に寄宿学校に入学したフィリス・ウェブスタッドさんが着ていたお気に入りのシャツを記念して名付けられた。


https://www.bbc.com/japanese/57312454
「BBC News japan」 2021年6月1日
■カナダの先住民寄宿学校跡で215人の遺体発見 支援団体は「全国的な捜索」要求

【写真】遺体発見を受け、各地で子供用の靴を並べて追悼する光景が見られた。

 カナダで先住民同化政策の寄宿学校跡地から未成年215人の遺体が発見された問題を受け、同国の先住民団体は5月31日、こうした犠牲者の集団墓地がほかにもないか全国で捜索するよう、政府に要求した。 先住民支援団体「ファースト・ネイションズ連合」のペリー・ベルガルド会長は声明で、遺族には「真相を知る権利と、癒される機会があるべきだ」と述べた。
 「すべての寄宿学校跡地で徹底的な調査を行い、我々に対するジェノサイド(集団虐殺)の真相を解き明かすべきだ」。
 カナダでは19世紀から20世紀にかけ、政府とキリスト教当局が先住民寄宿学校を運営し、同化政策を行っていた。カナダ政府は2008年に正式に、この同化政策について先住民に謝罪している。
 5月27日に遺体が発見されたのは、西部ブリティッシュコロンビア州カムループスの先住民寄宿学校の跡地。遺体の中には3歳児も含まれていた。
 この学校は1890年にキリスト教カトリック教会の運営で開校し、1950年代には最大500人もの生徒が入学していた。1969年には中央政府が運営するようになり、1978年に閉鎖されるまで地元学生の学生寮として続いた。 
 この学校の敷地で子供215人が埋められた集団墓地が見つかり、カムループスのファースト・ネイション代表、ロザンヌ・カシミルさんは、「知る限りこの子供たちは行方不明扱いで、その死亡は記録されていない」と話した。カムループスの学校に子供たちが入れられたコミュニティーに、連絡をとって情報を集めているという。

◆子供を無理やり取り上げられ
 子供たちの遺体の発見を受け、政府の対応に強い反発が起きている。各地で子供用の靴を並べて追悼する光景も見られた。
 ジャスティン・トルドー首相は記者会見で、「父親として、子供を無理やり取り上げられたらどう感じるのか、想像すらできない」と話した。
 その上で、「首相として、先住民の子供をコミュニティーから奪い引き離すなどという、恥ずべき政策にショックを受けている」と説明。支援と「確固とした措置」を行うと述べたものの、詳細は語らなかった。
 プリンス・エドワード島のシャーロットタウンでは今回の発見を受け、カナダの初代首相ジョン・A・マクドナルドの銅像が撤去された。マクドナルドは、同化政策や寄宿学校の設立で大きな役目を果たしたため、抗議者の標的になっている。

◆カナダの同化政策とは

【写真】カムループス寄宿学校の写真。一時は500人もの先住民の子供がここで同化教育を受けていた。

 カナダでは同化政策の一環として、1863年から1998年までの間に15万人以上の子供が家族から引き離され、寄宿学校での生活を強制されていた。
 校内では母語を話したり、民族の文化活動を行うことは禁じられていた。また、多くの生徒が不当な扱いを受け、虐待されていたという。
 2008年に、先住民寄宿学校の歴史と影響を調査する「カナダ真実・調停委員会」が発足。多くの生徒が地元のコミュニティーに戻らなかったことが明らかになった。
 さらに2015年には、このシステムは「文化的なジェノサイド」だったとする報告書を公表している。
 一方、寄宿学校に在籍中に亡くなった子供を調査するプロジェクトでは、これまでに4100人以上の犠牲者が特定されているという。
(英語記事 Canada mass grave find sparks call for more action / Remains of 215 children found at Canadian school)


https://www.afpbb.com/articles/-/3349214
「AFP」 2021年5月31日 11:03 発信地:モントリオール/カナダ
■先住民寄宿学校跡から子ども215人の遺骨、カナダ各地で追悼

【写真】カナダ・ブリティッシュコロンビア州の寄宿学校跡地から215人の子どもの遺骨が発見されたことを受けて、犠牲者を追悼しデモ行進する同国ケベック州のカナワク・モホーク居留地の人たち(2021年5月30日撮影)。(c)Peter MCCABE / AFP
【写真】カナダ・ブリティッシュコロンビア州の寄宿学校跡地から215人の子どもの遺骨が発見されたことを受けて、同国ケベック州のフランシスコ・ザビエル教会前に並べられた子ども用の靴を見る地元の子どもたち(2021年5月30日撮影)。(c)Peter MCCABE / AFP 

 先住民を同化させる目的で100年以上前にカナダのブリティッシュコロンビア(British Columbia)州に建てられた寄宿学校の跡地から3歳児を含む子ども215人の遺骨が見つかったことを受けて、カナダ各地で30日、追悼行事が開かれ、半旗が掲げられた。
 ジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は、「カムループス(Kamloops)の寄宿学校で命を落とした215人の子どもたち、そしてついに家に帰ることができなかったすべての先住民の子どもたち、生存者、その家族のために、(首都オタワの)ピースタワー(Peace Tower)と連邦政府のすべての建物で半旗を掲揚するよう指示した」とツイッター(Twitter)に書き込んだ。
 トロントなど複数の自治体も半旗を掲揚すると発表した。
 各地で追悼行事も開かれ、モントリオールに近いカナワク(Kahnawake)の先住民族モホーク(Mohawk)人のコミュニティーでは30日、約100人の参加者が、フランシスコ・ザビエル(Francis Xavier)教会の階段に子ども用の靴や玩具を並べた。


https://www.afpbb.com/articles/-/3349657
「AFP」 2021年6月2日 12:02 発信地:オタワ/カナダ
■カナダ首相、議会前で献花 先住民寄宿学校跡地での遺骨発見受け

【写真】カナダ・ブリティッシュコロンビア州の寄宿学校跡地から先住民の子ども215人の遺骨が見つかったことを受け、首都オタワの議会議事堂前に設けられた献花台を訪れたジャスティン・トルドー首相(手前右、2021年6月1日撮影)。(c)Dave Chan / AFP

 カナダのジャスティン・トルドー(Justin Trudeau)首相は1日、寄宿学校の跡地から先住民の子ども215人の遺骨が見つかったことを受け、首都オタワの議会議事堂前の献花台に花を手向けた。
 ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州で先週、19世紀後半に先住民の同化を目的として建てられた寄宿学校としては最大規模のカムループス・インディアン・レジデンシャル・スクール(Kamloops Indian Residential School)の跡地から、先住民の子ども215人の遺骨が見つかっていた。
 トルドー首相は数分間の黙とうをささげ、カナダ建国100周年を記念して1967年に議会議事堂前につくられた「センテニアル・フレーム(Centennial Flame)」で、子どもの靴やおもちゃが供えられた献花台の前にひざまずいた。その後、近くにいた先住民と短く言葉を交わした。
 寄せられた追悼のメッセージには、「すべての子どもが重要だ」と書かれたものもあった。
 カナダで6月は全国先住民歴史月間(National Indigenous History Month)。その始まりに当たりトルドー首相は、「これは寄宿学校に起こったこと、そして今日まで続くその影響を痛切に思い起こさせるものだ。われわれは、このことから隠れることはできない」とツイッター(Twitter)に投稿した。「寄宿学校は現実に存在したものであり、この国で実際に起きた悲劇だ。われわれはそれを認めなければならない」
 さらにトルドー首相は、「私たちは皆、体系的な不平等と差別を解体するという役割があり、それは過去の過ちについての真実を認め(中略)、先住民のファーストネーションズ(First Nations)やイヌイット(Inuit)、そしてメティス(Metis、白人と先住民との間に生まれた人)の歴史的遺産、文化、伝統を尊重するところから始まる」とツイートした

 
http://eritokyo.jp/independent/aoyama-col99982.html
「独立系メディア E-wave Tokyo」 2013年2月28月
■エリザベス女王とバチカンによるモホーク族の子供達の大量虐殺がカナダで明らかに
 By Alfred Lambremont Webre, JD, MEd (2011年10月8日) カナダのブラントフォードにて

 モホーク族の為に1970年に閉鎖されるまで英国国教会とバチカンによって運営されていたモホーク研究所の寄宿学校内で、モホーク族の子供達の集団墓地が地中探知レーダーによって発見された。

【写真】地中探知レーダー

 教会と国家の犯罪国際法廷(www.itccs.org)の秘書であるケビンアネット-牧師によると、モホーク族の研究所は1832年、イギリスの英国国教会によってモホ-ーク族の子どもたちを投獄し、命を奪う為に設立された。
 カナダで最も早く設立されたこのインディアンの寄宿学校は、1970年まで続いた。そして全寮制学校に入れられた子供達の半数以上はけっして戻る事はなかった。子供達の多くは学校の周辺に埋められている。
 地中レーダーによるスキャンによりモホーク研究所本館を閉じることになったが、1970年にモホーク研究所が閉鎖される直前、モホーク族の子供達の集団墓地の存在をカムフラージュし、またジュネーブ条約、国際刑事裁判所および協力国の裁判所などに大量虐殺と人道に対する罪で追訴される事を回避する為に15から20フィートの土が運び込まれ、集団墓地の上にかぶされたとモホーク族研究所は明らかにしている。
 今年(2010年)の10月下旬、ベルギーのブリュッセルとアイルランドのダブリンにて「教会と国家の犯罪に関する国際法廷」(ITCCS.org)は、司法手続を開始する予定である。
 法医学的な証拠によると、この司法手続きは、人道に対する子供達への大量虐殺の罪を審理するためとされている。
 故意に子供の大量虐殺計画と隠蔽工作に参加したとされるカナダと英国国教会のトップであるエリザベスウィンザーと教皇ヨセフラッツィンガーらに対してこの司法手続は進められている。
 裁判の公判は、もともとイギリスのロンドンで開催されるとされていたが、英国政府は理由もなしに犯罪に関する国際法廷の国務長官と主要な法律家とスタッフへの入国を拒否した。
 モホーク研究所内での地中探知レーダーによって発見されたモホーク族の子供達の大量埋葬地は、目撃者であるウィリアム・クームズのビデオテープ証拠にもとづくものである。
 それは1964年10月、カナダと英国国教会のトップであるエリザベス・ウィンザーがブリティッシュコロンビア州にあるカムループスの先住民学校を訪れ、10人の若い先住民の子供達を選び彼女の足にキスをさせている。伝えられるところによると湖のピクニックと称して彼らを学校から連れて行ったというものだ。
 その10人の先住民の子供達は、決して姿を見せることはなかった。エリザベス・ウィンザーに対する「子供達の虐殺を教会と国家の犯罪国際法廷」(ITCCS.org)に証拠を提供したクームズ氏は2011年2月、殺害されている。幸いな事に、クームズ氏の証言は生前にビデオに録画され、裁判で有効なものになっている。

【写真】探索された泥のアナからの発掘物

 儀式でモホーク族の子供達を拷問するため使う体を引き裂く形式の拷問台のような器具も現在閉鎖されているモホーク研究所内で発見されているとケビンアネット牧師は述べている。
 モホーク族の地域社会における目撃者達は、子供達に対する拷問儀式において赤いローブの司祭達を見たことがあるとはっきり述べている。
 これらの問題の共通類似点は、英国と英国国教会のトップであるエリザベスウィンザーが関与していることにある。彼女はこの組織的な大量殺害計画と儀式的拷問や英国国教会とバチカンにより運営された英国国教会の寄宿学校での殺人を個人的にも知っており、命令し、参加していたと推察される。
 インタビューでアネット牧師は、カナダの主なメディアやカナダ政府は隠蔽工作を行い、モホーク子供達への大虐殺発見についても報道管制を続けていると述べている。
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中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(三)

2022年01月28日 | 海南島近現代史研究会
■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(三)■
                           小林節子

■「歴史を訪ねる旅」
 その後、「731部隊展」を企画、準備し、1993年から日本全国各地で開催したABC企画が定期的に実施している「歴史を訪ねる旅」に参加した。これらの旅はABC企画が長年中国との交流を深め、信頼関係にあってはじめて実現できる旅であった。個人では到底行くことができない場所を訪れ、聴くこともできない証言を聴くことができる貴重な旅であった。
 平頂山惨案記念館、撫順炭鉱遺跡、豊満労工記念館、東寧軍事要塞労工墳など、黒龍江省、吉林省、遼寧省に残る多くの戦争遺跡を自分の目で確かめる旅が続いた。そこには必ず歴史記念館が併設されていた。その建物の一部に遺骨館が併設されている場合が多かった。屋内に整然と羅列されている遺骨群、未整理のまま積み重ねられた遺骨の山もあった。手足を針金で縛られたままの遺体、明らかに刃物で割られた頭蓋骨、母親が子に覆いかぶさる遺骨。射すくめられるような視線が私に向けられている、そう感ぜずにはいられないほど苦悶に満ちた表情の遺骨群であった。
 いくつの万人坑を訪れただろうか。阜新炭鉱万人坑、遼源炭鉱万人坑、鶏西炭鉱万人、坑虎頭要塞万人坑・・・。中国全土に残された万人坑のほんの一部に過ぎない。どれだけ歩こうと終わらない旅である。私にとって重い旅ではあるが天津の花岡事件遺骨館にはじまり、中国人強制連行問題に引き寄せられていく過程でもあった。以前私は万人坑について、「「万人坑」とは日本軍要塞、炭鉱、道路、ダム建設などで過酷な労働に耐えきれず命を落とした中国人労働者の埋葬地である」と書いた。いま、改めて「「万人坑」とは日本の中国侵略下、日本軍、日本の民間企業による苛酷な環境での労働、虐待、過労死など理不尽な死を強いられた人びとが捨てられた場所である」と訂正する。

■万人坑生成の理由
 万人坑の生成にはいくつかの要件が重層的に絡まっている。起因は日中戦争勃発以降太平洋戦争に至る戦争遂行体制にあり、労働強化による過労死 虐待死であることは明白な事実である。日本は中国東北部に1932年「満州国」( 以下満州国)を建国した。満州国建国の目的は満州の豊富な各種資源を開発し、日本の総合的国防力の増強を図ることにあった。建国が軍部主導で行われた関係上、政治・経済政策も軍部の意を汲む政策とならざるを得ない。満州国の政策は実質的に日本との関係性を強化しつつを推し進められた。      
 日中戦争勃発後、日本国内の労働力人口は徴兵、徴用により急激に減少していた。戦争遂行のため1938年「国家総動員法」が制定され、あらゆる軍需産業に国民が動員された。満州においても日本同様、労働力不足は関係企業にとって死活問題であった。 とくに重工業の拡充は最優先課題であり、鉄鋼、鉱業 電力、また資源運搬のための道路、港湾建設などすべてにおいて労働力の払底が問題となっていた。再三労働力の斡旋要求を政府に陳情していた。満州国政府、関東軍、満鉄、関東局の出席の下、「速やかに国内労働需給統制に関する一大国策機関を設立する」計画が立案され、大量の労働力を移入し統制する実行機関「満州労工協会」が設立された(1938年1月設立)。満州労工協会設立の目的は、必要とされる労働力の確保、配置機構にあったが、反満抗日運動弾圧の補助機関の機能をあわせ持っていた。労働者登録業務の際、十指の指紋登録は労働者の移動を防止する目的で行われたが、反満抗日運動を未然に防止するためには有効な対策であり、軍の治安工作を支える機構であった。日中戦争の拡大に伴い、労働力の移入は計画数に届かないことが続いた。満州労工協会は機構改革を重ねながら機能を強めていた。1941年、「関特演」を実施した関東軍が対ソ戦準備強化に必要な労働力を要求、すなわち国境付近の軍用施設建設、物資輸送に必要な大量の労働力の要求であった。満州国政府にとって従来の労働政策では対応じきれない要求であった。そして太平洋戦争が勃発する直前の1941年11月、「満州労務興国会」が設立された。すべての国民の労働力を国家権力の下に統括する国民皆労体制、翼賛政策が確立する。労働能率の向上、労働力の適正配置の強化が目的と強調されているが、労工協会が担っていた業務は満州国地方行政機関に移され、労働斡旋、労働資源の保護、労務管理改善などが労務興国会に移され、より強い権限による労働政策が実施される。満鉄、満州重工業、土建業界、国有林伐採協会、国際運輸などを構成員とし、満州国政府にすべての権限が集中する体制が確立される。新体制が推進され、戦争遂行政策が満州国と日本政府同時に施行された。そして戦争末期には日本の企業の逼迫する労働力を補充するために「華人労務者内地移入ニ関スル件」が1942年11月、東条内閣によって閣議決定され、中国人の強制連行、強制労働が開始された。

 第二に「特殊工人」の死がある。特殊工人とは華北で繰り広げられていた抗日戦線、抗日根拠地で捕らえらえた将兵(戦争俘虜)を指し、捕虜収容所に隔離し、労工に仕立てあげ特殊工人と名付けて東北各地、戦争末期には日本へ移送された。また日本軍の「兎狩り作戦」で連行された農民、一般人も同時に特殊工人と同等の扱いを受けた。事実上特殊工人は「死囚工人」と呼ばれ、労工の中でももっとも劣悪極まる場所、危険なところへ配置され、待遇も他の労工とは比較にならないほど悲惨なものだった。花岡事件はこの特殊工人たちの蜂起による事件だった。特殊工人が受けた苛酷な体験は強制連行された労工のなかでもっとも高い死亡率となって現れている。

 第三に「把頭制度}を利用した支配制度があった。古い中国には狭い血縁関係、あるいは地縁で結ばれた同族の結びつきが決定的に作用する社会があった。この縁者を率いる者を把頭と呼び、この把頭制度を日本企業は雇用関係に利用した。把頭の存在は一族を束ね雇用会社との仲介役を務めることにあったが、実際には工人の募集、炭鉱その他の現場での労働管理一切を取り扱う場合が多かった。つねに労働力の補充を必要とする企業側にとって把頭及び把頭制度を温存する以外に円滑な運営は不可能だった。把頭側にとっては生活全般を把握することにより、搾取の目的は容易に達せられる。賃金のピンはね、生活必需品の購入も把頭が経営者で、その価格は外部よりはるかに高額だった。賃金の不足分を翌月に残す仕組みが労工たちに逃亡を許さなかった。把頭はつねに雇用者側の代弁者であり、縁につながる関係を利用して苛酷な労働を強いた。万人坑のなかには把頭の名を付けて○家坑と呼ばれる万人坑がある。日本の収奪は把頭をおいては語れないと言われる所以である。

 ここでは以上三点を万人坑生成の理由にあげたが、原因は他にも種々存在する。出炭量増産のみを至上命令とする炭鉱において、企業は坑内の保安施設に注意を払わない。一本の坑木を惜しんだ結果落盤事故、ガス爆発の多発を招き大量の犠牲者を出した。疾病、怪我に対する設備は皆無に等しかった。加えて労務係と呼ばれる監視人の暴力。度を越す人命軽視が労工たちの反撃を招くのは必然だった。ストライキ、サボタ-ジュ、暴動、集団逃亡などあらゆる方法で抵抗が繰り返された。しかし万人坑の生成は止むことはなかった。アジア太平洋戦争による犠牲者の数にこの万人坑に打ち捨てられた労工の命は数えられていない。

■万人坑は日本各地に残されている
 中国人強制連行が華北を中心に広範囲な地域で行われ、連行された人たちは中国国内だけでなく日本にも移送されていた。万人坑は日本各地に残されている。それが「万人坑」であろうと「千人坑」であろうと問題ではない。自国が発動した侵略戦争に他国人を強制連行し、酷使、虐待のすえ死にいたらしめた責任は日本国にある。今なお行方不明のままの夫、息子の身を案ずる家族がいる。その責任の重さを私たち一人ひとりが自分のものとしない限り、戦争は終わらないし、平和を口にすることも許されないのではないか。万人坑は私にとって重い十字架となってのしかかっている。

                             2021・10・31
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中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(二)

2022年01月27日 | 海南島近現代史研究会
■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(二)■
                           小林節子

■花岡裁判開始
 事件から40年後の1985年8月、中国・河北省の新聞に花岡事件に関する記事が載った。王敏さんはその記事の中に大隊長耿諄さんの名前を発見した。王敏さんは耿諄さんは死刑になったとばかり思っていた。日本を離れるとき憲兵から「耿諄は死刑になった」と聞いていた。信じられなかったが記事をたよりに耿諄さんを訪ねた。この再会をきっかけに花岡事件の幸存者はお互いの消息を訪ねはじめた。それは過去に受けた暴戻の数々を追及する動きに発展していった。後に「花岡事件受難者連誼会」の発足に際して、耿諄さんが名誉会長、王敏さんは会長に就任している。
 耿諄さんたちは1989年から鹿島建設とのあいだで自分たちが受けた被害に対する謝罪と賠償を求める話し合いを続けていた。1990年7月5日、生存者と遺族を代表して耿諄さんは交渉代理人5人を交えて、鹿島建設副社長とのあいだで「共同声明」を取り交わしていた。その中で鹿島建設は「(前略)中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制連行に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する。(後略)」と責任の所在を認めた。「共同声明」は初めて日本企業が強制連行の責任を認めた唯一の重要文書である。その後、鹿島建設は態度を覆し「自分たち企業に責任はない」と誠意ある応対を避けつづけた。
 1995年6月、花岡事件の生存者と遺族合わせて11人が鹿島建設(当時の鹿島花岡出張所)に対し損害賠償請求訴訟に踏み切った。訴状は「華人労務者内地移住ニ関スル件」の閣議決定がなされた経過と自分たちが花岡で受けた被害は国際法違反ではないか、また安全保護義務違反ではないか、及び一人550万円の賠償金を要求するものだった。この時点まで交渉代理人だった5人は以降原告弁護団として裁判に関わることになった。私はこの裁判の成り行きを知りたいと、時間の許す限り傍聴に通った。証人または参考人として多くの人が法廷に立った。被告・鹿島建設の発言、研究者の意見陳述、中国から来た原告の証言、全てが日本の過去の罪業を浮きぼりにするものだった。法廷での審議を終え、弁護士会館で開かれる報告会ではさらに鹿島建設の不誠実な対応が弁護人によって明らかにされた。鹿島建設の不誠実な態度は単に鹿島建設のみならず強制連行に関わった企業全体、もっと言えば日本政府の戦争責任に対する姿勢と軌を一にするものであり、花岡裁判は日本の戦争責任を明確にする闘いとなっていった。
 1997年12月10日の一審判決は「原告の一切の請求を棄却する」という冷酷なものだった。即刻控訴が申し立てられた。提訴からすでに5年が過ぎようとしていた。
 2000年4月21日、東京地方裁判所から双方に「和解勧告書」が出された。もし和解が成立すれば同じように強制連行、強制労働の問題解決を迫られていた企業にとっても準拠となる方策だった。関係企業だけでなく関心を持って運動に参加している市民も固唾を呑んで和解案の成り行きを注視していた。

■和解勧告書
 和解勧告書の要点は、当事者双方が承認すべき事項として、「被控訴人である鹿島建設が利害関係人中国紅十字会に対し金5億円(「花岡平和友好基金」)を信託し、控訴人はこれを了承する。信託金は受難者と遺族の生活支援と日中の歴史研究その他の活動資金に充てるものとする」、「本件和解が花岡事件について全ての懸案の解決を図るものであること及びそのことを担保する具体的方策を和解条項に明記する(具体的な条項は更に検討する。)」というものだった。
 2000年4月28日、弁護団は北京で耿諄さんはじめ被害者と会い、訴訟情報報告会が開かれ、裁判所から出された和解勧告書の説明がなされた。和解同意書が提出された。裁判は大詰めを迎えていた。原告全員の委任状を得て弁護団は2000年11月29日、鹿島建設との歴史的な和解を成立させた。
 大新聞各社は大見出しで画期的な成果だとこのニュ-スを報道した。しかし、和解当日、鹿島建設が自社のホ-ム・ペ-ジに発表した「花岡事案和解に関するコメント」は原告団だけでなく、中国人強制連行問題の抜本的解決の礎となることを期待していた人びとにも衝撃を与えた。そこには「今回の和解協議は東京高等裁判所からの勧告に沿ったものであり、訴訟内容については従来より主張してきたとおり鹿島建設に法的責任はない、本基金の拠出は補償や賠償の性格を含むものではない、この和解事項は原告11人だけでなく花岡出張所で労働に従事した986名全員を含めることは裁判所も控訴人も理解した」というものだった。(要約)
 
 和解に際して鹿島建設が公表したのは、この和解は法律的な責任を負うものではなく、賠償補償を言わない、そして986人全員の問題を全て解決すること、それは裁判所も弁護団側も承知しているというものだった。そこには原告団が決して譲歩できない条件として要求してきた謝罪と補償、花岡事件記念館の設立についての文言は一切なかった。
 報告会で耿諄さんは和解案の内容を知らされ、「ここには連誼会が要求してきた謝罪と賠償という文言が入っていない、歴史記念館を建設する件も入っていない、金額が問題なのではない、我々の民族の尊厳を回復するものでなければならなkい。」と発言している。
 この「和解勧告書」をめぐっては和解成立後、中国内の受難者連誼会と弁護団のあいだに内容の解釈に齟齬を生み、連誼会内部に亀裂と分裂をもたらしたことは残念なことと言わなければならない。
 周知の花岡事件にこだわったのは、花岡事件が中国北支、中支(主に河北、山東省)から「満州国」の炭鉱、土木工事、軍事要塞などの建設現場に移送され、強制労働を強いられ非業の死を遂げた人びとが葬られた万人坑の頻出と同根であることが明白な以上、日本国内にも万人坑が現出していたのではないか。花岡鹿島事業所だけでなく、全国135の事業所で差はあれ同じ状況が繰り広げられていたと考えた。1943年4月から45年5月までの2年間に38,939人の中国人が日本の事業所に移送され、そのうちの7千人が犠牲になっている。できるならば417人の花岡事件の犠牲者の遺骨が無事に祖国に還り着いているのか確かめたい気持ちが強まった。

■強制連行が戦後の日本経済発展の基礎を作った
 抗日戦争歴史記念館で王敏さんの証言を聞いた翌日天津を訪れ、遺骨が安置されていると聞いていた天津水上公園を訪ねた。だがその日は休日であったのか、管理者が不在で遺骨に会うことはできなかった。残念な思いはあったが代わりに塘沽の港を見せてもらった。どれほど多くの中国人がこの港から運び去られたか、還りつけなかった人びとの無念な気持ちが海の青さを濃くしていると思った。塘沽の港は深い緑色の波が静かに岸壁を洗っていた。
 1958年2月、北海道の山中で中国人・劉連仁さんが発見されたというニュ-スは私たちを驚かせた。敗戦後13年が経ち、朝鮮戦争の特需を契機に日本経済が回復の度合いを強めていた時代に、劉連仁さんの発見のニュ-スは日本中に冷水を浴びせた。
 1944年9月、31歳のとき強制連行され、北海道明治鉱業昭和鉱業所に配属された。あまりの暴虐に耐えきれず仲間4人と逃亡を決行した。途中仲間とはなれ離れになりながら13年間山中をさまよい続けたという。劉連仁さんの帰国に際して日本政府が見せた対応は中国人強制連行とは如何なるものだったのか、またこの問題が何も解決されていないことを周知せしめた。
 劉連仁事件をきっかけに花岡事件を含んだ中国人、朝鮮人強制連行に関するニュ-スが新聞雑誌に取り上げられるようになった。敗戦時、6歳だった私は花岡事件について知る由もなかったが、劉連仁さんが現れた頃には研究書、物語など手近に参考となる書籍が多くあった。1964年、「中国人強制連行事件の記録」と副題にうたれた『草の墓標』が出版された。「本書は中国人強制連行の記録である。中国人強制連行事件とは戦争末期東條内閣の閣議決定によって中国より約4万人の中国人を日本に強制連行し、全国の鉱山、港湾、土建などで労役し、そのうち約7千人を死にいたらしめた事件である。」編者・中国人強制連行事件資料編纂委員会とある。
 『草の墓標』は 劉連仁さんが降り立った北海道深川駅の駅員の証言から始まり、日本の帝国主義と植民地主義が犯した罪業の実態が余すところなく描き出されていた。国内の、人里離れた場所で悲劇は繰りかえされていた。たとえ巧妙に仕組まれた組織や時代背景が人びとに沈黙を強いたとしても、言葉も理解できない人たちが酷使されている事実は多くの人の眼に触れていたのではないだろうか。なぜかくも長く隠蔽が守られ続けられたのか。国策であったことは免罪符にはならない。せめて『草の墓標』が日本人の手で編まれてほしかった。花岡事件、劉連仁事件の歴史的背景と責任の所在を追及し、蜂起、逃亡に至る事由ばかりでなく、強制連行が戦後の日本経済発展の基礎を作ったこともこの書に教えられた。『草の墓標』に出会ったことを契機に、私は日本の近現代史を学ばなければならないと考えはじめた。自分の無知を歯噛みする思いはさらに中国への旅を重ねさせた。
 天津に安置される強制連行殉難者の遺骨を見たい、私の思いは時と共に強くなっていった。殉難者の遺骨返還に協力した「中国帰還者連絡会(*)」が天津を訪れると聞いた。1995年4月、私は即刻参加を申し込んだ。変わりなく天津水上公園にコンクリ-ト造りの建物はあった。中は冷気に包まれていた。壁一面に作られた木の棚に白い布に包まれた遺骨箱が整然と並べられ、四方の壁を埋め尽くしていた。一つ一つに墨で名前が記されていた。祖国に還ったが、故郷までたどり着けない遺骨だと説明された。故郷への後難を恐れ、偽名を使っていた人が多く、出身地を探し当てることが難しく、目前の故郷にたどり着けない遺骨が残されていた。7千人の積怨がどれほどのものか、黙祷を捧げる以外何もできなかった。
   *「中国帰還者連絡会」(通称中帰連)とは日・中戦争中、中国国内であらゆる犯残虐行為を犯した
    日本軍人約千人が、ソ連・シベリヤ抑留から新しく建国して一年の中国に引き渡され、戦犯として
    裁かれた。「鬼から人間に」変えられ許されて帰国したのち「日中友好・不戦、平和」を旗幟とし
    て1956年平和団体を結成した。(現撫順の奇跡を受け継ぐ会)
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中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(一)

2022年01月26日 | 海南島近現代史研究会
 2020年夏に新型冠状病毒肺炎の感染者が急増してきたので、この年の9月5日に開催を予定していた 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を半年後の2021年2月13日に延期しましたが、2021年にはいってから、新型冠状病毒肺炎の流行がいちだんと強まってきたので、8月21日に再延期しました。しかし、新型冠状病毒肺炎の伝染が治まらず、2022年2月19日に再々延期し、さらに8月21日に開催せざるを得なくなりました。
 以下に、海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会で発表予定の小林節子さんの主題報告の内容を3回に分けて掲載します。
                         海南島近現代史研究会


■中国東北地方に残された万人坑を訪ねて(一)■
                           小林節子

■花岡事件の幸存者、王敏さんの証言
 私の中国への旅は秋田県花岡に強制連行された中国人慰霊の旅から始まる。
 1993年の4月、北京で開催される予定だった「花岡悲歌」展覧会が直前になって10月に延期された。参加予定者の中に秋には日程の都合で参加できない者が数人いた。私もその一人で、どうしても行きたいと主催者側に申し入れた。半ば強引だったが少人数のグル-プが作られ、6日間の日程で出発した。北京では万里の長城をはじめ、名所旧跡を足早に巡った。初めての中国、特に北京は何もかも驚きの連続だった。まず遺跡の多くが街の近くに残されていること、その規模の広大さに目を見張り、また街中に溢れる自動車、自転車、人の多さにも声を上げた。この旅の最大の目的は北京郊外に建つ中国抗日戦争歴史記念館で、花岡事件の幸存者、王敏さんの証言を聞くことだった。あの花岡事件を生き抜いた人に会える。私ははやる気持ちをなだめながらその時を待った。
 中国抗日戦争歴史記念館は盧溝橋のたもとにあった。現在の記念館が建てられる前の静かな建物だった。入り口の大ホ-ル壁面いっぱいに広がる抗日軍のレリ-フ、村を襲う日本軍と戦う人民軍のジオラマ、日本軍兵士の残虐な行為を再現したレプリカ、各種の写真、使用兵器など順路にそって見学を終えた。重い足を引きずるように会議室に向かった。王敏さんの話は私たちの心にさらに大きな衝撃を残した。

■石門の「労工訓練所」から花岡鉱山へ
 王敏さんの証言は八路軍の兵士として華北で交戦中捕虜になった話から始まった。
 「石門(のちの石家荘)の捕虜収容所に集められた。門柱には「労工訓練所」と書かれていたが、それは酷い所でした。宿舎とは名ばかり寝る場所は板の棚、寝返りもできないほど詰め込まれた。囲いの塀の上には電線が張りめぐらされていた。訓練を受けたことはない。集められ訓示と点呼が繰り返される毎日でした。写真や指紋を採られた。収容者が千人ぐらいになったとき突然全員整列の号令がかかり、その中から300人が一か所に集められ、行く先も告げられずに貨物列車に押し込まれた。降り立ったのは青島港へつづく駅で、急き立てられて乗船した。船の上で初めて自分たちが日本へ行って仕事をさせられるとわかったのです。」
 船の中は騒然となった。捕虜といっても兵士ばかりではなく日本軍の作戦によって強制連行された農民、一般人も多数含まれていた。口々に家への連絡はどうするのかと叫び、今にも海へ飛び込もうとする者もあった。一人も日本語を話せる者がいない、要求も通らない、管理者は銃を構えた日本軍兵士だった。日本軍は中国人に中国人を管理させる方針をとった。直ちに捕虜の中から将校経験者が選び出され、100人単位の中隊、小隊が組織された。統括する大隊長に選ばれたのは後に花岡蜂起を指揮する耿諄さんだった。耿諄さんは全員に向かって「こうなった以上生きて故郷の家族のもとに帰ろう」と呼びかけた。王敏さんは中隊長になった。
 四日目、船は下関港に着いた。そこからさらに列車に乗せられ三日目、小さな駅に着いた。そこが「花岡」駅だった。「その日はたしか1944年8月10日ではなかったか」と王敏さんは記憶を探った(7月28日説あり).王敏さんたち約300人が降り立った花岡は秋田県北部に位置し、周囲の山は五、六百メ-トルとあまり高くはないが、そこは昔から石炭だけでなく、金、銀、銅など鉱石が算出される場所で、鉱山災害で命を落とす人が多いことで有名な場所でもあった。王敏さんたちが連行される以前に徴用された日本人や朝鮮から連行された人たちもいた。この花岡鉱山に連行された中国人は王敏さんたちが初めてではなかった。すでに中国から連行された人たちが千人以上この鉱山で厳しい労働を強いられていた。王敏さんたちが担わされた仕事は鹿島組花岡出張所が請け負った鉱山をぬって流れる花岡川の付け替え工事だった。夏はともかく短い秋、降雪の多い冬の花岡で王敏さんたちはどのように過ごしたのだろうか。

■花岡蜂起
 「もう花岡事件のことは皆さんよくご存知でしょう。50年も前の話ですが、忘れることはありません。ひどい生活でした。食べるものが少ない、着るものは中国にいたときのまま、冬になっても綿入れ一枚支給されなかった。花岡の冬は私の故郷より寒いのです。雪の降る日に水の中の工事です。多くの仲間が死んでいきました。想像して見てください。私たちがどうして蜂起を決行したか。」
 王敏さんはこの蜂起で重要な役目を担った。花岡には王敏さんたち第一団の299人の他に後続として新しく第二団が翌年の4月に589人、第三団が5月に98人が連行されていた。あとから来た人たちを蜂起に巻き込むことはできないという耿諄さんの指示に従い彼らには内密に事を運ぶ必要があった。当夜も物音や人の叫び声に不審を抱き起き出した人たちをなだめ寝床に戻す門番の役を受け持った。しかし他の宿舎から物音に気づいた仲間も加わり(あるいは事前に蜂起の情報が伝えられていたとも考えられる)、蜂起に参加した人は800人を超えていたのではないかと王敏さんは話した。王敏さんの話は日本人である私たちを意識してか事件の核心部分については触れられなかった。人間としての尊厳を傷つけられる行為が繰りかえしおこなわれたこと、花岡に来てわずか1年も経っていないのにすでに仲間の三分の一が殺されていた事実、その憤怒は日本人労務監督全員と中国人通訳1人を売国奴として殺害に向かわせるほど強いものだった(結果は日本人労務管理者4人と中国人1人の殺害にとどまった)。 
その間の事情を王敏さんに深く問うことはためらわれた。たとえ戦時下であったとしても残虐行為が行われているのを黙殺したばかりか惨劇に手を貸していたのもまぎれもなく私たち日本人だと考えた。
戦後、5人殺害の責任が裁かれた極東国際軍事法廷(BC級横浜裁判)で、一時的にせよ耿諄さんは死刑判決を受け(後に無期懲役、1946年拷問による病気治療のため帰国)他の11人も懲役10年から2年の刑を受ける結果となった。もちろん鹿島組花岡出張所長たち8人にも絞首刑を含む有罪判決が下された(1948年3月1日判決、ただし減刑を受け1956年にかけて全員が釈放されている)。
中国人を強制連行し使役した事業所は日本国内135ヶ所に上るが裁判によって裁かれたのは花岡事件一件だけだった。王敏さんの話は蜂起したのち捕らえられ、共楽館広場と大館警察署前広場で繰り広げられた惨劇におよんだ。王敏さんは共楽館前広場に連行された。
 「蜂起は6月30日でした。失敗に終わりました。逃げた日本人が通報したのです。執拗な追跡の手から一人も逃れることはできませんでした。一週間後には全員が捕らえられました。逮捕されたわたしは共楽館広場の砂利の上に座らせられました。三日間食事も水も与えられませんでした。7月の日差しはもう夏のようでした。叩かれた傷が化膿しはじめました。水を欲しがっても与えられず気を失うものが大勢出ました。ここでも100人の仲間が死んでいきました。三日目になってようやく薄いおかゆが配られました。歩くことができない仲間を背負って中山寮に戻りました。それからしばらくは首謀者探しです。責任は全員にあったのです。大隊長が「責任は自分にある」と皆をかばってくれました。13人が殺人の実行犯として裁判のために別のところへ移されましたが、私たちはまた工事にかり出されまた。」

 王敏さんは広場の砕石の上にもう一人と背中合わせに結かれたまま坐らされた。それは身じろぎ一つ自由にならない拷問に等しい刑罰だった。王敏さんの左ふくらはぎはそのときの傷跡を深く残していた。ズボンを引き上げて傷跡を見せた。治療を受けることもなく自然治癒を待つよりほかに方法はなかった。事件の傷がまだ回復しない半月後には工事は再開された。花岡に連行されてまだ一年と経っていない間に起きた出来事だった。それから一ヶ月後、日本は敗戦となった。しかし王敏さんたちは何も知らされないままその後も工事に従事させられたという。解放されたのは9月も半ばではなかったかと王敏さんは言う。連合軍と日本に住んでいる中国人が中山寮を訪れ、苛酷な境遇の終わりが告げられた。「生き延びた、祖国に帰れるぞ」、王敏さんは一瞬そう考えた、がすぐに耿諄さんはじめ裁判のために勾留されている仲間の処遇や、この地に斃れた仲間の問題など確かめなければならないことに気づいた。日本の敗戦後、中国国民政府は居留民団を代表部としてただちに強制連行について調査活動を開始していた。王敏さんは後のことをこの人たちに託し、中山寮に残っていた529人の仲間たちを率いて帰国の途についた。1945年11月29日、花岡から列車を乗り継ぎ、博多港から祖国天津港に向かった。

■殉難者は417人
 以上、王敏さんの受難者としての聞き取りは終わった。しかし花岡事件はこれで終わりにはならなかった。王敏さんたちが帰国した後、同じく強制連行され花岡鉱山に連行されていた朝鮮人たちが共楽館広場で繰り広げられた惨劇を一部始終を見ていた。その一人が犠牲者が埋められている場所を告発した。殉難者は417人に上っていたのだ。その遺体は中山寮からさほど離れていない鉢巻山の中腹に埋められていた。発掘された400体の遺体は荼毘に付され、白木の箱に収められ一旦近くの寺に安置された。私が初めて出会った「万人坑」が花岡鉱山で犠牲になった人たちの墓所であった。
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海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(一) 2007年~2010年

2022年01月25日 | 海南島近現代史研究会
 2007年から2022年までの27回の海南島近現代史研究会の「集会案内」を3回にわけて連載します。

                    海南島近現代史研究会  佐藤正人


■海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(一)  2007年~2010年■

(1)2007年8月5日 創立集会 
    1 開会。
    2 海南島近現代史研究会創立にいたる経過報告。
    3 創立集会へのメーセージ。
    4 会則(案)、討議。会則、決定。
    5 海南島近現代史研究会の活動計画について。  提案と討論。
    6 ドキュメンタリー『月塘村惨案』日本語暫定版試写。
    7 月塘村追悼碑の建立基金協力について。
    8 日本政府にたいする海南島侵略犯罪真相究明要求。
    9 会報『海南島近現代史研究』創刊について。
    10 自由討論。
    11 閉会。 

(2)2008年2月10日 第1回定例研究会  『会報』第1号発行。
    1、創立集会以後の会の活動報告
    2、研究報告Ⅰ  海南島近現代史のなかの世界近現代史    佐藤正人
 1869年にアイヌモシリ(「北海道島」)を植民地としてから70年後、天皇ヒロヒトと日本政府は、1939年2月に海南島に日本軍を奇襲上陸させました。その後、日本政府、日本軍、日本企業は、1945年8月までの6年半の間に、残酷な侵略犯罪を実行しました。国民国家日本の近現代史は、他地域・他国侵略の歴史でした。
 証言を基礎として海南島における国民国家日本の侵略犯罪と海南島民衆の抗日反日闘争の歴史を探求しつつ日本の国家犯罪を総体として認識し伝達する方法を模索してきた道程を報告し、海南島近現代史のなかにおける世界近現代史を認識する意味を、みなさんと共に考えたいと思います。
    3、研究報告Ⅱ  海南島近現代史資料について   久保井規夫 
  戦時、日本軍政下におかれた海南島における、日本軍の殺戮行為と抗日反撃の戦い、日本軍用施設・基地の建設、軍・企業一体となっての資源の強奪、植民地・占領地の民衆への迫害と苦役の強制。これらの状況を手持ちの日本側資料から(分かりやすい図版・写真を中心に)分析して報告する。
    4、質疑と討論
    5、海南島近現代史研究会制作『海南島月塘村虐殺』上映
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(当時の司令は、海軍大佐森本一男)の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、多くの村人を殺傷しました。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後の2007年に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、のべ50日間にわたって記録したものです。
    6、こんごの研究主題について

(3)2008年8月3日 第2回総会・第2回定例研究会  
    1、1年間の会の活動報告
    2、あいさつ   王建成(海南省民族学会副会長)
    3,研究報告Ⅰ  金山「社会転型期的黎族伝統文化(社会転形期における黎族の伝統文化)」
       海南島の先住民族である黎族の伝統文化は、改革開放後、とくに中国最大の経済特区である海南省が設立されたあと、大きく変貌しています。年中行事、伝統宗教、生活文化という三つの角度から、その変化を考察します。
    4、海南島近現代史研究会制作『海南島 2007年秋』、『海南島 2008年春』、『月塘三・廿一惨案紀念碑掲碑儀式』上映
    5、研究報告Ⅱ  五十嵐彰「「日本考古学」と海南島」
                  ある文化を認識するには、一定の時間(時代)を区切らざるを得ないと同時に、一定の空間(地理的範囲)を区切らざるを得ません。ある時間的空間的範囲を区切るためには、区切られた内部の均質性と外部との異質性が成立要件として求められます。「日本考古学」が区切っている時間的空間的範囲のいびつさ・歪みを、海南島という定点から検討します。
    6、研究報告Ⅲ 水野明 「海南海軍特務部編『海南島三省連絡会議決議事項抄録』について」
                  1939年2月の海南島侵略直後から海南島の「政務」をおこなった三省(日本外務省、日本海軍省、日本陸軍省)連絡会議は、1942年11月に廃止され、以後、海南海軍特務部(前、第5艦隊情報部)が、海南島を政治支配しました。海南島三省連絡会議にかんする極秘文書を解析します。
    7、質疑・討論 参加者の発言・討論
      こんごの研究主題・研究課題
    8、月塘村全村民の日本政府に対する要求について
    9、日本軍の海南島奇襲攻撃70年後(2009年2月)に
    10、「会則」改定

(4)2009年2月8日 第3回定例研究会 
           主題:海南島侵略開始・アジア太平洋戦争準備開始70年
    1、研究報告Ⅰ 天皇制国家日本のアジア侵略への国家総動員  紀元節・神武天皇陵・八紘一宇    久保井規夫
    2、研究報告Ⅱ 1939年2月10日の世界史的意味       佐藤正人
    3、研究報告Ⅲ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか  竹本昇
    4、研究報告Ⅳ 2009年、マスメディアは海南島をどのように報道しているか  日置真理子       
    5、研究報告Ⅴ 海南島捕虜収容所のオーストラリア軍ガル・フォース 飢えと疫病と重労働  生き証人に聞く          西里扶甬子
    6、「月塘村虐殺」・月塘村村民の対日本政府要求について
    7、「朝鮮村」の現状報告と「朝鮮村虐殺」の真相究明について

(5)2009年8月9日 第3回総会・第4回定例研究会 
    1、海南島近現代史研究会2年目の活動の軌跡と総括     斉藤日出治 
    2、沙土、花場、石山、烈楼、樹徳、雷鳴、旧州、高峰……で    佐藤正人
    3、戦跡調査による特攻基地の比較(海南島を中心に図示)    久保井規夫 
    4、研究報告Ⅰ 飛行第31戦隊による海南島攻撃――浜松から中国・ビルマ・フィリピンへ    竹内康人 
    5、研究報告Ⅱ 1939年、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 2   竹本昇 
    6、研究報告Ⅲ 海南島では日本をどのように報道しているか 日本では海南島をどのように報道しているか(2009) 2      日置真理子 
    7、大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について    金靜美

(6)2010年2月14日 第5回定例研究会 
    1、報告Ⅰ 三竈島から海南島へ――もう一つの南進政策   蒲豊彦
    2、報告Ⅱ 海南島での同仁会(研究ノート)        キム チョンミ
    3、報告Ⅲ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 3  竹本昇
    4、報告Ⅳ 曹靖『回顧長仙聯村“三・一”血泪史』を読んで   鐘翠雅
    5、報告Ⅴ 「Y作戦」と住民虐殺              斉藤日出治
    6、報告Ⅵ アジア太平洋戦争開始前後の海南島侵略日本海軍の「Y5作戦」   佐藤正人
    7、海南島三亜郊外の「朝鮮村」の現状と「朝鮮村虐殺」の真相究明について

 2010年8月21日 海南島近現代史研究会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、太平洋戦争被害者補償推進協議会が「“韓国併合”から100年 遺族の証言を聞く集い」を共催。

(7) 第4回総会・第6回定例研究会 2010年8月22日 
    主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明
    1、証言1 アボヂは海南島から戻らなかった       ハン グァンス(韓光洙)
    2、証言2 アボヂの魂を自由にするたたかい       イ ヒジャ(李煕子)
    3、報告 「朝鮮報国隊」と朝鮮自営隊について      キム チョンミ(金静美)
    4、研究報告Ⅰ 1939年2月、マスメディアは海南島侵略を以下に報道したか 4  竹本昇
     5、研究報告Ⅱ 海南島の「Y作戦」と住民虐殺 日本のアジア侵略の構図     斉藤日出治
    6、研究報告Ⅲ 「海南島第十六警備隊能美事件」と「朝鮮村虐殺」について    佐藤正人
    7、2010年5月の海南島「現地調査」報告 梅種村、美桃村、海尾村、保平村、傳桂村、玉仙村で
    8、海南省民族学会、海南民間抗戦研究会準備会との共同研究・共同調査について
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「海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会延期のお知らせ」

2022年01月24日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会延期のお知らせ■

 2020年夏に新型冠状病毒肺炎の感染者が急増してきたので、秋(2020年9月5日)に開催を予定していた 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を2021年2月13日に延期しましたが、2021年にはいってから、新型冠状病毒肺炎の流行がいちだんと強まってきたので、8月21日に再延期しました。
 2021年7月下旬に強行開始された「東京オリンピック」の悪影響もあって、新型冠状病毒肺炎の伝染がさらに拡大しため、8月21日に予定していた海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を、2022年2月19日(土曜日)に再々延期しました。
 2022年はじめから新型冠状病毒肺炎の伝染が急速に拡大してきたので、残念ですが、海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を半年後に延期せざるを得なくなりました。
 2020年9月5日に開催しようとしていたのとほぼ同じ内容で海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会を2022年8月21日に開催します。
 会場は、JR天満駅近くの国労大阪会館1階ホールです。
 みなさんの参加をお待ちします。


■海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会のお知らせ■
 19世紀中期以後、日本は、アイヌモシリ、奄美、琉球、台湾、カラフト島南半部、朝鮮、中国東北部・モンゴル東南部、「南洋群島」、海南島を領土化し、アジア太平洋の各地で侵略戦争を続けました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を明らかにしようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任者を処罰しようとせず、犯罪の重大さに相当する賠償をしようとしていません。
 日本陸海軍が海南島に奇襲上陸してから68年後の2007年2月10日に発行した『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「海南島での国民国家日本の侵略犯罪を明らかにすることは、全世界的規模の侵略の構造を破壊する民衆運動の一環である」と述べました。
 2007年8月5日に結成された海南島近現代史研究会は、会則で、その目的を、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明します」、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を可能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」と鮮明に示しました。
 その13年後に開催する今回の総会・研究会では、“歴史認識と社会変革”を主題とした前回の海南島近現代史研究会第25回定例研究会につづいて、事実を明らかにし、事実を伝達する方法について話しあいたいと思います。

  と き:2022年8月21日(日曜日)13時00分~17時(開場12時30分)
  ところ:国労大阪会館 1階ホール  
      JR天満駅改札口を出て右へ(桜ノ宮駅方向へ)200メートル           
  参加費:500円(会員は無料です)

主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達
■主題報告 海南島民衆の証言をどのように記録・伝達するか    佐藤正人
■主題報告 海南島と朝鮮と中国東北部と日本で証言を聞いて    金靜美
■主題報告 中国東北部に残る万人坑の問いかけるもの       小林節子
■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史 2
 日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。
■2020年秋の海南島近現代史研究会の21回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては34回目)の海南島「現地調査」について

    …………………………………………………………………………………………………………

 2007年8月5日の創立集会から2020年2月8日の第25回定例研究会までの26回の研究集会の主題は、つぎのとおりでした。

■海南島近現代史研究会総会・定例研究会■
(1)2007年8月5日 創立集会
(2)2008年2月10日 第1回定例研究会
(3)2008年8月3日 第2回総会・第2回定例研究会  
(4)2009年2月8日 第3回定例研究会
     主題:海南島侵略開始・アジア太平洋戦争準備開始70年
(5)2009年8月9日 第3回総会・第4回定例研究会
(6)2010年8月22日 第4回総会・第6回定例研究会
     主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明
(7)2011年2月13日 第7回定例研究会
     主題:海南島とパレスチナ
(8)2011年8月28日 第5回総会・第8回研究会
     主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま
(9)2012年2月26日 第9回定例研究会 
(10)2012年8月18日 第6回総会・第10回定例研究会
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
(11)2012年8月18日 第6回総会・第10回定例研究会
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
(12)2013年2月10日 第11回定例研究会 
     主題:海南島と独島(竹島)
(13)2013年8月25日 第7回総会・第12回定例研究会 
     主題:海南島と沖縄
(14)2014年2月9日  第13回定例研究会  
     主題:海南島における日本の侵略犯罪
(15)2014年8月23日 第8回総会・第14回定例研究会 
    日本国家が中国東北部への軍事侵略を開始してから120年後の集会
     主題:海南島と中国東北部・モンゴル東部における日本国家の侵略犯罪
(16)2015年2月11日 第15回定例研究会 
     主題:海南島近現代史研究会の7年半
(17)2015年8月23日 第9回総会・第16回定例研究会
     主題:17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと
(18)2016年2月14日 第17回定例研究会 
     主題:日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死
(19)2016年8月28日 第10回総会・第18回定例研究会  
     主題:海南島と台湾
(20)2017年2月5日 第19回定例研究会   
     主題:証言・記録・伝達
(21)2017年8月26日 第11回総会・第20回定例研究会  
     主題:国民国家日本の他地域他国侵略の時代
(22)2018年2月3日第21回定例研究会  
     主題:日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争
(23)2018年8月18日 第12回総会・第22回定例研究会  
     主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
(24)2019年2月9日 第23回定例研究会
     主題:証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺物)
(25)2019年8月24日 海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会  
     主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争
(26)2020年2月8日 海南島近現代史研究会第25回定例研究会   
     主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達 1月16日 ~ 1月22日
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海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(二)  2011年~2015年

2022年01月23日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会総会・定例研究会(二) 2011年~2015年■ 
(9) 第5回総会・第8回研究会 2011年8月28日 
    主題:海南島における日本の侵略犯罪のいま
    1、証言 夫は海南島につれていかれた       イ ガンヒ(李康姫)
 韓琦錫(ハンギソク)さんは、1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ、ソウルの刑務所から海南島に連行され、1944年2月に、海南島南東部の陵水で亡くなりました。 妻の李康姫さんが受けとった箱には、小さな骨が入っていたそうです。
    2、証言 アボヂの跡を追い続けて         ハン ガンス(韓光洙)
 韓光洙さんは、韓琦錫さんと李康姫さんの息子さんです。 昨年の海南島近現代史研究会第4回総会で証言していただきましたが、さらに話を聞かせてもらいます。
    3、報告 「朝鮮報国隊」の軌跡          キム チョンミ(金静美)
     日本海軍の要請と日本政府の閣議決定にもとづいて、朝鮮総督府は、朝鮮各地刑務所の獄中者を選び「朝鮮報国隊」を組織し、1943年春から、海南島に連行し、三亜や陵水の日本軍飛行場建設、田独や石碌の鉄鉱石採掘、石碌~八所間の鉄道建設、八所港建設などを強制しました。 
海南島に連行されたほとんどの人たちは、故郷に戻ることができませんでした。
    4、報告 海南島戦時性暴力被害訴訟ののち     海南島訴訟弁護団杉浦ひとみ
 2010年3月2日、最高裁判所は,日本軍によって「慰安婦」とされた海南島の被害者が日本政府に対して謝罪と名誉回復並びに損害賠償を求めた「海南島戦時性暴力被害賠償請求事件」の上告を棄却し上告受理申立を不受理とすると決定しました。 これによって、9年間にわたる裁判が終わりました。
     これからどうするのか、みなさんと共に考えたいと思います。
    5、討論 日本政府・日本企業に侵略犯罪の責任をどうとらせていくか
    6、報告 2011年春の海南島「現地調査」報告
      東山鎮、月塘村、「朝鮮村」、佛老村、金鶏嶺、黒眉村、板橋鎮、新龍鎮新村、八所、沙土…… で

(10) 第9回定例研究会 2012年2月26日 
    1、報告  海南島で日本語教師をしていたときのこと      細見曻
    2、 【補】 海南師範学校3期生だったYさんの証言     竹本昇
    3、 【補】 海南師範学校と黒潮会             金静美
    4、【研究報告Ⅰ】 海南島における非軍人日本人の侵略犯罪    佐藤正人
    5、【研究報告Ⅱ】 日本人「研究者」の植民地意識ーー海南島と台湾  斉藤日出治
     6、 【補】 日本人の海南島農業調査について        趙従勝  
    7、【調査報告1】 海南島昌江黎族自治県で建設中の昌江原子力発電所について
    8、【調査報告2】 2011年10月下旬~11月上旬の海南島「現地調査」

(11) 第6回総会・第10回定例研究会 2012年8月18日
     主題:日本はなぜ海南島を侵略したのか
    1、海南島近現代史研究会創立から5年間の活動報告       金静美
    2、主題報告1 日本はいつ海南島侵略を開始したか       佐藤正人
     日本政府・日本軍が、海南島侵略の準備を始めたのは、1936年9月の「北海事件」以前からでした。 国民国家日本の近現代史における海南島侵略の社会的・歴史的原因を解析したいと思います。
    3、主題報告2 中国侵略戦争からアジア南方侵略への中継地としての海南島    斉藤日出治
      日本の南方侵略は海軍の軍事戦略によるものとされていますが、日本社会が「大東亜戦争」を国民的な合意としてアジアに対する侵略戦争を推進していった経緯について考えてみたいと思います。
    4、関連報告 日中戦争の推移と三竈島・海南島         蒲 豊彦
     1937年7月に中国への攻撃を本格化させた日本は中国との長期戦に陥り、さらに太平洋へと戦線を拡大するなかで、敗戦を迎える。 この大きな流れのなかに、三竈島と海南島を位置づけてみたい。
   ■海南島「現地調査」報告
    5、2012年3月18日―29日の「現地調査」報告    金静美
      定安(漢林鎮、龍門鎮)、張州市(木垣鎮、蘭洋鎮)、臨高県(和舎鎮)、張昌県(新興町、メープル町、ウーポー町)、白沙麗族自治県(金波郷、七坊荘)、海口市(雲龍鎮)、澄舞(仁興鎮)......
        6、2 012年4月の「現地調査」報告          久保井規夫
      海南島侵略における特務部(医療分野)の策動:占領地(海南島)・植民地(朝鮮)におけるハンセン病者、同仁会、防疫班の動きについて
    7、討論 日本国家の侵略犯罪の責任者はだれなのか
    8、報告 海南民間抗戦研究会準備会、海南省民族学会との共同研究・共同調査について
    9、報告 次回の海南島「現地調査」主目的と日程」(10月下旬~11月初旬)について

(12) 第11回定例研究会 2013年2月10日  
     主題:海南島と独島(竹島)
    1、主題報告1 独島(竹島)の最新の歴史           朴炳渉
     江戸幕府や日本政府は、独島(竹島)を朝鮮領と判断したことは何度かあったが、日本領と判断したことは1905年以前には一度もなかった。 その島を日本は日露戦争に役立てるため日本領へ編入した。 そうした独島(竹島)の歴史を、最新の研究成果をまじえながら紹介する。
     2、主題報告2 海南島と独島                佐藤正人
     1905年1月に日本政府は朝鮮の独島を閣議で「本邦所属」とした。 19世紀後半以後に他地域・他国侵略の過程で形成された国民国家日本による独島領土化と海南島占領の歴史的脈絡を解析する。
     3、主題報告3 独島(竹島)問題の解明  論議・資料・地図の分析を通して  久保井規夫
     独島(竹島)問題は、日本が日露戦争の最中に欺瞞の領土化したことが発端である。 資料・地図を分析し、日本政府見解「竹島は歴史的にも国際法上も日本固有の領土」の誤りを指摘する。
     4、【報告】 海南島昌江旦場村(現、東方市四更鎮旦場村)の追悼碑建立について  金靜美
      農暦1939年9月23日に村人93人を日本軍に殺害された旦場村の人たちは、いま、犠牲者の名を刻んだ追悼碑を建立しようとしている。 村には、いまも、日本軍に焼かれた家の廃墟が残っている。
     5、【調査報告】 第9回海南島「現地調査」(2012年秋)    斉藤日出治
      日本軍が多くの村人の命を奪った儋州市木棠鎮美龍村、東成鎮水流村、白沙黎族自治県阜龍鎮阜龍郷、陵水黎族自治県光坡鎮港坡村、澄邁県加来鎮常樹村…… を訪ねたときのことを報告する。
     6、【報告】「朝鮮村」の朝鮮人の遺骨の現状          金靜美
      「朝鮮村」の中央を貫く高速道路がつくられ、日本軍に虐殺された朝鮮人が埋められている場所の7割が土砂で埋められてしまった。 残されている3割の現場を「発掘」する展望は?
     7、2013年3月の海南島近現代史研究会の第10回海南島「現地調査」について
     8、海口博物館、海南省図書館、《瓊崖縦隊》摂制組との共同作業について
■展示: 独島(竹島)にかかわる諸地図(原本)
 長久保赤水「改正日本輿地路程全圖」(1791年版)、林子平「三國通覧圖説 朝鮮八道之圖」(写本、1785年)、高柴英三雄「大日本國郡輿地全圖」(1849年)、秋田兼吉「最近踏査満韓西比利地圖」(1904年5月)、東洋拓殖會社「朝鮮在留内地人及東洋拓殖株式會社所有地分布圖」(1912年2月現在)ほか。

(13) 第7回総会・第12回定例研究会 2013年8月25日
     主題:海南島と沖縄
      2007年8月5日に創立された海南島近現代史研究会は、毎年夏に総会と定例研究会を、毎年冬に定例研究会を続けてきました。
       今年夏の総会・研究会では、日本の海南島侵略とオキナワ侵略(現在と過去の琉球処分)について知花昌一さんとともに考えたいと思います。 
     1、沖縄読谷村(ヨミタンソン)における日本軍の住民虐殺  知花昌一                 
       1945年4月1日にアメリカ合州国軍が読谷村西海岸から上陸しました。 翌日、チビチリガマへ避難していた住民約140人のうち83人が「集団自決」しました。 1983年からチビチリガマでの「集団自決」の事実と意味を追求してきた知花昌一さんに話を聞かせてもらいます。
     2、海南島における日本軍の朝鮮人虐殺            金静美
      日本政府・朝鮮総督府・日本海軍は、日本支配下の朝鮮の刑務所から獄中者を海南島に連行して、働かせ、1945年8月に虐殺しました。 また、日本政府は、オキナワ人や台湾人を海軍軍属などとして海南島で働かせました。 日本支配下の民衆の海南島での軌跡をたどります。
     3、海南島における日本軍の住民虐殺           斉藤 日出治
      日本軍は、海南島の各地で住民を虐殺しました。 これまで、わたしたちが知りえた海南島における日本軍の犯罪の諸事実を報告します。
     4、海南島と琉球王国・宮古八重山地域           佐藤正人
      日本は、1872年に琉球王国を領土とし、1895年に宮古・八重山地域を領土としました。 国民国家日本のウルマネシア侵略と海南島侵略の歴史的脈略を解明したいと思います。
     5、討論 日本国家のアジア太平洋侵略犯罪の責任者はだれか
     6、報告 海南島旦場村の追悼碑建立について
     7、報告 2013年春の海南島「現地調査」
      昌江黎族自治県十月田鎮保平村・羌園村、昌化鎮大風村・耐村・昌城村・光田村・浪炳村、海尾鎮白沙村・鶏籠坡、澄邁県加楽鎮常樹村、臨高県臨高角、定安県雷鳴鎮南曲村………。
     8、報告 海口市博物館、海南省図書館、《瓊崖縦隊》摂制組との共同作業について
9、報告 次回の海南島「現地調査」の主目的と日程(2013年10月下旬~11月初旬)

(14) 第13回定例研究会 2014年2月9日 
     主題:海南島における日本の侵略犯罪
     16世紀末(1592~93年。 1597~98年)の秀吉の軍隊の朝鮮侵略を前史とし、国民国家形成以後、日本は、周辺諸地域・諸国家を継続的に侵略し、その地の民衆の命を奪いました。
      日本の政府・軍隊・企業…… がアジア太平洋でおこない続けてきている侵略犯罪の実態を明らかにし、その歴史的・社会的責任の内実を問う民衆運動の必然性と可能性を、1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸した75年後に検討しあいたいと思います。
    1、帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島侵略犯罪    佐藤正人
     日本の他地域他国侵略の歴史はおわっていません。 日本軍・日本企業が海南島で殺した民衆の名は、ほとんど明らかにされていません。 日本政府は、国家犯罪の歴史的事実の究明を回避し続けています。
    2、海南島における住民虐殺 証言と記録          金靜美
     海南島での日本軍の犯罪の文書記録はほとんど残されていません。 被害者・目撃者の証言を記録しなければ犯罪事実がなかったことにされてしまいます。 証言を聞いた場でのことを報告します。
    3、海南島の住民虐殺と戦後日本の植民地主義        斉藤日出治
     海南島のおびただしい住民虐殺はなぜ日本で無視されているのでしょうか。 この問題を戦後日本に継承されている植民地主義の視点から考えてみます。
    4、抗日戦士殺害を「功績」とする日本軍          竹本昇
     海南島で1945年3月2日に抗日戦士を爆死させたことを日本軍は「戦闘詳報」で「功績」としています。 66年後の同じ日にその現場の新龍鎮新村で、村人と戦士の遺族に話を聞かせてもらいました。
    5、討論 帝国主義諸国の国家犯罪、とくに日本の国家犯罪をどのように認識するか
    6、報告 2013年秋の海南島「現地調査」
     臨高県馬裊半島楽豪村、海口市紅旗鎮龍発村、澄邁県中興鎮福来村、文昌市潭牛鎮大頂村、昌江黎族自治県昌化鎮光田村・旧県村・浪炳村、東方市東河鎮旧村・江辺郷老村、楽東黎族自治県抱由、楽東黎族自治県志仲鎮、澄邁県中興鎮和安市、澄邁県橋頭鎮新興港村・聖眼村・福留村。
    7、報告 海南島「朝鮮村」の現状
    8、報告 海南島旦場村の追悼碑建立について
    9、報告 次回の海南島「現地調査」の主目的と日程(2014年3月下旬~4月上旬)

(15) 第8回総会・第14回定例研究会 2014年8月23日
       日本国家が中国東北部への軍事侵略を開始してから120年後の集会
     主題:海南島と中国東北部・モンゴル東部における日本国家の侵略犯罪
    1、主題報告1 軍事侵略、土地・資源略奪、住民虐殺、労働強制……    佐藤正人
      1894年10月に遼東半島に侵入した日本軍は、1945年8月まで、日本企業とともに中国東北部・モンゴル東部で、ぼうだいな侵略犯罪を犯し続けました。 その半世紀間の日本政府・軍・企業の侵略犯罪の歴史を、1939年2月から6年半の海南島における侵略犯罪史とともに解析します。
    2、主題報告2 中国東北部と海南島における日本侵略者の分割統治政策   金山
     中国東北の吉林省で生まれ育った朝鮮族で、海南島で9年間歴史研究・教師をしてきた者として、被支配者間の民族的、宗教的、経済的利害の対立を扇動し、互いを分裂・抗争させる支配者による分割統治(異なった民族間の連帯性を弱め、同一民族の内部の結束を弱める統治)の実態を検討します。
    3、主題報告3 朝鮮・中国東北部・海南島における抗日反日民衆運動    金靜美
      1894年、朝鮮における甲午農民戦争のさなか、日本軍は、旅順で民衆を大虐殺しました。 日本の侵略に抗して戦ったアジア太平洋の民衆の運動の全体を追究する方法を模索します。
    4、主題報告4 満鉄調査部による中国東北部の調査と「南方占領地調査」  斉藤日出治
     「満鉄調査部による中国東北部・モンゴル東部を中心とする調査活動が南方における調査活動及び日本軍の統治にどのように影響したかについて考えてみます。
    5、【報告】竹島=独島問題の領有権を決定する新史料       久保井規夫
     日韓の領土問題とされている竹島=独島問題を歴史問題として解決する新史料を紹介します。
    6、【報告】「ピースおおさか」と「大阪人権博物館」の社会的役割について   竹本昇
     侵略戦争・植民地支配の事実を隠す「平和や人権をかかげている公益法人」の現状を報告します。
    7、【調査報告】2014年春の海南島「現地調査」         金靜美
     澄邁県橋頭鎮沙土、臨高県加来鎮、儋州市南辰村・阜乍村・和盛村・江囲村、白沙黎族自治県細水郷・元門郷、琼中黎族苗族自治県什運郷便文村、楽東黎族自治県番陽鎮・万冲鎮・抱由・向陽村・千家村、三亜市「朝鮮村」・藤橋、陵水黎族自治県英州鎮九尾村(旧、狗尾吊村)・三才鎮朝拝山村・三才村、 瓊海市嘉積鎮東山村・塔洋鎮東山園・中原鎮燕嶺坡・長仙聯村官園村、文昌市邁号村・清瀾港・潭牛鎮昌美村、海口市甲子鎮福昌村…… で、ことし春に新たに知ったことを報告します。
    8、2014年秋の海南島「現地調査」について

(16) 海南島近現代史研究会第15回定例研究会 2015年2月11日
     主題:海南島近現代史研究会の7年半
     76年前の1939年2月11日(「紀元節」当日)に、海南島の首都(海口)を占領しようとして、日本軍は、その前日未明に海南島北部に奇襲上陸しました。 以後1941年8月中旬まで日本は海南島を占領し侵略犯罪をくりかえしました。 1873年に設定された「紀元節」は、1948年にいったんは廃止されましたが、1967年に「建国記念の日」として復活し、現在に至っています。
     海南島近現代史研究会が出発したのは、日本の海南島侵略開始68年半後の2007年8月5日でした。
     それからこれまで7年半の間に、海南島近現代史研究会が、どこまで海南島における日本の侵略犯罪の実態を把握し、その歴史的責任を追及できたのかを検証し、今後の会の活動のなかみを具体的に確定していきたいと思います。
    1、報告 証言を聞き、記録し、伝達してきた7年半の軌跡     佐藤正人
      調査し、記録し、伝達しなければ、侵略犯罪の歴史は、消しさられていきます。 会の歩みを報告します。
    2、報告 海南島近現代史研究会とわたし           中川清子
      日本が侵略戦争と植民地支配の責任を放置してきたことに強く憤りを覚えます。 オキナワ人として、海南島近現代史研究会とともに、日本が歴史的責任を果たすとはどういうことかを考えたいと思います。
    3、報告 海南島近現代史研究会と出会って          植本久司
      海南島の歴史は、わたしが訪ねたパレスチナ、オキナワの歴史と重なっています。 海南島近現代史研究会に参加して、考えさせられたこと、わたし自身がどのように関わっていくのかを報告します。
    4、報告 海南島における日本国家の侵略犯罪の証拠と証言    斉藤日出治
      加害(虐殺、掠奪、文化破壊……) の歴史を否定する「歴史書き換え」に対決する民衆運動について。
    5、報告 八紘一宇をかかげる天皇制国家の海南島侵略      久保井規夫
      紀元節」での八紘一宇の「神勅」をかかげた日本軍による海南島侵略当初の実相を報告します。
    6、討論 海南島近現代史研究会のこれまで、そして、これから
    7、調査報告 第13回海南島「現地調査」(2014年秋)      金靜美
      文昌市抱羅鎮石馬村、文昌市東閣鎮鳌頭村・林村村・南文村、文昌市東郊鎮田頭老村・福羅村、文昌市文教鎮渓西村、文昌市蓬莱鎮高金村、文昌市南阳郷金花村、文昌市重興鎮賜第村・昌文村・排田村、陵水黎族自治県英州鎮九尾村、陵水黎族自治県隆広鎮新市坡・墓山脯村、万寧市万城鎮月塘村、定安県黄竹鎮大河村、后田村、定安県雷鳴鎮南曲村、定安市、 澄邁県橋頭鎮沙土、海口市石山鎮玉栄村、海口市大坡鎮白石溪地区・塔昌村、海口市馬村・東水港で聞かせていただいたことを報告します。
    8、2015年3月の海南島近現代史研究会の14回目の海南島「現地調査」について
    9、南海出版社との共同作業について  海南島近現代史研究会に関する書籍出版のことなど

(17) 海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会 2015年8月23日
     主題:17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと
      いまなお、日本政府は侵略犯罪の歴史を否定しています。
      日本がアジア太平洋侵略戦争に敗北してから70年後、海南島の南海出版公司は、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの海南島「現地調査」の内容を報告する書籍『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足迹』を発行します。
      集会に同書を持って南海出版公司から16人が参加します。        
    1、主題報告1 「朝鮮村」・月塘村・長仙聯村・沙土・旦場村……   佐藤正人
      海南島における日本の国家犯罪についての証言と記録の現在的意味について報告します。 
    2、主題報告2 日本侵略犯罪歴史的可掩盖性和無可抹滅性   邢越(シン ユエ)
    海南近現代史研究会の一人として2010年月5月から「調査」をつづけるなかで、わたしは、加害国は歴史犯罪を「掩盖」することができず、被害者に「無可抹滅」の力があることを実感しました。
    3、主題報告3 『真相』について 南海出版公司編集者
     中国人民抗日戦争・世界反ファシスト戦争勝利70周年を記念して出版される『真相』を制作している時に考えたことを、編集者のうちの3人(何怡欣〈ホ イシン〉、呉雪〈ウ シュエ〉、張媛〈チャン ユアン〉)が報告します。
     編集者は2014年秋と2015年春の海南島近現代史研究会「現地調査」の全行程に同行して動画で記録し、それを『真相』にディスクで加えました。
    4、【討論】海南島での日本の侵略犯罪の調査と記録
     これからの海南島での日本の侵略犯罪の調査と記録について共に考え、国家犯罪の責任を具体的にとらせていく民衆の方法を話し合いたいと思います。
    5、調査報告 2015年春の海南島「現地調査」     金靜美
     旦場村、旦場園村、英顕村、海頭鎮、松涛村、長田村、腰子村、大良田村、尖石村、南坤鎮、西昌鎮、大同村、龍門鎮、老王村、金牛流坑村、林村村、大府村、東郊鎮、上苑村、龍湖鎮、南福嶺村、南曲村、大水村、土卜村、儒東村、純雅村、常樹村、長嶺村…… で聞かせていただいたことを報告します。
    6、行動計画 2015年秋の海南島「現地調査」、ドキュメンタリー新作について

【交流会】 午後5時半から8時ころまで同じ会場で、南海出版公司からの参加者を交えて、話し合います。
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海南島近現代史研究会総会・定例研究会の軌跡(三) 2016年~2022年

2022年01月22日 | 海南島近現代史研究会
■海南島近現代史研究会総会・定例研究会(三) 2016年~2022年■
(18) 海南島近現代史研究会第17回定例研究会 2016年2月14日
    主題:日本政府・軍・企業に殺害された人びとの生と死
19世紀後半以後アジア太平洋各地で日本政府・日本軍・日本企業が殺害した民衆の名前や人数を、日本政府機関は明らかにしようとしていません。アジア太平洋の政府機関も組織的に綿密に調査していません。アメリカ合州国の歴史は、先住の赤人民衆虐殺の歴史でした。タスマニア虐殺・マジマジ虐殺・ヘレロ虐殺……、世界近現代史におけるジェノサイド・エスノサイドの総括はなされていません。
 日本政府に、アジア太平洋の全域で日本政府・軍・企業が殺害した民衆ひとりひとりの名と殺害場所と殺害方法を「調査」させ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させなければなりません。
 日本国家によって殺害された人びとの生と死の軌跡をたどり、国民国家日本の侵略犯罪の全容を、民衆のちからで明らかにしていく具体的な方法について話し合いたいと思います。                  
 みなさんの参加をお待ちしています。

 ところ:クレオ大阪西 研修室   大阪市このはな区西九条6-1-20  

■主題報告 日本の侵略犯罪の犠牲者の生涯           佐藤正人
 日本政府・日本軍・日本企業によって殺害されたアジア太平洋の民衆ひとりひとりの生涯をたどる意味と方法について、海南島でこれまで知ることができたことにかかわって報告します。
■主題報告 海南島と中国東北部:村落襲撃、万人坑、強制労働  金靜美
 海南島と中国東北部における日本の侵略犯罪は、軍事的・経済的・社会的につながっていました。その具体的事実を、村落襲撃、万人坑、強制労働……に焦点を合わせて報告したいと思います。
■主題報告 三竈島と海南島:三竈島の抗日ゲリラ隊と日本軍の住民虐殺     蒲豊彦
 三竃島では、抗日武装部隊がくりかえし日本軍に抵抗を試みました。日本軍は抗日武装部隊を支援しているとして住民を虐殺しました。当時の香港の新聞記事によりつつ、その詳細を報告します。
■報告 海南島とベトナムで:元舞鶴鎮守府第一特別陸戦隊兵士の証言     斉藤日出治
 杉原剛さんから海南島とベトナムでの行動について最近聞いたことを、本人の了解をえて報告します。
■討論 侵略戦争・抗日戦争
 日本国家が「戦争法」を制定し侵略戦争体制の再構築を始めた2015年は、アジア太平洋の民衆にとっては抗日戦争勝利70周年の年でした。アジア太平洋での二つの戦争について話し合いたいと思います。
■調査報告 第15回海南島「現地調査」(2015年秋)        金靜美
 嶺尾村、光村、南北溝村、高石村、英歌村、八所村、新街村、墩頭村、大坡村、老王村、昌美村、土卜嶺村、慶雲村、大水村、龍馬坡、純雅村、三媽溝市村、詩礼村、潭陸村……でのことを報告します。
■2016年3月の海南島近現代史研究会の16回目の海南島「現地調査」について
■南海出版社との共同作業について(「調査」、ドキュメンタリー、写真集……)

(19) 海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会  2016年8月28日
 主題:海南島と台湾
 1895年5月に日本軍が台湾に侵入し、6月に日本政府は台湾総督府を開設しました。10月に台湾民主国は崩壊しましたが、その後も、太魯閣民族など台湾民衆は、抗日反日闘争を持続的に戦いました。
 日本の台湾植民地化機関である台湾総督府は、1910年代から日本の海南島侵略を準備する「調査」を開始しました。1938年9月に、台湾総督府は、海南島を中心として、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成しました。同じ1938年9月に、台湾総督府は、「南方外地統治組織拡充強化方策」をだし、そこで「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」としていました。
1939年2月の日本軍の海南島奇襲上陸後、日本の植民地であった台湾からおおくの民衆が、兵士、労働者、軍隊性奴隷……として海南島に連行されました。
              
 ところ:クレオ大阪西 研修室   大阪市このはな区西九条6-1-20

■主題報告 海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)     佐藤正人
■主題報告 日本の海南島侵略における台湾総督府の役割      金勝一
■主題報告 台湾総督府・朝鮮総督府・南洋庁・「海南庁」     金靜美
■主題報告 台湾総督府による「海南島調査」と台北帝国大学による「海南島学術調査」   斉藤日出治
■主題報告 『台湾日日新聞』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか     竹本昇
■討論 1945年8月以後の海南島・台湾・ベトナム・フィリピン・インドネシア・朝鮮……日本
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本は、1945年8月以後もその歴史を継承しています。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆のちからで明らかにしていく道について話し合いたいと思います。
■報告 海南島への侵略と支配(所蔵資料1.図版・写真記録関係の紹介)  久保井規夫
■調査報告 第16回海南島「現地調査」(2016年春)        金靜美
 嶺尾村、光村、南北溝村、高石村、英歌村、八所村、新街村、墩頭村、大坡村、老王村、昌美村、土卜嶺村、慶雲村、大水村、龍馬坡、純雅村、三媽溝市村、詩礼村、潭陸村……での証言を報告します。
■2016年10月の海南島近現代史研究会の17回目の海南島「現地調査」について

(20) 海南島近現代史研究会第19回定例研究会   2017年2月5日
    主題:証言・記録・伝達
 アジア太平洋侵略戦争敗北後も、日本国家は、朝鮮戦争・ベトナム戦争・湾岸戦争・アフガニスタン戦争……に加担し、日本政府は2015年9月に「戦争法」を公布しました。日本の他地域他国侵略の時代は終っていません。
侵略犯罪の加害者の真実の証言はあまりに少なく、日本の国家と社会が隠し消し去ろうとしている過去の侵略犯罪の事実は、犠牲者・被害者の証言によってのみ明らかにされる場合が少なくありません。
 日本は侵略犯罪を他地域他国だけでおこなったのではありません。日本国内でおこなった侵略犯罪の事実もまた十分には明らかにされていません。
 証拠資料(日本政府文書、日本軍文書を含む)と証言に基づいて日本の侵略犯罪の事実をできるだけ具体的に明らかにし、それを伝達するにはどうするのか……について共に、話し合いたいと思います。             

 ところ:国労大阪会館 第二小会議室 

■主題報告 証言を聞き、記録し、伝達する主体のありかたについて            佐藤正人
■主題報告 海南島・アイヌモシリ・沖縄・日本……に連行された朝鮮人の証言    金靜美
■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本民衆の歴史的責任               斉藤日出治
■主題報告 2002年、2003年、2006年の海南島での聞き取りのこと               日置真理子
■主題報告 海南島で日本軍が爆死させた抗日戦士の妻の証言                    竹本昇
■主題報告 海南警備府特別陸戦隊兵士だった湊健一さんと大橋敏太郎さんの2016年の証言
■討論 日本国家の侵略犯罪の犠牲者の記憶と加害者の記憶
 日本の侵略犯罪を、被害者の証言と加害者の証言によって明らかにしていく民衆運動について。
■報告加害展示を消し去った‘ピースおおさか’に対する訴訟の現段階          竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』、『海南省重要革命遺祉通覧』、『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』       
■調査報告 第17回(第30回)海南島「現地調査」(2016年11月)             
 文昌市玉堂村・秀田村・坡頭村、澄邁県永跃村・龍楼村・加丙村・排坡園村・雅頌村・雅頭村・新村、海口市演豊村・美良村・新橋村・美桐村、臨高県美吉村・親仁村・和伍村……での証言を報告します。
■2017年4月の海南島近現代史研究会の18回目(31回目)の海南島「現地調査」について

(21) 海南島近現代史研究会第11回総会・第20回定例研究会  2017年8月26日
    主題:国民国家日本の他地域他国侵略の時代
 1869年に日本は北方のアイヌの大地を領土とし、1872年に南方の琉球王国を領土とし、以後、他地域他国侵略を続けてきました。日本民衆は、政府・軍・企業の侵略犯罪に加担してきました。
 世界史・民族史・国家史・地域史・個人史を全世界的規模で考え、侵略犯罪の事実をできるだけ総体的に詳細に知り、その歴史的責任の所在を明らかにし、日本政府に謝罪・賠償させなければ、日本民衆は、日本が侵略した地域の民衆と国際的・地域際的・民族際的に連帯することはできないでしょう。
 1947年5月3日に、最悪の侵略犯罪者を日本国の象徴・日本国民統合の象徴とする「日本国憲法」が施行されました(1946年11月3日〈「明治節」〉に公布)。それから70年あまりが過ぎました。
 2016年3月29日に「戦争法」が、2017年7月11日に「共謀罪法(改正組織犯罪処罰法)」が施行されました。
 国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにする近現代史研究について話し合いたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール

■主題報告 海南島における日本の侵略犯罪          佐藤正人
■主題報告 植民地主義と「大東亜共栄圏」          斉藤日出治
■報告 天理の大本営・"慰安所"・柳本飛行場とTの日記(朝鮮人強制連行) 高野真幸
■報告 海南島と済州島                   金靜美
■討論 国民国家日本の他地域他国侵略犯罪をどのように解明していくか
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾、朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本国家は、1945年8月以後もその歴史を克服していません。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆の力でどのように明らかにしていくかを話し合いたいと思います。
■報告 加害事実を消し去った「ピースおおさか」の展示改悪に対抗して  竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』・『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』の日本語版発行
■調査報告 第18回海南島「現地調査」(2017年春)       佐藤正人
 文昌市錦山鎮湖山区湖塘村・東山村、抱羅鎮石馬村・公坡村・発山村・水北村、文教鎮龍楼村、昌洒鎮東坡村、東閣鎮竹根村・抱芳村、海口市三江鎮楽堂坡村・道美村・豊平村・博文村での証言を報告します。
■2017年秋の海南島近現代史研究会の19回目の海南島「現地調査」について

(22) 海南島近現代史研究会第21回定例研究会  2018年2月3日
    主題:日本の侵略犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が海南島における日本の侵略犯罪の「現地調査」を始めたのは1998年6月でした。2007年8月に創立された海南島近現代史研究会は、この年9月~11月に最初の海南島「現地調査」をおこないました。これは紀州鉱山の真実を明らかにする会としては14回目の「現地調査」でした。2017年12月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては32回目、海南島近現代史研究会としては19回目の「現地調査」をおこないました。
 これまで20年間(1998年~2017年)、わたしたちは、海南島で日本の侵略犯罪の実態を調査するとともに、海南島における抗日反日闘争の軌跡をたどってきました。
 アジア太平洋全域における国民国家日本の侵略犯罪を明らかにし抗日反日闘争の歴史を追究する実証的な民衆史の方法について話し合いたいと思います。

ところ:国労大阪会館 1階ホール

■報告 20年間(1998年~2017年)、32回の海南島訪問の途上で      佐藤正人
■報告 琉球処分は続いている          関西沖縄文庫 金城馨
■報告 海南島に連行された朝鮮人と台湾人の歴史        金靜美
■報告 海南島における日本の侵略犯罪と「大東亜戦争」     斉藤日出治
■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪  日置真理子
■報告 「ピースおおさか」の侵略の事実隠しに対抗する裁判闘争  竹本昇                    
■討論 国民国家の侵略犯罪と抗日反日闘争
      国民国家日本の歴史はアジア太平洋侵略の歴史でした。この時代は全世界的な規模でいまも終わっていません。海南島近現代史に内包されている世界近現代史における国民国家の侵略犯罪の全容をいかに明らかにしていくかについて話し合いたいと思います。
■調査報告 第19回海南島「現地調査」(2017年12月)     佐藤正人
 海口市新海地域、海口市三江镇上雲村・咸宜村・攀丹村、蘇民村・北会鋪村、澄邁県仁興鎮霊地村・仁坡村・石鼓村・嶺崙村、屯昌県烏坡鎮四角園・美華村・田浩村、坡田村・尖石村・烏石坡村、屯昌県枫木鎮岑仔木村、瓊中黎族苗族自治県中平鎮報南村・土平村、五指山市南聖鎮文化市・什赤村、保亭黎族苗族自治県加茂鎮・保城鎮・新政鎮番雅村、三亜市回新村、瓊海市中原鎮長仙村などでの証言を報告します。
■2018年3月の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について

(23) 海南島近現代史研究会第12回総会・第22回定例研究会  2018年8月18日
    主題:海南島近現代史研究の軌跡と現状、そして未来
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、石原産業の海南島での企業犯罪調査を主目的として海南島を始めて訪ねたのは1998年6月でした。海南島近現代史研究会の創立は2007年8月でした。
 これまで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は32回、海南島近現代史研究会は19回、海南島を訪ね、各地でおおくの人たちに、日本の侵略犯罪、海南島民衆の抗日反日闘争についての証言を聞かせてもらうとともに、韓国国内で海南島に連行された朝鮮人の証言を聞かせてもらい、日本国内で海南島侵略にかんする史資料を網羅的に探索し分析しつつ海南島に侵入した日本人に面会を求めてきました。
 わたしたちは、国民国家日本の他地域他国侵略の時代を終らせる民衆運動の基礎を確実なものにしようとしてきました。海南島近現代史研究会は会則で、「本会は、海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」としています。
 1998年6月から20年間の、わたしたちの海南島近現代史研究の軌跡と現状を報告し、今後、さらに具体的になにをなすべきかについて、みなさんと話し合いたいと思います。

ところ:国労大阪会館 1階ホール

■主題報告 20年間に、何ができたか、何ができなかったか    佐藤正人
■主題報告 植民地朝鮮から海南島に連行された朝鮮人        金靜美
■主題報告 海南島における日本の国家犯罪と日本人の「戦後」責任    斉藤日出治
■主題報告 海南島における侵略の事実を伝える           竹本昇
■報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 2  日置真理子
■討論 海南島近現代史研究の意味と今後の課題
      国民国家日本は、アイヌモシリ・琉球植民地化、台湾侵略、朝鮮侵略……の過程で、軍備を増強し、経済基礎構造を建設・強化してきました。日本国家の政治的・経済的・社会的・文化的侵略構造は、19世紀後半から現在まで変わっていません。いま日本政府は、「明治150年(2018年)」記念行事の準備をすすめています。日本の他地域他国侵略の構造を破壊する民衆の歴史認識について討論したいと思います。
■報告 ピースおおさか改悪リニューアル裁判上告と「取り戻す会」の発足   竹本昇
■2018年秋の海南島近現代史研究会の20回目の海南島「現地調査」について

(24) 海南島近現代史研究会第23回定例研究会   2019年2月9日
    主題:証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺物)
 海南島だけでなく、アジア太平洋への国民国家日本の侵略犯罪の歴史的事実を示す証拠のおおくは犯罪者によって抹消・隠蔽されていますが、証言、史料(文書、映像・音声、遺物、遺跡)を証拠とする民衆の歴史研究によって明らかにすることができます。
 2017年2月9日の定例研究会で、「証言・記録・伝達」を主題として証言と証拠文書に基づいて日本の侵略犯罪の歴史的事実を明らかにし、それを伝達する道筋を話し合いました。その2年後の定例研究会で、証言と史料を民衆の力で集め分析する方法についてさらに討論を深めたいと思います。
 日本の侵略犯罪、抗日反日闘争にかかわる証言、史料の「確保」と分析は、海南島に限っても容易ではありません。証言者が少なくなっています。日本軍が海南島侵略を開始した1939年に10歳であった人は、2019年には90歳です。日本が敗北した1945年に10歳であった人は、2019年には84歳です。
 日本軍の海南島奇襲上陸(1939年2月10日)から80年。侵略犯罪の証拠を民衆の力で保存し、侵略犯罪の歴史的責任をとるべきものに具体的にとらせていく、個々の民衆のありかたについて話し合いたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール

■主題報告 証言の客観性を保証する聞き手の主体のありかたについて      佐藤正人
■主題報告 海南島「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場での証言      金靜美
■主題報告 海南島での証言を聴いて  問う側から問われる側へ        斉藤日出治
■主題報告 極東国際軍事裁判文書に記録されている日本軍の海南島侵略犯罪 3     日置真理子
■討論 日本軍の海南島侵入から80年。これからどうするか。
 日本のアイヌモシリ植民地化から150年。日本の海南島侵略から80年。国民国家日本  の他地域他国侵略の歴史を終らせるこれからの民衆運動について。
■報告 「設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会」のこれまでの活動                竹本昇
■報告 資本主義への抗い方  一人の生活者の実践報告      小田伸也      
■調査報告 第20回(第33回)海南島「現地調査」(2018年10月)       佐藤正人
    海口市三江鎮古橋村、東寨村、羅梧村、眼鏡塘村、闘門村、龍泉鎮仁合村、雲龍鎮、北橋村、甲子鎮文池村、龍興村、咸来鎮木石村、美蘭区桂林洋、陵水黎族自治県光坡、鎮港坡村、提蒙郷礼亭村、本号鎮三十笠村・放馬村、保亭黎族苗族自治県保城鎮、新政鎮番雅村、三亜市崖州区(前、崖城鎮)水南村、領海村、長山村、楽東黎族自治州楽、羅村、望楼港村、瓊中黎族苗族自治県紅毛鎮羅坦村、黎凑村、榮根鎮水潮村での証言を報告します。
■2019年春の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

(25) 海南島近現代史研究会第13回総会・第24回定例研究会  2019年8月24日
     主題:侵略戦争⇔抗日戦争、植民地支配⇔抗日反日闘争
 清日戦争後の1895年5月29日に日本は台湾侵略を開始し、50年間、台湾を植民地としつづけました。台湾民衆は、日本の軍事侵略と植民地化に抗して戦いつづけました。
 80年前、1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸しました。以後、6年半、海南島民衆は、日本の軍事侵略と植民地化に抗して戦いつづけました。
 1941年12月8日、日本支配下の海南島三亜港とエトロフ島ヒトカップ湾から出港した日本軍は、マラヤのコタバルとハワイのパールハーバーを奇襲攻撃しアジア太平洋侵略戦争を開始し、アジア太平洋の諸国家・諸地域を支配しようとしました。1943年5月31日、日本政府は、「大東亜政略指導大綱」で、「「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム」としました。
 帝国主義諸国の他地域他国軍事侵略は政治的・経済的・社会的・文化的支配(他地域他国植民地化)の手段でした。帝国主義諸国の他地域他国軍事侵略・植民地化の世界史は、被侵略地域・国家の民衆の抵抗の世界史でした。日本の海南島侵略から80年。日本の他地域他国侵略の歴史は終わっていません。    
 世界史における日本の他地域他国侵略の歴史と被侵略地域・国家の民衆の抗日反日闘争の歴史について話しあいたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール 

■主題報告 国民国家日本の他地域他国植民地化の歴史       佐藤正人
■主題報告 海南大学における海南島に関する外国語文献研究     金 山
■主題報告 日本の植民地支配に抗した朝鮮民衆と海南島民衆     金 靜美
■主題報告 これまでの海南島訪問で学んだこと           斉藤日出治
■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史
   日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。
■報告 ピースおおさか改悪再開館に対する裁判 勝訴確定         竹本昇
■報告 『忘記過去意味着背叛』・『控訴 採訪九位海南“慰安婦”実録』日本語版発行
■2019年秋の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

(26) 海南島近現代史研究会第25回定例研究会   2020年2月8日
     主題:歴史認識と社会変革
 日本政府・日本軍が海南島侵略を開始した1939年2月の数か月後に日本企業は海南島に侵入しました。
 海南島侵略開始70年前、1869年に日本新政府は、アイヌモシリを領土化し、その3年後、1872年に琉球王国を領土化しました。その後、国民国家日本は、アジア太平洋の各地で、大地と海を奪い、故郷を破壊し、命を奪い、資源を奪い、文化を破壊し、コトバを奪い、民衆を強制連行し、民衆を性奴隷にしました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を正確・詳細に認識しようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任の所在を明らかにしようとせず、まともに賠償しようとしていません。
 いま、歴史認識にかかわって、あたかも日本と韓国の民衆が対立しているかのような宣伝が、日本政府、日本企業の侵略犯罪隠蔽に協力している日本のマスメディアなどによって進められています。
 アジア各地で女性を日本陸海軍、日本政府が組織的に“軍隊性奴隷”とした歴史的事実を隠蔽・否認しているのは、日本政府、日本ナショナリストです。朝鮮や中国から住民を強制連行し強制労働させたのは、日本政府、日本企業でした。
 国民国家日本の侵略犯罪にかかわる諸問題は、国家間の問題ではなく社会正義の問題であり、とくに歴史的責任を有する国家の国民がナショナリズムを克服することが問われている問題です。
 国民国家日本の歴史は他地域他国侵略の歴史であり、その国家の構造は、現在も変わっていません。
 客観的な歴史認識は社会変革とむすびつかなければ成り立たず、社会変革の力は客観的な歴史認識によって強化されるのだと思います。
 社会変革の実践としての歴史認識について、ともに話しあいたいと思います。

 ところ:国労大阪会館 1階ホール 
■報告 アジア太平洋における日本の国家犯罪・アジア太平洋民衆の抗日反日闘争 佐藤正人
■報告 文化財返還問題について考える                    五十嵐彰                                      
■報告 強制連行・強制労働の事実を子どもたちにどう伝えるか         鄭初美
■報告 軍隊性奴隷の事実を子どもたちにどう伝えるか             皇甫康子
■報告 植民地朝鮮における歴史認識と分断国家朝鮮における社会変革      金靜美                      
■討論 他地域他国を侵略した国家犯罪・他地域他国を植民地化した国家犯罪を認識しようとしない日本国家の政治・社会・文化・経済状況を解析し、民衆の歴史認識の方法を探求し、社会変革の具体的な道すじを、討論のなかですこしでも明らかにしていきたいと思います。
■2020年3月の海南島近現代史研究会の21回目(34回目)の海南島「現地調査」について

27 海南島近現代史研究会第14回総会・第26回定例研究会
2020年9月5日→2021年2月13日→8月21日→2022年2月19日→8月21日
主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達
 19世紀中期以後、日本は、アイヌモシリ、奄美、琉球、台湾、カラフト島南半部、朝鮮、中国東北部・モンゴル東南部、「南洋群島」、海南島を領土化し、アジア太平洋の各地で侵略戦争を続けました。
 日本政府は、その国家犯罪の歴史を明らかにしようとせず、侵略犯罪を謝罪しようとせず、責任者を処罰しようとせず、犯罪の重大さに相当する賠償をしようとしていません。
 日本陸海軍が海南島に奇襲上陸してから68年後の2007年2月10日に発行した『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「海南島での国民国家日本の侵略犯罪を明らかにすることは、全世界的規模の侵略の構造を破壊する民衆運動の一環である」と述べました。
 2007年8月5日に結成された海南島近現代史研究会は、会則で、その目的を、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を具体的・総合的に把握し、それが海南島の政治的・経済的・文化的・社会的な構造をどのように破壊したのかを究明します」、「海南島における日本の侵略犯罪の実態を可能なかぎり総体的に把握し、その歴史的責任を追及します」、「本会は、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明します」と鮮明に示しました。
 その13年後に開催する今回の総会・研究会では、“歴史認識と社会変革”を主題とした前回の海南島近現代史研究会第25回定例研究会につづいて、事実を明らかにし、事実を伝達する方法について話しあいたいと思います。

ところ:国労大阪会館 1階ホール

主題:民衆の歴史研究・歴史認識・事実の伝達
■主題報告 海南島民衆の証言をどのように記録・伝達するか       佐藤正人
■主題報告 海南島と朝鮮と中国東北部と日本で証言を聞いて       金靜美
■主題報告 中国東北部に残る万人坑の問いかけるもの          小林節子
■討論 海南島近現代史・日本近現代史・世界近現代史 2
 日本は、1869年にアイヌモシリを、1872年に琉球王国を領土化(植民地化)しました。国民国家日本の歴史は他地域他国侵略・植民地支配の歴史でした。日本の国家犯罪の歴史を認識する民衆の方法について討論したいと思います。
■報告 “同情”か“名誉回復”か:映画『二十二』からみる謝罪賠償不履行の影響  熱田敬子
■2020年秋の海南島近現代史研究会の21回目(紀州鉱山の真実を明らかにする会としては34回目)の海南島「現地調査」について
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