楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅で
日本軍は、黄流飛行場建設のために、周辺住民だけでなく、数十キロ離れた村の住民も強制労働させた。
仏羅(フォルオ)には、黄流で殺された人の墓があり、「7人坑」とよばれている。
黄流で殺された人たちが埋められた穴を掘って遺体を掘り出した石○○さん(1913年生)が、近くに住んでいるというので、訪ねた。
石○○さんは、こう話した。
「土村の殺された人たちの家族に頼まれて掘り出した。殺されて4日後、夜中に掘った。遺体は20人だった。
村人40人くらいがいっしょになって、ふたりでひとりの遺体を運んだ。
20人の中に、共産党がいると思われて殺された。頭をつるはしで割られて、ひとりづつ穴に放り込まれた。
わたしは、日本兵に何回も殴られた。会うたびに良民証を見せろといわれて、見せなかったら、殴られた。もし良民証がにせものだったら、死ぬまで殴られただろう。
良民証は、日本軍が村に入ってきて作らせた。作らないと殺された。日本軍の基地で良民証を渡されたが、何が書いてあるかわからなかった」。
「7人坑」に埋められている犠牲者の遺族、方○○さん(1941年生)を訪ねた。
自宅で、方○○さんは、こう話した。
「3歳のとき、父、方○○が殺された。そのときのことは、母からなんども聞いた。母は亡くなった。
父はマンゴの仕入れをしていて、その帰り道でつかまった。墓は、6人の親戚と家族が作った。お金を出して遺骨を掘り出して、黄流からここに連れてきた。殺されたとき、父は22歳くらい。6人はいっしょに殺された。殺されたのは、父、母の2番目の弟林○○、3番目の弟林○ら。母は、わたしをひとりで育ててくれた。これからもちゃんと墓参りをしなさいと言って死んだ。
父はなぜ殺されたのか」。
話しながら、方○○さんは涙をうかべ、なんども水たばこを吸い、最後に、「どうしようもない」と小さな声で言った。
日本軍は、黄流飛行場建設のために、周辺住民だけでなく、数十キロ離れた村の住民も強制労働させた。
仏羅(フォルオ)には、黄流で殺された人の墓があり、「7人坑」とよばれている。
黄流で殺された人たちが埋められた穴を掘って遺体を掘り出した石○○さん(1913年生)が、近くに住んでいるというので、訪ねた。
石○○さんは、こう話した。
「土村の殺された人たちの家族に頼まれて掘り出した。殺されて4日後、夜中に掘った。遺体は20人だった。
村人40人くらいがいっしょになって、ふたりでひとりの遺体を運んだ。
20人の中に、共産党がいると思われて殺された。頭をつるはしで割られて、ひとりづつ穴に放り込まれた。
わたしは、日本兵に何回も殴られた。会うたびに良民証を見せろといわれて、見せなかったら、殴られた。もし良民証がにせものだったら、死ぬまで殴られただろう。
良民証は、日本軍が村に入ってきて作らせた。作らないと殺された。日本軍の基地で良民証を渡されたが、何が書いてあるかわからなかった」。
「7人坑」に埋められている犠牲者の遺族、方○○さん(1941年生)を訪ねた。
自宅で、方○○さんは、こう話した。
「3歳のとき、父、方○○が殺された。そのときのことは、母からなんども聞いた。母は亡くなった。
父はマンゴの仕入れをしていて、その帰り道でつかまった。墓は、6人の親戚と家族が作った。お金を出して遺骨を掘り出して、黄流からここに連れてきた。殺されたとき、父は22歳くらい。6人はいっしょに殺された。殺されたのは、父、母の2番目の弟林○○、3番目の弟林○ら。母は、わたしをひとりで育ててくれた。これからもちゃんと墓参りをしなさいと言って死んだ。
父はなぜ殺されたのか」。
話しながら、方○○さんは涙をうかべ、なんども水たばこを吸い、最後に、「どうしようもない」と小さな声で言った。