三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「現地調査」・聞きとりの意味と方法 4(最終回)

2006年11月26日 | 紀州鉱山
 おわりに

 日帝の侵略によって被害を受けた方がたから証言を聞かせていただくというのは、朝鮮人にとって、日本人にとって、どういうことなのか。わたしたちは、しばしばこの問題を討論してきた。
 
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究』第27号(アジア問題研究所、1997年9月)に、「紀州鉱山への朝鮮人強制連行」という論文を発表したが、わたしたちは、その副題を「なぜ事実を解明するのか、事実を解明してどうするのか」、とした。

 この問いに、わたしたちは、いまでも答えきれていないが、今後も会員一人ひとりが自分の日常生活のありかたを点検しつつ民衆運動を深めていく過程でより答えに接近していきたいと考えている。
 
 朝鮮にたいする日帝の侵略犯罪を明らかにすることは、日本での調査・研究だけでは十分にできない。
 韓国での共同調査によって、日帝の侵略犯罪をより明らかにすることができる。

 歴史は“清算”することはできない。日本がかつての近代の侵略史を総括せず、反省せず、さらなる侵略国家となっていく時代に、韓国に住む民衆と日本に住む民衆の共同作業の質と力は、さまざまな分野で、さらに深められなければならない。  
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、この文書を公表するのは、そのためである。


付記1

 わたしたちは、共同で調査をした仲間に、その報告書を渡すのは当然であるし、その前後の経過も共有するのは当然と考えている。わたしたちは、これまでは、共同作業者として、鄭惠瓊氏にも、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会のおおくの文書、および「紀州鉱山1946年報告書」コピーなどを、直接手渡してきている。
 そのうち、韓国での「現地調査」報告に関するものは、次のとおりである。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『現地調査資料集』Ⅱ、1996年11月。

 佐藤正人「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたずねて  支払われなかった退職手当」、『パトローネ』28号、写真の会パトローネ、1997年1月。

 佐藤正人「麟蹄で」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』25号、1997年3月。

 金靜美「旌善で」、『会報』25号。

 竹内康人「紀州鉱山への朝鮮人強制連行状況」、『会報』25号。

 斎藤日出治「発足 紀州鉱山の真実を明らかにする会 紀州鉱山の強制連行の実態を調査!」、『パトローネ』29号、1997年4月。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するのか、事実を解明してどうするのか――」、在日朝鮮人運動史研究会編『在日朝鮮人史研究』第27号、アジア問題研究所、1997年9月。

 金靜美「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させられた地域を結ぶ民衆のきずなを!」『パトローネ』31号、1997年10月。

 崔文子「私の聞きとり体験――紀州鉱山に連行された人々の聞き取り調査に参加して」、『会報』26号、1997年10月。

 佐藤正人「麟蹄と平昌で」、『会報』26号。

 斎藤日出治「江原道平昌を訪れて」、『会報』26号

 斎藤日出治「木本トンネルと紀州鉱山――日本の地域史における国家と企業の役割について」、『大阪産業大学論叢 社会科学編』108号、1998年2月。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の故郷安東・軍威と紀和町で」、『パトローネ』35号、1998年10月。

 金智媛「韓国でのこと」、『会報』28号、1998年10月。

 金思媛「紀州鉱山」、『会報』28号。

 斎藤日出治・金靜美「慶尚北道安東郡・軍威郡の聞き取り調査報告」、『会報』28号。

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会編刊『紀伊半島・海南島の朝鮮人――木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」――』2002年11月。

 また、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会のURLアドレスは、http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/  であり、紀州鉱山の真実を明らかにする会のURLアドレスは、http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/ 
である。紀州鉱山の真実を明らかにする会のURLには、韓国、日本、海南島での「現地調査」の記録・報告を掲載している。


付記2

 ここでは、鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共に行なった記憶探し」と「朴東洛先生と平昌」のなかの軽率な事実誤認・不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷のわずかな部分に言及しただけである。ほかにも民衆運動を深めるうえで実害のある記述が多いが、鄭惠瓊氏の動機・意図・目的が不明であり、虚言や誹謗・中傷の分析をこれ以上すすめても生産的でないので、とりあえず、最小限のことを記述した。

 2003年12月17日

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「現地調査」・聞きとりの意味と方法 3

2006年11月23日 | 紀州鉱山
五、証言の公開と共有
 
 鄭惠瓊氏は、韓国での「現地調査」の際に聞かせていただいた証言に関して、
  「日本側参加者のなかで、金靜美先生が簡単な内容だけ整理して論文に引用したのみ」(309頁)
と、事実と違うことを述べている(付記、参照)。
 
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は会員の会費で運営されており、全「証言集」を出すことができる財政的な基盤がなく、また自由に発表できる媒体を持っていない。さらに残念ながら、日本の出版界では、日本の歴史的無責任さを反映してのことだろうが、被強制連行者・被強制労働者の「証言集」を出すのは、非常にむずかしい。
 
 しかし、紀州鉱山の真実を明らかにする会では、韓国での「現地調査」報告を、会として、あるいは個人として、会の母体組織である三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会の『会報』にそのつど掲載し、また、季刊誌『パトローネ』では、韓国および海南島でのすべての「現地調査」の内容を報告している。


六、共同調査のあり方

 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会は、毎年11月の追悼集会の時に、「木本トンネル」・虐殺現場・紀州鉱山などで新しい参加者と共に「現地調査」を行なっている。この「現地調査」は、すでに調査されたことを、案内者が、新しい参加を加えて再確認するものである。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会がおこなった韓国での「現地調査」においては、事前にプランをつくり、事前に学習すべきことを学習するとともに、参加者のひとりが当該地域に行って事前調査をおこなった。

 もちろん、事前計画は、現地での状況によって、変更しなければならなくなることもある。また、その日の調査内容を反省し、調査結果を共有し、翌日の調査プランを参加者で最終的に確認するために、会議をする。この会議のさい、しばしば、方針をめぐって議論になることもある。

 「現地調査」ではじめて会う参加者もおり、途中から合流する参加者もいるために、この会議は、わたしたちの「現地調査」において、「現地調査」の意味を互いに確認し、互いの考え方の違いを確認するためにも重要なものである。

 もし、鄭惠瓊氏が、自分が参加した「現地調査」のありかたに疑問を感じたのであれば、そのときに提案すべきだった。鄭惠瓊氏自身が、それを「共同作業」と自覚しているならそうするのがあたりまえではないか。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員は、「現地調査」後も、鄭惠瓊氏と連絡を取り合い、資料交換もし、韓国にいけば、会うこともあった。「現地調査」時には何も言わず、その後も何も言わず、5~6年たってから、突然、その「現地調査」の際の個人的な行動について、自分の不確かな記憶のみに依拠して一方的に否定的な文章を発表するのは、フェアではないだろう。
 
 フェアではないとしても、もし、鄭惠瓊氏の記述が、誤解とまちがった記憶にもとづくものでなければ、なんらかの積極的な意味があるかも知れない。
 だが、これまで述べたように、鄭惠瓊氏は、実際になかったことをあったかのように記述し、誹謗というべき非生産的なことを行なっている。なぜ、このような間違った記憶にもとづいた思い込みによる記述をしてしまったのか?

 また、鄭惠瓊氏はこうも書いている。
  「しかしながら、平昌の調査作業は、授業料なしに現地調査の基礎過程を学習した勘定である」(303頁)。

 「まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる」と言うときには、「共同作業」と言いながら、ここでは“授業料なしの学習作業”にしている。かつて日本侵略史を明らかにするための共同作業者と思っていた人のこのような発言には、驚くと共に哀しくさえある。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会の韓国での「現地調査」に鄭惠瓊氏がはじめて同行した1997年8月ののち、鄭惠瓊氏を通じて、鄭惠瓊氏が所属していた韓国精神文化研究院の現代史研究所資料調査研究室から、紀州鉱山の真実を明らかにする会にたいして、日本による強制連行・強制労働にかんする資料収集提携の提案があり、紀州鉱山の真実を明らかにする会は同意した。その後、1997年8月17日付で現代史研究所資料調査研究室側が作成した「記録蒐集・保存、活用及共同調査に関する業務協調協定」の草案を受け取り、双方で「協定案」の細部の検討に入った。

 この資料収集共同作業構想は、収集された資料の公開について、現代史研究所資料調査研究室側では、「研究者」を対象としていたことに対し、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、一般公開を「協定」の条項に入れることを求めた。鄭惠瓊氏も私たちの提案に同意し、9月に出された改訂「協定案」では、「両国(韓国と日本)の大衆が閲覧できるようにする」という項目がはいったが、最終的には、現代史研究所資料調査研究室側がこの項目に否定的な態度を示し、10月末、この資料収集共同作業構想は立ち消えになった。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会が資料の一般公開を求めたのは、わたしたちが、「研究者」に提供するために資料収集をしてきたのではないからであった。また、公開を「研究者」に限定すると、さまざまな職業を持ちつつ活動する市民組織である私たちの会の会員は、自分たちが収集に協力した現代史研究所資料調査研究室の資料を見ることができないことになるからであった。紀州鉱山の真実を明らかにする会は、現代史研究所資料調査研究室側が考える「研究者」の概念に疑問を持った。この協議の過程で、鄭惠瓊氏は、このような紀州鉱山の真実を明らかにする会の立場に同調していた、と思う。

 その数年後に「現地調査」において「まちがった収集方法」をしていたという紀州鉱山の真実を明らかにする会にたいして、鄭惠瓊氏は、第1回目の同行調査の後、このような提案をしてきたのである。

 鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共に行なった記憶探し」を検討しながら、わたしたちが、終始考えていたのは、なぜ鄭惠瓊氏がこのような文章を書いたのか、という疑問であった。

 たしかに、鄭惠瓊氏のこの文章は、紀州鉱山の真実を明らかにする会にたいする、軽率な事実誤認・不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷に満ちたものである。だが、鄭惠瓊氏が、このような文書を書き、発表した責任の一端が、紀州鉱山の真実を明らかにする会にもあるのではないかと、わたしたちは考えた。

 鄭惠瓊氏が紀州鉱山の真実を明らかにする会の韓国での「現地調査」に同行したのは、実質的に4日間であったが、そのさい平昌で『江原道民日報』、ソウルで『ソウル新聞』、安東で安東MBCの取材を受けた。そのいずれの場合でも、わたしたちは、記者たちに、この「現地調査」は、韓国の有志と共同でおこなっているのだとくりかえし説明した。
 
 だが、この説明を、記者たちは、取材結果に生かしてくれず、紀州鉱山の真実を明らかにする会の単独「調査」であるかのように報道された。それは、わたしたちの説明が不十分であったためでもある。

 わたしたちの説明が不十分であったのは、おそらく、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、鄭惠瓊氏ら韓国の有志との「現地調査」の共同性を実質的に深めていくことができていなかったためだろう。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年5月1日~7日の江原道麟蹄郡での「現地調査」のさいにも、2日間、韓国の有志、朴成寿氏、金亨国氏と共に聞き取りを行なったが、その際にも、相互の信頼関係は強くなったが、「調査」の共同性は十分には深めることができていなかったと思う。しかし、このときの討論をきっかけとして、この年7月末、島根県松江市で開かれた「第8回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える集会」で、朴成寿氏が全体会議で報告をし、金亨国氏が第4分科会で、「‘韓国人強制連行・強制労働’についての韓国での研究状況」について報告している。同じ第4分科会で、紀州鉱山の真実を明らかにする会の佐藤正人は「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させられた地域を結ぶ民衆のネットワークを!」と題する報告をおこなっている。
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「現地調査」・聞きとりの意味と方法 2

2006年11月20日 | 紀州鉱山
四、証言を聞いた人は、聞いた責任を問われる

 鄭惠瓊氏は、わたしたちについて、
   「口述資料収集にたいする専門的な教育の機会がなかった日本側面談者」(300頁)と述べている。
 「口述資料収集にたいする専門的な教育」とは、なにをさすのか?

 わたし達は、韓国でも、日本でも、海南島でも、多くの方から証言を聞かせていただくことができた。その証言によって、わたしたちは、隠され続けたであろう日本の歴史的犯罪を明らかにすることもできた。

 「口述資料収集作業で、まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる」と、鄭惠瓊氏は言うが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、これまで、文書資料を集めるように、「口述資料」の「収集作業」をおこなってきたのではない。 

 わたしたちは、会の「現地調査」が完璧だとはもちろん考えておらず、常に、方法的にも自己検証しつつ、試行を繰り返しながら、歴史の真実を明らかにしようとしてきた。

 鄭惠瓊氏は、こうも述べている。
  「もっとも問題になったのは、日本側面談者の頑固な態度であった。‘紀州鉱山の朝鮮人労働者はこうこうであった’という先入観で武装をしたために、望まない答弁が制限されることもあり、文献資料収集にたいする熱望が強かった。もちろん当時は、一般的に口述資料が文献資料の補完的な意味に局限されており、特に補償のための証拠確保のためには文献資料だけが実質的な効力があったためである」(300頁)。

 わたしたちは、韓国に文献資料を求めて行ったのではない。そのことは、鄭惠瓊氏も知っていることである。しかし、証言の過程で、証拠になる文書資料の存在が明らかになれば、その閲覧をお願いするのはあたりまえのことだろう。

 わたしたちは、平昌のキムヒョンイ氏が、石原産業の「募集チラシ」を持っているというので、石原産業が強制連行を認めておらず、認めさせるための証拠になるかもしれないので、見せてもらいたいとお願いしたが、拒否された。

 キムヒョンイ氏が拒否したのは、日本政府が強制連行・強制労働の責任を取っていないという状況のなかで、当時、裁判で日本政府に賠償金を支払わせると言って、犠牲者から裁判の「手付金」を詐取する韓国人がいて、キムヒョンイ氏がその詐欺の被害にあっていたからであった。

 わたしたちは、このとき、紀州鉱山の真実を明らかにするという意図を信じてもらえない以上、やむをえないことであり、韓国でこのような調査の意義が広く認められるようになれば、閲覧も可能になるだろうと考えた。

 鄭惠瓊氏は、「‘紀州鉱山の朝鮮人労働者はこうこうであった’という先入観で武装をしたために、望まない答弁が制限されることもあり……」というたぐいの虚言を繰り返している。

 韓国でも日本でも、歴史研究・歴史叙述の分野において、証言(oral testimony)は、軽視されている。わたしたちは、文書資料が廃棄・焼却・隠蔽されている日本の侵略犯罪を追及する際には、とくに証言を重視しなければならないと考えてきた。

 2001年12月に、ソウルで開かれたシンポジウム「口述資料で復元する強制連行の歴史」(主催:日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法制定推進委員会)に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員金靜美は、「近現代史認識と歴史変革――紀州鉱山への朝鮮人強制連行・強制労働の事実追求の過程で――」と題する報告を行なった。金靜美へのこのシンポジウム参加要請は、鄭惠瓊氏からきたのであり、このシンポジウムには、鄭惠瓊氏も参加していた。

 そのとき、金靜美は、「近現代史研究における聞きとり」や「強制連行・強制労働の経験を聞きとる意味」について、具体的に韓国や海南島での経験を総括しつつ、

  「聞きとりは、あらたな出会いと共闘のきずなを発見することであり、現在と過去をつなぐあらたな関係を築いていくことである」

と述べている。この考えは、金靜美個人のものではなく、紀州鉱山の真実を明らかにする会がそれまでの調査と研究の経験によって確信してきたことである。わたしたちは、証言者とそのような関係を築いていく努力を重ねてきた。

 わたしたちの力が足りないことは、わたしたち自身が痛感していることである。だからこそ、わたしたちは、話を聞かせていただいているときに、確認はすることはあっても、証言を「制限」するようなことはしない。もし、わたしたちが、そのような姿勢をもっているなら、これまでのわたしたちの活動はなりたってこなかっただろう。

 2001年12月のシンポジウムの際、金靜美は、つぎのようにも述べている。

  「強制連行され強制労働させられた人、残された家族……を訪問し、一人ひとりに話しを聞かせていただくとき、聞きとる主体のありかたが問われる。証言を聞くとき、聞く人は、聞いた責任を問われる。聞きとってどうするのか、なんのために聞きとりをするのか。
  聞いてどうするのか。その問いに応える姿勢をもたないで、聞きとりをすることは、証言者を傷つけることにもなりかねない。聞きとりをするとき、聞きとりをするひとは、自分のことを語らなければならないのではないか。自己のことを語ることなしに、一方的に他者の人生を聞こうとしてはならないのではないか。聞きとりすることは、会話することである。
  わたしたちが、日本に強制連行され故郷にかえった人、日本軍の性奴隷とされたことのある女性……から、その人生の経験を聞くことは、証言者の生きてきた軌跡と質問する自分たちの生きてきた軌跡をかさねあわせ、自分たちの未来をたしかめることなのだと思う。
  聞きとりとは、聞きとるものが自己を問うことであり、それは、主体の変革、社会の変革につながる行為である。この問は、歴史を学んでどうするのかという問につながっている」。

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「現地調査」・聞きとりの意味と方法 1

2006年11月19日 | 紀州鉱山
「現地調査」・聞きとりの意味と方法
 鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共に行なった記憶探し」について

はじめに

一、紀州鉱山の真実を明らかにする会のあゆみと会の基本姿勢
二、証言者と聞きとり者との共同作業
三、軽率な事実誤認、不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷
四、証言を聞いた人は、聞いた責任を問われる
五、証言の公開と共有
六、共同調査のあり方
おわりに

はじめに

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、これまで韓国で、2回(数日間)、鄭惠瓊氏と共に聞きとり調査をおこなったことがある。
その鄭惠瓊氏が、近著『日帝末期における朝鮮人強制連行の歴史――史料研究――』(景仁文化社、2003年9月)で、「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」と題する小節の末部に、こう書いている。

「筆者は、口述資料収集作業で、まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる。録取文作成はもちろん、平昌と安東の作業が、‘口述者が冷蔵庫に入れた飲料水のようにいつでも必要なときに取り出して飲むことができる’式の収集方法であったという心残りを振り払うことができないためである」(309頁)。

「‘口述者が冷蔵庫に入れた飲料水のようにいつでも必要なときに取り出して飲むことができる’式の収集方法」という表現は、ほとんど意味不明だが、「口述者」の証言を「冷蔵庫に入れた飲料水」に例えることができる鄭惠瓊氏の感性(思想性といってもよい)が、ここには示されている。
わたしたちは、このような鄭惠瓊氏のことばを読んで、悲しくさえあった。
また、鄭惠瓊氏が同行していた時に証言をしてくださった方がた、そして、その方がたに出会うまで、協力と助言を惜しまなかった方がたに対し、たいへん申し訳なく思った。
紀州鉱山の真実を明らかにする会が、強制連行・強制労働の歴史的事実を明らかにしようとして、おこなった韓国での「現地調査」に、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員ではなくとも、参加した仲間が、こう表現したことについては、会にも責任があるだろう。
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、鄭惠瓊氏が同行した韓国での「現地調査」にさいして、証言をしてくださった方がた、世話になった方がたに、謝罪する。

そのうえで、「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」と題された文章に対する批判を、わたしたちは行なう。それは、日本による強制連行・強制労働の歴史解明と責任追及のための、韓国と日本での民衆の共同作業を少しでも深めるためである。

一、紀州鉱山の真実を明らかにする会のあゆみと会の基本姿勢
紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年2月、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会を母体にして、結成された。この結成集会には、韓国から洪鍾泌氏が参加した。会創立は、『東亜日報』3月1日号でも報道された(「紀州鉱山強制労役明らかに 韓日学者市民20余名会結成」)。三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会は、1926年1月3日、李基允氏と?相度氏が、木本町、木本警察が関与し、地域日本人住民によって虐殺された「事件」の真相を明らかにし、木本町(現、熊野市)に謝罪させ、ふたりの追悼碑を建立することなどを目的として、1989年6月に、大阪で、?相度氏の二男?敬洪氏を迎えて結成された民衆組織である(1)。

(1)‘木本事件’については、キム チョンミ「三重縣木本における朝鮮人襲撃・虐殺について(1926年1月)」、在日朝鮮人運動史?究会編『在日朝鮮人史研究』18號、アジア問題?究所、1988年、參照。

   三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・?相度氏)の追悼碑を建立する会は、1994年に、李基允氏と?相度氏を追悼するための碑を、熊野市に建て、その後、毎年11月に熊野市で、追悼集会と、‘木本事件’および紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする写真展を開催している。また、『会報』を39号(2003年12月25日付)まで出している。

三重県紀和町にある紀州鉱山には、1939年ころから当時日本の植民地とされていた朝鮮各地から、労働者として多くの人びとが働かされた。紀州鉱山で働かされた朝鮮人は、1000人以上と思われるが、そのうち、これまでわたしたちが氏名、本籍を把握しているのは、1946年に石原産業が三重県に提出した文書(「紀州鉱山1946年報告書」)に記載されている、1942年以後に強制連行された875人のみである。

紀州鉱山で命をうしなわされた朝鮮人の人数は、紀和町の寺院に残されている「過去帳」や石原産業の労働組合が作成した死亡者名簿(『忌辰録』)などによれば、30人を超える。

しかし、『紀和町史』(紀和町史編纂委員会編、紀和町発行、1993年)をはじめ、この地域の地方史では、朝鮮人の強制連行については、 ほとんど記述されてこなかった。紀和町ではいまも、当時紀州鉱山で朝鮮人が過酷な労働を強いられていたことを見聞した人が多数いるにも拘わらず(2)。

(2)日本軍がタイ人、ビルマ人、中国人、インドネシア人、マラヤ人のほか、イギリス軍・オーストラリア軍・オランダ軍・アメリカ軍捕虜に、過酷な労働を強制し、多くの人が死んだタイ―ビルマ間の「泰緬鉄道」工事で生き残ったイギリス軍捕虜300人が、1944年6月から紀州鉱山で強制労働させられた。

現在、紀和町には、紀州鉱山で死んだ16人のイギリス軍捕虜の墓があり、「紀和町指定文化財」とされている。『紀和町史』にも、イギリス軍捕虜については、詳細に記述されている。

紀州鉱山の真実を明らかにする会では、会の結成の準備段階から、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関して、紀和町での聞きとり調査や文書資料の収集を始めていた。

1996年10月に、佐藤正人は、紀州鉱山に連行された朝鮮人を訪ねて、江原道麟蹄郡に行った。その後、1996年12月18日~21日に、紀州鉱山に連行された朝鮮人を訪ねて、金静美と佐藤正人が江原道旌善郡に行った。

1997年2月の紀州鉱山の真実を明らかにする会結成後、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、1997年5月1日~7日に江原道麟蹄郡に、同年8月8月6日~8月10日に江原道平昌郡に、1998年8月19日~23日に慶尚北道安東郡・軍威郡に、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人を訪ねた。

紀州鉱山の真実を明らかにする会が韓国に調査に行った理由のひとつは、紀州鉱山を経営していた石原産業と、紀州鉱山がある紀和町が朝鮮人強制連行という事実を認めていないからである。わたしたちは韓国で、実際に強制連行された方がたから、当時の状況を聞きたいと考えたのである。

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、結成直後から、紀和町および紀和町教育委員会との話し合いを重ね、1998年11月には、紀州鉱山への朝鮮人強制連行の事実を示す資料を紀和町の鉱山記念館に展示することを約束させた。

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国でも日本でも、「現地調査」を、「口述資料収集」のためではなく、事実を明らかにし、歴史的犯罪の責任者に責任をとらせようとする民衆運動として行なってきた。

日本による強制連行・強制労働の歴史的事実の解明は、朝鮮人と日本人によって、意味がちがう。朝鮮人にとっては、自分たちの歴史を明らかにし、二度と侵略を繰り返させないための作業であり、日本人にとっては、日本政府と日本人の侵略責任を問い、自分たちの歴史的責任の一端を果たすための作業である。

わたしたちの会では、日本の侵略犯罪の歴史的事実を解明するという点で一致し、朝鮮人と日本人の共同作業が可能となっている。会員は自主的に会の活動に参加し、会の活動は、基本的に会員の合意をもって進められる。このことは、会のありかたの基本原則である。

わたしたちの会では、国民国家日本の侵略責任を、植民地支配責任、戦争責任、戦後責任の3つに分けて考えている。

戦後責任とは何か。日本のアジア太平洋侵略の第一責任者、天皇の侵略犯罪を徹底的に追及できず、天皇制を存続させている責任。「ヒノマル」「キミガヨ」「元号」を存続させている責任。日本政府に、植民地支配責任と侵略責任をとらせ、謝罪させ、賠償させることができない責任。日本のさらなる他地域・他国侵略を阻止できない責任などである。

二、証言者と聞きとり者との共同作業
これまで、「紀州鉱山1946年報告書」に記された人たちのうち、韓国に本籍がある方がたの消息は、ほぼたどることができたが、韓国でのわたしたちの「調査」は、まだまだ不十分なものである。

わたしたちは、話を聞かせていただいた何人もの方がたから、「話を聞いてどうするのか」と問われた。わたしたちは、日本では、日本の朝鮮侵略史が正確に伝えられていなかったり、歪曲されたり、さらには、隠されていること、を説明し、私たちの力量では、いますぐに具体的に裁判提起などはできないが、まず事実を明らかにしたいのだ、事実を明らかにすることによって、日本の地域のすみずみにまで浸透している、侵略史観を変革したい、それが、日本政府・軍・企業・民衆のアジア太平洋の民衆に与えた侵略犯罪にたいする、きちんとした謝罪・賠償につながると思うと述べ、協力をお願いした。


わたしたちは、証言を聞かせていただくとき、証言してくださる方が、積極的に話してくださることを願っている。証言者がわたしたちを信頼してくれなければ、そのようなことは不可能である。

わたしたちの聞き取りの態度について、鄭惠瓊氏は、こう書いている。

「さきに現地調査を始めていた佐藤先生が尹老人に会って、強硬な口調で“かならず補償を受け取らなければなりません”と力説した結果、一行が到着したとき、証言は不可能な状況に置かれていた」(301頁)

「まるで“なぜお前だけ殴られなかったのか”という叱責を超えて、“殴られた”といわなければ終わらない態勢は、追及に近かった」(302頁)

これらの鄭惠瓊氏の「証言」は、すべて虚言である。

「佐藤先生が尹老人に会って、強硬な口調で“かならず補償を受け取らなければなりません”と力説した」と、鄭惠瓊氏は自分が見ていたかのように書いているが、佐藤正人のそのような発言を、鄭惠瓊氏はどのようにして確認したのか。そもそもここで鄭惠瓊氏が言っている「尹老人」とは、誰のことか。

なぜ、鄭惠瓊氏がこのような虚言を繰り返すのかはは、いまのところ、わたしたちには、わからない。

紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年8月に韓国で聞き取りする2か月前に、海南島の「朝鮮村」などではじめて聞き取りを行なった。その際にも、わたしたちは、証言者との信頼関係を深めることを当然だと考えていた。それは、証言を聞かせていただくかどうかという以前の、モラルの問題である。聞き手が「望まない答弁を制限」したり、「強硬な口調」で語るならば、証言をきちんと聞かせていただけないのは当然である。

聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月以後これまで、海南島各地で、同じ人から2回~6回、証言を聞かせていただいている。それは、証言者との信頼関係がなければできない事である。

証言してくださる方との信頼関係は、その方が生活している地域の人びととの信頼関係なしには深まらない。1996年10月に、佐藤正人がひとりで、はじめて江原道の麟蹄郡に行ったとき、麟蹄邑事務所の張貴男氏と麒麟面事務所の安浩烈氏は、自分の父親のことであるかのように、熱心に、紀州鉱山に連行された人を探して、案内してくださった。3泊4日の短い間だったが、地域のおおくの人びとに助けられて、このとき佐藤正人は、紀州鉱山に強制連行された4人の方や、九州、福島、岡山の炭鉱や造船所に強制連行された4人の方から話を聞かせていただくことができた。

三、軽率な事実誤認・不確かな記憶、あるいは虚言、あるいは誹謗・中傷
鄭惠瓊氏は、金靜美が紀州鉱山の真実を明らかにする会の「会長」だと書いているが、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、「会長」を置いていない。「会長」を置くか否かは、会の組織原則にかかわることである。紀州鉱山の真実を明らかにする会が「会長」や「代表」を置かないのは、会員の一人ひとりが、会に対して平等に責任を負うという原則に基づいている。

わたしたちはひとつの民衆組織を形成して、日本に活動基盤を置いているために、韓国に行き、すべての方がたから、強制連行・強制労働の体験を聞くことは不可能である。

わたしたちは、韓国に住んでいて、強制連行・強制労働に関心を持つ人に、継続的な調査を自主的にすすめてくれることを期待して、鄭惠瓊氏にも歴史的な事実を明らかにするための共同調査を提案した。

それに応じて、鄭惠瓊氏は、1997年8月と、1998年8月に、わたしたちの「現地調査」に参加した。

鄭惠瓊氏は、「まちがった収集方法について言及するとき、かならず、2回の共同作業を例にあげる」と言っているが、鄭惠瓊氏が参加したのは、わたしたちの韓国での5回の「現地調査」のうちの2回であり、2回とも全行程には参加していない(1997年8月4日~10日のうち7日~9日まで、1998年8月19日~23日のうち、19日~20日まで)。

 鄭惠瓊氏は、いっしょに2回、「現地調査」をした紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員である佐藤正人について、こう書いている。

「佐藤先生は、自分の考えと原則をかんたんには変えない人で、筆者は常に不平を感じていた。そこへ、時々出す韓国社会にたいする不信感(韓国人はよくウソをつき、信頼できない存在だという考えから出てくるいろいろな表現)は、程度が過ぎており、一行に親和感に阻害要素となっていた」(303頁)。
もし、鄭惠瓊氏が書いているような言動を、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員の誰かが取ったなら、まず、会で問題にしなければならない。その前に、現場で問題になっていただろう。しかし、日本からの他の参加者は佐藤正人がこういう言動を取ったことは見聞していない。そのようなことは、ありえないことである。

 鄭惠瓊氏の「“紀州鉱山の真実を明らかにする会”と共におこなった記憶探し」での佐藤正人に対する記述は、動機不明の誹謗・中傷であるが、ここで鄭惠瓊氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会が、民族差別をする日本人を会員とし、そのような差別者と共に活動していると言っているのである。 

 紀州鉱山の真実を明らかにする会には、数人の朝鮮人会員がいる。日本に定住する朝鮮人会員は、日常的に絶え間なく日本への同化攻勢があるなかで、日本の侵略犯罪を明らかにする活動をおこなっている。 

紀州鉱山の真実を明らかにする会の日本人会員が、朝鮮人差別者であると主張することは、その日本人と共に活動する朝鮮人会員を、日本人の朝鮮人差別を批判できない“親日派”だと中傷することである。

鄭惠瓊氏が、どうしてこのような発言ができたのか、不思議である。鄭惠瓊氏は、自分の発言の意味を理解できないで発言したとも思われる。わたしたちは、要求はしないが、鄭惠瓊氏は、もし自分の社会的発言には責任をとるべきだと考えることできるなら、自発的に謝罪したほうがいいだろう。

朝鮮人会員李在一や金靜美は、これまで、さまざまの場や文書で、日本人歴史研究者や知識人のナショナリズムを分析し、批判している。

わたしたちは、韓国でも、海南島でも、じつに多くの地域の人びとに助けられて、「現地調査」をすすめてきたが、とくに、朴東洛氏との出会いと別れは、心に刻まれている。

1997年8月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、江原道平昌郡にいった。「紀州鉱山1946年報告書」には平昌郡から160人が紀州鉱山に強制連行され、そのうち59人が「逃亡」していた。このとき、佐藤正人は、あらかじめ、他のメンバーが来る2日前に平昌邑に着き、一人で、邑事務所や郡図書館などのほか、珍富面、蓬坪面、美灘面、道岩面・龍坪面の面事務所や老人会館を訪ねて、そこで出会った方がたから、たいへん助けられた。

8月6日のことだった。蓬坪面の副面長康基龍氏は、村の各家に電話し、紀州鉱山に強制連行された秋教華氏の住所を教えてくれた。その康基龍氏に案内された食堂で、佐藤正人は、朴東洛氏に出会った。朴東洛氏は、翌7日朝から、大和面と珍富面の老人会などを案内してくださった。

その朴東洛氏に関して、鄭惠瓊氏は、『日帝末期における朝鮮人強制連行の歴史』に「朴東洛先生と平昌」と題する節を設けて、次のように書いている。

「佐藤先生は生存者確認のために立ち寄った面事務所で偶然に朴東洛先生に会ったという。朴東洛先生は、おぼつかない韓国語で名簿の照会を頼んでいる佐藤先生を見て、平素学んできた日本語の実力を発揮し、名簿確認作業を助けるようになったのである」(320頁)。

「‘韓国人がしなければならないことを、日本人がしてくれるので、とてもありがたい’という純粋な熱情から、調査作業を助けてくれた。強制連行の被害者を探すことがなぜ`韓国人が‘しなければならないこと’で、こうしたことをする‘日本人’に感謝を覚えるのがまちがったことではないのかと考えるのに先立って、作業が少しでも楽に進行できるという安堵感がすこしより強かったのは事実である」(320~321頁)。

「その年(1997年)の末……(朴東洛先生が)‘交通事故で亡くなって何日もたっていない’と聞いた」(321頁)。

この鄭惠瓊氏の説明は、朴東洛氏の真意を傷つけるものである。たしかに佐藤正人の朝鮮語の力は、不十分なものではあるが、朴東洛氏は、紀州鉱山の真実を明らかにする会の「現地調査」に、「平素学んできた日本語の実力」によって協力しようとしたのではない。また、「‘韓国人がしなければならないことを、日本人がしてくれるので、とてもありがたい’という純粋な熱情から、調査作業を助けてくれた」というのも、非論理的な推量である。

朴東洛氏は、もちろん、紀州鉱山の真実を明らかにする会が朝鮮人と日本人とによって結成された民衆組織であることを知っていた。朴東洛氏は、わたしたちの会の運動に共感し、協働者として、協力してくれたのである。

わたしたちと朴東洛氏は、1997年8月以後も、ソウルや平昌でなんども会って友情を深め合った。朴東洛氏は、大企業がスキー場造成などで自然を破壊することを怒り、反対していた。朴東洛氏は、蓬坪面を故郷とする李孝石の「そばの花」をわたしたちが読んだことがあると言ったとき、とても嬉しそうだった。その後11月が近づくと、李基允氏とペ相度氏の追悼集会を心にかけて、電話をくださった。紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼式を、紀州鉱山で行なおうと相談しあってもいた。朴東洛氏は、1999年1月に、交通事故で突然亡くなられた。
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『会報』44号

2006年11月10日 | 木本事件
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会『会報』44号を、今日(11月10日)、発行しました。
 B5版、16ページ、定価100円です。
 内容はつぎのとおりです。

佐藤正人「木本虐殺(熊野虐殺)80年後」。
熊野市への公開抗議要請経過報告。
日置真理子「“朝鮮村試掘”の経緯」。
紀州鉱山の真実を明らかにする会
   「“朝鮮村試掘”にいたるまで」。
   「“朝鮮村試掘”の目的」。
竹本昇「初めての海南島訪問で考えたこと」。
崔文子「海南島で 2005年9月」。
小谷英治「海南島戦時性暴力被害訴訟判決報告」。
キム チョンミ「集会“戦場における死 その責任をめぐって”」。
佐藤正人「高麗博物館特別展示“海南島で日本は何をしたか”」。
竹本昇「『日本が占領した海南島で』伊賀上映会」。
佐藤正人「 オタルで特別展“海南島で日本はなにをしたのか”」。
斎藤日出治「“第7次朝鮮報国隊”隊長衣笠一氏のこと」。
キム チョンミ「日本軍と戦った人たち 第10回海南島“現地調査”報告」。
「日韓学者来瓊尋訪日軍罪証」(『海南日報』2006年3月24日)。
「海南島 無念の骨探る」(『朝日新聞』西部版2006年4月4日夕刊)。
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