不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「東アジア史動かした「牡丹社事件」 那覇と台湾に眠る犠牲者悼む」

2016年07月29日 | 台湾
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=180307
『沖縄タイムス』 2016年7月27日 08:25
■東アジア史動かした「牡丹社事件」 那覇と台湾に眠る犠牲者悼む
 台湾南部に漂着した宮古島住民ら54人が先住民族に殺害された1871年の「牡丹社事件」で、「八重山台湾親善交流協会沖縄支部」(宮野照男支部長)のメンバーらは26日、那覇市波之上の「台湾遭害者の墓」前で、八重山の伝統的な奉納芸能を披露した。犠牲になったみ霊の冥福を祈り、台湾との親善交流を一層深めることを誓った。
 メンバーは先月、台湾の屏東県を訪れ、犠牲者の首から下の遺骨が眠る「大日本琉球藩民五十四名墓」で奉納芸能を披露。那覇の「台湾遭害者の墓」にも頭蓋骨が眠っており、「沖縄で同じ演目を再現しなければ、前に進めない」(宮野支部長)との思いで、初めて今回の奉納芸能を企画したという。
 宮野支部長は「あまり知られていないが、牡丹社事件は日台関係の歴史の始まりだ。多くの人に事件のことを知ってほしい」とあいさつ。メンバーは犠牲者の無念に思いを寄せ、墓を守る台湾の人々への感謝を込めた「奉納トゥバラーマ」を歌った。台湾との交流の新たな門出を祝うため、「鷲ぬ鳥節」も舞った。「無蔵念仏節」を披露した勤王流八重山舞踊保存会の川井民枝会長(64)は「先月の台湾訪問を機に、事件を改めて理解した。現地では、舞踊家も歌い手も涙をこらえ演じていた」と振り返る。「犠牲者に『安心してお休みください』とただただ祈ります」と語った。

★「琉球処分につながった」 又吉沖大客員教授
 台湾南部の屏東県牡丹郷に漂着した宮古島の住民ら54人が1871年、現地の先住民・パイワン族に殺害された「牡丹社事件」。首里王府への年貢を納めた帰りに宮古島の貢納船が遭難し、水死した3人を除く66人が助けを求めて牡丹郷に入ったが、言語や文化の違いから数々の誤解が生じ、悲劇が起きた。
 1974年から台湾の現地調査を続ける又吉盛清沖大客員教授は、奉納芸能を前に「明治政府は琉球の帰属問題の決着や台湾の植民地化の意図もあり、自然災害が原因の牡丹社事件を政治的に仕立て上げた」と解説。その後、1874年の「台湾出兵」や79年の「琉球処分」へとつながり、「東アジアの近代史上、重要な事件となった」と強調した。その上で「歴史を知った時から行動がはじまる。新しい平和の時代を築く、みなさんの活動に感謝したい」と意義を語った。

【写真】牡丹社事件の犠牲者に「無蔵念仏節」をささげる八重山台湾親善交流協会沖縄支部のメンバー=26日午後、那覇市波之上
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海南岛近现代史研究会第10次总会・第18次定期研究会

2016年07月24日 | 海南島近現代史研究会
■海南岛近现代史研究会第10次总会・第18次定期研究会■
 主题:海南岛和台湾

     时间:2016年8月28日(星期日)13点10分~17时(12点45分开场)
     地点:CREO大阪西 研修室 大阪市此花区西九条6-1 
           http://www.creo-osaka.or.jp/west/index.html            
     参加费:500日元(会员免费)

  1895年5月,日本军队入侵台湾,日本政府于6月在台湾设立了台湾总督府。同年10月,台湾民主国瓦解崩溃,但是,其后,太鲁阁民族等其他台湾民众进行了持久的抗日反日斗争。
  日本的台湾殖民化机构台湾总督府于1910年代开始着手调查海南岛,为日本侵略海南岛做准备。
  1938年9月,台湾总督府以海南岛为中心,统合台湾、南洋群岛作为帝国南方政策前进据点的目的,提出了《海南岛处理方针》。同年9月,台湾总督府发布「南方外地统治组织扩充强化方策」,其中明确提出了要在海南岛设置海南厅,并将东沙群岛、西沙群岛以及新南群岛归于其下。
  1939年2月,日本军队突袭登陆海南岛以后,隶属于日本殖民地的大批台湾民众被带至海南岛充当士兵,劳工,军队性奴隶……。              

■主题报告 被强迫来到海南岛的台湾人(军属・士兵,「台湾报国队」……)     
                                               佐藤正人
■主题报告 在日本侵略海南岛中台湾总督府的作用             金胜一
■主题报告 台湾总督府・朝鲜总督府・南洋厅・「海南厅」           金静美
■主题报告 台湾总督府的「海南岛调查」以及台北帝国大学的「海南岛学术调查」
                                               齐藤日出治
■主题报告 『台湾日日新闻』如何报道日本侵略海南岛            竹本升

■讨论 1945年8月以后的海南岛・台湾・越南・菲律宾・印度尼西亚・朝鲜……日本
        日本把阿伊努摩喜里(「北海道」)、琉球、台湾、朝鲜、「南洋群岛」、中国东北
       地区・蒙古东南地区、海南岛……沦为殖民地,1945年8月之后依然继承了其历
       史。
        我们希望与大家共同探讨如何以民众的力量阐述日本国家的侵略犯罪的全部
       真相。

■报告 侵略支配海南岛(收藏资料1.介绍图画版・照片记录)        久保井规夫

■调查报告 第16次海南岛「现地调查」(2016年春季)              金静美
       嶺尾村,光村,南北沟村,高石村、英歌村、八所村、新街村、墩头村、大坡村、
      老王村、昌美村、土卜嶺村、庆云村、大水村、龙马坡、纯雅村、三妈沟市村、诗
      礼村、潭陆村……调查以上村庄的历史证言报告。

■关于2016年10月海南岛近现代史研究会第17次海南岛「现地调查」

       海南岛近现代史研究会 http://www.hainanshi.org/
                【事务局】奈良市中山町200—191 齐藤日出治
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会

2016年07月23日 | 海南島近現代史研究会
 8月28日に第10回総会・第18回定例研究会を開きます。
 みなさんの参加をお待ちしています。
                             海南島近現代史研究会


■海南島近現代史研究会第10回総会・第18回定例研究会■              
と き:2016年8月28日(日)13時10分~17時(開場12時45分)
ところ:クレオ大阪西 研修室
        大阪市このはな区西九条6-1-20  電話06-6460―7800
        JR大阪環状線・阪神なんば線 西九条駅下車、 徒歩約3分            
参加費:500円(会員は無料です)

主題:海南島と台湾
 1895年5月に日本軍が台湾に侵入し、6月に日本政府は台湾総督府を開設しました。10月に台湾民主国は崩壊しましたが、その後も、太魯閣民族など台湾民衆は、抗日反日闘争を持続的に戦いました。
 日本の台湾植民地化機関である台湾総督府は、1910年代から日本の海南島侵略を準備する「調査」を開始しました。1938年9月に、台湾総督府は、海南島を中心として、台湾・「南洋群島」を統合し、「帝国南方政策の前進拠点」とするという「海南島処理方針」を作成しました。同じ1938年9月に、台湾総督府は、「南方外地統治組織拡充強化方策」をだし、そこで「海南島に海南庁を置き東沙島西沙島及新南群島を附属せしむ」としていました。
 1939年2月の日本軍の海南島奇襲上陸後、日本の植民地であった台湾からおおくの民衆が、兵士、労働者、軍隊性奴隷……として海南島に連行されました。

■主題報告 海南島に連行された台湾人(軍属・兵士、「台湾報国隊」……)   佐藤正人
■主題報告 日本の海南島侵略における台湾総督府の役割           金勝一
■主題報告 台湾総督府・朝鮮総督府・南洋庁・「海南庁」             金靜美
■主題報告 台湾総督府による「海南島調査」と台北帝国大学による「海南島学術調査」
                                                  斉藤日出治
■主題報告 『台湾日日新聞』で日本の海南島侵略は、いかに報道されていたか
                                                  竹本昇
■討論 1945年8月以後の海南島・台湾・ベトナム・フィリピン・インドネシア・朝鮮……日本
 アイヌモシリ、ウルマネシア、台湾・朝鮮、「南洋群島」、中国東北部・モンゴル東南部、海南島……を植民地とした日本は、1945年8月以後もその歴史を継承しています。
 日本国家の侵略犯罪の全容を、民衆のちからで明らかにしていく道について話し合いたいと思います。
■報告 海南島への侵略と支配(所蔵資料1.図版・写真記録関係の紹介)    久保井規夫
■調査報告 第16回海南島「現地調査」(2016年春)                   金靜美
 嶺尾村、光村、南北溝村、高石村、英歌村、八所村、新街村、墩頭村、大坡村、老王村、昌美村、土卜嶺村、慶雲村、大水村、龍馬坡、純雅村、三媽溝市村、詩礼村、潭陸村……での証言を報告します。
■2016年10月の海南島近現代史研究会の17回目の海南島「現地調査」について

      海南島近現代史研究会 【事務局】 奈良市中山町200-191  斉藤日出治方
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「台湾同胞抗日斗争大事记」

2016年07月22日 | 台湾
http://twkz.china5000.cn/dsj/t20051024_37993.htm
http://twkz.china5000.cn/dsj/t20051024_37991.htm
http://twkz.china5000.cn/dsj/t20051024_37990.htm
http://twkz.china5000.cn/dsj/t20051024_37989.htm
http://twkz.china5000.cn/dsj/t20051024_37987.htm
http://twkz.china5000.cn/dsj/t20051024_37986.htm
「台湾同胞抗日斗争纪念馆」2005年10月24日  来源:《台湾民众抗日史》
■台湾同胞抗日斗争大事记
1387年 在倭寇的袭扰下,明政府撤销台湾行政和防务的巡检司,移台湾岛上居民于漳、泉二州,实行海禁。
1563年 明政府恢复澎湖巡检司,派兵驻守澎湖列岛,再次有利地抗击了日本的侵略。
1593年 日本军阀丰臣秀吉在侵朝过程中,派商人原田孙七郎修书致台湾居民,称台湾为“高山国”,令当地居民向日本纳贡,遭台湾人民冷遇。此后便有一些日本野心家和追逐利益的商人往台湾活动。
1603年 日本侵扰台湾,明政府派沈有容、陈第率军往剿,高山族首领大弥勒等到军前拜谒。
1608年 日本商人以来日本观光为名,带台湾的阿美族人到日本拜见摄政德川家康,了解台湾情况。
1609年 德川家康派有马晴信侵台,因遭到台湾民众的抵抗而失败。此后对高山族人的“招降”,也遭到拒绝。
 德川幕府时期,曾派兵舰13只,侵扰台湾,一度侵入竹堑港(即新竹),因后援不济而失败。
1617年 日本侵略者入侵台湾龙门港。
1621年 日本侵略者踞台湾,“逐流求人而放之。”
  本年 福建人颜思齐,曾引日本人上岛。
1628年 日本人滨田弥兵卫借口贸易,停泊台湾,阴谋占据,因与荷兰占领者发生冲突而返回。
1871年12月 发生“牡丹社事件”,台湾高山族居民误杀上岛避风的琉球国民,日本以琉球宗主国自居,乘机侵略台湾。
1873年3月 4名日本人遭风暴漂流到台湾,获救后被送回日本,日本政府不但不感谢中国,反称这4人遭劫,为侵台制造舆论。
1874年2月 日本政府通过《台湾蕃地处分要略》,成为日本侵台的纲领性文件。
  5月7日 日本借口“牡丹社事件”,派遣3000余侵略军,在台湾社寮港登陆,进攻高山族村庄,遭到当地居民的坚决狙击。
   8月31日 清政府赔偿军费50万两,以求“牡丹社事件”的解决。
1875年 日本迫使琉球王国与中国断绝关系,继而武力吞并,改为日本的冲绳县。
1886年 清政府设台湾省,刘铭传任巡抚。刘上任后殖产兴业,修筑铁路,设电报局、邮政局,对台湾发展贡献很大。
1894年8月1日 甲午中日战争爆发。台湾戒严。台湾省会移至台北。黑旗军首领刘永福率军抵台,守卫台南。布政使唐景崧任台湾巡抚。
1895年3月26日 日军侵占澎湖。
   4月17日 清直隶总督兼北洋大臣李鸿章与日本总理大臣伊藤博文签订《马关条约》,割让台湾、澎湖。割台凶耗传至台湾,全省悲愤,怒斥国贼,誓死守台。
   5月20日 清政府勒令台湾巡抚及大小官员内渡大陆,决意放弃台湾。
   5月25日 地方绅民丘逢甲等创议成立“台湾民主国”,抗击日寇侵占台湾。唐景崧为“总统”,刘永福为“大将军”,丘逢甲为“义勇统领”,立年号“永清”。唐景崧电奏清政府:“今之自主,为拒倭计,免其向中国饶舌;如有转机,自仍归中国”。
   5月29日 日军在基隆之东的沃底登陆。
   6月3日 基隆失守。
   6月6日 唐景崧乘船逃回厦门。
   6月8日 汉奸李春生、辜显荣等迎日军进台北城。各地义军并起,刘永福发布抗日告示,全岛人民展开了英勇的武装反割台斗争。
   6月下旬 宜兰、新竹相继失陷。
   7月下旬 丘逢甲内渡大陆。
   8月 爱国官兵和义军保卫彰化,重创敌寇。南侵日寇一度被遏。
   10月 受挫日军经补充休养后分陆海三路大举南犯。清政府下令严禁资台。军民浴血奋战,3000多壮士为国捐躯。
   10月20日 刘永福退返厦门。打狗(今高雄)、凤山、台南相继失陷。
   11月 日本宣布台湾“全岛平定”,发布台湾住民刑罚令、台湾住民治罪令和台湾监狱令,筹建台北监狱。
1896年1月 抗日武装民众攻进台北,与敌激烈巷战。台北至淡水一线被民众收复,切断了南北交通电讯。日军对北部地区进行报复性“大扫荡”。
   3月 日政府颁布《六三法》,授予台湾总督以处置一切的专权,实行恐怖统治。
   4月 抗日武装打击入侵台东卑南地区日寇。
   6月 日陆军中将桂太郎、桦山资纪任总督。
   6~7月 柯铁、陈发等领导的抗日武装袭击各地日军守备队,全歼云林守备队,收复林圯埔、集集街、斗南街、莿桐、南投、北斗街、斗六和他里雾等地。柯铁在云林大坪顶地区建立抗日武装活动中心,大坪顶被称为“铁国山”。
   8月 日总督府颁布台湾居民户口调查规则,以管制各地居民。
   10月 乃木希典接任总督。日总督府颁布“犯罪即决条例”,镇压抗日民众。
   12月 大坪顶抗日武装重创日军一个团的“扫荡”,半月后转移。
1897年1月 抗日勇士率领太鲁阁高山族同胞起事抗日,日军两个营被伏歼。同月凤山抗日武装痛击日军守备队。
   4月 抗日武装袭击东港及潮州。
   5月8日 《马关条约》规定台湾同胞选定中国国籍最后期限。同日,台湾同胞渡海回祖国大陆的有7000多人。当日,简大狮、詹振等率领抗日武装6000余人袭击台北,冲进市区,一度占领奎府街、大龙峒等。
  同年 陈少白受孙中山之命入台建兴中会台湾分会。
1898年2月 日陆军中将儿玉源太郎为第四任台湾总督。
   同月 简大狮、罗锦春领导的抗日武装,在竹子山倒照湖一带,与日军激战6天,罗锦春牺牲,简大狮率部退进深山。
   7月 抗日武装围攻嘉义,收复周围49个村庄。
   8月31日 日总督府公布实施保甲条例。
   11月15日 日总督府制订《匪徒刑罚令》,对抗日者一律处以极刑。
   12月 林少猫率领抗日武装3000余人袭击潮州、恒春。柯铁等抗日武装占据大坪顶。
1899年 简大狮潜回大陆,被清政府抓获解交驻台湾的日寇,被杀害。
1900年1月 番仔山抗日武装英勇抗击日军围剿,苦战四昼夜后,转移到深山。
   9月 孙中山为筹备“惠州起义”,在台逗留40多天。
1901年2月 詹阿瑞率抗日武装攻入台中城内,散发抗日告示,号召人民“雪恨复清”。
   11月 抗日武装攻打嘉义朴仔脚,全歼驻地日寇官吏。
1902年5月 日寇阴谋制订残杀抗日武装的“大扫除”计划。同月抗日武装领袖阮振、林少猫等被日寇诱捕杀害。台湾同胞抗日武装斗争转入低潮。同年据日方统计,自1898年至本年林少猫牺牲为止,四年间,日寇杀害我抗日民众共11950人。
1904年5月 日总督府颁布《枪炮火药取缔规划》。
   12月 高山族同胞袭击苗栗洗水坑日警。
1906年3月 日总督府颁布《三一法》,制订《浮浪取缔规则》。
   8月 太鲁阁和大豹社高山族同胞抗击日警镇压,激战近一个月,毙伤敌人80多人。
1907年5月 台北枕头山高山族同胞抗击日警镇压,激战三个月,毙伤敌人200余人。
   7月 日军警疯狂镇压太鲁阁高山族同胞,将二社六全部焚毁。
   11月 蔡清琳率众举行北埔起义,他们联合高山族同胞,袭击日警察支厅和多处分所,惩处了作恶多端的日本人。后蔡清琳等9人被日寇杀害。
1908年6月 1500余名日警察镇压宜兰南澳高山族同胞。
1909年自上年12月至本年4月 雾社等高山族同胞,猛烈反击日大批警察的镇压。
1910年 日本总督府制订五年讨“番”计划,颁布《番务监视规程》。高山族同胞奋起反抗。日本总督府制订《官有林野取缔规则》。
1911年 辛亥革命胜利,给台湾同胞的抗日斗争以巨大的鼓舞和影响。大安溪高山族各联合抗击日军警的围剿,斗争坚持一年,毙伤日军警数百人。
1912年3月 爆发“林圮埔事件”。刘乾、林启祯响应辛亥革命,建立秘密组织,袭击林圮埔警察支厅,激战7天。
   6月 嘉义农民黄朝、黄老钳举行土库起义,号召乡民驱逐日寇,因泄密被杀害。
   12月 孙中山派同盟会会员罗福星等同志秘密到台湾,宣传抗日复台,回归祖国。同月罗福星组织陈阿荣等在南投聚集数百人建立抗日组织,事败被捕入狱,此事称为“南投事件”。
1913年3月 罗福星等发表《大革命宣言书》。
   4月 在罗福星鼓动下,张火炉等人以铁砧山、罩兰为据点,组织武装力量,不幸事败,张等50余革命志士壮烈牺牲。此事被称为“新竹事件”。
   6月 大嵙莰溪上游高山族同胞拒交枪械,日总督亲率日军一团和炮兵队,及台北、桃园、新竹三处警察进行围剿。各社高山族齐起抗敌,战斗中日军伤亡惨重。
   7月 罗福星策动台南人李阿齐(又名阿良),到大目降高山族同胞住区,宣传抗日,准备起义,因泄密而失败,被称为“关帝庙事件”。
   8月 孙中山、胡汉民东渡日本经台湾,在台北下榻。
   12月 罗福星发动“东势角事件”。赖来组织80多人起义,赖来在战斗中阵亡。
   同月 日警在全台大搜捕,罗福星等921名革命志士被捕,其中罗等200余人被杀害。此事与南投事件、新竹事件、东势角事件、台南关帝庙事件等并称为“苗栗起义”。
1914年6月 罗阿头、罗狮、罗陈集合数百人起义。同月日总督佐久间亲自指挥万余军警进攻太鲁阁,高山族同胞奋勇迎敌,苦战90天,毙伤日军300余人,佐久间坠崖身亡。
1915年3月 台北新庄人杨临等70余人密谋起义,事败,杨等被日寇杀害。
  5月 西来庵事件(又称噍吧哖起义)。余清芳、江定、罗俊3人为首领,率领数千民众起义。
   7月 西来庵起义军队进攻噍吧哖(今台南玉井乡),全歼甲仙埔、大邱园、小张犁、阿里兰等地日警。起义被日军镇压下去,1000多人被日寇判为死刑,这在世界审判史上是罕见的。
1918年6月 孙中山东渡日本,途经台北,逗留一夜。
1920年1月 在“五四”运动的影响和推动下,留日台籍学生在东京成立“新民会”,并创刊《台湾青年》杂志。林献堂、蔡惠如任正副会长,会员共百余人。
  同年参加“新民会”的台湾学生在东京成立“台湾青年会”。
1921年10月 台湾文化协会在台北成立。这是民族主义重要启蒙文化团体,主要成员有林献堂、蒋渭水、蔡培火、洪元煌、林幼春等人。在该协会影响下,台湾各地青年相继组织各种文化团体。
1922年1月 旅居北京的台湾学生成立“北京台湾青年会”,蔡元培、梁启超、胡适等为名誉会员。大陆各地的台籍学生也纷纷成立学生组织,广泛开展反对日本帝国主义的斗争。
1923年1月 日总督府宣布实施《治安警察法》,镇压台湾同胞的政治活动。
   8月 台北青年会成立即被查禁。
   11月 汉奸辜显荣受日总督之命,拼凑“台湾公益会”,以对抗“台湾文化协会”。
1924年6月 上海台湾青年会组织集会,散发“勿忘此耻”传单。
   7月 台湾文化协会在台中召开群众大会,揭露台湾公益会充当日寇汉奸的丑恶行径。
1925年3月 台北5000余人在台北文化协会举行孙中山逝世追悼大会。
   6月 彰化县北斗郡下二林等四庄的蔗农反对日本殖民者的剥削压榨,成立蔗农组合总会,后被强行解散,多人被起诉判刑
1926年6月 台湾农民组合筹备委员会在凤山召开会议。
   10月 为抗议日本人歧视,台北商工学校台湾籍学生全体罢课。
1927年3月 在郭沫若等人影响下,广东中山大学等台籍学生组建“广东台湾革命青年团”,发表《告中国同胞书》,呼吁:“台湾乃中国之台湾,民族乃中国之民族,土地乃中国之土地。”“四一二”反革命政变后,该团部分成员返回台湾,参加共产党领导的革命活动。
  同月 台湾中坜、桃园的佃农成立农民组合会,展开抗缴租谷的斗争。
   4月 台湾市2000名人力车夫和嘉义修理厂工人分别举行罢工。
   6月25日 日本内阁总理大臣田中义一向天皇奏折,系统地提出了侵略中国、亚洲及全世界的“百年大计”。史称“田中奏折”。
   7月 蒋渭水等人脱离台湾文化协会,另组台湾民众党。
   11月 台湾文化协会组织新竹市数百名群众游行示威,抗议日警暴行。
   12月台湾农民组合举行全岛第一届大会,成立了全台领导机构。农会会员迅即发展到数万人,农民运动蓬勃展开。
1928年1月 台湾近代产业工人第一个组织台湾机械工会联合会在台北成立。
   3月 在台湾民众党影响下,台湾工友总联盟成立。
   4月 在中国共产党的直接帮助下,台湾籍共产党人在上海举行日本共产党台湾民族支部第一次代表大会,建立党的组织。
   8月 日警查禁中坜、桃园两地农会,农会涌到警察派出所,捣毁其门窗。
   12月 台湾农民组合召开第二届大会。大会号召台湾工人、农民和一切被压迫的民众,团结战斗,反击日寇的镇压。
1929年2月 日警疯狂镇压台湾农民联合会,总部及各地支部200多名领导者和干部被捕。
   同月 日本殖民当局2月12日突然出动全部警察、特务在全岛大搜捕,文协、工会、农会等组织的成员1000多人被捕下狱。此即“二一二”事件。
   6月 国民党当局拒绝台湾民众党代表赴南京参加孙中山“奉安大典”。
   同月上海台湾青年团成立。
   9月 《田中奏折》被苗栗人蔡智堪从日本皇室书库中抄录后,辗转刊在南京《时事日报》上,引起轩然大波。
  11月 台湾文化协会在彰化召开代表大会,改组领导机构,修改纲领。
1930年2月 台湾工友总联盟在台北召开联盟大会,号召“拥护中国工农革命”,“反对帝国主义战争”。大会被日警强行解散。
   8月 林献堂、杨肇嘉等人创立台湾地方自治联盟。
   10月 台湾籍共产党人在台北召开会议,提出要在工农民众中积极开展活动的方针。
   10月27日 爆发震惊中外的雾社起义。雾社高山族同胞为反抗日本殖民者的压迫奴役,经过周密计划发动起义,共毙伤日警数百名,日本殖民当局调集大量日军,并动用飞机、大炮以至使用化学武器,极其野蛮地残杀起义民众,被日军杀害的有900余人。日寇暴行在国际上引起强烈反响,日本政府被迫撤换台湾总督及有关人员。
1931年1月 台湾共产党人在凤山成立改革同盟。
   2月 日本总督府取缔解散台湾民众党。
   4月 上海台湾青年团改名为上海台湾反帝大同盟。
   5月 改革同盟领导人在淡水召开台湾共产党第二次临时大会。
   6月 日警在台湾境内搜捕共产党人,许多领导人和党员被捕,革命转入低潮。同月厦门反帝大同盟台湾分盟成立。
1934年7月 汉奸辜显荣被天皇特任为日本贵族院议员。
   9月台湾总督向林献堂等下令,停止“台湾议会设置请愿运动”。
   同月台中紫云寺道士曾宗组织众友会起义,失败。
   同月爱国青年郑清水只身潜入日本基隆警察署,炸毁部分建筑物,炸伤两名日本人。即为“基隆爆炸事件”。
  年末台湾人口总计5194981人
1936年3月 “埔里社事件”,南投埔里几十名高山族青年袭击日警察所,击毙两名日警,并散发抗日传单。
   5月 台北二中发生针对日本人的袭击事件,也称“红毛巾事件”。其主要参与者组织了“中国急进青年党”,进行反日活动。
1937年7月 “七七”事变爆发,日本宣布台湾进入“战时体制”,强化对台湾的法西斯统治,强制推行“皇民化运动”,同时禁用中文。
   11月 宜兰等地700多名矿工集体暴动,反抗日寇迫害。
1938年 日本殖民当局设置“经济警察”,推行其经济政策。
   10月 高雄、六甲等地相继发生反战暴动。
   10月 广州沦陷前,抗日志士丘念台等组织“东区服务队”,在惠、潮、梅所属的25个县中,宣传抗日,发展组织,训练民众。
1939年2月22日 台湾民众的抗日组织台湾义勇队成立,以李友邦为队长。义勇队有严密的组织,主要在浙江金华进行训练与工作,后至福建。主要从事抗日宣传,教化日军俘虏,战时医疗服务,搜集、传递情报,参与战时社会服务等活动。
  同日,在浙江金华成立了台湾少年抗日组织——台湾少年团,李友邦兼任团长。为驱使台湾同胞充当其侵略战争的炮灰,日本殖民当局颁布《国民征用令》。
   3月13日 千余名被征台湾壮丁,在高雄“哗变”,600多人被杀害。其他地方也有类似事件发生。
1940年4月 青年教师李钦明、李启明兄弟,组织成立“台湾民族主义青年团”,事败,李氏兄弟被害。台湾总督府为推行改姓名运动,改订《户口规则》。
1941年2月 台湾革命同盟会在重庆成立。并发表宣言,号召台胞参加抗战。表示只有光复台湾,抗战才能胜利;只有协助祖国抗战,台胞才能获得自由解放。
   11月 原台湾文化协会成员吴海水等200余名知识界人士不满日寇统治被捕下狱,多人惨死狱中,是为“东港事件”。
   12月8日 日本袭击珍珠港,太平洋战争爆发。
   12月9日 中国政府对日宣战。并严正声明要求收复台湾、澎湖等失地,洗雪国耻。
1943年 日本殖民当局以“密谋组织抗日起义”之罪逮捕煤矿巨商李建兴和500多名矿工。
   11月23日 美国总统罗斯福与蒋介石会谈纪要称:双方一致同意,日本以武力夺取的东北四省、台湾和澎湖列岛战后必须归还中国。
   12月1日 中、美、英三国签署《开罗宣言》,规定:“日本所窃取于中国领土,例如满洲、台湾、澎湖列岛等,归还中国。”
1944年1月 日本在台湾各地的“皇民练成所”,强制推行同化台湾同胞的政策。
   5月 台北高等商业学校学生雷灿南密谋起义,事泄被捕,英勇牺牲。
   5月5日 谢娥等人密谋反日,暴露后许多学生被捕,被称为“台北二中学生与谢娥的反日事件”。
   5月 台北帝国大学学生蔡忠恕等200余人密谋起义,准备收复台湾,迎接抗战胜利。日本宪兵突然进行大搜捕,蔡死于狱中。
   9月 日本实施《台民征兵制度》。
1945年7月26日 中、美、英三国签署《波茨坦公告》,公告重申:“开罗宣言之条件必将实施,而日本之主权必将限于本洲、北海道、九州、四国及吾人所决定其他小岛之内。”
   8月15日 日本宣布接受无条件投降。
   9月1日 台湾行政长官公署在重庆成立,陈仪任台湾行政长官。
   9月2日 日本签署投降书。《日本投降条款》规定:日本政府“承担忠诚履行波茨坦公告各项规定之义务”。
   9月3日 中国抗日战争胜利纪念日。同日中国陆军第七十军的先头部队七十五师在基隆登陆。台湾行政长官公署先遣人员“前进指挥所”抵台。
   10月25日 台湾地区日军投降仪式在台北市公会堂举行。台湾行政长官陈仪代表中国政府正式宣告:从即日起,台湾和澎湖列岛正式重新归入中国版图,所有一切土地、国民、政事皆置于中国主权之下。这一天被命名为“台湾光复日”。
   11月2日 国民党台湾省党部全体成员抵达台湾。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「鬼子霸台湾年年不准过春节」

2016年07月20日 | 台湾
http://twkz.china5000.cn/rjxl/t20051025_38074.htm
「台湾同胞抗日斗争纪念馆」2005年10月25日  来源: 广州日报
■鬼子霸台湾年年不准过春节
  1895年,清政府在中日甲午战争中失败,被迫签订丧权辱国、赔款割地的《马关条约》,日本获得了觊觎已久的台湾。
  “1895年,通过《马关条约》侵占了台湾的日本军国主义,对台湾实施了长达50年的殖民统治。这种殖民统治,无论是在政治上、经济上还是在文化上,都是掠夺式的……”在厦门大学台湾研究院副教授张文生的研究成果当中,有足够的史料证明这判断。

★残酷镇压 19个总督都是杀人魔王
  日本占领台湾50年,派出19任总督,作为统治中国台湾地区、实施殖民统治的最高指挥。不论文官武将,19名总督集立法、行政、军事大权于一身,掌握了当地中国人的生杀予夺大权,个个都是杀人魔王。
  日本在台湾殖民统治主要靠军队、宪兵、警察维持,更多的是靠权大无边的警察管制社会和民众。1897年,日本第三任总督乃木希典,制订了《三段警备法》,这是一部由军队、宪兵、警察三方协力镇压统治台湾人民的殖民法。1896年,第一批日本警察到台。此后,以日本警察为主体的警察,成直接屠杀台湾中国人的刽子手。台湾成为名副其实的警察社会。中国人的基本权利都被剥夺。

★经济掠夺 实行专卖+控制经济命脉
  日本占领台湾后,对台湾人民进行了非常残酷的经济掠夺。起初,掠夺土地是日本最赤裸裸的一项经济政策。日本殖民者通过一系列巧取豪夺,日本政府及日本财阀攫取占全岛土地总面积68.5%的土地。台湾97%的林地变成了日本殖民者的私有财产。为了能够大量掠夺台湾的稻米,他们推行“农业台湾,工业日本”的殖民统治经济模式,强迫台湾农民增种水稻、种植防风林。
  日本殖民统治者还实行专卖榨取巨额财富。日本殖民者不仅对食盐、烟、酒、火柴等生活必需品实行专卖,而且还把在日本国内禁止吸食的鸦片在台湾实行专卖,毒害台湾人民。日据时期,台湾总督府独占的日本官僚垄断资本和日本各大财阀集团控制的垄断资本控制着台湾的工业生产。

★“皇民化”运动 下令撤销春节等传统节日
  日本殖民当局从侵占台湾的第一天起,就开始做起永久霸占台湾的美梦,开始推行强制同化政策的“皇民化”运动。
  殖民同化政策之一是推行奴化教育。在奴化教育中,殖民当局规定每个中国学生必须有一个偏名,就是在名字的第二字之后加上班级数,然后再加一个“郎”字。
  此外,无论在什么学校,都把日语当作基本语言,不让中国人接受高等教育。从中等教育开始,限制中国学生所学专业;高等教育更是主要由日本人独占,而且除少数学校外,其他一切高等学校都在日本国内举行考试。在1928年成立的帝国大学(台湾大学)内,教学内容更是以传播殖民主义文化为主,有关中国的历史、思想、文化均在排挤之列。
  在社会习俗方面,日本殖民当局下令撤销春节等传统节日;台湾家庭必须使用日本的风吕(澡盆)、便所、榻榻米,妇女必须穿和服;吃饭要吃日本料理;结婚要在日本花嫁神前结婚;葬礼要采用大和安葬式。日寇当局还下令禁演传统的布袋戏、歌仔戏、歌谣,禁止汉文文学作品,宣扬日本精神、日本军威、大义名分等。(本报特派厦门记者刘志华)

★台商回忆★
★逼百姓称日本警察“大人”
  1949年9月18日,当20岁的万海水登上宝岛台湾的时候,他的第一站就是台北火车站。现已成为台湾岛上小有名气制鞋大王的万海水,当年只是一个做绣花鞋的小鞋匠,他喜欢听老一辈的人讲述日本统治岁月的艰辛,再加上共同度过62年的老伴是个在日本统治下度过童年的台湾姑娘,所以在接受记者采访时,77岁的老人有些得意又有些伤感地告诉记者:“这些事件啊,也只有我们这些老头子知道了。”
★高压政策:日本警察遍及各个角落
  万先生说:“日本人管理台湾的时候是一种高压政策,台湾人当时都生活在恐怖害怕之中。警察在当时权力非常大,据说警察来到老百姓家里,老百姓都要跪着接待。在日本统治时期,台湾民间的一句吓唬小孩的话,“大人来啦!”所谓“大人”就是指当时的日本警察。当时日本警察遍及台湾社会的各个角落,有些地区每隔二三公里就有一个警察机构;每300人就配有一名警察。
★残酷搜刮:强迫献金支持日本战争
  万海水的夫人陈秀琴是台湾省苗栗县人,在日本统治的后期,陈秀琴已经是个八九岁的小女孩了。她告诉记者:“到现在我也不吃红薯,因为小时候吃得太多了。”虽然台湾一直是个物产丰盛的宝岛,但在日本统治期间,大量的物产都被日本人“刮走了”。陈秀琴说:“像台湾的特产大米——蓬莱米,都得‘进贡’给日本人,蔗糖也是,台湾人都吃不上。日本人还大量砍伐台湾的榉木运到日本去,这是台湾珍贵的树木,做家具一百年都不会坏的。”
  “在后期都是实行配给制,包括猪肉和布什么的都是凭票才能买到,台湾的物产都拿去支持日本战争所需要的钱财物资去了。”万海水补充道,“日本人还在各地设一个捐献箱,让台湾老百姓捐钱捐物。如果不捐,被警察查到了,那就倒霉了。所以老百姓都害怕,只能把家里值钱的东西都拿出来。”
★强征入伍:参加日本敢死队
  除了恐怖统治外,大量的台湾人民还被强征入伍。据陈秀琴介绍,他们家的一个邻居就被征兵到日本去,参加了空军敢死队,要派他去再次偷袭珍珠港,好在在准备出发的时候,日本天皇宣布投降了。而陈秀琴的两个哥哥也是被抓去做壮丁当兵了。
  据万海水回忆,台湾小孩和日本小孩子上的学校是不一样的。日本学童,就读的是“小学校”;中国儿童,就读的是“公学校”和“国(日)语传习所”,高山地区的少数民族儿童则进“教育所”。“在高中阶段,台湾的学生不能读经济和政治,只能读土木工程、法律和医学这些科系。因为怕台湾人读了经济政治,有了头脑,就要反他啊!”(本报记者邱敏)

★作家亲历 日本人常叫我们“清国奴”★
  今年85岁的周青是全国台联的一位台胞作家,台北市人。他回忆说:“我们家住在台北市日本大兵营的旁边,我父亲在劳力市场卖苦力,母亲到日本军官宿舍洗衣服,赚微薄的钱补贴家用。母亲有时把日本人吃剩的米饭或菜拾回来给我们吃。因为,台湾种的好米都被运去日本,台湾人根本吃不到。
  “日本侵略者为了便于殖民统治而重视小学教育,但小学教的内容主要是宣传日本‘伟大’并蔑视中国,如日本的皇帝叫‘神武天皇’,称‘大和民族是优秀民族’而‘支那民族是劣等民族’等。日本人经常叫我们‘清国奴’,这是当时我们感到最为屈辱的一句话。”
  周青说,在日本殖民统治下的台湾人是二等公民。小时候乘公共汽车,遇到日本学生上车,中国学生就得赶快让座位,如果稍慢一点,他就动手打你。“有一次,我和小伙伴教训了一个日本孩子,但一到学校就被日本教员揍了一顿,并被拖到日本天皇像前罚站,直到下午才被放回家。进了家门发现母亲红着眼睛坐在床边哭,父亲躺在木床上,脸变了形,左眼乌青,看不见东西。原来是因为我打了日本小孩而连累了父亲。但我父亲没有责骂我,反而安慰我说:‘这才是我的好儿子’。”
  “父亲常给我讲中国的民间文学作品《封神演义》、《三国演义》、《水浒传》等。”周青说,父亲也给他讲台湾起义者的故事,“我慢慢地知道,台湾人民在台湾被日本占领之后是如何英勇顽强地反抗的。比如,1930年雾社起义。起义人员的家眷为了要让参加起义的丈夫或者兄弟无后顾之忧,她们自发地穿上自己最漂亮的衣服,摘了鲜花插在头上,互相拥抱着跳下悬崖……。”
  “这些故事让日本殖民统治下的台湾百姓有一种希望,给了我们生存的力量。”(新华)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「50年的殖民统治 日本在台湾干了什么?」

2016年07月19日 | 台湾
http://twkz.china5000.cn/rjxl/t20051024_37818.htm
「台湾同胞抗日斗争纪念馆」2005年10月24日  来源: 《世界知识》杂志
■50年的殖民统治 日本在台湾干了什么?
  抗日战争胜利60周年,也是台湾摆脱日本殖民统治回归祖国60周年。50年的殖民统治,使台湾人民遭受了比祖国内地更深重的苦难,台湾人民的抗日斗争在中国人民反抗外敌入侵的历史上写下了光辉的一页。了解了这段历史的真相,那些鼓吹日本殖民统治优越的论调也就不攻自破了。

★残酷镇压★   程依娜
  1895年,清政府在中日甲午战争中失败,被迫签订丧权辱国、赔款割地的《马关条约》,日本以刀架在清政府脖子上的方式,强行获得了觊觎已久的台湾。
  消息传出,全国舆论大哗。台湾人民在听到割让台湾的消息后更是悲愤交织,以进士丘逢甲为首,台湾绅民数度上电清廷,反对割让台湾;台北人民在《马关条约》签订的第二天“鸣锣罢市”,抗议清政府的卖国行径……台湾人民最终不得不拿起武器,走上武装抗日保台的道路。

★残酷的武力进占
  1895年5月25日,丘逢甲、林朝栋等台湾士绅宣布成立“台湾民主国”,推清政府台湾巡抚唐景崧为总统,设议院、筹防局和团练局,准备不奉清廷号令,自主抗日,但同时又以“蓝地黄虎旗”为国旗,定国号为“永清”,以表示永远心向大清之意。民主国以南部刘永福率领的黑旗军最为有名,结合地方人士自发组织的义军,有力地打击了前来接收台湾的日本殖民者。
  《马关条约》签订后,日本以海军大将桦山资纪为台湾首任总督,并派北白川能久亲王率领近卫师团武力接收台湾。日军军舰到达淡水港附近,遭到了守军的强烈抵抗,日军见淡水港不易攻下,便改由三貂角附近的澳底登陆,6月2日日军占领基隆炮台。同一天,清朝代表李经芳与桦山资纪正式签订割台协议。唐景崧、丘逢甲等民主国的领导者见情势危急,纷纷内渡。领导中心一失,台北城内便陷人了混乱……日军拿下台北城后,于6月17日在巡抚衙署举行总督府始政仪式,宣布开始统治,这个日子被日人设为“台湾始政纪念日”。
  然而,日军向南部推进时却遭到了刘永福率领的黑旗军与各地抗日义军的顽强抵抗。在桃园、新竹、苗栗,义军与日军的战斗都相当惨烈,六七月间,义军一度反攻新竹,歼灭日本骑兵于大湖口,刘永福也派吴彭年率黑旗军北援,在新竹、苗栗一带与日军相持一个多月。8月初,日军大举增兵,分三路向台南前进。8月中旬,日军攻下苗栗,下旬在彰化八卦山与抗日军发生激烈战斗,lO月初嘉义沦陷,义军死伤惨重,刘永福手下大将吴彭年、吴汤兴、徐骥等陆续死难,在日军优势兵力进攻下,刘永福部腹背受敌,孤立无援。最后刘被迫潜至安平港,内渡厦门。11月18日,日本“台湾总督”桦山资纪向日本政府报告:全岛平定。在武力接收台湾的过程中,日军费了九牛二虎之力,历时五六个月,前后数次增兵,投入兵力达七万多人,伤亡(包括病亡)和因病减员达1.1万余人(日本人自己承认数字,一般认为比较保守),才基本平定台湾军民的抵抗。

★“焦土政策”平定抗日武装
  “台湾民主国”的瓦解并不意味着台湾抗日运动的停息,台湾人民的武装斗争仍在全台上演。这一时期,日本所占领的只是台湾的大都市,对乡间和山区控制力还较弱,许多义军纷纷转到地下,各地武装抗日行动层出不穷,使日人疲于奔命。并称“抗日三猛”的简大狮、柯铁和林少猫等便是这一时期著名的抗日义军首领,分别在台湾北部、中部和台南领导抗日武装。恼羞成怒的殖民统治者为镇压抗日武装,残忍地实行焦土政策,台湾人民被屠杀者难以计数。到1898年,日本第四任“总督”儿玉源太郎与“民政长官”后藤新平改变策略,一面颁布“匪徒刑罚令”进行严罚及扫荡,一面制定“土匪招降策”诱降抗日分子,然后再在“归顺”仪式中,集体屠杀。日本人著的《日本殖民地政策一斑》一书就承认,诱杀抗日分子达16000人。迫于形势的压力,为了保存有生力量,北部的义军首领简大狮也曾宣布“归顺”日人,但他没有缴械,不久,日本人不讲信用,简大狮重又上山,继续开展抗日斗争。日本人前去劝降,被击毙。恼怒的日军清剿不成,以军警混编为十四路进山围剿,简大狮在台湾无法立足,潜回漳州。日寇获知,胁迫清廷围剿。简大狮被清军抓获并被“引渡”给日本殖民政府,受尽酷刑后被杀害。战斗在高屏一带的林少猫不为招抚政策所动,日人请绅商出面斡旋,林少猫提出条件,划后壁林(今高雄林园、小港一带)一地为义军自治区,官吏不得擅人,外出时可携武器,族党系狱者免罪释回等,日人皆一一答应,并在“归顺式”时将准许书交林少猫,这对日人来说,可谓一大耻辱。林少猫在后壁林三年,开垦经营,隐然成为国中之国,日人更如芒刺在背。1902年总督府决然下令调集大军,在重炮猛轰及舰艇的掩护下,激战六七小时,终于攻破堡垒,林少猫战死。林少猫之死为日本据台初期台湾人民的武装抗日运动划下了一个句号。

★用毒气弹镇压起义
  1906年以后,台湾局势逐渐平静,游击武装多被瓦解。日本在台湾推行警察政治,对台湾人民的控制日益严密,但日资企业入侵使台湾人民在经济上遭到压榨,为反抗日本殖民统治者的剥削与高压,台湾人民多借宗教与帮会进行秘密抗日运动,包括1907年蔡清琳领导的北埔起义,1912年刘乾率领革命党与农民武装、反对总督府支持日本财阀霸占竹林所有权的林杞埔起义(又称竹林事件),受辛亥革命影响罗福星等人计划在苗栗起事(但事前被警察破获)等一系列抗日事件,以及1915年余清芳、江定、罗俊等人领导的西来庵事件(他们借助秘密宗教进行抗日活动,但在联络起义前被发现,仓促起事,终为日人所镇压)。
  西来庵事件平息之后,台湾人民的抗日运动转向反殖民、争民权、争自主权的民族运动,此时日人统治台湾已久,台湾人的抗日运动也完全脱去武装抵抗的色彩。此时正值第一次世界大战结束,世界许多弱小民族都经历了民族觉醒。于是,台湾一些新兴知识分子在民族情感的支持下,以争取台湾的民主、自治,进而争取自决、自主为目标,继续和日本对抗。这些运动对殖民当局造成了相当大的压力,总督府为打压这些知识分子的行动,甚至以违反治安法为由,发动全岛性的大检肃。不过,殖民当局的横暴并未达到效果,反而激起台湾人民更多的关注。抗日战争爆发后,台湾被卷入战争体制中,日本人采取全面镇压政策,参与社会运动或政治运动的人,不是被捕下狱,就是被严密监控,政治运动、社会运动逐渐消沉。
  在台湾人民的抗日斗争中,值得一提的是台湾原住民的抗日活动,而其中最为著名的就是1930年的"雾社起义"。雾社位于台湾中部的南投县,靠近著名的日月潭,因这里长年云雾缭绕而得名,该地住有泰雅族赛德克亚人的12社(相当于)。日本山地警察对原住民积年累月地压迫剥削,强制劳役、诱奸妇女,激起山地民众强烈愤怒。1930年10月27日,玛黑步社首领莫那鲁道率领山胞300余人,分队袭击附近的警察分驻所13处。同时进袭雾社警察分室、学校、邮政局、日本人官舍等,砍杀了各地警察及雾社公学校举行秋季运动会的日本人。起义爆发后,总督府出动5000多人于31日开抵雾社,并用山炮向起义军轰击。起义军退至山谷,筑起工事,誓死抗击。日军久攻不下,11月18日出动飞机公然施放国际上禁用的毒气弹,大部分起义者死于毒气之中。起义最终失败。经此事件,雾社原住民人口由原来的1400人减至500人。包括原住民在内的台湾人民不屈不挠的抗日斗争,在中国人民反抗外敌入侵的历史上写下了光辉的一页;同时,台湾的武装抗日史从一个侧面对今日那些仍在鼓吹日本殖民统治优越论调的人予以了有力反击。

★经济掠夺★   汪 米
  台湾是中国的第一大岛,资源丰富,又扼海运交通要道,早就引起了日本帝国主义的凯觎,1895年日本通过甲午战争,逼迫清政府签订卖国条约攫取了台湾。日本占领台湾后,对台湾人民进行了非常残酷的经济掠夺,以此来增强日本的经济实力,为其进一步的侵略扩张服务。

★“农业台湾,工业日本”
  起初,掠夺土地是日本最赤裸裸的一项经济政策。日本殖民者刚刚确立在台湾的统治,便利用台湾农民的土地所有权没有地券、契约作为根据的情况,对广大台湾同胞赖以生存的耕地进行了持续的掠夺和强占。1898年,日本殖民政府在台湾设置了以中村是公为局长的“临时土地局”。不久日本殖民者就下令展开森林、土地的调查工作,实行所谓“丈地归官”及“土地所有权申报”。凡是无主土地及手续证明不完备的全部收归官有,并对私人土地课以重税。这样,一些收成不好的土地由于入不敷出,所有者也就不敢申请所有权,土地“名正言顺”地落人日本人手中。通过一系列巧取豪夺,日本政府及日本财阀攫取的台湾土地短短数年就达264.3万甲(一甲约合0.97公顷),占全岛土地总面积的68.5%。最终,台湾97%的林地变成了日本殖民者的私有财产。
  日本侵占台湾后,为了能够大量掠夺台湾的稻米,实现其“农业台湾,工业日本”的殖民统治的经济模式,从创办“农业试验所”着手,全面改造台湾地区传统的耕作方法和生产条件,如引进优良品种,增施肥料,扩大灌溉面积,甚至依靠地方政府官吏、警察和保甲制度,强迫台湾农民增种水稻、种植防风林。到1905年,台湾地区的水稻产量增至62.2万吨。不过日本殖民统治者采取多种手段提高水稻产量的根本目的,只是为了适应日本本土的需要,即选择台湾作为日本的农产品生产基地,使日本腾出劳动力进行工业化。此外,台湾生产的凤梨、香蕉、樟脑、蔗糖等农林产品也被日本殖民统治者大量地掠往日本,或销往欧美各国。台湾每年都要向日本出口大量的农产品,而从日本进口的东西却很少,这样就形成了给人以假象的巨额名义出超。1935年台湾对日出超9600万日元,1939年一跃上升为1.84亿日元,几乎是1935年的一倍。

★实行专卖,榨取巨额财富
  实行专卖榨取巨额财富,是日本殖民统治者对台湾人民进行经济掠夺的另一手法。日本殖民者不仅对食盐、烟、酒、火柴等生活必需品实行专卖,而且还把在日本国内禁止吸食的鸦片在台湾实行专卖,毒害台湾人民。日本殖民当局于1897年3月最先设立了台湾制药所,对鸦片实行专卖。接着又于臣1899年5月和8月先后设立了台湾盐务所和台湾樟脑局,对食盐和樟脑实行专卖。最终于1901年6月在台湾总督府内正式设立了专卖局,统一负责掌管整个台湾地区的全部商品的专卖事宜。台湾专卖局是一个庞大的组织系统,下设八个分局、11个办事处、六个专卖商品制造工厂,三个试验工厂和一处度量衡所,共有各类管理和生产人员2.7万余人。台湾总督府专卖局成立以后又陆续对烟酒、火柴、煤油等日用工业品实行了专卖管理,并逐步“完善”了一整套专卖管理制度。据统计,从l 897年至1944年的47年间,台湾总督府通过专卖制度获得的收入在年度财政总收人中所占的比重,平均每年高达43.42%。日本殖民统治者通过实行专卖制度从台湾人民身上榨取了巨额财富。

★控制经济命脉
  与上述直接经济掠夺相比,日本殖民者利用近代垄断企业进行经济掠夺比较隐蔽。日据时期,台湾总督府独占的日本官僚垄断资本和日本各大财阀集团控制的垄断资本控制着台湾的工业生产。台湾总督府主要控制铁路、矿山、港口、电力、食盐、樟脑、烟酒等工业企业。财阀则主要由三井、住友、野村、三菱、古河、大仓、安田、大川等财团独自或合股经营制糖、化学、建材、米谷加工等工业企业。到1945年,日本殖民垄断资本控制了台湾地区银行存款总额的60%,电力工业的96%,制糖工业的94%,完全控制了台湾的经济命脉,这些企业每年从台湾赚取的利润数目多得无法统计。

★“巨额出超”掩盖殖民贸易实质
  台湾与日本的贸易往来更是一边倒,对于数额巨大的台湾对日本的“贸易出超”的收入,日本政府将其全部截留在日本政府的财政收人之中,并不返还给台湾。所以台湾的这笔贸易收入,只是反映日本掠夺台湾的一个数据而已,丝毫不关台湾的经济建设。除此之外,在台湾与日本的商品贸易往来中,双方所交换的物资,完全是根据日本国内经济发展的资源需求来决定的。长期以来,由台湾源源不断地运往日本的物资,主要是稻米、食盐、蔗糖、樟脑、矿石、木材和煤炭等资源类的初级产品。而由日本运来台湾的则主要是棉纺织品、化肥、干(咸)鱼、清酒、酱油、火柴、药品、五金和陶瓷等日用工业品。由双方在贸易往来中所交换的物资可以看出,凡是由台湾运往日本的物资全部是日本国内经济发展所必需而又奇缺的资源。这种贸易完全遵循了帝国主义与殖民地贸易的规律,殖民地无非是原料来源和倾销市场。

★“两个比例”惊人一致
  日本是个后起的资本主义强国,资本出于追逐利润的天性,当然也会对台湾的经济近代化起到一定作用。比如在台湾进行人口调查、水利建设、改进农作物、推行使用化肥、交通建设等。但是这些所谓的“成就”是资本主义扩展的结果,近代化水平越高,日本殖民者得到的越多。实际上,由于日本垄断资本的肆意扩展,台湾本土的民族资本毫无出路,全台同胞几近沦为日本廉价劳动力,这对于台湾的近代化而言完全是个压制。另外,这些现代化企业不但生产了财富,实际上也代替了警察的监视任务。大规模的工厂集中了新型的产业工人,也集中了权力的实施对象。1944年全部工业部门雇用了238856个台湾人和19536个日本人,日本人多数为管理者,台湾同胞则几乎全都为产业工人,日本人占台湾人的8%左右。据战后1946年统计,台湾的官吏和警察总数为500604人,台湾总人口为5768711人,日本人占台湾人的比例也是8%。暴力机关统治者与被统治者的比例和经济生产企业管理者与产业工人的比例惊人的一致,反映了殖民地权力的同构性,以及掠夺实质。

★从刘铭传“新政”看近代化到底起于谁
  最近“台独”分子经常宣传日据时期日本对台湾近代化的贡献,这种言论除了暴露亲日的“皇民”意识外,其真正目的是为了贬低中国近代化历程,以达到“去中国化”的目的。实际上,台湾的近代化起始于清代首任台湾巡抚刘铭传主政台湾时期。他在任内(1885年~ l 891年)大力推行加强海防、建立自立之省的“新政”,成绩卓著。在台北设电报总局,架设水陆电线1400余里,并在澎湖、彰化等地增设报局;创立新的邮政制度,台北设邮政总局,在全岛分设下站、腰站、旁站43处;发行邮票,邮路远达厦门、广州、上海、香港等地,是全国最早的自办邮政业务,比清政府成立的邮政官局还早八年;修建台北至基隆、新竹和基隆至新竹的铁路,这是全国最早的自行集资、自行主办、自行掌控的自建铁路;鼓励民间富商集资兴建台北街市,走马车,安电灯,引自来水,修造铁桥,使台北成为当时中国比较繁荣的城市。刘铭传还主持了台湾历史上第一次大规模丈量土地活动,兴办西学堂,聘请外国教师任教,为台湾培养了具有近代意义的人才。当时,台湾的近代化与中国沿海省份的近代化起步同时,是近代中国转变的一个缩影。
  “台独”分子为达到“去中国化”的目的,无视这些史实,一味亲日、媚日,到了不惜歪曲基本历史史实的地步。

★刘铭传及其“新政”
  刘铭传(1836-1895年)字省三,安徽合肥人,淮军著名将领,清末抗战、保卫台湾和开发台湾的爱国官吏。
  1884年中法战争爆发,奉命以巡抚衔督办台湾军务。在极端困难的情况下,他率台湾军民奋勇抵抗,先退敌于苍隆,又血战沪尾(淡水)。在台湾被法军围困、与大陆隔绝的情况下,刘铭传誓与海岛共存亡。他在战斗中身先士卒,军民感奋,浴血抗敌。苦战八个月,终于打败法国侵略军,保住台湾。1885年台湾建省,出任首任巡抚。在任六年励精图治,加强军备、筹划防备、整编军队。特别是推行建立自立之省的“新政”,对开发治理台湾贡献尤巨。在刘铭传治理下,台湾面貌大变,同时起步岛内的近代化与中国治海近代化,实为开启台湾近代化建设之第一人。

★“皇民化”运动★   汪 米
★殖民同化教育是“基础”
  推行日语教育。殖民当局早在1896年就分别设立了最早的日语教学机构“国语学校”,“国语传习所”。“国语学校”类似以后的中学,传习所又分为甲、乙两科,分别以成人和儿童为对象,其目的是“对本岛人教授国语(日语),作为日常生活之用,并养成本国之精神”。日语教育非常严厉,在学校不准讲汉语(台湾话),一讲汉语即施予各种处罚。
  建立奴化教育体制。1919年殖民当局出台所谓“内地延长主义”,又称“同化主义”。为防止中国人接受高等教育,从中等教育开始,就限制中国学生所学专业;高等教育基本上由日本人独占,而且除了医学专门学校及台南高等商业学校外,其他一切高等学校都在日本国内举行考试。教学内容是以传播殖民主义文化为主,有关中国的历史、思想、文化均在被排挤之列,以从根上切除中华民族文化的影响。在初级教育阶段,中国儿童就读的则是“公学校”和“国语传习所”及“教育所”(高山地区的原住民儿童就读),无论在什么学校,都把日语当作基本语言。

★差别对待是根本
  日本统治时期,虽然在法律上台湾人被看作是“日本人”中的“少数民族”,但与“纯正”日本人相比,台湾人受到了很大的歧视。日本在1900年实行了免费初等教育,台湾人却不能享受。殖民当局认为“教育是一把双刃剑”,对于日本的殖民统治来说,台湾人具有高知识水平并不是什么好事。因此他们主张在台湾只进行很有限的教育,实行实际上的“愚民政策”。1925年成立台北帝国大学,但这所大学里收容台湾子弟很少。一般台湾子弟只能上像医学专修这样的专门学校、职业学校,其目的是为了接受技能等实用性培训以满足日本统治的需要。很少人有机会接触文科性的精英教育。足见日人在台殖民教育的目的根本不是为了提升台人的文化与知识。

★从一切方面抹去“中国痕迹”
  1937年抗日战争全面爆发后,日本害怕台湾同胞支持中国内地的抗战,开始积极推行“皇民化”运动。第17任总督小林跻造在1936年9月到任不久,即开始大规模推行“皇民化”运动。1937年9月30日,日本殖民当局在台北市公会堂召开“(日本)国民精神总动员讲演会”,“皇民化”运动就此正式开始。其主要内容是,进行亲日思想宣传和精神动员,极力消除台湾民众的祖国观念,灌输“大日本臣民”思想。1941年太平洋战争爆发前后,“皇民化”运动开始进入第二阶段。即“皇民奉公运动”。1941年4月9日,殖民当局成立了“皇民奉公会”。由时任总督的长谷川清兼任总裁,自总督府到街庄都设有分会,并且均由当地的行政长官负责。此外,还成立了名目繁多的外围组织,作为推行“皇民化”的社会基础和基本力量。
  此后日本在台湾更积极地普及教育和推广日本语。1930年台湾的学龄儿童入学率不到30%,到1938年增为50%,1943年更增加到92%。1930年台湾懂日语的人不到10%,1937年猛增为40%,1944年更增加到70%。“皇民化”运动不仅是从语言、文字上做文章,宣扬“日式文明”,还强迫中国人从生活习俗:宗教信仰、文化艺术、时令节气等方面向日本方式看齐。殖民当局严禁台湾民众信仰民间的各种传统宗教、神灵,烧毁台湾民间祭祀的诸家神灵,专设日本的天照大神,并且强令在10月27日各行各业都要祭祀;中、小学则规定每月1日、8日、15日都要按时参拜神社。从40年代初期起,日本殖民当局又开始禁止中国人使用中国名字。日本殖民当局宣布“恩准”台湾人改用日本式姓名。中国人把变更祖宗留下的姓氏看作是奇耻大辱,可见“改名”用心之险恶。

★“皇民炼成”的歇斯底里
  在“皇民化”运动后期,运动的强度达到了歇斯底里的程度。日本当局有鉴于据台40年而多数台民仍怀抱强烈的民族意识,殖民当局一方面大力宣传皇国史观,宣传所谓“日本精神”及“大和魂”,但在具体的政治、社会民族关系上仍保持实质上向来存在的殖民歧视构造。日本当局一方面利用殖民地台湾人中部分知识分子和民众的民族自卑感和对于自己民族文明开化的绝望感,另一方面则在“皇民化”运动中开启“内(日本)台(台湾)一如”、“皇民炼成”之门,宣传只要人人自我“炼成”、“精进”,就可以锻造成为“真正的日本人”,从而摆脱自己作为殖民地土著的劣等地位。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本50年残酷统治 残杀台湾同胞65万」

2016年07月18日 | 台湾
http://twkz.china5000.cn/rjxl/t20051025_38069.htm
「台湾同胞抗日斗争纪念馆」2005年10月26日  来源: 血铸中华网
■日本50年残酷统治 残杀台湾同胞65万
  对台湾民众来说,永远忘不了那噩梦般的年月,永远忘不了日寇在台湾实行残酷统治的历史。台湾50年的殖民统治,是中华民族发展史上悲惨的一页。

★残酷统治
  日本占领台湾50年,派出19任总督,作为统治中国台湾地区、实施殖民统治的最高指挥。19名总督集立法、行政、军事大权于一身,掌握了当地中国人的生杀予夺大权,个个都是杀人魔王,手上都沾满了中国人民的鲜血。
  日本在台湾实施残酷的殖民统治,总督府于1896年发布了“关于施行台湾之法律”。这一文件编号为第63号法律,所以称为“六三法”。“六三法”总共6条,它成为日本统治台湾的基本法。此法确定台湾特殊化,以法律形式确立了总督的独裁权力;主要内容是镇压抗日义军和剥夺台湾人民的基本权利。
  日本在台湾殖民统治主要靠军队、宪兵、警察维持,更多的是靠权大无边的警察管制社会和民众。1897年,日本第三任总督乃木希典,制订了“三段警备法”。规定山泽地带的治安由军队及宪兵负责;村落的治安,由警察担当;山泽和村落之间,则由宪兵和警察共同戒备。1896年,第一批日本警察到台。自此以后,日本警察遍及台湾社会的各个角落,台湾成为名副其实的警察社会。以1902年为例,全台设有10个厅警察课、97个支厅、992个派出所,以后最多时各类警察机构达到1500余处,警察18000余人。在台湾的经济发达地区,每隔两三公里就有一个警察机构;每300人就配有一名警察。日本占领下的台湾,可以说是日本警察的世界,在警察法西斯式的管制下,中国人的基本权利都被剥夺。
  为维持殖民统治,对中国人的任何反抗和不满行为,日本殖民者一律予以残酷镇压。1898年,日本殖民当局颁发“匪徒刑罚令”,全文8条,该“令”专门镇压台湾同胞的反抗,日寇殖民者根据此令残杀了无数台湾同胞。
  日本占领台湾后,在以后较长一段时期内,台湾人民没有停止反抗。日本宣扬全台平定,但是台湾人民的反抗没有停止,由正面抗战转为抗日游击战。就在1895年11月28日第一任台湾总督桦山资纪宣布“全岛完全平定”的十几天后,北部义军在这里揭竿而起。林大北,台湾宜兰人,刘永福旧部,12月28日,在大里筒袭击日军分遣队,打响抗日游击战争第一枪。林大北起义后,新竹胡阿锦,台北简大狮、陈秋菊,宜兰林李成,以及许绍文、江振源、陈瑞荣等义士起而响应,给予刚刚在台湾建立统治的日寇沉重打击。北部起义一直坚持数年,在战斗中林大北、詹振、简大狮等义军首领壮烈牺牲,义军受到重大损失。
  日寇当局也对抗日起义用尽了各种手法进行残酷镇压。1902年5月25日,日本殖民当局在这些地方举行“大扫除”运动。日本强盗为安定统治秩序,以给予官职、田产等奖励为名,将北部、中部等地区坚持斗争的林火旺、陈秋菊、卢阿爷、林少猫等38位抗日义军首领和5600多名抗日义军官兵,骗到斗六、林圮埔、土库、西螺、他里雾等地,举行“总括性归顺仪式”。当仪式第一项“官民一齐摄影”进行完毕,进行第二项“鸣炮”时,日军和宪兵对毫无戒备的上当受骗的“归顺者”开枪射击,当场把他们全部处死。仅林少猫一家,被害的亲人、亲友就达231人,其中有40名是儿童。日本殖民者真是丧尽天良。
  为了维持殖民统治,日本殖民当局随意屠杀当地中国人。在1896年“大平顶事件”中,屠杀中国人3万人,在1901年“后壁林惨案”中,屠杀中国人3473人,在1902年“噍吧年事件”中,屠杀中国人3万余人;在1913年12月间的“苗栗事件”中,屠杀中国人1200余人;在1915年西来庵起义中,屠杀中国人数万人。据有的学者统计,在日本殖民统治台湾期间,被日寇残杀的中国人达65万人。这对当时最多只有500余万人的台湾来说,可以说是空前绝后的大灾难,日本军国主义欠下了中国人民无数永远也无法偿还的血债。

★疯狂掠夺
  日本占领台湾,是为了把它作为掠夺的对象。作为日本殖民当局法西斯统治的主要手段之一,就是进行疯狂掠夺。1895年通过实施“官有林野取缔规则”,强占全台94.15%的山林原野。3年后,时任第四任总督儿玉源太郎设置“临时土地调查局”,颁布“台湾地籍令”、“土地调查规划”,1901年实施“土地征收规则”,1905年实施“土地登记规则”,根据这些法令,日本总督府强占民田2700万亩,日本财团强占200多万亩,也就是说台湾土地的四分之三落入日本殖民者手中。土地向日本殖民者手中高度集中,致使多少中国农民破产、逃亡。
  日本殖民者在台湾实施超经济的剥削。殖民当局强占了绝大部分土地和山林后,对广大农民进行超经济的剥夺。就土地税一项,1905年收取地税300万元,1933年高达570余万元。就粮食来说,1900年稻米年输往日本1400公吨,占当年台湾米生产总量的0.46%;到1934年,年输入日本51.5万公吨,占当年生产总量的40%以上。大米主要输往日本,造成岛内粮食严重缺乏,因而有“饥饿输出”之称,多少中国人生活在饥寒交迫之中。
  台湾丰富的物产也成为日本掠夺的目标。在日本殖民统治之下,台湾的制糖业更是成为日本掠夺的对象。殖民当局规定,蔗农生产的甘蔗只能卖给当地日本控制的制糖会社,台湾蔗农成为日本糖业资本家的奴隶,每斤糖的价格从1921年的11.6钱,下降到1937年3.2钱;每年90%以上的台湾糖输入日本。

★殖民同化
  日本占领台湾,在搜括和掠夺之外,就是图谋永久统治台湾,就是想把台湾从中国分裂出去。任何一个中国人,都不会忘记日本殖民者在台湾推行的“皇民化运动”。日本殖民当局从侵占台湾的第一天起,就开始做起永久霸占台湾的美梦,开始推行殖民强制同化政策。
  殖民同化政策之一是推行奴化教育。奴化教育主要措施有,一是推行差别教育和普及日语,在初级教育阶段,重视日本籍学童,就读的是“小学校”;轻视中国儿童,就读的是“公学校”和“国(日)语传习所”,高山地区的原住民儿童则进“教育所”,两类学校相差很大,无论在什么学校,都把日语当作基本语言。二是防止中国人接受高等教育。从中等教育开始,限制中国学生所学专业;高等教育更是明显,主要由日本人独占,而且除了医学专门学校及台南高等商业学校外,其他一切高等学校都在日本国内举行考试。在1928年成立的帝国大学(台湾大学)内,40年代日籍学生占81.8%,而中国学生则有18.9%。教学内容更是以传播殖民主义文化为主,有关中国的历史、思想、文化均在排挤之列,以从根上切除中华民族文化的影响。
  在奴化教育中,殖民当局规定每个中国学生必须有一个偏名,就是在名字的第二字之后加上班级数,然后再加一个“郎”字,因此李登辉就有过“李登三郎”、“李登五郎”等不伦不类的名字。
  殖民同化政策之二是推行“皇民化”。日本占领台湾的还一个目的,是为了把台湾作为侵略中国的前进基地,为此它们进行了各种努力。日寇发动全面侵华战争后,为压制台湾民众的爱国热潮,“培养忠良帝国臣民的素质”,把台湾建成进攻华东、华南和发动太平洋战争的基地,日本第17任总督小林跻造在1936年9月到任不久,即开始推行“皇民化运动”。罪恶的“皇民化运动”,从一开始就遭到台湾人民的唾弃。
  “皇民化运动”开始于日本发动全面侵华战争后不久,1937年9月30日,日本殖民当局在台北市公会堂召开“(日本)国民精神总动员讲演会”,臭名昭著的“皇民化运动”就此开始。主要内容是,进行亲日思想宣传和精神动员,极力消除台湾民众的祖国观念,灌输大日本臣民思想。从1941年太平洋战争爆发前后,“皇民化运动”进入第二阶段,即“皇民奉公运动”。1941年4月9日,殖民当局成立了“皇民奉公会”。奉公会由时任总督的长谷川清兼任总裁,自总督府到街庄都设有分会,并且均由当地的行政长官负责。此外,还成立了奉公团、青年学生报国会、青年奉公会、女青年奉公会、产业奉公会、核心俱乐部、模国挺身队等名目繁多的外围组织,作为推行“皇民化”的社会基础和基本力量。
  禁止汉语,强制推行日语是“皇民化”的主要内容。就在“七七事变”前后,日本总督府下达了撤销全台学校汉文科、废止各种报刊中文版的命令,同时颁布相应的惩罚措施,强迫台湾民众学习、使用日语。在“七七事变”前后,台湾花莲厅发布训令,规定公务场合如果不用日语者立即解职。在台湾许多地区,规定不学日语者征收过怠金。
  日本殖民当局在禁止汉语汉文的同时,强行推行日语。1936年全台强制设有日语讲习所3832处,被迫参加的学生为205214人。1940年增加到15833处,学生763263人。到日本投降前夕,各地奉公班均开设夜间学习日语所,各类学生超过100万人,即在当时5名台湾民众中就有1人在学习日语。对居住在山区的原住民,日寇也不放过,强行推行日语,仅1939年间就设立日语讲习所265处,设立日语普及会11处。据有关资料显示,台湾的日语普及程度有所提高,1936年为32.9%,1940年为51%,1944年则为71%。这是日本总督府的统计,虚假的成分很高。
  “皇民化运动”不仅是从语言、文字上做文章,宣扬“日式文明”,还强迫中国人从生活习俗、宗教信仰、文化艺术、时令节气等方面向日本方式看齐。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「台湾同胞抗日斗争业绩将永载中华民族史册」

2016年07月17日 | 台湾
  日军因兵源不足,强征很多台湾同胞参加日军,并将其中的一些人派到海南岛等地,以实现其“让中国人打中国人”的目的。但是,很多台籍士兵却寻找机会起义投诚,参加抗日斗争。仅从1943年到1944年,海南岛的台籍日军就有万余人准备起义,虽然大部因被发现而遭镇压,但最后仍有4000多人成功逃脱并加入了抗日队伍。

http://twkz.china5000.cn/plyj/t20051026_38213.htm
「台湾同胞抗日斗争纪念馆」2005年10月26日 来源:《经济日报》
■台湾同胞抗日斗争业绩将永载中华民族史册  中国社会科学院台湾研究所副研究员 孙升亮 
  60年前,中国人民经过8年浴血奋战,最终赢得了抗日战争的伟大胜利,并得以收复失地,恢复对台湾行使主权。从日寇开始侵占自己家园的那一天开始,台湾同胞反抗日本殖民统治的斗争就一刻也没有停止过,曾先后付出了65万条生命的惨重代价,表现出中华儿女可贵的献身精神与民族气节。两岸同胞血脉相连,荣辱与共,台湾光复是包括台湾同胞在内的全中国人民的胜利。台湾同胞在反抗日本侵略与殖民统治斗争中所做出的业绩与贡献,将永载中华民族百年抵御外侮的史册。


  长期以来,台湾一直是日本侵略者觊觎的对象,深受倭寇的侵扰。1874年5月,日本政府以“牡丹社事件”为借口强行派兵登陆台湾,暴露了其企图侵占台湾的野心。但是,在台湾民众的坚决抵抗下,日本侵略者未能如愿。1894年,日本挑起了侵略中国的“甲午战争”,迫使清政府签订《马关条约》,进而窃取了台湾、澎湖。台湾人民自此陷入了日本殖民统治的深渊长达半个世纪。
  在日本侵占台湾期间,广大台湾同胞始终心向祖国,他们在祖国大陆同胞的支持下,一直坚持英勇不屈的斗争,给侵略者以沉重的打击。日本侵占台湾初期,台湾人民组织义军,以“奉清征倭”为号召,在北、中、南多处地方进行武装游击抵抗斗争,使认定“本岛全归平定”的日本殖民者深感震惊、措手不及,不得不紧急从国内增调军队来镇压。
  辛亥革命爆发后,台湾同胞的爱国热情空前高涨,又发动了一系列反抗日本殖民主义的武装暴动。其中最具代表性的有苗栗事件、西来庵事件等。在日军的残酷镇压下,这些起义均告失败,大批抗日志士遭到杀害。
  第一次世界大战前后,在世界各国民族运动潮流的影响下,台湾还掀起了一场以知识分子和开明绅士为主体,以唤起民族觉醒、争取台湾解放为目的的反抗日本殖民统治的民族运动。其中的代表性人物有林献堂、蒋渭水、蔡培火、连横、赖和、杨逵等。这场民族反抗运动与前期的武装斗争一起,构成了台湾同胞反抗日本殖民统治的洪流。
  在台湾世代生息繁衍的少数民族,有着光荣的反侵略传统,也为抗日战争做出了重大牺牲与贡献。在日本侵台初期,他们就多次起来武装反抗日军的镇压和武器收缴行动。1930年10月,为了捍卫民族尊严,台中埔里雾社地区泰雅族民众,在首领摩那·罗达奥的率领下发动雾社起义,袭击警察所,夺取枪支弹药。在日军优势兵力的进攻下,他们仍顽强抵抗,表现出誓与敌人血战到底的英勇气概。最后,日军竟丧心病狂地用毒气弹进行轰炸,致使起义民众大部死亡,制造了震惊中外的惨案。


  1937年,中国人民开始了全民族的抗日战争。1941年,中国政府发布《中国对日宣战布告》,正式向中外昭告:“所有一切条约、协定、合同,有涉及中日之间关系者,一律废止。”全面抗战的爆发,极大地鼓舞了台湾民众的斗志,使他们看到了打败日本侵略者、收复台湾的光明前景。
  八年抗战期间,在日本对台湾岛内强化法西斯统治的艰难处境下,台湾民众虽难以组织大规模的反抗斗争,但岛内爱国志士仍不断发动抗日暴动,不仅参加人数众多、参与的社会阶层广泛、爆发范围遍及全台各地,而且斗争方式多样、形成一定声势。
  对于日本殖民者强力推行讲日本话、穿日式服装、过日式生活、改用日式姓名,企图消除台湾人民的祖国观念的“皇民化运动”,台湾民众不屈服于淫威,无惧白色恐怖,始终坚持民族气节,进行坚决的抵制和反抗。连日本末代总督安藤利吉都不得不承认,“皇民化”并未取得成功。
  在八年抗战中,正是由于台湾民众不断进行反抗斗争,对“皇民化”运动进行有力的抵制,牵制住了驻台日军,从而缓解了大陆军民的压力,为全面抗战的最后胜利赢得了时间。
  许多台湾同胞从中国全面抗战的一开始就踊跃地来到大陆,他们同原来留居在大陆的台胞一起,组织各种抗日团体和抗日武装力量,积极开展抗日活动。此后,各抗日团体联合组成台湾革命同盟会,团结了一大批台籍人士投身抗战。无论是在国民党军队,还是在共产党领导的八路军、新四军中,都能见到他们英勇杀敌的身影。
  活跃在江浙闽一带,由著名政治活动家李友邦所创建、领导的台湾义勇队和台湾少年团在当时产生了很大的影响。他们以“保卫祖国,收复台湾”、“打倒日寇,保我中华”为口号,在战斗中不断发展壮大。“七七事变”后,台湾著名抗日志士丘逢甲之子丘念台也在广东筹组了东江服务队。这支主要由散居在广东、广西等地的台湾客家籍同胞组成的队伍,大力进行抗日宣传,有力地配合了当地的武装斗争。
  为了使大陆广大群众了解台湾,支持台湾人民的抗战,动员台湾同胞参加抗战,从日本帝国主义手中收复台湾,他们把积极开展抗战的宣传教育工作作为重点。台湾义勇队不仅到处进行宣讲演出,还先后出版了《台湾先锋》、《台湾青年》及《台湾革命丛书》等书刊。东区服务队也通过举办座谈会、开办夜校等形式宣讲抗日救亡、保家卫国的道理。这些宣传活动,有利于加强大陆和台湾同胞之间的团结,争取各方面对台胞抗日斗争的支持,鼓舞大陆军民抗战的士气和信心。
  为了充分发挥自己的特长,他们在浙东前线专门设立野战医院,并在东南沿海一带广设医院或医疗室服务民众,因医术高、态度好而受到广大军民的热烈欢迎。他们还积极开展抗战药品的研造工作,为军民防病、治病发挥了重要作用。不少台胞都参加了战时物资的生产和运输,并积极从事募捐、献金活动,为恢复和发展生产做出了重要贡献。
  台湾同胞抗日组织还积极寻找机会,打击入侵之敌。1942年,台湾义勇队选在日本侵占台湾47周年的当天对驻厦门日军发动袭击,重创敌人。此后,他们又相继炸毁日军油库,在敌人庆祝伪政权成立3周年的会场投掷手榴弹,引起很大震撼。
  日军因兵源不足,强征很多台湾同胞参加日军,并将其中的一些人派到海南岛等地,以实现其“让中国人打中国人”的目的。但是,很多台籍士兵却寻找机会起义投诚,参加抗日斗争。仅从1943年到1944年,海南岛的台籍日军就有万余人准备起义,虽然大部因被发现而遭镇压,但最后仍有4000多人成功逃脱并加入了抗日队伍。


  台湾同胞的抗日反战运动以及投身祖国抗战,为全民族抗战的最后胜利、台湾的光复做出了重大贡献,充分显示出台湾同胞爱国爱乡的强烈感情,表现了他们在民族危亡的紧要关头,与全国人民同生死共患难的英勇精神,证明他们是不屈于外敌奴役的祖国的好儿女。
  两岸同胞在抗战中携手合作、团结御侮,赢得百年来抵抗外敌的第一次完全胜利,是全体中国人弥足珍贵的一笔精神财富,显示出中华民族强大的凝聚力。如今,两岸同胞更应携手合作,促进两岸关系发展,遏制“台独”分裂活动,共同为民族的全面振兴创造条件,共同开创属于全体中国人的美好明天。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「砂糖黍農場の日々」

2016年07月16日 | 海南島史研究
 「(1939年)2月、 佛山を出発して、 海南島に向かいました。2月10日に海南島の西北部に上陸し、 夜の12時頃、 海口市の南四キロほどに位置している政治の中心地瓊山市 (*現在は省都の海口市に編入されている) に到達しました。 その間、 敵の抵抗はなく、 無血占領に成功して紀元節と合わせて二重の喜びに浸りました。
 1939年 8月、 大隊は海南島から広州に上陸し、 新会市に駐留することになりました」。

 「1940年9月、 輸送船に乗り、 北ベトナムのハイフォンに上陸しました。 直ちにドーソン砲台を目指して進撃し、 ハイフォンの背後の高地を占領しました。 占領後、 仏印軍との停戦交渉を成立させ、 無血入城に成功しました。 ハイフォンは椰子畑の中に外人住宅が立ち並び、 どこか西洋の街にいるような雰囲気でした。 街は整然としていて、 住民も平常と変わらぬ生活を続けておりました。 仏印無血進駐により、 援蒋ルート遮断の目的が達成されたため、 部隊は南寧の南方の欽県港に上陸して連隊の指揮下に入りました。11月15日、 部隊に撤退命令が下さ れました。
 輸送船に乗り、 苦しい戦いが続いて幾多の戦友が散っていった大陸を後にして、 再度海南島に転進しました。 海南島では、 瓊山市から定安市に通ずる交通の要衝である永興の町の警備に当たりました。 永興の町の警備を解かれて瓊山市に駐留し、 学校を宿舎として毎日訓練に明け暮れておりました。その際、 慰安婦の護送を担当したことがありました。 東海岸の部隊に送るのですが、 朝鮮人の若い女性十人ぐらいと引率の男をトラックに乗せて山道を護衛して行ったのです。 引率の男に聞いたところ、 募集して来たのだそうですが、 女性たちも覚悟して来たのか落ち着いた様子でした。 部隊では、 一般の女性を強姦することは固く禁じておりました。 しかし、 古兵の中には、 「女を徴発に行こう」 と言って遊びに行く者もおりました。 ただ、 私は行った ことがないので、 それが強姦を意味するのか、 私娼と遊ぶと言う意味なのかは判りま せん。 また、 第一線では戦闘がありますから慰安所はなく、 後方の部隊が駐屯しているようなところに開設されておりました。
 1941年の10月、 次期作戦準備のために、 海南島の瓊山から台湾の高雄に転進することになりました」。

http://www3.kumagaku.ac.jp/research/fa/bulletin/page/2
『海外事情研究』(熊本学園大学付属海外事情研究所所報)第41巻第1号(通巻82号)2013年9月発行
          柴公也「日本統治時代の台湾生活誌(Ⅴ)」
■「砂糖黍農場の日々」 馬本貞雄(1916年生。熊本農業卒)
 私は、 熊本市四方寄の農家の次男に生まれました。 熊本の農業学校を出て、 家で農作業を手伝っていましたが、 1936年5月に学校の推薦で、 台南の近くの塩水港製糖会社に就職しました。 外地手当てが付いて初任給は30円でしたから、 二十歳前後 の若者にしては、 結構良い給料でした。 ただし、 勤務地は、 東海岸の花蓮港から20キロほど南の寿庄にある花蓮港製糖所の砂糖黍農場でした。 農場は、 千五百町歩ほど もある広大なものでした。 農場には、 内地人の幹部社員のほかに、 台湾人の労働者がいて、 その労働者たちを、 中村、 村山、 増田という日本名の三人のアミ族の社員たちが監督していました。 私は、 社宅で自炊しながら、 毎日砂糖黍栽培の指導と品質検査に明け暮れておりました。 時々、 在郷軍人として軍事訓練にも参加していました。 台湾の東海岸にも、 大陸の戦争の足音が響き始めようとしていた頃のことでした。 1938年の5月に、 寿農場の事務所で、 庄役場の係員から召集令状を受け取り、 同僚五人と一緒に台北の歩兵第一連隊に入営しました。 月給は10円ぐらいだったと 思います。 当時、 台湾には志願兵制度がなかったので、 台湾人の兵隊はおりませんでした。 見送りは盛大で、 寿駅頭の日の丸の旗の波、 万歳の歓呼の声が今でも耳の奥に響いてきます。 ただ、 親兄弟の姿がなく、 これで娑婆ともお別れかと思うと、 涙が止め処なく流れてきました。
 連隊での訓練は厳しくて、 古兵には大分気合を入れられました。 食事と風呂に入ることぐらいしか楽しみはありませんでしたが、 入浴後、 戦友と身の上話に花を咲かせ たものでした。 たまの日曜日には、 戦友と外出したりして楽しい思い出もありました。
 三ヶ月ほど訓練を受けて中支派遣軍に編入され、9月5日に基隆から輸送船に乗って 上海経由で武漢に向かいました。 前年12月の南京攻略では、 便衣兵 (*軍服ではなく平服を着た兵隊であるが、 国際法では禁止されている)を大分殺害したとの噂でした。
 揚子江を遡って9月12日に九江に着き、 200キロほど離れた武漢三鎮を目指して、 秋雨の中の行軍を開始しました。
 行軍の途中の村は、 皆逃げていてもぬけの殻でした。 放し飼いの豚や鶏、 家鴨だけが村の中をうろついておりました。 米などの食料は兵站部隊が運んで来ていましたが、 おかずにするのが足りなかったので、 それらを徴発と称して捕まえ、 食料にしておりました。
 道中、 露営での食事は泥水で飯盒炊爨したものでした。 夜間の行軍の際には、 真っ暗で道が判らないので、 道を照らすために両側の空き家に火を放って灯りにしておりました。
 部隊は、 山を越え谷を越えて強行軍を続けまし た。 敵と遭遇した方が休憩できるから、 早く出てきてくれないかなと戦友と話しなが ら行軍しておりました。
 途中、 むごたらしく損壊された日本兵の遺体が打ち捨てられていました。 支那兵は日本兵を捕まえると虐殺して、 見せしめのために遺体を損壊するのです。 ある時、 捕虜が引き立てられて来て、 上官から刺殺を命じられたことがありました。 しかし、 捕虜を目の前にして、 どうしても刺殺することが出来ませんでした。 結局、 他の戦友が代わって刺殺しましたが、 何とも言えず後味の悪いものでした。 また、 捕虜を斬首する場面に出遭ったこともありますが、 とても正視出来ず、 思わず顔を背けてしまいました。 秋雨が降り続く泥道の強行軍では、 洗濯はおろか体も洗えません。 汗と泥水で軍服 はベトベトになり、 股擦れで両股から血が流れてきましたが、 遅れたら命がないので 必死に付いて行きました。
 行軍の途中、 私の小隊50人のうち、20人ぐらいが水に当たって病死しました。 何度か敵と激しい銃撃戦を繰り広げて、 15人ぐらいが戦死しました。 夜間には敵の射撃が一段と激しくなり、 チェコの機関銃弾がヒューンと頭をかすめていきました。 その時の私の本心は、 敵の弾が手か脚に当たってくれれば、 傷病兵として内地へ送還されるのではないかというものでした。 それで塹壕から手を挙げて見ましたが、 弾はなかなか当たらず、 結局、 怪我もせずに10月26日に武昌に到着しました。 途中、 敵の敗残兵が方々にいましたが、 既に戦闘意欲をなくしていたので戦いにはならず、 友達になりました。 ただ、 言葉が通じず、 話し掛けてもニコニコして いるだけでした。
 行軍の途中、 「文」 という16歳ぐらいの支那兵の少年が私たちの捕虜になりました。 何でも上海の中学に通っていた時、 兵隊に引っ張られたとのことでした。 分隊の当番兵代わりにして荷物を担がせたり、 駐留中は煮炊きや水汲みなどに使役したりしていました。 日本語は片言でしたが、 互いに気心が通じ合い、 弟のように可愛がっておりました。 二ヶ月ほど経って部隊が転進することになり、 武昌で涙を流して別れました。
 また、 日本軍に協力してくれた馬賊がおりました。 作戦中、 私たち初年兵が水汲みに行くと、 支那兵が堂々と水を汲んでいるのです。 古兵が、 「何だ、 貴様は」 と叱りつけましたが、 その後、 頭目が中隊長に面会を申し込んできたのです。 中隊長が丁重に応対していましたが、 頭目には数百名の部下がいて、 我が軍の作戦に側面から協力しているとのことでした。12月8日、悪戦苦闘の三ヶ月間を過ごした武昌を後にして輸送船で上海に向かいました。 一時上海に上陸し、 日本租界やガーデンブリッジを見学しました。 再び、 輸送船は上海から広州を目指して大海原を進んで行きました。 何日か経って、 広州の黄 埔港に上陸しましたが、 そのまま行軍して20キロほど離れた佛山市に到着し、 南支那派遣軍に編入されたのです。 翌年の2月、 佛山を出発して、 海南島に向かいました。2月10日に海南島の西北部に上陸し、 夜の12時頃、 海口市の南四キロほどに位置している政治の中心地瓊山市 (*現在は省都の海口市に編入されている) に到達しました。 その間、 敵の抵抗はなく、 無血占領に成功して紀元節と合わせて二重の喜びに浸りました。
 1939年 8月、 大隊は海南島から広州に上陸し、 新会市に駐留することになりました。 我が小隊は、 宿営地から5キロほど離れた大梅山の警備に当たりました。 ある日、 孫文の生誕の地の中山県に敵の討伐に出掛けたことがありました。 討伐を終えて、 帰途の行軍の一時休憩の時、 数人の支那服姿の老婦人に出会いました。 すると、 その中の一人が日本語で 「兵隊さん、 ご苦労様です」 と声を掛けてきたのです。 聞くと、 横浜の人で、 支那人と結婚して当地に住んでいるとのことでした。
 その後、 南寧に向かって進軍を開始し、 1940年1月24日、 南寧市に集結しました。 南寧で、 仏印から中国内陸に物資を運ぶ援蒋ルートを遮断することが目的だったのです。 ある時、 山頂から下山して、 麓の山陰に宿営したことがありました。 誰か先に寝ている人の間が暖かそうだったので、 その間に横になりました。 翌朝、 目を覚 ますと、 なんと敵の死体の間に寝ていたのでした。
 1940年9月、 輸送船に乗り、 北ベトナムのハイフォンに上陸しました。 直ちにドーソン砲台を目指して進撃し、 ハイフォンの背後の高地を占領しました。 占領後、 仏印軍との停戦交渉を成立させ、 無血入城に成功しました。 ハイフォンは椰子畑の中に外人住宅が立ち並び、 どこか西洋の街にいるような雰囲気でした。 街は整然としていて、 住民も平常と変わらぬ生活を続けておりました。 仏印無血進駐により、 援蒋ルート遮断の目的が達成されたため、 部隊は南寧の南方の欽県港に上陸して連隊の指揮下に入りました。11月15日、 部隊に撤退命令が下さ れました。
 輸送船に乗り、 苦しい戦いが続いて幾多の戦友が散っていった大陸を後にして、 再度海南島に転進しました。 海南島では、 瓊山市から定安市に通ずる交通の要衝である永興の町の警備に当たりました。 永興の町の警備を解かれて瓊山市に駐留し、 学校を宿舎として毎日訓練に明け暮れておりました。その際、 慰安婦の護送を担当したことがありました。 東海岸の部隊に送るのですが、 朝鮮人の若い女性十人ぐらいと引率の男をトラックに乗せて山道を護衛して行ったのです。 引率の男に聞いたところ、 募集して来たのだそうですが、 女性たちも覚悟して来たのか落ち着いた様子でした。 部隊では、 一般の女性を強姦することは固く禁じておりました。 しかし、 古兵の中には、 「女を徴発に行こう」 と言って遊びに行く者もおりました。 ただ、 私は行った ことがないので、 それが強姦を意味するのか、 私娼と遊ぶと言う意味なのかは判りま せん。 また、 第一線では戦闘がありますから慰安所はなく、 後方の部隊が駐屯しているようなところに開設されておりました。
 1941年の10月、 次期作戦準備のために、 海南島の瓊山から台湾の高雄に転進することになりました。 高雄市郊外の陸軍倉庫を兵舎として宿営しました。 既に大東亜戦争の開戦は必至の情勢で、 我が部隊はフィリピンに上陸することになっており、 上陸後の進出目標も設定されていたのです。
 11月下旬に高雄を出港し、 澎湖島の海 軍基地の馬公港で待機していましたが、 12月8日、 船中で日本海軍がハワイの米軍基地を攻撃したとの報せを受けました。
 12月17日、 ついに馬公を出港してフィリピ ンに向かったのです。 マニラから160キロほど北方に位置する リンガエン湾に上陸しました。 早速自転車と自動車を乗り継いでマニラに向かいました。 途中、 敵と激しく交戦しながら12月31日マニラに入城しました。 敵軍には米兵だけではなく、 現地人も参戦しておりました。
 1月5日、 バターン半島を攻略するために、 銀輪を連ねてマニラを出発しました。 途中自転車を放置し、 敵と激烈な銃撃戦を繰り広げながらバターン半島を占領し、 敵をコレヒドール島に退却させたのです。 我が軍は華々しい戦果を挙げたのです が、 大隊長を始め、 多くの戦友を失ってしまいました。
 1942年2月1日、 我が軍はジャワ攻略のために、 リンガエン湾から輸送船の金城丸に乗船しました。
 第三艦隊に護衛され、 数十隻の輸送船は、 一路ジャワを目指して南進を始めました。 熱帯の海を、 途中マカッサル海峡のホロ島に一時立ち寄り、 一ヶ月掛けてジャワ島の中部の北岸にあるクラガンに上陸しました。 攻略の目標は、 東部の中心都市スラバヤでした。 自動車部隊として、 砂糖黍畑の中のアスファルト舗装の道路を進みました。 途中、 住民たちは親指を立てて我が軍を歓迎してくれました。 ジャワの住民は、 フィリピンの住民とは違い日本軍に対して友好的で、 敵対することはありませんでした。 私たちが斥候に行くと、 住民はコーヒーを 出して接待してくれるのです。
 3月10日、 スラバヤが落城しましたが、 我が部隊は入城せず、 残敵掃蕩のためスラバヤ南方のマランに転進することになりました。 マランは、 高原に位置するオランダ人の避暑地でした。 我が部隊は市内にある学校 に宿営し、 治安の維持に乗り出しました。 住民たちは非常に親日的で、 友好を兼ねてジャワ語の勉強をしておりました。 ただ一度、 宿舎としていた学校にジャワ人の娼婦が入り込んできて、 兵隊とトラブルになったことがありました。
 4月になり、 今度は上陸地点のクラガンの近くのレンバンで市内の巡察に当たることになりました。 住民は平穏に暮らしており、 私たち幹部は、 時折郡役所に招かれて ジャワの踊りを見学したりしておりました。 毎日住民との交流に努め、 ジャワ語を習ったり日本語を教えたりしていたのです。
 8月中旬、 私たちに内地帰還の命令が出ました。 戦死した戦友たちを残し、 生死を共にした戦友と別れを惜しみ、 連隊本部のあるバタビア (*ジャカルタ) に移動しました。 連隊長より別れに際しての訓示を頂いて輸送船でシンガポールに向かい、 三週間ほど待機して市内を見学しておりました。 その際、 市内のホテルに朝鮮服を着た若い女が 人ほど宿泊していたので、 引率していた男に聞いたところ、 「ビルマの前線に行くと儲かるので朝鮮から連れて来た」 とのことでした。 女たちは無理矢理連れて来られたようには見えませんでしたから、 募集で来たのでしょう。 その後、 サイゴンを経由して台湾の高雄港に着いたのは、 9月の中旬でした。 検疫を済ませて湖口の演習場に十日ほど隔離され、 9月30日、 台北第一連隊補充隊に戻りました。 当時は、 日本軍が優勢の時でしたので、 国民も戦勝気分に湧き立っており、 歓迎の日の丸の旗の波に迎えられて営門を潜りました。
 1942年10月3日に除隊 し、 花蓮港寿庄出身の戦友四名と寿駅頭で会社の歓迎式に列席し、 私が代表として謝辞を述べ、 四年半の私の軍隊生活に幕を下ろしたのでした。
 花蓮港製糖会社に復職し、 寿農場の第三農場長に就任しました。 もう20代の半ば を過ぎていましたので、 両親の勧めに従って、 翌年の4月、 熊本の中川裁縫女学校を出た8歳下の妻と熊本で華燭の典を挙げました。
 妻を連れて台湾に戻る途中、 同じ船に乗り合わせた二十代とおぼしき五~六人の内地人の女性たちと知り合いになりました。 私たちが新婚だと判ると、 妻に向かって 「奥さんはいいですねえ、 私たちは ……」 と言葉を濁して、 涙顔になってしまいました。 不審に思って、 後で周りの人に聞いたところ、 何でも戦地の軍隊に行く慰安婦の人たちとのことでした。
 妻にとっては、 台湾は初めての外地でした。 最初は、 内地との違いに驚いていましたが、 直ぐ慣れて台湾での生活を楽しむようになりました。 製糖会社には社宅があって、 八畳と六畳に台所と風呂、 トイレが付いておりました。 水道はなく、 タンクから 水を引いていました。 ガスはありませんでしたが、 薪は台湾人が割って用意してくれました。 風呂は、 台湾人が当番で水を汲んでくれました。 ただ、 洗濯や食事は台湾人の手を借りずに自分たちで切り盛りしておりました。 米は購買所で買っていましたが、 水道代や燃料費は只でした。 生活面では、 熊本よりもずっと楽でした。 ただ、 社宅は事務所や購買所からは一キロほど離れていたので、 購買所に買い物に行く時は、 台湾人の押してくれる台車に乗って往復していました。 アミ族の監督の三人と台湾人の労働者の班長も社宅に入っておりました。 労働者たちも社宅でしたが、 トタン葺で板の間の粗末な社宅に住んでいました。 ただ、 台湾人や アミ族の家には風呂が付いていませんでした。 元々風呂に入る習慣がなく、 水やお湯で水浴びをしていたのです。
 台湾人やアミ族の生活は、 それほど豊かとは言えません が、 食べる物には不自由しておりませんでした。 アミ族の部下は、 前述したように中村、 村山、 増田と日本名に改姓名した三人がおりました。 三人は、 台湾人の労働者の監督をしていました。 アミ族は平地に住んで稲作をしており、 首狩もせず大体において温和な人たちでした。 私の隣家の増田さんは 社宅に住んでいましたが、 全く内地人と同じような生活をしていました。 ただ、 奥さんは着物ではなく、 伝統的な民族衣装を着ていました。 三人の子供がおりましたが、 皆優秀で内地人の学校の小学校に入り、 娘さんは内地人でも難しい花蓮港高等女学校に通っていました。 弟も、 花蓮港中学に合格しています。 ただ、 アミ族の人たちは、 終戦後中村さんだけを残して農場を辞め、 田舎に帰ってしまいました。
 1944年の9月に、 大型台風が襲来し、 台湾人やアミ族の家が大分壊されました。 それで、 会社の倉庫を開放して被災者たちが入居できるようにしたことがありました。 怪我人にはヨードチンキを塗って消毒してあげたのです。 また、 子供が生まれたばかりの台湾人の母親たちがいたので、 私の家に引き取って世話をしました。 その間、 私たちは子供たちを抱いて押入れに寝ていました。 私は、 台湾人やアミ族と接する時は、 常に思い遣りの心を持って接することをモットーにしていたのです。 終戦後、 その母親たちから 「台風の時は、 大変お世話になりました」 と、 食料の差し入れを受けました。 大東亜戦争の戦雲も急を告げ、 寿製糖工場も空襲されるようになり、 敵軍の本土上 陸も囁かれるようになりました。
 1944年10月、 私は花蓮港飛行大隊台湾特設工兵隊に再度召集されました。 月給は20円ぐらいでしたが、 他に会社から家の方に毎月50円ぐらい支給されておりました。 今度は軍曹に任じられ、 台湾人やアミ族の志願兵の第二小隊長を命じられました。 志願兵にも、 一ヶ月20円ぐらい支給されていました。
 花蓮港飛行場は、 特攻機の基地になっていたので、 敵の攻撃から特攻機を守るため、 特攻機を裏山に秘匿するのが任務でした。 特攻機の出撃の際には、 昼夜の別なく特攻機をトラックに載せて飛行場までの数キロの道を運んでおりました。 特攻機の出撃を見送る時は、 実に感無量でした。 平常は至極平穏で、 普段は作業場の見回りをし、 休養日には全員で魚獲りをしておりました。
 1945年の 8月、 私はマラリヤに罹って陸軍病院に入院していました。9日、 ソ連軍の参戦の報があって、 即刻退院を命じられました。15日、 国民学校の校長室 で終戦の詔勅を拝聴しました。 敗戦の報には残念でならず、 人目を憚ることなく声を上げて泣いてしまいました。 すると、 志願兵たちが、 「隊長、 心配しないで下さい。 日本は必ず復活しますから」 と慰めてくれたのです。 翌日、 大隊長の命令により隊を解散し、 私の二度目の御奉公も終りを告げました。 解散する時、 アミ族の志願兵にだ け小銃を渡して帰しました。 アミ族は日本人に親近感を持っていて、 もしもの時には 台湾人よりは頼りになると思ったからです。
 製糖会社には、 都合四年半ほどおりましたが、 台湾人やアミ族と喧嘩したことはあ りません。 口で叱ることはありましたが、 手を出したことはありません。 当時、 アミ族は日本人と先祖を同じくする人たちだと思っていましたが、 台湾人は日本人とは違って支那人の子孫だと思っていました。 一視同仁とは言っていましたが、 台湾人を同胞だとは思っていませんでした。 だからと言って、 馬鹿にしたり軽蔑したりしたことは 全くありませんでした。 花蓮港の街の中でも、 内地人と台湾人が喧嘩するようなことはありませんでした。 ただ、 終戦後、 台湾人の態度が大きくなったような感じは受けました。 花蓮港でも、 警察官が報復されたという噂を聞きました。 国民党の軍隊が花蓮港にも来ましたが、 それほど悪いことはしませんでした。 終戦により除隊し、 製糖会社に復職して終戦業務に従事していましたが、 台湾人が 我々に危害を加えたり、 仕返ししたりすることはありませんでした。 出来るなら、 ずっと台湾に住み続けたかったのですが、 翌年の4月、 台湾人の従業員たちの盛大な見送りを背にして、 住み慣れた寿農場から引き揚げました。 花蓮港から鹿児島港に上陸 して熊本に帰り、 日本での新しい生活を踏み出したのです。

               原文は「元号」使用。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「太魯閣族」

2016年07月15日 | 台湾
http://www.dmtip.gov.tw/Aborigines/Article.aspx?CategoryID=1&RaceID=10
http://www.dmtip.gov.tw/Aborigines/Article.aspx?CategoryID=7&ClassID=25&TypeID=0&SubTypeID=0&RaceID=10
「臺灣原住民數位博物館」
■太魯閣族
     (圖1):東西橫貫公路入口
     (圖2):太魯閣族傳統領域(西寶)
  太魯閣族的文史工作耆老們,Yudaw Pisaw(田信德)、Yudaw(許通益)、Yuki(吳金成)、Jiru(高順益)、Ikuy(張永晃)等在南投地區近八年(1993-1998)的田野調查中 ,所收集之珍貴傳說資料記載:太魯閣族人上古時期是由南洋一帶坐船而來,登陸後定居於台中至台南的平原上,這就是最早的發祥地。後來在平原上因與平埔族不合而被驅逐追殺,被迫逐次向台灣中部高山地區遷移。傳說中的遷移史,太魯閣族人的祖先,從台中平原一帶,經埔里西方名為Ayran(愛蘭)的地方,繼續向東遷移,經過幾個世紀,遷移了十七個地區位置,才到達易守難攻的Truwan(多羅灣)山谷,才保留了太魯閣族人的生存。其路線為 Ayran → Suwil → Smlaan Lukus → Puqan Rudux → Mujiyan → Bhbuh → Dgiyaq Towngan → Sbahu → Habun → Bungu Gsilung → Meebung → Gayus Beenux → Yayung Sabun → Pnawan → Pludux → Twanan →Truwan (現在的南投縣仁愛鄉合作村平生)等地區。
  後來居住於Truwan地區的族人,因人口增加,耕地及獵區等生活領域空間不足,部分的族人才分散到今日的平靜至霧社高地。
  住於平靜至廬山者,是居住於往返霧社的Ddaan(經過)的地方,族群稱為Teuda群。而遷居於霧社一帶的族人,因位於較為山上,而被稱呼住在山上Daya的人,簡稱Tkdaya群。因此Truku群、Teuda群、Tkdaya群,實際上都是淵源於Truwan(多羅灣)的Truku族人。

(1)、據1917年統計,分支之後的其分情況如下:
  太魯閣族人的世居在南投縣仁愛鄉Truwan溪旁Brayaw Daya,Busyug Ska,Sadu,Truwan,Rkudaya,Rusaw,Bgbung,Ska,Tnbarah‧住在Dakusay溪與眉溪邊Bwarung,Bkasan,Sukug,Mhibu,Truwan,Qacuk,Gungu,Drudux,Sipaw,Towngan,Paran。

(2)、四百多年前,太魯閣族祖先因耕地不足,人口增加,離開南投truwan翻過奇萊山來到大濁水以南,木瓜山以北(含立霧溪、三棧溪),前前後後散居96處‧(圖1)(圖2)

(3)、1914年太魯閣族抗日戰役後之遷徙地理分佈
  太魯閣族抗日戰役是指太魯閣族祖先在一百多年前,於中央山脈與日軍警抗戰的輝煌歷史。 在日本官方的文獻裡,稱之為太魯閣討伐,意指太魯閣族人犯人來看待。但對我們太魯閣族人來說,是為了悍衛土地、生存及習俗與入侵的日本軍警發生一連串戰爭的。例如祖先自1896年12月的新城(1896年12月)、三棧(1897年.1月)、加灣(1897年.2月)、威利(1906年)、及太魯閣族抗日戰役(1914年.5月起至8月底),特別是太魯閣族抗日戰役,最為耗大的戰爭,日本政府動用軍警二萬餘兵力,用精良武器,來對付徒手的族人約2500–3000男丁。這也證明日本據台近20年(1914年)後,最後向日本降服的族群就是太魯閣族。日本政府統治台灣五十年,但統治太魯閣族才三十二年。日本政府以好管理為藉口,開始勸誘遷居平地,但於1930年發生霧社事件之後,為防止族人再次團結起來抗日,自1931年起至1937年強迫族人遷居現址,包括秀林鄉行政區域:和平村、崇德村、富世村、秀林村、景美村、佳民村、水源村、銅門村、文蘭村,萬榮鄉行政區域:西林村、見晴村、萬榮村、明利村、紅葉葉及卓溪鄉行政區域:立山村,另外有部份族人被遷居至漢人居住區域之吉安鄉行政區域:慶豐村、福興村、南華村,在遷居時,採取混居政策,來破壞本族社會結構及傳統文化。

★人口遷移
  第一階段:自早期的遷徙至1914年。由今秀林鄉的山區逐次向東擴展,其後在和平溪(大濁水溪)下游及其支流北溪、立霧溪、三棧溪、木瓜溪中上游諸流域,建立了居住區域。
  第二階段:1914年至1931年。1914年太魯閣戰役底定後,在日人勸導與強制的雙重政策之下,開始進行的集團移住,迫使族人的遷離山區,移至日人指定的居住區域。此區域都在中央山脈脊嶺東方盡端下方的山麓,沿太平洋岸及台東縱谷的西側沿山一帶的地區。
  第三階段:1931年起,日人鑑於霧社事件的發生,再次強制住於山區的移住,除了沙卡丹流域的沙丹丹(今大同)、哈魯閣臺(今大禮)、希拉岡三個,及金洋之部分住區已為日人規劃為蔬菜種植區以外,全部遷離山區移住於平原或下游河谷。
  至戰後國民政府時期,東賽德克群的移動仍有八件以上,大體而言,多數由深山朝淺山、沿河流域及海岸地帶等區域移動(許木柱等 1995:28),亦有部分族人離開前往台灣各地都市討生活。

★日據初期集體管理政策
  進入日治時代以後,日人基於殖民統治的考量,於1910年代中起大規模強制移住深山地區太魯閣族的各個,打散了原有,將不同融合成一個,衝擊原有的血緣、親緣的組成規則,形成以地緣為為結合原則的(參林恩顯、林顯宗 1991。日人對族人實施進行集團移住政策之後,住居家屋便不像以往如此的分散,而經常是在日警的駐在所及蕃童教育所等機構周邊,經過日人安排規劃,形成密集的住屋排列,此乃日人基於有效控管族人之理由(參李瑞宗 1998)。

★1914年的「太魯閣事件」
  1906年8月1日花蓮泰雅族人「太魯閣蕃」十四社聯合襲擊日人賀田組為主的腦寮區,擊殺區內賀田組人員、日人腦丁、教員共30餘人,花蓮港支廳長警部大山十郎亦遇害,史稱「太魯閣事件」。事件起因於臺東廳長森尾茂助將理蕃事務改由警務課專管,政策轉向嚴密取締,並准許賀田組擴大樟腦事業侵入山區,終致引發太魯閣蕃社的反抗。此事件明顯改變了總督府綏撫的理蕃政策,隔年1月佐久間左馬太總督確立了五年理蕃計畫,對泰雅族屬的「北勢蕃」展開嚴厲取締的高壓手段,此後對太魯閣蕃社的討伐戰役不斷。1914年5月擔任討伐軍司令官的佐久間總督,率領配備總槍數約2800枝、各式火炮31門、機關槍8座、編制2萬餘人的軍警聯合部隊親赴蕃地,以優勢軍力對太魯閣蕃社展開全面性的戰爭,蕃社總兵力約3000人於山區與日軍激戰3個月,終因人數武力懸殊,8月下旬遭日軍鎮壓底定,此役被視為太魯閣戰敗的代表。此後,日本總督府實際執行其政治統治意志於太魯閣社會中,連年戰爭、集團移住、禁制舊習、灌輸日本文化等手段,摧毀太魯閣傳統社會文化甚鉅(參王學新 1997、1998;李季順 2001a、2001b、2003;高琇瑩 1996、1999、2000a、2000b;潘繼道 2000a等)。

★外來宗教傳入
  西方基督宗教在日治中期便已傳入太魯閣地區,花蓮太魯閣一帶是台灣「山地」中最早受到基督長老教會影響的地區,1924年時便出現第一位信徒Ciwang- Iwal(芝苑、姬望)(江天順 1965:373-378;邱韻芳 2004:99)。惟因日本政府的禁止,日治時期的傳教效果並不彰。至戰後,接受西方基督宗教的族人迅速增加,主要的教派包括基督長老教會、天主教、真耶穌教會等。
  當代信仰基督宗教後,宗教領袖則為教會神職人員或長老,協商教會事務的進行。宗教領袖在族人的日常生活,甚至政治運動中,也可能扮演重要角色,如太魯閣正名運動發起初期,多由教會牧師為核心份子。

★太魯閣族正名運動
  太魯閣族正名運動的正式展開約在1990年代中期,由不同組織分別推動族群正名運動。1996年臺灣基督長老教會太魯閣中會及花蓮縣太魯閣建設協會分別舉辦了正名的相關研討會,且各自主張不同族名。教會系統主張以太魯閣族為名,建設協會乃主張包括西部族人的賽德克族為名,彼此意見不一。直到2002年九月,花蓮縣德魯固族文化發展協會再次舉辦正名研討會,並將之落實成立「太魯閣族正名促進會」,此後,開始建構以「太魯閣族」為族名的正名行動(李季順 2003:60-61)。另一方面,對於同為東部族人的teuda、tkdaya、truku三群對使用「太魯閣族」一稱彼此有不同意見,但在推動正名運動中,支持「太魯閣族」的族人立場,主要乃依據truku指的是發源地,而群名稱這層意義上,希望藉此含括三群人在同一族名之下(希雅格‧烏洛2004:76)。
  縱使仍有在東賽德克中位居少數的tkdaya、teuda語群的部分族人,以及南投地區的部分西賽德克族人,對此正名運動抱有不同意見,「太魯閣族」終於在2004年1月14日,經行政院通過認定為台灣的第十二個原住民族(推動正名運動過程可參李季順 2003:47-78;希雅格‧烏洛 2004)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする