三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

北川しま子さんの声

2016年01月31日 | 個人史・地域史・世界史
 昨年4月14日に北川しま子さんが亡くなった。9か月あまりが過ぎた。

■1993年11月
 はじめて北川さんに会ったのは、1993年11月だったと思う。雪の降っている夕方だった。
 1993年10月に、アイヌ民族についての差別表現がくりかえされている小説『アイヌの学校』が出版された。これは、長見義三氏が1942年に発表した小説で、恒文社が復刻したものであった。この差別文書にたいする行動についての話し合いが、ウタリ協会サッポロ支部で開かれ、わたしも参加した。そのとき、北川さんに会った。小川隆吉さん、石井ポンぺさんにも会った。その話し合いに参加していた和人は、わたし一人だった。
 ウタリ協会サッポロ支部の強い抗議によって、『アイヌの学校』は、1994年に絶版となり回収された。

■「アイヌモシリに侵略者は船に乗ってやってきた」
 1997年7月26日に、突然、外務省がオタル市にアメリカ合州国海軍の空母「インディペンデンス」のオタル寄港を打診してきたというニュースが流れた。オタル市長は、アメリカ合州国空母のはじめての民間港への入港を容認する姿勢を示した。わたしたちは米空母に反対する市民の会を創立し、8月20日から市役所正門内の小さな広場で、座り込みを始めた。米空母に反対する市民の会の活動に、北川さんは積極的に参加した。
 1998年3月30日に米空母に反対する市民の会が発行した冊子『小樽をふたたび軍港にしないために』に、北川さんは、「アイヌモシリに侵略者は船に乗ってやってきた」を寄稿してくれた。そこに、北川さんは、つぎのように書いている。
   「日本人が船に乗ってやってきたとき、アイヌモシリでは、アイヌ民族が平和にくらして
   いた。アイヌ民族は、やってきた日本人を、こころよく迎えた。……
    かれらは、恩をあだでかえした。かれらは、侵略者だった。……
    アイヌ民族は、侵略の船がくるのをなんども許して、アイヌモシリを侵略されてしまった。
    アメリカの軍艦が港にくるのに反対するみなさんの運動は、これからがたいせつだと思
   う。一度は許してしまっても、二度と許してはダメだ。……
    これからは、みなさんともいっしょに、アイヌモシリを人間の静かに住む大地としていく
   運動をすすめていきたい」。 

■2001年7月
 2001年7月2日に、鈴木宗男衆議院議員と平沼赳夫衆議院議員が、日本は単一民族国家だと公言した。このとき鈴木宗男議員は、“アイヌ民族は……今はまったく同化されている”と語っていた。
 この妄言にたいし、アイヌ民族の自治区を取り戻す会の北川しま子さん、日本基督教団小樽望洋台教会の柴田作治郎さん、米空母に反対する市民の会の佐藤正人は、7月19日に連名で二人の辞任を要求した(【辞任要求】鈴木宗男衆議院議員と平沼赳夫経済産業大臣兼衆議院議員の辞任を求める。http://www.jimmin.com/2001b/iwase_03.htm )。
 柴田作治郎さんは、毎朝、“ここはアイヌモシリだ”と言ってから起き上がると語っていた。小樽望洋台教会は、2011年3月27日に毎週の礼拝を終了した。その1年9か月あまりのちの2013年1月10日に柴田さんは亡くなられた。

■パレスチナとアイヌモシリ
 2003年3月に、ライラ・ハリドさん(パレスチナ国民評議会議員・パレスチナ女性同盟副議長)がアイヌモシリに来た。3月16日に、オタルで、「ライラ・ハリドさんを囲むつどい」が開かれた。この日、北川しま子さんは桑園の病院に入院中だったが、病院を抜け出して参加してくれることになっていた。
 このつどいの第1部「パレスチナ解放への道、世界解放への道」では、ライラさんが報告(私はずっと、パレスチナに帰ってオレンジを摘むことを夢見てきた)し、 第2部「パレスチナとアイヌモシリの過去と現在と未来を語り合う」では、北川さんの発言(アイヌモシリでパレスチナの人たちのことを想う)とライラさんの発言(占領された大地をとりもどす抵抗運動)のあと、参加者全員がイスラエルの侵略とたたかうパレスチナ民衆と連帯して、いま、具体的に、なにができるのかを、たしかめあう討論をすることになっていた。
 だが、北川さんの参加が、ムリになった。それを知った小川隆吉さんが、当日の朝、“しまちゃんが行けなくなったので、オレが代わりに行く”と電話をくれ、参加してくれた。小川さんは、パレスチナ解放闘争に学びつつアイヌモシリ解放闘争をすすめていく展望を語った。その翌日、ライラさんは北川しま子さんに会いに病院に行った。ライラさんは、“北川さんはパレスチナ人の気持ちをすぐにわかった。わたしもアイヌの気持ちがよくわかった”と言った。

■泊村と茅沼炭鉱跡で
 わたしは、北川さんと静内に行った。茅沼炭鉱跡にも北川さんは米空母に反対する市民の会のなかまたちと何度も行った。
 1941年4月3日に茅沼炭鉱に連行されていた朝鮮人労働者125人は、「米の飯を食わすまでは働かない」と言ってストライキをおこなった(『社会運動の状況』1941年)。1944年6月に茅沼炭鉱で働いていた朝鮮人労働者は814人で、同胞を殴り殺した日本人寮長に反撃するとともに、ストライキをおこなった(『特高月報』1944年7月分)。1945年10月18日に茅沼炭鉱で、700人の朝鮮人が、「退職金と物資配給」を要求した(『北海道新聞』1945年10月21日)。1945年11月ころ朝鮮人が帰国したあと、茅沼の地蔵院に7人の朝鮮人の遺骨が残されていた。1965年5月に地蔵院が廃止されたとき、その遺骨は、近くの法輪寺の本堂に置かれ、1965年秋、法輪寺墓地に新しく建立された無縁塔に移された。
 北川さんは、茅沼炭鉱で命を失った朝鮮人のことを強く思い、無縁塔や火葬場跡で何度もイチャルパを主催した。
 2003年に、わたしは、北川しま子さんと、高橋勇さん、小林けんさん、小林ホピーさんらと泊村に行った。そのとき『泊村史』に、アイヌ民族が「土人」と書かれ、1880年が泊村の「開村」の年とされていることを北川さんが「発見」した。その後、わたしたちは、何度も泊村教育長に差別表現、アイヌモシリ侵略を「開基」とする表現を削除、訂正し謝罪することを求めた。
 北川さんは体調をくずして入院したが、わたしたちは、2008年9月と11月に、北川さんが書いた要求書(「土人」や「開基」の削除、謝罪)をもって教育長と面談した。
 2009年に、教育長は、「土人」を削除し、開拓史観にもとづく記述を全面的に書きかえるという確認書をだした。

■北川しま子さんの生涯
 北川しま子さんは、「死ぬまで生きてたたかっていく」と言っていた。その声が、わたしの心にひびき続けている。
 北川さんの声は、優しい声だった。わたしの母は2005年に死んだが、生前、北川さんから電話がかかってくると、いつも、“ほんとうに優しい声だ。それに比べてお前の声は……”と言っていた。わたしの高校教師も、“北川さんの声は、きれいで優しい”とよく言っていた。
 わたしの家の電話に留守中にかかって来た北川さんの2001年7月の声がいまも残っている。

       2016年1月31日
                                佐藤正人
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「日本の中国人労働者強制連行に関する書類を初公開」

2016年01月30日 | 個人史・地域史・世界史
http://j.people.com.cn/94475/8404764.html
http://j.people.com.cn/94475/206577/8404765.html
「人民網日本語版」 更新時間:14:08 Sep 19 2013  更新時間:14:54 Sep 19 2013
■日本の中国人労働者強制連行に関する書類を初公開■

     【写真】書類を見る人々。

 中国人労働者強制連行という日本の犯罪行為に関する貴重な書類120袋が18日、初めて中国で公開された。在日愛国華僑指導者、東京華僑総会の陳焜旺名誉会長が中国人民抗日戦争記念館に寄贈したものだ。沈強館長はこれらの貴重な書類を適切に保管する方針で、すでに電子化しており、適切な時期に展示するという。

■3揃い中2揃いは所在不明
 1950年11月1日、在日華僑は東京浅草の本願寺で、初の中国人労働者慰霊追悼会を行った。中国人労働者の調査に参加した日本外務省のある職員が様々なルートを通じて当時東京華僑総会副会長だった愛国華僑の陳焜旺氏と連絡を取り、日本に連行した中国人労働者の奴隷的酷使について記した「外務省報告書」および関係資料の焼却を外務省から命じられたが、大変貴重な資料で焼却するのは余りにも惜しいと考え、こっそり3揃いをとっておいたことを伝えた。
 その後、この職員から資料1揃いを譲られた陳氏は数カ所に分けて入念に保管した。このことを知った日本右翼が資料を盗もうと企んだが、思い通りにいかなかった。残る2揃いの資料は現在所在不明だ。
 このほど陳氏は半世紀余りにわたって保管してきた書類を抗日戦争記念館に寄贈し、日本による中国侵略の犯罪行為を白日の下にさらした。

■中国人労働者の遺族が「現場で肉親捜し」
 書類によると計3万8935人の中国人労働者が169回に分けて中国から日本に送り込まれた。沈館長は「日本側の資料によると、日本での死亡者数だけで6830人に達する」と説明。18日には抗日戦争記念館多機能ホールで黄ばんだ書類が陳列され、山東省や河北省から訪れた遺族が書類をめくり、父や祖父の名を探していた。62歳の姜彦龍さんは祖父の姜双河さんの名を書類の中に見つけた。姜双河さんは河北省出身で、1943年に日本の花岡へ労働者として連行され、客死した。

■中国人労働者の奴隷的酷使は三菱、三井が最多
 書類は計120袋、405件で、日本企業35社124作業場の373件の報告、日本外務省の報告書および付属書類32件からなる。これらの書類には日本に強制連行された中国人労働者の氏名、契約書、死亡診断書などが記録されている。
 資料によると、計3万8935人の中国人労働者が169回に分けて中国から日本に送り込まれた。一橋大学の田中宏教授の研究によると、日本が実際に強制徴用したのは4万1758人で、2823人が乗船前に死亡し、3万8935人が実際に日本に到着した。強制徴用された中国人労働者は日本厚生省によって日本企業35社の135の作業場に配属された。作業場はほぼ日本中におよび、うち三井財閥、三菱財閥が最も多くの中国人労働者を奴隷的に酷使した。
 中国人労働者の出身地は華北5省が3万5778人で最も多く、華東地域が2137人、傀儡満州(東北部)が1020人だった。中国人労働者は捕虜になった抗日将兵(国民党軍と八路軍、新四軍を含む)と日本占領区で捕まった農民、商工業者に大きく2分される。

     【写真】日本人の撮影した、花岡に連行された中国人労働者の写真。

■日本は被害者の調査をせずに書類を作成
 1945年8月の敗戦前夜、日本はその罪の重さをよく知っているがゆえに、証拠を隠滅し、犯罪行為を隠すよう政府各部門および占領区当局に密命を下した。これには中国人労働者の強制徴用と奴隷的酷使に関する書類も含まれた。
 当時の国民政府は、中国人労働者の日本での状況について報告するよう日本に繰り返し要求した。中国政府と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に対応するため、日本政府は中国人労働者の帰国から1カ月後、やむを得ず調査を開始。1946年1月下旬に日本外務省は中国人労働者を使用した各企業に速やかに調査報告をまとめるよう指示した。外務省は3月に調査員16人を4組に分けて、各作業場で調査を行い、「備忘録」を作成。1946年6月に両資料を基に「外務省報告書」をまとめたが、表紙に記された日時は3月1日だった。
 合同慰霊祭執行委員会の林伯耀事務局長は「以上3つの資料はいずれも生存者の帰国後にまとめられたもので、被害者の側の調査を全く行わず、中国人労働者を奴隷的に酷使した日本企業および日本側調査員の意見のみに基づき作成されたものだ。このため真実性は大いに削がれたが、それでも中国人労働者の強制徴用と奴隷的酷使の歴史の整った記録であり、貴重な歴史資料だ」と指摘した。

■複数の訴訟で書類を採用
 北京市方元弁護士事務所の康健主任は元中国人労働者関連の訴訟10数件に直接参加した。康氏によると日本では1994年に「外務省報告書」が公表。康氏らは元中国人労働者関連の訴訟を開始した1995年の段階から、書類の一部資料を採用してきた。「書類は訴訟に良い役割を果たした」。これまで10数件の裁判が日本で行われた。日本は三審制で、一審や二審で勝訴したものはあるが、終審ではいずれも敗訴した。「政治的理由があるかも知れないが、少なくとも事実認定においては日本側も認めている」。 (編集NA)
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「聊城现1942年“劳动票” 见证日军掠夺中国劳工」

2016年01月29日 | 個人史・地域史・世界史
http://liaocheng.iqilu.com/lcyaowen/2014/0514/1988449.shtml
「齐鲁网」 2014-05-14 10:40  来源:聊城晚报  记者 赵迪
■聊城现1942年“劳动票” 见证日军掠夺中国劳工 
   原标题:水城现1942年“劳动票”见证日军掠夺中国劳工

[提要]“这张劳动票是日军侵华时期掠夺中国劳工的证据。”古玩收藏爱好者胡建东说。据悉,他最近发现的一张1942年的“劳动票”,经聊城文史专家证实,是当年日本侵华时期日伪劳工组织印发给劳工的证件...

     【相片】1942年的“劳动票”,经聊城文史专家证实,是日本侵华时期
        日伪劳工组织印发给劳工的证件。

  本报讯 “这张劳动票是日军侵华时期掠夺中国劳工的证据。”古玩收藏爱好者胡建东说。据悉,他最近发现的一张1942年的“劳动票”,经聊城文史专家证实,是当年日本侵华时期日伪劳工组织印发给劳工的证件,其中隐藏着日伪皮鞭下劳工的苦难经历。
  5月13日,记者在胡先生的寓所见到了这张“劳动票”。因为年代久远,票证颜色暗黄,上面的人物照片也变得模糊不清,但票证上的钢笔字迹尚能辨识。
  这张票证分正反两面。正面左侧部分印有竖写的繁体字——“劳动票”,号码为第05703号,证件署“中华新民劳工协会”。根据票证信息显示,票证的主人名叫赵金才,男,33岁,山东省禹城县人,于民国三十一年(1942)三月二十八日施行劳动登录,从事土木建筑业,编在“西本组”,住在“塘沽土炮台西本组宿舍”。票证反面是“雇佣解雇栏”,记录着民国三十一年(1942)三月二十七日和民国三十三年(1944)四月一日两次登记情况。
  东昌府区政协文史研究员高文广介绍说,日伪时代出于战事需要,日伪政府对中国劳动力资源进行疯狂劫掠,实行了强制性奴役和虐杀劳工政策,把广大劳动人民推向了苦难的深渊。
  “曾经听老年人讲过,那时实行摊派,摊派的原则是有人出人,无人出钱。有钱的人家可以出钱免除摊派,而穷人则多被摊派,或受人雇佣替当劳工。他们被送往各地修筑军事设施、营房、道路等,或被送往矿井,从事艰辛苦难的劳役。那时没有人愿意去当劳工,日伪政府便采取了强制手段抓劳工。被抓捕的劳工一般都是壮劳力,剩下一家老小无依无靠,饥寒交迫,在死亡线上挣扎。”高文广说。
  高文广介绍,根据票证信息显示,票证主人当时在天津“塘沽土炮台”一带从事劳役。据资料显示,天津是日本实施“以战养战”政策和扩充军备生产的主要战略资源供给地,也是其“招募”劳工的“兵站”,更是其“强制劳动”暴行的最大受害地之一。根据记载,1940年至 1945年8月,日本侵略者从天津抓走的各地劳工达七万多人。
  “日伪政府在天津设立了华北劳工协会等专门组织,以天津市区为据点,从广大农村,从河北的静海、沧县、东光等县,以及山东的一些邻县,抓捕大批劳工。资料还记载,劳工被押解到车站、码头后,在刺刀、镣铐、皮鞭威逼下,一部分由铁路、海路送往伪满洲国及日本做井下劳工,一部分留在本地日军兵营构筑工事,完工后被日寇秘密处决,沉入海河。证件主人赵金才应该属于留在本地日军兵营构筑工事的劳工。”高文广说,尽管我们对这张“劳动票”主人赵金才的情况不甚了解,但是作为当年的劳工,他应该和所有劳工一样备受煎熬。他建议胡东建将这份史料妥善保存,最好能捐赠给博物馆,那样更便于收藏和发挥它的价值。
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「黒龙江省档案馆公布一批日本侵华罪证档案」

2016年01月28日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.hljdaj.gov.cn/hljsdajxb/ltxw/sjyq/2015/08/4362.htm
「黒龙江档案信息网」 更新时间:2015-08-14   作者:超级管理员
■黒龙江省档案馆公布一批日本侵华罪证档案

【相片】黒龙江省政府召开"黒龙江省档案馆档案公布"新闻发布会现场
【相片】黒龙江省档案馆馆长齐秀娟作主旨发布
【相片】黒龙江省档案馆公布日本移民侵略黒龙江档案、侵华日军关东宪兵队“特殊输送”档案、日军“慰安妇”档案展示
【相片】黒龙江省档案馆馆长齐秀娟接受中央电视台采访,介绍日本侵华罪证档案的情况
【相片】黒龙江省档案馆馆长齐秀娟向黒龙江电视台记者介绍日军“慰安妇”档案

  2015年8月11日上午10时,黒龙江省政府召开的新闻发布会,由龙江省档案馆向社会公布日本侵华罪证的档案,展示部分公布结果。黒龙江省档案馆馆长齐秀娟作主旨发布,并回答记者提问,黒龙江省政府新闻办公室副主任新闻发言人沙育超主持新闻发布会,中央电视台、人民日报、新华社、凤凰卫视、黒龙江电视台、黒龙江日报、哈尔滨新闻等近50家媒体的记者参会。会后,齐秀娟馆长接受了中央电视台、黒龙江省电视台、哈尔滨电视台等媒体采访。
  本次发布会向社会公布的馆藏日本侵华罪证档案资料,共分三个部分。

★一是日本移民侵略黒龙江档案。
  1906年到1945年间,日本在军事侵略中国的同时,有计划、有组织、有步骤地向中国东北地区殖民。为推行移民侵略政策,日本在进行移民的同时,强行霸占中国农民土地和私有财产的暴行屡屡发生,成为日本侵华的严重罪行之一。为揭露日本移民侵略黒龙江的罪恶行径,此次通过整理研究馆藏日本移民档案,以编辑出版《日本移民侵略黒龙江》书籍的形式向社会发布利用。此书收录了96件档案,其中21件是首次对外公布。内容分为移民政策法令、入殖种类、计划与实施、移民土地、移民危机等5个部分,时间跨度自1932年3月至1946年2月。

★二是侵华日军关东宪兵队“特殊输送”档案。
  此次公布的是新发现的20件档案,涉及被害人4人,时间自1939年6月9日至1941年7月25日,内容包括新京宪兵队、关东宪兵队司令部、警务部、半截河宪兵分遣队、东安宪兵队、北安宪兵队、林口宪兵分队、哈尔滨宪兵队对苏联谍报员孙连生、高凤章、尚开明、李忠发进行监视、逮捕、审讯、移送等情况的报告、处理情况通报和已被确定特殊输送的苏联谍报员病死情况的报告,为七三一部队滔天罪行再添一笔新证。由于侵华日军一直将细菌武器的研制列入“绝密”加以掩盖,因此该档案是记录关东宪兵队和731部队相互勾结共同实施罪恶活动的原始文件,是历史的真实记录。

★三是日军“慰安妇”档案。
  本次公布的反映日军强征“慰安妇”档案共7件,是从黒龙江省档案馆馆藏日伪档案中发掘而来的。其中6件是伪牡丹江省绥阳县绥阳国境警察队对当地日军设立慰安所情况的调查报告,包括3件绥阳国境警察队绥芬河队与寒葱河队关于当地日军设立慰安所情况的“特秘”调查报告和3件当地国境警察队特务对设立慰安所的调查与搜集当地餐饮娱乐业的反应。时间自1941年10月20日至1941年12月11日。另外1件是东安宪兵分队关于日军设立军事警察专门负责军中“特殊慰安所”、“特殊慰安妇设施”相关事务的报告,时间是1942年6月。从档案中可以看出绥阳地区设立慰安所形式为军督民办,所谓的鲜人料理店,就是日本军方设立和指定的专为军人服务的慰安所,而且女招待是“从朝鲜募集的二千名日军大陆派遣部队专用慰安妇中调集约十人到南天门”,另外在东安宪兵分队的情况报告中,明确记载“按照军部的要求,严格管理军中特殊慰安所”,又因为发生“各种违法行为”,“对于特殊慰安妇的设施,在军方迫切要求的基础上,交由宪兵队负责”,说明侵华日军在绥阳以外的地方也设立了慰安所,而且是由军方直接设立,具体由关东宪兵队负责管理。“慰安妇档案”具有最原始、最真实的特点,揭露了侵华日军在绥阳县(现绥阳镇)等地设立慰安所的历史真相,证实了慰安所的开设是有目的、有计划的日本军方行为,有力回击了日本右翼势力有关“慰安妇是商业行为,与日本政府及军队无关”的谎言。

  公布的这批档案资料都编有专题目录,以供社会各界查找利用。中华人民共和国公民持本人身份证、工作证或介绍信,即可直接到龙江省档案馆查阅利用这部分档案。外国组织和个人,须经中国有关主管部门介绍并提前向黒龙江省档案馆提出申请,经批准后可以利用这部分档案。
                             黒龙江省档案馆 聂博馨


附:日本侵华罪证档案专题目录(公布时间2015年8月11日)
■有关特殊输送档案目录■
1 新京宪兵队关于留萌工作情况的报告 新京宪兵队  1939年6月9日
2 孙家铎的供述中出现隐瞒、掩饰其与孙连生谈话内容的情况  1939年6月9日
3 关东宪兵队司令部关于在林密线火车上逮捕满洲国人苏联谍报员并侦查谍报关系网的
 报告  关东宪兵队司令部  1939年6月15日
4 新京宪兵队关于苏联谍报员病死的报告  新京宪兵队  1939年7月13日
5 警务部关于留萌一号病故的报告  关东宪兵队司令警务部  1939年7月15日
6 半截河宪兵分遣队关于逮捕审讯苏联谍报员满洲国人高凤章及张万祯情况的报告  
 半截河宪兵分遣队  1939年12月20日
7 东安宪兵队关于扣留审讯苏联谍报员傧欧侥、高凰华的电报 东安宪兵队  
 1939年12月22日
8 东安宪兵队关于逮捕审讯苏联谍报员满洲国人高凤章与张万祯情况的报告(通报)  
 东安宪兵队  1940年1月23日
9 东安宪兵队关于移送苏联谍报员高凤章的报告(通报)  东安宪兵队  
 1940年7月29日
10 北安宪兵队关于发现持有伪造旅行许可证的满洲国人的报告 北安宪兵队  
 1941年3月21日
11 北安宪兵队关于查获尚开明持有伪造旅行许可证情况的电报 北安宪兵队 
  1940年3月21日
12 北安宪兵队关于谍报员尚开明与其同党在嫩江附近活动情况的电报  北安宪兵队 
 1940年3月28日
13 北安宪兵队致关东宪兵队司令官密电 北安宪兵队  1940年3月29日
14 北安宪兵队关于审讯苏联谍报员尚开明情况的电报  北安宪兵队  1940年3月29日
15 北安宪兵队关于扣留审讯苏联谍报员尚开明情况的报告  北安宪兵队 1940年4月6日
16 北安宪兵队关于审讯苏联谍报员尚开明细节情况的报告  北安宪兵队 1940年4月21日
17 北安宪兵队关于苏联谍报员尚开明其后审讯情况的报告  北安宪兵队 1940年5月16日
18 关东宪兵队司令部警务部关于对苏联谍报员尚开明处理的通报  北安宪兵队
 1940年5月23日
19 林口宪兵分队关于发现苏联谍报员原“共匪”“艾才”并继续跟踪情况的报告(通报)
 林口宪兵队  1940年7月16日
20 哈尔滨宪兵队关于跟踪满人谍报员嫌疑人任务交接情况的报告(通报) 哈尔滨宪兵队
 1940年7月17日

■有关慰安妇档案目录■
1 绥阳国境警察队寒葱河队关于辖区内计划开设“日军专用朝鲜人料理店(慰安所)”的报告
 责任者:绥阳国境警察队寒葱河队 1941年10月20日
2 绥阳国境警察队绥芬河队关于转报寒葱河队辖区内计划开设“日军专用料理店(慰安所)”
 情况的报告  责任者:绥阳国境警察队绥芬河队 1941年10月28日
3 绥阳国境警察队寒葱河队关于辖区内“日军专用朝鲜人料理店(慰安所)”已开设情况的
 报告  责任者:绥阳国境警察队寒葱河队 1941年12月11日
4 特务股韩廷武关于军方预计在绥芬河设立朝鲜人料理店的报告  责任者:特务股韩廷武
 1941年10月23日
5 特务股高山明根关于某朝鲜料理店店主有关开设日军指定料理店言论的报告  
 责任者:特务股高山明   1941年10月30日
6 特务股韩廷武关于绥芬河料理店经营者及女招待对开设军方指定料理店反响情况的报告
 责任者:特务股韩廷武  1941年11月10日
7 东安宪兵分队关于队内军风军纪、服务、内务、教育等方面以及管辖区域内军中职员思想
 动向、民心动向等情况的报告  责任者:东安宪兵分队  1942年6月

■有关日本移民开拓档案目录■
1 满洲特别移民之真相 帝国在乡军人会  1934年3月
2 满洲农业移民根本方策案 关东军特务部移民部  1934年8月28日
3 对满洲农业移民会议的开会辞 关东军参谋长  1934年11月26日
4 从治安上看日本农业移民   1937年8月10日
5 满洲百万户移民国策之全貌  满洲国产业部拓政司  1938年5月
6 关于更改移民名称的报告  满洲拓殖委员会  1939年2月9日
7 双城县公署关于满洲移民名称变更之训令  双城县公署  1939年3月13日
8 在龙江省开拓团长会议上的训示  产业部  1939年10月13日
9 龙江省次长关于省政方针的训话  龙江省公署  1939年10月13日
10 开拓团法   1940年5月3日
11 开拓挺身队要纲(草案)   1940年7月6日
12 开拓事业公债法   国务总理大臣张景惠、经济部大臣蔡运升  1940年11月11日
13 满洲开拓的初期时代   1941年2月
14 关于开拓团设置之件   龙江省长  1942年4月30日
15 在第二次开拓全体会议上的讲话  开拓总局  1944年2月17日
16 战时紧急开拓政策实施方案策  开拓总局  1944年2月
17 关于佳木斯移民情况报告   1932年11月8日
18 满洲渔农开拓团  满铁调查局  1933年3月
19 第一次移民团迁入永丰镇情况  山崎芳雄
20 农业自由移民移住现况
21 关于林业开拓团的调查报告   第一调查室  1939年4月
22 铁路自警村    日本学术振兴会
23 青少年义勇队宁安训练所
24 青年义勇队的概貌  满洲开拓义勇队训练本部  1940年8月
25 三江省管内开拓团及训练所概况一览表  三江省开拓厅  1941年
26 北满开拓地区酪农经营标准 满洲拓殖公社  1942年12月
27 第十四次集团开拓团入殖实行要领案   1944年
28 林口县龙爪开拓团概况  林口县公署  1946年2月
29 日本人移民对策要纲   关东军特务部移民部  1933年2月
30 满洲移住协会设立要纲案  关东军特务部移民部  1933年4月10日
31 满洲拓殖公司设立纲要案  关东军特务部移民部  1933年4月8日
32 满洲农业移民训练所设置要纲案  关东军特务部移民部  1933年4月10日
33 拓务省第二次农业移民工作成绩调查报告  1935年6月
34 镜泊学园调查报告  满铁经济调查会  1935年6月
35 关于对满洲国移民问题  东军参谋长  1936年11月1日
36 暂行农业自由移民办理规则  民政部、实业部、蒙政部  1936年11月7日
37 天理村   日本学术振兴会  1936年12月
38 天昭园村   日本学术振兴会  1936年12月
39 弥荣村要览  山崎芳雄  1936年
40 第七次集团及青年义勇队移民预定地区表   拓政司  1938年1月12日
41 满洲移民机关
42 滨江省关于内国民开拓助成事业实施规则  滨江省公署
43 哈尔滨开拓训练所概要  满洲中央银行调查科  1940年9月
44 第十次集团开拓民移民地区一览表   1940年
45 关于建立起日本移民工作机关前之暂行办法的照会   1941年3月29日
46 满洲农地开拓会社设立要纲案   关东军特务部   1941年4月8日
47 日满粮食产方策案   日满农政研究会  1941年9月8日
48 开拓事业第一期计划之实绩  开拓总局   1941年
49 开拓团的经营 满洲拓殖公社   1942年4月
50 满洲农政年序报告中所列“开拓部门”部分   1942年8月
51 开拓部会事业计划要纲案   开拓总局   1943年
52 开拓民与原住民关系调查报告   满洲调查机关联合会  1943年
53 滨江省内开拓民入殖三年计划表
54 开拓团充员要领   开拓总局   1944年2月17日
55 报国农场设置要纲案   开拓总局  1944年2月
56 第一次特别移民用地议定书   1932年3月28日
57 日本人移民用地整备要纲案  关东军参谋长  1936年11月1日
58 关于买收土地缴照日期之件  宾县公署  1937年11月25日  附布告
59 通北县移民招垦地老街基地区取得事务概要  通北县公署  1937年
60 三江省移民用地整备实施要领  产业部  1938年7月1日
61 双城县内未利用地整备要领  双城县公署  1939年8月
62 关于开拓用地整备之件   产业部   1940年2月27日
63 巴彦旗公署布告   巴彦旗未利用地整备委员会  1940年9月20日
64 双城县熟地租借规则   双城县公署   1940年10月
65 国土开拓事业法要纲案    1940年12月15日
66 关于林野地区内开拓用地之件  开拓总局  1940年
67 集合开拓民入殖地区一览表   开拓总局   1941年2月
68 关于开拓用地内原住民处理规程之件  兴农部  1941年3月28日
69 关于国有开拓用地之境界设定之件  兴农部  1941年5月24日
70 未利用地开发事业法要纲案   开拓总局  1941年11月24日
71 关于开拓用地之土地等级调查之件   地政总局  1942年10月30日
72 滨江省双城县开拓用地取得状况调查表  双城县公署  1942年12月
73 开拓团地计划要纲   开拓总局  1943年5月
74 康10年度开拓民入殖适地调查实施计划案   滨江省公署  1943年
75 日本内地人开拓团各县别分配耕作面积一览表   1943年
76 关于康11年度开拓用地整备之件  开拓总局  1944年2月
77 关于紧急农地造成事业之件   开拓总局  1944年2月
78 给哈尔滨日本总领事森岛的请愿书   桦川县民众代表  1933年6月12日
79 第一次移民(永丰镇)退团、战病死情况   1934年6月
80 移民团和治安关系   1934年10月
81 土龙山事件   1936年7月
82 满警防队员射杀开拓民   关东宪兵司令部  1940年8月28日
83 关于开拓团团员退团之件  开拓总局  1940年8月29日
84 绥阳县自警村训练所暴行事件   牡丹江高等检查厅  1940年9月27日
85 宁安县芦家屯第八次开拓团罢工事件   1940年
86 日本人开拓用地内原住民反对移居  牡丹江高等检查厅  1941年2月14日
87 开拓团内部纠纷事件    1941年2月6日
88 原住民反对收买开拓用地运动   牡丹江高等检查厅  1941年3月18日
89 兴隆开拓团员纠纷致死状况   齐齐哈尔高等检查厅  1941年4月10日
90 开拓团员对原住民的掠夺   齐齐哈尔高等检查厅  1941年4月10日
91 饶河青年义勇队员入苏   牡丹江高等检查厅  1941年5月16日
92 肇州县原住民对强行收买土地不满  哈尔滨宪兵队  1941年6月
93 关于三江省内开拓团粮食不足状况之件  1942年3月9日
94 关于满人杀害开拓团员事件  1942年5月18日
95 关于管内开拓团(含青年义勇队)状况之件  1942年5月27日
96 日本内地人开拓民的负债原因及解决方案的调查报告  1944年3月
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「中国、新たに南京大虐殺の生存者10人を認定」

2016年01月27日 | 個人史・地域史・世界史
http://jp.eastday.com/node2/home/xw/sheh/userobject1ai79703.html
「東方網日本語版」 2013年 7月 8日17:20 / 提供:新華網日本語
■中国、新たに南京大虐殺の生存者10人を認定
 6日午前、南京大虐殺記念館で、岑洪桂(ツェン・ホングイ、89歳)ら10人は南京大虐殺生存者証明書を受け取った。最年少で76歳、最高齢で92歳となる。岑さんは任命されたからには、自らが体験した悲惨な歴史をより多くの人に伝える責任があると話している。
 南京大虐殺記念館の朱成山(ジュー・チェンシャン)館長は時間とともに生存者の数は減っており、現在存命している生存者は200人足らずしかいないとコメントした。記念館と南京大虐殺生存者援助協会は近年、生存者に関する情報収集を積極的に進めている。
 生存者の認定はきわめて厳格なもので3つの条件があるという。第一の条件は大虐殺当時、南京にいて日本軍の暴行を直接見聞していること。第二にはっきりと過去を覚えており、虐殺の歴史的事実と合致していること。第三に本人が被害を受け、傷跡などが残っていることの3点となる。



http://jp.eastday.com/node2/home/xw/sheh/userobject1ai58686.html
「東方網日本語版」 2011年 4月 7日10:15 / 提供:新華網日本語=中国通信社
■健在の南京大虐殺生存者300人余りに

     【写真】南京大虐殺の生存者と南京大虐殺犠牲者の遺族

 南京大虐殺記念館の朱成山館長は5日、新華社記者に大虐殺の生存者が高齢のために数多く亡くなっており、現在わかっているだけで健在の人は300人余りと語った。  
 朱館長は次のように強調した。南京大虐殺の生存者は特別な人たちで、戦争の被害者であり、歴史の生き証人でもある。その言葉は歴史の最良の証言であり、歴史の否定を企む日本の右翼に対する最良の反撃である。生存者は長年にわたり、歴史を証言し、当時の歴史をより多くの人に伝えるために多くのことをしてきた。
 南京市の関係機関は生存者を探し、支援するため長年多くの努力をしてきた。1984年、91年、97年の3回、大規模な生存者の調査を行った。特に97年は夏休みを利用し1万人余りの学生を動員して南京市の13区・県の70歳以上の人を調査し、生存者について2400件余りの手掛かりを得た。専門家による検証を経て、新たに1213人の生存者が確認された。  
 朱館長によると、生存者の証言を残そうと、記念館と専門家は模索を繰り返し、証言集や名簿集を出版し、同時に生存者について記録した2260件のファイルをまとめた。  
 日本軍による南京大虐殺から73年余りが過ぎており、これは生存者が最年少でも74歳近いことを意味している。高齢になり亡くなる生存者が少なくない。朱館長は次のように語った。生存者の居住分布が非常に広く、統計作業が難しい。記念館の資料でわかっている健在の人は300人余りにすぎない。
 朱館長の説明によると、記念館は長年、生存者を探す活動を続けており、近年も新たな手掛かりが見つかっているという。南京以外でも見つかり、専門家による検証を経て、生存者のファイルに追加している。
 記念館南側の「南京大虐殺犠牲者名の壁」延長工事が5日、完成した。延長された壁に新たに2067人の犠牲者の名前が刻まれ、合計1万311人となった。  
 この壁は「慟哭の壁」とも呼ばれるもので、中国科学院院士(会員)で東南大学建築設計院院長の斉康?教授が設計し、完成させた。

     【写真】慟哭の壁

 朱館長の説明によると、壁はこれまで長さ43メートル、高さ3.5メートルだったが、延長工事で長さが69.5メートルになった。1995年初めの完成当時、刻まれていた名前は3000人で、犠牲となった30万人同胞を象徴していた。2007年に新館がオープンし、壁の名前は8000人余りに増え、今回また2067人が追加された。  
 記念館では同日、「南京大虐殺生存者肖像」展も始まった。30人の肖像が展示され、それぞれに散文詩と説明が付けられている。
 1937年12月13日、中国侵略日本軍は南京を占領し、その後1カ月余り、寸鉄も帯びぬ一般市民と捕虜の軍人30万人を虐殺した。



http://www.recordchina.co.jp/a10493.html
「Record China」 配信日時:2007年8月14日(火) 16時5分
■南京大虐殺の犠牲者・生存者名簿を出版―江蘇省南京市
 2007年8月13日、江蘇省南京市で資料集『南京大虐殺犠牲者名簿』と『南京大虐殺生存者名簿』が出版された。     
  
     【写真】南京市虐殺記念館にある犠牲者の名前を刻んだ壁。

 資料集は今年12月13日の南京大虐殺70周年記念日を目指し、南京大虐殺史研究会・虐殺記念館らが共同で編集したもの。『南京大虐殺犠牲者名簿』は8242人の名前が収録された。うち死亡時の年齢が50歳以上の老人が1510人、子供が262人となった。『南京大虐殺生存者名簿』には2592人が記載されており、男性1469人、女性1050人、性別を特定できなかったものが73人となっている。
 南京大虐殺犠牲者記念館の朱成山(ジュー・チェンシャン)館長によると、当時の戸籍記録は大部分が紛失しており、犠牲者の確定は困難を極めたという。そこで複数の資料を総合して犠牲者と生存者の割り出しを進め今回の出版にこぎつけたという。もっとも資料の収集・整理の仕事はまだまだ始まったばかりであり、今後の研究の進展に伴い、資料集も続刊を発行予定だという。
 資料集に掲載された犠牲者のリストは、虐殺記念館の壁にも刻まれている。朱館長は「このリストは無言の歴史的証拠であり、日本の右翼勢力がいかに弁明を図ろうとも、この重みの前には無力だ」と話している。今年は1937年の南京大虐殺から70周年に当たり、映画が公開されるなど記念イベントが続いている。
     
   (翻訳・編集/KT)
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「吉林延吉:纪念缅怀大屠杀受难者国际纪念日」

2016年01月26日 | 個人史・地域史・世界史
http://www.nj1937.org/cn/2016-01/26/c_135047267.htm
「侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆官方网」 2016-01-26 17:17 来源: 中国网•东海资讯
■吉林延吉:纪念缅怀大屠杀受难者国际纪念日
  1月26日,为了提醒世人牢记大屠杀的惨痛教训,告慰英灵,珍爱生活,吉林省延吉市新兴街道民旺社区开展了纪念缅怀大屠杀受难者国际纪念日活动。
  中国网·东海资讯报道 2005年11月1日,第60届联大全体会议一致通过了由104个国家共同提交的一项决议草案,决定将每年的1月27日定为“国际大屠杀纪念日”。
  1月26日,为了提醒世人牢记大屠杀的惨痛教训,告慰英灵,珍爱生活,新兴街道民旺社区开展了纪念缅怀大屠杀受难者国际纪念日活动。
  大屠杀是最惨绝人寰的一次危害人类罪行。数百万无辜男女老幼遭受了难以言表的暴行。社区利用宣传板报展出纳粹大屠杀题材的图片,让更多的居民进一步了解大屠杀历史并汲取教训。
  通过此次活动,缅怀了大屠杀受难者,并让居民铭记那段悲痛的历史,珍爱和平,共享美好幸福的明天。
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「黄魂:热血忠魂耀琼崖」

2016年01月25日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-08/14/content_7_1.htm
『海南日报』 2015年8月14日  记者 许春媚 实习生 陈奕霖 陈慧予 海口8月13日讯
■黄魂:热血忠魂耀琼崖
 他是琼山中学第一批共产党员之一,也曾是琼崖特委的3名常委之一

     【相片】海口市琼山区美仁坡黄魂故居只剩下枝叶繁茂的大树。 本报记者 宋国强 摄
     【相片】黄魂烈士画像。 本报记者 宋国强 翻拍

  8月8日,立秋时节,海南午后的阳光依旧灼热,海口金牛岭公园里游人稀少。沿着蜿蜒的水泥路步行十几分钟,便到了解放海南岛战役烈士陵园。大型的渡海英雄烈士公墓后面,李振亚、王白伦、黄魂、王业熹、符明经、刘秋菊六位琼崖纵队老领导人的墓碑格外醒目,它们通体白色,整齐地排成一排,仿佛让人看到英烈们生前列队指挥、英姿勃发的身影。

  缓行几步,来到黄魂的墓碑前,符方标弯下身去,仔细地将碑身周围的几株小杂草拔去,“二叔公,我来看你了。”这里,安眠着让符家人骄傲自豪又追念不已的长辈——原名为符权重的黄魂。

  “在那个革命形势比较严峻的年代,二叔公改了名字是为了保护家人。至于为什么要叫黄魂这个名字,已经无从考究,但我们猜测大概是与炎黄子孙有关吧。”在符方标看来,黄魂也无愧于这个名字,他将青春与热血都献给了琼崖革命斗争事业。

  时光荏苒,为了抗击日寇不幸牺牲的黄魂已托体同山阿,但他那“誓将热血兴中华,无悔身化炎黄魂”的精气神却在历史长河中永存。

★热血男儿智勇双全
  “听爷爷说,那个时候我们符家有不少田地而且比较肥沃,家庭经济条件不错,算是小康人家。”符方标的爷爷符权尊是黄魂的大哥,1903年出生在海口市龙华区龙泉镇永沃村(原属琼山县美仁坡乡)的黄魂,在家里排行第二。
  “我二叔公从小就是个好动的人,而且很爱打抱不平,敢说敢做。1922年考进琼山中学读书后,受革命思想熏陶,更加活跃,是学生领袖之一,经常组织学生走上街头贴标语、发传单和演讲,大力宣传革命,揭露反动军阀互相勾结,瓜分琼崖的阴谋和罪行。”符方标记忆里关于这位可敬的符家长辈的故事,都来自于爷爷符权尊及父亲符传富。
  1926年3月,黄魂在琼山中学加入中国共产党,成为该校的第一批共产党员之一。从此之后,在党的领导之下,黄魂在校内积极参加各种革命活动。毕业后,黄魂又回到家乡和周边地区,成立农会,发展党员,建立支部。父亲符经安、哥哥符权尊和弟弟符权贵受其影响,也先后成为共产党员。
  “黄魂是一位智勇双全的革命战士。”原琼山县党史办主任王万江曾对黄魂的事迹做过深入的调查研究,“遇到危险面对敌人他向来都有勇有谋。”
  国民党蔡廷锴部1928年3月来琼“围剿”革命后,黄魂等人转入儒万、儒郭山区活动。有一次,他和战友吴川大接下紧急任务,连夜往琼山县的东山,路过龙湾村附近的一座石桥时,遭到敌人截击,便与敌人隔桥对打,但由于敌人人多势众,火力密集,他们难以冲过桥去。于是,他让吴川大绕到左边去,自己则在右边伏下,当吴川大向敌猛烈开枪时,他在对面高喊“冲啊!杀啊!”由于暗中敌人产生了错误判断,以为碰上了大部队,不敢围上前来,利用夜色掩护,黄魂和吴川大两人都得以冲过桥去,脱离了危险。
  王万江说,“类似的经历,黄魂此后在云龙老区的玉仙东一带,以及其他地方也遭遇过,但他都机智地突破了敌人的包围。”

★“笔杆子”助力抗日
  1930年代,由于敌人的疯狂围剿,琼崖革命处于风雨飘摇之中,此时宣扬革命思想的宣传阵地显得尤为重要。王万江说,“黄魂是当时琼崖特委中重要的笔杆子之一,他撰写以及主持出版了一系列的文章和刊物,对党员、群众的教育起到了积极的鼓舞作用。”据资料记载,黄魂曾参与负责主持出版过《特委月刊》、《红旗报》、《党团生活》、《布尔什维克》、《救亡旬报》(后改为《新琼崖》)、《抗日新闻》报等报刊。
  翻阅记载黄魂相关事迹的历史资料,记者注意到,黄魂不但善于动“笔杆子”,“三寸舌”也相当了得。
  1940年代,琼山新坡一带有一位颇负盛名的拳馆师傅梁仲史。时任琼崖特委兼统战部长的黄魂了解到梁仲史此人有正义感并憎恶腐败的国民党官吏的情况后,便在同乡陈启美的陪同下,对梁仲史进行了耐心的思想工作。最后,梁仲史毅然决定参加抗日队伍,还花了重金买了一支短枪带到革命队伍中来,很快担任石桥乡副乡长兼区武工队驳壳枪排副排长。梁仲史参加抗日的事迹成为特大新闻,轰动一时,短期间内,带动周利任、冯业炳等一大批青年参加抗日部队。
  “黄魂的统战工作成绩非常出色。”王万江说,他善于跟人打交道,在抗战过程中,通过讲情讲理又讲义,争取到了一批可用之人,如同乡陈启美、陈介山,远亲国民党部队的中队长周密,定安县国民党警察局长莫世铣等人先后都被黄魂说服,投身到抗日队伍中。

★青山有幸埋忠骨
  仪表堂堂、浓眉大眼、鼻梁笔挺,这是符方标手中留存的“二叔公”黄魂的遗照。这位智勇双全又充满乐观精神的共产主义战士,生命终止在41岁。
  1944年5月2日,黄魂担任琼崖抗日游击队独立总队政治部主任刚刚一个月,他与战友陈克文等10余人从西部昌感县返回独立总队部,路过四荣乡(今东方四更镇)上荣村,当晚在该村后面长有酸梅树和竹林的园地歇息。次日早上接到情报称,有一队日军骑兵要到四荣乡一带“扫荡”,并已快到上荣村了。黄魂等人便在村边的荆棘丛中分开躲藏起来。日军进村搜查时见村民吉进平家备有多人食用的米饭而看出破绽,便分头向村外搜索。有3名日军骑兵接近黄魂藏身之处时,发现了他,双方几乎是同时开火,黄魂眼快枪准,抢先撂倒3名日兵,二死一伤。此时,黄魂左腹中弹后倒地,他命令其他同志快撤离。不久,日军闯进上荣村,强迫村民将黄魂和日军死伤者抬到村前水井旁,待黄魂稍稍苏醒,便审问他:从哪里来?来干什么?黄魂答道:“是从对面山那边来偷牛的。”日军不再追问,便将他和村里的两位青年一起杀害。
  从入党到就义,18年的时间,黄魂为琼崖的革命事业倾注了一腔热血。中共琼崖特委于1944年6月5日发出关于“追悼黄魂同志的工作决定”中对黄魂做出了如此评价:“黄魂同志参加革命十多年来,表现了共产党人的优良革命气节和风范;他对革命有自觉坚持性;不管革命环境如何恶劣、遭受何种严重挫折,他对革命从未表示悲观、灰心或气馁,始终是坚定积极,对革命前途充满乐观与希望,是一个无产阶级的英勇战士……”


史料链接 黄魂简介
  黄魂原名符权重,1903年出生于琼山美仁坡一个农民家庭。1926年3月加入中国共产党,先后任中共琼山县委第十三区委会副书记,中共定安县委、琼东县委书记,中共琼崖特委委员。
  1936年5月,黄魂被选为特委常委兼宣传部长,负责主办内部半月刊《党团生活》、《布尔什维克》和对外出版《救亡旬报》等报刊。1939年,他在琼山县树乡创办《抗日新闻》,宣传党的政治主张。
  1941年2月,黄魂再度受任特委常委兼统战部长,本着“团结抗日”的精神,他跟社会上层人物接触,团结和争取他们投身到抗日行列。
  1941年7月,黄魂当选为琼山县抗日民主政府县长,后当选琼崖东北区抗日民主政府委员;1942年2月至3月间,任琼山县抗日游击司令部总指挥,领导反“扫荡”作战。
  1944年4月2日,黄魂被任命为琼崖独立总队政治部主任,奉命回独立总队部赴任。5月3日途经昌感县四荣乡上荣村附近时,与日军“扫荡”马队遭遇,在激战中黄魂身负重伤,为掩护战友撤退被俘,壮烈牺牲。
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「抗战时期,琼剧在战斗」

2016年01月24日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-08/10/content_17_1.htm
http://www.hinews.cn/news/system/2015/08/10/017750761.shtml
『海南日报』 2015年8月10日  文:本刊特约撰稿 潘心团
■抗战时期,琼剧在战斗
   专题:孤岛抗战 琼崖壮歌——南海网纪念抗战胜利70周年专题报道
    【图】名旦红梅演出庆祝抗战胜利的街头剧。 本版图片由海南省琼剧院档案室提供
    【图】历经抗战年代的琼剧名角三升半,吴桂喜等艺人解放后组建了有名的新群星
      剧团。
    【图】宣传抗战的琼剧剧照
    【图】上世纪六十年代演出的抗战琼剧《五指山上红旗飘》(白沙起义)剧照。
    【图】油印琼剧老剧本《大义灭亲》。

  琼剧这朵南国琼花,她不但给予人们美的艺术享受,也伴随海南人民走过一段峥嵘岁月,经受硝烟战火的洗礼,显露出她阳刚的一面,为鼓舞人们的斗志,推动抗日战争走向胜利,功绩显赫,在海南戏曲史上留下光辉的一页。

★抗战戏班在困境中诞生
  1939年2月日军铁蹄践踏海南岛,岛上剧团戏班大都停锣息鼓或远走南洋,琼崖纵队认为琼剧能够发挥着“凝聚人心、鼓舞士气”的作用,各地抗战组织在条件困难情况下纷纷组建剧团戏班,吹响全民抗日的号角。
  万宁县抗日组织特派员钟启章奉命在万城镇组织“抗战剧社”,以学生为主体,后来职业艺人宰牛生、李东春、陈进文等加入,剧社初时进行街头宣传,逐渐到农村各墟镇专场演出,主要剧目有《弃妻投军》《富商救国》《大义灭亲》《看戏有益》等,演出收入全部捐献支持抗日。1939年2月的一天,日军疯狂轰炸万宁县城、龙滚分界市一带,伤亡惨重,抗战剧社被迫解散。
  1940年3月,驻扎澄迈县美合抗日革命根据地的琼崖独立总队组织“琼崖抗日独立总队琼剧团”,这个团除演出《大义灭亲》外,还编演一批以抗日战争为题材的短小剧目,在根据地周边村庄巡回演出。
  在“琼剧之乡”定安县定城东门,有一间用茅草毛竹搭盖的同乐戏园,戏班经常在此演出。日军侵琼后,时任定安县长的苏萍生为了动员戏班继续在这里演戏,宣传抗日,鼓舞群众,特意为戏园题写了一副对联:“同仇敌忾救国图存总要宣传连众志;乐事赏心逢场作戏何仿歌舞慰群情。”看见县长题写的戏园联,一些剧团冒险在这里继续演出,演出的剧目有《参军与送粮》《战斗凯歌》《夜攻碉堡打伪军》等,吸引定城周边的群众来观看,成为传颂定安的一段佳话。定安县雷鸣镇老教师邓之钦老人还记得,日寇侵琼后,他的父亲邓家鹏结合本地题材,创作了《抗日救国》和《千里缘》两部富有乡土特色的抗战琼剧,在乡里广为流传吟唱,激励民众抗日。

★编演的戏词如刀如枪
  当年抗战剧团自编自演小剧目的特点大都内容简单,针对性强,唱词通俗易懂,字字句句冒着火药味,像刀像枪刺向敌人。
  澄迈瑞溪的壮丁班,看到日本鬼子听不懂海南话,有一次演出时在传统琼剧《林攀桂》中编入这样一段唱词:“日本鬼子弯脚筒,见鸡捉鸡见鸭捉鸭,见着男子开枪打,见着妇女笑哈哈。鬼子野蛮坏透顶,侵我国土杀同胞,抢我财物烧我房,苍天不杀我来杀,誓把鬼子出境外。”这一唱使全场观众的神经都绷紧了,鬼子也不知台上在唱什么。后来,有走狗汉奸泄露壮丁班的情况,鬼子震怒,发誓要扑灭壮丁班,但壮丁班不畏豺狼,与敌人巧周旋,继续进行文艺宣传活动。
  据曾令蕃《瑞溪抗日壮丁班与南强剧团》一文记载:“瑞溪墟的王才安等61名热血青年成立的壮丁班,自编自排琼剧节目,他们挑着箱笼(道具箱),走村串乡,条件极其艰苦。在瑞溪墟演出一场,每个牛、猪摊点捐些“水钱”;到农村演出,只能得到一些大米、糖条、蔬菜之类酬劳。他们编演琼剧《铁胆战倭奴》,描写强敌压境,中华民族全民皆兵,团结战斗,终于走日本侵略者。剧情具有积极的宣传鼓舞作用,强人民群众和壮丁班抗日到底的信心。此剧在澄迈及周边县墟演出,引起广大群众强烈响应,激发大批热血青年投身革命打击侵略者。
  抗战年代剧团戏班热演剧目当推《大义灭亲》,此剧描写爱国青年郑民威救起落水的梅丽兰,两人盟誓结为伴侣。梅丽兰之叔父梅国鲁乃财政总长,他接受日本公使二百万元的贿赂,以我国矿务权为抵押,向日本借款,出卖祖国主权。此事被郑民威发现并揭发,立即组织除奸行动。郑民威将梅国鲁刺死后被捕,由梅丽兰审讯入狱。事后,梅丽兰在卷宗内发现叔父有卖国罪行,立即将实情上报,救郑民威出狱,有情人终成眷属。剧情立场鲜明,爱憎分明,剧中郑民威与梅丽兰的一段对骂唱词,句句充满火药味:“梅唱:杀死我叔冤仇重,安能与你共世间;郑唱:愿作爱情的无良,不作国家的汉奸;梅唱:我丽兰,杀叔凶手定法办;郑唱:卖国害民定欠斩……梅唱:我丽兰,代叔爹还你一弹;郑唱:代国家受你一枪”。

★海外戏班积极响应义演抗战
  日寇侵琼以后,许多琼剧艺人被迫下南洋,土戏的活动重心转到了东南亚各国。据新加坡资深报人王振春《梨园话当年》记载:“许多琼剧著名演员为了逃避战火,纷纷南来……南洋一带的华侨团体,一时风起云涌,支持抗战。”宣传抗战,也成了东南亚土戏班的主要活动内容。
  最活跃的是星州的南星琼剧团,团长翁君丁,副团长王光州,演员有莫筱琴、符美双、陈玉花、龙兴京等一群热血沸腾的爱国青年,他们演出的剧目如《还我河山》《卢州两妇人》《鸭绿江上》等,都与抗日有关,旨在鼓舞华侨的爱国爱乡热情。
  南星琼剧团团址在密驼路瑞记饭店的楼上,时逢琼州会馆发动华侨筹捐抗日基金,剧团决定义演刚排好的《还我河山》支持筹捐活动。消息传出,当地华侨纷纷掏钱购票,以实际行动支援国内抗日战争。
  《还我河山》剧情悲壮,催人泪下,演员表演认真投入,悲愤激昂之处,剧场里往往传出“打倒日寇!还我河山!”“曲脚隶(日本鬼子)滚出中国去!”的口号。这可惊动了“马打寮”(警察局),派出“马打”(警察)到剧场巡视,以防不测。不久,下令禁演《还我河山》。剧团以“迷惑阵”应对,贴出戏牌是别的剧目,演出却是《还我河山》。后来,“马打”干脆封住剧场,不让剧团演出。当时,幸好得到俄国马戏团的帮助,剧团才得在美芝路公园继续义演,演出所得扣除伙食费外,其余全部捐给琼州会馆抗日基金会。据艺员龙兴京生前忆述:“南星琼剧团演了两年,殖民政府怕得罪日本,下令将部分艺员驱逐出境,剧团也被拆散了。”
  1942年7月,在新加坡演戏抗日的著名小生李积锦、武旦新洲妹、花旦燕丽屏及丈夫,晚餐时被日本飞机空袭炸死,此事引起新加坡的琼籍华侨和琼剧艺人的公愤,连日集会游行示威,声讨日军的罪恶行径。9月,日军在新加坡的小坡区围捕琼剧艺人,积极宣传抗日的艺人金狗仔、新十五仔等十一人当场被杀害。琼剧艺人生命岌岌可危,部分艺人只好逃到马来西亚继续演戏抗战。
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「日本侵略者对海南岛的文化渗透」

2016年01月23日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-08/10/node_19.htm
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-08/10/content_20_1.htm
http://www.hinews.cn/news/system/2015/08/10/017750777.shtml
『海南日报』 2015年8月10日  文╲本刊特约撰稿 金山
■日本侵略者对海南岛的文化渗透
   专题:孤岛抗战 琼崖壮歌——南海网纪念抗战胜利70周年专题报道
     【图】《画报跃进之日本》刊登日本军队侵占海南时在三亚成立治安维持会
       时的图片。 海南日报记者 李英挺 翻拍
     【图】一九三九年二月十五日日军创办的《海南迅报》发行
     【图】日军当年侵略海南后使用的关于海南的明信片。 海南日报记者 张杰 翻拍
     【图】日军开办的崖城日语学校师生(资料图片)

  在日本侵华史的研究中,侵琼史研究是一个相对薄弱的领域,本文以占领期日本侵略者对海南的文化渗透为研究对象,揭示日军对海南民众实施文化渗透,妄图将岛民教化为天皇治下顺民的侵略本质。

  要摧毁一个民族的反抗力,就要摧毁这个民族的文化和意志。日本对海南岛的侵略,既注重以军事手段强占掠夺,也十分重视从思想、政治、经济、教育等方面对中国民众进行思想控制和文化渗透。为此,日军专门设立了文化统治机构,通过强化殖民教育、管控大众传媒,消减民众的抗日意识,传播“大东亚共荣”的理念,通过日语教育向岛民灌输日本文化,妄图将他们教化为天皇治下的顺民和开发海南岛的重要劳动力,为永久占领海南岛奠定文化基础。

★建立文化统治机构
 入侵前制定方案,“对海南岛以‘皇民化’为宗旨,争取在十年之内,达到与台湾同等程度的统治水平”
  日本侵略海南岛前的有关海南岛政策的制定,主要由台湾总督府负责。1937年7月侵华战争全面爆发后,日军相继占领了华中、华南等地的战略要塞。之后,日军计划“南进”,妄想在“赤道以北东经90°至180°之间”的广大地域内,建立以它为霸主的“东亚新秩序”——大东亚帝国。1938年4月,台湾总督府在台北设立海军武官府,具体负责“南进”政策的策划和立案。海南岛因其地理位置而在南进方案中占据了重要位置。海军武官府成立后不久,便着手制定侵略海南方案,并于1938年9月出台了《海南岛处理方针》、《南方海外殖民统治组织扩充强化方案》等一系列文件。其中,《海南岛处理方针》的纲领部分,明确指出“鉴于海南岛在军事上、经济上的重要性及其地理上和社会上的特殊性,对该岛的处置,应与我所占领的其他地域有所不同。主要着眼于确立对其进行全面统治的实际权力,扩充帝国对海外殖民地的统治精神。”即把海南作为有别于日本占领的其他地区的特殊区域进行经营与统治。对海南岛民则以“皇民化”为宗旨,争取在十年之内,达到与台湾“同等程度的统治水平”。为此,该方针指出在对海南岛实施军事管制期间,应在军队的指挥下“派遣民政事务处理机关,掌握、处理一般民政事项”。即除军事手段外,还须使用民事手段,对海南岛实施文治。而文治的主要任务之一便是对岛民进行文化渗透,将他们变成天皇治下的顺民。
  1939年2月10日,日军侵占海南岛。尽管日本方面多次声明,占领海南岛“第一是为阻断以海南岛为中转基地向重庆运输军需物资,第二是开发本岛物资以弥补日军军需之不足,而绝无领土野心。”。然而,从其占领政策来看,这一点并不成立。侵琼日军在攻占海南岛的当天便给日本陆军省发去了名为《关于海南岛的政务处理》的密件,指出要“把海南岛作为经济上或者发展中国南方的基地永久占领”。为了实现对海南岛的长期占领与统治,日军在占领海南岛后迅速组建了由海军省、陆军省和外务省在海南派出机构联合组成的三省联络会议,作为海南岛的最高统治机构。从目前可以入手的资料看,该机构制定的首个关于海南统治政策的文件为占领6天后,即2月16日发布的《海南岛占领下的政务处理纲要案》。该纲要案明确规定,日军在海南岛的基本占领方针为将海南岛变成日本在“在政治、军事、经济方面享有特殊权益的地区”。这一点显然是沿袭了前述台湾总督府制定的《海南岛处理方针》中关于海南岛的定位。而要实现该目的,获得岛民配合无疑是十分重要的。为此,纲要案指出,当前应努力促使岛民协助日军“作战及维持治安”。为实现该目标,纲要案指出在政务处理方面对海南岛“不实行特殊的军政统治”,而是交由“支那方面自治”。而所谓的“支那方面自治”,其实并不是真正意义上的海南人自治,而是通过建立受日军控制并能主动协助日军的伪政权,来实现对海南岛的统治,说到底还是日军惯用的“以华治华”政策的延续。受益于曾长期居住于海南岛,在海南岛拥有丰富人脉的胜间田家族的积极协助,日军在侵略海南岛的当月,便在海口、琼山两座主要城市建起了“治安维持会”,协助日军管理岛民,维持社会治安。
  3月1日三省联络会议发布《海南岛政策纲要》,在重申“尊重住民自治”之余,还特殊强调要努力制造海南岛民“欢迎帝国指导”的假象,将海南岛建成“日支人民共存共荣的典范”。为实现该目标,3月16日三省联络会议又出台了《海南岛占领下的政务处理纲要》,明确提出要促进“日本文化的渗透”,努力“普及日语教育”。
  1939年7月17日,傀儡政权“琼崖临时政府”成立。虽然该政府主席由海南人赵士桓担任,但出任政府最高顾问的则是在侵略海南战役中担任指挥的日本海军第五舰队的情报部部长。海南岛的实际统治权仍在日军手里。据文献记载,日本第五舰队内设的“情报部”,在日军占领海南后主要负责“与海南岛有关的特种任务、各种调查、情报汇集,及其他与海军有关的重要事务。”1939年11月15日该“情报部”改称“海南岛海军特务部”,隶属于新设的“海南岛根据地部”(海南海军警备府的前身)。1942年5月25日依据“海南海军特务部令”,“海南岛海军特务部”更名为“海南海军特务部”,下设官房、政务局、经济局、卫生局等多个部门,扩大成为“可以与台湾总督府相匹敌的军政机关”。其中政务局第三课负责管理“教育、祠堂、寺庙及社会事业”,是日军对海南岛实施文化渗透的直接领导机构。值得注意的是,出任海南海军特务部首任总监的池田清并非海军军人,而是一位曾出任大阪府知事、警视厅总监等重要职务的文官。这一点显然与特务部主要负责对海南岛实行民治,承担着教化岛民使之“皇民化”,以及对海南岛实施文化渗透的职责相一致。

★强化殖民教育
 在全岛强行推进日语教育,欲最终把日语“发展成东亚的共同语”
  日本对海南岛进行文化渗透的主要手段是强化殖民教育。在占领海南岛后,日军在较短时间内建立起了一套从幼儿园到师范学校的完整的学校教育体系以及以公务员、警察等为对象的成人教育体系。
  目前,国内学术界对于日军在中国所实施的教育性质多有争论。从学者们的表述上看,有“殖民教育”、“皇民化教育”、“同化教育”、“奴化教育”、“侵华教育”等多种概念。笔者以为,所谓的殖民教育应是殖民者基于殖民利益所实施的教育,只要教育的实施主体为殖民者,性质是为殖民利益服务,均应称为殖民教育。日军侵占海南期间,既有向岛内移民,亦有建立经济、军事设施,为不折不扣的殖民者,其基于殖民利益所实施的教育毫无疑问应属殖民教育范畴。

  1、学校教育
  在占领海南岛后,日军便着手制定措施恢复因日军侵略而遭受破坏的中小学校。1939年9月26日三省联络会议发布《中学设置规划纲要》指出,复兴中学教育应“作为建设东亚共荣圈的一环”,是出于“文化开发”及“安抚民心”之需要。而要使岛民“了解大日本帝国之实力,并衷心配合军事、经济建设事业,须使普通岛民通晓日语,由此理解东亚共荣之理想,并掌握相关的工作技能,提高劳动生产力”。为了培养开发海南资源所需的劳动力,纲要提出要在海南岛建设一所以职业技能培养为目标的“实科中学”,培养学生“以东亚共荣为理念的道意识”,“传授岛民所必须的知识与技能”,“通过培养学生的劳动习惯、强化身体锻炼,达到培养国民之中坚者的目的。”此处的“国民”,毫无疑问应指“大日本帝国”的国民。
  1941年9月27日三省联络会议又发布了《关于海南岛小学教育的暂行处理方案》。方案指出,海南岛初等教育之重点在于“教育、教化岛民,使其协助建设东亚共荣圈工作,发自内心地配合帝国所期望的军事及经济建设工作”,教导岛民要“仰尊帝国为东亚盟主,在帝国的领导下使东亚成为真正的东亚人之东亚,为把本岛建设成为人民可以安居、百姓能够乐业的乐土,努力培养锻炼岛民认真、顺从的精神以及强健的体魄”。可见,日军实施殖民教育之目标,是将岛民教化成为天皇治下的顺民和开发掠夺海南资源的重要力量。
  从内容上看,日据时期的海南殖民教育以思想教育、日语教育和勤劳教育为主。其中,勤劳教育是出于海南岛高素质劳动力不足的现实需求而进行的培养学生劳动能力的教育。思想教育则是通过“新东亚道”、“修身”等课程对岛民进行皇民化教育,向学生灌输大东亚共荣的理念,“启发、培养”孩子们对天皇和侵琼日军的“虔诚、感恩之心”,是对海南岛实施文化渗透的重要手段。日语教育则是日军实施文化渗透政策的重中之重。众所周知,语言既是表达思想、进行交际的工具,其本身也是文化的重要组成部分。正因为如此,日语的推广和普及就成了日本侵略者对海南岛实施文化渗透的最为重要的策略。三省联络会议在前述《关于海南岛小学教育的暂行处理方案》中明确提出要让岛民“尽早掌握日语”, 通过日语“了解日本、日本人以及日本文化”,进而“领会东亚共荣之理念”,最终把日语“发展成为东亚的共同语,以实现东亚人的精神统一”。为了实现这一目标,日本占领军在日语教育方面可谓费尽心机。
  1941年7月,日军在海口市设立了第一所“日语幼儿园”,之后又在三亚等地开设了多所日语幼儿园。据曾在三亚崖城的日语幼儿园就读的卢姓老人(现年77岁)回忆,他是在1943年,即5岁时进入位于日军崖城军营中的日语幼儿园就读的。建园之初,当地群众都不愿送孩子入园。为此,日军采取了强迫加利诱的办法,一方面给家长施加压力,命令家长必须送孩子来幼儿园,另一方面,免除园童的入园费和学费,并向孩子们发放糖果、饼干等食品,吸引园童入园。据老人介绍,幼儿园主要教授日语,当时孩子们在幼儿园里讲海南话是要受到日本教师惩罚的。

  在小学教育方面,当时海南岛有两种小学,一种是既有小学,即日军占领前已有的小学,其二是新建小学,即日军占领后新设的日语小学。为了强化日语教育,日军规定所有的既有学校必须配一名日本人教师担任副校长,负责日语教学工作;新建的日语学校则必须配备日本人校长。按照日军要求,当时的小学主要开设日语、修身、数理、体育、艺术、劳动等必修课程,其中日语课的学时数最多,为每周6学时。为了规范日语教育,三省联络会议还专门制定了《发行教科书的相关规定》(1942年7月16),提出了一个争取在六年内编纂发行全12册《日本语读本》以及与之配套的全套挂图的计划。

  在中学教育方面,三省联络会议也规定所有中学都必须配备日本人教师,必须设日语课为正式的教学科目,要求所有学生都必须学习日语。
  为了解决劳动力严重不足的问题,日本占领军还在岛内开设了两所职业学校,分别是加积农学校和那大农学校。加积农学校成立于1943年10月11日,那大农学校成立于1944年9月25日。前者在籍学生数为100人,后者为50人。据曾在加积农学校就读的老人回忆,该校的所有教师都是日本人(包括来自台湾和朝鲜的教师),所有课程均用日语授课。

  2、成人教育
  第一,师资教育
  由于在短时间内兴建了众多的学校,使得岛内原本十分匮乏的教师资源更加捉襟见肘。笔者曾采访过当时在中小学校就读或工作的14位老人,据他们回忆当时在中小学校担任日语教师的大多是日军中的文化程度较高者,而并非科班出身的教师。为了解决这一问题,1942年4月日军在海口市创办了海南师范学校。该校主要招收来自日本国内或台湾、朝鲜等殖民地区的学生,进行六个月的培训后分配到岛内各地做教师。除此之外,该校还承担了中国人教师的再教育任务。从中国人教师的教育内容看,日语课所占时间最多,为每周12节。培训的主要目的是让中国人教师能够“顺应东亚之新形势”,成为“能够自觉意识到新海南岛之使命的指导者”,换言之是要把他们培养成为对海南实施文化渗透的指导者,从文化上进行殖民。

  第二,公务员教育
  日军在海南岛采取的是“支那人自治”,即“以华治华”的统治政策。三省联络会议于1942年7月16日专门出台“海南岛人公务员训练纲要”,要求对琼崖临时政府、市县政府及地方治安维持会的骨干进行培训,目的在于使受训者“认清当前时局,培养其积极配合我方之精神”。为此,日军专门在海口设立了“公务员训练所”,所长由海南海军特务部政务局长亲自担任,“主事”、“教官”、“助教”等也都由特务部官员担任或兼任。训练内容包括“实施大东亚民族共荣的思想观念教育,以及公务员所需知识及实际技能的训练”,其中日语课被排在了首要位置。

  第三,警察教育
  1941年11月8日,三省联络会议出台《海南籍警察训练纲要》,决定成立“警察训练所”,培养“为我方所用的海南籍优秀警察人员”。纲要指出,“警察训练所应进行以皇道为基础的东亚民族共荣的思想观念教育,传授警察所必需的知识,实施实际技能训练”。训练所的所长亦由特务部政务局长担任;顾问由陆军警备司令官或由其指定的军官担任;其他职位也都由特务部官员或日军军官担任。训练所内设本科及特别训练科。本科负责培训一般警察,特别训练科负责培训高等、思想、刑事、情报等部门的专属警察。本科开设的教学科目有日语、刑法、违警罚法、警察行政、一般卫生、犯罪搜查、情报收集、户口调查、保甲制度、工作职务、礼仪、检查、军事训练等;特别训练科的教学科目则须经教务会议审议后,由警察训练所所长亲自制定。

  第四,黎族教育
  黎族是海南岛的世居民族,他们虽然人数不多,但居住地区却涵盖海南岛的广大中部山区。日军侵占海南岛后制定了实施民族离间政策,将黎区建设成为对抗我抗日游击力量的缓冲地带的统治政策。1942年7月16日,三省联络会议专门出台了《黎人训练纲要》,提出要在海南海军特务部的指导下对“将来在我方黎族地区从事警察工作,以及执行推动其他各项政策之人才”进行培训。受训者的选拔标准为年龄在十四岁以上二十岁以下,出身于黎族的名门望族,将来有望成为部族的中心人物,且身体强健者。培训内容包括培养受训者“绝对依附于我方的思想意识、普及卫生观念、培训黎峒自卫所需要的技能等”。培训科目包括训育、日语、卫生、礼仪、点检、教练、自卫警察、农业实习等。其中对黎族青年的思想教育(训育)和日语教育被排在了前两位,其对黎族青年实施文化渗透的企图不言自明。

★管控大众传媒
 日军登陆之后即组建报社“教导岛民”,侵略野心昭然若揭
  日军对海南岛实施文化渗透的另一重要手段是通过对大众传媒的管制和利用,影响海南民众的思维方式、行为方式和政治观念,以把海南民众变成天皇制下的顺民和开发掠夺海南岛资源的重要力量。
  日军一向重视对殖民地人民的“宣抚工作”。在日本侵略海南之前,台湾总督府制定的《海南岛处理方针》中便已制定了加强“绥靖与宣抚”,“纠正岛内排日思想”,在岛内“配布《香港日报》《全闽新日报》等报纸,同时利用海口的《琼崖民国日报》及《琼崖新民日报》之设施,刊行新闻,向岛内及南洋各地配布”的具体政策。
  抗日战争爆发后,海南岛内的抗日情绪十分高涨。以海南书局为代表的传媒机构积极宣传抗日思想,出版了大量的抗日书籍。日军侵略海南岛可谓冒天下之大不韪,在国内外引起了很大反响,也遇到了以共产党为代表的岛内抗日力量的激烈抵抗。为了减轻国际舆论的压力,缓解海南民众的抵抗情绪,日军专门组建了“报道部”。报道部主要负责“宣抚”工作,目的是使海南民众“理解”占领政策,安定岛民人心,制造军民和谐的假象。据报道部成员,随登岛军舰同期抵达海南岛的日本著名军旅作家火野苇平记录,报道部在驶往海南岛的军舰上便开始了工作,每天编写“阵中新闻”,鼓舞士兵士气,以便对海南岛进行长久的占领。
  1939年2月12日,在占领海口的第三天,日军便开始了宣抚工作。火野苇平在《海南岛记》中记载:军乐队正在海口街道上行进,报道部的卡车疾驰而来,我们坐在车上,到处散发传单,并在市内各地张贴标语。我们还雇用人力车,车上堆积着传单,向博爱路出发”,“电线杆上、墙壁上、街道角落等处贴满了各式各样的告示和传单”。告示和传单的内容主要是为日军侵占海南岛寻找借口,宣传占领政策,其中一则布告如下:
  “日华事变发生以来半年,於兹忠勇果敢的帝国陆海空军将兵,无不百战百胜,去年攻略广州及武汉三镇,已完全掌握全中国之要城。
  ………………
  我作战军队此次在海南岛大举登陆,而陆海空军紧密联系之下,完全控制全岛,于日本海军完全占有势力之西太平洋上,现在孤立命运之海南岛,应倚赖日本之外无别途。
  我军按照帝国政府屡次声明,不敢敌视中国民众,所以无辜岛民宜安心就业。纵然属于正规军或保安队,若能悔悟其非,抛弃枪支,随我做协力者,一律应当保证其生命财产。倘若有向我军抵抗加害者,或与敌军通款者,无论何人,决不宽恕。
  日本军队对岛民所要求者,就在使岛民从速觉悟过去错误,抛弃抗日容共之偏见,信赖正义之日军,而建设反共亲日之乐土。特此布告。”

  由布告内容可知,日军通过发布传单等手段安抚岛民,企图使岛民放弃抵抗,做日军治下的顺民。
  为了宣传日军的统治政策,日军加强了对新闻媒体的管制。由于地理上孤悬海外,政治上远离政治中心,日军侵占之前的海南大众传媒业并不发达。当时海南岛内最为著名的传媒机构,应为王梦云、唐品三等人创办的海南书局。该书局虽因日军侵略海南而被迫关门,持续时间较短,然而由其整理出版的《海南丛书》、《琼州府志》等书籍,至今仍是研究海南历史的重要文献。同时期的海口,仅有《琼崖民国日报》和《琼崖新民日报》两种报纸,合计日发行量仅为1300份。此外,在文昌、乐会等地还有《文昌周报》《乐会半月刊》等小型发行物。
  2月10日,日军在占据海口的当天,便由报道部强征海南书局的房屋和设备,着手组建新的报社。2月13日《海南迅报》社正式成立,15日发行第一张报纸。从火野苇平《海南岛记》的插图看,《海南迅报》的发刊号刊有《发刊之辞》、《日本海军登陆于南方地区》的报道,以及《海口市治安维持会准备委员会布告》等内容。由于字迹模糊不清,《发刊之辞》的具体内容无法详知,但从隐约可辨的“在友邦日本指导之下”等内容可以推测,其目的应以教导岛民服从日军的领导、做日军统治下的顺民为主,即为对海南岛民实施文化渗透服务,侵略野心昭然若揭。
  《海南迅报》社由日军直接指挥。后来,日本人又设立了《海南新闻》报。然而,由于这些报纸并不受岛民欢迎,发行量较小,因此两家报社始终未能做到收支平衡。为此,三省联络会议不得不予以补贴。对于报纸内容,日本占领军也采取了严格的审查制度。从具体分工看,“陆海军分别负责审查、监督与自身相关的军事内容”,而三省联络会议则“负责审查、监督一般性内容”。
  除此之外,日军还曾发行过多张渲染日军与海南民众和谐相处的明信片,来美化侵略,粉饰太平。应日军要求,台湾共荣会还派遣电影技术员到海南岛巡回放映电影,宣抚岛民、慰劳日军。1941年4月1日,共荣会还在海口市设立了支部,经营影院。
  为了管控大众传媒,防止不利于日本侵略的邮件流出或流入岛内,日军还专门发布文件,要求对所有进出岛邮件进行严格检查。当时日军官兵及日本公司的开发人员邮寄日本的照片和明信片的背面,都加盖有日军的检阅章。

    (参考文献略)
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「烽火中的文艺宣传队」

2016年01月22日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-08/10/content_16_1.htm
http://www.hinews.cn/news/system/2015/08/10/017750711.shtml
『海南日报』2015年8月10日 文:海南日报记者 杜颖 实习生 文韬梦黛
■烽火中的文艺宣传队
   海南文化抗战:文艺团队成为抗战中宝贵的精神食粮  
   专题:孤岛抗战 琼崖壮歌——南海网纪念抗战胜利70周年专题报道

     【图】文工团员的苗舞造型。
     【图】文工团员打起背包,手提锣鼓,下连去!
     【图】文工团员在黎舞演出后留影。 (本版图片由周虹提供 海南日报记者张杰翻拍)

  中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年之际,回顾抗战历程,如果说琼崖纵队是海南抗战胜利的引航者,那么活跃在烽火线上的一支支文艺团队便是抗战中宝贵的精神食粮。琼崖抗战中的歌曲、舞蹈、戏剧等等多样的文艺形式,以光芒映照出风雨时期的时代影像。一身戎装,烽火歌舞,也正是那一特殊时期敌后文艺工作者们的真实写照。

  70年光阴倏然闪过,抗战文工团队在琼岛所播撒下的文艺火种,犹如历史长河中那依然闪烁着的最为动情澎湃的浪花。
  正如琼纵文工团老战士王昆所说:“在那战火纷飞的年代里,海南岛那一支活跃在火线上的文艺宣传队,就像南海上矫健的海燕,穿波掠浪,展翅翱翔。”
  进入抗日战争时期的琼崖,涌现出了一支支特殊的文艺群体,这些群体在漫长而艰苦的年代或用歌喉高唱信仰,用舞姿表达战斗激情,于硝烟弥漫的烽火之中以红妆掩着武装,让抗战文艺的旗帜猎猎飘扬。

★“只要人民需要,到处都是我们的演出阵地”
  1939年日军侵琼后,琼崖特委明确指出,发动群众抗日救国,动员青年参军参战,开展敌后游击战争,创建抗日根据地,文艺宣传工作必须要紧紧跟上。
  其实,早在1937年“七七”抗日战争爆发后,中共琼崖特委书记冯白驹就在琼山县演丰老区,发动当地青年成立了业余剧团,在演丰乡一带农村演出琼剧、话剧进行抗日宣传。
  据1990年代出版的琼纵政治部文艺团队活动摘要显示:1938年12月,琼崖红军改编为琼崖独立大队,在琼山云龙誓师抗日。1939年2月日寇侵占琼崖,部队正式扩编成立琼崖独立总队,在总队机关、连队成立业余剧团,活动在咸来、树等一带乡村。1940年春,琼崖独立总队在澄迈县美合地区建立抗日根据地,总队新成立了一个青年剧团,在美合周围的南坤、仁兴、岭仑、美厚等一代农村和小墟集搞抗日宣传演出,《大义灭亲》、《爱河潮》、《参军和送粮》、《战斗凯歌》等一批剧目,激发了军民抗日救国的昂扬热情。
  琼纵历届领导人都非常重视革命文艺宣传,如冯白驹、王业熹、何毅等人都亲自参加过编写剧本。只要战争形势需要,不限形式,不限场地,就组织文艺队伍,在连队、机关,甚至是夜的草地、危险的战场,开展文艺活动,鼓舞士气。
  对于这一点,琼纵文工团老战士王昆感触至深,他撰文回忆道:那时,我们歌剧团的演出是不受时间、场地、服装、道具、灯光等条件限制的。在驻地,我们演;行军中途休息时,我们也演。而且,不管有多少观众,我们都演,有时甚至专门为一个观众表演。有一次,我们跟随林茂松带领的二支队二大队到潭文、旧州附近的村庄去宣传。到了目的地,水也顾不得喝一口,就在村边一棵大树下开始演出。那时,我们的演出根本不用贴海报,只要我们的张老(张华润同志)那动听的洞箫一吹,人们就会闻声而至。
  文艺工作者的生活和战场上的战士们同样艰苦。1942年1月,“大水战斗”打响,枪声剧烈,战斗激烈。琼纵政治部歌剧团临危受命,挑选了男女团员随部队进入前沿阵地,同指导员一起唱歌鼓舞士气,同时照看伤员。经过五天四夜的激战,歌剧团同志们撤出战场后紧接着被派往医院,代表政治部慰问伤员演出,真可谓哪里有需要,哪里就有文艺兵。
  王昆也曾记得,为了激发军民抗日救国的热情,1942年10月的一个晚上,歌剧团在东湖村演出,2000多名群众一起观看话剧《竹浪桥大捷》,当时舞台特别简陋,照明就只能用台前左右两旁吊着的两盏汽灯。演到一半时,戏台不远处突然传来巨大的炮弹爆炸声。
  原来,暗中,汽灯吸引了日军注意。王昆的特长是耍竹板,情急之下他急中生智,脱掉了上衣,把汽灯灯光罩住,让军民和演出人员在敌人的炮击中有秩序疏散,这才避免了伤亡。文艺工作之艰险,革命工作之艰难可见一斑。然而,在当时,文艺工作者们的内心想法几乎趋于一致:“只要群众想看,只要群众愿意看,哪里都是我们的演出阵地!”

★台上从艺,台下战斗
  战争时期的部队文工团,大部分时间是行军打仗,有时会受到敌人伏击,有时要深夜急行军。王昆撰文回忆,部队行军时,每当我看见有人掉队了,便打起竹板唱:“同志哥,听我唱,前边战斗已打响,后边战士路忙……莫学狗熊慢慢走,评功会上羞死人,谁是英雄谁好汉,行军打仗见端详。”唱完,还大声鼓劲:“同志哥喂!快跟上去吧!慢了打仗就没你的份啦!”说也奇怪,掉队的战士也不知从哪儿来了一股劲儿,竟跑步跟上了队伍。
  与其他普通战士所不同,在利用部队休息的空隙或者部队休整的时间里,文艺兵们还要想法设法挤出时间搞文艺创作,排练节目。
  今天的一些年轻人误以为战争年代的文艺兵不需要参加战斗,就是唱唱歌、跳跳舞,摸不到真刀碰不了真枪。然而事实上,战争中的文工团战士们,个个都撑得起红妆,也配得上戎装。他们在台上搞文艺,在台下就是普通的战士、军人,甚至更多时候,他们还要为战争中的文艺宣传献出生命。
  1942年冬,琼崖政治部歌剧团成员分散到各地,根据战斗形势的变化暂时停止演出,跟随各自所在部队战斗。时过不久,便传来了很多战友牺牲的消息。在日寇的扫荡中,那位在部队中被很多人熟悉和喜爱的演员邢丽霞在琼山树乡突围时被擒,她英勇不屈而惨遭杀害,战士们再也听不到她那动人的《送郎参军》。
  演员张运斌曾在第二支队第一大队当文化教员,在一次日寇包围时,他带一个班阻击日寇掩护大队突围,部队最终胜利突围,可张运斌和全班战友在阻击敌人的战斗中壮烈牺牲。
  演员符国京在第一支队第三大队当连队党支书,在一次伏击日寇,带领部队追击残敌战斗中受重伤,在澄迈县四区的花场村附近山林中养伤,然而,日寇搜山之时,他的腿实在没有办法走动,敌人发现了他要活捉他,他决然地拉响了手榴弹与敌人同归于尽!
  青年剧团团员冯裕湖是琼山县人,美合事变后分配在美合留守医院工作,在一次出发筹粮途中遭伏击牺牲。
  演员符月光、林秀娟、周学典等人也分别在文昌、琼东等战斗中英勇牺牲。在文昌县第六区部队医务所的符秀英、祝新、祝娟、从文昌县迁回琼山县,在咸来乡覃冠山,被扫荡队发觉残忍杀害杀死。
  ………………
  抗日战争时期,有数不清多少文艺战士先后英勇牺牲在了这片洒满热忱的土地之上,他们把鲜血、青春,乃至生命,都献给了琼崖抗战事业!

★传递文艺热忱,群众文艺团体广泛参与
  1942年,毛泽东同志在延安文艺座谈会上的讲话指明了抗战文艺方向、为谁服务、创作源泉等一系列问题,指导了全国剧运的发展。很多地方部队在抗日根据地办起了艺术干部学校,还有不少专业剧团帮助地方办起了各种规模的乡艺训练班,组织了许多儿童剧团和妇女剧团。而在海南,除部队文工团之外,还有活跃在战场上的琼籍华侨文艺宣传队。
  海外琼籍华侨素有爱国爱乡的优良传统,抗日战争爆发后,各阶层琼侨广泛参加抗日救亡运动,捐款捐物支援祖国抗战,救济受难同胞。随着祖国抗战形势的发展,为了从人力上支援家乡的抗日斗争,海外琼侨抗日救国组织,还发动琼侨爱国青年返国参战。先后组织了香港团、星洲团、越南团和暹罗队,共240多人。他们肩负广大琼侨的重托,冲破日本侵略者的海上封锁,回到战火纷飞的家乡,同全岛抗日军民并肩战斗。琼崖华侨回乡服务团团长符思之曾回忆:“在琼侨服务团中,宣传队就是其中一支有力的队伍。”
  宣传队里还分成了歌咏队、口琴队等,战争时期频繁到部队驻地慰问。符思之在回忆文章中写,演唱抗日歌曲《流亡三部曲》、《八百壮士》、《游击队之歌》等等,演唱完就开始宣传抗日形势和抗日必胜的道理。离开部队时,总有官兵送行,大有恋恋不舍之意。
  抗日战争胜利后,以抗战风云岁月为背景的相关琼崖文艺作品不断涌现,绽放着新的生命力。
  每当看到《打盅盘》舞(也叫“八音舞”),人们便会忆起当年的琼纵文工团;每当看到歌剧影片《五朵红云》,人们便会深情感触到当年文工团战士们那有力的脉搏似乎仍在搏动……
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