三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅で

2006年08月29日 | 海南島
楽東黎族自治県仏羅鎮仏羅で

日本軍は、黄流飛行場建設のために、周辺住民だけでなく、数十キロ離れた村の住民も強制労働させた。
仏羅(フォルオ)には、黄流で殺された人の墓があり、「7人坑」とよばれている。
黄流で殺された人たちが埋められた穴を掘って遺体を掘り出した石○○さん(1913年生)が、近くに住んでいるというので、訪ねた。

石○○さんは、こう話した。
「土村の殺された人たちの家族に頼まれて掘り出した。殺されて4日後、夜中に掘った。遺体は20人だった。
村人40人くらいがいっしょになって、ふたりでひとりの遺体を運んだ。
20人の中に、共産党がいると思われて殺された。頭をつるはしで割られて、ひとりづつ穴に放り込まれた。

わたしは、日本兵に何回も殴られた。会うたびに良民証を見せろといわれて、見せなかったら、殴られた。もし良民証がにせものだったら、死ぬまで殴られただろう。


良民証は、日本軍が村に入ってきて作らせた。作らないと殺された。日本軍の基地で良民証を渡されたが、何が書いてあるかわからなかった」。
「7人坑」に埋められている犠牲者の遺族、方○○さん(1941年生)を訪ねた。 
自宅で、方○○さんは、こう話した。         
「3歳のとき、父、方○○が殺された。そのときのことは、母からなんども聞いた。母は亡くなった。
父はマンゴの仕入れをしていて、その帰り道でつかまった。墓は、6人の親戚と家族が作った。お金を出して遺骨を掘り出して、黄流からここに連れてきた。殺されたとき、父は22歳くらい。6人はいっしょに殺された。殺されたのは、父、母の2番目の弟林○○、3番目の弟林○ら。母は、わたしをひとりで育ててくれた。これからもちゃんと墓参りをしなさいと言って死んだ。
父はなぜ殺されたのか」。

話しながら、方○○さんは涙をうかべ、なんども水たばこを吸い、最後に、「どうしようもない」と小さな声で言った。

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鐘として使われている不発弾

2006年08月27日 | 海南島
写真:鐘として使われている不発弾
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瓊中県湾嶺鎮嶺門で

2006年08月27日 | 海南島
・瓊中県湾嶺鎮嶺門で

黎母山の10キロほど西にある碑碣嶺の山頂からは、360度を見渡すことができる。日本軍は碑碣嶺と南方の登高嶺に軍事拠点をつくった。

 わたしたちは、碑碣嶺ふもとの村、嶺門(リンメン)に住む張○○さん(1951年生)に案内されて、碑碣嶺山頂に行った。碑碣嶺の日本軍要塞も、深い濠と塀に囲まれていた。濠跡、コンクリート塊、たくさんの瓦片などが残っていた。小高くなっているところに炮楼があったと張○○さんが教えてくれた。

‘労工’としてここの工事をさせられた祖父や両親は、張○○さんに、当時のことをつぎのように話していたという。     
「労工は、付近の村から集められた。良民証を労働に出る人はみんな持たされていた。もらったのはおにぎりだけ。70人くらいの軍人がいた。大きな木があって、そこで日本軍は何人もの人を刺し殺した。共産党だといって」。
嶺門小学校の校庭に、日本軍の不発弾があった。3個あったが、村びとがこわして今は1個だけが残っているという。

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瓊中県黎母山鎮榕木で

2006年08月24日 | 海南島
瓊中県黎母山鎮榕木で

 黎母山から7キロ東南の榕木(ロンムウ)で、許○○さん(1926年生)は、こう話した。

「日本軍は道路を作らせた。村人に、いろんな労働を強制した。わたしは当時12歳ころだったが、道路工事をやらされた。おおぜいの人がいっしょだった。日本軍は、年寄りも、女の人も、子どもも、むりやり働かせた。
食べるものもくれないで、朝8時から5時まで。

万人坑がある。共産党員ではないのに、共産党員だといって、殺した」。    
許○○さんの案内で、広いゴム林をぬけて、「万人坑」に行った。許○○さんは、
「遺骨はまだそのまま残っている。ここは殺されたところだから、家を作ったり、何かを植えたりはしない」、と語った。「万人坑」一帯は、ゴムの植林をしないで草木が生えるままにしてあった。かなり深い穴で、草木に覆われているが、60数年たった今も窪んでいた。

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瓊中県黎母山鎮黎母山で

2006年08月23日 | 海南島
瓊中県黎母山鎮黎母山で

松涛から15キロ南の黎母山(リムシャン)にも、日本軍は軍事拠点をつくった。
丘の上にある「要塞兵舎」跡で、楊○○さん(1931年生)は、こう話した。
「日本軍に、父を殺された。殺されるところを見た。
3人がいっしょに殺された。日本軍は、父ともう一人の男の人を並ばせて一度に射った。女性はその近くで殺された。村のなかに家があったが、日本軍が強制的に働かせようとしたので、家族みんなで山に逃げた。しばらくして腹が減って、煮炊きをしたのだが、その煙が日本軍に見つかって、父が捉まって殺された。 

日本軍が村に入ってくる前に飛行機がきて、爆撃して、この村をぜんぶこわした。
この炮楼は、日本軍がここの村人たちに作らせた。お金はくれなかった。1日、一個のめしだけ。わたしも働かされた。日本兵に両頬を殴られたことがある。仕事をしていて、失敗すると、殴られた。

日本軍に村人がおおぜい連れて行かれるのを見た。あの人たちがどうなったか知らない」。日本人をいまどう思っているかと、キム チョンミがたずねると、楊○○さんは、だまって「恨」と書いた。

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瓊中県黎母山鎮松涛郷松涛で

2006年08月19日 | 海南島
瓊中県黎母山鎮松涛郷松涛で

 海南島中央の黎母嶺北方の松涛(ソンタオ)は、先住民族黎族の村である。
日本軍は、黎母嶺地域を軍事制圧しようとして、ここに侵略拠点をおいた。わたしたちは、松涛二村の村長黄○○さん夫妻に案内されて日本軍の「要塞兵舎」跡に行った。
約1500平方キロの敷地の中央部に高さ10メートルほどの土塁があった。黄国東さん夫妻は、それが炮楼跡だと教えてくれた。「要塞兵舎」敷地を囲んで幅2メートルあまり、深さ1メートルあまりの濠が掘られていた。出入り口が2か所あり、コンクリートの建築物の基盤も残っていた。この侵略拠点を作らされたのは、松涛の住民だったという。

写真:松涛の日本軍「要塞兵舎」跡
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海南島2006年春 南島抗日根拠地と日本軍侵略拠点で

2006年08月16日 | 海南島
海南島2006年春 南島抗日根拠地と日本軍侵略拠点で

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、3月19日から4月6日まで、海南島で10回目の「現地調査」をおこなった。 
後半に、鐘さん、丹波マンガン記念館館長の李さん、大阪人権博物館の学芸員文さん、高麗博物館理事の山田さんが参加した。鐘さんは、ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で―60年まえは昨日のこと―』制作に協力してくれた人で、故郷は海南島の那大である。
今回は、とくに、日本軍の侵略拠点と抗日根拠地がかさなりあっていた地域で、おおくの人から話しを聞かせてもらうことができた。

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日本で

2006年08月06日 | 紀州鉱山
2.日本で
 
 名古屋に住む許氏から話を聞いた(一九九六年一一月および一九九七年五月)。
 許氏は、一九一五年に朝鮮金海に生まれ、一九四〇年秋から一九四六年春まで紀州鉱山で朝鮮人労働者の「監督」をしていた。当時の名は「中山圭」であった。
 許氏はつぎのように話した。

  「四歳ころ、アボヂといっしょに日本にきた。一九三六年ころ、東邦商業をでて、四日市の家にもどって、家の仕事をしていたとき、尊敬していた上野出身の代議士が矯風会の仕事をしていたので、矯風会のしごとを手伝うようになった。この人は石原産業のしごともしていた。紀州鉱山で働いていた朝鮮人が逃げて、熊野川で流されて死んだことがあった。矯風会と警察から、いって調査してこいといわれて、いってきて、報告書をだした。その後、会社から、朝鮮人のことを、責任もってやってくれといわれて、朝鮮人を徴用、管理するために、労務担当社員として入社した。日本人は、応召で労働者はすくないので、労働者を朝鮮からつのろうということだった。
 労働者を徴用するため、江華島、三陟、陽平、永川などに行った。
 連れてくる労働者の人数をきめるのは会社。今回は一〇〇人、とすると、大阪の鉱山局に申請する。どこそこの道、どこそこの郡から、何人、という許可証をもらって、それをもって、朝鮮に行く。朝鮮では、朝鮮総督府、道庁、警察などにあいさつにいって、金をわたした。釜山水上警察には、石原から一〇〇円、三井、三菱などからは三〇〇円がわたされていた。鐘路警察署長だけ朝鮮人だったが、あとはみな日本人だった。一人で朝鮮にいったのではない。助手として、日本人の労務課員と朝鮮人を連れていった。その朝鮮人は、前に連れてきた人だった。医者も連れていった。
 郡警察で、石原産業への徴用者をひきわたされた。郡から、指定列車で釜山へいき、釜山で船にのり下関へ。下関から列車にのり、大阪を経由して阿田和まで行き、そこからトラックで紀州鉱山へつれてきた。わたしは引率の責任者だった。郡の警察から、朝鮮人の名前、住所、年齢の書かれた名簿をもらった。
 シンガポールにいた支店長大藪は、紀州鉱山に捕虜を連れてくる計画をもって、捕虜の管理責任者、労務課長として転勤してきた。会社から、朝鮮同胞は許さんに権限をあたえる、といわれた。
 わたしのしごとは、徴用朝鮮人の監督だった。鉱山の労務係は一五、六人いたが、うち、朝鮮人はわたしたち兄弟二人だけだった。
 朝鮮人を収容するための八紘寮が完成したのは、わたしが徴用に出かけているときだった。寮長に大阪本社の警備隊長がなった。かれは反感をもたれて殴られけんかになった。殴った朝鮮人が警察に引っ張られる事件になった。わたしは朝鮮から帰ると、この寮長をやめさせた。 朝鮮人と捕虜とのなかは、よかった。
 戦争がおわった八月一五日の翌日、大阪の本社によばれた。捕虜と朝鮮人労働者、あわせて約八〇〇人を、どうするか、様子はどうかという話しだった。本社は、朝鮮人の徴用者が火薬庫を襲撃するのでは、とおそれていた。
 捕虜の管理責任者だった大藪は、シンガポールでは軍政官だったとき、ピストルや軍刀でおどしてイギリス兵から物資をうばったりしたようで、わたしに、朝鮮に逃がしてくれといってきた。このひとは、戦犯容疑で連れていかれたが、二回自殺未遂をして、青山墓地で自殺した。
わたしがいるあいだに、死んだ朝鮮人は三人だった。ひとりはハッパで、ひとりは坑口からトロッコといっしょに落ちて、ひとりは病気で。朝鮮人の墓は紀州鉱山にはない。遺骨にして、本籍地にもっていった。
 まかないは、日本人の女の子や、徴用できたが年取って働けない朝鮮人がした。
 戦争がおわるすこしまえのことだと思うが、 「朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ」と坑道の入口にカンテラの火で焼きつけた文字があった。この落書きが問題になり、憲兵がきてしごとが中止になった。朝鮮人を並べて、だれが書いたのかと調べた。
 落書きをみて、ようやった、まったく、そのとおりだと思った。一、二日で、この落書きは消された」。

 一九四三年から一九四四年一一月まで、紀州鉱山で「学徒勤労動員報国隊」の隊員として坑内で働いていた日本人A氏はつぎのようにのべている。
  「ある日惣房の請願(警察)の裏の座敷で、特高警察3名により取調べを受けた。最初は何で調べられているのか判からなかったが、その内に朝鮮人労働者の暴動に関与していると言う容疑である事が判かった。……確実な事は不明であるが、どうも・朝鮮が独立するのは今だ、二〇年後の朝鮮を見よと言う様な落書があり、これを書いた容疑の様であった」。
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