三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「日渐老去的海南“慰安妇”幸存者」

2019年01月31日 | 日本軍隊性奴隷
http://hnrb.hinews.cn/html/2014-07/07/content_13_1.htm
『海南日报』 2014年07月07日
■日渐老去的海南“慰安妇”幸存者 

【相片】 陈金玉(2012年去世)回首往事,以泪洗面。 黄一鸣 2005年摄于保亭

  历史不能忘记。近日,联合国教科文组织确认,已经收到了中国将日本强征慰安妇和南京大屠杀档案列入世界记忆名录的申请。此次中国申报档案的具体内容将于7月中旬在联合国教科文组织“世界记忆”计划的网页上公布。
  著名抗日战争史专家、上海师范大学中国“慰安妇”问题研究中心主任苏智良参与了此次中国慰安妇档案申遗的工作。从1996年起,苏智良和中国“慰安妇”问题研究中心开始对海南“慰安妇”事件受害幸存者进行长期调查和援助,并帮助8位受害者向日本提起诉讼。

◆申遗:向远去的逝者致哀
  2013年10月17日晚23时27分,曾经参加赴日本诉讼的海南“慰安妇”事件受害者林亚金老人在保亭黎族苗族自治县人民医院不幸因病去世,享年89岁。
  林亚金生于1924年,是保亭南林乡人。1943年被侵占海南岛的日军抓去充当“慰安妇”,受尽非人的折磨,并导致终身不孕。2001年7月16日,在日军侵占海南岛期间“慰安妇”事件的受害幸存者,正式向日本东京地方裁判所提出诉讼请求,状告日本政府。林亚金作为第二位原告代表于2005年3月亲自赴日作证讨还公道。
  一直关注着老人身体状况的志愿者陈厚志告诉记者,在老人清醒的时候,她还一直念叨着,“忘不掉那段苦难的日子和受到的屈辱”。
  噩耗传到千里之外,让上海师范大学教授、中国“慰安妇”问题研究中心主任苏智良深感痛心,就在一个多月前,84岁的万爱花老人也在山西太原家中离世。此前,作为日军二战性暴力侵害的受害者,万爱花是国内第一个站出来公开指证日军罪行的“慰安妇”事件受害幸存者,并多次赴日本东京出庭作证,均已败诉告终。
  海南、山西等地“慰安妇”事件受害者相继去世,让苏智良心中感到憋屈,“老人们很勇敢,站出来把当年日本侵略者的暴行公之于众,但最终却没能等到日本政府道歉的一天,我们必须要为这些老人做点什么。”苏智良在电话中告诉海南日报记者。
  此后不久,苏智良给中共中央办公厅写了一封长信,提出将“慰安妇”相关史料提交联合国世界记忆工程。国家档案局于今年初联系了苏智良,并开始从6家档案馆超过10万份文献档案中进行精选。
  世界记忆工程是联合国教科文组织于1992年启动的文献保护项目,其目的是对世界范围内正在逐渐老化、损毁、消失的文献记录,通过国际合作与使用最佳技术手段进行抢救,使人类记忆更加完整。
  我国申报给联合国世界记忆工程的《“慰安妇”——日军性奴隶档案》共五大类29组档案,其中侵华日军遗留档案、伪政权档案、上海租界档案、日军战犯口供这四个类别分别出自黑龙江、吉林、辽宁、南京、上海及中央档案馆。其中图片类档案中的24张照片全部由苏智良提供,这也是唯一来自民间的部分,都是他多年来从日本搜集到的。
  “这次申报的慰安妇的档案,主要是指现有的国家档案馆的那些档案,所以从这个角度来说,海南的‘慰安妇事件’受害者是没有包括进去,这点比较遗憾。”苏智良说。
  记者从省档案馆得到证实,对于“慰安妇”事件相关档案,我省确实还处于空白状态。

◆琼岛:“慰安妇”制度的受害重灾区
  据苏智良等人的调查研究,在二战期间大约有四十万女性沦为日军的性奴隶,其中包括二十万中国女性。而其中“有75%左右的‘慰安妇’受害者在战争中已被日军虐待至死。能够幸存下来的只有25%左右,而苟活下来的有些也已奄奄一息了。”因此“慰安妇”事件受害幸存者可谓寥寥无几,而能鼓起勇气站出来指证侵略者暴行的更是难得一见。
  苏智良说,从这方面讲,海南在“慰安妇”研究方面有着特殊的重要性,已知的“慰安妇”事件受害幸存者虽然分布在全国各地,但在海南还是比较多的。据中国“慰安妇”问题研究中心统计,目前全国所知道的幸存者有23个人,其中海南有8个,分布在陵水、万宁、澄迈和临高等地,人数仅次于山西。而在三年前,海南的比例更高,一度是中国“慰安妇”事件受害幸存者人数最多的省份。
  此外,海南的政协,包括本地的媒体也做了不少工作。上世纪九十年代中期,海南省及各市县政协文史资料委员对日军侵琼暴行进行调查,这是对海南侵琼日军“慰安妇”制度的首次调查,同样也是迄今为止官方进行的关于“慰安妇”问题的第一次调查。在这次调查中,有二十多位老人讲述了自己被迫沦为“慰安妇”事件受害者的惨痛遭遇。
  苏智良说,日军占领海南后,把海南作为入侵东南亚的重要战略基地,所以驻军很多,他们掳掠了很多中国的妇女,包括当地的黎族、苗族、汉族妇女,甚至还有岛外的朝鲜妇女,海南也因此成了抗战时“慰安妇”制度的受害重灾区之一。
  1939年4月,日军入侵海南的第三个月就已经设立慰安所。到1941年止,日军在琼设立的慰安所至少有三百余家,“慰安妇”事件受害者总数在万人以上。
  苏智良的学生赵青青几年前曾对澄迈、临高两县的7名“慰安妇”受害幸存者为中心做过调查,通过研究几位幸存者的受害经历,概括了日军强征“慰安妇”的三种手段:一是日军用暴力手段强掳受害人到“慰安所”或者日本据点加以凌辱;二是以强征劳工的名义,将大量青壮劳动力抓去开矿山、修公路、修炮楼等,然后将其中征来的一些妇女强逼沦为“慰安妇”受害者;三是日军在战场上俘虏的女兵。
  海南“慰安妇”事件受害幸存者平均年龄八十六七岁,疾病缠身,生活应该说是比较困难,全社会都要来关心她们。

◆诉讼:8个老人向日本政府讨公道
  2001年7月,黄有良、陈亚扁、林亚金等8名海南 “慰安妇”事件受害幸存者向日本政府提起诉讼,要求日本政府谢罪以恢复她们的名誉,并给予每人2300万日元的赔偿,这些幸存者大都是海南的黎族或苗族,日本侵琼期间她们遭受日军性暴力时都是未婚少女,年龄最小的仅14岁,最年长的才17岁。
  然而经过长达10年的对日诉讼之路,海南“慰安妇”事件受害幸存者起诉案与之前的3次山西类似案件一样,在反复上诉与驳回之间挣扎,最后均以原告方败诉告终。东京高等法院在终审判决中尽管认定了侵华日军二战期间在海南岛绑架、监禁和强暴妇女的事实,承认日军暴行对受害“慰安妇”造成了精神疾患,其损害直到现在还在持续。但以中国政府在1972年的《中日联合声明》中放弃了索赔权为由,认为受害人的个人索赔权也因此丧失,裁定原告败诉。
  消息传到中国后,外交部发言人作出回应:日方应拿出应有的道义感和责任感,尽快妥善处理,还受害者一个公道。
  曾数次陪同老人出庭的中方代理律师康健告诉海南日报记者,此前她曾代理过山西的“慰安妇”事件受害幸存者起诉日本的案件,后来看到海南省政协文史资料委员会整理过的资料中显示有海南岛“慰安妇”的问题,就在1997年的时候,赶到海南,在海南省政协调查的基础上,又一起来做些调查。
  康健说她和日本律师团多次到海南调查“慰安妇”事件,相比山西,海南有语言上的障碍,因为幸存者大多都是少数民族,没法直接交流,就要进行双重翻译,借助黎语翻译成普通话以后,再翻译成日文,这个难度就比较大,时间费得也比较长。
  在东京高等法院进行二审的时候,康健等特别提出要对受害者做精神损害鉴定,日本政府的代理人刚开始不同意。但东京高等法院的法官认为这件事情关系重大,认为有必要鉴定。所以就由康健委托日本的精神方面的专家野田正章,对受害者进行鉴定。
  为此,野田正章先后来海南两次,直接跟每位受害者做精神方面的调查。最后得出结论,这些“慰安妇”事件受害幸存者不仅受到了严重的肉体创伤,还有精神创伤的综合症。有的受害者更严重,是一种不可逆转的创伤。所以野田先生以专家证人的身份出庭,做出精神科专家的证言。
  后来的二审判决认定了这个专家的证言,认定这些阿婆不仅当年有严重损伤,精神上的损害更是持续到现在,康健说,这种认定实际对日后的解决留下了伏笔。因为原来日本政府就是说丧失了时效,但是如果这种损害是持续状态的话,那么这个时效根本没丧失。但是最后日本最高法院还是维持一、二审判决,驳回了诉讼请求。

◆晚景:她们需要全社会的关爱
  如今,当年起诉的8个老人,只剩下陵水的陈亚扁和黄有良两位老人尚健在,保亭的6位老人已全部离世,“2012年陈金玉老人去世,2013年林亚金老人去世,而随着今年6月邓玉民老人的去世,保亭境内已无‘慰安妇’事件受害幸存者。”陈厚志言语中难掩悲痛之情,“连续三年每年送走一位老人。”
  即使仅剩的8个老人状态也并不乐观,临高的符桂英老人今年已95岁,患上了帕金森综合症,她是目前国内公开“慰安妇”事件受害幸存者身份中最年长的;陈亚扁隔天就得吊一次盐水,她常对来看望自己的人说,“下次来,就见不到我了。”
  康健律师在接受采访的最后有些激动,或许是采访过程中的回忆勾起了她对老人们深深的同情。她提到,此前林亚金阿婆生病住院了,却没有人陪伴。这让康律师很是伤感。她还提到,此前一些加拿大的华侨还曾计划捐助,在海南建一些养老院帮助这些受害者,然而最终这个计划还是流产了。陈厚志也提到,在他调查中,老人们多次反映希望能集中居住,这些有共同经历的老人可以互相支持,比起肉体上的痛苦,她们更难忍受精神上的孤独。
  记者了解到,目前在我国对“慰安妇”事件受害幸存者尚缺乏国家政策层面的支持,仅有的支持是道义上的。国家尚未将“慰安妇”问题及对日诉讼纳入国家责任,并强化相关法律依据。
  在日本政府尚未对“慰安妇”做出具体的道歉和赔偿情况下,相比较而言,韩国政府现今对每位“慰安妇”事件受害幸存者提供每月数十万韩元的生活补贴及免费医疗保险等。社会慈善机构也较为关注,会定期寄生活援助费;我国台湾地区每月也为幸存者提供生活补助,还提供健康检查和住院医疗等补贴。
  康健律师呼吁社会,尤其是政府机构能够更为关心,关注这些老人的生活,做一些实实在在的事。这些老人受到的伤害,不仅是肉体上的,更是精神上的严重创伤,更需要周围的人给她们更多关心,高龄的时候能有一些精神上的安慰。
       文\海南日报记者 邵长春 实习生 周川又 特约记者 黄青文 通讯员 张劝劝
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「ソウル・松坡区が少女像設置へ 8月の除幕めざす」

2019年01月31日 | 日本軍隊性奴隷
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190124001900882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.24 14:01
■ソウル・松坡区が少女像設置へ 8月の除幕めざす
【ソウル聯合ニュース】ソウルの松坡区は24日、旧日本軍の慰安婦被害者を象徴する「平和の少女像」の設置を推進する委員会を25日に発足させ、8月15日の光復節(日本による植民地支配からの解放記念日)前後に除幕式を開く計画を明らかにした。

【写真】ソウル・鍾路区にある少女像(資料写真)=(聯合ニュース)

 少女像の設置は、昨年7月、区内の高校の歴史同好会に所属する生徒と教師が区長に提案した。同区にできた大型マンション団地「へリオシティー」の本博物館近くの遊休地が設置場所として検討されている。区は区民に広く賛同を呼び掛ける予定だ。
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「慰安婦財団の解散手続き進む 韓国政府が許可取り消し」

2019年01月31日 | 日本軍隊性奴隷
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129002900882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 16:48
■慰安婦財団の解散手続き進む 韓国政府が許可取り消し
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者2人が28日にこの世を去り、韓国政府が認定する被害者240人のうち生存者は23人に減った。慰安婦問題を巡る2015年末の韓日合意に基づき韓国政府が設立したものの、被害者らが受け入れていない「和解・癒やし財団」は解散に向けた手続きが進められている。

【写真】18年9月3日、外交部庁舎前で「和解・癒やし財団」の解散を訴える慰安婦被害者の金福童さん(資料写真)=(聯合ニュース)

 韓国女性家族部は昨年11月21日に同財団の解散決定を発表し、2カ月後の今月21日に同部長官の職権で財団の法人としての許可を取り消した。同部の関係者は29日、「法人許可を取り消し、財団にもこれを通知した。裁判所が清算人を選任すれば本格的な清算手続きを踏むことになる」と伝えた。
 財団の許可は取り消されたが、日本の拠出金のうち残った約58億ウォン(約5億7000万円)の扱いは決まっておらず、財産問題などを整理する清算手続きの完了まで長ければ1年ほどかかると予想される。
 和解・癒やし財団は韓日合意に基づき日本政府が拠出した10億円で16年7月に設立され、この10億円を財源として慰安婦被害者や遺族への現金支給事業を行ってきた。
 だが、韓日合意への批判は絶えず、慰安婦被害者や支援団体は日本の拠出金を返還して財団を解散するよう要求し続けた。
 28日に亡くなった慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さんも生前、日本政府の謝罪と賠償を求め、同財団の解散を強く訴えていた。昨年9月3日には、がんの手術を受けた直後だったにもかかわらず雨の中で財団の即時解散を訴える1人デモを行い、「慰労金を1000億ウォンくれるとしても受け取れない」と声を張り上げた。11月に財団の解散決定が発表されると「解散まで非常に時間がかかったが幸いだ」との立場を明らかにした。
 女性家族部の陳善美(チン・ソンミ)長官は29日、金さんの死去を悼むコメントを出し、「慰安婦問題の解決と被害者のおばあさんたちの名誉・尊厳回復に向けた政策推進に一層力を入れる。戦時の性暴力と女性の人権の問題でも先頭に立てるよう努力する」と表明した。
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「キム・ボクトンさん、差別される在日コリアンの現実に心を痛めていた」

2019年01月31日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/international/32700.html
「The Hankyoreh」 2019-01-31 07:48
■「キム・ボクトンさん、差別される在日コリアンの現実に心を痛めていた」
 昨年、大阪の城北朝鮮初級学校を訪問し、寄付金を手渡す 
 コ・チャンウ校長「同胞が差別に苦しんでいることが申し訳ないとおっしゃった」 
 ハルモニの義援金などで台風被害の教室を復旧

【写真】キム・ボクトンさん(二列目中央)とキル・ウォンオクさん(一番前)が昨年9月28日、大阪の城北朝鮮初級学校を訪れ、台風被害復旧支援金を渡している=正義記憶連帯提供//ハンギョレ新聞社

 「日本で在日同胞が今も差別に苦しんでいるのを見て、申し訳ない気持ちでいっぱいとおっしゃったことが、記憶に残っています」。
 大阪の城北朝鮮初級学校のコ・チャンウ校長は28日、亡くなった日本軍慰安婦被害者のキム・ボクトンさんが学校を訪れた時を振り返りながら、このように語った。キムさんは、日本の朝鮮学校問題に大きな関心を示してきた。朝鮮学校を支援するために2014年に5000万ウォン(約490万円)の種基金を提供し、奨学財団「キム・ボクトンの希望」が作られた。今年9月には台風21号で大きな被害を受けた朝鮮学校の復旧に使ってほしいとして、1000万ウォン(約98万円)を追加寄付し、キル・ウォンオクさんと共に学校を訪問した。コ校長は30日に行ったハンギョレとの電話インタビューで、「キムさんが当時も体調が悪く、2階の講堂に歩いて上れるか心配していたが、歩いて上った。2階には台風の被害で屋根に穴が開いた痕跡が残っていたが、被害状況を詳しく見て回った」と話した。
 キムさんは朝鮮小学校で、幼稚園と初級学校(小学校)児童約60人に対し、約10分間にわたって「頑張って勉強ください。そして堂々としてください」と話したという。コ校長は「ハルモニが植民地時代の苦しみがまだ日本の地で違う形で残っているという事実に心を痛めていた」と伝えた。普段は10分もじっとしていられない子どもたちが、その日はしっかり話を聞いていたという。コ校長は「言葉ではなく心で通じたようだった」と振り返った。
 城北朝鮮初級学校は台風の被害で、教室3カ所が使用できなくなったが、キムさんの義援金などで現在は元の姿を取り戻した。キムさんの訪問写真も教務室に飾っており、訪問客が来る度に見せているという。キムさんの訪問から1カ月後、コ校長はキムさんに手紙を送った。「ハルモニのおっしゃるとおり、子どもたちにしっかり勉強を教えます。また、力強く生きていきます。私自身も、大事な城北の子どもたちも強い心と揺ぎない闘志を持ち、堂々と生活できるように、共に成長していきます」と書いた。ハルモニの病状が悪化したと聞いて、年末にも「医学が発展しているから、もう少し頑張ってください」という内容の手紙を送った。
 今月には、子どもたちがキムさんに手紙を書いた。コ校長は「世の中で最も苦難に満ちた人生を歩んできたのがキム・ボクトンさんだが、世の中で最も強いのもキム・ボクトンさんだろう。ハルモニが強く、揺ぎなく生きてきたことを忘れてはならないと思う」と話した。ハルモニはガンで闘病中の昨年11月にも、朝鮮学校のために3000万ウォン(約290万円)を寄付した。

東京/チョ・ギウォン特派員
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/880521.html
韓国語原文入力:2019-01-30 16:23


http://japan.hani.co.kr/arti/international/32697.html
「The Hankyoreh」 登録:2019-01-30 22:27 修正:2019-01-31 07:24
■ホンダ元議員「キム・ボクトンさんは強い女性…私たちが闘い続けなければ」
 [2007年米下院慰安婦決議案可決の主役、ホンダ元議員インタビュー] 

 「日本政府の謝罪を聞けずに亡くなったことがとても悲しい 
 昨年病院に行った時『必ず安倍を倒しましょう』と要請 
 私たちがあきらめずに闘うのを見守っているだろう」 
 「水曜集会に若者たちが参加する姿を見て嬉しい 
 若者たちが過去を知っている限り、この闘いには価値がある」 
 「安倍は指導者らしくきっぱりと謝罪すべき」
 
 「キム・ボクトンさんは強い女性で、強い精神力を持った方だ。韓国に行くたびに訪ねて尊敬を表わしてきた」。
 2007年に米国連邦下院で日本軍「慰安婦」問題解決のための決議案可決を主導したマイケル・ホンダ元連邦下院議員(77)は、28日に亡くなったキム・ボクトンさんをこのように賛えた。彼は日系でありながら下院議員時代(2001~2017年)はもちろん、その後も慰安婦問題に対する真の謝罪を要求し、絶えず日本政府と闘ってきた。エチオピアを訪問中のホンダ元議員は29日、現地時間で深夜0時に近い時刻にもかかわらず「重要なニュース」として電話インタビューに応じた。キム・ボクトンさんの名を語る時は、韓国語で「ハルモニ(おばあさん)キム・ボクトン」と話した。
 ホンダ元議員は「キムハルモニが日本政府の謝罪を聞けずに亡くなったことがとても悲しい」と述べ、「もう韓国に(生存被害者が)23人しか残っていない。被害者が亡くなるたびに、日本の謝罪を受けられるよう闘い続けなければならないと再確認している」と話した。

【写真】2017年10月、ソウル市鍾路区の旧日本大使館前で開かれた水曜集会で、マイケル・ホンダ元米下院議員とキム・ボクトンさんが並んで座っている=資料写真//ハンギョレ新聞社

 ホンダ元議員は、ソウルの日本大使館前で毎週開かれる水曜集会にも何度も参加した。2017年10月の集会では、キムさんが一緒にいたが、彼が昨年11月の集会に行った時には、キムさんは病院にいた。彼は「病院に訪ねて行ったところ、ハルモニは『来てくれてありがとう』と言い、別れ際には『安倍(日本首相)を、必ず倒しましょう』と注文した。必ず謝罪させるようにしようとのお言葉だった」と回想した。また「キムハルモニは既に永眠されたが、私たちがあきらめずに闘い抜くことを期待して見守っておられるだろう」と話した。
 ホンダ元議員は、未来世代たちが過去の日本の蛮行を正しく知ることが重要だと強調した。彼は「水曜集会に行くたびに嬉しかったのは、若者たちの参加が増えていることだった」とし、「過去に何があったのか、若者たちがよく知っている限り、私たちのこうした努力には価値がある。私たちは今後も闘い続ける」と話した。また、米民主党が下院で多数党になったことに触れ、「米国でも多くの政治家が、安倍首相に謝るようさらに積極的に動かなければならず、韓国系米国人がまとまって声を上げなければならない」と話した。彼は「キムハルモニが生きていらっしゃれば、昨年病院でした話をまたするだろう」とし、「私たちは謝罪を受けるために闘い続け、教え、キムハルモニと被害者のための私たちの責任を忘れないだろう」と語った。
 ホンダ元議員は、安倍首相に直接言いたいことがあるかと尋ねると、「15年間にわたり要求してきたこと」と言い「日本の指導者として、真実と責任を認め、曖昧にせずにきっぱりと謝罪すべきだ」と語った。「そうしてこそ、子どもたちが過去を知り、人権を侵害したり女性に暴力を加えてはならないということを知る市民に育つことができる」ということだ。また、安倍首相の母方の祖父である岸信介がA級戦犯であることを取り上げて「安倍は自身の家族がこの問題の一部であったために、体面を傷つけることを恐れたり、謝る勇気がないのだろう」とし、「指導者らしく謝るべきだ」と話した。

ワシントン/ファン・ジュンボム特派員
http://www.hani.co.kr/arti/international/international_general/880494.html
韓国語原文入力:2019-01-30 13:52
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「「死んだら蝶になって飛び回りたい」と言っていた93歳の平和運動家キム・ボクトン」

2019年01月30日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/32691.html
「The Hankyoreh」 2019-01-30 09:24
■「死んだら蝶になって飛び回りたい」と言っていた93歳の平和運動家キム・ボクトン
 享年93歳…戦時性暴力生存者であり平和活動家だったキム・ボクトンさんの人生 
 1992年に「慰安婦」被害証言…紛争地域の性暴力に対する国際社会の世論を喚起 
 日本政府の謝罪を受けられず他界

【写真】日本軍性奴隷制の被害者であり、平和運動家のキム・ボクトンさんの生前の姿//ハンギョレ新聞社

 1926年生まれのキム・ボクトン。慶尚南道梁山(ヤンサン)で生まれた。小学校4年生を終えて、15歳になるまで家事を手伝いながら過ごした。「危ないから、出歩かない方がいい」という母親の言いつけを守っていた。1941年の春なのか秋なのか思い出せないが、ある日、階級章のない黄色い服を着た日本人たちが、町の区長と班長を引き連れて家にやって来た。「軍服を作る工場で3年だけ働けばいい」。15歳のキム・ボクトンが行かなければ、家族を追放し、財産も奪うと言われた。工場に行ってまさか死ぬようなことはなかろう。「母さん、私が行くよ」。15歳のキム・ボクトンは、その足で台湾を経て中国広東のある部隊まで行った。あの時ついていかなければ、93歳のキム・ボクトンの人生は少し違っていたのだろうか。
 日本軍性奴隷制(慰安婦)の被害者であり、平和活動家のキム・ボクトンさんが28日夜10時41分、日本政府の謝罪を受けられないまま他界した。享年93歳。
 「私は一生、(恋慕の)情を抱いたことがない」。15歳のキム・ボクトンは、土曜日は午後12時から午後5時まで、日曜日は朝8時から午後5時まで、平日は週末に来られなかった兵士たちまで相手しなければならなかった。広東を経て、香港やマレーシア、スマトラ、インドネシア、ジャワ、バンコク、シンガポールまで、行先も分からず、トラックに乗せられていた8年間、日本軍の性奴隷として生きた。
 1992年、66歳の生存者キム・ボクトンが政府に慰安婦被害届を出すまで、家族や親戚、知人の誰も、彼女が慰安婦として各地を転々としていたことを知らなかった。解放後、やっと生きて帰ってきた23歳のキム・ボクトンから、想像もできないことを聞いた母親は、誰にも明かせない苦しみを胸の奥にしまい込んだ末に、心臓病でこの世を去った。
 解放以来1992年のその日まで、子どもも、夫もなく、釜山で商売をしながら一人で生きてきた。「稼いだお金で、経済的に苦しい人を助けられた時」は嬉しかった。しかし、「慰安婦」の被害を証言し、顔が知られてからは、隣人とも関係が疎遠になった。
 「何度同じことを繰り返し言っても、口が酸っぱくなるほど語っても、テレビでも新聞でも、その話は一体どこに消えたのか、出るのは一言二言だけで、ただ『キム・ボクトン慰安婦』『慰安婦のキム・ボクトンハルモニ(おばあさん)』…(私が)慰安婦だと宣伝していることにしかならない。そうでしょう?」。“生存者”キム・ボクトンはわざと不満をぶつけてみせたが、その不満は無念の死を遂げたり、匿名で生きていくしかない性奴隷制の被害者たちの勇気を象徴するものだった。
 66歳で始めた日本軍「慰安婦」被害証言は、“生存者”キム・ボクトンを平和運動に導いた。キム・ボクトンは国連や米国、日本、フランスなど世界各地を回りながら、日本軍性奴隷問題に対する関心を促した。「戦争のない世界」を叫んだ。自分のような戦時性暴力被害者が二度と生まれないことを望む切実さが、66歳のキム・ボクトンを突き動かした。コンゴやウガンダなど世界各地の武力紛争地域で行われている性暴力問題を解決してほしいという“生存者”キム・ボクトンの訴えは、国際社会を震わせた。
 「私も日本軍『慰安婦』被害者ですが、それで今も毎週水曜日になると、日本大使館の前に立って、私たちの名誉と人権を回復するため闘い続けているが、いま世界各地で私たちのように戦時性暴力被害を受けている女性たちが、どれほど苦しんでいるか、私はよく知っています。だからこそ、その女性たちを助けたいです」(2012年3月8日「世界女性の日」を迎えて行われたナビ(蝶)基金設立記者会見で)。
 2015年、89歳のとき“生存者”キム・ボクトンは紛争地域の被害児童支援と平和活動家の養成に使ってほしいとして、こつこつ貯めてきた5000万ウォン(約490万円)を「ナビ基金」に寄付した。ナビ基金はこの資金で「キム・ボクトン奨学基金」を設立した。同年、平和活動家キム・ボクトンは国際言論団体が選んだ「自由のために戦う英雄」に、南アフリカ共和国初の黒人大統領ネルソン・マンデラや米国の黒人人権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師らと共に、名を連ねた。

【写真】今月29日、ソウル西大門区セブランス病院の葬儀場特別室に設けられた日本軍性奴隷被害者のキム・ボクトンさんの遺体安置所とキムさんの遺影=ユン・ミヒャン正義記憶財団理事長のフェイスブックよりキャプチャー//ハンギョレ新聞社

 「団結しなければならない。団結して日本に勝たなければならない。第2次大戦当時、若い青年たちの名前を全部日本名に変えて、完全な日本人にして…そうやって連れて行って犠牲になったわが民族が、今もその国で苦しめられているということを聞いて、情けなくて言葉では言い表せなかった…朝鮮学校には朝鮮人が協力しなければ、誰が協力をするの?一人でも多く立派な朝鮮人を育てたい」(総連系日刊紙「朝鮮新報」2019年1月17日付、生前最後のインタビューで)。
 平和運動家キム・ボクトンにとっては、在日コリアンも他人ではなかった。幼くして日本軍に連れて行かれ、学校教育をまともに受けられなかったためか、日本政府の支援を受けることができない在日朝鮮学校を特に不憫に思っていた。2016年から在日朝鮮学校の学生6人に奨学金を支援したキム・ボクトンは昨年11月22日、新村(シンチョン)セブランス病室で病魔と闘っている最中にも、在日朝鮮学校の生徒たちの奨学金に使ってほしいとして、3000万ウォン(約290万円)を寄付した。昨年、公益社団法人チョン(理事長キム・ジェホン、キム・ヨンギュン)は「日本軍『慰安婦』被害者として、苦しみを抱えながらも、ほとんど全財産を後れている教育のために寄付し、平和と統一の信念と韓日の歴史問題に対する正しい歴史観を広めた」92歳のキム・ボクトンを「正しい義人賞」の初受賞者に選んだ。
 「私たちは大きな謝罪を求めているわけではない。自分(日本)が(慰安婦を強制動員)したと認め、記者たちを集めて許してくれと言えば、私たちも許せるのではないか」。
 2018年9月3日。92歳の“生存者”キム・ボクトンは車椅子に乗って、ソウル鐘路区政府ソウル庁舎別館の前で「和解・癒やし財団」の解散を求める1人デモを行った。お腹に広がったガンのため、腹腔鏡手術を受けてから5日後のことだった。
 「年老いたキム・ボクトンが『一日でももっと仲良く過ごすためには、安倍が出て来なければならない』と言っていたと、新聞に書いてほしい。そうしてくれるかい?」。 平和活動家のキム・ボクトンは、現場に取材に来ていた朝日新聞の武田肇特派員に「この話を安倍晋三日本首相に伝えてほしい」と何度も言った。武田記者は「がんばってみます」と答えた。
 93歳のキム・ボクトンが亡くなった今月28日、安倍首相は施政方針演説で、異例にも韓日関係について言及を避けた。安倍首相に続き外交演説を行った河野太郎外相は「韓日請求権協定、慰安婦問題に関する韓日合意など、国際的約束を守ることを(韓国に)強く要求する」と述べた。2015年12月28日に行った両国の合意が「最終的かつ不可逆的解決」という従来の立場の再確認だ。
 「いや、私が死んだら、火葬して、さらさらと撒いてくれといったんだ。面倒を見る人もいないのに、墓を作る必要はない。それであの山にひらひらと…水に撒くと水の霊になるというから、山に撤いてもらって、蝶になって世界中を飛び回りたいな(笑い)」。
 93歳、戦時性暴力生存者であり平和活動家だったキム・ボクトンは、この世と別れる5時間前に、力を振り絞って最後の遺志を残した。「日本軍慰安婦問題の解決に向けて最後まで闘ってほしい」、「在日朝鮮学校の支援を任せるから、がんばってくれ」
 「死んだら、蝶になってひらひらと世界を飛び回りたい」と言っていたキム・ボクトンは、今どの空を飛んでいるのだろう。

ソン・ダムン記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/880370.html
韓国語原文入力:2019-01-29 21:10


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/32690.html
「The Hankyoreh」 2019-01-30 07:33
■文大統領「歴史を正すことを忘れません」
「蝶のようにひらひらと飛んで行かれますように」 
葬儀場を訪ねて弔客録に書き残す 
キル・ウォンオクさんには「長生きしてください」

【写真】文在寅大統領が29日午後、ソウル新村のセブランス病院に設けられた日本軍「慰安婦」被害者キム・ボクトンさんの葬儀場を訪れて弔問している=大統領府写真記者団//ハンギョレ新聞社

 「蝶のようにひらひらと飛んで行かれますように」。
 文在寅(ムン・ジェイン)大統領が29日午後、日本軍「慰安婦」被害者キム・ボクトンさんの葬儀場を訪れ、弔問した後、弔客録にこのように書き残した。被害者ハルモニ(おばあさん)たちの象徴となった蝶のように「重荷を下ろし、安らかに旅立たれるように」という意味が込められているとみられる。
 文大統領は前日に死去したキムさんの葬儀所が設けられたソウル西大門区(ソデムング)のセブランス病院を訪れた。文大統領は遺影の前で、床に膝をつき、深々と頭を下げた後、「女性人権運動家キム・ボクトン市民葬」常任葬儀委員長を務めたユン・ミヒャン正義記憶連帯理事長と挨拶を交わした。文大統領は「もう少しだけ待っていただければ、三・一節100周年もご覧になり、(2回目の)朝米首脳会談が開かれ、(以後)平壌(ピョンヤン)にも行かれたのに…」とお悔みの言葉を伝えた。それから、先に弔問を終えて隣の部屋にいたもう一人の日本軍「慰安婦」被害者キル・ウォンオクさんに「どうか長生きしてください」と声をかけ、25分ほど会話を交わした。 文大統領は約30分間に滞在し、葬儀場を後にした。
 文大統領は弔問に先立ち、自身のフェイスブックでキムさんの他界に触れ、「歴史を正しく立て直すことを忘れない。ご健在の慰安婦被害者23人のため、道理を尽くす」という書き込みを残した。文大統領はこの文で「1993年、ハルモニの国連人権委慰安婦被害公開証言により、隠されていた歴史が私たちのそばに来た」とし、「ハルモニは被害者にとどまらず、日帝の蛮行に対する謝罪と法的賠償を要求し、歴史を正す先頭に立ってきた」と追悼した。
 文大統領は昨年1月4日、慰安婦被害者の8人を大統領府に招待して昼食を共にしたが、手術を控えたキム・ボクトンさんが来られなくなると、入院していたキムさんを昼食の前に見舞い、快復を祈った。

キム・ボヒョプ、ソン・ヨンチョル記者
http://www.hani.co.kr/arti/politics/bluehouse/880427.html
韓国語原文入力:2019-01-29 20:49


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190130000800882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.30 09:53
■慰安婦被害者の金福童さん死去 韓国外相が弔問
【ソウル聯合ニュース】韓国の康京和(カン・ギョンファ)外交部長官が30日、旧日本軍の慰安婦被害者で28日に死去した金福童(キム・ボクドン)さんの弔問のため、遺体が安置されているソウル市内のセブランス病院を訪れた。

【写真】金福童さんの弔問に訪れた康京和長官=30日、ソウル(聯合ニュース)

 康氏はこの日午前8時すぎに黒いスーツ姿で同院の葬儀場に到着すると、チョウの形をした紙に「私たちの心と歴史の中にずっと残ってください」と追悼の言葉を書き、壁に貼った。その後、祭壇の前で30秒ほど黙とうをささげた。
 弔問を終えた康氏は、慰安婦被害者を支援する韓国市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」の尹美香(ユン・ミヒャン)代表と言葉を交わした。「凄絶に闘っておられたが、残念だ。最期まで私たちのことを気にかけていた」という尹氏の言葉に、康氏は「申し訳ない」と短く答えた。
 葬儀場を出た康氏は、慰安婦問題を巡る韓日合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」に日本政府が拠出した10億円の扱いを尋ねる報道陣の質問に何も答えなかった。韓国政府は昨年11月に同財団の解散方針を発表し、解散に向けた手続きを進めている。


https://japanese.joins.com/article/699/249699.html?servcode=200§code=200
「中央日報日本語版」  2019年01月30日07時48分
■現職大統領として初めて…文氏、元慰安婦被害者を弔問

【写真】29日、韓国の文在寅大統領が、ソウル新村セブランス病院に設えられた日本軍慰安婦被害者・金福童さんの葬儀室を訪れて弔問をしている。(写真=青瓦台写真記者団)
 
韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が29日、ソウル新村(シンチョン)セブランス病院に設えられた日本軍慰安婦被害者・金福童(キム・ボクドン)さんの葬儀室を訪れて弔問をしている。現職大統領が慰安婦被害者の葬儀室を訪問したのは初めてだ。
 文大統領はフェイスブックに「歴史を正しく立て直していくことを忘れない。存命中の慰安婦被害者23人のために道理を尽くす」というコメントを残した。
 文大統領は葬儀室を出た後、弔客録に「蝶のように軽やかに飛び立ってください」と綴った。


https://japanese.joins.com/article/705/249705.html?servcode=200§code=200
「中央日報日本語版」 2019年01月30日09時09分
■文大統領「慰安婦被害者のために道理を尽くす」
 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が29日、日本軍慰安婦被害者の故金福童(キム・ボクドン)さんの焼香所を訪れて弔問した。
 文大統領はこの日午後、ソウル新村(シンチョン)セブランス病院に用意された葬儀場に黒い服装で到着した。沈痛な表情だった。文大統領は単独で献花をした後、金さんの遺影を長い間見つめていた。その後、市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」の尹美香(ユン・ミヒャン)代表ら葬儀委員長と握手した。特別な言葉はなかった。
 続いて文大統領は葬儀室の近くに用意された応接間で喪主と面談した。24分が経過してようやく応接間のドアが開いた。弔客録には「蝶のように軽やかに飛び立ってください。文在寅」と綴った。現職大統領として慰安婦被害者の焼香所に弔問に来たのは今回が初めてだ。
 文大統領は喪主との面談で「もう少し長生きされていたら三一節の100周年も見て、米朝首脳会談が開かれて平壌(ピョンヤン)も行けたかもしれないのに」とし「一人また一人と亡くなられている。問題が解決できないまま見送ることになり心が痛い」と話したと、青瓦台(チョンワデ、大統領府)の金宜謙(キム・ウィギョム)報道官が伝えた。喪主は「金おばあさんが『最後までやってほしい』『在日朝鮮人学校もずっと助けてほしい』と話していた。『悪い日本』と言いながら日本に対して怒りを表していた」と故人の言葉を紹介した。故人はまた「金正恩(キム・ジョンウン)が早く来なければならない。来たら金で作った金正恩印を作って、統一文書に捺印すると良いだろう」とも話したという。
 文大統領は弔問に先立ち、フェイスブックに「歴史を正しく立て直していくことを忘れない。存命中の慰安婦被害者23人のために道理を尽くす」と綴った。故人については「白いチョゴリを着て綿雲が広がっていた14歳の故郷の丘にお帰りになった。本当にご苦労が多かったと思います」と綴った。あわせて「1993年おばあさんの国連人権委慰安婦被害公開証言で、隠されていた歴史がわれわれの私たちの傍に来た」とし「真実と向き合うための勇気を持つようになった」と評価した。
 文大統領がこのように「歴史を正しく立て直していくことを忘れない」と記したのは、今後も歴史問題に対する原則を守るという意味だというのが青瓦台関係者の説明だ。最近の大法院(最高裁)の日帝強制徴用賠償判決、日本哨戒機低空威嚇飛行問題などで韓日関係が悪化の一途をたどっている中で、和解の突破口を見つけることがますます難しくなったという見方がある。青瓦台関係者は「大統領の発言には歴史問題では退かないという断固たる意志が込められている」と伝えた。特に、最近韓日間葛藤要素が相次ぐ中、文大統領のメッセージも強くなる状況だ。
 両国首脳は6月に予定された大阪20カ国・地域(G20)首脳会議で会う可能性がある。しかし今年上半期には、文大統領が南北関係改善と歴史を正しく立て直す次元で大々的に準備している三・一運動100周年と4月11日臨時政府樹立記念日行事が予定されている。国内政治状況を考慮すると、日本に融和的なジェスチャーを取ることが容易ではない。日本も4月30日に昭仁天皇が退位し、徳仁皇太子が即位する。即位式に先立ち、日本も態度を変えるのが容易ではないという見方が強い。
コメント

「死去した慰安婦被害者・金福童さん 解決求め体験語り続ける」

2019年01月29日 | 日本軍隊性奴隷
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129000300882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 09:32
■死去した慰安婦被害者・金福童さん 解決求め体験語り続ける
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者、金福童(キム・ボクドン)さんが28日夜、入院先のソウル市内の病院で死去した。今年93歳だった。金さんは慰安婦としての自らの体験を語り、慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)が慰安婦問題の解決を求めてソウルの日本大使館前で開いている定例の「水曜集会」にも積極的に参加してきた。

【写真】昨年10月に水曜集会に参加した金さん(資料写真)=(聯合ニュース)

 金さんはがん闘病のため、ソウル市内の延世大セブランス病院に入院していた。正義連は29日、尹美香(ユン・ミヒャン)代表が前日午前に金さんの危篤の知らせを受け病院に駆けつけ、金さんの最期を看取ったと伝えた。
 尹氏は聯合ニュースの取材に、金さんの気力が衰えており、何を話しているかよく分からなかったとしながら、「唯一聞き取れた言葉は『日本に対する怒り』という一言だった」と話した。ただ、「最期の瞬間には平穏に旅立たれた」と伝えた。
 正義連は29日午前に同病院内の葬儀場に祭壇を設け、11時から弔問を受け付ける予定だ。
 同団体は「金福童ハルモニ(おばあさん)の活動は(旧)日本軍の『慰安婦』問題に対する国際社会の関心を高め、戦時の性暴力被害の再発防止に向けた努力へと国際世論を導いた」とし、「戦時の性暴力被害者の国を超えた連帯は、この世を平和にし、戦時の性暴力被害の再発を防ぐ上で新たな希望になっている」と評した。
 28日午前にも1人の被害者が死去している。金さんの死去により、韓国政府が認定した慰安婦被害者240人のうち、存命者は23人に減った。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129002300882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 15:30
■慰安婦被害者の金福童さん死去 ネット上で追悼相次ぐ
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者で、自らの体験の証言活動を行い日本の謝罪を要求し続けてきた金福童(キム・ボクドン)さんが28日夜に死去したことを受け、インターネット上では金さんを追悼し、冥福を祈るコメントが相次いだ。
 金さんの死去を伝えた韓国市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」のフェイスブックには、29日午前までに570件余りのコメントが寄せられた。その多くは「安らかにお休みください」などと故人の冥福を祈るものだった。
 死去を報じた記事にも、金さんを気の毒がり、日本を非難するコメントなどが寄せられた。あるネットユーザーは「日本の謝罪を受けてからこの世を去るべきだったのに、その恨みをはらせないまま亡くなるとは気の毒だ。亡くなる前まで(慰安婦問題の解決を訴える)デモをなさっていて、胸が痛い」と書き込んだ。
 別のネットユーザーは安倍晋三首相に宛て「被害者のおばあさんたちが亡くなるのを待っているなら、あの方々が皆この世を去った時に真実が覆い隠されると考えているのなら誤算だ。罪を償い、反省すべきだ」と訴えた。
 一方で、「今や日本が謝罪するのではなく、韓国が謝罪し、賠償するときだ」との書き込みもあった。
 ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦被害者を象徴する少女像を守っている20代の男性は、旧日本軍の慰安婦問題が知られるようになって以降、金さんは高齢にもかかわらず海外でも活動し、問題解決のため闘ったとたたえた上で、「日本政府の正式な謝罪も受けられずにこの世を去ったことに胸が痛い」と嘆いた。「私たちがおばあさんの意を継いでいかなければ」とも語った。
 正義記憶連帯は、2月1日午前10時半から日本大使館前で金さんの告別式を執り行うと伝えた。
 同団体によると、金さんは1926年生まれ。1940年に旧日本軍に連行され、中国や香港、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどで「性奴隷」にされ、心身に傷を負った。1992年8月、慰安婦問題の解決のために開かれた第1回の「アジア連帯会議」で慰安婦だったことを公表。翌1993年にオーストリアで開催された世界人権大会で自身の被害の実態を明らかにしたことを皮切りに世界各地で証言活動を続け、戦時の性暴力の根絶を訴える活動も行ってきた


https://japanese.joins.com/article/679/249679.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年01月29日13時26分
■韓国外交長官、故金福童さんの焼香所弔問へ

【写真】ソウル新村セブランス病院に入院中の金福童さん(右)に会う康京和外交部長官(左)。〔写真=尹美香(ユン・ミヒャン)挺身隊対策協代表フェイスブック〕

 韓国の康京和(カン・ギョンファ)外交部長官が日本軍慰安婦被害者の故金福童(キム・ボクドン)さんの焼香所を弔問する。外交部関係者は29日、「康長官が早ければ今日あるいは明日(30日)中に金おばあさんの焼香所が設けられた新村(シンチョン)セブランス葬儀場を訪れて弔問する予定」と話した。
 国連女性・人権問題専門家出身の康長官は慰安婦問題に格別の関心を傾けてきた。昨年1月には金さんが入院したセブランス病院を訪れていた。康長官は当時「なぜ(和解・癒やし)財団をなくさないのか。財団をなくすべきだ」と話した金さんに「(外交部が)悩んでいます」と答えた。
 金さんは当時、日本政府が慰安婦合意によって拠出した10億円に関連して「お金(10億円)からわが政府が(予算で)都合をつけて日本に送り返すべきだ。お金から(日本に)送り返してこそ大きな声が出せる」と話した。これについて康長官は「わが政府にそのようなお金がある」と答えた。
 韓国政府は昨年11月、和解・癒やし財団の解散を決め、女性家族部は今月21日、財団の設立を取り消した状態だ。外交部は康長官の指示で「紛争下の性暴力対応のための国際協力増進」名目で4億9800万ウォン(約4864億円)を新たに編成した。
 日本軍慰安婦問題に対する国際社会の世論を喚起させるための予算だ。
 財団の解散で金さんの願いは守られたが、韓日関係は歴代最悪の水準まで冷え込んでいる。慰安婦合意は「オールストップ」し、日帝強制徴用被害者損害賠償問題と日本軍哨戒機レーダー事件まで加わった状態だ。康長官としては、被害者の立場を反映しながら日本と関係改善もしていかなければならない難しい局面に立たされている。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129003100882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 16:51
■韓国外相 慰安婦被害者死去で弔問へ
【ソウル聯合ニュース】韓国人の慰安婦被害者、金福童(キム・ボクドン)さんが28日夜に死去したことを受け、康京和(カン・ギョンファ)外交部長官が30日、弔問のため、金さんの遺体が安置されているソウル市内のセブランス病院を訪れる。同部の魯圭悳(ノ・ギュドク)報道官が29日の定例会見で明らかにした。

【写真】2018年1月7日、入院した金さん(右)を見舞う康長官(慰安婦被害者支援団体のフェイスブックより)=(聯合ニュース)

 魯報道官は「慰安婦被害者として甚大な苦痛を受けた金さんが亡くなったことを悲しく思い、故人の冥福を祈る」とコメントした。
 康長官はこの日午前、28日に死去した別の慰安婦被害者の弔問にも訪れたという。
 一方、韓国政府が21日、慰安婦問題を巡る2015年末の韓日合意に基づき設立された「和解・癒やし財団」の法人許可を取り消したことについて、日本政府が外交ルートを通じて、受け入れられないとの立場を伝えてきたと明らかにした。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129001800882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 12:48
■慰安婦被害者死去 文大統領「歴史をしっかり正す」
【ソウル聯合ニュース】韓国人の慰安婦被害者、金福童(キム・ボクドン)さんが28日夜に死去したことについて、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は29日、自身のフェイスブックで「本当におつかれさまでした」と追悼し、「歴史をしっかり正すということを忘れない。生存している慰安婦被害者23人のため、道理を尽くす」と書き込んだ。

【写真】18年1月4日、入院中の金さんに言葉をかける文大統領(青瓦台提供)=(聯合ニュース)

 また、「1993年、おばあさん(金さん)の慰安婦被害の公開証言により、知られていなかった歴史がわれわれの元に来た」として、「真実に向き合うための勇気を持つことができた」と投稿。「被害者(の立場)にとどまらず、日帝(日本帝国主義)の蛮行に対する謝罪や法的賠償を要求し、歴史を正すことの先頭に立った」と振り返るとともに、「(日本にある)朝鮮学校に奨学金を寄付し、他国の性暴力被害女性たちと連帯した」として、「人間の尊厳を取り戻すことに余生をささげた」と評した。
 その上で、「昨年、病室で会った際、依然として意志が弱っていない姿をはっきりと覚えている」として、「安らかにお休みください」と書き込んだ。文大統領は昨年1月、病院に入院中だった金さんを見舞い、慰安婦問題を巡り、朴槿恵(パク・クネ)前政権だった2015年に発表された韓日合意では慰安婦問題は解決できないと明言し、問題解決に向け努力する考えを示していた。


https://japanese.joins.com/article/680/249680.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2019年01月29日13時51分
■文大統領、慰安婦被害者を哀悼「歴史を正していくこと忘れない」
 韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が29日、日本の謝罪を要求しながら生涯を送った慰安婦被害者の故金福童(キム・ボクドン)さんの死去に哀悼の意を表した。
 この日、文大統領はフェイスブックを通じて「金福童おばあさんが昨日永眠された。白いチョゴリを着て綿雲が広がっていた14歳の故郷の丘にお帰りになった」と追慕した。
 文大統領は「1993年おばあさんの国連人権委慰安婦被害公開証言で、隠されていた歴史がわれわれの私たちの傍に来た」とし「真実と向き合うための勇気を持つようになった」と伝えた。
 続いて「おばあさんは被害者にとどまらず、日帝の蛮行に対する謝罪と法的賠償を要求して歴史を正すために率先された」とし「朝鮮学校に奨学金を寄付したり他の国の性暴力被害女性たちと連帯したりされた。人間の尊厳性を取り戻すことに余生を尽くされた」と付け加えた。
 あわせて文大統領は「昨年病室でお目にかかった時、依然として折れない意志を持たれていた姿が鮮明に思い出される」とし「歴史を正していくことを忘れない。存命中の慰安婦被害者23人分のために道理を尽くす」と明らかにした。
 一方、金福童さんは1940年14歳のときに中国・香港・シンガポール・マレーシアなどの地に連れて行かれて苦難を経験し、1947年に帰国した。
 1992年慰安婦被害を公開して本格的に女性人権運動の道を歩み始めた故人は28日に亡くなった。政府に登録された日本軍慰安婦被害者生存者は23人に減った。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129003500882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 17:45
■慰安婦被害者・金福童さん死去 文大統領が弔問
【ソウル】韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は29日、旧日本軍の慰安婦被害者で、28日に亡くなった金福童(キム・ボクドン)さんの遺体が安置されているソウル・セブランス病院の葬儀場に弔問に訪れた。

【写真】金さんの遺影に向かってクンジョル(韓国固有の最も丁寧なお辞儀)をする文大統領=29日、ソウル(聯合ニュース)

 文大統領が就任後、慰安婦被害者の死去を受け直接弔問したのは初めて。文大統領は昨年1月、同病院に入院していた金さんを見舞った。
 文大統領はこの日、フェイスブックに金さんについて「被害者(の立場)にとどまらず、日帝(日本帝国主義)の蛮行に対する謝罪や法的賠償を要求し、歴史を正すことの先頭に立った」と振り返りながら「安らかにお休みください」と追悼した。
 また、「歴史をしっかり正すということを忘れない。生存している慰安婦被害者23人のため、道理を尽くす」と書き込んだ。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129003300882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 18:22
■慰安婦被害者の金福童さん死去 韓国与野党が一斉に哀悼
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者、金福童(キム・ボクドン)さんが28日夜に死去したことを受け、韓国の与野党は29日、哀悼の意を表すとともに、日本政府の公式の謝罪や賠償を求めた。

【写真】金さんの遺体が安置されている病院を訪れた弔問客=29日、ソウル(聯合ニュース)

 与党「共に民主党」の報道官は「金さんの人生はそれ自体が人権の歴史」として、「冥福を祈り、安らかに永眠することを心より祈る」との論評を発表。「慰安婦被害者のハン(恨)を晴らし、痛恨の涙を拭える時間がわずかしか残っていない」として、「慰安婦問題の解決は日本政府の公式の謝罪や賠償を通じてこそ可能だ」と強調した。28日には別の慰安婦被害者1人も死去し、韓国政府が認定した慰安婦被害者240人のうち、生存者は23人になった。
 最大野党「自由韓国党」の院内報道官は「悲劇の歴史の被害者にとどまらず、人権回復のため自ら前に出た金さんの勇気や人権平和運動家としての活動を記憶し、(被害者の)おばあさんたちの痛みやハンを癒やすための努力を続けていく」との論評を出した。論評は「安倍晋三首相の誤った歴史認識や妄言に深い遺憾を表すとともに、日本政府の真摯(しんし)な謝罪や対策づくりを強く求める」と強調した。
 ほかの各党も論評を出し、金さんの冥福を祈った。
 与野党の幹部は相次いで金さんの遺体が安置されているソウル市内のセブランス病院を訪れ、哀悼の意を表した。民主党の李海チャン(イ・ヘチャン)代表や洪永杓(ホン・ヨンピョ)院内代表、韓国党の羅卿ウォン(ナ・ギョンウォン)院内代表、「正しい未来党」の孫鶴圭(ソン・ハクギュ)代表、「民主平和党」の鄭東泳(チョン・ドンヨン)代表、「正義党」の李貞味(イ・ジョンミ)代表らが弔問に訪れた。
コメント

「“慰安婦”被害者キム・ボクトンさん死去」

2019年01月29日 | 日本軍隊性奴隷
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/32681.html
「The Hankyoreh」 2019-01-29 07:46
■“慰安婦”被害者キム・ボクトンさん死去
 28日夜10時41分、新村セブランス病院で他界 
 もう一人のハルモニも死去…生存者23人に

【写真】昨年9月、日本軍性奴隷制(慰安婦)の被害者であるキム・ボクトンさんが、台風で被害を受けた在日朝鮮学校に1千万ウォンを寄付すると発表した当時の姿=正義記憶連帯提供//ハンギョレ新聞社

 日本軍“慰安婦”の被害者ハルモニ(おばあさん)、キム・ボクトンさんが死去した。享年93。
 ガンと闘っていたキムさんは28日夜10時41分、ソウル西大門区新村(シンチョン)セブランス病院で死亡した。慶尚南道梁山(ヤンサン)出身のキムさんは、14歳で日本軍に連れて行かれ、22歳のときに帰って来た。キムさんは国内外日本軍“慰安婦”の被害について証言してきた平和運動家だった。2015年には紛争地域の被害児童支援と平和活動家の養成に使ってほしいとして、こつこつ貯めてきた5000万ウォン(約490万円)を「ナビ(蝶)基金」に寄付した。ナビ基金はこの資金で「キム・ボクトン奨学基金」を作った。キムさんは同年、国際メディア団体が選定した「自由のために戦う英雄」として、南アフリカ共和国最初の黒人大統領であるネルソン・マンデラや米国の黒人人権運動家マーティン・ルーサー・キング牧師らと共に、名を連ねた。昨年には公益社団法人「チョン」(理事長キム・ジェホン、キム・ヨンギュン)が制定した「正しい義人賞」の初代受賞者に選ばれた。当時、公益社団法人チョンは「キムさんが日本軍“慰安婦”被害者としてつらい記憶を抱えながらも、ほぼ全財産を後進教育のために寄付し、平和と統一の信念と韓日の歴史問題に対する正しい歴史観を広めた」と、選定理由を明らかにした。

【写真】日本軍性奴隷制被害者のキム・ボクトンさんが昨年9月3日午前、ソウル鍾路区政府ソウル庁舎別館前で「和解・癒やし財団」の解散を求めて一人デモを行っている=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

 キムさんは在日コリアンの子どもたちに格別な愛情を持っていた。幼くして日本軍に連れて行かれ、学校教育をまともに受けられなかったためか、日本政府の支援をまともに受けられない在日朝鮮学校の生徒たちに、特に関心を持っていた。2016年から政府支援を受けられなくなった在日朝鮮学校の学生6人に奨学金を支援していたキムさんは、昨年11月22日、入院先の新村セブランス病室で「在日朝鮮学校の学生たちの奨学金に使ってほしい」として、さらに3000万ウォン(約290万円)を寄付した。最後までキムさんの願いは「安倍に心から謝罪してもらうこと」だった。
 同日、もう一人の日本軍慰安婦被害者のハルモニ(93)もなくなった。正義記憶連帯のユン・ミヒャン代表は同日、フェイスブックに「(Lさんが)昨年末から体調を崩していたが、最近悪化し、苦しんだ末に今日午前、他界した」とし、「痛々しく苦しい記憶、孤独でつらい記憶を、すべて忘れて安らかに眠ってほしい」と書き込んだ。ユン代表は「(Lさんは)17歳になった1942年ごろ、職場の紡織工場で仕事を終えて帰宅する途中、工場近くで軍用トラックから降りた軍人に同僚2人と共に拉致された。その後、日本に、また満洲に連れて行かれ、被害に遭った」と伝えた。Lさんは解放後、密輸船に乗って辛うじて帰国した。ユン代表は「ハルモニは被害経験がもたらした罪の意識と被害意識に一生苦しんだ」とし、「伺うたびにハルモニの顔に現れた苦しみと寂しさを見て、悲しく胸が痛んだ」とも記した。
 チン・ソンミ女性家族部長官は同日、Lさんの死去に哀悼の意を伝えた。チン長官は「先日、ハルモニにお会いした際、健康状態が悪く、一日も早く全快することを心より望んでいたが、しばらくしてハルモニが亡くなられ、やりきれない思いを禁じえない」とし、「ハルモニ一人ひとりに直接伺い、安らかな気持ちで元気に過ごせるよう支援することに最善を尽くしたい」と明らかにした。正義記憶連帯は、Lさんと遺族の意思によって、葬儀は非公開で行われると発表した。2人のハルモニの死去で、慰安婦被害の生存者は23人に減った。

イ・ユジン、パク・ダヘ記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/880245.html
韓国語原文入力:2019-01-29 00:35


https://japanese.joins.com/article/646/249646.html?servcode=A00§code=A10&cloc=jp|main|top_news
「中央日報日本語版」 2019年01月29日08時19分
■「慰安婦被害者の象徴」金福童さん死去…生存者23人に
 「死ぬ前に日本の安倍首相の真心込もった謝罪を受けたい」。
日本軍慰安婦被害女性の金福童(キム・ボクドン)さんが1年余りのがん闘病生活の末、28日に亡くなった。享年93歳。「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(以下、正義記憶連帯)はこの日、「金福童おばあさんがこの日午後10時41分に亡くなった」としながら「金おばあさんの焼香所は延世(ヨンセ)大学セブランス病院葬儀場に設けられる。弔問は1月29日午前11時から可能だ。2月1日に出棺を予定している」と伝えた。
1926年慶尚南道梁山(キョンサンナムド・ヤンサン)で生まれた金福童さんは15歳だった1940年に日本軍にだまされて慰安婦として連れて行かれた。その後、中国、香港、マレーシアなどに連れて行かれ、8年ぶりの1947年に故郷に戻った。
金福童さんは1992年に慰安婦被害の事実を公開して女性人権運動の道を歩き始めた。1992年8月第1回日本軍慰安婦問題解決のためのアジア連帯会議で慰安婦被害証言を始め、1993年にはオーストリア・ウィーンで開かれた世界人権大会に参加して全世界に日本軍慰安婦被害の事実を知らせた。
 その後、本人の名前を冠した「金福童の希望」奨学財団を作って紛争地域の児童や戦争中の性暴力被害女性を助ける人権運動を継続した。また、2012年3月8日の国際女性デーを迎えては日本軍慰安婦被害者センターで一緒に過ごした吉元玉(キル・ウォンオク)さんと一緒に「蝶(ナビ)基金」を立ち上げた。当時、金福童さんは記者会見で「日本軍慰安婦被害者として日本大使館前に立って私たちに名誉と人権を回復させるための戦いを継続しているが、いま世界各地で私たちのように戦時性暴力被害を受けている女性たちがどれほど苦痛なのか、私はとてもよく知っている」と述べながら、女性たちを助けたいとの意志を示した。その後、国連人権理事会、米国、英国、ドイツ、ノルウェー、日本などを何度も訪問して「戦時性暴力被害者が生まれない世の中のための活動」などの海外キャンペーンを進めた。
 2015年以降は韓日慰安婦問題合意を糾弾し、和解・癒やし財団解散と日本政府の公式謝罪を求めた。地道に寄付活動を続けてきた金福童さんは、2015年から2017年まで戦争武力紛争地域の子供たちや女性人権賞金、浦項(ポハン)地震被害者などに各1000万ウォン(約97万円)から5000万ウォンを寄付した。がん闘病中だった昨年も、私財5000万ウォンを在日朝鮮学校に奨学金として寄付していた。今年1月には「正しい義人賞」の賞金500万ウォンを在日朝鮮学校に後援した。正義記憶連帯は「金福童さんは数多くの慰安婦被害者の象徴だった」としながら「日本の真の謝罪とちゃんとした賠償を要求してきた人権平和活動家だった」と説明した。
 「死ぬ前に日本の安倍首相の真心込もった謝罪を受けたい」と話してきた金福童さんは昨年9月のがん闘病中も、ソウル鍾路区(チョンノグ)外交通商部庁舎前で『和解・癒やし財団の即刻解散』を叫んで1人デモを行った。その後、昨年11月に政府が和解・癒やし財団を解散することに公式発表すると、「今からでも被害者の願いを聞き入れてくれてよかった」と明らかにした。当時、金福童さんは病床に横になりながらも「(財団の解散までに)とても長い時間がかかった。和解・癒やし財団がガラガラと崩れてこそ安心するが、明日明後日と先送りされるかと思うと心配になる」と懸念を示し「残るは日本政府が謝罪して賠償することだ。安倍は謝罪して賠償せよ」ともう一度叫んだ。
 金福童さんの死去で慰安婦被害者の生存者は23人に減った。これに先立ち、この日午前には慰安婦被害女性のイさんが亡くなった。イさんは本人と遺族の意向によって葬儀を非公開で執り行う。


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190129000200882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.29 08:42
■「慰安婦被害者の象徴」金福童さん死去 生存者23人に=韓国
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」は慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さんが28日夜、死去したと明らかにした。

【写真】2018年9月3日、韓国と日本政府の合意に基づいて設立された「和解・癒やし財団」の解散を求め、韓国外交部前で1人デモを行う金さん=(聯合ニュース)

 同団体によると、金さんは1926年生まれ。1940年に旧日本軍に連行され、中国や香港、マレーシア、インドネシア、シンガポールなどで「性奴隷」にされ、心身に傷を負った。
 金さんは1992年8月、慰安婦問題の解決のために開かれた第1回の「アジア連帯会議」で慰安婦だったことを公表。翌1993年にオーストリアで開催された世界人権大会で自身の被害の実態を明らかにしたことを皮切りに世界各地で証言活動を続け、戦時の性暴力の根絶を訴える活動も行ってきた。
 同団体は金さんについて、「数多くの慰安婦被害者の象徴」として「日本の真の謝罪や正式な賠償を求めてきた人権平和活動家だった」とコメントした。
 28日午前には別の慰安婦被害者1人も死去し、韓国政府が認定した慰安婦被害者240人のうち、生存者は23人になった。
 葬儀場はソウル市内のセブランス病院で、出棺式は2月1日に営まれる。


https://japanese.joins.com/article/667/249667.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年01月29日10時36分
■慰安婦被害者金福童さん死去…葬列は駐韓日本大使館前を通過予定

【写真】2014年4月15日、城南市庁広場で開かれた平和の少女像除幕式で金福童さんが献花後に平和の少女像に触っている。

 ソウル日本大使館前での水曜集会に活発に参加していた日本軍慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さんが死去した。
 大腸がんのため12日からソウル市内の病院に入院していた金さんは28日午後10時41分に死去した。93歳だった。金さんの死去により韓国政府に登録された慰安婦被害生存者は23人になった。
 金さんは14歳だった1940年、「軍服を作る工場に行かなければならない」という話にだまされ、中国・広東、香港、インドネシア・スマトラ、マレーシア、シンガポールなどで慰安婦生活をしなければならなかった。1947年に帰国した金さんは1992年に初めて自身が慰安婦被害者だった事実を告白し活発に活動した。1993年には国連人権委員会で被害事実を証言し、その後も最近まで水曜集会に参加するなど日本の慰安婦事実を知らせようと努力してきた。
 慰安婦被害者を支援する正義記憶連帯の尹美香(ユン・ミヒャン)代表は金さんを「世界武力紛争地域性暴力生存者の英雄として記憶したい。金さんは入院前まで安倍首相から謝罪を受けることだけが残ったと話していた」と伝えた。
 金さんの焼香所はソウル・新村(シンチョン)セブランス病院の葬儀場に設けられ、「女性人権運動家金福童市民葬」として29日午前11時から弔問客を迎える。2月1日に出棺し、ソウル広場と日本大使館を経て天安(チョンアン)の「望郷の丘」に墓が用意される予定だ。
コメント

「慰安婦被害女性のイさんが死去…生存者24人に」

2019年01月29日 | 日本軍隊性奴隷
https://japanese.joins.com/article/642/249642.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年01月29日06時56分
■慰安婦被害女性のイさんが死去…生存者24人に
 韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)は28日午前、慰安婦被害女性のイさんが亡くなったと明らかにした。
 挺対協は「遺族とおばあさんの意向で葬儀を非公開で執り行う」と明らかにして、「イさんは17歳のときに工場からの帰宅途中に軍人に拉致され、下関や満州に連れて行かれてぞっとするような性奴隷生活をされた。解放後に韓国に戻ったが、被害経験によって苦しい生活を強いられた」と付け加えた。
 イさんの死去で慰安婦被害者生存者は24人に減った。


http://japan.hani.co.kr/arti/politics/32678.html
「The Hankyoreh」 2019-01-28 21:44
■日本軍「慰安婦」被害者、また死亡…生存者は24人に
 正義記憶連帯代表「罪責感・被害意識で一生苦しまれ」 
 チン・ソンミ女性家族部長官 
 「これ以上遅くなる前に一人一人を足繁く訪ねる」

【写真】昨年12月26日昼、ソウル市鍾路区の旧日本大使館前で、2018年最後の「日本軍性的奴隷制問題解決のための定期水曜集会」が開かれ、参席者が被害者を追慕し日本政府の謝罪を要求するスローガンを叫んでいる=パク・ジョンシク記者//ハンギョレ新聞社

 28日、日本軍性的奴隷制(慰安婦)被害者のLおばあさんが死亡したと正義記憶連帯が明らかにした。享年93歳。
 ユン・ミヒャン正義記憶連帯代表はこの日、フェイスブックで「(Lおばあさんは)昨年末から健康が大きく改善していましたが、最近また悪化し強い苦痛に耐えられて今日午前に天に逝かれた」として「辛く苦痛な記憶、孤独でしんどい記憶をすべて忘れて、安らかにお眠り下さることを望む」と明らかにした。ユン代表は「(Lおばあさんは)17歳だった1942年頃、職場の紡織工場から退勤したところ、その付近で軍用トラックから降りた軍人に同僚2人と共に拉致された。その後は日本に、日本からまた満州に連れて行かれ、おぞましい被害に遭われた」と伝えた。Lおばあさんは、解放後に密輸船に乗り、かろうじて帰国した。ユン代表は「おばあさんは、被害経験からくる罪責感と被害意識で一生を苦しまれた」として「訪ねるたびに、おばあさんの顔に刻まれた苦痛と孤独を見て残念で胸が痛かった」とも述べた。
 チン・ソンミ女性家族部長官はこの日、Lおばあさんの逝去に哀悼の意を伝えた。チン長官は「前回おばあさんを訪ねた時、健康状態が良くないので一日も早く全快するよう心から願っていたが、これほど早くおばあさんを見送ることになり残念でならない」として「被害者1人1人を、これ以上遅くなる前に足繁く訪ねて、安らかな気持ちで元気にお過ごしされるよう支援することに最善を尽くす」と明らかにした。
 Lおばあさんの死亡で、慰安婦被害者生存者は24人に減った。正義記憶連帯は、Lおばあさんと遺族の意向により葬儀は非公開で進めると明らかにした。

パク・ダヘ記者
http://www.hani.co.kr/arti/society/women/880184.html
韓国語原文入力:2019-01-28 19:37


https://jp.yna.co.kr/view/AJP20190128001000882?section=news
「聯合ニュース」 2019.01.28 11:04
慰安婦被害者が死去 生存者24人に=韓国
【ソウル聯合ニュース】旧日本軍の慰安婦被害者を支援する韓国の市民団体「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」は28日、94歳の慰安婦被害者1人が同日午前に死去したと伝えた。葬儀は故人と遺族の意向により非公開で営まれる。

【写真】慰安婦被害者が描いた絵(ナヌムの家提供)=(聯合ニュース)

 同団体の尹美香(ユン・ミヒャン)代表は、故人は1942年に働いていた紡績工場からの帰り道で軍人に拉致され日本に連れていかれた後、満州(中国東北部)で慰安婦として働かされたと説明した。
 この被害者の死去により、韓国政府が認定した慰安婦被害者240人のうち生存者は24人になった。
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資料目録  海南島への朝鮮人連行・「朝鮮報国隊」・「朝鮮村」

2019年01月29日 | 「朝鮮報国隊」
  孫惠公「接見日本“和平之船”訪華団講話」、中国人民政治協商会議三亜市委員会編『三亜文史』3。
  羊杰臣「日軍侵略崖県始末」、『三亜文史』4(「日軍侵略崖県及其暴行紀実」と改題されて、『三亜文史』5に再録)。
  陳作平「日本侵略者在崖県的罪行」、『三亜文史』5。
  三亜市茘枝溝鎭人民政府「千人坑簡介」、2000年1月8日。
  忠北大学校중원文化研究所遺骸発掘센터「中国海南島朝鮮村発掘結果報告」、2001年2月。
  우은진「중국 하이난섬(海南島) 의 대학살 발굴현장을 다녀온 후」、『독립기념관 관보』독립기념관、2001년4월。
  金靜美「強制連行された朝鮮人の故郷と朝鮮人が強制労働させられた地域を結ぶ民衆のきずなを!」『パトローネ』31号、写真の会パトローネ、1997年10月。
  金靜美「侵略の共同体と抵抗の共同体――故郷と他郷のかなたに――」、『ほるもん文化』8、新幹社、1998年12月。
  金靜美「日本占領下の海南島における強制労働――強制連行・強制労働の歴史の総体的把握のために――」①・②、『戦争責任研究』27・28、日本の戦争責任資料センター、2000年3月・6月。
  金靜美「일본점령하 중국海南島에서의 강제노동」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와  在日同胞』、ソウル大学校出版部、1999年8月。
  金靜美「海南島の場合(とくに「朝鮮村」と「朝鮮報国隊」について)」(2000年5月24日、ソウルでの第9次国際歴史教科書学術会議第3主題「日本에 있어서의 過去清算問題」における報告(「日帝期의 強制連行 問題에 関하여」のなかで)。『各国의 歴史教科書에 비친 過去清算問題』国際教科書研究所、2000年5月。
  金靜美「海南島・「朝鮮村」で 2001年1月」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』33号、2001年3月。
  佐藤正人「三重県紀和町の紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の跡をたずねて」、『パトローネ』28号、1997年1月。
  佐藤正人「日本の海南島侵略と強制連行・強制労働」、第9回朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える交流集会実行委員会編刊『報告集』1999年4月。〈1998年8月8日~9日、日本金沢市で開催〉。
  佐藤正人「日本の国境と「周辺」の歴史 日本人はクナシリ・与那国・独島・海南島でなにをしたか」、日本の侵略の歴史を知るわかやまの会『第二周年活動報告集』1999年6月。
  佐藤正人「国民国家日本의 領土와 「周辺」」、朴慶植先生追悼論文集『近現代韓日関係와 在日同胞』。
  佐藤正人「日本占領下の海南島における朝鮮人虐殺 アジア民衆共同の東アジア近現代史認識をめざして」(2001年10月24日、上海での第10次国際歴史教科書学術会議第2主題「亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動」における報告)。『亜細亜諸国의 歴史教科書에 비친 抗日運動』国際教科書研究所、2001年12月。
  金靜美・佐藤正人「海南島에 있어서의 日本軍隊性奴隷制度와 強制連行・強制労働 2002年10月海南島「現地調査」報告」、韓国挺身隊研究所『2002年国外居住日本軍‘慰安婦’被害者実態調査』女性部権益企画課、2002年12月。
  金靜美「国民国家日本の他地域・他国における暴力――海南島の場合――」、『東北亜歴史의 諸問題』(南陽洪鍾泌博士定年退任記念論叢)、2003年10月。
  金靜美「海南島からの朝鮮人帰還について――植民地国家からの出国、国民国家への帰還――」、『解放後中国地域韓人の帰還問題研究』、国民大学校韓国学研究所、2003年11月28日。
  金勝一「中国海南島에強制連行된韓国人帰還問題 朝鮮報国隊와慰安婦를中心으로」、『解放後海外韓人의帰還問題研究』国民大学校韓国学研究所、2003年5月。
  『해외 독립운동-강제징용 유적지 답사자료집』한일역사공동연구위원회 3분과 5주제 ‘일제의 조선지배와 한민족의 대응’ 팀, 일시:2003년7월 16―22일, 장소:중국 해남도, 광동성 광주。 (『海外独立運動・強制徴用遺跡地 踏査資料集』)韓日歴史共同研究委員会3分科5主題‘日帝の朝鮮支配と漢民族の対応’チーム、日時:2003年7月16―22日、場所:中国海南島、廣東省広州)。
  独立紀念館韓国独立運動史研究所編『일제하 국외 한인피해 실태조사보고서 1  중국해남도지역 』独立紀念館、2005年4月。金靜美「일본점령하 하이난섬에 있어서의 조선인」。佐藤正人「海南島에 있어서   日本政府・日本軍・日本企業의 侵略犯罪調査」。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会(金靜美、佐藤正人、小谷英治)「海南島2004年12月~2005年1月 あらたな共同作業をめざして」、『パトローネ』61号、2005年4月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』写真の会パトローネ、2005年5月。
  佐藤正人「海南島と“カラフト”における朝鮮人虐殺の真相糾明」、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会『会報』41号、2005年5月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会「海南島2006年5月 「朝鮮村試掘」にいたるまで、そして、それから」、『パトローネ』67号、2006年10月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会制作『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』写真の会パトローネ、2007年2月。
  海南島近現代史研究会編刊『会報』創刊号、2008年2月。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会「国民国家日本の海南島侵略犯罪史認識と伝達」、大阪人権博物館編刊 『大阪人権博物館紀要』第10号、2008年3月1日刊)。
  海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』創刊号、2008年8月。
  海南島近現代史研究会編刊『会報』第2号、2009年2月。
  海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』第2号・第3号、2011年2月。
  海南島近現代史研究会編刊『海南島近現代史研究会』第4号・第5号、2016年5月。
  佐藤正人「국민국가 일본의 침략와 대결하는 민준운동」、『역사와 책임』5号、民族問題研究所、2013年8月。
  斉藤日出治「海南島における日本人の「学術調査研究」と植民地責任」、近畿大学日本文化研究所編『否定と肯定の文脈』風媒社、2013年3月。
  斉藤日出治「「戦後」という日本社会の歴史認識  海南島の住民虐殺と沖縄の強制集団死との結び目から見えてくるもの」、近畿大学日本文化研究所編『日本文化の明と暗』風媒社、2014年3月。
  中共海南省委党史研究室編『海南省重要革命遺祉通覧』(「全国革命遺址普査成果叢書」第22巻)、海南出版社、2014年3月。
  朱振华捜集整理『血和泪的记录 海南万宁月塘村三月廿一日惨案专辑』月塘村、2014年8月。
  中共海南省委党史研究所室編『海南省抗日戦争時期人口傷亡和財産損失』中共党史出版社、2015年8月。
  海南省文化交流促進会编『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足跡』南海出版公司、2015年8月。
  海南省文化交流促進会著『控訴 採訪九位海南慰安婦実録』南海出版公司、2015年10月。
  海南省文化交流促進会著『忘記過去意味着背叛』南海出版公司、2015年12月。

  「京城刑務所假出獄関係書類」(日帝時代朝鮮の監獄の「假出獄関係書類」。「海南島派遣報国隊」として海南島に連行された人の個別の「仮出獄」にかんする京城刑務所の文書群)。
  朝鮮司法保護協会『朝鮮司法保護』1941年3月、朝鮮司法保護事業令(「勅令」)。
  司法省保護局「思想犯保護対象者南方動員実施要綱」(1942年8月31日付)、大久保達正他編『××社会経済史料集成』第16巻(海軍省資料16)、大東文化大学東洋研究所、1991年9月。
  とうま「南方派遣報国隊の結成」、『治刑』(朝鮮総督府法務局行刑課内治刑協会発行)1943年3月号。
  「第二次南方派遣報国隊」、『治刑』1943年6月号。
  坂藤宇太郎・伊東恵「対談 海南島の印象」、『治刑』1943年7月号。
  「構外作業派遣部隊の名称に関する件」(通牒)、『治刑』1943年8月号。
  諸岡亀吉「南方派遣報国隊の錬成」、『治刑』1943年8月号。
  阿部敬夫「南方通信」、『治刑』1943年10月号。
  いとう生「治刑雑想」、『治刑』1943年10月号。
  「治刑情報」、『治刑』1943年11月号。
  藤間忠顯「回顧と展望」、『治刑』1943年12月号。
  小林長蔵・藤間忠顯他「座談会 報国隊を語る」、『治刑』1944年3月号。
  貴島南星(本名、貞四)「我等は挺身する」、『治刑』1944年3月号。
  金本勇治「医療班の一日」、『治刑』1944年3月号。
  白川興一「隊員と共に」、『治刑』1944年3月号。
  古賀九郎「現地の武道」、『治刑』1944年3月号。
  坂本敏夫「海南島の印象」、『治刑』1944年7・8月号。
  「治刑情報」、『治刑』1944年9・10月号。
  藤間忠顯「台湾及海南島視察記」一、二、『治刑』1944年9・10月号、11・12月号。
  『刑務職員録』1943年版、刑務協会。『刑務職員録』1944年版、刑務協会。
  『旧植民地人事総覧』朝鮮編8、1997年2月、日本図書センター。
  『朝鮮年鑑』1944年度、京城日報社、1944年10月15日。『朝鮮年鑑』1945年度、京城日報社、1944年10月20日。
  『第84回帝国議会説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局。
  『第86回帝国議会説明資料』1944年12月、朝鮮総督府法務局。
  「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員等増員ニ関スル件ヲ定ム」(公文類聚・第六十七編・1943年・第三十五巻・官職二十九・官制二十九〈朝鮮総督府四〉)1943年4月19日。
  「台湾ニ於ケル受刑者構外作業ニ伴フ増員ニ関スル件」(公文類聚・第六十七編・1943年・第四十四巻・官職三十八・官制三十八〈台湾総督府六〉)1943年9月25日。
  『戦時行刑実録』矯正協会、1966年。
  防衛庁防衛研修所戦史室編『中部太平洋方面海軍作戦〈1〉』(戦史叢書38)、1970年。
  教誨百年編纂委員会編『教誨百年』上、浄土真宗本願寺派本願寺・真宗大谷派本願寺、1974年4月。
  窪田精『春島物語』東邦出版社、1968年。
  窪田精『トラック島日誌』光和堂、1983年。
  窪田精『流人島にて』新日本出版社、1992年。
  北川幸一『墓標なき島 ある受刑者の“戦争”』光出版印刷株式会社、1988年4月。
  島田興生『還らざる楽園』小学館、1994年。
  郡義典『マウリ・キリバス』近代文芸社、1996年。
  衣笠一『海南島派遣の朝鮮報国隊始末記』(1997年補筆改定)。

  江川きく(中里チヨ)「撃沈」、医療文芸集団編『白の墓碑銘』東邦出版社、1968年6月。
  中里チヨ「いまも耳に残る朝鮮人慰安婦の悲しい叫び 中国・海南島で看護に従事した2年半」(『Nurse eye  ナースアイ』1992年12月号、桐書房)。  
  山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争  秘められた女たちの戦記』光人社、1991年9月。
  朴来順口述、張応勇整理「不堪回首的往事 一個“慰安婦”的自述」、政協海南省保亭黎族苗族自治県委員会文史資料工作委員会編『保亭文史』第9輯(紀念抗日戦争勝利50周年)、1995年8月。
  朴来順口述、張応勇整理「我被騙逼当日軍“慰安婦”的経歴」、海南省政協文史資料委員会編『海南文史資料』第11輯(『鉄蹄下的腥風血雨――日軍侵瓊暴行実録』下)、海南出版社、1995年8月。
  西野瑠美子「私が看た海南島海軍病院の「慰安婦」たち 元海軍従軍看護婦の体験」、『週刊 金曜日』1997年5月23日号。
  班忠義「中国・海南島の元「慰安婦」たち」、『週刊 金曜日』1997年6月27日号。第176号。
  韓国挺身隊研究所・韓国挺身隊対策協議会編『강제로 끌려간 조선인 군위안부들』3、図書出版한을(서을)、1999年10月。


ドキュメンタリー
  韓国KBS『해남도에 묻힌 조선혼』(『海南島に埋められた朝鮮の魂』。金五重監督。1998.8.31.放 映)。
  韓国安東MBC『紀伊半島에 감추어진 진실』(『紀伊半島に隠された真実』。1998.10.放映)。
  韓国KBS『海南島의 朝鮮村』(ニュース。2000.3.放映)。
  韓国MBC『하이난섬의 大虐殺』2001.3.1.放映。3・1独立運動記念特別ドキュメンタリー。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『海南島で日本人はなにをやったか! 日本軍の海南島侵略と抗日闘争① “田独鉱山・「朝鮮村」”』2003年7月。23分。
  韓国KBS『하이난섬 대학살  "조국은 그들을 두번 버렸다"』2003.9.6.放映。“追跡60分”)。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本は海南島でなにをやったか』2003年10月。3分。
  The Society for clarifying Crimes of the Kishu-Mine『 What did the Japanese Army do in Hainan-dao?』2004年4月。3分。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』第1版、2004年7月。65分。
 기주광산의 진실을 밝히는 회企画・制作『일본이 점령한 海南島에서 60년전은 어제의 일』2004年7月、65分。
  査明紀州鉱山事実真相自治会企画・制作『日本占領下的海南島 60年前如昨昔』、2004年12月。65分。
  紀州鉱山の真実を明らかにする会企画・制作『“朝鮮報国隊”』2006年7月。60分。
  海南島近現代史研究会企画・制作『海南島月塘村虐殺』新版、2008年。


新聞報道
  「不能忘却的記憶――与韓国老人張達雄探訪侵瓊日軍暴行遺跡」(満国徽、華暁東記者)、『海南日報』1998年2月24日。
  「中國하이난島서 한국인 학살」(朴雅蘭記者)、『朝鮮日報』1998年3月2日。
  「“日帝만행 해방후 더 잔혹했다”」『佛敎新聞』1998年3月3日。
  「旧日本軍が朝鮮人連行者1000人を虐殺」『民族時報』1998年3月11日。
  「三亜朝鮮村的亡霊在哭泣」(邢中正記者)、『三亜晨報』(中共三亜市委員会機関報)、2000年6月24日。
  「海南朝鮮村亡霊泣訴日軍滔天罪」(邢中正記者)、『羊城晩報』2000年7月24日。 
  「鉄蹄下的海南“慰安婦”」(連載4回。林瑩・余家亮・周楴記者)、『南国都市報』2001年12月3日(1.2)、12月9日(3)、12月10日(4)。
  「日軍労工的悲惨経歴」(余家亮記者)、『南国都市報』2002年3月31日。
  「韩日学者赴海南岛寻找韩籍“慰安妇”幸存者」人民网 2002年10月17日。
  「“海南島の悲劇”真相は」、『北海道新聞』2003年2月21日夕刊。
  「日韓学者調査日軍侵瓊史証」(連載3回。陳超・許春媚記者)、『海南日報』2003年3月28日、3月31日、4月4日。
  「日韩学者第六次赴海南调查日军侵略史证」「中国新闻网」 2003年3月29日。
  「‘하이난섬 징용’ 유족 찾습니다 재일교포·일 시민운동가 “학살 진상규명에 필요”」(양 선아記者)、『한겨레』2003年5月31日。
  「“這些暴行不能原諒!”  “千人坑”纪录片回到“千人坑”」(陳超・袁鋒記者)、『海南日報』2005年1月1日。「日軍侵瓊調査記録片在海口放映」(陳超・袁鋒記者)、『海南日報』2005年1月5日。
  정미란「日軍만행 현장, 해남도 '朝鮮族千人坑'을 아시나요? 일제 강제징용 한국인 1천여명 학살·매몰 현장」、konas.net、2005年4月7日。
  「『海南島で日本は何をしたのか』出版 日本軍占領下の実態暴く」、『伊勢新聞』2005年6月29日。
  「日韓学者再次来瓊掲露日軍侵華暴行 本月13日将在三亜回新村放映日軍侵略海南島記録」(許欣記者)、『南国都市報』2005年9月9日。
  「中国・海南島占領の実態暴く」(奥山隆也記者)、『伊勢新聞』2005年12月27日。
  「日韓三位学者再次来海南島調査日軍侵瓊真相」(王辛莉記者)、中国新聞社、2006年3月23日。
  「海南島 無念の骨探る」(佐藤純記者)、『朝日新聞』西部版、2006年4月4日夕刊。
  「海南島近現代史研究会:市民や研究者らが設立へ」(中村一成記者) 、『毎日新聞』大阪版、2007年8月5日。김경민「주목해야 할 中 해남도 해군기지」、konas.net、2008年7月2日。
  「조선보국대(朝鮮報國隊)(DVD)」日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会調査2課記録管理팀、2008年7月15日。
  「보국대(報國隊)를 아시나요?」、daum.net、2009年3月5日。
  「일제 강제동원 피해상담 및 지원 문의는 110콜센터로 하세요」、konas.net、2009年8月14日。
  이현오「日帝 강제학살 천인갱(千人坑) 영령 추모제 거행」、konas.net、 2010年3月27日。
  「형무소서 끌려가 노예처럼 일하다 학살 ‘한 맺힌 유골들’ 중국 해남도 ‘조선촌’ 이 증언하는 일제의 만행」(사토 쇼진)、『경향신문』、2010年7月12日。
  「日本に父奪われた 朝鮮人軍属らの遺族、証言」(千種辰弥記者)、『朝日新聞』(大阪版)、2010年8月22日朝刊。
  「保亭:正义使者张应勇 让“活历史”发出吼声」(林莹记者)、『南国都市报』2010年12月2日。
  이영찬「천인갱(千人坑)사건을 국가는 아는가? 영관장교연합회, 인천 용주사 '일제 강제 학살 천인갱 영령 추모제' 거행」、konas.net、2012年3月28日。
  「〔인터뷰〕하이난섬 학살 현장을 말하다」、konas.net、2012年4月1日。
  「“우리의 땅으로 돌아가서 희망의 빛이 되소서” 일제의 만행 ‘천인갱’의 진실」 『국방일보』、2012年8月14日。
  「海南島の死「事実知りたい」」(多知川節子記者)、『朝日新聞』(大阪版)2011年8月30日朝刊。
  「日韩学者来琼调查日军侵琼史」『海南日报』、2012年10月31日。
  「日韩学者祭拜日军侵琼时期杀害朝鲜劳工“千人坑”」『中国新闻网』、2012年11月5日。
  「日韓學者祭拜日軍侵瓊時期被殘殺朝鮮勞工」『中国新闻网』、2012年11月8日。
  「搜集日本侵琼证据」『海南日报』、2013年11年4日。
  「追寻“真相”」『海南日報』、2015年9月20日。
コメント

植民地朝鮮から海南島へ

2019年01月28日 | 海南島史研究
 以下は、おととい(2019年1月27日)開催された設置理念に則ったピースおおさかを取り戻す会主催研究会での、海南島近現代史研究会の金靜美の報告要旨です。

■植民地朝鮮から海南島へ■
はじめに
 日本の植民地とされていた朝鮮から日本が植民地としようとして占領した海南島に朝鮮人が連行された。

 1938年2月22日:朝鮮人を日本陸軍の「特別志願兵」に加える「陸軍特別志願兵令」を「勅令95号」として公布(4月3日施行)
 1938年4月 1日:「国家総動員法」公布(5月5日施行)
 1938年5月 4日:「国家総動員法ヲ朝鮮、台湾及樺太ニ施行スルノ件」公布(5月5日施行)
 1939年2月10日:日本陸海軍、海南島に奇襲上陸
 1939年7月 8日:「国民徴用令」(勅令) 
 1939年7月28日:「朝鮮人労務者内地移住に関する方針」・「朝鮮人労務者募集要項」公布
 1939年11月10日:「改正朝鮮民事令」(「創氏・改名」)公布(1940年2月11日施行)
 1943年7月27日:朝鮮人「海軍特別志願兵令」公布・8月1日施行
 1944年8月 8日:「半島人労務者ノ移入ニ関スル件ヲ定ム」

(一) 「朝鮮報国隊」
■植民地朝鮮の刑務所から海南島へ
1、「1943年度国民動員実施計画策定ニ関スル件」1943年5月3日日本政府閣議決定
    「1943年度国民動員計画実施計画ハ大東亜戦争ノ現段階ニ即応シ労務給源拡充ニ
   強力ナル措置ヲ講ジ戦時生産ノ増強ニ必要ナル要員ヲ充足スルト共ニ勤労総力ノ最
   高度発揮ヲ図ルヲ目途トシ左ノ要領ニ依リ之ヲ策定ス。……朝鮮人労務者ノ内地移入
   ハ概ネ前年度同様トスルモ内地在住朝鮮人、華人労務者、俘虜及刑務所在監者等ニ
   付テハ之ガ活用ヲ図リ国民動員実施計画ニ弾力性ヲ有セシム」
2、「朝鮮総督府受刑者海南島出役ニ伴フ監督職員増員ニ関スル件」1943年4月12日、内務大
  臣湯澤三千男発総理大臣東條英機宛
3、「半島に於ける外役作業中最も大規模なものは、南方派遣報国隊の従事してゐる作業で
  ある」、「出役人員は半島全受刑者の一割に及び、作業は決戦下に於ける緊急且重要なる
  国家的事業である」(「治刑情報」、『治刑』治刑協会〈朝鮮総督府法務局行刑課内〉1943年
  11月、23頁)
4、当時の「半島全受刑者の一割」に相当する人数は、2300人弱。1943年9月末の朝鮮国内に
  おける獄中者数は2,2888人(『第84回帝国議会説明資料』1943年12月、朝鮮総督府法務局)

「朝鮮報国隊」(「南方派遣報国隊」)に入れられた朝鮮人獄中者の海南島連行年月日
 1943年3月30日 第1次「南方派遣報国隊」ソウル出発
     5月   第2次「南方派遣報国隊」出発
     6月   第3次「南方派遣報国隊」出発
     7月   第4次「南方派遣報国隊」出発
     8月   第5次「南方派遣報国隊」出発
     10月   第6次「南方派遣報国隊」出発
     11月   第7次「南方派遣報国隊」出発
 1944年 1月    第8次「南方派遣報国隊」出発

■証言
1、「朝鮮報国隊」
※朴萬重さん(85歳。第1次朝鮮報国隊)。2001年4月12日の証言
   石碌山に行った。
   満2年いた。決まっていた。病気で大勢死んだ。
   行った先は家もなくて、じぶんたちで作った。
   何もわからず逃げた人たちもいたが、何人かつかまってひどい目にあわされてからは、
  逃げる人はいなかった。逃げたら銃に撃たれて死ぬ。歩哨がいた。日本人だった。銃を持っ
  ていて、逃げたら撃って殺すといっていた。
   われわれは200人来た。そのあと何人来たかはわからない。あとから来た人たちは、死ん
  だ人や逃げた人も多かった。石碌山だけでなく、他所にもおおぜい配置され、道路工事やトンネル掘りをやらされたと聞いた。空襲も頻繁で、死ぬ人も多かったようだ。
   わたしは海南島に10か月いた。

※呂且鳳さん(1913年生。第7次「朝鮮報国隊」)2007年7月17日、7月20日の証言
   光州刑務所で服役中だった。刑期の満了がもう数日となったある時、看守からどこかの仕
  事に行けと言われた。自分は出所したら故郷に帰るから嫌だと断ってもきいてもらえなかっ
  た。逃げようもなく、光州刑務所から全部で5人、釜山港に連れて行かれた。各刑務所から
  大勢の朝鮮人が集められていた。
   休憩する宿舎がある。軍人がいて。タバコもすって、食事もする。そこで殴られた。服を脱
  がせて、逆さにつ るして、殴られているのか、どうかもわからないくらい殴られた。9時につ
  かまって、1時に部屋に戻された。帰還のときもおぶわれて帰った。

※高福男さん(1917年生。第2次「朝鮮報国隊」)2003年10月26日、2005年12月18日の証言
   洋服のような青い服に、“南方派遣報国隊”と書かれた腕章をつけた。白い腕章。リュック
  を背負い、戦闘帽、脚半、地下足袋。海南島に行くということは知っていた。プサンにから下
  関に行って、一晩、小倉刑務所で寝て、台湾の高雄で降りた。輸送船に乗って行った。監視
  が厳しかった。船では、3階くらいの船底にいた。
   戦争が終わってから、“匪賊”が1か月くらい、われわれのめんどうを見た。報国隊の人で、
  日本語も中国語も上手だったコバヤシが逃げて、解放後、中国遊撃隊の1個小隊の隊長と
  なって戻ってきて、われわれを守った。帰るまでは、そこで、自分たちで畑を作って、食べた。
  中国人がもっていた畑だ。中国人がいろいろ協力してくれた。
   船は海口で乗った。われわれだけで、220~230人。そのほかに、“挺身隊”。広東に寄り、
  そこで100人くらいの光復軍が乗った。

2、朝鮮人軍属
※崔成烈さん(1920年生) 2001年4月19日の証言
   故郷の咸興にあった興南窒素株式会社に就職して、海南島の八所に行き、西松組で3年
  間働いた。
   八所では新しい港を建設していた西松組の配給所の責任者だった。
   ある日、「今日、朝鮮から大勢の人がくる」という話を聞いて、待っていたら船が来た。港に
  行って、見た。
   戦闘帽をかぶって、白い半そでシャツに半ズボンをはいて、地下足袋を履いていた。ふつ
  うの人とちがうかっこうだった。胸に、何かつけていた。憲兵が銃を持って監視する中を、
  船からおりてきた。
   各団体別に旗を持って、列を作って並んでおりてきた。咸興報国隊という旗があった。釜
  山報国隊、大邱報国隊の旗もあった。白い布に、黒い字で書かれていた。旗を持っていた
  人は、報国隊の人だった。
   日本人看守に、同じ咸興の人間だからちょっと話させてくれと頼んで、話すことができた。
  朝鮮のいろんな刑務所から「京城」に集められ、海南島に来たといっていた。5年以下の懲
  役の人たちが来たのだが、3分の1をつとめれば免除されるという条件で来たといっていた。
   ひとつの旗の下にいた人の人数ははっきり覚えていない。来たのは、1943年だったが、何
  月ころだったかも覚えていない。報国隊の人たちは、楡林、石碌、三亜で働いた。三亜では
  飛行場をつくる仕事。八所でも飛行場の工事をした。

3、「朝鮮村」の近くに住む人たち
※符亜輪さん(1916年生) 2000年3月27日の証言
   朝鮮人は、竹で作ったかごを背負って土を運んだ。朝鮮人は、少ししか食べるものをもら
  えないので、力がなかった。運ぶことができなければ、日本人に殴られた。
   道路ができたあと、何の理由もなく、朝鮮人をふたりづつ、木に吊るして殴った。日本人は
  いすに座って、朝鮮人に朝鮮人を殴らせて、見物をしていた。死ぬまで殴って、死んだ後、
  2、3人ずつ穴に埋めた。朝鮮人に穴を掘らせて、埋めさせた。箱に死んだ朝鮮人を入れて、
  穴に運んで、からの箱を持って戻り、またその箱に朝鮮人を入れて運ぶ。最初は、殺した朝
  鮮人に油をかけて焼いたが、あとは油がなくなって、そのまま埋めた。焼いた場所は、ここ
  からすぐのところだ。日本人が銃をつきつけて、運んだ朝鮮人に火をつけさせた。
   朝鮮人はとても多かった。みんな同じ服を着ていた。上着もズボンも青色で、ボタンは白
  かった。朝鮮人の家は、鉄条網で回りを囲み、日本人が見張っていた。

※周学勤さん(1935年生) 2000年3月27日の証言
   子どものとき牛追いをしているとき、道路工事をさせられているおおぜいの朝鮮人を見た。
   (チゲを背負う姿勢をして)朝鮮人はこのように土を運んでいた。
   朝鮮人が木にぶら下げられているのを見てとても怖かった、近くの裏山で生きたまま焼か
  れた朝鮮人の声を聞いた、幼いころ聞いたその低いとぎれれとぎれの悲鳴が、いまも聞こ
  える。

4、石碌に住む人たち
※馬霖さん(86歳。香港) 2002年3月30日の証言
   朝鮮報国隊は背中に文字が縫い付けてあった。
   ねずみ色に近い青色。(ジーンズのような色の服)三亜で毎日見た。道(中山路)で歩いて
  いるのを毎日見た。二十人ぐらいで道の修理をしていた。それ以外の仕事は見ていない。
  わたしは建物を作っていた。
   「コラー」ニホンの兵隊が報国隊をどなっていた。朝鮮報国隊は二十人くらいだった。朝鮮
  共産党の人だと思っていた。

※向全さん(1917年生) 2002年3月30日
   イギリス人、インド人、朝鮮人の生活条件はすごく悪かった。
   報国隊はとても苦労した。タバコをあげたことがある。周りの人がみんな朝鮮報国隊だと
  言っていた。八所から石碌35kmの鉄道工事で見た。
   朝鮮報告隊は日帝に反対した朝鮮人だと聞いた。
   台湾報国隊は見たことがない。でも台湾から来た労工は見たことがある。

※白川さん(1921年生) 2002年3月29日の証言
   台湾から連れてこられた。
   北黎にも朝鮮人がたくさんいた。北黎には日本海軍の特務部があって、そこで毎日のよう
  に朝鮮人が焼かれた。
   解放後、台湾人と朝鮮人は団結した。そこで朝鮮報国隊の人、李と一緒だった。

■「朝鮮村」(南丁村):日本軍の侵略犯罪現場
 「朝鮮村」1998年6月 試掘
 「朝鮮村」2001年1月 発掘
 「朝鮮村」2006年5月 試掘
 「朝鮮村」2011年2月 発掘した遺骨がなくなっていた。遺骨が埋められている場所は、高速道路工事用車の資材置き場になっていた。
 「朝鮮村」2012年11月:素焼き工場ができている。
 「朝鮮村」2015年11月:
■2004年9月15日 日本政府に紀州鉱山の真実を明らかにする会が「南方派遣朝鮮報国隊」の真相究明にかんする要請」
 2004年10月6日 厚生労働省職業安定局総務課から回答
     「厚生労働省では「「南方派遣報告隊」に関する資料がないため、要請に対してお答え
    することができません」
■韓国政府への要請
 1回目:2002年4月17日
 2回目:2003年5月22日
 3回目:2007年7月17日

(二) 「海軍特別志願兵」

■「海軍特別志願兵令」:1943年7月27日、「勅令」第608号
 第一条 「戸籍法ノ適用ヲ受ケザル帝国臣民タル男子ニシテ海軍ノ兵役ニ服スルコトヲ志願スルモノハ海軍大臣ノ定ムル所ニ依リ銓衡ノ上之ヲ特別志願兵ニ採用シ海軍兵籍ニ編入ス」
1943年8月1日:朝鮮で施行
 朝鮮:鎮海の「朝鮮総督府海軍志願兵訓練所」→鎮海海兵団
 台湾:高雄海兵団
 日本:田辺海兵団
 年齢:16歳~21歳

■証言
※Pさん(1928年生) 2001年4月12日2005年12月21日の証言
   「海軍特別志願兵第1期兵」だった。市・郡でひとりづつ選んで、1000人。わたしの故郷は
  麗水。鎭海で訓練を受けて南方に派遣された。下関で19隻の艦隊をつくった。
   途中で高雄に上陸た。バシー海峡で魚雷(1944年3月15日)。12時間漂流して、マニラへ。
  病院船を仮装した船で中国南方に行く途中、サイゴンのメコン川入り口で爆撃をうけた。そ
  の後、海南島に向かった。海南島に着くまで、船が魚雷にあたって3回遭難した。海南島で、
  第16警備隊にいれられた。
 
※Iさん(1923年生)  2010年10月5日の証言
   1943年10月1日に海軍特別志願兵第一期生として入学。1944年3月に卒業し、鎭海海兵
  団に入った。鎭海海兵団第一期生。6月30日に卒業した。海兵団に入ったの一期生は996人
  だった。
   1944年、鎭海海兵団から698名が海南島に行った。わたしは舞鶴鎮守府第1特別陸戦隊
  に入れられた。
   (帰還時)朝鮮人は3か所に集まった。海口、瓊山、三亜。瓊山と海口には舞特、第15警の
  兵士が集まった。
   日本が戦争にまけたあと、瓊山の収容所に入れられた。収容所は、瓊山師範学校の建
  物だった。わたしは朝鮮人の責任者だった。収容所は、朝鮮人、日本人はいっしょだっ
  たが、朝鮮人の区域、日本人区域は別で、朝鮮人の区域は鉄条網に囲まれていていた。
  日本人が入れないようにだ。日本人は外出できなかったが、朝鮮人は外出自由だった。
   「報国隊」のことは)日本が敗北する前に知っていた。刑期を短くしてやるといわれて朝鮮
  の刑務所から来た人たちだと聞いていた。三亜の鉱山でかなりきついしごとをさせられてい
  ると聞いた。。
   解放前は、かれらとは会ったことがなかった。帰りの船では、いっしょに帰った。

(三)日本軍隊性奴隷

■証言
※趙向盈さん(1918年生) 2002年10月14日の証言 陵水黎族自治県新村鎮で
   治安維持会会長をしていた。
   ここで朝鮮族の慰安婦を見た。全部で10人くらいだが4、5人が朝鮮人。三亜から連れて
  きた。
   わたしは治安維持会の会長だから、入ることができた。別に中国人だけが入れる慰安所と
  いうのはなかった。
   慰安所には最初は、日本人がいた。
   (なぜ、朝鮮人だと知ったのか?)ことばが違う。日本語を少しだけ話した。台湾人、日本
  人、朝鮮人、みんな話し方が違う。

※張応勇さん(1940年生) 2002年10月19日の証言 保亭黎族苗族自治県保城鎮で 
   日本の海南島での罪悪史を調査していて、1991年に朴来順さんのことを知った。
   保亭で、道路修理をしている女性の中に、朝鮮女性がいると聞いた。
   はじめて朴来順さんを訪ねて行くと、過ぎ去ったことは聞くなといわれた。
   最初は話をしてくれなかったが、徐々に話しはじめてくれた。海南語も、北京語も、日本
  語も、よくできた。
   政治協商会議の事務所と朴来順氏の家が近く、しばしば訪ねて、ことばを交わした。ここ
  の人たちは、朴来順氏を“アマニ(オモニ)”と呼んだ。故郷に帰りたかったら、領事館を通
  じて話してあげようというと、いらないという。公安部で発給した外国人証を持っていた。
   1993年に、病気になって、公路局で職員をひとり行かせて、亡くなるまで身の回りの世話
  をさせた。
   その娘は、黎族で、入院する前から身の回りの世話をしていたが、入院したので、ついて
  いってつづいて世話をした。そのとき、ほとんど毎日、菓子や果物をもって見舞いに行った
  のだが、わたしが毎日来る目的はわかっている、ほとんど死にゆく身だから、もう話してあ
  げよう、とそのころからすこしづつ口を開きはじめた。故郷では文字をすこしは読んだが、
  ここでは勉強できなかったといっていた。写真をとってもいいか、録音をしてもいいかと尋
  ねると、いいという。写真を撮ったが、借りたカメラで、ちゃんと写せなかった。録音した
  テープは、返した。写真があったら、貸してもらえないかというと、1枚の写真をくれた。そ
  れが本に出した写真で、その後返した。
   故郷に連絡しようか、どうしたいかと聞くと、“こんなありさまで、ここにいるから来いと連絡
  をして会うと、もっと辛い。連絡しなくていい。ここで長い間暮らしたのだから、ここで死ぬ”。
  (朴来順さんから聞いて書いた)文を見せて、発表してもかまわないかと聞くと、いいと。死ん
  だ後は、どうしたいかと聞くと、牛を使って道の修理をしたのだが、その牛の世話をしている
  ときに住んだ小さな家があった。その家の後ろに埋めてくれ、遺物はカンの入れ物があるか
  ら、そこに入れて墓の近くにいっしょに埋めてくれといったので、そうした。文を書くとき、とて
  も辛かった。
   話を聞いているとき、自分の兄弟の名前、故郷の住所をみんな朝鮮語で書いてくれた。中
  国に来る前は、中国がこれほど広いとは知らなかった、撫順からここまで来るのに、船に乗
  って何日もかかった、と言っていた。

※蘇殷貞さん(73歳) 2003年3月20日の証言 三亞市紅沙で
   慰安所」の近くに住んでいた。
   朝鮮人は髪が長い。長いスカート。白い服を着ていた.日本人は髪が短い。短いスカート
   で洋服を着ていた。台湾人は普通のシャツとズボンのようなものを着ていた。
    「アリラン」は聞いたことがある。

※張仁常さん(90歳) 2015年11月20日の証言 東方市八所村で
   八所の港湾建設現場で働いた。朝鮮人、アメリカ人もいた。とても多い。朝鮮人は男も女
  もいた。
   女の人はしごとをしない。きれいなかっこうをしている。女の人だけで小さな部屋に住ん
  でいた。朝、散歩をしていた。掃除をしていて、‟日本娘よ、汚いからこっちにこないで“と
  いうと、‟ちがう、朝鮮人だ”と言った。

◆海南島戦時性暴力被害賠償請求訴訟の原告
 2004年 9月   黄玉鳳さん亡くなる
 2003年12月   譚玉蓮さん亡くなる
 2010年 9月7日 譚亜洞さん亡くなる
 2012年 9月22日 陳金玉さん亡くなる
 2013年10月17日 林亜金さん亡くなる
 2014年6月19日 鄧玉民さん亡くなる
 2017年8月12日 黄有良さん亡くなる
 2017年5月14日 陳亜扁さん亡くなる

■日本敗戦時、海南島にいた朝鮮人数
1、伍賀啓次郎「帰還報告書」による日本敗戦時およびその後の海南島の朝鮮人数
   所属            軍人     軍属    其の他    計
 第十五警備隊         36       2             38
 第十六警備隊         21       4             25
 横須賀第四特別陸戦隊   52       5             57
 佐世保第八特別陸戦隊   22       1             23
 舞鶴第一特別陸戦隊     44       0             44
 軍需部 運輸部                31             31
 施設部                      5              5
 特務部                      9              9
 気象部                      1              1
 朝鮮報国隊                  52      606     658
 居留民                             729    729
   合計             175     110     1335    1620

2、1946年5月に日本陸軍少将富田直亮(第23軍司令官田中九一代理)の名で出された第23軍司令部の「状況報告」(日本防衛研究所図書館所蔵)の「華南地区第二十三軍隷属(指揮)下部隊(海軍部隊及居留民ヲ含ム)人員一覧表」
 
  「海南島地区」
    陸軍部隊:   68人
    海軍部隊:3万3475人
    居留民: 1万1935人
        計4万5478人

  陸軍部隊:全員「内地籍」
  海軍部隊:「内地籍」1万7674人、「台湾籍」1万5068人、「韓籍」733人
  居留民は:「内地籍」5214人、「台湾籍」5488人、「韓籍」1233人
            ※当時、海南島にいた朝鮮人は、733人+1233人=1966人

おわりに
 「朝鮮報国隊」の名簿の探索□「朝鮮村」の遺骨の行方は?
 「朝鮮村」の遺骨が村人とともに「証言」する。誰が殺されたのか。誰にどのように殺されたのか。
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