今日(2月26日)、海南島近現代史研究会の6人が海南島民間抗戦史研究会準備会の2人といっしょに、海南島北部の東山に行きました。
東山は、昨年秋にソウルで会った李西根さんが、65年ほど前にいたと話していた、日本海軍海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊東山守備隊の駐屯地があったところです。
東山鎮の中心部から北東に3キロほどの永華村の近くの龍山村で出会うことができた陳秀花さん(1931年生)に旧日本軍の望楼跡に案内してもらいました。
望楼跡は2か所ありました。
1か所は、龍山村のすぐ近くの高台にありました。
そこは、以前ブルトーザで地ならしをしたので、何も残っていないとのことでした。
望楼があったという潅木がしげっている土地の前で、陳秀花さんは、当時のことを話してくれました。
日本軍は、村人におじぎさせた。
「シェンシャントリ」と言っておじぎした。
ある老人が、言い方をまちがえて、「シェンシャンヴェティ」と言った。
それは、「あなたはもうすぐ死ぬ」という意味だ。
日本兵は、あたりの雰囲気からそのことに気づいてその人を殴って重傷をおわせ
た。
望楼は2階建てだったと思う。鉄条網で囲まれており、周りに堀がつくられていた。
兵隊のなかには台湾人もいた。台湾人は通訳をしていた。日本人も台湾人も同じ
軍服を着ていたので、見ただけでは区別がつかなかった。
もう1か所の望楼は、陳秀花さんの生家に近い昌尾村にありました。
望楼があった場所は、周辺を遠くまで見通すことができる高台で、ゴミ捨て場になっていました。
そこで、陳秀花さんは、”日本兵が、仕事をしないといって人を刺し殺すのを何人も見た。日本兵は、遺体を海南島の人に、望楼近くの崖下の穴に捨てさせた。犠牲者の遺族が、あとで遺骨を拾ったこともあった。いまも残されている遺骨もあるだろう”と話しました。
夕刻6時過ぎに海口市内に戻り、9時近くまで、海南島民間抗戦史研究会準備会と海南島近現代史研究会の共同研究のすすめかたなどを話合いました。
佐藤正人