三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』の紹介

2012年11月15日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
 Eaphet Newsletter No.8 日文版(2011年12月1日発行)に、吉田藍さんによる『“朝鮮報国隊”』の紹介が掲載されているのを、いま(11月15 日午前3時)知りました。
 その全文と、漢語訳文はつぎのとおりです。
 『“朝鮮報国隊”』のシナリオ全文は、2007年9月5日~9月20日のこのブログに連載してあります。
                                        佐藤正人
 
■聊聊映画レビュー 朝鮮報国隊 吉田藍
 http://web.thu.edu.tw/mike/www/eaphet%20nl/8N/8N-yoshida.html
 第二次世界大戦中、旧日本海軍は海南島を軍事基地化するために、朝鮮総督府に要請し、朝鮮半島で服役中の朝鮮人獄中者を集め、「朝鮮報国隊」として、海南島に連行した。一九四三年春のから始まったそうだ。このドキュメンタリーは「紀州鉱山の真実が明らかにする会」が二〇〇八年に制作した。海南島は中国の南方、ベトナムと同じくらいの緯度にある。台湾よりも少し小さいくらいの島だ。最近ではリゾート地として有名になっているが、買春ツアーなども盛な場所にもなっている。
 海南島に集められた朝鮮人獄中者は約2千人おり、中には政治犯もいたという。基地に必要な、飛行場、鉄道、道路、鉄橋、軍用トンネル、格納倉庫の建設、鉱山発掘などに強制労働させられた。そのほとんどが帰ってくる事はなかったそうだ。
 映像の中では、目撃した地元住民、旧日本軍の兵士、「朝鮮報国隊」生還者の証言などから当時の様子を想像することができた。青い服を着せられた「朝鮮報国隊」の人たちは、手を縛られたり、木につるされたりして、拷問を受け、また生きたままガソリンをかけられ、焼かれる場面も目撃したことがあるという。
 「朝鮮報国隊」はこれまでその存在をほとんど知られることがなかった。日本政府はこれに関する資料をほとんど公表せず、二〇〇一年発掘調査が行われたが、科学的な調査をしておらず、掘り起こされた遺体は高温多湿な環境で、劣化してきている。大事な「証拠」は失われつつあるという。発掘された遺体の中には、頭蓋骨に太い鉄釘のようなものが刺さり、大きく穴が開いているものや、異常な形に手の骨が折れているものがあった。しかし発掘された遺体は殆どが誰なのか分からない状態で、砕かれ、骨壷に収められ、昔「朝鮮村」があったとされる場所の建物に保管されている。まるで証拠を隠滅したかのようである。
 私も今回このドキュメンタリーを見て、初めて「朝鮮報国隊」を知った。人の命とは何なんだろうか。尊重される命、軽んじられる命の間には何があるのだろうか。富か、権力か、身分か、国籍か・・・。忘れられ、記憶から抹殺されそうな命の存在をこのドキュメンタリーは誰かに伝える事が出来たわけだが、それを受け取った者は如何するべきなのだろうか。私はこれからそれを考えなくてはいけない。(了)

■聊聊電影院回顧 朝鮮報國隊  介紹者:吉田藍 (譯者:黃雅芬)
 http://web.thu.edu.tw/mike/www/eaphet%20nl/8M/8M-yoshida.html
  第二次世界大戰期間,舊日本海軍為了將海南島當成軍事基地,就向朝鮮總督府要求,召集了在朝鮮半島監獄中服刑的人們,讓他們組成「朝鮮報國隊」,甚至把他們帶到海南島去。這類事情似乎發生在一九四三年。這部紀錄片是由「追求紀州礦山真相協會」在二〇〇八年所製作的。海南島位於中國南方,緯度與越南一樣。是個比台灣略小一點的海島。海南島最近成為有名的度假勝地,也成為買春之旅相當有名的地方。
  據說召聚至海南島的朝鮮監獄服刑人約有兩千人,其中也有政治犯。這些人被迫為建設基地而
  工作,主要工作為建設飛行場、鐵道、道路、鐵橋、軍用隧道、收納用倉庫、挖掘礦山等。這些人當中幾乎沒有一個人安全回到自己的家鄉。
  我們可以藉著影片當中聽到目擊到當時狀況的在地居民、舊日本軍「超鮮報國隊」的生還者等所說的證言,來想像當時的狀況。據說曾有人看到「朝鮮報國隊」的人們,穿著藍色服裝,有的人的手是被拷上的,有的人是被綁在樹上的,也有受到拷問逼供的,有人則是在活著的狀態中被噴瓦斯,甚至有人被燒。
  到目前為止幾乎沒有人知道「朝鮮報國隊」的存在。日本政府也幾乎沒有將這些資料公開,雖然在二OO一年進行挖掘調查,卻沒有進行科學調查。被挖出來的遺體都因為處在高溫濕氣重的環境下而產生劣化現象。據說因此喪失了許多關鍵的證據。在這些被挖掘出來的遺體中,有的頭蓋骨釘有很大根的釘子在裡面,頭蓋骨出現一個很大的洞,也有些遺體,手骨折了,但是骨折的部位顯得非常不自然且奇怪。但是被挖掘出來的遺骨幾乎無法辨識是誰的,整體呈現碎裂的狀態,被收在骨灰罈裡,這些骨灰罈現在被保管在以前被稱之為「朝鮮村」的建築物裡。這樣的處置方式,這種保管的方式反倒是讓人感覺到像是要消滅證據ㄧ般。
  我也是因為看了這部紀錄片才第一次知道有關「朝鮮報國隊」的事。 人命到底是什麼呢?為什麼有人的生命受人尊重,有些人的生命卻受人踐踏呢?這中間的差異到底是什麼呢?是財富嗎?是權利嗎?是身分地位嗎?還是國籍的不同呢?透過這部紀錄片,或許可以告訴外界其實還有那些被遺忘甚至是從記憶中被抹殺的生命存在著。我想我必須思考,當人們接受到這部影片中所傳遞的訊息後,他們該如何處理。(完)
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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』

2007年09月20日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
企画・製作 紀州鉱山の真実を明らかにする会  1998年~2007年
構成・シナリオ 金靜美 佐藤正人  
編集 佐藤正人 小谷英治 金靜美 崔文子 斎藤日出治 竹本昇 嶋田実 日置真理子 久
  保雅和
協力 鐘翠雅 烏蘭汗 姜美蘭 鄭賛弼 朴南濬 足立正生 山田貞夫
価格 個人購入3500円 上映権つき20000円 (送料別)  DVD65分 日本語版(朝鮮語版
  準備中)
連絡先 紀州鉱山の真実を明らかにする会 和歌山県海南市日方1168
     http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/

 朝鮮人獄中者を海南島で強制労働させようとする日本海軍の要請に応じた朝鮮総督府は、朝鮮各地の刑務所から獄中者をあつめ、「朝鮮報国隊」を組織し、1943年春から海南島に送り出しました。これは、日本政府の閣議決定にもとづくものであり、当時の内閣総理大臣は東条英機でした。「朝鮮報国隊」にかんする日本政府・日本軍文書はほとんど公開されていません。
 約2000人の獄中者が海南島に連行されましたが、生きて故郷に戻ることのできた人は、わずかでした。
 海南島南部の「朝鮮村」と名づけられた黎族の村の人たちは、朝鮮人が虐殺されるのを目撃したと証言しています。「朝鮮村」には、いまも、多くの朝鮮人の遺骨が埋められています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年~2007年に、海南島、韓国、日本の各地で、「調査」をおこないました。
 このドキュメンタリーでは、目撃者の証言・虐殺現場・強制労働現場(飛行場、鉱山、鉄道、鉄橋、軍用道路、軍用洞窟、特攻艇格納庫)、生還者の証言、旧日本兵の証言などを記録するとともに、2006年5月に紀州鉱山の真実を明らかにする会が試みた始めての科学的な「朝鮮村発掘」にいたる過程を報告しています。
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ドキュメンタリー作り(その2)

2007年09月19日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
 さて4時間程ある長いフィルムを10分位の長さに編集するとき、どの部分を残して、どの部分を捨てるか判断しなければなりません。ヨ老人の韓国語を改めて聞きながら、経験不足な私がそれを決定するのです。そんな責任の重い仕事をする自信はまったくないんです。本当は全てのお話を残せると良いのですが、それは不可能です。私が選択した部分をヨ老人が喜ばなかったらどうしよう・・・・・私は私が皆に聞いてもらいたいと思う部分から選んでみました。まず、なぜ刑務所に入れられていたのか?どうして海南島まで連れて行かれたのか?海南島での仕事や待遇や食事はどういうものだったのか?海南島で何人が殺されて何人が共に帰ってきたのか?なぜリンチにあい、リンチはどんなに酷いものだったのか?日本が負けたと知ったとき、どんな気分だったのか?それらはヨ老人にとって、思い出したくない辛い体験であり、誇り高い韓国人にとって耐えられない屈辱でした。   ムンジャ
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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 完

2007年09月18日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■9、「朝鮮村試掘」(2006年5月)           
音楽:「トナジマオ」、あるいは「故郷」  かすかに 末部は無音
映像:(静止画)未明の「試掘」現場(2006年5月2日) 
テロップ:2006年5月2日午前6時 
     「朝鮮村」
映像:(静止画)「試掘」現場(2006年5月2日) 
テロップ: 2006年5月2日午前6時半 
     「朝鮮村」
映像:「試掘」現場(2006年5月2日) 測量→杭打ち 
映像:「試掘」現場(2006年5月2日) 死者への挨拶 
テロップ:「みなさんの故郷が、どこかわかりませんけども」
     「みなさんが、どういうふうに、ここに埋めらることになったか」
     「みなさんが、どういうかたちで、埋められているのか」
     「わたしたちの、できるかぎりのちからで………」
     「ちからを、かしてください」
映像:(静止画)「試掘」現場(2006年5月2日)  
映像:「試掘」現場(2006年5月2日) 抜かれた杭
映像:「試掘」現場(2006年5月2日) 
映像:(静止画)「試掘」現場(2006年5月2日) 
テロップ:海南省外務部の妨害によって試掘は中止させられた。
映像:(静止画)3日後の「試掘」現場(2006年5月5日) 


        紀州鉱山の真実を明らかにする会  2001年~2007年制作
          企画・シナリオ:金静美 佐藤正人
          編集:佐藤正人 小谷英治 金静美 
          崔文子 竹本昇 斎藤日出治
          日置真理子 久保雅和 嶋田実
          撮影・録音:小谷英治 李龍植 佐藤正人
          写真撮影:小谷英治 佐藤正人
          記録:金静美 佐藤正人
          技術:小谷英治
          字幕:金静美 小谷英治 崔文子 佐藤正人
          資料:佐藤正人 金静美 斎藤日出治
          位置図作成:小谷英治 久保雅和 佐藤正人
          ナレーション:崔文子
          協力:鐘翠雅 烏蘭汗 姜美蘭
          鄭賛弼 朴南濬 
          足立正生 山田貞夫

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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 12

2007年09月17日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■8、海南島で日本軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性  
映像:証言する李玉今さん
テロップ:李玉今さん(1914年生)
     2005年12月20日、釜山で

1929年にプサンから日本に行った
旭川などに12年間いた
プサンに戻り、広東にいった
プサンから、船8隻がいっしょに行った
女性もおおぜいいた
広東の‘慰安所’におって
そこを出たあと海南島に行った
海南島では、横須賀海軍基地のなかの‘慰安所’にいた
広東は大阪部隊、海南島は横須賀海軍
来たのは、みんな日本軍人
トラックに乗って
いなかの‘慰安所’をあちこち回ることもあった
(‘慰安所’から)逃げても逃げなくても、同じだ
朝鮮人の男の人もいた
朝鮮人は働く人
話をしたこともあった
1845年8月15日の朝早く、部隊に用があったので行くと
軍人もだれもいなかった それで日本が敗けたと知った
翌年2月に、ようやく船に乗ることができた
軍人はおらず、朝鮮人と日本人の民間人だけだった
海南島から日本を経て、プサンに戻った

映像:陵水の「慰安所」
テロップ:旧日本軍「慰安所」(翠緑園)にされていた建物
映像:『海南文史』第20輯。表紙→中扉→目録→「翠緑園――陵水県日軍慰安所」  
テロップ:海南省政協文史資料委員会編『海南文史』第20輯
     紀念中国人民抗日戦争曁世界反法西斯戦争勝利60周年
     2005年8月刊
ナレーション:翠緑園と名づけられた陵水の「慰安所」には、朝鮮人女性も入れられていたといい
      ます。
映像:朴来順さんの墓のまえで(2006年4月3日)            
   墓の草刈→墓に土を盛る→おそなえ→爆竹
テロップ:海南島保亭黎族苗族自治県保亭
     朴来順さんの墓のまえで
     2006年4月3日
     清明節
ナレーション:朝鮮慶尚南道咸来で生まれ育った朴来順さんは、1942年2月に海南島海口の「慰
      安所」にいれられ、1943年1月に、三亜の「紅沙(ホンシャ)慰安所」に移され
      ました。
       日本敗戦後も、朴来順さんは、故郷に戻ろうとしませんでした。
       朴来順さんは、1995年に、保亭で亡くなりました。 
       墓まいりにきた人たちは、朴来順さんのことを、‘アマニ’とよんでいました。
       みんな、むかしから朴来順さんを‘アマニ’とよんでいたといます。
映像:朴来順さんといっしょに働いていた王玩香さん
   朴来順さんの墓のまえで
テロップ:毎年、このように、お参りをする
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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 11

2007年09月16日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■7、韓国での証言 旧日本軍朝鮮人兵士 
映像:証言する朴泰愚さん   
テロップ:朴泰愚さん

       鎮海の海軍兵学校にはいった
       フィリッピンにいった
       フィリッピンからどこかにいく途中
       船が魚雷にやられて沈没した
       わたしは、助かって海南島にいった
       第16警備隊にはいった
       三亜の桜砲台にいた
       測定器係をした
       隊長は、柳沢(ヤナサワ)
       解放のあと、日本で柳沢に会った 
       高射砲は5基あった
       砲台のなかに兵舎があった
       80人くらいいた

映像:三亜鹿回頭半島南端岬の山     
テロップ:「桜砲台」があったと思われる三亜鹿回頭半島南端岬の山
映像:メモを書く朴泰愚さん(静止画面2枚)     
映像:メモ(3枚) 
映像:証言する朴泰愚さん2
テロップ:海南島三亜で
     戦争を自分の目で見た。
     刑務所の人間が連れてこられて
     防空壕や道路を作らされていた
     毎日死んでいく人を見た
     千数百人の韓国人をこき使い、虐殺した
     だれが責任取らなければならないか
     能美実ですよ
     三亜海軍の司令官ですよ
     日本の国が謝罪をしなければならない
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ドキュメンタリー作り

2007年09月15日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
 小谷さんの指導のもとドキュメンタリーフィルムの制作を手伝わせてもらいました。今回のドキュメンタリーは7月に私も参加してインタビューさせて頂いたヨチャボン老人のフィルムです。パソコンに収めてくださった映像を編集し、ヨ老人の韓国語を日本語テロップで入れていく作業です。映像編集をしたことがない初心者に対して小谷さんは決して怒らず、実に辛抱強い先生でした。佐藤さんが撮影してくださった映像を見ながら、現場でお話を聞きながら気付かなかったことを発見したりしました。ヨ老人は長いインタビューに、途中でとても疲れた様子で写っています。にもかかわらず、どうしても話したいという強い意志がその力強い語気から伝わってきます。ヨ老人は私の流暢でない韓国語や、聞き取りにくい声、それに何度も尋ねる人数や年月日に苛立ちながら答えていきます。                                         チェムンジャ
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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 10

2007年09月14日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■6(続2)、韓国での証言、犠牲者の故郷の現風景
映像:証言する呂且鳳さん(2007年7月17日、20日)
テロップ:呂且鳳さん(1913年生)

光州刑務所に入れられていた
まもなく出獄するという時
看守が来て、どこかに行けという
行きたくないといったら
ここから出さないという
かぎをかけてしまって、どうしても行けという
行かないわけには行かない
光州刑務所から5人
第7次「朝鮮報国隊」だった
光州からソウルに行って、それからプサン
プサンから船にのってコクラ刑務所
人が多かった。2日間そこで寝た
ヤハタからまた船にのった
何百人か知らないが、ひとがおおぜいいた
女たちもいるし、男たちもいた
海南島では木造の飯場、一部屋8人ずつ
朝から飛行場作りの仕事
5時になったらもどる
たくさん死んだ
マラリア、熱病、餓死
朝の点呼の時、弱って仕事が出来なくなった仲間はどこかに運ばれていいった
どこでどうなったのか
二度と戻って来ない人が多かった
列を作って飛行場に行く途中
山の中で、坐ったまま木に縛りつけられている死体を見た
揮発油をかけて焼いたらしく、死体の腹から腸がとび出ていた
食べ物がなかった
わたしは、コメを盗んだ
それを食べたといって、さかさに吊るされて殴られた
殺されそうになった
3人の日本兵から死ぬまで殴ると言われ、逆さまにぶら下げられた
頭も顔も身体も滅多打ち
血まみれになった
殴られて口がこんなにまがってしまった
ドラム缶の小便桶のそばにくくりつけられた
頭の方から小便が流れてきて、濡れるままだった
動くことができなかった
同胞が水を運んでくれ、ワカメ汁も作ってくれて、それで生きた
(解放を聞いて) 気分がよかった。みんな、踊った
朝鮮人は人民会をつくった

映像:第七次南方派遣隊職員編成表
テロップ:第7次「朝鮮報国隊」の看守名簿
     朝鮮総督府刑務所の用紙に書かれている
映像:衣笠一の手記『わが足跡(上)』の「海南島到着 陵水時代」
   →「朝鮮報国隊」、「台湾報国隊」にかんする部分を拡大
テロップ:衣笠一氏(1913年生)は、第7次「朝鮮報国隊」の隊長
     1946年に日本に戻った
映像:忠清南道大徳郡炭洞面 金本山雄(海南海軍施設部朝鮮報国隊所属)
   →「朝鮮報国隊」の部分を拡大して停止
ナレーション:「南方派遣報国隊」の看守として海南島に行った朝鮮人看守が、海南島で日本軍
      に編入された場合もありました。
映像:本願寺『教誨百年』上巻
テロップ:本願寺『教誨百年』上巻
     1974年4月刊
ナレーション:「朝鮮報国隊」には教誨師も同行しました。
       本願寺の渡辺智賢は、「朝鮮村虐殺」当時、海南島にいました。
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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 9

2007年09月13日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■6(続1)、韓国での証言、犠牲者の故郷の現風景
映像:柳濟敬さん 
テロップ:柳濟敬さん(1917年生)
       1941年に治安維持法違反で
       3年の実刑判決
       もどったら釈放するから海南島に行かないか
      といわれた
       第1次「南方派遣朝鮮報国隊」に入れられた
       3・1運動の時。西大門刑務所で獄死した柳寛順さんの甥

ケイジョウ刑務所を出発して 
プサン刑務所で寝て 
どこかわからないが九州で船に乗り海南島に
宿所から回教徒の寺院の塔が見えた
海南島に行くとき 空色の服
青い 青い 空色の青い
日本の何かの祭日だったが 仕事はせず 休んでいるときだった
みんな部屋に集まっていた 
何回か逃亡してつかまった人だったが
その人をみんなが見ているところで
日本人が、逆さに縛って天井に引っ張り上げて ぶらさげた
死んだ みなが見ましたよ 本当に死刑執行ですよ
数分で死にました
ひっぱりあげた人間は 看守部長貴島ですよ
性質が荒くてね 一般の受刑者にたいして 恐怖感を与える
(殺された人の名前は)
キムロマ(金老麻)

映像:『刑務職員録』1943年11月1日現在
   「京城刑務所南方作業所」 
テロップ:『刑務職員録』1943年11月1日現在
     朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会発行
映像:『刑務職員録』1943年11月1日現在→貴島貞四の部分を拡大して停止     
テロップ:金老麻さんを殺害したのは
     貴島貞四看守長
映像:第5次「朝鮮報国隊」の朝鮮人看守らの写真           
テロップ:第5次「朝鮮報国隊」の看守たち
     1943年8月撮影
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ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』 8

2007年09月12日 | ドキュメンタリー『“朝鮮報国隊”』
■6、韓国での証言、犠牲者の故郷の現風景   
映像:証言する高福男さん(2005年12月18日)
   第2次“南方派遣朝鮮報国隊”に入れられて海南島に行った
       背景映像:尖峰嶺
             黄流トーチカ
             黄流夕景
テロップ:高福男さん(1917年生)

ピョンヤンで 日本警官とけんかをして殴った
それで 刑務所に入ることになった
2年の刑を受けた
服役中の1943年3月
ピョンヤン ソウル 仁川
大田 釜山 大邸
各刑務所から 
800人が ソウルに集まった
青い洋服を着て
「南方派遣報国隊」と書いた腕章をつけた
リュックサックを背負い 白いの
マキハンつけ ヂカタビはいて
リュックサックには
一か月分の 食料と 塩
ソウル駅から 出発して
夕方 釜関連絡線に乗った
小倉刑務所で1日泊まり 
そこで訓練を受けて2日間いた
輸送船がきて 21隻ですよ
みんな乗った
一次の1000人は石碌に行った
わたしたち800人は 飛行場建設
(宿所は)1000平方メートルくらい
両側に 板間があって 
真ん中に 廊下がある
朝になると点検
就寝ラッパ
起床ラッパ
飛行機の掩退壕を作ったんだ
土を運んで
飯は少ないし しごとはきつい
早くできなかったら
腕立て伏せの姿勢をさせて
つるはしの柄で殴る
こうしても死ぬ 
ああしても死ぬ
逃亡する人がひんぱんに出てきたわけだ
8人で 逃げようと相談した
長くチャンスがなくて
ある日 翌日が祭日のとき
その晩に逃げようと約束した
そのため 
責任者にわからないように
工事に使う ダイナマイトを隠した
逃げると 二人しかいなかった
頼っていった 台湾人の紹介で
船乗りのしごとを 2、3か月していて
警察に捕まった
留置場に 入れられたら
逃げた8人が みな捕まっていた
つるはしの柄で殴られて
気を失い
気が付くとまた殴られ
また殴られ……
みんな死んでしまった
宿舎の 廊下につながれていた
みんな しごとから戻ってくると
“なぜ 逃げたんだ
生きるのも一緒 
死ぬのも一緒ではないか”
もうろうとして……
手首がはれあがって 腐ってきた
鎖が食い込んでしまった
これが そのときの痕だ
足首に 木二本をはめて
釘を打つ 
後ろ手に縛られて 
ぶら下げられていた
大便もそのままし
小便もそのまま
飯もそのまま食べた
縛られているのは
何人もいたが
縛られたまま 
みんな 死んでしまった
仲間が
夜しごとから 戻ってくると
交代で 足をもんでくれ
手をさすってくれて……
わたしも 若かったから
だんだんよくなっていった
そのあと 
死体搬送係りを やれといわれた
ふたりでやった 
死体を捨てに行くのは
一日平均8、9人
その後看病夫をやらされた
また逃げて 台湾人の家にいたら
1か月くらいで解放だった
逃げた奴が
遊撃軍の隊長になってきた
そのうち船が来て (海南島を)出たが
広東に寄ったとき 光復軍が乗ってきた
釜山に着いた
コレラ患者がいて
1か月ほど船から下りられなかった
そのとき(いっしょに)下りたのは
光復軍 挺身隊 私たち 合わせても
250人くらいになるかならないか
われわれ800名はみんな死んで
何人もいなかった
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