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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島で 2011年春 3

2011年02月28日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(2月28日)、海南島民間抗戦史研究会準備会の2人と海南島近現代史研究会の6人は、「朝鮮村」に行きました。朝鮮人の遺骨が埋められている地域の半分は、すぐ近くを通ることになった高速道路建設の資材置き場とされており、砂利と土とコンクリートで覆われていました。2001年1月に「発掘」された遺骨や「軍隊手帳」などは、無くなっていました。
 午後4時過ぎに黄流の仏老村に着き、日本軍が侵入していた時期のことを知っている方がたから話しを聞かせてもらいました。
                                     佐藤正人
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海南島で 2011年春 2

2011年02月27日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(2月27日)、海南島民間抗戦史研究会準備会の2人と海南島近現代史研究会の6人は、午前8時に海口を出発し、万寧に向かいました。
 万寧で、蔡徳佳さんと海南島近現代史の共同研究について話し合ったあと、月塘村に行きました。
                           佐藤正人

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海南島で 2011年春 1

2011年02月26日 | 海南島近現代史研究会
 今日(2月26日)、海南島近現代史研究会の6人が海南島民間抗戦史研究会準備会の2人といっしょに、海南島北部の東山に行きました。
 東山は、昨年秋にソウルで会った李西根さんが、65年ほど前にいたと話していた、日本海軍海南警備府舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊東山守備隊の駐屯地があったところです。
 東山鎮の中心部から北東に3キロほどの永華村の近くの龍山村で出会うことができた陳秀花さん(1931年生)に旧日本軍の望楼跡に案内してもらいました。
 望楼跡は2か所ありました。
 1か所は、龍山村のすぐ近くの高台にありました。
 そこは、以前ブルトーザで地ならしをしたので、何も残っていないとのことでした。
 望楼があったという潅木がしげっている土地の前で、陳秀花さんは、当時のことを話してくれました。
 
   日本軍は、村人におじぎさせた。
   「シェンシャントリ」と言っておじぎした。
   ある老人が、言い方をまちがえて、「シェンシャンヴェティ」と言った。
   それは、「あなたはもうすぐ死ぬ」という意味だ。
   日本兵は、あたりの雰囲気からそのことに気づいてその人を殴って重傷をおわせ
  た。
   望楼は2階建てだったと思う。鉄条網で囲まれており、周りに堀がつくられていた。
   兵隊のなかには台湾人もいた。台湾人は通訳をしていた。日本人も台湾人も同じ
  軍服を着ていたので、見ただけでは区別がつかなかった。

 もう1か所の望楼は、陳秀花さんの生家に近い昌尾村にありました。
 望楼があった場所は、周辺を遠くまで見通すことができる高台で、ゴミ捨て場になっていました。
 そこで、陳秀花さんは、”日本兵が、仕事をしないといって人を刺し殺すのを何人も見た。日本兵は、遺体を海南島の人に、望楼近くの崖下の穴に捨てさせた。犠牲者の遺族が、あとで遺骨を拾ったこともあった。いまも残されている遺骨もあるだろう”と話しました。

 夕刻6時過ぎに海口市内に戻り、9時近くまで、海南島民間抗戦史研究会準備会と海南島近現代史研究会の共同研究のすすめかたなどを話合いました。
                                     佐藤正人
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紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどい

2011年02月25日 | 紀州鉱山
 熊野市が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する土地を提供しなかったため、わたしたちは、適切な空き地を探し、2009年7月に、購入しました。
 その土地に、三重県は不動産取得税を、熊野市は固定資産税を課税してきました。
 わたしたちは、納税を拒否し、課税の取消しを求める訴訟を提起することにしました。
 土地購入のさい、わたしたちは、在日朝鮮人有志から無期限無利子で200万円を借用しましたが、そのうち、おおくの方がたの寄金を得てこれまで返済できたのは85万円です。したがって、多額の弁護費用をあらたに準備するのが難しく、訴訟は、弁護士をつけず、本人訴訟のかたちでおこなうことにしました。
 昨年11月から、わたしたちは、論点を整理し、訴状と書証について検討を重ね、2011年3月14日に三重県の津地方裁判所に提訴することにしました。
 三重県が課税し強制徴集(差し押さえ)した不動産取得税は2、6300円で、熊野市が課税し督促している固定資産税は年額16、200円です。
 日本に強制連行され強制労働させられ日本で命を失った朝鮮人を追悼する場に課税する思想は、朝鮮人強制連行・強制労働を肯定する思想です。
 わたしたちが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場に対する税金を、1円でも納入することは、日本の行政機関の侵略犯罪に加担することだと思います。
 提訴前日、3月13日に津市で、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場に対する課税問題を考える集会を開きます。
 みなさんの参加をおまちしています。
 提訴に同行してくださる方は、3月14日午前10時に、津市中央3番1号の津地方裁判所庁舎(A館)正面西出入口に来てください。
                                  佐藤正人

■被告は 熊野市 三重県
 紀州鉱山の朝鮮人追悼の場への課税に抗議するつどい

と き:3月13日(日)午後1時から午後4時半まで
ところ:サン・ワーク津 (津市島崎町143-6。 電話059-227-3157)
入場無料です

1、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動の経過
2、裁判提訴の意義
3、訴状について(三重県にたいし・熊野市にたいし)
4、紀州鉱山の鉱毒処理について
5、韓国からのあいさつ( 予定。代読)
    江原道議会、麟蹄郡長、江原道韓国文化院協議会、慶尚北道議会、太平洋戦争
   被害者補償推進協議会、民族問題研究所ほか
6、日本各地からのあいさつ
  在日本朝鮮人総聯合会三重県本部・在日本大韓民国民団三重県地方本部ほか
7、意見交換

主 催:紀州鉱山の真実を明らかにする会
     http://kisyukouzan-lj-hp.web.infoseek.co.jp 
     連絡先 竹本昇 t1950@lilac.ocn.ne.jp 電話090-8860-9961
          日置真理子 電話090-1226-4744
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『会報』第55号・第10号合併号

2011年02月24日 | 『会報』
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会の『会報』第55号と紀州鉱山の真実を明らかにする会の『会報』第10号の合併号を、明日(2月25日)発行します。
 内容は、つぎのとおりです。

日置真理子「イギユンさんとペサンドさんを追悼する集会」
佐藤正人「17回目の追悼集会」
嶋田実「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会」
佐藤正人「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい」
佐藤正人「丁榮さんと丁炳碩さん」
キム チョンミ「丁炳碩さんの証言」
新聞記事
   「「木本事件」で犠牲 朝鮮人悼み20人献杯 きょうまでパネル展も」(『毎日新聞』
   2010年12月5日朝刊 熊野版)
   「木本事件のパネル展 熊野 犠牲者の追悼集会も」(『中日新聞』2010年12月5日
   朝刊 くろしお版)
   「旧紀州鉱山 朝鮮人労働者悼む 熊野で集会 「責任追及」誓う」(『朝日新聞』
   2010年12月6日朝刊 三重版)
竹本昇「審査請求と異議申立の棄却決定を受けてから裁判提起に向けて」
宇恵 悟「追悼碑建立の地への課税に対する訴訟に寄せて」
佐藤正人「朝鮮人を追悼する場の課税に対する訴訟について」
斉藤日出治「三重県および熊野市が地方税を課税することの不正義」
「対熊野市訴状 請求の趣旨」
「対三重県訴状 請求の趣旨」
竹本昇「「英国人墓地」というものはなにか」
佐藤正人「石原産業が経営していた海南島の田独鉱山で」
斉藤日出治「海南島近現代史研究会第7回研究集会」
『海南島近現代史研究』第2号・第3号案内 

 B5版24頁。 定価 200円(送料80円)。
 連絡先 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立す
    る会
            大阪府大東市中垣内3 大阪産業大学 斉藤日出治方
     紀州鉱山の真実を明らかにする会
            和歌山県海南市日方1168 キム チョンミ方
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海南島近現代史研究会のあゆみ 2

2011年02月23日 | 海南島近現代史研究会
■2009年8月―2010年7月
1 第3回総会
 2009年8月9日に第3回総会を開催しました。まず佐藤正人さんが現地調査の報告をおこないました。この報告では、「調査」という活動が、証言者と記録者との信頼関係によってその客観性が裏付けられるものだということが強調されました。続いて、久保井規夫さんから6月下旬の現地調査について、三亜市鹿回頭角の特攻艇「震洋」の基地跡を調査した経緯が報告されました。
 総会の主報告は竹内康人さんの「飛行第31戦隊による海南島攻撃」でした。竹内さんが住む浜松の基地から日本軍が中国東北部、海南島各地を爆撃した報告がおこなわれ、この爆撃で殺されたひとの名簿を作成していると話し、爆撃で死亡したひとりひとりの名前を記録することの大切さを強調しました。
 続いて竹本昇さんが、当時の日本のマスメディアが海南島の軍事占領を祝福し、島民の殺害を賞賛した報道の姿勢について報告をしました。また日置真理子さんが現在の海南島をめぐる日本と中国の動向について紹介し、中国の海南島軍事基地化の動きに対して日本が対抗する形で軍備を増強しようとする動きを報告しました。

2 第5回定例研究会
 2010年2月14日には5回目の海南島近現代史研究会定例研究会をおこないました。
 主報告は蒲豊彦さんの「三竈島から海南島へ」で、日本軍は海南島の軍事占領に先立って、香港に近い三竈島を占領し、そこに航空基地を作って中国の主要都市の爆撃をおこなったこと、島の住民を虐殺したこと、強制労働によって餓死・病死などで1万人の犠牲者が出たこと、沖縄から三竈島に移民がおこなわれたこと、などの報告を受けました。
 続いて、キム チョンミさんが「海南島での同仁会」と題して、「アジアに医学を普及させ、人民の健康を保護する」という名目で組織された同仁会が海南島でも組織され、「慰安婦」の健康診断や「防疫事業」をおこなっていたこと、また朝鮮人捕虜の生体解剖もおこなったこと、などを報告しました。

3 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑の建立
 2009年秋から10年3月にかけて、海南島近現代史研究会の会員も参加している紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立する活動にエネルギーを集中し、碑文の検討、追悼碑の建立地の選定、碑石の確保などの活動に取り組みました。
 熊野市が協力を拒否する中で、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、自力で土地を確保し、碑石も探し出して、2010年3月28日に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立除幕式を紀和町の現地で開催することができました。
 この碑の建立宣言文には、紀州鉱山を経営し朝鮮から多数の朝鮮人を連行し多くの犠牲者を出した石原産業が、海南島でも田独鉱山の開発に着手し、アジアの民衆を酷使し、多くの犠牲者を出したことについてつぎのように書かれています。
 「紀州鉱山を経営していた石原産業は、日本占領下の海南島で、田独鉱山を経営していました。田独鉱山で強制労働させられた朝鮮人は、「朝鮮報国隊」として朝鮮各地の監獄から日本政府・日本軍・朝鮮総督府によって海南島に強制連行された人たちでした。海南島で亡くなった朝鮮人の数もその名も、まだわかっていません。
 田独鉱山に建てられている「田独万人坑死難砿工紀念碑」には、「朝鮮、インド、台湾、香港、および海南島各地から連行されてきた労働者がここで虐待され酷使されて死んだ」と記されています。
 一九四二年から石原産業は、フィリピンのカランバヤンガン鉱山、アンチケ鉱山、シパライ鉱山、ピラカピス鉱山などで、日本軍とともに資源略奪を開始し、多くのフィリピン人を強制的に働かせました。そのなかには、日本軍と戦って「捕虜」とされた人たちもいました。
 わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。

 この碑の建立によって、日本の紀州鉱山における強制労働と、海南島における強制労働および虐殺とを、日本の侵略犯罪の歴史を物語るものとして一体化して捉えることの重要性を再認識することができました。

4 韓国での聞き取り調査
 2010年4月には、韓国での聞き取り調査をおこない、「朝鮮報国隊」の一員として海南島に送られ生きてもどることのなかった韓錫さんの妻の李康姫さんと息子の韓光洙さんに出会うことができました。
 日本海軍海南警備府横須賀第4特別陸戦隊に入れられていた鍾明出さんに、慶州市内南面の自宅で話しを聞かせてもらいました。
 また江原道旌善郡旌善面の佳水里という村で、紀州鉱山で亡くなった「玉川光相」さんの幼馴染だった全文鐸さんに出会うことができ、「玉川」さんの本名が劉太相さんだということが判りました。

5 海南島「現地調査」
 2010年5月下旬から6月にかけて、佐藤正人会員が第18回目の海南島「現地調査」をおこないました。海口の南にある梅種村で1943年10月に日本軍に殺害された許如梅さんの娘さんから話しを聞き、澄邁県美桃村では、日本軍に掘らされた洞窟や望楼跡を訪ね、家畜を奪われたり乱暴された村民から体験を聞きました。また黎族自治県の海尾村では望楼や兵舎をつくらされた人たちから話をうかがいました。
 最後に、広東省の三竈島に行き、占領期に日本軍に殺害された住民を追悼する万人墳と千人墳などを訪ねました。

6 記録映像上映会
 2010年7月30日から3日間、大阪人権博物館で海南島に関する3本のドキュメンタリー(『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』、『「朝鮮報国隊」』、『海南島月塘村虐殺』)の上映会を開催しました。
 同館で2004年夏に開催予定であった、企画展「日本は海南島で何をしたか」が外部の圧力のために開催できなくなっている状況を打破するためのきっかけとなることを期待して、この上映会がもたれました。参加者は3日間で20名ほどでしたが、海南島における住民虐殺や強制労働の実態に衝撃を受けた人もいて、上映運動を地道に続けていくことの意義を再確認しました。
                                   斉藤日出治
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海南島近現代史研究会のあゆみ 1

2011年02月22日 | 海南島近現代史研究会
■2008年8月―2009年7月
 2008年8月3日におこなわれた第2回総会以降の1年間の海南島近現代史研究会の活動、その成果、および今後の課題について報告します。
 2008年の第2回総会では、海南省民族学会の王建成、金山両氏が来日され、この総会に参加して先住民黎族の歴史・文化について報告をしていただきました。またこの総会では、この年の4月におこなわれた万寧の月塘村の追悼集会について報告をおこなうと同時に、月塘村の村民から託された日本政府宛の要求書について対応を議論しました。その結果、村民の要望を受けて、要求書を日本政府に送付すべきだという意見が大半を占め、送付が決議されました。
 海南島近現代史研究会は10月2日に月塘村村民の日本政府への要求書を 総理大臣、外務大臣、法務大臣、厚生労働大臣、防衛大臣に送付しました。要求は以下の5項目です。
   1 村民虐殺をおこなった日本軍人の名前を公開せよ
   2 村民と国際社会に向かって謝罪せよ
   3 幸存者と犠牲者家族に賠償せよ
   4 犠牲者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ
   5 焼失した家屋と強奪した財産を弁償せよ

 この要求書に対して、10月20日に法務省秘書課庶務係から日本政府の回答が送られてきました。そこにはたった一行、
   「事実関係を承知していないため対応いたしかねますことをご理解ください」
とだけ書かれていました。わたしたちはこの回答をただちに月塘村のみなさんに伝えました。
 この回答を受けて、10月27日に、月塘村村民委員会と海南島近現代史研究会との話し合いが、月塘村の村民委員会の会議室でおこなわれました。
村民委員会から、要求書を無視した日本政府の対応に対して、国際司法裁判所と日本の裁判所へ提訴したい、という要望が出されました。
 その話し合いの中で、日本で提訴した場合、証人の身の安全が心配だ、と話す村人が何もいました。日本軍から被害をこうむった村の人びとが60年以上経た今日でも、なおそのような感覚をもっていることを、日本人は深く受けとめなければならないと思います。
同じような発言を、わたしたちは海南島戦時性暴力被害訴訟原告の陳金玉さんから聴きました。
 12月25日に海南島戦時性暴力被害訴訟の東京高等裁判所の結審が近づいたとき、海南島から原告の陳金玉さんが来日し、証言されました。
 陳さんはそのとき、日本政府を提訴した理由を、「日本に行くのは怖かったが、日本の若い人にこの事実を知ってもらいたいと思い、勇気を振り絞って日本に来た」と発言しています。
 2008年秋(10月末から11月初め)、海南島近現代史研究会のメンバーは海南島に行き、「朝鮮村」の現状についても知ることができました。
 「朝鮮村」の一帯は、高速道路建設などで開発が進み、遺骨が埋められている附近は道路工事のための宿舎が建てられており、敷地が踏みつけられて、遺骨の破壊が進行していることが分かりました。一部で、遺骨が露出しているところもあります。
 12月9日に、佐藤会員が韓国にわたり、日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に「朝鮮村」の現状について報告しました。遺骨の破壊が進んでいるにもかかわらず、韓国政府機関は、「発掘調査」を進めようとしていません。
 2008年秋には、大規模な住民虐殺が行われた村で新たに聞き取りをおこないました。
 1941年6月に澄邁県橋頭鎮にある沙土の村々に侵入した日本軍は、村人1119人を殺害、その後さらに200人を殺しました。しかしこれらの村では、犠牲者の名前も、幸存者の証言についても記録がないので、正確なことがほとんど分かっていません。
 年が明けて、2009年2月8日に、海南島近現代史研究会は第3回の定例研究会を開催しました。その70年前の1939年2月10日に日本軍が海南島に奇襲上陸していました。
 6月後半から7月はじめにかけて、海南島近現代史研究会としては4回目、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては17回目の海南島「現地調査」をおこないました。旧州の日本軍望楼跡の調査、前年10月に続いての沙土の村々での聞き取り、月塘村訪問、「朝鮮村」の試掘の可能性の検討などをおこないました。
 7月5日の海南島近現代史研究会事務局会議では、直前の海南島「現地調査」の報告、第3回総会の準備などが議論されました。この会議で、2010年8月の第4回総会を海南島で開催することについても検討しました。この企画は、6月に海南省民族学会の王建成さんから提案されたものです。
 2008年8月~2009年7月の1年間の活動の成果としては、つぎの点を挙げることができます。
第1に、海南島に関連して日本の侵略責任を問い直そうとするさまざまな研究団体、運動団体との出会いが生まれ、この交流によってひろがりのある調査活動が進展したことです。
 第2回総会における海南省民族学会との交流、ナショナリズムに縛られた日本の考古学界と批判的に対峙する第2考古学の人たちとの交流、戦争捕虜の実態を調査するPOW研究会との交流、三竈島(広州に近い島で、日本軍が海南島に先んじて占領し、航空基地を建設した。沖縄からも移民が送られている)の調査活動に取り組んでいる人たちとの出会い、などによって、私たちの会の力量をはるかに上回る豊かな情報交流や資料収集をおこなうことができました。
 第2に、わたしたちが熊野市の「木本事件」の犠牲者の追悼碑を建立してから20年が経過しましたが、2008年は海南島の月塘村で日本軍に虐殺された村民の追悼碑が建立され、さらに今年になって紀州鉱山の朝鮮人の犠牲者の追悼碑の建設に向けて紀和町に土地が確保されました。熊野市(1994年建立)と紀和町(2010年建立)と海南島月塘村(2008年建立)の三つの碑(紀和町の碑は来年建立予定)は、私たちの運動が結びつけた歴史のあたらしい絆であるといえます。
 わたしたちの運動の歴史的な意味が三つの碑となって具体的に結実したということもできます。2008年8月~2009年7月の1年間はこの20年にわたる日本、朝鮮、海南島にまたがる運動が三つの追悼碑のきずなの構築という形で具体的に実を結んだ(あるいは結びつつある)年として位置づけることができるのではないでしょうか。
 第3に、この三つの碑を拠点にして、わたしたちは70年前の日本軍による海南島の軍事占領をとらえかえす歴史認識の視座を獲得することができます。1939年2月10日に日本軍は「紀元節」を「記念」して海南島に奇襲上陸しました。わたしたちはその後の70年の歴史を批判するために、2月8日に定例研究会を開催し、この軍事占領の今日的な意味を問う討論を敢行したわけです。
 以上は2008年8月から2009年7月までの1年間の活動の大きな成果だということができますが、わたしたちは同時に一市民団体の力量ではとても担いきれない巨大な課題にも直面しており、会としてどのような取り組みができるのかの検討を迫られた年でもありました。
 1 「朝鮮村」の開発=破壊の進行を前にしてどうするか。2006年にわたしたちは遺骨をたとえ一体でも科学的に掘り起こして、日本軍の犯罪行為を立証しようと発掘をこころみましたが、その試みが断たれ、その後、会として試掘に取り組むことができません。
現在の私たちにできることは、遺骨の破壊がどのように進行していくのかを見届け、その過程を記録していくことです。
 2 日本政府に謝罪と賠償の要求をつきつけた月塘村村民にどう応えるのか。村民の要求がしりぞけられるなかで、日本の裁判所、あるいは国際裁判所への提訴という村民の要望に対して、わたしたちはなにをなしうるのかを考えていかなければなりません。
 3 これまでの「朝鮮村」、月塘村の調査に加えて、新しい課題が生まれています。沙土の村民虐殺、曹靖さんが記録した中原鎮長仙村の村民虐殺に関する調査です。
                                    斉藤日出治
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『海南島近現代史研究』第2号・第3号の編集をおわって

2011年02月21日 | 海南島近現代史研究会
 国民国家日本の海南島における侵略犯罪の実態を総体的に把握し、その歴史的責任を追及するとともに、海南島における抗日反日闘争の歴史を究明することを目的とする海南島近現代史研究会が創立されてから、3年半が過ぎました。
 この間の、海南島での「現地調査」、歴史研究、研究集会……において、海南島近現代史を世界史のなかで把握するとともに、海南島近現代史のなかの世界史を認識するという、歴史研究の方法を模索してきました。
 本誌は、その過程の報告書です。課題の大きさにくらべて、海南島近現代史研究会の力が足りず、本号の発行がたいへん遅れてしまいました。  
 次号は、ことし夏に発行します。           
                                     佐藤正人
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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 5

2011年02月20日 | 大阪人権博物館
■海南島における日本の侵略犯罪を明らかにする朝鮮人として
 今回のことは、大阪人権博物館が、2004年夏の企画展示「海南島とアジア太平洋戦争――占領下で何がおこったか――」を、前年末から公示していながら、開会直前に、「中止」したことに端を発している。2004年夏の企画展示は、関係諸機関で承認され予算案も通過していた。

 侵略戦争において、侵略国とその国民は、無制限に、根底的な人権侵害、人権破壊をおこなう。
 「人権」を冠した日本の博物館が、広範囲にわたって無制限に、根底的な人権侵害、人権破壊をおこなった日本の侵略戦争の実相を伝える企画展を、無期限に中止してしまった。
 2009年春に予定されていたセミナーにおいて、キム チョンミは、担当者から報告タイトルと所属の変更を提案された。
 大阪市市民局人権室が「海南島」ということばそのものに難色を示しているから、という理由だった。
 わたしは、日本に生まれ、日本で育った在日朝鮮人である。自分の歴史的位置を知ろうとして、歴史研究をおこない、その過程で海南島における日本の侵略犯罪調査・研究をすすめている。
 そのわたしの「日本占領下の海南島で」と題する報告の表題から「海南島」ということばの削除を提案されたことは、わたしには、わたしから、「朝鮮」ということばの削除を求められたのと同じ意味をもつ。
 山本柚は「戦争の〈不都合な記憶〉をどう伝えるか・上 変えられる展示・消される記憶」(『世界』2010年7月、岩波書店)で、20世紀末以来のピースおおさか、2004年の大阪人権博物館、2006年の埼玉県平和資料館、堺市立平和と人権資料館などでが日本の侵略と加害にかんする展示を「自主規制」する経過と原因を追及している。
 アイヌモシリ・琉球王国侵略いらい他地域・他国侵略をつづけてきている日本において資料館や博物館が、日本の加害の歴史を隠蔽・歪曲することは、日本が侵略した諸地域の民衆にたいする新たな加害行為である。
 今回のセミナー中止の問題は、大阪人権博物館だけの問題ではなく、日本の社会・文化状況の反映であり、大阪人権博物館だけで解決できることではないだろう。
 しかし、侵略犯罪という最大の人権侵害の展示・セミナーを実現できなくなっている原因を大阪人権博物館が主体的に解明し、その解決の努力を積極的に持続的に進めないかぎり状況は変わらない。2009年4月に大阪人権博物館は、「企画の開催が承認されますよう、引き続き努力していく所存です」と広報したが、それからの2年間、残念ながら、大阪人権博物館の努力は、わたしたちには、あまり伝わってきていない。
                                  キム チョンミ

■資料 「リバティセミナー中止・延期についてのお詫び」
          『広報誌リバティ』43号(2009年4月1日)
 当館では今年の二月から三月にかけて、「総力戦体制と日雇労働者」(吉村智博)、「日本占領下の海南島でー1939年~1945年ー」(キムチョンミ)、「日中戦争下の在阪沖縄人」(仲間恵子)、「戦時期の問題と水平運動」(朝治武)をテーマとしたリバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」の開催を予定していました。しかし海南島に関しては特別展もしくは企画展の開催を当館の理事会と展示企画委員会において延期を決定しているとの理由で、大阪市市民局人権室からリバティセミナー開催は承認されませんでしたので、今回のリバティセミナーは中止・延期することにしました。
 当館をめぐっては極めて困難な状況にありますが、今後も海南島については展示やセミナーなど博物館事業の企画を検討していきたいと考えています。そして理事会・展示企画委員会、関係機関において企画の開催が承認されますよう、引き続き努力していく所存です。講師を依頼していた海南島近現代史研究会のキムチョンミさん、およびリバティセミナー開催を期待されていた皆さまに対して、深くお詫び申し上げます。
                          大阪人権博物館 館長秋定嘉和
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大阪人権博物館セミナー(2009年春)中止について 4

2011年02月19日 | 大阪人権博物館
■2回目の「質問および要請」と「再質問書」(2009年4月13日付け)
 海南島近現代史研究会は、再度、4月13日付けで、秋定嘉和大阪人権博物館館長あて「質問および要請」、大阪市市民局人権室あて「再質問書」を送った。
 大阪人権博物館あて「質問および要請」で、わたしたちは、
① リバティセミナー「被差別民衆とアジア・太平洋戦争」が、大阪人権博物館展示・企画委員会と、理事会において、了解されていなかったのか、
② 大阪市市民局人権室が今回のセミナーを、2007年度に予定されていた「海南島に関する企画展」の大阪人権博物館展示・企画委員会と同理事会における延期決定に関連づけたことを、大阪人権博物館が受け入れた理由はなぜか、
など3項目と、2006年秋のふたつの会における「海南島に関する企画展」延期決定にかかわるすべての資料の提示を要請した。
 大阪市市民局人権室には、「再質問書」で、2点について質問した。
    「海南島に関する企画展」とは直接的に関係ない今回のセミナーが、2007年度に
   予定されていた「海南島に関する企画展」の大阪人権博物館展示・企画委員会と同
   理事会における延期決定に拘束されなければならない理由はなんですか?」。
    「海南島に関する企画展」について、大阪人権博物館展示・企画委員会の2006年
   9月決定と、同理事会の83回決定の「延期」がとりけされれば、「大阪人権博物館運
   営費補助金変更承認申請書」は「適正」と認められるのですか?」。

■2回目の「質問および要請」と「再質問書」への回答
 大阪人権博物館から、4月28日付けで、回答がきた(大人博第24号)。
 そこには、
    「大阪市市民局人権室からの口頭の説明では海南島を含むリバティセミナーは公
   開でおこなわれるため、公開をともなう企画展と同じ博物館事業であるとの見解が
   示されました。それによって「大阪人権博物館運営費補助金変更承認申請書」の手
   続きでは「不受理」となったということです。
     また3月12日付けの「貴研究会の「要請書」に対する回答」で述べた通り、当館
   は大阪府と大阪市から多額の運営費補助をうけています。そのため事業に関して
   は展示企画委員会や理事会で承認されていたとしても、特に大阪市の場合では事
   業の変更を伴う時は大阪市から承認されないと実施できない仕組みとなっていま
   す。このような状況のなかで変更を伴う事業を実施すると、大阪市からの運営費
   補助が削減もしくはストップする状況をつくり出し、当館の存立基盤を危うくす
   る可能性があります」。
と書かれてあった。
 その後、大阪人権博物館は、『広報誌リバティ』43号(2009年4月1日)に館長秋定嘉和名で「リバティセミナー中止・延期についてのお詫び」を掲載し(資料)、同じ内容を、大阪人権博物館HPトップページに、2009年4月28日から、「セミナーについて」欄で掲載した(その後消去。現在は掲載されていない)。

 大阪市市民局人権室からは、海南島近現代史研究会の催促にもかかわらず、2年近く経過したいまも、まだ回答が来ていない。
                                  キム チョンミ
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