三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

『会報』45号

2007年05月30日 | 『会報』
三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・相度氏)の追悼碑を建立する会の『会報』45号を、2007年5月25日に発行しました。
 B5版、16ページ、定価100円です。
 内容はつぎのとおりです。

佐藤正人「“木本事件”80年後の追悼集会」。
嶋田実「2006年追悼式に参加して」。
日置真理子「追悼集会報告(2006年12月2日~12月3日)」。
2006年追悼集会参加者一同「熊野市に対する公開抗議要請文」(2007年1月)。
熊野市長・熊野市教育長「公開抗議要請に対する回答」(2007年2月)。
2006年追悼集会参加者一同「抗議文」(2007年3月)。
竹本昇「大阪の上映会の報告」。
崔文子「三重県名張市の上映会の報告」。
高麗博物館理事山田貞夫「“海南島展”終えていま」。
キム チョンミ「海南島から生還できた“朝鮮報国隊”の人たちを尋ねて」。
キム チョンミ「元日本海軍海南警備府海軍巡査の証言」。
キム チョンミ「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会は、“真相調査”を完了したのか」。
佐藤正人「第12回海南島“現地調査”報告」。
写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』完成。

表紙絵を描いてくれた烏蘭汗(ウランハン)さんの言葉。
   「この絵は、みなさんといっしょに海南島を歩き、朝鮮人がいろいろなところで働かされていた
 ことを知って、その印象を現そうとしたものです。
 “朝鮮村"からの帰り道で、絵の題を「足跡」としようと思いました。
    前景は、朝鮮人が踊っているようすを思いうかべながら描きました」。 
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海南島から生還できた「朝鮮報国隊」の人たちを尋ねて

2007年05月28日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■「京城刑務所假出獄関係書類」
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年8月から長期間、ソウルの韓国政府記録保存所で、「京城刑務所假出獄関係書類」を調査し、「南方派遣報国隊(朝鮮報国隊)」として海南島に送られ、帰郷できた人たちの「仮出獄書類」217人分を探しだしました(韓国政府記録保存所は、その後、大田に移転し、韓国政府記録院となっています)。
 その後、数年の間に、わたしたちは、海南島から故郷にもどることができた人たちのうち、高福男さん、柳済敬さんと、ほかに二人の人に会って話を聞かせていただくことができました。
 さらにそのほかの人に会うために、わたしたちは、韓国に行くたびに「仮出獄書類」に記載されている本籍地を尋ね歩きましたが、なかなか出会うことができませんでした。

■民願係に協力を依頼
 2006年3月に、わたしたちは、それまでに会うことができた人と本籍が北朝鮮にある人とを除き、126人について、韓国の本籍地管轄行政区の民願係に、協力を依頼する手紙を送りました。
 民願係とは、韓国の各行政単位に設けられていて、さまざまな問い合わせに対応してくれる部署です。大統領府にもあります。
 126人のうちの10人近くは、これまで本籍地を尋ね歩いて、亡くなっていることがわかっていましたが、あらためて、民願係に協力を依頼しました。
 126通のうち、2006年5月末までに、管轄行政区の民願係からなんらかの返信があったのは、30通でした。
ひとつの行政区に複数の人がいるばあいもあったので、あわせて42人について民願係が返信してくれました。
 今回の民願係への協力依頼で、すでに亡くなっていることが戸籍簿で確認できた人もいました。戸籍簿では確認できないが、ご存命と思われる人も何人かいました。

■2006年7月
 わたしたちは、2006年7月に韓国に行き、返信をくれた管轄行政区の民願係の4か所を訪ね、さらに個別に調査を依頼しました。
その結果、残念ながら、ご存命の方はおられませんでしたが、遺族と会ったり電話で話すことができました。
 韓国では、名前と本籍地だけで、本人を探し出すのはとても困難です。韓国の戸籍簿は、戸主が基礎となっていて、本人が戸主のばあいは、比較的探しやすいのですが、そうではないばあい、同姓のすべての戸籍簿を1枚づつ調べ、その家族から同姓同名の人を探さなければなりません。
 各地の民願係は、わたしたちの問い合わせの手紙にたいして、時間をかけて「朝鮮報国隊」の人びとの消息を探そうとしてくれました。
 個人情報保護のために問い合わせには応じられないという返信もありましたが、わたしたちの消息を知りたいと思う趣旨を理解し、第三者が戸籍簿を見るための手続き書類を送ってくれた行政区もありました。

■これから
 韓国では、ほとんどの人の近親者や身近な知人の誰かが、日帝時代に強制連行されたり、軍人や軍属としてアジア太平洋の各地に送られました。いまだに「行方不明」となったままの人もいます。「朝鮮報国隊」に入れられて海南島に送られ、そこでいのちを失わされた人たちの名前も、まだ明らかになっていません。
 「朝鮮報国隊」の「隊員」として海南島に送られた人びとが、日本兵や刑務官らによってどのようなことをさせられたのか、どのようにいのちを失わされたのか、その真相を、生きて帰還できた人たちとともに、これからさらに追究していきたいと思います。 
                                キム チョンミ
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中国朝鮮族と在日朝鮮人の民族教育 7

2007年05月27日 | 民族教育
■中国朝鮮族教育を巡る問題点 4
朝鮮族学校に通う子どもが減少する問題
1)延辺地区より散居地区、とくに大都市の減少が多い
 前述したように、延辺地区の場合、朝鮮族学校に通う子どもは、全体の97%を占めている。それに対し、散居地区のその割合は8割程度である。ハルピン、長春、瀋陽などの大都市においては、この比率はさらに20~30%という低水準に達している。
 それは、散居地区の朝鮮族はあまりにも分散して居住しているので、家の近くに朝鮮族学校がないことが原因であろうと考えて、一部の学校は、通学バスを購入して学校から遠い子どもたちを家まで迎えに行く方法(たとえば長春市寛城区朝鮮族小学校)、寄宿舎を作って子どもを寄宿させる方法(たとえば長春市朝陽区朝鮮族小学校)を取って対処している。しかし、その効果はなかなか見えていないのが実情である。

2)上級学校に行くにつれ減少が多くなる
 朝鮮族学校に通う子どもの割合は、延辺地区の場合、小学校97%、中学校89.8%、吉林省延辺以外の地区では、小学校84.4%、中学校67.1%、黒龍江省では、小学校76.4%、中学校63.9%、遼寧省では、小学校89.1%、中学校76.5%である。筆者が行ったアンケート調査からも同じ傾向が見られる。
 小学校の段階では、子どもに朝鮮語や自民族に関する知識を学ばせ、中学校や高校に入ると、将来の進学や就職を考えて子どもに漢族学校、とくに重点学校へ行かせる親の多いことがその主な原因であると思われる。筆者自身も小学校卒業するまえに両親と相談して、朝鮮族中学校に行かずに、吉林省の重点学校である長春市第六中学校に進学した経験を持っている。
 朝鮮族学校自身の努力や1992年の韓国との国交樹立によって、朝鮮語の使用頻度が多くなり、朝鮮族学校に通う子どもの数は一時増えていたが、最近では再び減少する傾向が見られる。筆者が2001年4月に行なった現地調査によれば、長春市二道区朝鮮族小学校の2000年度の卒業生は48人であったが、新入生はわずか19人であった。

3)将来への予想
 今回のアンケート調査では、朝鮮族の若者の民族意識がだんだんと薄れていることや子どもを朝鮮族学校へ行かせたい親が減少していることが検証されたので、朝鮮族学校の学生数、とくに散居地区の朝鮮族学校の学生数はこれからも減少していくのではないかと予想される。
 以上は、中国朝鮮族教育を巡る問題点をまとめて検討した。これらの問題に対応して、朝鮮族教育のあるべき姿を根本的に見直し、だんだんと薄れている朝鮮族学校の魅力を回復させることは、たいへん重要なことであると言えよう。
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中国朝鮮族と在日朝鮮人の民族教育 6

2007年05月26日 | 民族教育
■中国朝鮮族教育を巡る問題点 3
民族教育の経費問題
 1951年に開かれた第一次全国民族教育工作会議では、「少数民族地区の教育経費に関しては、各地の人民政府は一般教育経費の支給以外に、民族地区の状況によって、特別支出金を提供し、少数民族学校の設備や教師の待遇、生徒生活などの困難の解決に援助する」と規定したが、今日までにまだ法律の形になっていない。その結果、現在地方財政から人件費つまり教職員の給料しかもらえない学校(たとえば琿春市第1実験小学校、龍井高校)も少なくない。
 とくに、最近市場経済の進展により、かつて財政などの面で優遇されていた民族教育への投資は減少している。地方への分権により国の財政が困難となったため、中央財政の少数民族教育への特別支出金は毎年7100万元から2000万元へと減少した。
 現在、財政難の問題は、いろいろな面において朝鮮族教育に悪影響をもたらしている。
 たとえば、漢語による教育出版物に比べると、朝鮮語のものが非常に少ないのである。
 1947年に設立された延辺教育出版社は、全国朝鮮族学校の教科書や教育出版物の編集、出版につとめてきた。しかし、発行数量が少ない。漢語から朝鮮語に翻訳すると頁数は20~30%も増えるが、国家の政策によって本の値段自体が変わらないために赤字がますます多くなっている。1994年では、年間600種類の1046万5千冊の出版物を出したが、赤字は350万元であった。1998年、同社の赤字はさらに440万元へと増えたのである。
 このような財政上の問題で、現在一部の必要な教科書や教育参考書は出版できない状況に陥っている。例えば、延辺大学「朝鮮語文」学部の20種類以上の教科書は印刷数量が少ないため、まだ出版されていない。学生たちはやむをえずノートを取りながら勉強しているので、ほかの学部の学生たちから「ノート学部」とからかわれている。
 1980年4月の調査によると、延吉市の朝鮮族重点小学校の学生が年間に読む課外読物の数量は、長春市の同じ学年の漢族学生の37%で、朝鮮族中学生が読む課外読物の数量は、長春市の漢族学生の25%にすぎなかった。
 また、延辺地区の新華書店(中国最大の書店)にある朝鮮族図書が総図書に占める割合は、文化大革命のまえには50%以上であったが、70年代には40%、80年代には20%、1995年の時点では7%へと減ったのである。
 いうまでもなく、このような教育出版物の不足問題は、学生たちの勉強にも影響しており、彼らの素質を高めるにはたいへん不利である。しかし、市場経済が進展しているなか、どうしても経済効果を優先させる傾向がある。それゆえに、教育資金の不足から生じたいろいろな問題は、これからもしばらく続いてゆくだろうと思う。
 現在、吉林省の場合、省教育委員会民族教育処による毎年100万元の民族教育専用経費(朝鮮族、満族、モンゴル族などの民族学校の校舎建設などに使う)と8万元の民族教育専用補助金(教育設備の更新などに使う)が、各民族学校の主な運営資金となっている。 
 しかし、これだけではとても足りない。3年制の朝鮮族中学校を4年制に延長する計画を実施するために、延辺だけで、316の教室、3000平方メートルの学生の宿舎、1248名の教師を増加する必要があり、この予算は2323万元となっている。
 少数民族教育に関する法律を作る必要性と緊迫性を訴え、立法することによって民族教育の経費を保障することは、もっとも根本的な解決法であろう。現段階では、各地の政府当局に民族教育の合理性と重要性を訴え、もっと多くの教育資金を求めることはより現実的な解決法であろう。そのほか、朝鮮族の伝統を発揮し、独自で一部の資金を集めることも必要ではなかろうか。事実上、延辺では1985年から1990年までの五年間に、校舎建設などに投入された資金は1億500万元であったが、その60%は民間からの募金であった。
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中国朝鮮族と在日朝鮮人の民族教育 5

2007年05月23日 | 民族教育
■中国朝鮮族教育を巡る問題点 2
二言語教育の問題
 少数民族学校において、自民族語と中国の共通語である漢語を同時に教えることは、「二言語教育」と呼ばれる。朝鮮族の二言語教育は中国で成功している例として取り上げられているが、実際には問題がまだ多い。
 延辺地区と散居地区における朝鮮族子どもの家庭のなかでの言語の使用状況が違う。延辺地区の子どもは、朝鮮語を母語としている人が多いが、散居地区の子どもは漢語を母語としている人が多い。したがって、延辺地区と散居地区の朝鮮族子どもが二言語を身に付ける順番も違う。つまり、延辺地区の子どもはまず朝鮮語を身につけてから漢語を勉強するが、散居地区の子どもは漢語を身につけてから朝鮮語を勉強するのである。
 それゆえに、彼らに二言語教育を施す時にも、それぞれ違った教育目標を制定し、違ったカリキュラムや教材を作るべきであると思う。北朝鮮や韓国の子どもに比べても劣らない朝鮮語能力を有する龍井実験小学校の子どもたちと入学する前に挨拶程度の朝鮮語しかできない散居地区の子どもたちに同じような朝鮮語教育を行うのは、いうまでもなく不合理であろう。
 しかし現在、散居地区の朝鮮族学校は、自らの状況を考えたうえで、朝鮮語の授業に多くの時間を割いたり、漢語の授業では漢族学校で使われている「語文」の教科書を取り入れたり工夫しているが、朝鮮語文の教材としては、延辺地区の子どもと同じく延辺朝鮮族教育出版社の出版したものを使用しているのである。そのために、散居地区の朝鮮族学校は延辺地区の学校より朝鮮語の授業にかなり多くの時間を割いている(たとえば、小学校の場合は52.6%も多い)。
 以上のことから、民族教育の対象となるものをさらに細分し、延辺地区と散居地区の朝鮮族子どもの特徴をじゅうぶんに考慮に入れた二言語教育を実行して行くことは、中国朝鮮族における二言語教育のもっとも重要な問題ではなかろうか。
 朝鮮族学校では、漢語以外の授業はすべて朝鮮語によって行い、漢語は外国語のような科目にすぎないので、漢語に弱い子どもが多い。本論文のアンケート調査から見れば、朝鮮族学校出身の8割程度の学生は、大学に入ってから漢語で困った経験がある。
 改革・開放、市場経済の進展により、漢語の重要性が様々な領域で高まっており、漢語に弱い朝鮮族学校の卒業生は進学や就職などの面でたいへん不利である。そこで、朝鮮族学校は、漢語の授業時間を増やしたり、開始の時間を小学校一年に早めたりして、学生の漢語能力の引き上げに努めている。しかしその結果、朝鮮族学校の子どもの負担はますます増加している。
 朝鮮語、漢語両方を勉強するため、朝鮮族学校の子どもの授業時間数は、漢族学校の子どもより1000時間も多い。これは漢族学校の1年間の授業量にあたる。
 このような負担は、子どもたちの学習の質を低下させ、漢語だけではなく、ほかの科目の勉強にも影響を与えている。そのため、3年制の中学校を4年制に延長する実験(たとえば延辺朝鮮族自治州和龍市龍水初級中学校)も行われていたが、反対する人も多く、まだ全面的に実施されていない。
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中国朝鮮族と在日朝鮮人の民族教育 4

2007年05月21日 | 民族教育
          5月17日から19日まで3回連載した金山さんが日本語で書いた「中国朝鮮
         族と在日朝鮮人の民族教育」の序章の一部分につづき、同論文第2部「中
         国朝鮮族の民族教育」の「中国朝鮮族教育を巡る問題点」を連載します。
          金山さんは、長春生まれの朝鮮族で、7年間日本の九州大学で「比較社
         会文化」を研究し、大連で日本語教師をしたあと、2005年7月から海南大学
         外国語学院で教師をしています。
                         紀州鉱山の真実を明らかにする会

■中国朝鮮族教育を巡る問題点 1
 中国人としてのナショナリティと朝鮮族としての民族性の育成に関わる問題点
中華人民共和国が成立してから2003年にいたるまで、合計5回の全国民族教育工作会議が開かれ、各歴史時期における少数民族教育に関する政策などを決めてきた。それらの会議に出された文献資料を通してみると、少数民族教育に関する方針は各歴史時期において国の政治路線に基づいて変化していることがわかる。しかし、少数民族教育が社会主義方向と中国共産党の指導権を堅持しなければならないということは、ずっと変わっていないのである。これは、中華人民共和国は中国共産党の指導のもとで創設された社会主義制度を実行している国という性格によって決められたものであり、少数民族教育を発展させる前提条件である。
 たとえば、1992年3月に開かれた「全国第四次民族教育工作会議」では、民族教育を発展させる具体的な方針を打ち出したが、その第一条は次のように述べている。
   「民族教育は、わが国の社会主義教育の重要な部分であり、社会主義現代化を建設す
  るために働き、生産労働と結び合わせ、徳.智.体が全面的発達する建設者と後継者を
  育成しなければならない。マルクス主義の指導のもとに、少数民族と民族地域の特徴を
  配慮し、学生に党(中国共産党を指すーー作者)の基本的路線に関する教育、歴史と国
  の実情に関する教育、愛国主義の教育、民族団結と国の統一を維持させる教育を行い、
  正確な政治方向を堅持させなければならない」。

 また、2002年7月に開かれた第五次全国民族教育工作会議において、当時国家教育部部長をつとめていた陳至立氏は指導的意味を持つ講話をし、そのなかで彼女は
   「民族教育はわが国の教育事業の重要な部分である。民族教育の改革と発展は、全面
  的かつ徹底的に(中国共産)党の社会主義初級段階の基本路線に基づいて実行しなけれ
  ばならず、民族教育の社会主義の性格を保たなければならない」
と改めて強調している。

 このように、中国少数民族の教育には、国民統合の側面と少数民族の民族性への配慮の側面が両方含まれているが、中国共産党の指導と社会主義方向の堅持ということはあくまでも少数民族教育を発展させる前提条件であり、民族性の育成という問題より優先されている。つまり、中国人としてのナショナリティの育成は朝鮮族教育の第一の任務であり、朝鮮族としての民族性の育成はその第二の任務であるのである。
 朝鮮族学校では社会、地理、歴史などの文系の科目と理系のすべての科目において統一教材をそのまま翻訳した教科書を使っており、普通の漢族学校と同じような内容を教えている。また、朝鮮族学校の特徴付けともいえる「朝鮮族歴史」という科目はまだ開設しておらず、朝鮮語の教科書においても国民教育の内容は全体の3割を占めており、朝鮮族としての民族性を育成するための内容は1割程度にとどまっている。
 このような状況はまさに「中国人としてのナショナリティを第1、朝鮮族としての民族性を第2」という原則の現れであるといえよう。
 ところが、中国人としてのナショナリティを育成する教育は基本的に総人口の圧倒的多数(92%)を占める漢民族の教育である。そのために、少数民族の民族教育の発展は必ずしも自民族文化の発展を促進するとは限らず、少数民族の漢民族化を促してしまう可能性があり、少数民族の反発を招く可能性もある。そこに中国人としてのナショナリティと少数民族としての民族性の矛盾が生じるのである。
 このような矛盾を抱えている民族教育にとって、両者の関係をいかにうまく処理するのかということは、たいへん難しい問題である。
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海南島からの朝鮮人帰還について 24(最終回)

2007年05月20日 | 海南島からの朝鮮人帰還
付記:聞きとりの意味と方法について
 日本政府・日本軍・日本企業は、アジア太平洋地域における国家犯罪・侵略犯罪を隠し続けている。
 日本人は、侵略犯罪者・戦犯ヒロヒトを、アジア太平洋戦争後も、天皇とし続けた。植民地機関の職員、日本軍の兵士、侵略企業の職員として、アジア太平洋の各地で、多くの民衆を殺傷した日本民衆は、日本敗戦後に帰国して、過去の犯罪を隠し続けた。
 日本政府・日本軍・日本企業の国家犯罪・侵略犯罪にかかわる証拠文書は多くは残されていないか隠されたままである。したがって、その歴史的事実を解明するためには、犠牲者、加害者、目撃者からの聞きとりが重要である。
 本稿執筆にあたっては、とくに聞きとりを重視した。
 聞きとった証言を歴史的事実確認の証拠とするためには、史料批判(信憑性の検証)が必要であるのは、文書史料と同じである。聞きとりは、歴史的事実を解明するうえで重要な作業だが、証言=事実、とすることができないのは当然である。聞きとりの内容の真実性をたしかめるために、他の証言や文献資料や実物資料、状況資料(当時の社会・経済関係、当時の地形・自然環境、当時の生活状態)との照合も可能なかぎり行なわなければならない。
 聞きとりは、証言者と聞きとり者との共同作業である。1回だけの聞きとりは限界がある。
 筆者ら紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員は、1998年6月以後2003年8月まで、「朝鮮村」や后石村や新村で、同じ人びとからの聞きとりを3回~6回おこなった。そして、そのたびに新しい事実を知り、曖昧であった点を明確にすることができた。
 証言してくださった方がたに感謝する。
 こんご、さらに海南島や韓国、さらには北朝鮮で、聞きとりをさせていただき、事実をよりはっきりさせていきたい。
 また、日本では、加害者が証言を拒否しているが、この証言拒否の壁を、つきくずしていきたい。
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海南島からの朝鮮人帰還について 23

2007年05月19日 | 海南島からの朝鮮人帰還
おわりに:課題
 「朝鮮村」虐殺の事実を、虐殺者たちは、隠し続けてきた。
 虐殺を目撃していた村人の証言がなければ、虐殺の事実は明らかにされなかっただろう。
 筆者が、海南島で「朝鮮の囚人」が働かされていたことをはじめて知ったのは、1980年代はじめ、日本窒素や西松組の社員あるいは海軍施設部員として日本占領下の海南島で労務管理などをしていた日本人の座談会の記録を読んだときだった。そのとき、仲間とともに民衆的な共同研究の具体的な方法を模索しつつ、海南島で働かされていた「朝鮮の囚人」について追求していけば、わたしたちは現地の人びとともっと早くつながることができ、「朝鮮村」虐殺の事実を1970年代に掴むことができただろう。
 日本政府はいまなお、「南方派遣朝鮮報国隊」の名簿を公表していない。
「朝鮮村」に埋められてきた朝鮮人。その人たちの名は、いまだ、ひとりも明らかになっていない。
 虐殺した日本人は日本に戻り、「平和」に暮らし続けた。なぜ、このようなことができたのか! かれらに事実を語らせなくてはならない。 20世紀末に、国民国家日本は、侵略のシンボルを日本国旗とし、「日本国民」を侵略と差別の国民国家に統合する天皇への賛歌を国歌とし、他地域・他国軍事侵略を準備する法律(「周辺事態法」)を施行した。21世紀はじめに、日本軍は、アフガニスタン侵略戦争に参戦した。いま、侵略思想と差別意識を子どもたちに植えつけ、日本国家主義を煽動する書物を教科書としようとする策動が、日本で強化されている。
 現在の日本国家に、「朝鮮村」虐殺の情景が映し出されている。
 2001年1月の発掘で、「朝鮮村」周辺に住む人びとの証言どおり、多くの朝鮮人が残酷な方法で殺害されたことがはっきりした。だが、その全容は、まだほとんど明らかになっていない。
 日本の兵士たちは、「朝鮮村」でおこなったのと同質のことを、アジア太平洋の各地でおこなってきた。それらの犯罪行為のすべてが明らかにされなければならない。日本政府は、事実を調査し、謝罪し、賠償し、責任者を処罰しなければならない。
 こんご、さらに、異土で命を失わされ故郷に帰還できない朝鮮人一人ひとりの生と死の軌跡をすこしでもはっきりさせていきたい。
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海南島からの朝鮮人帰還について 22

2007年05月18日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 14
Ⅲ、日本軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性の帰還
 日本軍は、台湾拓殖株式会社などをつかって、日本人女性だけでなく、海南島の漢族の女性や朝鮮・台湾などから連行した女性を日本軍隊性奴隷とした(49)。
 海南島では、「慰安所」に監禁する性奴隷制度とは別個に、村落に侵入した日本軍の将兵による黎族、苗族の少女にたいする性的暴行、自由剥奪、継続的性的犯罪がおこなわれた(50)。
 海南島に連行され、軍隊性奴隷とされた朝鮮人女性の数は、はっきりしない。これまでのわたしたちの調査と『文史史料』などの記述を総合すれば、海口、三亜、北黎、石碌、藤橋、陵水などの「慰安所」に収容されていた朝鮮人女性は70~80人である。
三亜の病院で看護婦をしていた中里チヨ氏は、「慰安所」に入れられていた朝鮮人女性の治療を行ったと、1998年8月に、日本神奈川県の自宅で証言している。
 1945年に「三亜航空隊」の第二中隊長であった楢原留次氏によれば、飛行場近くの「つばき荘」という名の「慰安所」には、朝鮮人女性15人が「収容」されていたという(51)。
 海南島の「慰安所」にいれられた朝鮮女性のうち、わたしたちが名前を知ることができているのは、朴来順氏と김옥주씨である。
 朴来順氏からは、保亭に住む張応勇氏がくわしく話しを聞かせてもらっている。張応勇氏の聞きとりによれば、朴来順氏は、日本の軍艦にのせられて、1942年2月に海口につれてこられ、「慰安所」にいれられた。1943年1月に、三亜の「紅沙慰安所」に移された。そこには、田独鉱山の近くで、日本軍人だけでなく石原産業の関係者もきたという日本敗戦後、朴来順氏は故郷に戻ろうとせず、三亜北方の保亭で道路工事などに従事した(52)。朴来順氏は、韓国と中国が国交を樹立してから3年後の1995年に、保亭の病院で亡くなった。79歳だった。
 金玉珠氏(1923年生まれ)は、日本の敗戦後、船がいっぱいになるまで働かされていた慰安所「えびす」で待って、1946年陰暦9月に、日本を経てプサンに戻ったという(53)。

註49 符祝慧『ひとつの史実 海南島「慰安婦」の証言』1998年制作ビデオ。江川きく(中
  里チヨ)「撃沈」、医療文芸集団『白の墓碑銘』東邦出版社、1968年6月。高日蕃・符名風・
  王家俊「南呂“慰安所”」、海南省屯昌県政協文史資料委員会編『屯昌文史』第3輯、
  1993年2月。鍾強「我所知道的日軍黄流機場的“慰安所”」、『鉄蹄下的腥風血雨』下。
  牛泊「北黎日軍“慰安所”簡況」、政協海南省東方黎族自治県委員会文史組編『東方文史』
  第8輯、1993年3月。朱永沢口述「金江、石浮“慰安所”見聞録」、澄邁県政協文史資料委
  員会編『澄邁文史』第10輯(日軍侵澄暴行実録)、1995年。戴沢運「日軍的慰安所」、政治
  協商会議海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』第6輯、1997年1月。何十
  里「石碌鉄礦“慰安所”実録」、『昌江文史』第6輯。羊杰臣「日軍侵崖期間残害婦女的
  罪行」、『三亜文史』第5輯。西野瑠美子「私が看た海南島海軍病院の「慰安婦」たち 元海
  軍従軍看護婦の体験」、『週刊 金曜日』1997年5月23日号、金曜日社。蘇智良『慰安婦研
  究』上海書店出版社、1999年3月。朱徳蘭編『台湾慰安婦調査と研究資料集』中央研究院
  中山人文社会科学研究所(台湾)、1999年7月。西野瑠美子「置き去りにされてきた日本人「慰
  安婦」 誰が誰によりどう移送されたか――海南島の場合」、『世界』2000年12月号、
  岩波書店。など参照。
註50 キム チョンミ・佐藤正人「海南島における日本軍隊性奴隷制度と強制連行・強制労働 
  2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰
  安婦’’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
註51 楢原留次「海軍経歴と海南島勤務」、『三亜航空基地』三亜空戦友会事務所刊、1980年。
註52 朴来順口述、張応雄整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭
  黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』第9輯(紀念抗日戦争勝利50周
  年)、1995年8月。朴来順口述、張応雄整理「我被騙逼当日軍“慰安婦”的経歴」、『鉄
  蹄下的腥風血雨』下。など参照。
註53 韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊対策協議会編『強制的につれていかれた朝鮮人軍慰安
  婦』3、図書出版ハヌル、1999年10月、91~118頁。
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海南島からの朝鮮人帰還について 21

2007年05月17日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■3、海南島からの朝鮮人帰還 13
Ⅱ、朝鮮人「居留民」、「軍人」・「軍属」の帰還 5
 日本敗戦後、1950年4月まで、海南島は、中国国民党に支配された。国民党政府・国民党軍は、技術をもつ朝鮮人と台湾人を、日本敗戦後すぐには帰国させず、1946年夏ころまで、機械工場などで働かせたようである。
 日本敗戦後ただちに、海口、八所、三亜などで、朝鮮人の組織がつくられた。その組織の実体はまだほとんど明らかになっていない。組織名も証言者によって異なり、はっきりしていない。統一した組織名はなく、地域によってそれぞれ異なっていたとも考えられる。
 1945年12月1日、海口で、朝鮮人へのコメ配給要求を拒否した日本海軍特務部政務局長溝口征大佐を、金元植氏(30歳)が射殺した。国民党官憲に逮捕された金元植氏は、翌年2月に脱走したが、再び逮捕され、3月に海口の裁判所で、中国刑法によって、「有期徒刑12年」を宣告された。このときの判決文に、金元植氏は、「海南島韓国人民聯合会会長」と記載されている(48)。

註48 『令達綴(前進指揮所及四六軍)』(第二復員局残務処理部資料課『海南海軍警備府引
  渡目録』。日本防衛研究所図書館所蔵)に、金元植氏への判決文が含まれている。
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