三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「自身の体験伝えた慰安婦被害者が死去 生存者29人に=韓国」

2018年03月31日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/03/30/0200000000AJP20180330001300882.HTML
2018/03/30 11:35
■自身の体験伝えた慰安婦被害者が死去 生存者29人に=韓国
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)は30日、被害者のアン・ジョムスンさんが死去したと伝えた。今年90歳だった。

【写真】2017年8月、慰安婦に関する行事に出席したアンさん=(聯合ニュース)

 アンさんは1941年に中国に連れて行かれ、45年まで慰安婦としての生活を強いられた。解放(終戦)後の46年に帰国し、92年からソウル郊外の京畿道・水原に暮らした。93年に慰安婦被害者として登録、2002年から本格的に自身の被害を証言する活動をしてきた。
 韓国政府に登録されている慰安婦被害者239人のうち、今年死去した被害者はアンさんが3人目で、存命者は29人に減った。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30175.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-03-31 09:07
■[フォト]“慰安婦”被害者 アン・チョムスンさんの最後の夏
 30日午前10時、逝去 
 残る生存者は29人

【写真】2017年8月3日、京畿道水原の自宅でキム・ドンヒ戦争と女性人権博物館副館長と談笑するアン・チョムスンさん=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社

 日本軍性的奴隷制被害者アン・チョムスンさんの訃報が30日午前10時頃伝えられた。享年90歳。
 1928年ソウルの麻浦(マポ)で生まれたアンさんは、早くに父親と死別し、未亡人の母を助けて厳しい幼少期を過ごした。14歳だった1942年、「ソウル麻浦、ポクサゴルの大きい精米所前に何歳までの女たちは皆集まれ」という放送を聞いて、母親と出て行ったおばあさん。米を量る秤に順に上がって、歳は幼いが体重があるという理由でトラックに乗せられた。その周辺に立っていた銃を構えた日本の軍人と朝鮮の人々、トラックに掴まって、なぜ私の娘を連れて行くのかと泣き叫んだ母親をアンさんは長く記憶した。
 汽車で平壌(ピョンヤン)、北京を経て、「山もなく砂だけが見える所」に連れて行かれ苦難に遭ったおばあさんは、戦争が終わった後に故郷に帰ってきた。モチ蒸し器を頭にのせて娘が帰ってくるよう祈りながら売り歩いた母親。その母親と劇的に対面したが、その後アンさんの人生は寂しかった。(韓国挺身隊問題対策協議会アン・チョムスンさん弔問譜参考)
 生涯独身で生きてきたアン・チョムスンさんは、姪の助けで世の中に存在を知らせた後、水曜集会やアジア連帯会議など多様な活動に参加し、活発に日本軍性的奴隷制問題の解決のために働いた。
 「悪いことをした奴らが自ら反省すべきなのに…」生前に繰り返しおっしゃったアン・チョムスンさんの言葉と共に、2018年8月水原(スウォン)のご自宅でしばらく一緒に過ごしたおばあさんの最後の夏を思い出す。その夏の明るい微笑のように、苦しまずゆっくり休んでください。

【写真】アン・チョムスンさんが昨年8月3日、京畿道水原市の自宅で、門までお客さんを見送りに出てきて、手をあげて挨拶している=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
【写真】アン・チョムスンさんが京畿道水原市の自宅の居間で笑顔でキム・ドンヒ戦争と女性人権博物館副館長を迎えている=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
【写真】アン・チョムスンさんの水原の自宅に、おばあさんの若い時期の写真が置かれている=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
【写真】移動が不自由なおばあさんのために、さほど大切でない日用品はほとんど手を伸ばせば届く範囲の床に集められている。底に置かれた鏡にアン・チョムスンさんの顔が映っている=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
【写真】きれいに飾った手をそろえて、キム・ドンヒ戦争と女性人権博物館副館長と談笑するアン・チョムスンさん=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
【写真】アン・チョムスンさんの最後の夏。小さな庭には草木が多い=水原/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社
【写真】2017年5月6日、京畿道広州市のナヌムの家で開かれた孝道祭りに参加したアン・チョムスンさんが、孝行写真の撮影中に明るく笑っている=広州/イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社

イ・ジョンア記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/women/838414.html
韓国語原文入力:2018-03-30 15:51


http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2018/03/31/2018033100393.html
「朝鮮日報日本語版」 2018/03/31 08:32
■訃報:アン・ジョムスンさん90歳=元慰安婦
 元従軍慰安婦のアン・ジョムスンさん(90)が30日に死去した。アンさんの死去で、元慰安婦の生存者は29人になった。今年に入って3人の元慰安婦が世を去った。
 アンさんは1928年にソウルの麻浦で生まれた。42年に「女子は大きな精米所の前にみんな集まれ」という街頭の放送を聞いて出ていくと、日本軍によって中国大陸の慰安所へ連れていかれたという。太平洋戦争が終わると、アンさんは昼も夜も歩き続け、46年に故郷へ戻った。2002年から従軍慰安婦問題の解決を目指して平和人権活動家として活動し、自分の被害を証言した。「日本の心のこもった謝罪を受けるのが最後の望み」と語っていたという。アンさんは水原の亜洲大学病院で持病の治療を受けていたが、30日午前10時30分ごろ息を引き取った。出棺は1日午前8時、埋葬先は京畿道水原市の蓮花場。


「聯合ニュース」 2018/03/30 17:09
■旧日本軍の慰安婦被害者死去 韓国閣僚が哀悼の意
【ソウル聯合ニュース】韓国の鄭鉉栢(チョン・ヒョンベク)女性家族部長官は30日、旧日本軍の慰安婦被害者のアン・ジョムスンさんが死去したことを受けて哀悼の意を示した。

【写真】ソウル近郊の病院内の葬儀場に飾られたアン・ジョムスンさんの遺影=30日、水原(聯合ニュース)

 鄭氏は、今年に入りすでに3人の被害者が亡くなったことに対し「悲痛な思いを禁じ得ない」と述べるとともに、「女性家族部はアンさんを含めた全ての被害者の傷を癒やすため一段とサポートに努める。名誉と尊厳の回復に向け、記念事業を拡大する」と表明。遺族らをいたわるため葬儀場を弔問する予定だ。
 アンさんの死去により、韓国政府に登録されている慰安婦被害者239人のうち存命者は29人に減った。
コメント

「南京大虐殺の生存者・顧秀蘭さんと馬淑勤さんが26日に死去 」

2018年03月30日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://j.people.com.cn/n3/2018/0328/c94475-9442862.html
「人民網日本語版」 2018年3月28日16:22
■南京大虐殺の生存者・顧秀蘭さんと馬淑勤さんが26日に死去

【写真】生前の馬淑勤さん(撮影・毛勁松)。

 中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館が微博(ウェイボー)公式アカウントに掲載した情報によると、南京大虐殺の生存者だった顧秀蘭さん、馬淑勤さんの2人が3月26日に亡くなった。中国新聞網が報じた。
 1924年11月10日生まれの顧さんは26日午後8時15分に死去した。95歳だった。顧さんは、37年12月に旧日本軍が南京に進軍する前に、父親によって金陵女子大学難民収容所に送られ、翌年2月まで避難していたため、幸いにも大虐殺に巻き込まれことはなかった。
 27年7月12日生まれの馬さんは26日午後11時50分に死去した。91歳だった。馬さんは、旧日本軍が南京で行った虐殺行為を自分の目で見た証人だった。旧日本軍が南京に進軍する前、馬さんの姉3人は漢口に避難していたものの、両親と馬さんと他の姉2人、妹は南京に残り、逃げ遅れた形となった。旧日本軍が南京を爆撃した際、安全なエリアだった管家橋付近に避難し、移り住んでいた。作男の二栓子は、旧日本軍の兵士に連れ去られ、行方が分からなくなった。いとこの男性も妻を守ろうとして、旧日本軍の兵士に銃殺された

【写真】体調を崩し、病床に伏していた顧秀蘭さん(画像は中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館の微博公式アカウントから)。
【写真】生前の馬淑勤さん(撮影・毛勁松)。


http://www.recordchina.co.jp/b163210-s0-c30.html
「Record china」 2018年3月27日(火) 17時50分
■同じ日に2人…、南京事件の生存者が相次ぎ死去
 2018年3月27日、中国新聞網は南京事件の生存者2人が26日に息を引き取ったことを伝えた。
 記事によると、26日に亡くなったのは95歳の顧秀蘭(グー・シウラン)さんと91歳の馬淑勤(マー・シュウチン)さん。いずれも病気が原因という。記事は「1937年12月の日本軍侵攻前に顧さんは金陵女子大学難民収容所に避難させられ難を逃れた」「馬さんの3人の姉は日本軍が南京を占領する前に漢口に避難したが、馬さんと両親、2人の姉と妹は南京から出られなかった。妻を守ろうとした馬さんのいとこは日本軍に銃殺された」と報じている。


http://j.people.com.cn/n3/2018/0228/c94475-9431110.html
「人民網日本語版」 2018年2月28日15:04
■南京大虐殺犠牲者3人が2月に死去 生存者100人以下に
 南京大虐殺の犠牲者は、中国侵略日本軍による南京大虐殺の生き証人であり、彼らの個人的な体験と記憶は、南京大虐殺という世界が記憶に留めるべき遺産を積み重ねる存在だ。歳月が流れ、彼らも老いてきている。今月、劉庭玉さんと李素雲さん、李高山さんの南京大虐殺犠牲者3人が次々とこの世を去った。これで、南京大虐殺犠牲者として登録されている生存者の数は100人以下となった。26日午前、中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館は、亡くなった3人の老人のために、黙とうと献花、点灯式を執り行った。揚子晩報が伝えた。
 2月25日午後6時38分、南京大虐殺の犠牲者で南京保衛戦の元兵士という2つの身分を持つ最後の生存者だった李高山老人が死去した。2月に入ってこの世を去った犠牲者は、李老人で3人目となった。これより前、2月10日午後10時50分に劉庭玉老人が、2月11日午後3頃に李素雲老人が、それぞれ還らぬ人となった。
 「歳月人を待たず」の通り、生存者が一人また一人とこの世を去り、犠牲者の記憶を記録し、整理するという急務は、時間との闘いとなっている。中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞紀念館の陳俊峰・副館長は、「生存者の証言は、さらに貴重となっている。紀念館は、数年前から、生存者の口述内容の整理を繰り返し、老人たちの証言や証拠品の保留に努めている。紀念館は常に南京大虐殺の犠牲者を探し求めてきた。最近になって、複数の新たな犠牲者を見つけることができた。我々は、専門家に依頼して、彼らの証言に対する論証を進めてもらっている。彼らから希望があれば、彼らを生存者リストに組み入れるつもりだ」と語った。

【写真】李高山老人(画像は中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館公式微博より)


http://j.people.com.cn/n3/2017/1211/c94475-9302983.html
「人民網日本語版」 2017年12月11日15:27
■「南京大虐殺」最高齢の生存者が死去 享年100歳
 中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞紀念館の公式微博(ウェイボー)は10日午前2時、南京大虐殺の生存者の中で最年長だった管光鏡さんが死去したことを明らかにした。享年100歳だった。同紀念館の凌曦・副館長および中国侵略日本軍被害者援助協会の職員が故人宅を弔問に訪れ、最後のお別れをした。人民網が報じた。
 桶職人だった管さんの暮らしは非常に質素で、しばしば他人を助けるなど、地元での評判はとても高く、これまで「鎮の文明家庭」や「江蘇省の『楽天的』な健康老人」といった称号を授与されたこともあるという。管さんは90歳の時、紀念館をこっそり見学し、犠牲となった同胞に追悼の意を捧げていた。生前は、「十大元帥」が印刷された扇子が大のお気に入りで、「今の素晴らしい生活は、革命に大きく貢献したこれらの先人のおかげだ」と話していた。管さんの遺族は、このお気に入りの扇子や腕時計、急須などの品を紀念館に寄贈する予定だという。
 管光鏡さんは1917年4月生まれで、1937年に■水東河(■はさんずいに栗)沿いで旧日本軍機が襲来し、爆撃するのを目撃した。彼は大きな石の下に身を隠し、運よく難を逃れた。南京陥落後は、旧日本軍が南京郊外で罪のない住民を殺戮するのを幾度となく目にしたという。
 名簿に登録されている南京大虐殺の生存者は現在100人を満たない。彼らは、中国侵略日本軍による暴行を目撃した動かぬ証拠であり、生き証人と言える。月日は流れ、生存者は次々とこの世を去っているが、この歴史は永久に消えることはない。


「人民網日本語版」 2017年12月13日16:41
■「時間と闘いながら、南京大虐殺の史料を発掘」

 「16日……夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す」。
 「17日……捕虜残部一万数千を銃殺に附す」。
  ………………

 これは、中国を侵略した旧日本軍の元兵士・菅野嘉雄さんが80年前に書いた陣中日記だ。このメモを入手した小野賢二さんは1988年から、南京大虐殺に関与した旧日本軍の元兵士の資料の発掘に努めている。人民日報が報じた。
 1937年12月、旧日本軍は南京を侵攻し、武装解除した中国の軍人や何の抵抗力もない一般市民30万人を殺害した。南京大虐殺に参加した部隊の一つに、福島県出身の兵士で編成された第13師団歩兵第65連隊がある。小野さんはこれまで約30年間、福島県の隅々まで歩き回り、同部隊の元兵士や遺族約300人を訪ね、200人以上の証言を整理し、陣中日記・メモ31冊を集めた。
 「南京大虐殺の動かぬ証拠は山ほどあり、改ざんすることはできない」。小野さんによると、中国を侵略した旧日本軍の元兵士の日記を含むたくさんの資料を何度も比較、論証し、それに基づいて南京大虐殺を実際に経験した人に直接聞いた証言をまとめると、1937年12月16日から、第13師団歩兵第65連隊は幕府山付近の長江岸で、中国人1万7000人~1万8000人を殺害した。90年代初め、小野さんのこの調査結果を日本メディアが報道すると、日本の右翼から強い反発を受けた。しかし、小野さんの調査結果は、詳細で正確な史料や実際の経験者に対する調査を根拠にし、たくさんの証拠に基づいた結論であったため、右翼はそれに疑いをはさむことも、批判したり攻撃したりすることもできなかった。
 96年、小野さんは藤原彰さんや本多勝一さんらと共に、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」を日本で刊行した。日本の専門家は、「同書は、『南京大虐殺というのは自衛のための手段だった』、『南京で大虐殺があったという事実はない』などがうそ偽りだったことを暴露する、南京大虐殺事件を知るための貴重な史料」との見方を示した。
 「日本ではとてもナイーブで疑念を持たれやすい、この課題に関する調査・研究を続けていく思いを支えてきた力は何なのか?」との質問に、小野さんは、「一人の日本人として、一体何が真実なのかをはっきり調べたかった。そして、南京大虐殺の一端の真相をはっきりさせたかった」と答えた。
 90年代に旧兵士の黒須忠信さんを訪ねた時のことについて、小野さんは、「黒須さんは晩年、南京大虐殺に参加したことを本当に悔いていた。以前、『俺は許されない罪を犯した。天罰を受けた。一番上の息子は、俺が召兵されてすぐに亡くなり、二番目の息子も私より早く亡くなってしまった』と話していた」という。
 小野さんについてよく知る複数の日本人学者によると、小野さんは正義感が非常に強く、南京大虐殺を否定する右翼を見て、自身が集めた資料や実際の経験者の口述資料などを通して、日本社会が歴史的事実を基礎としてそれを教訓にし、悲劇が二度と起こらないことを願っているという。「南京大虐殺を調査することが俺の課題」と小野さん。
 「収集した史料を通して、南京大虐殺の真相を明らかにし、事実に基づいて話すということは、とてもたいへんな仕事。でも、それは、南京大虐殺を否定する右翼との闘いに勝つために必要な武器」。調査・研究のほかに、小野さんは、一人でも多くの日本人に南京大虐殺について知ってもらおうと、自身の成果を日本人に伝えている。小野さんの話す全ての言葉には、歴史資料の証拠があるだけでなく、さまざまな歴史資料が相互にそれが真実であることを示しているため、日本の右翼は小野さんを目の敵にしているものの、反論することができないという。
 小野さんは、「俺は時間と闘いながら、南京大虐殺の史料を発掘している。もう歳で、関連の調査ができなくなる日も近い。もう、元兵士は生存していない。陣中日記などの資料もどんどんなくなっている。今しなければ、今後二度とできなくなり、ずっと悔いが残ってしまう」と語った。

【写真】書斎で自身の研究を紹介する小野賢二さん。机に並ぶのは小野さんが収集した旧日本軍の元兵士の日記・メモ(撮影・劉軍国)。
【写真】旧日本軍の元兵士・菅野嘉雄さんの1937年12月13—20日の日記(撮影・劉軍国)。
コメント

「「南京大虐殺」生存者が死去、13歳で「南京保衛戦」参戦」

2018年03月29日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.recordchina.co.jp/b574724-s0-c30.html
「Record china」 2018年2月26日10時50分
■「南京大虐殺」生存者が死去、13歳で「南京保衛戦」参戦

【写真】中国江蘇省の「南京大虐殺記念館」は、南京大虐殺の生存者で今年94歳になる李高山さんが25日夜、病気のため自宅で死去したと伝えた。写真は同記念館。

 2018年2月25日、中国メディアの澎湃新聞によると、中国江蘇省の「南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)」は公式ウェイボーで、南京大虐殺の生存者で今年94歳になる李高山(リー・ガオシャン)さんが同日夜、病気のため自宅で死去したと伝えた。
 南京大虐殺記念館は、李さんについて「(日中戦争中の)1937年、当時13歳だった李さんは『南京保衛戦』に参戦した。南京陥落後、旧日本軍に2度捕まったが、ともに運良く逃げることができた」などと紹介した。


http://www.recordchina.co.jp/b563357-s0-c30.html
「Record china」配信日時:2018年1月29日7時0分
■「南京大虐殺」生存者の女性が死去=当時産後40日、「夫は日本兵に殺害」と伝えられる
 2018年1月27日、中国メディアの澎湃新聞は、「南京大虐殺」の生存者の陳玉蘭(チェン・ユーラン)さんが26日、死去したと伝えている。
 記事によると、南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)が27日明らかにしたもので、南京事件が起きた1937年の冬、当時18歳だった陳さんは結婚11カ月目で、娘を出産して40日余りだった。日本軍侵攻後、24歳の夫とともに上海路にある難民区に逃げたが、夫は日本兵に連行され殺害されたという。


http://www.recordchina.co.jp/b163215-s0-c10.html
「Record china」 2018年1月12日6時50分
■「南京大虐殺」の生存者が死去、「兄は日本兵に銃殺」と伝えられる
 2018年1月11日、中国網などによると、南京大虐殺記念館(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館)が中国版ツイッター・微博(ウェイボー)のアカウントを通じ、南京事件の生存者の女性が10日深夜1時39分に亡くなったと発表した。
 亡くなったのは陳鳳英(チェン・フォンイン)さん。陳さんは1925年9月20日生まれの92歳。記事は、「日本兵から逃れるために髪を剃り、南京市江寧区の村にあった洞窟に身を潜めた」「陳さんの兄の陳興林(チェン・シンリン)さんは日本兵に銃で撃たれて死亡した」などと伝えた。
 微博にはネットユーザーから「どうぞ安らかに」「来世では幸せになってください」といったコメントともに、哀悼を表すロウソクの絵文字が多数投稿されている。
コメント

「韓国外交部当局者「韓日慰安婦合意後続措置の意見取りまとめ、仕上げ段階に」」

2018年03月28日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.joins.com/article/974/239974.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|article|ichioshi
「中央日報日本語版」 2018年3月27日9時49分 
■韓国外交部当局者「韓日慰安婦合意後続措置の意見取りまとめ、仕上げ段階に」
 今年1月に韓国政府が韓日慰安婦合意に対する立場を発表して以降、後続措置に向けて進められてきた意見の取りまとめ手続きが仕上げ段階に入ったことが伝えられた。
 韓国外交部当局者は26日、外交部出入り記者に対して「慰安婦合意後続措置に関連して、国内と対日の2つの側面がある」とし「10億円の充当予算、和解・癒やし財団の処理問題などに関連し、女性家族部を中心に国民世論を取りまとめる作業が仕上げ段階に入った」と述べた。
 この当局者は取りまとめた意見について「関連団体、市民の意見から表明が数回あった」とし「そのような部分で画期的な変化はなかったものと承知している。その大部分はこれまで出てきた意見の延長線上から出たようだ」と付け加えた。
 続いて「現在、予算問題に関連して女性家族部と企画財政部が協議中だ。そのような措置がある程度一段落して見えてくれば、今後日本と10億円の処理問題、韓日慰安婦合意の根幹に関連している財団処理問題などをめぐり協議することになるだろう」と述べた。
 これに先立ち、康京和(カン・ギョンファ)外交部長官は1月の慰安婦合意に対する立場発表を通じて、被害者や関連団体、国民の意見を取りまとめて、被害者中心の措置を模索していくと明らかにした。特に、日本政府が「和解・癒やし財団」に拠出した10億円は韓国政府の予算で充当し、基金の処理方案については日本政府と協議していくと述べていた。
 しかし日本の安倍晋三首相は韓国の後続措置に関連して「慰安婦合意1ミリも動かず」と述べるなど強硬な立場を崩しておらず、今後の韓日政府間の協議は難航する見通しだ。


http://japanese.joins.com/article/990/239990.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2018年3月27日11時53分
■韓日慰安婦合意TF前委員長が駐大阪韓国総領事に内定?

【写真】呉泰奎慰安婦合意TF委員長が2017年12月27日午後、ソウル外交部庁舎でTF結果を発表している。

 韓日慰安婦被害者問題をめぐる合意検討タスクフォース(TF)委員長を務めたハンギョレ新聞の呉泰奎(オ・テギュ)元論説委員室長が大阪総領事に内定して論争が予想されると韓国の通信社ニュース1が報じた。
 ニュース1によると、韓国外交部は今回の春季公館長人事で呉泰奎氏を大阪総領事に内定したことが分かった。内外部の推薦により呉氏を特任公館長に抜てきしたと伝えられる。
 ニュース1は呉氏は昨年7月、慰安婦TF委員長を務めて2015年に妥結した韓日慰安婦合意に被害者中心のアプローチが不足し、不均衡な合意になったと指摘した。その後、韓国は慰安婦合意で問題が解決されていないとした一方、日本は約束した通りに合意を誠実に履行することを求めて反発している。呉氏が対日外交の第一線で両国間友好増進の役割を果たすのに適合しているか疑問が提起される理由だ。相手国である日本を配慮していない人事という指摘も出ている。
 呉氏は1月、あるメディアフォーラムで「合意を維持すれば日本は両手を挙げて歓迎するだろうが、合意が手続き的、内容的に誤ったという文在寅(ムン・ジェイン)大統領の判断が下された以上、合意をそのまま維持するのは容易ではない」と明らかにし、「破棄や再交渉が難しい韓日慰安婦合意の解決法として旧ソ連と日本が結んだ平和条約がある。実際の履行期間を定めず不能状態にして両国文書が残っているにも関わらず、外交的に不可能にさせて無効化することができる」と韓日慰安婦合意に対する解決法を提示したことがある。


http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2018/03/27/0400000000AJP20180327003300882.HTML
「聯合ニュース」 2018/03/27 15:45
■韓国駐大阪総領事に呉泰奎氏 元慰安婦合意検証作業部会トップ
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦問題を巡る韓日合意の検証を行った韓国外交部長官直属のタスクフォース(TF、作業部会)の委員長を務めた呉泰奎(オ・テギュ)氏(57)が駐大阪総領事に内定したことが27日、分かった。
 呉氏は元記者で、革新系ハンギョレ新聞の東京特派員や論説室長などを務めた。文在寅(ムン・ジェイン)政権の事実上の政権引き継ぎ委員会の役割を担った「国政企画諮問委員会」の社会分科委員としても活動した。
 昨年7月にタスクフォースの委員長に就任し、同年12月、合意は「被害者の意見を十分に集約しなかった」などと指摘する内容を盛り込んだ報告書を発表した。
 韓国政府は報告書を踏まえ、今年1月に合意に関する新方針を発表。合意は慰安婦被害者にとって真の解決にならず、被害者中心の後続措置を模索する立場を表明した。これに対し、日本側は「合意は1ミリも動かさない」と明言し、両国の議論は平行線をたどっている。
 結果的に両国の対立の火種となった事案を主導した人物を駐大阪総領事に内定したことについて、外交的に適切なのか疑問視する声も出ている。総領事の主な役割の一つは両国の親善促進のため、適切な人事ではないとの指摘だ。


「朝鮮日報日本語版」 2018/03/27 21:21  安俊勇(アン・ジュンヨン)記者
■慰安婦合意を批判した呉泰奎氏が駐大阪総領事に、日本は反発ムード
 一部では「天下り」の指摘

 昨年、韓日慰安婦合意を検証する韓国外交部長官直属のタスクフォース(TF)で委員長を務めた呉泰奎(オ・テギュ)氏(元ハンギョレ新聞論説室長)が、次期駐大阪総領事に内定したことが分かった。日本の産経新聞が27日報じた。任期は3年で、呉氏は来月初めに赴任する。
 呉氏は文在寅(ムン・ジェイン)政権の発足直後、大統領直属の国政企画諮問委員会社会分科委員として活動した。昨年7月からは外交長官直属の慰安婦合意TFの委員長を務め、朴槿恵(パク・クンヘ)政権時代の韓日慰安婦合意について、交渉過程や合意内容などを検証した。12月27日には自ら「(慰安婦合意は)被害者を排除した政府中心の交渉だった」との報告書を発表した。
 この検証結果報告書を基に、文大統領は「韓日慰安婦合意は手続き・内容とも重大な誤りがあった」との立場を発表し、日本は強く反発した。27日の産経新聞も呉氏が慰安婦合意TFの委員長だったことに言及し「合意の『非公開部分』を公開した」と強調した。
 駐大阪総領事はアグレマン(駐在国の任命同意)などの手続きが必要ないため、呉氏の赴任は確実だ。韓国政府が慰安婦合意TFの検証結果発表からわずか3か月でTFの委員長を総領事に内定したことに対し、日本国内では反発ムードが漂っているようだ。
 一部では、韓国政府がまたしても天下り人事で呉氏に公館長ポストを与えたとの指摘が出ている。政府は今年初めにも駐ドイツ大使、駐上海総領事などの要職に、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代の要人や文大統領の側近らを相次いで任命し、論議を呼んだ。
コメント

「“死んでも帰ってくるな”…4・3で済州島を離れた人たち」

2018年03月27日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30141.html
「The Hankyoreh」 2018-03-27 10:47  
■[済州4・3事件ー70周年企画2] 4・3で済州島を離れた人たち
 “죽어도 돌아오지 말라”…4·3으로 제주 떠난 사람들
 生きるために済州を離れなければならなかった人たち 
 4・3の狂風から逃れ日本へ、陸へと渡った「ディアスポラ」 
 「死んでも帰ってくるな」…生涯故郷を思い描いて

【写真】キム・イソンさん家族が離散家族の再会を通じて58年ぶりに北朝鮮にいる兄に会ったことを記念し、済州市朝天邑新安洞の両親の墓の前に立てた「兄妹再会記念碑」をキムさんの息子のパク・ヨンソンさんが見ている//ハンギョレ新聞社

 済州4・3当時、多くの済州の人は日本や陸地に散らばって別れた。済州島に嫌気がさしたり、一人息子や一番上の孫という理由で母や祖母の手に引かれて“死の島”を脱した。軍警討伐作戦が強化され、親は子どもたちと再び会えなくなることを知りながらも「子どもを生かすため」密航船に乗せて送り出した。
 「4・3ディアスポラ」はこのように始まった。荒海を渡る済州の人々は、命がけで船に乗り込んだ。不慣れな土地での生活はつらかったが、死は避けることができた。済州と日本、米国などへと散らばって暮らしたり、北朝鮮に行った兄弟姉妹もいる。彼らは故郷にいる親の訃報を聞いた時も、悔やむばかりで帰って来ることはできなかった。

■日本へ
 済州出身の在日同胞たちが多く住む大阪・生野では、済州島で焦土化が激しかった1949年1月3日、在大阪済州島大静面(テジョンミョン)懇親会が「人民虐殺反対追悼会」を開いたのを皮切りに、町ごとの追悼会が各地で行われた。
 日本への密航経路は、済州から直接行ったり、釜山と対馬を経て山口県と北九州の間の水路を多く利用した。1948年10月下旬ごろから海上警備が強化され、密航船は南九州方面へと航路を変えた。特に焦土化の時期と重なると密航者が急増した。当時日本に駐留した英連邦占領軍の1948年10月25日付「愛媛県を通じた不法入国統制」報告書には、「10月に入り毎日韓国の密航者らが逮捕され、約300人にのぼった」と書かれている。この時期、済州から日本の愛媛県へ密航して逮捕された済州島民は、5回にわたり289人にものぼった。しかし、4・3を逃れて日本に渡った済州の人々に対する具体的な統計はない。4・3が終わる頃、当時キム・ヨンハ済州道知事は「4万人あまりが日本に渡った」と話したが、これを裏付ける資料はない。5千~1万人あまりが日本に渡ったという研究者もいる。
 日本の大阪で生まれ、朝鮮の解放後、故郷の西帰浦市(ソギポシ)大静邑(テジョンウプ)に定着していたイ・チャンスンさん(86・東京)は、中学1年生の時の1948年、友人3人が銃殺される姿を直接目撃した。今年1月14日に東京で会ったイさんは「村にいる人は皆出てこいと言った。出て来なければ『お前もアカだ。銃殺する』と言うので皆出て行った。その場面を一生忘れられない」と話した。イさんは済州を発ってソウルにしばらく滞在し、釜山を経て日本に渡った。イさんは「祖母が1949年に亡くなった後、私に死んでも済州島に帰って来るなと言ったという言葉を、友達を通じて聞いた。長孫なのに祖母の葬儀が行えなかったことが心残りだ」と話した。

【写真】今年1月、東京で会った済州出身の在日同胞2世のウォン・イルトンさんが父と4・3に対する話をしている//ハンギョレ新聞社

 東京・上野で会った在日同胞2世のウォン・イルトンさん(59)から渡された名刺には、名前が「チン・イルトン」となっていた。済州市旧左邑(クジャウプ)金寧里(キムニョンリ)出身であるウォンさんの父(ウォン・ギョンヨン・逝去)も、4・3の頃に生きるために日本へと密航した。済州農業学校在学時代、学生活動をして山に避難した父は、約10人が一緒に討伐隊に漢拏山の野原で銃殺される瞬間、銃が発射されなかった隙に砂穴に落ち、唯一生き残った。その後、叔母の家に隠れたが警察に捕まり、数回の死の峠を越えた父は密航船に乗った。
 ウォンさんは「討伐隊が来た時、父を逃がすために祖母が食い止めて逃げさせたという。その時、祖母は捕まってかなり拷問を受けた後、処刑された。父が3代の一人息子なので、息子を生かそうと祖母はそうした」と話した。済州で暮らせなかった父は、日本に行くために密航船に乗って対馬を経て博多に入った。
 しかし、父は日本の警察に逮捕され、大村収容所に送られた。金寧里出身の在日同胞たちは、父が送還されれば処刑されると言って救命運動を行った。当時の日本のお金で80万ウォンを集め、「チン・テヨン」という名前に変えた外国人登録証を作って父を救った。その時から彼が日本で呼ばれる名前はチン・テヨンだった。日本で生まれたウォンさんは、チン・テヨンの息子の「チン・イルトン」になった。ウォンさんは「父は九州から東京に行く時に祖母の命日を迎え、酒とおにぎりを買い、香をたいて汽車の中で祭祀を行うほど、祖母に対する哀しさと申し訳なさがあった」と話した。
 ウォンさんの父は息子に4・3の話をよく聞かせたが、父は日本で息を引き取る時まで済州島を訪ねなかった。ウォンさんは「父は何度も故郷に行きたいと言いながらも『俺はアカじゃない。母さんを殺した人間に頭を下げられるものか。統一されたら行く』と言って、行かなかった」と話した。40歳を越えて済州を初めて訪れたウォンさんは「幼い頃から村の親睦会活動もして、家では済州の言葉を使いながら育ったから、日本で生まれたが済州島が故郷という自負心がある」と話した。
 4・3、当時中学校1年生だったハン・ギョンイクさん(84・東京)は、当時1年先輩が銃殺され、その先輩の父が「一人息子を生きて返せ」と交番の前に横たわって泣き叫んだようすが生々しいと話した。なかなか4・3の経験を話さなかったハンさんは、「どうして同じ民族を家畜のように殺せるのか。4・3を忘れたことがない」と言った。ハンさんは「日本に渡る前、父が病気の体を起こして杖をついて私を送ろうと停留場まで来た。それが父を見た最後の姿だった」と言い、声を詰まらせた。
 今年1月、日本の川崎で会ったパン・チョンオクさん(81)も、4・3の話は持ち出さなかった。4・3が勃発した1948年、小学校3年生だったパンさんは同年5月に父について木浦(モッポ)で生活し、1951年春に済州に帰ってきた。そのとき聞いた話はあまりにも衝撃的だった。「2年後輩のお母さんが畑で死んだ時でした。西北青年らが住民に向かって、目隠ししたその母親を殺せと言いました。でもどうやって殺せますか。住民たちがおろおろしていると、西北青年たちは住民たちを殺すと脅したそうです。仕方なくその母親に『許してくれ』と言って、竹やりを刺しました。村人たちはそれを内緒にしました。あまりにも残酷で、身震いがしました」。1965年に日本に渡ったパンさんは「どうやって4・3を忘れられますか」と言いながらも、言葉を控えた。

■北朝鮮へ
 「もしかしたら生きているかもと胸を焦がして待った忍耐の月日、数え切れぬほど流した涙、両親を思って眠れず夜を明かした瞬間が、クォンベ兄さんに会って豊かな家族とともにいることを確認して、春の雪が溶けるようにすっと消えました」
 済州市朝天邑(チョチョンウプ)新安洞(シンアンドン)のある家族墓地の夫婦の墓の前には、独特な石碑がある。ちょうど10年前の2008年3月7日、キム・イソンさん(86・済州市朝天邑)ら子どもたちが立てた「兄妹再会記念碑」だ。キムさんは2007年、もしかしたらという気持ちで離散家族再会を申請し、兄が北朝鮮で生きているという連絡を受けた。

【写真】別れて58年後の2007年5月12日、南北離散家族再会行事で再開した北朝鮮の次兄キム・クォンベさんとキム・イソンさん、長姉のキム・イルソンさん(左から)=キム・イソンさん家族提供//ハンギョレ新聞社

 「泣いたらお互いに話もできないので、行くときから絶対に泣かないと約束した。死なずに生きて会えるだけでも嬉しいのになぜ泣くことがあるのか。向こうから歩いてくるのが兄さんだ、と思った。兄さんも『イソン』と私を呼んだ」。2007年5月12日、金剛山で開かれた第15回離散家族再会の時、キムさんは北朝鮮に住む次兄のキム・クォンベさん(90)と再会した。18歳と22歳で別れた兄妹は、58年ぶりに再会したが泣かなかった。兄妹の再会6カ月前に、死にゆきながらも故郷を焦がれた隣町出身(朝天邑新村里)の兄嫁が、北朝鮮の済州島共同墓地に埋められたという話も聞いた。キムさんの息子のパク・ヨンソンさん(64)は「私たちまでの族譜(家譜)を5冊作り、その下に私の子どもと伯母の子どもたちの電話番号を書いて渡した。済州島に来たら食べていけるだけのものはあるから、いつでも来てくださいと言った」と話した。
 4・3当時、陸地刑務所に収監された済州の人々は、朝鮮戦争時代に刑務所の門が開かれ、処刑されたり行方不明になった場合が多い。彼らの中の一部は、自分の意思半分、他人の意思半分で北朝鮮に渡った場合もある。キムさんの次兄はソウルで叔父の会社に通っていた時、朝鮮戦争時代に北朝鮮に行くことになった。
 故郷の朝天で解放後に夜学活動をしていた次兄は、1947年3・1節記念大会でその後警察に目を付けられ、家に帰れないまま隠れて暮らした。4・3が本格化し、次兄を探せという警察の駆り立てで、朝天の収容所に入れられていた父は1949年1月5日、朝天支署の前の畑で銃殺された。15歳だったキムさんは、夜通し父に着せる服を作り、9歳の弟と馬車を借りて父の遺体を運び、近くの畑に仮埋葬した。

【写真】キム・イソン氏が離散家族再会当時着用した名札に書いた「また会おう」という文字に兄妹の哀切さが見える//ハンギョレ新聞社

 父と一緒に収容所に連行された母(キム・チャンファン、当時49)は、同月22日に後を追い犠牲になった。済州市の親戚の家に隠れていた次兄はある日、親が死んだ故郷が嫌だと言い、ソウルに向かった。キムさんの長兄のキム・イムベさん(当時29)は、朝鮮戦争直後に支署で会議があると迎えが来て出て行ったのが最後だった。キムさんの姉のイルソンさん(94)は「最初に済州警察署に連れていかれた長兄は6月に死んだのですが、警察が話さなかったので、同年8月まで差し入れを買って持って行った」と話した。キムさんは後になって警察が長兄を船に乗せ2時間ほど出た後、石に括りつけ海に落として殺したという話を聞いた。姉が嫁に行った後であり、キム・イソンさんは16歳の時から70歳になるまでご両親の祭祀を行った。
 「両親に息子が死なずに生きていて、会ったという事実を知らせたくて、兄妹再会記念碑を建てた。兄は両親が死んだのが悔しくてたまらないから、統一しても来ないだろう」。キムさんの言葉だ。キムさんの家族墓地では、4・3当時犠牲になった親と長兄の碑文が4・3の悲劇を語っていた。

■陸地へ
 先月23日、京畿道高陽市(コヤンシ)で会ったオ・チュジャさん(80、京畿道高陽市)は、国内の「4・3ディアスポラ」の例だ。オさん家族は1946年秋、済州市老衡(ノヒョン)の母方の家を訪ねるために、日本の大阪から木浦を経て済州島に入った。父と母、姉、弟2人全員が来た。オさんは「父がしばらくして後で迎えにくると言い、一人で日本へ渡った」と話した。オさんの父(オ・ヨンス、当時34)は、1947年3・1事件前日の2月28日、妻と子どもたちを連れに済州に来た。翌日の3月1日、遅く起きた父オさんは遅い朝食をとっていたところへ町の班長から「観徳亭広場で3・1節の催しをする。一度行ってみなさい」という言葉を聞き、食事を終えて家を出た。それが最後だった。1947年3・1節記念大会後、警察の発砲で民間人6人が死亡した3・1事件は、4・3の導火線となった。

【写真】オ・チュジャさん//ハンギョレ新聞社

 オさんは「父が出て行ってまもなく、死んだという連絡がきた。母は私たちに家の外に出るなと言い、泣き喚いて大変だった」と言い、「父が死にたくて来たのでもなかろうに、ちょうど合わせて来てしまった。親しく言葉を交わすこともできないまま亡くなった」と回顧した。父が死んだ翌月、忘れ形見で生まれた弟は4歳になった1950年6月に死んだ。6歳年下の弟もその頃死亡した。オさんは「父を亡くした母は一日中海辺に座って海ばかり眺めて暮らした。見かねた叔父が私たちを釜山に連れてきた。母は釜山で苦労して商いをし、またソウルに住居を移してから今年で66年になった」と話した。
 「3・1事件、4・3事件で陸地に出てくることになりました。村の叔父たちは、日本から故郷に帰らなければ何の問題もなかったはずなのに、故郷に戻ってこんなことが起きたと言って、ここを離れるよう言いました」。
 4・3によって離れた人たちの多くは帰って来なかった。不慣れな土地で再び苦しい生活をしなければならず、そこで根を張って新しい土台を築いた。そして日本へ、陸へ、北へ渡った人たちの記憶の中には、いつも「故郷・済州」がある。4・3のディアスポラは現在進行形だ。

東京、済州、高陽/文・写真ホ・ホジュン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/837205.html
韓国語原文入力:2018-03-22 10:33
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「済州の土が血に染まって真っ黒だった…処刑場に行った9歳の私」

2018年03月26日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30111.html
「The Hankyoreh」 2018-03-23 12:41
■済州の土が血に染まって真っ黒だった…処刑場に行った9歳の私■
 제주 흙이 피에 절어 시커멨어, 처형장 가던 내 나이 9살
[済州4・3 70周年企画] 椿に問う
1.オルレ道で出会った4・3
 今年で済州4・3は70周年を迎える。済州4.3特別法は、済州4.3を「1947年3月1日を基点に、1948年4月3日に発生した騒じょう事態および1954年9月21日までに発生した武力衝突と鎮圧過程で住民が犠牲になった事件」と淡々と定義する。しかし、当時の済州島の人口の10%にのぼる2万5千~3万人あまりが犠牲になった「韓国現代史の悲劇」だった。その傷は今も残っている。70周年を迎え、4・3の現在的意味を5回にわたって振り返る。椿の花は4・3の時に赤い血を流して冷たい土の中で音もなく消えて行った済州島民を象徴する。

【写真】旅行客が済州オルレ1コースにある西帰浦市城山日出峰付近にある4・3当時の虐殺跡のトジンモクを通りがかっている//ハンギョレ新聞社

 済州オルレ(トレッキングコース)と有名観光地を訪れると、美しい自然に覆われた済州4・3が見える。済州オルレ17コース(観徳亭)では4・3の始まりを、1コース(トジンモク)と6コース(正房滝)、19コース(咸徳海水浴場と北村里)では虐殺を、13コース(失われた村・造水里下洞)では消えた村を、14コース(チン・アヨンさんの生活場)では個人の悲劇を、10コース(坑道陣地とソッアルオルム)では日本の植民地支配と朝鮮戦争時代の予備検束の現場を訪ねる。済州の悲劇的な近現代史が、そのまま道の上に残っている。

【写真】済州西帰浦市城山日出峰付近で黄色い菜の花をバックに写真を撮る周辺は、4・3当時、日常的な虐殺の場だった//ハンギョレ新聞社

 2歳の時に失った母、夢に見た70代  
 昨年の墓の改葬時「唯一の遺品」発見 
 トジンモク・正房滝・北村里… 
 オルレのいたるところに虐殺の跡が残る

■69年ぶりに訪れた母の銀の指輪
 「母にとても会いたくて、夢でもいいから一度会いたいと切に祈りました。30年ほど前のある日、夢の中にチマチョゴリをきれいに着た方がバスに乗って私の前に立ち、私を見ていたんです。直感的に母だと思いました。新陽里(シンヤンリ)の方に行き私はバスから降りて、その方はそのままバスを乗っていきました」。
 2歳の時に母親を失った城山邑(ソンサンウプ)新陽里の“熟練海女”(潜り漁が一番うまい海女)のカン・スクジャさん(72)が「その母」に会ったのは、昨年7月だった。69年ぶりに移葬するために母の墓を開けてみると、夢の中で見た姿そのままに、母(オ・ゲチュン、当時36)の遺骨は70年たったにもかかわらず白くきれいで、歯もきれいに並んでいた。

【写真】済州4・3当時、トジンモクで母親が犠牲になったカン・スクジャさん(72、城山邑新陽里)が当時を証言している//ハンギョレ新聞社

 4日に会ったカンさんの左手の薬指には、ひときわ輝く銀の指輪があった。カンさんは「69年ぶりに母の墓の移葬作業をして、銀の指輪を見つけた。70年という歳月がたったのに指輪の色は変わらずそのままだった」と話した。
 「びっくりしました。『母さん、この指輪、私がしますね、ありがとう』と言いました。母もたった2歳の私をどれだけ大事にして愛していたか、『この子を置いて私が死なきゃならないのか』と無念に思い、私にあげようとしたのではないか、それとも私を育てられなかった母が、遺品でも私に渡そうとする気持ちがあったんじゃないかという気がしました」。
 69年ぶりにカンさんの手に渡った銀の指輪は、母の唯一の遺品となった。

【写真】昨年7月、69年ぶりに母親の墓を移葬して見つかったカン・スクジャさんの母の銀の指輪//ハンギョレ新聞社

 母親のオさんは、35歳で貴重な娘のカンさんをもうけた。母はカンさんが2歳の時の1948年11月27日、トジンモクで虐殺された。過ちは犯していないのですぐに帰れるだろうと思った母は、赤ちゃんのカンさんを背中におぶって家を出た。「サージのスカートにサージのチョゴリ」で首に手ぬぐいを巻いた姿のままトジンモクに連れられてきた母は、たまたま通りかかった隣人に服と首の手ぬぐいでカンさんをくるみ、姉さん預けてほしいと頼んだ。カンさんと母の最後の別れの瞬間だった。母がトジンモクで犠牲になる数カ月前には、父(カン・テヒョン、当時33)が行方不明になった。
 両親をなくしたカンさんは、母の姉(伯母)の手で育った。大きくなる間に伯母という事実を知ったが、亡くなるまで「母」として一緒に暮らした。
 カンさんにとって海は生活の場だった。4年前に夫と子どもたちに止められ潜り漁をやめたが、最近も一日潜って99キロのサザエを採るほど実力のある熟練海女だ。畑仕事をしていた頃も保険外交員をしていた頃も、海に駆けつけた。夜には子どもの世話をして家事をし、一日24時間では足りないほど懸命に生きた。15歳のころから本格的に潜り漁を覚えたカンさんは、慶尚北道浦項(ポハン)の九竜浦(クリョンポ)や慶尚南道の巨済島(コジェド)はもちろん、日本の三重県の島などに出かけ潜りをしてお金をためた。
 カンさんは「国会に行って政治家たちに『4・3を経験した人たちを暴徒と呼んで、安心して暮らせるようにしてくれたのか。補償が必要だと思うがあなた達はどう思うか』と言いたい」とも話した。
 「潜って漁をして稼いだお金で家も買い、畑も買いました。海がなかったら食べるのも困っただろうのに、海があったからご飯も食べられて、子どもたちを育てることができました。子どもを医者にまでしたので自慢できるでしょう」。
 涙があふれていたカンさんの顔に、笑みが広がった。

 10日午後、世界自然遺産である西帰浦市の城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)へと向かう要所であるトジンモク。済州オルレ1コースの終点だ。穏やかに広がる海と青空が、城山日出峰を背景に一枚の絵を演出していた。道端にはレンタカーが長い列をなしていた。済州の春を知らせる黄色い菜の花を背景に、あちこちで観光客が自撮り棒を持って記念写真を撮りながら、全身で“春”を感じていた。
 一方には「済州4・3城山邑地域良民集団虐殺跡表示石」がある。カンさんの母親のように、城山邑地域の多くの住民がここで犠牲になった。トジンモクは当時、日常的な虐殺の場であった。国内外の観光客に済州で最高の絶景とされるここは、住民たちが言うように「恨みと涙の地」だ。4・3の焦土化の時期の1948年秋、西北青年団で構成された特別中隊がここに駐屯し、この絶景の場は「死と慟哭の声」が絶えない場所に変わった。1948年10月から翌年1月までにここで虐殺された住民は400人以上だ。
 一カ月の日程で済州に来て、済州オルレを歩いて3日目になるチョ・ジェドゥさん(42・京畿道安山市)が、集団虐殺跡の表示石の前でスマホで写真を撮っていた。済州市から出発する18コースから歩いているチョさんは「こんなにつらい歴史があるなんて知らなかった。オルレを歩きながら4・3を知るようになった。済州市朝天邑(チョチョンウプ)北村里でも見たが、ここでも見ることになった。このような絶景地が70年前には虐殺の場だったということを知って胸が詰まる」と話した。


 オルレ19コース、北村里で約600人虐殺  
 処刑待つ間に命拾いしたコ・ワンスンさん  
 「母の背中でむずかっていた3歳の弟を軍人が棒で頭を二度殴りつけた」 
 北村町の虐殺の時に両親を亡くした3人の友達  
 「あの日運動場で起きた出来事、どうやって忘れられようか」

■処刑場で生き残った少女
 「北村里の窪畑(オムパンバッ)の赤黒い色の土が、血に染まって真っ黒だった。午後4時が過ぎ、太陽が雲の合間にちらちらと現れるたびに、氷に光が反射するように血の色がビー玉みたいにぴかぴか光った。顔は涙まみれで寒かったが、寒いという気はしなかった」
 1949年1月17日、当時9歳だった北村里の老人会長のコ・ワンスンさん(78)はノブンスンイの窪畑の処刑現場をこのように描写した。背後では小銃のガチャガチャという音が聞こえた。3歳の弟をおぶったコさんの母親は、片手に姉(当時16)の手を、もう一方の手にコさんの手をしっかり握っていた。窪畑に連行されたコさん家族は処刑の瞬間を待っていたが、劇的に生き残った。窪畑にはたったさっき処刑された住民たちの死体があちこちに散らばっていた。

【写真】済州市朝天邑北村里の老人会長のコ・ワンスンさんが、4・3当時処刑場だったノブンスンイの窪畑に連行され虐殺の直前ぎりぎりに生き残った経験を話している//ハンギョレ新聞社

 急に軍人が乗ったジープが現れ、住民たちはその後すぐ「中止、中止」という声を聞いた。コさんの家族はこのように命拾いした。
 これに先立ち、コさん家族は北村小学校の運動場で生と死の淵でさまよった。コさんは押し出されて、すでに死んでいるおばさんを触り、手には血がついた。コさんが「わあ、怖いよ」と言うと、母の背に負われていた3歳の弟も「家に帰ろう」とむずかった。棒を持った軍人が弟の頭を二度殴りつけると、静かになった。弟は長いこと患い、1952年に死亡した。
 「北村里の女性たちは潜って漁をして、粟畑で草刈りして、みんな足が曲がってしまった。それでもこの村を守って来た人たちは女性だよ」
 2012年11月、北村里ノブンスンイ4・3記念館で文在寅(ムン・ジェイン)当時大統領候補に会ったことがあるコさんは、昨年末「私たちの村の北村は、4・3の恨みを晴らすことができず70年の歳月を生きてきた。4・3の痛みを解決してくれるのか、時には期待してようやく生きていられる。済州に来たらノブンスンイ4・3記念館でもう一度必ず会いたい」という手紙を書いて送った。コさんの夢は叶うだろうか。
 3日、済州オルレ19コースにある北村里ノブンスンイ。光州(クァンジュ)から来た光州第一高校教師のキム・ビョンソプさん(41)とパク・ジョンホンさん(50)が、北村里の住民イ・サンオンさん(56)と4・3ノブンスンイ遺跡地を回りながら話をしていた。28~30日の修学旅行のために事前下見をしていた。パクさんは「4・3を詳しくは知らないが、5・18と比較されたりもし、歴史的にあらためて照明を当てられる現場なので訪ねてみることにした。このような歴史がオルレ道にあったことを知らなかった」と話した。キムさんは「今回の機会を通じて、生徒たちに4・3を知らせる計画だ」と話した。
 玄基榮(ヒョン・ギヨン)の小説『順伊(スニ)おばさん』の舞台として知られる済州市朝天邑北村里は、1949年1月17日、武装隊の襲撃で軍人2人が犠牲になり、これに対する報復として2連隊3大隊の虐殺劇により、一日で北村小学校と近くの畑などで約200人を超える住民が虐殺された場所だ。虐殺が起きた翌日、近くの咸徳里(ハムドンニ)に疎開した住民たちは、再び「逃亡者家族」か「入山者家族」という名で処刑された。二日間で老若男女を問わず300人あまりの住民が虐殺された。北村里では4・3の時期に合わせて600人以上が犠牲になったという。しかし、依然として虐殺の主体は「2連隊3大隊」とだけ知られてるだけで、詳しい内容は明らかにされていない。

■58年ぶりに会った三人の友達
 「泣きに泣きました。北村事件の時に起こったことが自然に話題にのぼりました。北村小学校の運動場で起きたことを、どうやって忘れられますか。幼くてもその時の記憶を一生抱えているのに…」
 58年ぶりに会った友達の話で、たちまち涙が浮かんだ。 昨年4月、キム・ヒョンオクさん(75・済州市東光路)は、ソウル恩平区(ウンピョング)のある食堂で、故郷の後輩のイ・チュンエさん(74・ソウル)とキム・ヨンヒさん(72・ソウル)に会った。 キムさんとイさんは頻繁に会っていたが、10代半ばに母をについて行き潜り漁をして江原道に定着したヨンヒさんは会えなかった。 偶然の機会で連絡が取れるようになり、1960年に別れてから58年ぶりにソウルで会った。友人らは抱き合って涙を流した。
 
【写真】昨年4月、ソウルで58年ぶりに会ったイ・チュンエ、キム・ヒョンオク、キム・ヨンヒさん(左から)。イさんがヨンヒさんに北村小学校の歴史を書いた本を見せ当時犠牲になった父の写真を探してはと言うが、ヨンヒさんは父の顔が思い出せない=キム・ヒョンオクさん家族提供//ハンギョレ新聞社

 北村里の虐殺が行われた1949年1月17日、彼女たちはみな母親や父親の手を握って北村小学校の運動場にいた。キムさんは6歳、イさんは5歳、ヨンヒさんは3歳だった。キムさんは父(キム・ユシン、当時50)を、イさんは母を、ヨンヒさんは父を失った。生まれた日は違うが同じ日に父や母を失った彼女たちは、お互いを支えながら親しく過ごした。
 キムさんの母親(イ・チャボク)は1男3女の子どもたちと残された。北村事件の翌日、8歳上の姉のキム・クムテクさん(83)は、幼いキムさんを背負って母親と一緒に咸徳のおばさんの家に行った。数日後、母は故郷に来て葬儀も行えないまま、父親の死体にかますをかぶせて畑に埋めた。他の北村の人たちと同じく、キムさん家族の辛酸をなめる日々もその時から始まった。
 咸徳に行ったキムさん家族は、春になると再び北村に戻った。しかし、すべて焼けてしまった村は廃墟同然だった。
 「両親が北村の事件が発生する前に、時局がどうなるか分からないから小さな壺に多少のお金を入れて畑に埋めておいたんです」。燃えてしまった家の跡地で、母は菜園に埋めた壺を掘り出した。それは4・3以後、キムさん家族の生存の元手となった。そのお金で櫛を買い、中山間村で売って歩いた。

【写真】済州市朝天邑北村里出身のキム・ヒョンオクさんが、4・3当時両親が菜園にお金を入れて隠しておいた壺にまつわる話をしている//ハンギョレ新聞社

 キムさんは「家の跡地に丸く石垣を築き、その上を覆って掘っ立て小屋を作った。三家族が一緒に暮らしたが、うちの家は5人家族、他の家は3人家族、また他の家は5人家族で、全部で13人が掘っ立て小屋で暮らした」と回顧した。皿がないのでアワビの貝殻を使い、食べるものがないのでひじきや青海苔と麦を混ぜたひじきご飯、青海苔ご飯、クラゲを混ぜたクラゲご飯で生計を維持した。
 咸徳から北村に越して2カ月ほどたったある日、今度は3歳下の妹が栄養失調で死んだ。兄のキム・チョルさん(79)は当時、はしかで聴力を失い生活に大きな支障を負った。伝染病がはびこり飢え死にする人が続出していた時期だった。同年6月には弟のヒジュンさん(69)が忘れ形見として生まれた。母は弟を出産して23日後には赤子を背負い、焚き物を買って人の馬車を借りて乗り、市内に出て売った。
 キムさんは「あの頃の話をすべて話すなんてとてもできない。私だけではなく、数年前に亡くなった夫は母が銃殺される現場を直接目撃したが、その心境はどれほどのことだったか。文章さえ書けるなら、小説を書いても何冊か書ける」と話した。
 「生きてきた過程はみな同じです。お互い話さなくても分かるんです」。キムさんの目には、たちまち涙が溜まった。

済州/文・写真ホ・ホジュン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/836825.html
韓国語原文入力:2018-03-20 15:04
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「判決文のない済州4・3軍事裁判…「受刑人名簿」の認否が争点」

2018年03月25日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30113.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-03-23 20:05
■判決文のない済州4・3軍事裁判…「受刑人名簿」の認否が争点
 済州4・3事件の受刑人再審請求
 当時の軍事裁判、法的手続きなしに進行
 1999年国家記録院で名簿が見つかり
 総2530人の氏名・住所・判決など記録  

 済州地裁、最近再審関連証人尋問
 「名簿、当時の裁判立証資料」との陳述あり

 済州4・3当時、軍事裁判(高等軍法会議)で懲役刑を宣告されて刑務所に収監された受刑人たちが提起した再審請求の最大の障害物は、判決文がないという点である。
 「有罪の確定判決」を再度判断してほしいという再審請求には原審判決文がなければならないのだが、法的手続きを守らなかった軍事裁判は判決文も作成しなかった。 したがって唯一の公式記録である「受刑人名簿」で当時の裁判と判決を立証することができるのかが、再審開始可否の核心争点である。

【写真】1999年に公開された済州4•3事件関連受刑人名簿の表紙=済州4・3真相究明と名誉回復のための道民連帯提供//ハンギョレ新聞社

 済州地裁刑事2部(裁判長チェ・ガルチャン)は19日済州4•3関連受刑人の再審請求に対する第2回審問期日を開き、受刑人名簿などと関連して「済州4•3事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」のキム・ジョンミン元専門委員に対する証人尋問を行なった。
 済州4・3関連受刑人は1948年12月と1949年7月、法的手続きを守らずに行なわれた軍事裁判を経て仁川(インチョン)・大田(テジョン)・大邱(テグ)など全国の刑務所14カ所に分散収監された人々だ。 4•3受刑人に関しては証言だけが伝えられてきたが、1999年チュ・ミエ当時新政治国民会議議員が政府記録保存所(現国家記録院)で入手した受刑人名簿を公開して初めて公式に確認された。受刑人名簿には、1948年12月に開かれた軍事裁判で刑法第77条の内乱罪により処罰された871人と1949年7月に開かれた軍事裁判で国防警備法第33条のスパイ罪などにより処罰された1659人、計2530人の氏名、住所、判決、宣告の日付、刑務所などが書かれている。
 証人として出席したキム元委員は先ず「1948年と1949年に開かれた軍法会議は法の決めた正常な手続きを踏んだ裁判と見なすことができない」と明らかにした。次いで、受刑人名簿について「軍が撤収して済州地方検察庁に渡され、検察庁が保管する理由もなく破棄するわけにもいかず政府記録保存所に移管させて保管されたものと考えられる」とした上で「受刑人名簿に記載された2530人のうち一部名前や本籍地が合わないケースもあるが大部分実際の証言と一致するので、当時裁判が存在したことを示す資料(と見られる)」と述べた。
 裁判部はこれに先立ち2月に開かれた第1回審問期日で「一部の学者は受刑人名簿が事後に操作されたと主張している。この受刑人名簿を根拠に再審請求が可能なのかという問題がある」と指摘している。 済州4•3受刑人の原審判決文はどの国家機関も保管しておらず、判決文がない理由も明確でない。 当時の軍事裁判が基本的な裁判手続きも守らず判決文も初めから作成されなかったのだろうという推定が出ている。 このような状況で裁判部が受刑人名簿の信憑性を認めた場合、当時軍事裁判が開かれたと判断する可能性は大きくなる。
 一方、パク・サンギ法務部長官は2月7日国会の対政府質問で4•3軍事裁判と関連して「受刑人名簿は存在するのに適法な手続きを経て軍事裁判が行われたものとは見られない。正常な裁判と見なすことができない」と答弁している。 軍事裁判は開かれたが、適法な手続きを踏まなかったということだ。 これに対し請求人側では、裁判の形式すら備えていない軍事裁判により苦痛を受けた4•3受刑人に再度裁判を受ける機会が与えられねばならないと主張している。

済州/キム・ミンギョン記者
韓国語原文入力:2018-03-20 18:55
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/836962.html
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「済州4・3、70周年を控え多彩な行事を予定」

2018年03月24日 | 韓国で
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/30083.html
「The Hankyoreh」 登録:2018-03-20 22:13 修正:2018-03-21 08:23
■済州4・3、70周年を控え多彩な行事を予定
 特別企画展・トークコンサート・平和討論会・公演など 
 国内外の記者たちも4・3を知るために相次ぎ済州訪問

【写真】済州住民自治連帯の合唱団モダジョンによる10周年記念定期公演「その名を留める-4・3私たちの話」ポスター//ハンギョレ新聞社

 済州(チェジュ)4・3の70周年を控え、多彩な行事が開かれている。済州国際平和センターは20日、23日から西帰浦市(ソギポシ)の中文(チュンムン)観光団地内のセンターで、済州4・3抗争70周年特別企画展「福市丸事件をご存知ですか」とトークコンサートを開催すると明らかにした。
 今回の企画展展示は、4・3の隠れた背景といえる福市丸事件を通じて、済州出身の在日同胞に対する理解と済州4・3の実状を理解するために用意された。福市丸事件は1947年1月11日、日本と済州を往来した貨物船福市丸が、誤認拿捕されて始まった。この事件で、親日警察出身の申宇均(シン・ウギュン)当時済州監察庁長(現在の済州警察庁長官に該当)が職位解除された。
 済州国際平和センター1階の企画展示室で開かれる特別展には、福市丸事件当時の新聞記事資料▽解放前後の済州出身在日同胞の写真などが展示される。23日午後4時には、「4・3とは何か」をテーマにキム・ジョンミン元4・3中央委員会専門委員のトークコンサートも行われる。
 また、江汀村(カンジョンマウル)海軍基地反対対策委員会などは24日午後2時、済州道議会大会議室で「核潜水艦が入ってきた済州、私たちは何をすべきか」という題名で「済州4・3抗争70周年、平和の島実現のための討論会」を開く。討論会では、イ・サムソン翰林大学教授が「核軍備競争に直面した東アジア、済州の新しい未来」を主題発表する。

【写真】世界記者大会に参加した海外の記者たちが9日、済州を訪れ4・3遺跡などを巡った//ハンギョレ新聞社

 済州住民自治連帯の合唱団のモダジョンは24日午後7時、済州漢拏大学の漢拏(ハルラ)アートホール多目的ホールで、10周年記念定期公演「その名を留める-4・3私たちの話」を舞台に上げる。「ああ解放」、「4・3空は赤くなり」、「私たちの話」の3部構成で進められる。
 済州4・3抗争70周年記念事業委員会が用意した国内外のジャーナリストによる4・3を知るための済州訪問も相次いでいる。9日、世界記者大会に参加した海外の記者50人余りが済州を訪ねたのを始め、16日にはソウルにいる外信記者たちが済州を訪れ、21日と23日には韓国国内の記者たちが4・3遺跡などを現地踏査する。

ホ・ホジュン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/area/836915.html
韓国語原文入力:2018-03-20 16:55
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「「洗濯していたところ、日本巡査に連れ去られた」…慰安婦被害者事例集を出版」

2018年03月23日 | 日本軍隊性奴隷
http://japanese.joins.com/article/857/239857.html?servcode=400§code=400&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2018年03月22日16時37分
■「洗濯していたところ、日本巡査に連れ去られた」…慰安婦被害者事例集を出版

【写真】1945年10月、タイ・ウボンラーチャターニーで撮影された慰安婦女性写真。右はタイでノ・スボクさんの家族が運営していた喫茶店と家族。(写真=ソウル市)

 貧困のせいで14歳の幼い年に嫁に行くことになったノ・スボクさん。ノさんは21歳になった年に家政婦として働きに行った釜山(プサン)で洗濯をしていたところ、日本巡査に連れ去られた。40日余りの航海の末にノさんが到着したところはシンガポール。彼女はそこで地獄のような慰安婦生活を余儀なくされた。朝には軍人の服を洗ったり清掃をしたりし、午後には弾薬筒を運びながら一日に60人の兵士を相手にした。このように8カ月を過ごした後、タイに移されたノさんは日本が連合軍に降参すると英国軍の捕虜収容所に収容された。戦争が終わった後、彼女は故郷に戻ることができずマレーシア、タイなどの地域を転々としたあげくにタイで結婚して家族を作った。2011年、タイで死亡したノさんは生前に「やっと命だけをつないでいく生ける屍に他ならなかった」と証言した。
 旧日本軍慰安婦被害者16人の生々しい証言と米国やタイ、英国の現地調査を通じて新しく発見された資料を盛り込んだ事例集『連れ去られる、捨てられる、私たちの前に立つ』が22日、出版される。ソウル市がソウル大学人権センターの鄭鎮星(チョン・ジンソン)教授研究チームと共に発掘した事例集の副題は「写真と資料で見る旧日本軍慰安婦被害女性の話」だ。
 この事例集は慰安婦被害女性の生涯を扱うことに集中した。ソウル市が昨年発刊した証言集が被害状況の説明に焦点を合わせたとすれば、この事例集には植民地社会でどのような生活をして連行されるようになったか、帰還旅程、帰還後の生活まで説明する。
 特に、その間被害者の証言があっただけで大きく注目されなかったタイの慰安婦関連資料が目を引く。事例集にはタイのカーンチャナブリー・アユタヤ収容所の他にもウボンラーチャターニー地域に慰安婦がいたとのことを見せる資料が盛り込まれた。ウボンラーチャターニー収容所を管理した英国軍大佐が朝鮮人慰安婦5人の写真を残し、回顧録に彼らが助けを求めた事実を残したものだ。
 韓国政府に被害登録ができなかった被害女性の話もある。被害が明らかになったがすでに亡くなった被害者、中国に住みながら国籍回復をあきらめたか国籍回復中に亡くなった被害者、遅まきながら被害を公開して政府登録の過程を進めていくうちに亡くなった被害女性の話だ。
 事例集は22日から購入できる。ソウル市は旧日本軍慰安婦に関する歴史的事実を知らせる市民を対象にした講演会も開催する。ソウル大学人権センター関係者は「慰安婦被害女性の話を中心に旧日本軍慰安婦問題の歴史を理解できる契機になれば良いだろう」と話した。ソウル市関係者は「これまでは生存しておられる慰安婦被害者の証言がこれを代替したとすれば、これからは事例集のように資料と証言集に記録して史料として体系的に管理し、具体的証拠を通じて慰安婦の実態を明確に証明していきたい」と明らかにした。
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「九旬“慰安妇”受害者接受阑尾炎手术」

2018年03月22日 | 日本軍隊性奴隷
http://epaper.ynet.com/html/2018-02/07/content_278464.htm?div=1
http://epaper.ynet.com/images/2018-02/07/A08/bjqnb20180207A08.pdf
『北京青年报』 2018年2月7日  文/本报记者 付垚 张香梅
■九旬“慰安妇”受害者接受阑尾炎手术
 老人系纪录片《二十二》主角 被志愿者及时发现送医救治

【相片】韦绍兰老人在医院接受治疗
【相片】韦绍兰老人

  2月1日,有志愿者前往广西桂林看望作为侵华日军“慰安妇”受害者的韦绍兰老人时,发现她有肚子疼的情况,随即将老人送往医院。经检查,97岁的韦绍兰老人患有阑尾炎并发生了穿孔。医院为老人进行了手术,术后,老人因为身体衰弱,急需一名相对具有经验的护工进行护理,在当地妇联及热心人的帮助下,仅一天的时间专业护工就赶到了老人身边。医生表示,如果不是志愿者及时发现,老人很可能出现生命危险。北京青年报记者了解到,目前全国已知的在世“慰安妇”老人仅剩7人。

★老人患阑尾炎被及时发现
  卢悦是广东一名关注侵华日军“慰安妇”群体的志愿者,本月1日,她和其他几名志愿者前往广西桂林的荔浦县看望97岁的“慰安妇”韦绍兰老人。
  “老人现在和她的儿子还有外孙和外孙媳妇生活在一起,老人身体一直有一些小毛病,但是总体还可以,只是最近一年糊涂得厉害。”卢悦说,“这次来,刚开始的一天老人和我们还能很顺利地交流,但是到了2日,老人突然说她肚子疼,而且以前几天也疼过,只是家里人一直没有在意。”
  随后,志愿者们联系了医生来到老人家,医生经过初步检查,判断老人需要去医院进一步诊断。随后,老人被送往桂林当地医院,经过检查确诊为阑尾炎,需要手术治疗。3日,老人完成了手术,医生发现,老人因为阑尾炎造成了大肠小肠穿孔,比之前的预想严重。术后,为了排出体内积液,医生在老人身上插了一根引流管,因此,老人身边也一直需要有一些护理技巧的人员护理。
  “老人的儿子和家人平日都是务农为生的,不太懂得如何护理病人,而在桂林的志愿者人数又太少,所以我们随后通过微博等途径,希望为老人寻找到一位合格的护工。”卢悦说,“我们的微博很快就被转发,也立即引起了当地妇联和一些媒体的关注,在桂林妇联的帮助下,一位具有专业水平的护工很快就被安排到了韦绍兰老人身边。”
  北青报记者了解到,这名护工来自当地的养老院,具有丰富的护理知识,而桂林妇联也会解决护工在照顾老人期间的所有费用。
  “知道老人以前是"慰安妇",被伤害过,很心疼这位老人,所以我也一定会照顾好她。”这位护工表示。

★因纪录片《二十二》被人熟知
  如果不是2017年关于侵华日军“慰安妇”的电影《二十二》上映,很多人也许并不会知道韦绍兰老人。而她在纪录片中说的那一句“这世界红红火火的,我要留着命来看”更是让无数观众感动。
  《二十二》是由导演郭柯执导,以2014年中国内地幸存的22位“慰安妇”的遭遇作为大背景拍摄的纪录片,其中拍摄韦绍兰老人的内容占了其中很大的篇幅。电影在2017年公映,老人佝偻的背影、蹒跚的步伐和坎坷的经历触动了许多人的泪点。
  韦绍兰一生都生活在广西桂林荔浦县的小古告屯村,在2007年以前,除了村子里的老人,其他人并不知道韦绍兰在1944年到1945年曾经有过三个月的侵华日军“慰安妇”的经历。
  1944年11月,韦绍兰在躲避进驻广西的日军途中不幸碰到了日军,被强行抓走,被迫做了“慰安妇”,在三个月的时间内备受折磨,直到从当地的临时“慰安所”逃出。而这个时候韦绍兰已经怀孕,孩子的父亲则是侵华日军。
  逃出之后韦绍兰并没有被丈夫及家人抛弃,她随后生下了在“慰安所”怀上的孩子,取名罗善学,之后的人生中,她和自己的丈夫又生了两个女儿和一个儿子。因为是侵华日军的孩子,罗善学从小总被欺负,甚至被起名“日本仔”、“鬼子仔”,他也一生没有娶妻,一直和母亲韦绍兰生活在一起。
  2007年,韦绍兰的事情被媒体报道,她也在媒体和社会组织的帮助下,承受多年来的压力,勇敢说出了侵华日军抢抓她做“慰安妇”的事实。2010年12月,韦绍兰又受到资助远赴日本参加了“女性国际战犯法庭”审判10周年的纪念活动,辗转在几个大学讲述了受侵害的过程和之后凄凉的人生境遇。

★全国已知“慰安妇”仅剩7人
  “如果我不说出我的经历,可能很多人都不会知道我们遭受的有多惨。”韦绍兰在接受媒体采访时曾经这么说。
  收治韦绍兰老人的桂林医学院附属医院医生表示,如果老人被晚送来哪怕一两天时间,都很有可能出现生命危险,好在有志愿者的及时发现。
  志愿者卢悦告诉北青报记者,她平时在深圳上班,几年前看了关于侵华日军“慰安妇”的电影《三十二》和《二十二》之后很受触动,之后就和朋友去看望过几位还在世的“慰安妇”,并加入了名为“温暖之家”的民间“慰安妇”关爱组织。
  卢悦说,在电影《二十二》拍摄时,绝大多数的“慰安妇”老人年纪都已经超过了90岁,这些年,去世的“慰安妇”老人逐渐增多,现在已知的国内在世的“慰安妇”老人只剩下了7人,这些老人分布在广西、海南、山西、湖北等地,绝大多数都在乡下生活。
  “这些"慰安妇"老人绝大多数都用了几十年的时间去平复心理的创伤,现在她们年纪大了,很多人的生活也都比较贫困,需要我们给予更多的关注和帮助。”卢悦说。
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