三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

遺骨が証言する事実

2014年02月28日 | 韓国で
 きのう(2月27日)、「発掘調査」のあと、晋州市内の宿所近くで、30人ほどの参加者が、意見を述べあいました。
 その場で、わたしは、つぎのように発言しました。

 いま「発掘調査」が行われている犠牲者は、韓国軍と韓国警察に虐殺された人たちであり、海南島の「朝鮮村」に埋められている犠牲者は、日本軍に虐殺された人たちであって、加害者も歴史的犯罪の性格・意味は異なる。
 しかし、晋州における大虐殺も「朝鮮村」における大虐殺も、隠され続けてきており、文書記録はほとんど公開されていない。
 したがって、犠牲者を「発掘」し、その遺骨の証言を聞くことが、決定的に重要だ。

 きょう、朝から午後2時まで、「発掘調査」に参加させてもらったあと、午後3時晋州発のバスでソウルに向かい、午後7時に着きました。 
 午後8時半から、2時間近く、ソウル市内で韓国仏教宗団協議会の李尚珪さん、梁程述さんと話し合いました。
 昨年11月27日に、第16回韓・中・日仏教友好交流大会が、海南島の三亜市で開催されました。
 それに先立って、11月24日に、韓国仏教宗団協議会の僧侶約20人が、三亜市郊外の「朝鮮村」で日本軍に虐殺された朝鮮人犠牲者を追悼しました。そのとき、1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられソウルの刑務所から海南島に連行され1944年2月に海南島南東部の陵水で亡くなった韓錫さんの妻の李康姫さんと遺児の韓光洙さんが参席しました(このブログのこのブログの2010年4月28日の「韓錫さん 1」、7月17日の「韓錫さん 2」、2010年6月24日の「戻らなかったアボヂ 1」、6月28日の「戻らなかったアボヂ 2」、8月22日の「日本に 父奪われた」、2011年8月30日の「海南島の死「事実知りたい」」をみてください)。
 きょう、李尚珪さんと梁程述さんに、韓国仏教宗団協議会が、朝鮮村」で犠牲者を追悼するに至った経過を聞きました。 
 韓・中・日国際仏教交流協議会の中国代表団の僧侶、日本代表団の僧侶は、「朝鮮村」での追悼式に一人も参席しなかったそうです。
                                            佐藤正人
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「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘調査」

2014年02月27日 | 韓国で
 きょう(2月27日)朝9時巨済市発の直通バスで晋州市に向かいました。1時間で着きました。
 「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査団」が、24日から3月2日までの予定で、晋州市鳴石面龍山里の民間人虐殺推定地で発掘調査を発掘作業をおこなっていました。
 晋州市内のバスターミナルまで迎えに来てくれた韓国民族問題研究所の金敏さんに案内されて「発掘」現場にいきました。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2003年11月から民族問題研究所および太平洋戦争被害者補償推進協議会と協議をかさね、海南島の「朝鮮村」の遺骨「発掘」の準備をすすめ(このブログの2013年6月10日の「国民国家日本の侵略史に対決する民衆運動10」をみてください)、民族問題研究所と独立紀念館が主催し、紀州鉱山の真実を明らかにする会が後援して、2004年10月1日から10日まで、ソウルの西大門刑務所歴史館で、10月15日から11月20日まで、独立紀念館で、特別展『海南島で日本は何をしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』が開催されました(このブログの2010年9月13日の「海南島における日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪調査11」をみてください)。
 「韓国戦争期民間人虐殺遺骸発掘共同調査団」は、韓国戦争遺族会、民族問題研究所、 4・9統一平和財団、フォーラム真実家族会で構成され、今月18日にソウルのフランシスコ教育会館で記者会見を開き発足を宣言していました。
 27日午前11時前に「現場」に着くと、朴善周さんが中心になって「発掘調査」をしていました。朴善周さんは、1998年7月に韓国KBSが海南島の「朝鮮村」の遺骨埋葬現場を「発掘」したとき指導・鑑定したことがあり(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』〈2005年5月、写真の会パトローネ〉5~6頁、および『《写真集》日本の海南島侵略と抗日反日闘争』〈紀州鉱山の真実を明らかにする会制作、2007年2月、87頁〉をみてください)ます。朴善周さんにわたしが会うのは、2005年10月末のアイヌモシリの猿払村の旧日本陸軍浅茅野飛行場跡の近くでの遺骨試掘のとき以来の8年5か月ぶりでした。
 忠北大学校遺骸発掘センター長の朴善周さんは、26日までに「発掘」された遺骨のまえで、
   「遺体に自然性がまったく見られない。遺骨のそばから薬莢や弾丸はカービン銃のもの
   だ。当時カービン銃は警察や軍の幹部が使った。
    ここの土壌は酸性度が高く湿気がある。そのため遺骨の劣化が進んでいる」
と話しました。
 午後、父が殺された鄭然祖さんに話を聞かせてもらいました。鄭然祖さんは、父が虐殺された1950年7月の4か月後の11月に生まれたそうです。鄭然祖さんはつぎのように話しました。
   「晋州刑務所から馬山刑務所に送られる途中で殺された人たちもいる。
    アボヂは記者だった。名前は、정화。
    アボヂの姉妹の夫の父が(シアボヂ)が、慶南日報の主幹で、アボヂもそこに入り記者
   になった。
    アボヂの弟が、「事件」の3日後に来てみたら、殺された人たちは腐りかけていた。折
   り重なっている遺体を引っ張って服装で兄を探そうとしたが、手を持つと、ごそっと抜け
   て、下でも大声で降りてこいと呼ぶし、あきらめて帰った、と聞いた。
    アボヂが殺された場所は、ここかどうかははっきりわからないが、このあたりに埋まっ
   ている」。
                                           佐藤正人
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コバルト鉱山・加徳島・巨済島

2014年02月26日 | 韓国で
 きのう(2月25日)、大邱の慶尚北道議会を訪問したあと、夕刻、金昌淑議員に案内されて、大邱の隣の慶山市郊外のコバルト鉱山跡に行きました。
 2010年10月6日にはじめて慶尚北道議会を訪ねたとき金昌淑議員は、出身地である慶山市にあるコバルト鉱山に朝鮮戦争時に殺害された犠牲者が埋められていたと、話しました。
 朝鮮戦争時に、李承晩政権下の韓国軍や韓国警察によって「保導連盟員」や南朝鮮労働党関係者とみなされた民衆が、村内や刑務所内や近くの山中などで大虐殺されました。この事実はアメリカ合州国軍の諜報機関が把握していました。
 その人数は数10万人だと推定されていますが、正確な数はまだ明確にされておらず、犠牲者の名前もほとんどわかっていません(1960年の四月革命直後に、全国血虐殺者遺族会が作成した報告書には虐殺された人は114万人と書かれており、2004年に創設された「韓国動乱前後民間人虐殺真相糾明および名誉回復のための汎国民委員会」は60万人から120万人が虐殺されたと推定しています)。
 2004年に「韓国動乱前後民間人犧牲者事件真相究明および名誉回復に関する法律」が制定されました。
 2005年8月にコバルト鉱山で虐殺された人たちの遺骨が「発掘」されました。そのなかには、銃弾が貫通した穴があいている頭蓋骨もありました。
 それらの遺骨は、いま、プレハブ造りの建物のなかに置かれています。
 案内してくれた張明守さんが、そのときの発掘のこと、その後のことを説明してくれました。
 きょうは、日本軍が日ロ戦争時に望楼をつくった加徳島を通って巨済島の「捕虜収容所」あとに行きました。
                                        佐藤正人
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「日本‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’関係者、慶北道議会訪問」

2014年02月25日 | 紀州鉱山
 きょう(2月25日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員のキㇺ チョンミ さんとわたしが、慶尚北道議会を訪ねました。
 以下は、そのことを伝える慶尚北道道議会の「報道資料」の原文とその日本語訳文です。
                                         佐藤正人

■경북도의회 보도자료
 http://council.gb.go.kr/source/korean/news/news04_01.html?mode=view&number=1316

 일본‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’관계자, 경북도의회 방문
 작성자경북도의회
 작성일2014. 02. 25

 일본‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’관계자, 경북도의회 방문
    ー일제강점기 강제징용 피해자 추모터 경북도 기부 의사 밝혀ー

 일제강점기에 일본 기슈광산에서 강제노역에 시달리다 희생된 한국인에 대한 진실을 알리고자 결성한 일본내 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’ 관계자(사토쇼진, 김정미씨)가 2월24일부터 25일까지 이틀간 경북도의회 등을 방문했다.
 기슈광산은 총알을 만들기 위해 구리를 캐내던 광산으로 이시하라산업이 1938 ~ 1978년까지 운영했고, 일제강점기 때 한국인 1,300여명이 이곳으로 끌려가 혹독한 강제노역에 시달렸다.
 당시 이시하라 산업이 1946년에 작성한 명부에는 729인이 기록되어 있으며, 거기에는 강원도 545명, 경기도 97명, 경북도 63명이 강제 연행된 것으로 나타나고, 확인된 희생자만 35명이다.
 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’은 1997년 2월 결성되어 일본의 역사학자와 시민․재일교포 등 250명으로 이뤄졌으며, 이 단체는 2008년 구마노시와 이시하라산업에 추모비 건립 지원을 요청했으나 거부당하자 부지를 직접 사들여 2010년 3월 추모비를 세우고 추모 공간을 만든 바 있다.
 그후 미에현과 구마노시가 추모터에 대하여 ‘공공성이 없는 사유지’라며 추모터에 부동산 취득세 2만 6,300엔(약35만원)과 고정자산세 1만 6,200엔(약 21만 7,000원)을 각각 부과하였고, 이에 위 모임은 즉각 ‘부당과세 철회 소송’을 제기하였으나, 1심 법원은 미에현과 구마노시의 손을 들어 주어 항소심이 진행중에 있다.
 경북도의회 차원에서는 2012년도에 김창숙, 이영식, 나현아, 홍진규 의원 주축으로 ‘기슈광산 강제동원 희생자 진실규명 촉구 결의안’을 채택했으며, 당시 강제징용관련 진상규명 요구와 추모비 부지에 대한 과세철회 결의문을 미에현과 구마노시에 전달한 바 있고, 김창숙의원은 현재 안동, 군위에서 거주하고 있는 희생자 후손에 대한 법원 증인 신청을 요청해 놓은 상태이다.
 한편, 2월 24일 경북도의회 방문에 앞서 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’의 일원으로 방한 한 일본인 사토쇼진(역사학자)씨는 독도가 한국 땅이라고 명시된 고지도(古地圖)를 동북아역사재단 독도문제연구소에 기증했다.
 경북도의회(의장 송필각)에서는 2월 25일 이들 모임 관계자와 도의원(김창숙, 이영식, 나현아, 홍진규 의원) 등이 참석한 가운데 간담회를 개최하고, 이 자리에서 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’ 관계자는 강제징용 희생자 추모터를 경북도에 기부할 의사가 있음을 밝히기도 했다.
 경북도의회 송필각 의장은 이날 간담회를 주재하면서 “일본 현지에서 한국인이 강제노역으로 희생된 기슈광산의 진실을 알리기 위해 노력하고 있는 것에 대하여 감사함을 표시하고, 경북도의회 차원에서도 미에현 등에 과세 철회를 지속적으로 요구하고, 추모비 터에 대해서는 경북도와 협의하여 취득 방안을 모색하겠다.”는 뜻을 전했다.

■慶北道議会 報道資料
 http://council.gb.go.kr/source/korean/news/news04_01.html?mode=view&number=1316

 日本‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’関係者、慶北道議会訪問
 作成者慶北道議会
 作成日2014.02.25

 日本‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’関係者、慶北道議会訪問
    ー日帝強占期強制徴用被害者追慕の土地を慶北道に寄付する意志を明らかにー

 日帝強占期間に日本紀州鉱山で強制労働に苦しめられ犠牲になった韓国人に対する真実を知らせようと結成された日本国内‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’関係者(佐藤正人、キㇺチョンミ氏)が2月24日から25日まで二日間慶北道議会などを訪問した。
 紀州鉱山は弾丸を作るために銅を掘り出した鉱山で、石原産業が1938~1978年に運営し、日帝強占期間に韓国人1,300人余りが連行され苛酷な強制労働に苦しめられた。
  当時石原産業が1946年に作成した名簿には729人が記録されており、江原道から545人、京畿道から97人、慶北道から63人が強制連行されたことが明らかで、確認された犠牲者は35人だ。
 ‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’は、1997年2月に、日本の歴史学者と市民、在日同胞など250人で結成された。この団体は2008年に、熊野市と石原産業に追慕碑建設支援を要請したが、拒否されるとすぐに敷地を直接買い入れ、2010年3月追慕碑をたてて追慕空間を作った。
 その後、三重県と熊野市が追慕碑の土地に対し、‘公共性がない私有地’として不動産取得税2万6,300円(約35万ウォン)と固定資産税1万 6,200円(約21万7,000ウォン)をそれぞれ賦課した。これに対し‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’は直ちに‘不当課税撤回訴訟’を提起したが、1審裁判所は三重県と熊野市の主張を聞き入れ、控訴審が進行中である。
 慶北道議会次元では2012年度に金昌淑、李英植、羅玄雅、洪晋圭議員が中心になって‘紀州鉱山強制動員犠牲者真実糾明要求決議案’を採択し、当時強制徴用関連真相究明要求と追慕碑敷地に対する課税撤回決議文を三重県と熊野市に伝達した。金昌淑議員は現在安東と軍威に住んでいる犠牲者の子孫に対する裁判所証人申請を要請している。
 一方、2月24日に、慶北道議会訪問に先立ち‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’の一員である日本人佐藤正人氏(歴史学者)は独島が韓国の領土だと明示された古地図を東北アジア歴史財団独島問題研究所に寄贈した。
 慶北道議会(議長宋必珏)は、2月25日これら集い関係者と道議員(金昌淑、李英植、羅玄雅、洪晋圭議員)等が参加した中で懇談会を開催した。この席で‘紀州鉱山の真実を明らかにする会’関係者は強制徴用犠牲者を追慕する土地を慶北道に寄付する意志があることを明らかにした。
  慶北道議会宋必珏議長はこの日懇談会を主宰し、“日本現地で韓国人が強制労働で犠牲になった紀州鉱山の真実を知らせるために努力していることに対し感謝することを表示して、慶北道議会次元でも三重県などに課税撤回を持続的に要求して、追悼碑の土地に対しては慶北道と協議して取得方案を模索する。”という意を伝えた。
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日本の独島再占領を許さない日本民衆の運動を!

2014年02月24日 | 個人史・地域史・世界史
 きょう(2月24日)、韓国の東北アジア平和財団の独島研究所で、独島問題と長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」について報告し、「改正日本輿地路程全図」(1791年版)の原本を森熊五郎製図「実地踏査日露満韓新地図」(1904年2月14日発行)の原本とともに寄贈しました。
 そのときの報告の要旨は、つぎのとおりです。
                                         佐藤正人

■独島問題の本質(要点) 日本の独島再占領を許さない日本民衆の運動を!■

■独島問題は、領有権問題でなく、植民地問題である
 国民国家日本は侵略によって領土を拡大した
 日本政府は、1869年にアイヌモシリを「北海道」とし、1872年に琉球王国を「琉球藩」として日本の領土とした。1875年に、日本政府は「千島列島」全域を領土とした。
 1876年2月27日に、日本政府、江華府で朝鮮政府に不平等条約(「朝日修好条規」)を調印させた。
 その8か月後、1876年10月17日に、日本政府は「小笠原島」を日本の領土にすることを、アメリカ合州国、イギリス、ロシア、フランス、オランダ等12か国の公使に通告し領土とした(1882年までに住民すべてを日本国籍とした)。
 「小笠原島」の日本領土化は、1933年の日本外務省の機密文書では「帝国ノ為シタル島嶼先占事例」の最初の例とされている(日本外務省条約局『国際法先例彙輯(2)新領土ノ発見及取得ニ関スル先例 島嶼先占』〈1933年10月調〉)。
 日本政府は、「小笠原島」を領土とした翌年1877年に、「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官指令をだし、「竹島外一島」(欝陵島と独島)は日本の領土ではないことを明示した(太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」と書かれている)。
 1891年9月10日に、日本政府は、「勅令」190号を公布して、「硫黄列島」を領土とした。
 清国との戦争のさなか、1895年1月14日に、日本政府は、釣魚諸島を、閣議決定で領土とした。
 1895年5月8日の「日清講和条約」で、清国政府は、台湾と澎湖列島、および「奉天半島(遼東半島)」を日本領とすることに同意した(6か月半後の11月29日に、日本政府は、「奉天半島(遼東半島)」を清国に返還)。このころ、日本政府は、あいまいなかたちで、宮古・八重山地域を「沖縄県」に併合した。
 1898年7月24日に、日本政府は、「南鳥島」を東京府告知という形式で東京府の管轄にして領土とした。
    註:現在、日本の最南端とされている2平方メートルの岩礁・沖之鳥島(その周囲50メ
     ートルを日本政府はコンクリートで固めている)が日本領とされたのは「九・一八事
     変」の2か月まえの1931年7月であった。
 1877年に独島は日本の領土ではないと明言したにもかかわらず、日本政府は、1905年1月28日、ロシアとの戦争のさなか、ロシアのバルチック艦隊がヴラジヴォストークに向かっていたときに、閣議で、大韓帝国の独島を「本邦所属」として「併合」するとともに島名を「竹島」にした。日本の独島占領は、「明治維新」以後のアイヌモシリ植民地化、琉球王国植民地化、小笠原諸島領土化、台湾・澎湖島植民地化、八重山諸島植民地化、南鳥島日本領化につづくものである。その3か月前、1904年11月に、日本海軍司令部は、望楼建設のために、独島の本格的調査をおこなっていた。
 日本政府が、1905年1月28日の閣議で独島を「本邦所属」とした理由は、
    ①「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡」がないこと、
    ②「1903年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類
     ニ依リ明ナル所ナレバ国際法上占領ノ事実アルモノト認メ」
というものであった。
 ①の理由は、大韓帝国政府が1900年10月25日に、「勅令」で、独島(トクト)を「石島(トクト)」と書き記して欝陵郡の管轄地としており、日本軍艦「新高号」の1904年9月25日の日誌に、「「リアンコルド」岩韓人之ヲ獨島ト書シ」と記録しているのであるから、なりたたない。
     註:日本の軍艦「新高号」の日誌の1904年9月25日の部分には、
        「松島ニ於テ「リアンコルド」岩の実見者ヨリ聴取リタル情報「リアンコル
        ド」岩韓人之ヲ獨島ト書シ本邦漁夫等略シテ「リヤンコ」島ト呼称セリ別紙
        略図ノ如ク二個岩嶼ヨリ成リ……」
      と書かれていた。1904年9月以前に、朝鮮人が、この岩礁を独島と呼んでいたこと
      が、日本軍の報告書に明記されていた。
 ②の理由も、1903年以前から独島で朝鮮人が「漁業ニ従事」していたので、なりたたない。独島は水がほとんどない岩礁であり人が移住(長期に居住)することができない所である。したがって「1903年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ」ということも事実ではない。
     註:日本外務省外交資料館で公開されている『帝国版図関係雑件』に、中井
      養三郎が1904年9月29日付けでだした「りやんこ島領土編入并ニ貸下願」が
      含まれている。これは内務省の用紙3枚に書かれており、中井が提出した原
      本ではなく内務省の担当官が書き写したものだと思われる。
 この中井の「願」を受理し、内務大臣は、閣議に「隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク……該島を竹島ト名ケ 自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントス」という提案(「請義」)をし、日本政府は1905年1月28日に、
   「1903年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ 関係書類ニ
   依リ明ナル所ナレバ 国際法上占領ノ事実アルモノト認メ、之ヲ本邦所属トシ島根県
   所属隠岐島司所管ト為シ 差支無之儀ト思考ス 依テ請議ノ通閣議決定相成可燃ト認
   ム」(原文、「元号」使用)
と閣議決定した。 
 このとき、日本政府は、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク」という偽りを前提にして、朝鮮の独島を、「本邦所属」とした。
 1905年1月28日に閣議で日本政府が独島を「本邦所属」と決定した後、島根県は日本政府の「訓令」をうけて、2月22日に、独島を「竹島」と名付けて隠岐島司の所管とすると告示した。
 1905年11月17日に、日本政府は、大韓帝国を日本の「保護国」(植民地)とし、1910年8月22日に、大韓帝国を「併合」した。
     註:1920年5月13日付けで日本海軍水路部が発行した『朝鮮沿岸水路誌』第一巻
      の「竹島〔Liancourtrocks〕」の項には、「朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ内地漁夫ハリア
      ンコ島ト曰フ」と書かれている(57頁)。
 この時点においても日本人漁民は、独島を竹島ではなく「リアンコ島」とよんでいたと、日本政府機関である水路部の文書に明記されていた。
 朝鮮人が欝陵島東南東の岩礁を独島とよび始めたのが何時からなのかは明確ではないが、1900年10月25日に、大韓帝国政府は、「勅令」第41号で、この島を「石島」と書き記し、欝陵郡の管轄地としている(『官報』第1716号、1900年10月27日、議政府総務局官報課)。
 この島を欝陵島地域の朝鮮人は、「ドクソム」(石の島という意味)とよんでおり、発音にしたがって漢字表記すると独島となる。
 1920年5月の日本海軍水路部の『朝鮮沿岸水路誌』第一巻の「朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ内地漁夫ハ リアンコ島ト曰フ」という記述は、1904年9月の「新高号」の報告書に依拠したものだろう。ただし、何故か、「新高号」の報告書の「「リヤンコ」島」が、ここでは、「リアンコ島」と変えられている。

■なぜ、そのようなことができたのか(世界近現代史における独島植民地化)
 日本の独島占領は、近現代における帝国主義諸国の他地域・他国侵略の一環である。
 日本の台湾植民地化、独島を含む大韓帝国植民地化の前後に、アメリカ合州国、イギリス、ドイツ、フランスなどが、ハワイ諸島、プエル・トリコ、グアム島、マダガスカル、サモア、テ・アオ・マオヒなどを植民地とした。帝国主義諸国は、相互に、他地域・他国植民地化を黙認・追認・同意していた。
 日本の大韓帝国植民地化は、アメリカ合州国、イギリス、フランス……の黙認なしには不可能であった。

■独島を「我が国固有の領土」とする日本ナショナリズムの本質
 日本政府は、独島を、いまなお「竹島」と称し、「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です」と主張し、独島の再占領を策動している。
 日本政府の独島再占領策動は、日本政府が朝鮮を植民地としたことを根本的に否定していないことを示している。日本が独島をふくむ大韓帝国を植民地としていなければ、朝鮮は分断されなかった。
 日本政府は、朝鮮植民地化の歴史的責任をとろうとしていない。
 独島は、朝鮮で最初に日本の植民地とされた地域である。
 日本政府は、日本帝国が1905年に占領した大韓帝国の領土を「日本国家の固有の領土」と主張し、いまなお朝鮮植民地化を肯定している。
 日本の独島再占領策動および「北方領土返還」策動は、領土を拡大し国境線(および経済水域)をおし広げようとする帝国主義国日本の現在の他地域・他国侵略策動の一環である。

■日本ナショナリズムとの対決
 1905年の日本政府による独島領土化は、日本のアジア太平洋侵略の一環であり、大韓帝国植民地化の起点であった。
 日本政府の独島再占領策動に加担し、独島を竹島と称し、独島を日本国家の領土であると述べる日本人歴史研究者は少なくないが、その策動を明確に批判する日本人歴史研究者は限られている。
日本政府の独島再占領策動にたいして発言しない日本人歴史研究者は、客観的には、独島が「日本国家固有の領土」だとする宣伝に加担している。
 独島問題について、日本のおおくのマスメディアは、「日本側」の主張と「韓国側」の主張とを対立させ、日本ナショナリズムを煽動している。対立しているのは、「日本側」の主張と「韓国側」の主張ではなく、客観的な歴史認識と侵略的な日本国家主義的「歴史認識」である。
 独島が、日本の領土ではないことは、「韓国の論理」でも「日本の論理」でもなく、客観的な歴史的事実である。客観的な歴史的諸事実の認識にかんして、「韓国の論理」、あるいは「日本の論理」という「区別」をすることは、問題の本質を日本ナショナリズムの枠内にとじこめることである。
 日本民衆が日本の独島再占領を許すことは、日本の過去・現在・未来の他地域・他国侵略を肯定することである。
 独島の日本再占領を許さない日本民衆の運動は、「北方四島」の日本再占領を許さない運動(アイヌモシリをアイヌ民族にとりもどす運動)とともに、日本ナショナリズムと対決し、日本のあらたな侵略の時代に対抗する民衆運動である。
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長久保赤水「改正日本輿地路程全図」について

2014年02月21日 | 個人史・地域史・世界史
■長久保赤水「改正日本輿地路程全図」の作成・出版過程
 長久保赤水(1717年12月8日~1801年8月31日)は、1774年に「日本輿地路程全図」作成し、修正を重ね、1779年に、「改正日本輿地路程全図」を出版し、さらに修正を加えて、1791年に第2版を出版した。第3版が出版されたのは長久保赤水の死後の1811年であった。
   註: 榊原和夫『地図の道 長久保赤水の日本図』(誠文堂新光社、1986年6 月)には、「改
     正日本輿地路程全図」開版開始は1775年で、初版の出版は1779年(あるいは1780年)
     であるとされている。
      長久保光明「長久保赤水の日本地図編集のあらまし」(『歴史地理学』127号、1984年)
     には、「改正日本輿地路程全図」は1779年から1871年までに7回出版されていると書か
     れており、秋岡武次郎『日本地図史』(河出書房、1955年10月)には、14種ほどの長久
     保赤水の「改正日本輿地路程全図」が挙げられている。ただし、秋岡武次郎『日本地図
     史』には、1833年版が記載されていないので、実際は少なくても15種が印行されていた
     と思われる。
      馬場章「地図の書誌学――長久保赤水『改正日本輿地路程全図』の場合」(『地図と
     絵図の政治文化史』東京大学出版会、2001年8月)では、「改正日本輿地路程全図」の
     版数は5版であると分析されており、
        「再版〔1791年の第2版〕で確立した形式は、第3版以降5版まで基本的に変化しな
        い。このことは再版こそが長久保赤水の意志に基づく「改正赤水図」の完成された
        姿であることを意味している」
     と書かれている。

■「改正日本輿地路程全図」の歴史的意味
 「改正日本輿地路程全図」には、「竹島一云磯竹島」(現、欝陵島)と「松島」(現、独島)が記載
されている。
 この2島は、1779年の初版でも1791年の第2版でも、日本は彩色されているが、朝鮮本土と同じく彩色されていない。1811年に発行された3版でも同じである。その後、長久保赤水死後10年あまりたってから出版された版では、着色されている。
 1770年代の「日本輿地路程全図」製図段階で、長久保赤水は、2島は日本に含めることができないと判断し、日本本土と同じに着色しなかったのである。
 この長久保赤水の判断・認識はどのようにして形成されたのだろうか。
 長久保赤水は、実際に2島を訪ねてそのように判断・認識したのではない。かれは歴史研究者として資料に基づいてそのように判断・認識して、それを地図で表現したのである。
 松江藩士斉藤豊仙が1667年に書いた『隠州視聴合記』に、
   「隠州在北海中故云隠岐島、従是、南至雲州美穂関三十五里、辰巳至伯州赤碕浦四十
   里、未申至石州温泉津五十八里、自子至卯、無可往地、戍亥間行二日一夜有松島、又
   一日程有竹島、俗言磯竹島多竹魚海鹿、此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然
   則日本之乾地、以此州為限矣」
と書かれている。長久保赤水は、1779年の初版制作段階でこの『隠州視聴合記』の「見高麗如自雲州望隠州」という記述をほとんどそのまま採用し、「竹島一云磯竹島」と「松島」の部分に、「見高麗猶雲州望隠州」(雲州〈出雲)から隠州〈隠岐〉を見るように高麗を見る)と記入している。
 長久保赤水は、『隠州視聴合記』の「然則日本之乾地 以此州為限矣(然らば即ち、日本の西北部は此の州〈隠岐〉を以って限界とする)という記述(日本の西北側の境界は隠岐島である)を重視し、「竹島一云磯竹島」と「松島」を日本と同じ色に着色しなかった。

■独島が日本領ではないことを示す決定的な地図
 島根県が2014年1月21日に、1790年の「蝦夷風俗人情之沙汰付図全図」と「蝦夷草紙全図」、1796年の「寛政亜細亜地図」と「日本並北方図」、1806年の「華夷一覧図」で「竹島」・「松島」が日本本土と同じ色に着色されているから、「幕府の要職も竹島を日本領と認識していた」と発表し、島根県竹島問題研究会座長の下條正男も「日本が国家として竹島を日本領と認識していた証し」であると話したが(2014年1月21日『朝日新聞』夕刊など)、これらの地図は、そのような「証し」となるものではない。
 1779年、1791年、1811年に発行された長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(初版、第2版、第3版)では、「竹島」・「松島」は朝鮮本土と同じく白色で示されている。しかし、だからといって、これらの地図を「日本が国家として竹島を朝鮮領と認識していた証し」とすることはできない。
 「日本が国家として竹島を日本領と認識していなかった証し」は、「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官指令と、「竹島外一島」(欝陵島と独島)は日本の領土ではないことを明示した(太政類典第二編)である。この根本問題の簡潔で決定的な証明は、朴炳渉「明治政府の竹島=独島認識」(島根短期大学北東アジア文化総合研究所『北東アジア文化研究』第28号、2008年10月)である。
 この1877年の日本政府の明示の根拠の一つは、江戸幕府の1836年~1837年の『朝鮮竹島渡航始末記』の付属地図であった。この地図では、竹島と松島は朝鮮本土と同じ茶色で着色されており、日本本土は着色されていない。
                                        佐藤正人
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被告熊野市の「答弁書」弾劾

2014年02月20日 | 紀州鉱山
 きょう(2月20日)午前10時に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、被告熊野市が2013年6月3日付けて津地方裁判所民事部合議1係に提出した「答弁書」にたいする抗議・批判・質問を、「準備書面」という形式で、津地方裁判所民事部合議1係に提出しました。
 その本文(全文)は、つぎのとおりです。

■原告準備書面(1)
 被告熊野市が、2013年6月3日付けて、津地方裁判所民事部合議1係に提出した「答弁書」は、被告熊野市が、本訴訟の根本問題を理解しておらず、理解しようと努力しようとしておらず、真摯かつ真剣に問題を本質的に解決しようとしていないことを示している。
 このような「答弁書」を、被告訴訟代理人弁護士倉田厳圓と星山政文ら5人の被告指定代理人の名で出すという被告熊野市の自他に不誠実な姿勢に抗議しつつ、原告は、被告の「答弁書」がいかに事実をねじまげ、真実を隠ぺいし、問題の本質をごまかそうとしているものであるのかを、以下に、質問という形式で表現する。
 この質問にたいする真面目な回答を受けたのちに、被告の「答弁書」および6月16日に被告訴訟代理人弁護士倉田厳圓の名で被告熊野市が津地方裁判所民事部合議1係に提出した「準備書面」にたいする全面的な批判をおこなう。
 被告が、すみやかに回答することを求める。

 1、「「石原産業なにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」は知らない」および  
   「「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」は知らない」について

 被告熊野市は、「答弁書」において、原告が訴状において証拠文書を添付して示している紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人死者について、「知らない」と述べている。
 しかし、原告が述べている諸事実は、被告が知らなければならないことであり、知ろうとするならば容易に直ちに知ることができることである。
 熊野市は「知らない」とのべることによって、姑息に事実を否認しようとしている。
 だが、熊野市が「知らない」と主張することができない証拠文書がある。
 旧紀和町(現、熊野市紀和町)が1993年3月に発行した『紀和町史』下巻には、紀州鉱山の朝鮮人について、
   「朝鮮人労働者については、正確な人数・募集の方法・労働条件の実態・労働災害・民
   族差別など広く資料の調査を必要とするが、現在では不明の点が多い」
と書かれている(甲第23号証)。旧紀和町も現熊野市も「広く資料の調査」を怠り続けているが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の建立にいたる歴史的諸事実は、その追悼碑の場の公共性を理解するうえで、認識しなければならないことである。
 被告熊野市は、「石原産業なにをしたのか(強制連行、強制労働の証言)」および「紀州鉱山での朝鮮人強制労働と朝鮮人死者」にかんする諸事実の追及を、いつから開始し、どのように継続し、それらの諸事実にかんする熊野市の行政責任をどのように果たしていこうとしているのか。
 被告熊野市の明快な回答を求める。

 2、「「韓国での批判・抗議行動」のうち、2012年4月3日、金昌淑韓国慶尚北道道議会議員
   が中田悦生熊野市議会議長に慶尚北道道議会議長の「親書」を手渡したことは認め、そ
   の余は知らない」について

 「その余は知らない」と被告熊野市は「答弁」し、中田悦生熊野市議会議長が金昌淑韓国慶尚北道道議会議員から親書を手渡され、同席した韓国慶尚北道道議会議員団の諸氏の発言を聞いたあと、どのような約言を紀州鉱山における朝鮮人の歴史の追及にかんしておこなったかを知らないとしている。
 この被告熊野市の「答弁」は、いつわりである。
 熊野市がこのようないつわりの言葉を取りけし、社会的に謝罪しないならば、公正な裁判は行われえない。
 中田悦生熊野市議会議長が金昌淑韓国慶尚北道道議会議員から親書を手渡されてからどのような約言をおこなったかなど、被告熊野市が「答弁」で述べている「その余」にかんする諸事実については、原告が、甲第17号証および甲第18号証などで証明している。
 被告熊野市が、原告の甲第17号証および甲第18号証などを読み、中田悦生熊野市議会議長本人に事情を聴取するならば、被告熊野市は、「その余は知らない」と弁明することはできない。
 「その余は知らない」という強弁する姿勢は、事実を追求し、事実に基づいて判断し行動するという個人としても組織としても当然のことをなそうとしない姿勢であり、極端な責任回避の姿勢である。
 知らなければならないこと、知ろうとするならば知ることができること、知っていることを「知らない」と「答弁」して済ませようとするのは、個人的にも社会的にも正義に反する行為ではないのか。
 被告熊野市の明快な回答を求める。
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紀州鉱山で亡くなった李白洛さんと千炳台さんの遺児を証人に

2014年02月18日 | 紀州鉱山
 きょう(2月18日)、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀州鉱山で亡くなった李白洛(イ ペンナク)さんの遺児李炳植(イ ビョンシク)さんと千炳台(チョン ビョンテ)さんの遺児千鳳基(チョン ポンギ)さんを証人とすることを申し入れる「証拠申立書」を津地裁民事部にだしました。
 その本文(全文)は、つぎのとおりです。 

■証拠申立書
第1 証人尋問の申出
 1 証人の表示
   1)紀州鉱山で亡くなった李白洛(イ ペンナク)さんの遺児
     李炳植(イ ビョンシク)           主尋問100分(通訳時間を含む)
   2)紀州鉱山で亡くなった千炳台(チョン ビョンテ)さんの遺児
     千鳳基(チョン ポンギ)        主尋問100分(通訳時間を含む)
 2 立証の趣旨
   1)李炳植(イ ビョンシク)
     (1)父の李白洛さんが、大韓民国慶尚北道軍威郡から日本に強制的に連行された
       事実。
     (2)父の李白洛さんが、日本に強制的に連行され、紀州鉱山で働かされたことを
       知ったことにかんする事実。
     (3)父の李白洛さんが、紀州鉱山で亡くなったことを知ったことにかんする事実。
     (4)石原産業が1946年に三重県内務部長に提出した報告書に、父の李白洛さん
       が、紀州鉱山から「慰労金」、「退職手当」、「帰国旅費」を受けとって1945
       年12月に帰国したという偽りが書かれていることにかんする事実。
     (5)熊野市紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊
       名』に、父の李白洛さんの名が記されていることにかんする事実。
     (6)慶尚北道から紀州鉱山に強制連行され、紀州鉱山で亡くなった同胞のうち、
       名前が明らかになっているのは、千炳台さんと李白洛さんのお二人だけである
       ということにかんする事実。
     (7)紀州鉱山があった日本熊野市が、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮
       人を追悼する碑の敷地に課税したことを知ったことにかんする事実。
   2)千鳳基(チョン ポンギ)
     (1)父の千炳台さんが、大韓民国慶尚北道安東郡から日本に強制的に連行された
       事実。
     (2)父の千炳台さんが、日本に強制的に連行され、紀州鉱山で働かされたことを
       知ったことにかんする事実。
     (3)父の千炳台さんが、紀州鉱山で亡くなったことを知ったことにかんする事実。
     (4)石原産業が1946年に三重県内務部長に提出した報告書に、父の千炳台さん
       が、紀州鉱山で死亡したのではなく、紀州鉱山から「逃亡」したと記載されて
       いることを知ったことにかんする事実。
     (5)熊野市紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊
       名』に、父の千炳台さんの名が記されていることにかんする事実。
     (6)石原産業が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在
       調)という「会社創業以来の物故者」の名簿に、父の千炳台さんの名が記されて
       いることを知ったことにかんする事実。
     (7)慶尚北道から紀州鉱山に強制連行され、紀州鉱山で亡くなった同胞のうち、
       名前が明らかになっているのは、千炳台さんと李白洛さんのお二人だけである
       ということにかんする事実。
     (8)紀州鉱山があった日本熊野市が、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮
       人を追悼する碑の敷地に課税したことを知ったことにかんする事実。
 3 尋問事項
   別紙1、別紙2の尋問事項記載のとおり。

別紙1
尋問事項
証人  李炳植(イ ビョンシク)  
(1)父の李白洛さんが、大韓民国慶尚北道軍威郡から日本に連行されたのは、いつか。そのとき、どのように誰によって連行されたか。
(2)その後、父の李白洛さんが、紀州鉱山で働かされていたことを知ったのは、いつか。
(3)父の李白洛さんが、紀州鉱山で亡くなったことを、いつ、どのように知ったか。
(4)父の李白洛さんが実際に亡くなったのは、いつか。その日は、韓国の戸籍簿(あるいは除籍簿)に記載されているか。
(5)紀州鉱山を経営していた石原産業が1946年に三重県内務部長に提出した報告書に、父の李白洛さんは、紀州鉱山から「慰労金」、「退職手当」、「帰国旅費」を受けとって、1945年12月24日に「終戦に依り帰国」したという虚偽が書かれているが、このことを知ったのはいつか。どのようにしてそのことを知ったか。そのときどのように思ったか。
(6)熊野市紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊名』には、父の李白洛さんの名が記されているが、このことを、いつ、どのように知ったか。
(7)軍威郡の故郷から、何人の人が日本に強制連行されたか。そのうち紀州鉱山に連行され、故郷に戻った人は何人であったか。
(8)父の李白洛さんが、日本に強制連行され、紀州鉱山で亡くなって、遺族はどのように生活したか。
(9)紀州鉱山があった日本熊野市が、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に課税したことをどのように考えているか。
                                        以上

別紙2  
尋問事項
証人  千鳳基(チョン ポンギ)
(1)父の千炳台さんが、大韓民国慶尚北道安東郡から日本に連行されたのは、いつか。そのときのどのように誰によって連行されたか。
(2)その後、父の千炳台さんが、紀州鉱山で働かされていたことを知ったのは、いつか。
(3)父の千炳台さんが、紀州鉱山で亡くなったことを、いつ、どのように知ったか。
(4)父の千炳台さんが実際に亡くなったのは、いつか。その日は、韓国の戸籍簿(あるいは除籍簿)に記載されているか。
(5)紀州鉱山を経営していた石原産業が1946年に三重県内務部長に提出した報告書に、父の千炳台さんが、1944年8月2日に、紀州鉱山から「逃亡」したと記載されているが、このことを知ったのはいつか。どのようにしてそのことを知ったか。そのときどのように思ったか。
(6)熊野市紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている『紀州鉱業所物故者霊名』には、父の千炳台さんの名が記されているが、このことを、いつ、どのように知ったか。
(7)石原産業が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』(1955年10月10日現在調)という「会社創業以来の物故者」の名簿に、父の千炳台さんの名が記されているが、このことを、いつ、どのように知ったか。
(8)安東郡の故郷から、何人の人が日本に強制連行されたか。そのうち紀州鉱山に連行され、故郷に戻った人は何人であったか。
(9)父の千炳台さんが、日本に強制連行され、紀州鉱山で亡くなって、遺族はどのように生活したか。
(10)紀州鉱山があった日本熊野市が、熊野市紀和町の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の敷地に課税したことをどのように考えているか。
                                        以上
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2月20日に対熊野市第2訴訟の裁判(口頭弁論)再開

2014年02月10日 | 紀州鉱山
 昨年7月4日に、津地裁で熊野市を被告とする対熊野市第2訴訟の第1回裁判(口頭弁論)が開かれました。裁判長は、対熊野市第1訴訟で極めて悪質な訴訟指揮をおこない、不当な判決をだした戸田彰子裁判官でした。
 開廷直後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、戸田彰子裁判長を忌避しました(このブログの2013年7月4日の「きょう津地裁で」、2013年7月5日の「開廷直後に裁判官を忌避した理由」、2013年7月8日の「裁判長忌避申立書」をみてください)。
 8月6日に、津地裁民事部の山下隼人ら3人の裁判官が、この「忌避申立」を却下したので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、直ちに、名古屋高裁に、戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する「即時抗告」をおこないました。
 この「即時抗告」を、9月4日に、名古屋高裁民事第2部の林道春裁判長ら3人の裁判官が「棄却」したので、9月26日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、最高裁に、戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する「特別抗告」をおこないました(このブログの9月26日の「戸田彰子裁判長忌避申立却下決定に対する「特別抗告理由書」」をみてください)。
 11月8日付けで最高裁判所第3小法廷の寺田逸郎裁判長、岡部喜代子裁判官、大谷剛彦裁判官、大橋正春裁判官、大内道祥裁判官が、紀州鉱山の真実を明らかにする会の「特別抗告」を「棄却」する「決定」をおこなったという「調書(通知)」が、11月10日に郵送されてきました。
 11月28日に、津地裁の書記官から、原告の一人に、「2014年1月23日に裁判を再開したい」という電話がありました。
 12月2日に、原告の一人が津地裁の書記官に電話で尋ねると、戸田彰子裁判官は、9月18日頃名古屋高裁に移動し、裁判長は、坪井宣幸裁判官になったとのことでした。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が、再開裁判の日を、2014年2月後半に設定するように求めると、12月12日に、津地裁の書記官から、「2014年2月20日午前11時半からではどうか」との問い合わせの電話があったので、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、12月17日に同意しました。
 こんどの木曜日(2月20日)午前11時半から、熊野市を被告とする対熊野市第2訴訟の2回目の裁判(口頭弁論)が開かれます。これは、実質的には対熊野市第2訴訟のはじめての裁判(口頭弁論)です。裁判官は、坪井宣幸裁判官、浅川啓裁判官、秋山沙織裁判官ら3人です。
 場所は、津地裁(三重県津市中央3−1)A館3階の302号法廷です。
 みなさんの傍聴(裁判監視)をお願いします。
                                         佐藤正人        
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海南島近現代史研究会第13回定例研究会報告

2014年02月09日 | 海南島近現代史研究会
 きょう(2月9日)、海南島近現代史研究会の13回目の定例研究会を開催しました。
 今回はこれまでの海南島における「現地調査」を踏まえて、「海南島における日本の侵略犯罪」という主題で報告と討論を行いました。
 はじめに佐藤正人さんが「帝国主義諸国の侵略犯罪史における海南島の侵略犯罪」と題して、16世紀のスペインによるインカの占領以来の帝国主義の侵略史の流れを追いながら、その虐殺によって絶滅した民族がいること、その遺骨が博物館に展示されていること、またそれ以降に行われた帝国主義諸国によるおびただしい虐殺がほとんど究明されずにいることを指摘すると同時に、そのような帝国主義諸国の侵略犯罪の歴史のなかで海南島における日本国家の住民虐殺の事実と原因を分析し、なぜ日本人がそのような虐殺をおこなったのかを解明する必要がる、と話しました。日本兵らの住民虐殺は、天皇のためにみずからが死ぬと同時に他者の殺害を正当化する日本ナショナリズムがあり、この日本ナショナリズムの構造を総合的に明らかにする必要がある、と指摘し、その究明を通して侵略責任を問うことが重要だと強調しました。
 キムチョンミさんは「海南島における住民虐殺 証言・記録・もの」と題して、侵略者の証言・記録・ものと被害者の証言・記録・ものをそれぞれ調査し、解析することによって住民虐殺の真相を究明することの重要性を話しました。侵略者が残した軍事施設(飛行場、ト―チカなど)はいまだに島の人々の農作業を妨げており、日本軍が放置した遺骨がいまだに海南島の地中に残されている。『海南警備府戦時日誌』などの日本軍の記録は住民の虐殺を「功績」として讃える記述によって否定的なかたちで虐殺の真相を語り出している。これらの加害の側の記録文書を住民の証言や住民が記録した文書とともに分析して侵略犯罪の事実を究明しなければならない、と述べました。加害者の証言にしても、記録にしても、わたしたちの会の調査活動によって、はじめて明らかにされたものが多いのです。その意味で、わたしたちの活動の意義をあらためて確認した貴重な報告でした。
 斉藤日出治は「海南島の住民虐殺と戦後日本の植民地主義」と題して、戦後日本で海南島をはじめとするアジアの民衆虐殺が隠されていることと「戦後」という日本人の歴史認識との関連を問う報告を行いました。日本の指導者は敗戦の末期に天皇制の崩壊を恐れて、「本土決戦」を回避し、「国体」を護持した。このように戦争が他律的に終わったことによって、日本人は戦争を自律的に終わらせる機会を喪失してしまい、侵略犯罪と植民地主義についてのみずからの責任に対する取り組みを放棄して、戦後日本の社会を築き上げた。今日、そのことの無自覚をアジアの民衆によって告発されると同時に、この無自覚が敗戦を否認する近年の日本の社会的風潮を生み出している、という問題提起を行いました。
 竹本昇さんは、「抗日戦士殺害を「功績」とする日本軍」と題して、私たちの会が訪問した新龍鎮新村における抗日戦士の爆死の出来事をとりあげました。日本軍の襲撃によって地下室に追い込まれた新村の抗日戦士は、外に出て日本軍と戦うならば村人に多大な犠牲をもたらすことになると判断し、戦うことを断念し爆死するという苦渋の決断を下しのですが、この爆死を横須賀第4特別陸戦隊の『戦闘詳報』は、「敵」が追いつめられて逃げられないと観念し爆死にいたった、としてその爆死を日本軍の「功績」として記録し、日本軍の「志気旺盛」を強調しているのです。新村で爆死した抗日戦士のお連れ合いの女性からその話を聴くことによって、わたしたちは日本軍の記録文書に隠された虐殺の真相にたどり着くことができました。

 その後、休憩をはさんで、参加者全員で、「帝国主義諸国の国家犯罪、とくに日本の国家犯罪をどのように認識するか」というテーマで討論しました。
 討論の焦点は、日本軍がなぜ海南島で残虐な住民虐殺をおこなったのか、なぜそのようなことができたのか、という点に当てられました。佐藤正人さんは、天皇制と日本ナショナリズムにその究極の原因がある、にもかかわらず戦後も象徴天皇制が日本国憲法に規定され、存続している。日本人は天皇の戦争責任を問わずに戦後も天皇制が存続していることに問題の根源にある、と指摘しました。また、日本ナショナリズムについては、アジアの民衆による抗日のナショナリズムと天皇制に支えられた日本ナショナリズムを区別しなければならない。また戦後における日本の国内の反戦平和の運動は、アジアにおける日本の侵略に抗する抵抗運動をみていない、ということも指摘しました。
 発言者のひとりは、日本では、日ノ丸、君が代がスポーツの祭典などで掲げられ、日常生活の中に浸透しているが、その動きに抵抗しているひとびとも、沖縄の知花昌一さんのように存在する、と語り、戦後日本に定着した日ノ丸・君が代の常識を打ち破ることができるのも、海南島の住民虐殺の事実の究明を通してなのだ、と訴えました。
 また、1921年に信濃川の東京電力の発電所に強制労働させられていた朝鮮人が殺された事件を調査している人から、その運動の紹介がありました。

 討論の後、佐藤正人さんから2013年10~11月の海南島での「現地調査」の報告が行われ、文昌市大頂村で家族が日本軍に殺されたことを涙ながらに語った魏学策さんの話が紹介されました。また「朝鮮村」の近況について、キムチョンミさんから「朝鮮村」が現在、高速道路の建設や村有地の売却問題のトラブルのなかで、朝鮮人が埋められている土地が荒れ放題になり、遺骨の破壊が進んでいる状況が報告されました。
 今回は参加者が少なかったのですが、この研究会の活動の根幹にかかわる議論がおこなわれ、またその議論が今日の日本及び世界の現状に有する意義をあらためて確認できたという意味で、きわめて貴重な研究会だったと言えます。
                                               斉藤日出治
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