三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

やりきれなさの先に、救いがある 2

2008年02月13日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
■「ここで妹に川の水を飲ませた」
 しかし、血まみれの妹を抱えて逃げのびた老人は、今でも当時の道筋と最後に妹を看取った場所に行くことが出来ない。あまりにも辛くて、どうしても足が止まってそこへ行けないのだ。それでも、生存者としての証言を正確に終わらせる為に、意を決して、老人はやっと一つの藪にたどり着く。彼は、ここだ、ここで妹に川の水を飲ませた、だがやがて静かに眼を閉じて死んでいった、と呟き、後は声が途切れて涙にまみれ、嗚咽を抑えきれずに号泣してしまう。六〇年ぶりにやっと妹の死場を再訪し、怒りと哀しみに身を委ねることが出来たからだ。

■証言採録の仕事
 先に、この証言集は限りなく重たいものだと言ったのは、こうした多くの証言を聞いているうちに、これをしっかりと受け止める立場に押しやられるからである。
 例えば、証言集を作る人たちは、この妹に死なれて埋めた老人の苦しみと哀しみを共有しようとして、倒れこむ老人を抱きしめ、証言する姿を撮影するのを中断することも出来る。それも証言に立ち会った人々の最低限の誠意だ。 
 しかし、苦しみと哀しみに身を捩る証言者の姿を映像に撮り続けることこそが証言採録の仕事であり、そういった矛盾や苦悩を作業として抱え込むことこそが証言集を作るために避けて通れない決定的に重要な作業の一つだ。
 だから、観る側にとっても、素晴らしい証言集というのは、どうしても、そのように製作者の苦悩と決断を引き受ける分だけ重くなるのである。

■「一屍二命」
 さらに、この身震いしそうな虐殺の残虐さの実態調査は続けられ、ある種の象徴的な事実に行き着く。それは、虐殺の被害者名簿の中の女性名の所に、そっと「一屍二命」という語が幾つか記されているのが示されると、それに虐殺の究極状況が象徴される。
 「一屍二命」の意味は、虐殺された妊婦の体内に息づいていた胎児もまた殺され、目に見える屍は一つだが二つの命が同時に失われたことを指したものだという。そこまで重たい証言を聞き続けると、観て聞くだけの側である私には、何ともやるせない思いが迸り始める。
 しかし、どうすればいいのか。

■この人々と共に
 ここに提出されている史実としての重さは計り知れないのであり、この証言集は泣かずには語れない厄災を受けた人々の物語である。
 いや、60年以上経った今でも怒りが去らず、あるいは辛すぎて、今日まで恨みを晴らせずに来た人々の涙の記録である。とすれば、彼らと思いを共にする以外に、やりきれなさと重さにこたえる術はないのである。
 特に、ユェタン村の人々が日本政府と向き合って、しっかりと賠償を要求する運動を始めたと村人が説明し、虐殺被害者の記念碑も建立すると誓い合っているのを観る時、この人々と共に運動に組することで、私たちも辛い涙を幾らかでも受け止めて共に歩くことが出来るかもしれない、と思えてくる。

 私にとってはそのように、この証言集は、とてもやりきれなくした上で、行動する気になればアジアの人々と共に未来を生きることが出来るという一縷の希望をも与えてくれるものだ。救いへの書でもあると言えるのだ。
                                     2008.1.30.

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やりきれなさの先に、救いがある 1

2008年02月12日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
         足立正生さんが、海南島近現代史研究会『会報』創刊号に寄せてくれた
        「ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』を見る  やりきれなさの先に、
        救いがある」を2回にわけて連載します。    海南島近現代史研究会


 この記録映像は、これまで日本政府が隠蔽してきた旧日本軍の集団虐殺事件を告発する証言集である。その新たに調査された厳粛な史実の前では、旧日本軍の過去の残虐な行為に対して今やどうしようもないという、ある種のやりきれなさが限りなく募ってくる。
 この運動体が製作した前作の『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』と同じく、今回も戦争犯罪の史実を暴いていくのだが、今回の記録が凄いのは、全編、虐殺をまぬがれた村人たちが生き証人として生々しい体験告白を続けることである。
 一九四五年、沖縄戦が行われている最中に、東南アジアを植民地支配するための戦略基地を作る予定だった海南島の全域で抗日ゲリラ隊の反撃に手を焼いた旧日本軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊が、全域で八千人を超える住民を虐殺して回ったという。そして、五月、抗日ゲリラの支援部落という理由でユェタン村が襲撃され、二〇〇人に近い住民が未明の短時間に銃剣で殺戮される。その、平和な小村落を襲った未明の厄災の全貌が、一人一人の証言の連なりの中で、ぐんぐんと明らかになっていく。
 この、今や老人となって証言する村人たちは、幼少時に体験した未曾有の惨劇、旧日本軍による集団殺戮の光景を身振り手振りで、初めは訥々と語り始めるのである。いや、その証言は言葉で語られる生々しさだけではない。語る人々の身体には必ず、腹部や背中や上腕や大腿部に銃剣で刺され斬られた傷跡が抉られたように残っている。
 その証言者たちは、家族9人の惨殺現場で失神して生き残った者、家族全員が惨殺された時にたまたま柱の陰に倒れて生き残った者、銃剣で刺殺される父親を庇ったためにわが身を刺し貫かれて失神したために生存出来た者、母親と兄二人と姉を刺殺され、腹部を裂かれた妹を抱えて逃げ延びたが妹は途中で絶命した者、一人一人の苦衷の記憶となった旧日本軍の虐殺部隊が村落の各家を順次襲って惨殺して廻る全体像が、手に取るように浮き彫りにされていく。

■正確な体験報告
 そのように、噂や記憶の寄せ集めでは無く、人々が体の各部位にある傷跡を擦りながら語り続ける正確な体験報告なのだ。それだけに、この証言集は、限りなく重たいものともなるのである。
 何故なら、彼らは、旧日本軍が敗北撤退した後も数年は恐くて村落にもどれず、山裾や藪の中に野宿して隠れ住んでいた人々でもある。また、抗日ゲリラに参加して二〇〇戦以上も旧日本軍と闘った勇士は戦闘に忙しく、自分の村が虐殺されたことを戦後まで知らなかった。そんな彼らの声は、初めは穏やかだが、やがて記憶の中に累積している怒りで声が震え始める。遂には語る手振り身振りが激しくなるのは、あまりにも当然だと思う。

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海南島近現代史研究会制作『海南島月塘村虐殺』ができあがりました

2008年01月11日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』暫定版を、2007年8月5日の海南島近現代史研究会創立集会のときに試写しました。
 その後、2007年9月末、完成直前に編集機械の操作を誤って編集ファイルをすべて失ってしまいました。
 2007年10月はじめから11月上旬まで、あらたに月塘村で証言を聞かせていただき、シナリオに加筆し、再編集し、2007年末に完成させました。上映時間は、前版は28分でしたが、新版は41分になりました。
 沖縄戦のさなか、1945年5月2日の明け方、海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊(当時の司令は、海軍大佐森本一男)の日本兵は海南島万寧市万城鎮月塘村を襲い、4時間の間に、多くの村人を殺傷しました。
 1994年4月1日、月塘村の全村民は、「月塘村村民に国際社会に公開で謝罪すること、幸存者と犠牲者家族に賠償すること、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し追悼式をおこうこと、焼失した家屋や強奪した財産を弁償すること」を日本政府に要求する文書を出しました。
 月塘村の人びとは、いま、犠牲者すべての名を刻んだ追悼碑を建立しようとしています。
 このドキュメンタリーは、月塘村虐殺62年後の2007年1月、5月、10月、11月に、生き残った人びとの証言を、村人のみなさんの助けをかりて、のべ50日間にわたって記録したものです。
 月塘村、豊丁村、烏場村、春園村、西截村、波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村、坡村、長仙村、三古村、南橋村、雅昌村、佳文村、風嶺村、吉嶺村、官園村、北岸村、大洋村、抗日軍根拠地のあった六連嶺山麓の村むらなど海南島東部の各地で住民虐殺、放火、略奪をくりかえしていた海南海軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊の「戦没者」約300人の氏名・出身地を刻んだ石碑が、佐世保市内の「海軍墓地」に建てられています。そのそばの説明板には、「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」と書かれています。
 このドキュメンタリーには、2005年3月に撮影したその石碑や「説明板」の映像も収録してあります。
 月塘村虐殺をふくむ、日本占領下の海南島における住民虐殺の事実はほとんど明らかにされておらず、みどり児や幼児や妊婦をふくむ村人を殺傷した日本兵の名は隠されたままです。

 ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』の価格は、個人購入2000円、上映権つき12000円です。
 VHS版とDVD版があります。送料は200円です。
 購入を希望されるかたは、saito@eco.osaka-sandai.ac.jp に連絡してください。
 郵便振替番号は、海南島近現代史研究会 00960-5-280485 です。

 海南島近現代史研究会
 http:/www.hainanshi.org/
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ8(最終回)

2008年01月09日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅶ、要求賠償                
影像:朱学平さんと子どもたち
テロップ:要求賠償  要求賠償

Ⅷ、朱彩蓮さん
映像:瀕死の妹、朱彩蓮さんを抱いて逃げた道を62年後に歩く朱学平さん
テロップ:妹を抱いて逃げた道を歩く朱学平さん
映像:「坡」で話す朱学平さん
テロップ:妹は、近くに埋めた
テロップ:妹を抱いてここまで逃げてきた
テロップ:妹は、近くに埋めた
テロップ:妹は ただ 水だけを欲しがった
テロップ:妹は静かに目を閉じ
      死んでしまった
映像:朱学平さん 樹と草の茂みのなかで
テロップ:ナグゥサン(ひどい)、ナグゥサン
      思い出す。悲しい ホレン(可怜)
      食べるものも着るものもなかった
      土の上に麻の袋を敷いて、蓑をかけて寝た
テロップ:ここで何か月も暮らした
      捨てられているサツマイモの
      くずを探して食べた
      ひとりで何年も暮らした
      怖かった
      思い出すと涙がでてくる
映像:「坡」を去る朱学平さん
映像:太陽河
テロップ:太陽河 2007年11月
映像:太陽河の水辺に映る揺らめく太陽→遠景
テロップ:朱学平さんは、瀕死の妹に
      この河の水を汲んで飲ませた
映像:牛、ビンロウ樹の林、太陽河
テロップ:月塘村と その農地と 入会地は
      太陽川の 北側の台地にある


『海南島月塘村虐殺』
構成・シナリオ:佐藤正人
編集:佐藤正人 小谷英治 金静美
翻訳:林彩虹 佐藤正人 金静美
撮影:小谷英治 佐藤正人
ナレーション:崔文子
協力:月塘村のみなさん
    蔡徳佳 朱学基 朱振華

制作:海南島近現代史研究会
              2007年


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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ7

2008年01月08日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅴ、海南島における日本軍の住民虐殺 
影像:瓊海市楽会県波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の追悼碑
テロップ:瓊海市楽会県波鰲村、上嶺園村、上辺嶺村の追悼碑
影像:五百人碑
テロップ: 五百人碑
影像:“三・一”被難公塚
テロップ:“三・一”被難公塚
ナレーション:佐世保鎮守府第8特別陸戦隊に所属する日本兵は、1941年5月13日未明、楽会(ロホェイ Lehui)県の波鰲(ボーアォ Boao)村など三つの村を襲って住民を殺し、さらにその翌月、6月24日に、楽会県北岸(ベィアンBeian)郷の北岸村と大洋(ダーヤン Dayang)村を襲撃し、数日間に、多くの村人や通行人を殺しました。
 いま、北岸村に、そのときの犠牲者を追悼する「五百人碑」が建てられています。
 北岸郷の西隣りの楽会県互助(フージュHuzhu)郷でも、多くの人が佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵によって殺されました。
 大虐殺がおこなわれたのは、日本敗戦の4か月まえ、月塘村での住民虐殺の20日まえの1945年4月12日(農暦3月1日)でした。
 その4年後、1949年農暦3月1日に、虐殺現場の燕嶺坡(イェンリンポ Yanlingpo)に、犠牲者全員の名を刻んだ追悼碑が建てられました。
映像:龍滾海岸
テロップ: 万寧市龍滾海岸
       狗匙石洞付近
テロップ: 1939年10月14日 ここで日本軍は 
      襲撃を避けて 村から逃げてきた 
      多くの人たちを殺害した
ナレーション: 1944年7月にアメリカ合州国軍がサイパン島を占領した後、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、硫黄島やウルマネシアに大量の軍隊をおくりこみました。
 それは、アメリカ合州国軍の「本土」上陸をすこしでも遅らせ、天皇制を維持するためでした。
 ウルマネシアでは、10万人の住民が日本軍やアメリカ合州国軍に殺され、約9万人の日本兵と、「軍夫」とされた朝鮮人が死にました。
 互助(フージュ Huzhu)郷や月塘村で、日本兵が、多くの住民を虐殺したのは、沖縄戦のさなかでした。
映像:海口市長流鎮儒顕村 五源河にかかる石橋
テロップ:海口市長流鎮儒顕村
      五源河にかかる石橋
テロップ:1939年8月15日
      ここで 日本軍は
      多くの村人を射殺した
ナレーション:1939年2月から1945年8月までの6年半の間に、海南島で、日本軍と日本企業によっていのちを奪われた犠牲者の数も、名まえも、ほとんどが明らかになっていません。
 海南島各地で住民虐殺を命令した日本軍将校の名も、直接住民を虐殺した日本兵の名前も、隠されたままです。

Ⅵ、月塘村追悼碑 
影像:集会場前の大樹
テロップ:月塘村の榕樹
      樹齢300年あまり
影像:月塘村集会場→月塘の文字
テロップ:月塘村集会所
影像:2007年5月24日会議
テロップ:2007年5月24日
      月塘村集会場で
月塘村追悼碑建設についての話し合い
ナレーション:月塘村では、犠牲者を追悼する碑の建設が試みられてきましたが、これまで実現していませんでした。
 2007年5月24日、月塘村集会場で、追悼碑建立について話し合いがおこなわれました。
 犠牲者を追悼する碑を建立することと、日本政府に月塘村虐殺の事実を明らかにさせ、謝罪させ、賠償させ、責任者を処罰させることは、つながっています。
映像:月塘村の壁に貼られた「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」
映像:「籌建月塘“三・廿一”惨案紀念碑公告」 静止画面
ナレーション:2007年10月6日に、追悼碑建設委員会が結成され、追悼碑建設が公告されました。
映像:風水鑑定の様子
テロップ:追悼碑建立予定地の風水鑑定
ナレーション:2007年10月6日に、追悼碑建設予定地の風水の鑑定がおこなわれました。
影像:追悼碑建立予定地で話す村人たちと風水師
テロップ:追悼碑建立予定地で話す村人たちと風水師
映像:月塘村に貼り出された「1945年5月2日(農暦三月廿一日)日寇殺害月塘村民人数名単登記表」
映像:「1945年5月2日(農暦三月廿一日)日寇殺害月塘村民人数名単登記表」
    静止画面
映像:請衆郷親識真査閲 要事実求是 糾正補漏
ナレーション:2007年10月20日に、月塘村の数か所の壁に、1945年5月2日に日本軍に殺された村人の名簿が貼り出されました。
 追悼碑に刻む犠牲者の名前を最終的に村人に確認してもらうためです。
映像:「1939年―1944年 日軍殺害月塘村無辜村民調査登記」
ナレーション:1945年以前にも、20人の月塘村村民が、日本軍に殺されていました。
影像:雨の月塘
ナレーション:月塘村虐殺の日、午後、突然、空が曇り、雷が鳴り、雨が激しく降り始めたそうです。
 殺された多くの村人の血が、雨水とともに、この月塘に流れこんだといいます。
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ6

2008年01月07日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅳ、戦犯を「象徴」とする日本国で
影像:佐世保の「海軍墓地」 
テロップ:佐世保市内にある「海軍墓地」
影像:「海南島忠魂碑」
テロップ:1974年に建てられた
影像:「佐世保鎮守府第八特別陸戦隊戦没者慰霊名碑」
テロップ:約300人の名が書かれている
影像:「説明石」:「佐八特は……約六年有余炎熱と険しい“ジヤングル”をものともせず勇戦奮闘した。この間幾多の討伐作戦等に尊い戦没者出すに至った」
ナレーション:月塘村虐殺をおこなったのは海南海軍佐世保鎮守府第8特別陸戦隊万寧守備隊の日本兵たちでした。
 海南島でで残酷な侵略犯罪をくりかえしていた日本兵たちは、日本敗戦後、日本に戻りました。
 かれらは、日本に帰ってからは、海南島でおこなった犯罪を隠し、責任をとろうとしないで、最悪の戦犯ヒロヒトを「象徴」とする日本国で生きつづけました。
影像:六連嶺
テロップ:六連嶺
ナレーション:万寧北方の六連嶺(リゥリェンリン Liulianling)地域には抗日軍の根拠地がありました。
 佐世保鎮守府第8特別陸戦隊はその地域の村々を襲撃し、抗日軍を支援したとして村民を虐殺し、家屋を焼き、村を無人化していきました。
影像:六連嶺山麓に建てられている革命烈士記念碑
テロップ:六連嶺山麓にたつ革命烈士紀念碑
影像:六連嶺地域
テロップ:六連嶺地域
影像:万寧市内の革命烈士紀念碑
影像:万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』
テロップ:万寧県政協文史弁公室編『鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』(1995年刊)
ナレーション:日本軍は万寧(ワンニン Wanning)県で8000人以上の無辜の民衆を殺害したと書かれています。

影像:卓飛さん
テロップ:卓飛さん(1915年生)
ナレーション:月塘村で生まれ育った卓飛(ジュォ・フェイ Zhuo-Fei)さんは、日本軍が海南島に侵入してくる前、1932年に共産党に入って革命に参加し、抗日戦争に勝利するまで、月塘村に戻らなかったそうです。
テロップ:日本軍に突撃し
      白兵戦となった
テロップ:日本軍といろんな場所で
      戦った
テロップ:部隊の根拠地は
      楽東と白沙にあった
テロップ:解放後 故郷に戻った
テロップ:母や従弟たちの遺体が埋められているのを見て
      はじめて 事件を知った
テロップ:日本軍を心から憎んでいる
テロップ:わたしの家族をたくさん殺した
テロップ:私は日本軍と
      200回以上  戦った
テロップ:多くの人が犠牲になった
テロップ:わたしは日本軍と戦って
      四回負傷したが生き残った
テロップ:日本軍が投降したときは
      とてもうれしかった
テロップ:那大で日本軍を包囲して
      武装解除した
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ5

2008年01月06日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅲ、「要求日本国政府賠償請願書」     
影像:要求日本国政府賠償請願書
ナレーション:1994年4月1日に、月塘村の全村民は、日本国政府に賠償を要求することを中華人民共和国外交部に求める文書をだしました。
影像:殺害された日付、1945年農歴3月21日(1945年5月2日)が書かれている墓石
ナレーション:その文書には、こう書かれています。
 1945年5月2日(中国農歴乙酉年3月21日)、万寧(ワンニン Wanning)県万城(ワンチョン Wancheng)の日本軍部隊は、理由なくわれわれ月塘村を襲った。罪のない村民286人が殺傷された。
 この日、日本軍は、月塘村の家70軒を焼き、多くの牛などの財産を強奪した。
 日本軍は、われわれ月塘村の100以上の家庭から親しい家族を失わせるという苦痛をあたえ、われわれ月塘村村民に、ことばでは言い表すことのできない肉体的精神的物質的損失をもたらした。
影像(連続的に):日本軍に襲撃された家の跡と現在の月塘村風景
影像:月塘をのぞむ廃墟の道
テロップ+ナレーション:
 49年が過ぎたが、われわれ、罪のない被害者に誰も責任をとろうとしていないことに対して、われわれはこころから憤慨し、日本国政府に厳正につぎのことを要求する。
影像:月塘村風景
テロップ+ナレーション:
 1、われわれ月塘村村民に対し、国際社会に公開で謝罪せよ。
 2、受傷して生き残った幸存者と犠牲者家族に賠償せよ。
 3、月塘村に死者を追悼する記念館を建設し、追悼式をおこなえ。
 4、焼失した家屋、強奪した財産を弁償せよ。
テロップ+ナレーション:
 日本軍がひき起こした月塘村虐殺にかんするわれわれ月塘村村民の要求に対して、日本国政府が具体的に回答することを希望する。
 そうしないことによって生ずるいっさいの問題の責任は、すべて日本国政府が負わなければならない。
影像:月塘惨案受害者登記表   頁を開いていく
影像:月塘村の子どもたち
テロップ:10歳 6歳 11歳 13歳 同じ13歳 14歳 14歳 11歳
ナレーション:1945年5月2日の朝、まだ暗いうちに月塘村を襲った日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8特別陸戦隊の日本兵たちは、わずか4時間ほどの間に、1歳の幼児、2歳の幼児、3歳の幼児、4歳の幼児、5歳の幼児、6歳の少年・少女、7歳の少年・少女、8歳の少年・少女、9歳の少年・少女、10歳の少年・少女をふくむ多くの村民を殺しました。
影像:月塘惨案受害者登記表 拡大  「一屍二命」をアップ
テロップ:一屍二命
ナレーション:朱開洪(ジュ・カイホン Zhu-Kaihong)さんの妻で19歳だった女性と朱鴻周(ジュ・ホンジョウ Zhu-Hongzhou)さんの妻で25歳だった女性は、妊娠しており、胎児も殺されました。
 「一屍二命」(一体のしかばねに二つのいのち)と書かれています。
映像:朱志東さん
テロップ:朱志東さん(1937年生)
映像:妊娠していた妊娠していた二人の女性が殺された家の跡
テロップ:妊娠していた朱開洪さんの妻と
      朱鴻周さんの妻がここで殺された
ナレーション:朱志東(ジュ・ジドン Zhu-Zhidong)さんは、
 「ここで9人が殺された。
 男が1人、あとはみんな女だった。
 2人は妊娠していた。
 日本兵が家にくる前に、母は、わたしを抱いて逃げた」
と話しています。
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ4

2008年01月05日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言 3
影像:朱深根さん
テロップ:朱深根さん(1935年生)
影像:傷跡を示す朱深根さん
テロップ:この私の家で
      日本軍は9人を刺した
テロップ:ここで刺された
テロップ:母、私……家族9人

影像:朱五弟さん
テロップ:朱五弟さん(1937年生)
テロップ:当時私も  ここで刺された
テロップ:銃剣が  腕を突き抜けた
テロップ:ここを刺されて  腸がとび出した
テロップ:ここを5回刺された
テロップ:台所の壁に押しつけられ
      刺された
影像:朱深根さんと朱五弟さん
テロップ:ふたりは幼友達

影像:李玉菊さん
テロップ:李玉菊さん(1933年生)
テロップ:あの家の中で、父と母が殺された
      父の李家勝は56歳、母は55歳だった
影像:傷跡を示す李玉菊さん
影像:当時の家の敷居
テロップ:当時の家の敷居

影像:李全治さん
テロップ:李全治さん(1938年生)
影像:傷跡を示す李全治さん
テロップ:胸を狙ったが  腕でかばった
テロップ:すぐに倒れた

影像:李建栄さん
テロップ:李建栄さん(1938年生)
ナレーション:李建栄(リ・ジェンロン Li-Jianrong)さんは、当時6歳でしたが、父親を日本刀で切り殺した日本兵の顔を覚えているといいます。
 その日本兵は唇のうえに毛をはやしていたそうです。「お父さんを殺すな」と叫んだ小さな李建栄さんは、日本兵に切りつけられ、父親のそばに倒れこんで気を失ったそうです。
 4日後、重傷を負わされた父親の李家昌(リ・ジァチャンLi-Jiachang)さんは亡くなりました。
影像:傷跡を示す李建栄さん

影像:虐殺現場で語る朱学孔(ジュ・シュェコン Zhu-Xuekong)さん
テロップ:朱学孔さん(1934年生)
テロップ:昔の家の壁です
テロップ:ここで4人死んでいた
テロップ:5人 6人 7人 8人
テロップ:ここでは 鴻勝が銃で撃たれて  死んでいた
テロップ:日本刀ではなくて 銃です
テロップ:この家で殺されたのは9人
テロップ:母は 私を寝台の下に隠し  自分は戸板の陰に隠れた
テロップ:日本兵は 母を何回も刺した
テロップ:母は気を失った
テロップ:目覚めた母は 水のところに行った
テロップ:当時の壁は竹で編んでいた
テロップ:日本兵は後ろの壁を焼いた
テロップ:母は そこから ここまで  這ってきて
テロップ:水を飲んだ母は すぐに死んだ

映像:崔金蘭さん
テロップ:崔金蘭さん(1923年生)
ナレーション:崔金蘭(ツォェィ・ジンラン Cui-Jinlan)さんは、
 「朝、9時ころだった。わたしは家の入り口にいた。日本軍は、わたしを見つけ、すぐに銃で撃った。
 左足のももと、下腹部と、左肩の3か所撃たれた。わたしは気を失った。
 わたしを殺そうとした日本兵(日本鬼子)は、見つけたら、復讐したい」
と話しました。

映像:朱東四さん
テロップ:朱東四さん(1938年生)
ナレーション:朱東四(ジュ・ドンス Zhu-Dongsi)さんは、
 「父は銃で撃たれても死ななかったが、銃剣で刺し殺された。
  わたしは、隠れて見ていた。
  父を殺した日本兵は、背がとても高かった。
  母と兄は、畑に芋の見張りに行っていたので殺されなかった」
と話しました。

影像:李家和さん
テロップ:李家和さん(1930年生)
影像:傷跡を示す李家和さん
ナレーション:李家和(リ・ジァホ Li-Jiahe)さんは、家に侵入してきた日本兵に、10か所あまり刺され気を失ったそうです。
 気がついたら、お母さん、お父さん、隣の家の李家鐘(リ・ジァチョンLi-Jiazhong)さんの3人が殺されていたそうです。
影像:「日本兵は、この道から来た」と指さす李家和さん
テロップ:日本兵は、この道から来た
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ3

2008年01月04日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言 2
映像: 日本軍が襲った家の跡で証言する朱光清さん
テロップ: 朱光清さん(1934年生)
影像:母が殺された場所を示す朱光清さん
映像:腹部の深い傷跡、右足首上部の細長い傷跡を示す朱光清さん
ナレーション:朱光清(ジュ・グァンチン Zhu-Guangqing)さんの家を日本軍が襲ったとき、まだ、陽はのぼっていなかったといいます。
 その家のあった場所で、朱光清さんは、
  「とつぜん日本兵が家に入ってきたとき、わたしは母といっしょだった。
  お辞儀をしている母を日本兵は日本刀で切った。
  倒れた母を日本兵はなんども刺して殺した。
  わたしは、おなかの右下を刺された。血まみれになり、腸がとびでた。
  手でおさえて逃げるとき、左足を切りつけられた。
  血がいつまでも止まらなかった。日本刀で5か所切られていた。
  殺されたとき母は、43歳だった。
  父は日本軍がくる前に死んでいたので、両親がいなくなった」
と話しました。

映像:朱学基(ジュ・シュェジ Zhu-Xueji)さん
テロップ:朱学基さん(1940年生)
テロップ:日本兵が私の家の隣の
      朱光清の家に来たとき
テロップ:何回も“助けてくれ”という声が
      聞こえてきた
テロップ:“助けてくれ”
テロップ:朱光清が刺され腸が
      飛び出していた
テロップ:朱光清が飛び出した腸を
      手で押さえ
テロップ:わたしの家のほうに
      走ってきた
テロップ:母親がそれを見て
      わたしを抱いて
テロップ:裏から逃げた
テロップ:そのあと日本兵が
      わたしの家を襲った

映像:朱進春さん
テロップ:朱進春さん(1937年生)
ナレーション:朱進春(ジュ・ジンチュン Zhu-Jinchun)さんは、日本刀で8か所傷つけられましたが、生き残ることができました。
 朱進春さんは、月塘村虐殺の日本政府の責任を追及する訴訟を起こしたいと、言っています。

映像:朱学超さん
テロップ:朱学超さん(当時3か月)
ナレーション:朱学超(ジュ・シュェチャォ Zhu-Xuechao)さんは、下腹部を刺され、睾丸をひとつ切り取られたそうです。
 朱学超さんは、そのとき、祖父の朱鴻里(ジュ・ホンリ Zhu-Hongli)さん、父の朱開輝(ジュ・カイホェイ Zhu-Kaihui)さん、兄の朱学金(ジュ・シュェジン Zhu-Xuejin)さん、姉の朱桂二(ジュ・グォェィアル Zhu-Guier)さんと朱桂三(ジュ・グォェィサン Zhu-Guisan)さんを失いました。
 祖父は67歳、父は44歳、兄は8歳、姉は5歳と3歳だったそうです。

映像:朱秀容さん
テロップ:朱秀容さん(1936年生)
ナレーション:朱秀容(ジュ・シュゥロン Zhu-Xiurong)さんは、
 「あの日、日本軍は、祖母と3番目の伯母と、わたしと、もう一人の4人をつかまえ、銃をつきつけて並ばせ、お辞儀をさせた。
 日本軍は、ひざまずいた祖母の首を切った。3番目の伯母が殺される瞬間、わたしは逃げた。隣りの家との間の細い隙間をとおりぬけて走った。こわくて、どこまでも逃げた。
 山に入りしばらく家に戻らなかった。食べるものも着るものもなかった。当時、万寧一帯は大飢饉だった。飢え死にした人がたくさんいた。
 まもなく日本軍が負けて海南島からいなくなったが、そのとき日本軍を殺す機会がなくなったことが悔しかった。日本兵を恨みつづけてきた」
と話しました。
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『海南島月塘村虐殺』新シナリオ2

2008年01月03日 | ドキュメンタリー『海南島月塘村虐殺』
Ⅱ、証言 1
映像:朱学平さん(自宅で、殺戮現場で、月塘村の道で)
テロップ:朱学平さん(1933年生)
テロップ:ここから 腸が出ていた
テロップ:私は 柱の影に隠れていたので 助かった
テロップ:朱学平さんの家の土台石
ナレーション:朱学平(ジュ・シュェピン Zhu-Xueping)さんは、
 「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、殺しはじめた。
 わたしだけが生き残った。
 母、兄の朱学温(ジュ・シュェウェン Zhu-Xuewen)と朱学敬(ジュ・シュェジン Zhu-Xuejing)、姉の朱彩和(ジュ・ツァィホ Zhu-Caihe)、叔母2人、いとこ2人、そして6歳だった妹の朱彩蓮(ジュ・ツァィリェン Zhu-Cailian)が殺された。
 わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。
 妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。
 血だらけの妹を抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。
 激しい雨が降った。村はずれに隠れた。
 半月ほどたって戻ってみたら家は焼かれていた。
 遺体も火にあっていたが、骨になりきっておらず、くさっていた。
 まもなく、日本軍の手先になっていた者たちが万寧(ワンニンWanning)から来て、遺体を近くに運んで埋めた。
 その5年前の1940年11月28日に、父の朱開廉(ジュ・カイリェン Zhu-Kailian)が、近くの東澳(トンアォ Dongao)村に魚を買いに行き、日本軍に銃で撃たれて殺されていた」
と話しました。
影像:畑からの帰り道、クワをかついで遺骨が埋められたと思われる場所に近づく朱学平さん
影像:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
テロップ:遺骨が埋められたと思われる場所をしめす朱学平さん
ナレーション:朱学平さんは、
 「日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。
 遺骨が埋められたと思われる場所をなんども掘って探したが見つからなかった。 焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」
と話しました。
映像:朱学平さんのむかしの家の跡
テロップ:日本軍が襲撃した朱学平さんの家の土台石
テロップ:むかしの家の門の跡を示す朱学平さん
影像:その向かいの朱開琨さんの家の跡
テロップ:朱学平さんの家の向かいは
     朱開琨さんの家だった
     土台石が残っているだけ
映像:むかしの家の跡で話す朱開琨さん
テロップ:朱開琨さん(1935年生)
     むかしの家の跡で
ナレーション:朱開琨(ジュ・カイクン Zhu-Kaikun)さんの家に入ってきた日本兵は、4人を殺し、そのあと家に火をつけました。
 朱開琨さんは、いちど刺されましたが、台所の小さな門のかげに隠れ、日本兵がいなくなってから逃げたそうです。

映像: 自宅の中庭で話す朱建華さん
テロップ:朱建華さん(1944年生)
ナレーション:朱建華(ジュ・ジェンホァ Zhu-Jianhua)さんは、当時、生後8か月で、お母さんが抱いてかばってくれたそうです。
 お母さんも朱建華さんも刺されながらも命を奪われませんでしたが、4歳の兄は刺され、即死したそうです。
 このとき、叔父さん4人と、叔母さん2人も殺されました。
 その叔父さんの1人は、日本刀で腹を刺され、のどが渇いて水を飲んだら、腸がとびだしたそうです。
影像:日本軍に刺された数か所の傷跡を示す朱建華さん
テロップ:日本軍がここを刺した
テロップ:そしてこの家を焼いた
映像: 廃墟の前で話す朱建華さん
テロップ:ここでも家が壊され 10人が殺された
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