■金永振さんの証言
2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの金永振さん(1924年11月15日生)の証言内容をよりくわしく報告します。
18歳のとき海軍特別志願兵に志願した。19歳になったら陸軍に連れていかれる。陸軍はきつい。だったら海軍に行ったほうがましだと考えていた。試験に合格して、鎮海にあった日本海軍の海兵団の1期生になった。
6か月の「訓練」のあと卒業し、卒業のときに「所属」が決められ、日本海軍佐世保鎮守府第8陸戦隊に「配属」された。
1943年夏に、鎮海から海南島に向かったが、船がバシー海峡で沈没した。生き残って、マニラからサイゴンに行った。
サイゴンからジャンクで海南島に行った。ジャンクは、4~5人乗りの小さな船だった。
三亜に上陸し、三亜からトラックで日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8陸戦隊の司令部のある嘉積に行った。
いっしょに行ったのは16人で、全員韓国人だった。
それからずっと嘉積にいた。警備班にいた。
嘉積の軍人は、毎日「討伐」に行った。討伐に行くときは、日本軍人だけ行った。
わたしは行かなかった。討伐は、毎日行く。卒兵だから、経験がないから連れて行かないのだろうと思っていた。
日曜日は外出して、酒を飲んだりした。酒は焼酎に似たもの。食べ物は、ビーフン、魚、牛肉など。パイナップルもあった。ことばが通じないから、じぶんたちで、食べるだけだ。お金は軍票で払った。
物価は、サイゴンが少し高かった。
嘉積には兵隊は200人くらいいた。朝鮮人は16人。みな鎮海の1期生だった。
海南島から故郷に給料を送った。受けとったのかは知らない。
1年くらいたって、日本が降伏したと聞いた。上官から正式に聞いたのではなく、うわさのように伝わってきた。
翌年の4月に帰国した。家族は、わたしは死んだと思っていた。
韓国軍に、はいった。そこで、李西根に再会した。
2010年10月5日に、ソウルで、金永振さんと李西根さんから聞かせていただいた話の概要は、同じに日このブログで報告しましたが、以下に、そのときの金永振さん(1924年11月15日生)の証言内容をよりくわしく報告します。
18歳のとき海軍特別志願兵に志願した。19歳になったら陸軍に連れていかれる。陸軍はきつい。だったら海軍に行ったほうがましだと考えていた。試験に合格して、鎮海にあった日本海軍の海兵団の1期生になった。
6か月の「訓練」のあと卒業し、卒業のときに「所属」が決められ、日本海軍佐世保鎮守府第8陸戦隊に「配属」された。
1943年夏に、鎮海から海南島に向かったが、船がバシー海峡で沈没した。生き残って、マニラからサイゴンに行った。
サイゴンからジャンクで海南島に行った。ジャンクは、4~5人乗りの小さな船だった。
三亜に上陸し、三亜からトラックで日本海軍海南警備府佐世保鎮守府第8陸戦隊の司令部のある嘉積に行った。
いっしょに行ったのは16人で、全員韓国人だった。
それからずっと嘉積にいた。警備班にいた。
嘉積の軍人は、毎日「討伐」に行った。討伐に行くときは、日本軍人だけ行った。
わたしは行かなかった。討伐は、毎日行く。卒兵だから、経験がないから連れて行かないのだろうと思っていた。
日曜日は外出して、酒を飲んだりした。酒は焼酎に似たもの。食べ物は、ビーフン、魚、牛肉など。パイナップルもあった。ことばが通じないから、じぶんたちで、食べるだけだ。お金は軍票で払った。
物価は、サイゴンが少し高かった。
嘉積には兵隊は200人くらいいた。朝鮮人は16人。みな鎮海の1期生だった。
海南島から故郷に給料を送った。受けとったのかは知らない。
1年くらいたって、日本が降伏したと聞いた。上官から正式に聞いたのではなく、うわさのように伝わってきた。
翌年の4月に帰国した。家族は、わたしは死んだと思っていた。
韓国軍に、はいった。そこで、李西根に再会した。