■はじめに:「独島問題」の歴史的構造
1869年に、日本は北方のアイヌモシリ【註1】の一部を領土としたあと、1875年にロシアと北方の国境を確定し、つづいて南方、東方、西方の国境を確定しようとした。
1876年に、日本は南方の小笠原諸島を領土とし、1879年に琉球国を領土とし、いったん南方の領域を確定した。
1895年に「日清戦争」に勝利した日本は、台湾を植民地とし、南方の領域を拡大した。
「日露戦争」のさ中1905年に日本は独島を占領し【註2】、その5年後に朝鮮を「併合」した。
第1次アジア太平洋戦争のとき、日本はミクロネシアを植民地とした。
1931年に日本は中国東北部・モンゴル東南部侵略戦争(「満洲事変」)によって、その地域を植民地とした。
日本は、1868年の王政復古以後、天皇のもとに日本国民(天皇の「臣民」)を統合し、第2次アジア太平洋戦争に敗北する1945年まで、他地域および他国を継続的に侵略し、侵略戦争によって領土を拡大し、国境線を膨張させた。侵略戦争と領土拡大の過程で天皇制が強化された。
1945年に、クリール列島・朝鮮。台湾・サハリン南部・ミクロネシア・中国東北部・モンゴル東南部……における日本の植民地支配は終わったが、日本の侵略の時代は、天皇制とともに、いまも続いている【註3】。
本稿では、1905年の日本の独島占領の歴史的意味を分析し、現在の「独島問題」の本質を解明し、その解決方法を探究したい。
【註1】
アイヌモシリとは、現在、北海道、クリール列島(「千島列島」)、サハリン、沿海州と名付けられている地域をおおまかに示すアイヌ語である。アイヌモシリは、いま日本とロシアに占領され、日本人やロシア人が多数を占めているが、19世紀中期までは、アイヌ民族、ニブヒ民族、ウイルタ民族、ナナイ民族ら北方諸民族の大地であった。アイヌ・モシリの自治区を取り戻す会編『アイヌ・モシリ』お茶の水書房、1962年、参照。
【註2】
歴史的にみるなら独島が日本国家の領土ではないことは明らかである。この単純明白な事実は、おおくの韓国および日本の実証的な歴史研究者によって証明されている。これまでの独島に関する研究でもっとも包括的・基礎的な研究は愼廈『独島의 民族領土史 研究』(知識産業社、1996年)である。日本人研究者による研究として、山辺健太郎「竹島問題の歴史的展望」、「竹島問題の歴史的考察」(『コリア評論』1965年2月号、12月号、コリア評論社)、梶村秀樹「竹島=独島問題と日本国家」(『朝鮮研究』1978年9月号、日本朝鮮研究所)、堀和生「一九〇五年日本の竹島領土編入」(『朝鮮史研究会論文集』24号、緑蔭書房、1987年)、佐藤正人「国民国家日本の独島占領」(国際教科書研究所編『世界化時代의 歴史学과 歴史教科書(第7次国際歴史教科書学術会議)』1996年、内藤正中「竹島問題考」(『海外事情』1996年12月号、拓殖大学海外事情研究所)などがある。梶村も堀も、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院、1966年)を実証的・論理的に批判し、独島は朝鮮の範囲内の地域であることを論証している。堀は川上が意図的に資料の隠蔽をおこなっていると指摘している。
川上健三は日本外務省条約局の官僚であり、独島を日本の領土であると主張するために同局が1953年8月に発行した『竹島の領有』の執筆者であった(当時、川上は条約局第1課事務官)。『竹島の歴史地理学的研究』は個人的な学問的研究書という形式をとっているが、独島は近世初期から日本の領土であったと強弁する日本外務官僚が書いた政治的文書のひとつである。川上は、アジア太平洋戦争の時期には、参謀本部、大東亜省に勤務していた。
川上は『竹島の歴史地理学的研究』で、日本と朝鮮に関して「日鮮」という差別語をくりかえし(46、143、144、165頁)、朝鮮人を「鮮民」と書き(171頁)、日本人と朝鮮人を「日鮮人」という差別語で表現している(146頁)。
それだけでなく、同書で川上は、16世紀末のヒデヨシの軍隊の朝鮮侵略と民衆虐殺と略奪を、「征韓の役」すなわち「韓国を征伐する戦争」と称している(67頁)。
これらは、独島を再び日本領としようとする日本政府外務官僚が、朝鮮人にたいして根深い差別意識だけでなく、侵略者の意識・思想をもっていることをよく示している。川上は1995年に死亡したが、『竹島の歴史地理学的研究』は1996年に、日本におけるネオナショナリズムの復興・強化という状況の下で、30年ぶりに再版された。
【註3】
佐藤正人「「八・一五」五〇年後の「ポストコロニアリズム」」、『アジア問題研究所報』11号、1996年、参照。
佐藤正人