三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

龍滾で

2007年01月31日 | 海南島
 1月15日朝、瓊中黎族苗族自治県吊羅山を出発し、陵水黎族自治県を通過し、万寧市南橋で聞きとりをし、夕方万寧市内に着きました。すぐに、2002年春いらいの友人である蔡徳佳さんを訪ねました。蔡徳佳さんは、数年前まで万寧市政治協商会議文史資料研究委員をしており、万寧地域の近現代史を長年研究してきた人です。
 蔡徳佳さんの紹介で、その故郷、龍滾に住む幼なじみの梁瑞居さん(1932年生)に、16日朝9時半から夕刻まで龍滾地域を案内していただきました。龍滾は、万寧市内から瓊海市内行きのバスで1時間ほどのところにあります。龍滾も万寧も、日本軍占領期には、瓊海に総司令部を置く日本海軍佐世保鎮守府第八特別陸戦隊が軍事支配しようとしていた地域でした。
 海南島中部東海岸の龍滾から西の六連嶺にいたる地域は、抗日武装部隊の活動が活発な地域でした。日本軍(佐世保鎮守府第八特別陸戦隊)は、抗日武装部隊の兵站を破壊しようとして、この地域で住民虐殺、村落破壊をくりかえしました。瓊海と万寧の中間に位置する龍滾に佐世保鎮守府第八特別陸戦隊は要塞兵舎と炮楼を建設し、要塞兵舎の近くで抗日軍兵士と想定した人たちや支援者と想定した人たちを「処刑」しました。梁瑞居さんは、その「処刑」を小学生のとき何度も目撃したといいます。
 龍滾地域を案内してもらう前に、梁瑞居さんに1時間あまり、話を聞かせてもらいました。梁瑞居さんは、つぎのように話しました。小学生のとき日本語学習を強制された梁瑞居さんは、いくつかの日本語単語をつぶやきながら、日本語を話すのは、日本軍がいなくなって以来だと言いました。
    「小学校は、いまの龍滾鎮中心小学の場所にあった。校庭に日本の旗がたっていた。毎週月曜日にそのまえに生徒全員が立たされて礼をさせられた。校長は林(はやし)と言っていたが、林時光という台湾人だった。日本語を教えていた。校長のほかに日本人教師が6人ほどいた。その中には軍人もいたようだ。生徒は600人ほど。日本語、日本の歌、軍隊式体育を教えられた。「修身」も教えられた。大東亜共栄圏……という内容だった。
    小学校を卒業してから瓊海の農業中学に通った。日本軍司令部の近くだった。その傍に白石楼という名の「妓院」があった。中国人の女性が多かったように思うが、台湾人や日本人もいた。瓊海では、日本の三井公司が百貨や布、安部幸公司が食品や水産物を扱い、畜産公司が牛や豚や鶏を処理し加工していた。わたしが中学に入った年に日本が敗北した。
    龍滾小学校から1キロほど万寧のほうに行き橋を渡ったところに日本軍の兵舎があった。そのちかくで日本軍は何人もの人を殺した。そのあとガソリンをかけて燃やしたこともあった。何回も見た。日本軍は、家族が遺体を運び出すことを禁止した。殺されるとき、中国共産党万歳と叫んだ人がいた。殺された人は、ほとんどが農民のようだった。女の人もいた。
    その場所は、山欽嶺という名だったが、解放後に光栄嶺と名づけられた。その一部分は、10年ほどまえから、パイナップルや胡椒の畑にされてしまった。いまの若い人は、むかしのことを知らないわけではないと思うが、そんなことをする者もでてきた。日本軍がいなくなってからそこに墓をつくった遺族もいた。その墓はいまも残っているかもしれない」。
 
 話を聞かせてもらったあと、梁瑞居さんに案内されて龍滾地域を回りました。龍滾鎮中心小学の横に、硬いレンガ状の石で舗装された日本軍侵略当時の旧道が残っていました。その石は、良質の建築用材で、人家を破壊してその石を敷き詰めたといいます。その近くには、漢奸の家と1個中隊、100人くらいの漢奸軍隊の宿所と2階建ての望楼があったそうです。
 日本軍龍滾守備隊駐屯地跡の周辺には、日本軍がつくらせた道路と橋げたの土台が残っていました。「要塞兵舎」を中心とし六連嶺方面に行く軍用道路を地域の人たちにつくらせ、仕事に出なかった人をみせしめに殺したといいます。
 
 光栄嶺の一部はパイナップルや胡椒の畑になっていましたが、高台の南面は草地のままになっていました。案内してくれた梁瑞居さんは、ここにはまだ犠牲者が埋められたままになっている、と言いました。
 そのあと、梁瑞居さんは、そこから5キロほど六連嶺の方に入った三品涌村の高台にわたしたちを連れていってくれました。西側の六連嶺を含め、360度がよく見えるその高台の広場には、日本軍の「要塞兵舎」があったそうです。その周辺には深さ1メートルあまりの濠の一部が残っていました。この兵舎の近くでも日本軍は捕らえた村人を「処刑」したといいます。その「場」には、ちいさな青い花が一面に咲いていました。
 六連嶺山麓にも、日本軍によって無人化された村が少なくないといいます。これから数年以内に、この地域の村をできるだけ広範囲に訪ね、日本軍の侵略犯罪を調査したいと考えています。                  佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コトバ、出会い、「立場」 

2007年01月30日 | 海南島
 1月20日から24日まで、連続5日間、毎日、海口南部地域を日帰りで訪ねましたが、そのとき、20日と21日には、姜美蘭さんに、22日と24日には林彩虹さんに、23日には金山さんに同行してもらいました。
 姜美蘭さんは、1987年に中国東北部の長春から海南島に来た朝鮮族の女性で、海南ラジオテレビ局の主席記者です。姜美蘭さんとは、2002年10月に、韓国挺身隊研究所の申栄淑さんらと共同で海南島「現地調査」をおこなったとき知り合いました。その後、姜美蘭さんとは、海南大学・海口・「朝鮮村」でのドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』上映会や、瓊海・三亜・崖県・海口などでの「現地調査」を共同でおこなってきました。
 林彩虹さんは、ことし1月16日に知り合ったばかりの海南島万寧市生まれの女性です。林彩虹さんは、漢族で、海南語と普通語を日常語としています。林彩虹さんは15歳のときに日本に「研修生」として行き、馬肉処理場で1年間、携帯電話組み立て工場で1年半、働いたそうです。仕事は日本人より厳しいのに「賃金」は3分の1で、もう二度と「研修生」としては日本に行きたくないと言っていました。
 金山さんは、中国東北部長春生まれの朝鮮族の男性で、7年間、日本の大学で「比較社会文化」を研究し、大連で日本語教師をしたあと、2005年7月に海南大学に教師として来た人です。金山さんとは、1月19日に、わたしたちが海南大学図書館との写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』共同編集・出版の打ち合わせをおこなったときにはじめて知り合いました。
 姜美蘭さんも金山さんも海南語は話せません。

 日本政府も日本軍も日本企業も侵略犯罪にかんする記録文書をほとんど公表しておらず、海南島に侵入していた旧日本軍兵士や日本企業関係者の手記もあまり発表されていません。日本が海南島でおこなった侵略犯罪を明らかにするためには、どうしても海南島の人たちから証言を聞かせてもらわなければなりません。
 海南島の人びとの話を聞きとるためには、あたりまえのことですが、語られるコトバを理解できなければなりません。海南島では、年配の人たちの多くは、海南語だけを使っており、普通語では会話はほとんどなりたちません。黎族の年配の人たちの多くは黎語だけを、苗族の年配の人たちの多くは苗語だけを話します。その人たちの話を理解するためには、海南語、黎語、苗語を知らないわたしたちは、「普通語」に通訳をしてもらわなければなりません。また、わたしたちの「普通語」の理解力はきわめて限られているので、複雑なことは「普通語」でも十分には理解できません。
わたしたちは、1月20日から24日までの5日間、姜美蘭さん、林彩虹さん、金山さんにたすけてもらいました。
 わたしたちは、1998年6月にはじめて海南島を訪れ、今回は12回目でしたが、年配の人たちから話を聞かせてもらうとき、おおくの場合、行く先ざきで傍にいる若い人たちに海南語や黎語や苗語を「普通語」に通訳してもらってきました。しかし、海南語や「普通語」を日常語としている人たちに同行してもらうと、知ることができる範囲が広がります。
 わたしたちは、はじめての土地ではじめて会う人から話を聞かせてもらうとき、最初に自分たちの目的を話します。ある瞬間、話を聞いてくれている人がわたしたちの動機を理解し、話し始めてくれます。その瞬間は、話はじめてから数十秒後のこともあるし、数分後のこともあるし、10数分後のこともあります。
 こんかい、林彩虹さんに同行してもらったときには、その瞬間は数秒後でした。それは、林彩虹さんが海南語でわたしたちのことを説明してくれたからだと思います。東山の人たちも、上雲村の人たちも、孫娘に話すように、日本軍侵略時のことを話しました。林彩虹さんは、わたしたちの質問を海南語に通訳してくれたのですが、いつのまにか、林彩虹さんの聞きとりをわたしたちが傍で聞いているという情況になりました。そのとき、わたしたちは、聞きとりという歴史認識作業の奥深さを痛感しました。証言者の心が開かれていることによって、証言の客観性とリアリティが強まるということを、再確認しました。
 1月22日の東山での聞きとりは、林彩虹さんのはじめての経験でした。帰りのバスのなかで、感想を聞くと、知らないことばかりだった、これからもっともっと知りたい、きょうはこころがいっぱいになった、と日本語まじりの漢語(「普通語」)で答えました。林彩虹さんは、記憶力が充実している10代後半に日本に2年半滞在していたのですが、「研修」という名の低賃金労働におわれて日本語の基礎学習することができなかったようです。しかし、林彩虹さんの気持ちは、わたしたちによく伝わってきました。
 1月24日の上雲村での聞きとりは、林彩虹さんの二度目の経験でした。この日、林彩虹さんは、生まれ故郷にいるかのように村人と話していました。村人が瞬時に林彩虹さんを信頼し、その林彩虹さんが信頼しているわたしたちに、村人が日本侵略時代の経験を「日本鬼子」というコトバも交えながら、心のままに話すという関係が結ばれたように思いました。
 証言を基本的な「資料」とするわたしたちの海南島近現代史研究は、林彩虹さんの協力によって次の段階にはいったように感じました。              佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大致坡で

2007年01月29日 | 海南島
 1月21日、大致坡に行きました。大致坡は三江の東南15キロ、文昌の北方30キロほどの所にある交通の要衝で、日本軍はここに要塞兵舎と炮楼を築いていました。
 2004年12月に、わたしたちは、文昌北方にあった旧日本軍譚牛飛行場跡を調査したあと、鋪前に行く途中、分岐点である大致坡に一泊したことがありましたが、そのとき、そこでは聞きとりする時間がありませんでした。それから2年後に、ようやく再訪し、邢谷京さん(1930年生)と楊許應さん(1927年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 邢谷京さんも楊許應さんも、日本軍が来たとき小学生でしたが、強制的に日本語と日本の歌を教えられたといいます。当時小学校の同窓生であったお二人は、互いに当時のことを確かめ合いながら、つぎのように話してくれました。
   “あのときの校長は、奥野だった。1~2年後に奥野がいなくなったあと、別の日本人が来た。奥野は20歳すぎで、眼鏡をかけていた。軍人ではなかったようだ。生徒は30人あまり。同窓生だった邢詒夏は医者になっていま海口にいる。学校では、日本国旗に敬礼させられた。道で日本兵に出会ったとき、ていねいにおじぎしないと殴られた。
 日本軍は、近くの大宝村、高州村、端陽山村、大連山村などで村人を殺した。一晩で23人殺したこともあった(楊許應さんが、村の名を書いてくれました)。
 日本軍は、村人に道路や炮楼や市場をつくらせた。日本軍がくるまえは、広い道はなかった。
 いまの大華中学校のところに駐屯していた日本兵は10人あまりで、日本人兵士が7~8人で、ほかに台湾人兵士、朝鮮人兵士がいた。当時は、朝鮮人のことを高麗人といっていた。日本人は木の板を履いていることもあった。
 日本軍の駐屯地の裏のほうに、‘妓院’があった。小学生だったがそこがなにをする所かは、わかっていた。10日か8日おきに、3~4人の女性が来た。
 日本軍は帰ったのではない、投降したのだ。投降した日本兵は、銃をとられ、南の文昌のほうから大致坡をとおって海口に歩いて行った。杖をついている兵士もいた"。

 旧日本軍の要塞兵舎と炮楼があった場所は、広い大致坡大華中学校の敷地になっていました。
 大致坡で生まれ育った校長の王方棟さん(1955年生)は、炮楼のあった場所に案内してくれ、炮楼の前の道は、海口~文昌間の主要道路で、望楼は1960年ころ壊した。自分が赴任してきたときには土台が残っていた、と話しました。
 大華中学校前の道路の反対側に古い市場がありました。楊許應さんによれば、これは、日本軍がつくらせた市場だとのことでした。そこから海口方向に100メートルほど行ったところに日本軍がしばしば「処刑」をおこなったという場所がありました。そこは大致坡小学校の敷地になっており、そのグランドに、当時もあったと思われる大きな樹が1本たっていました。   佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東山で

2007年01月28日 | 海南島
 1月21日朝、海口市内の中巴車站に行きました。19日から連続3日目でした。そこからバスで海楡中線をとおり、東山鎮の中心部に行きました。途中、王鎮寧さんの住む永興を通過しました。
 東山には、ちょうど1時間で着きました。小雨が降り続くなか、市場周辺を歩き、出会った年配の人にわたしたちの目的を話し、話を聞かせてもらいました。

 周瓊波さん(1923年生)は、身に付けていた袋から革命経歴書(関于要求辦理本人革命待遇的申請)をとりだしてわたしたちに見せてくれました。そして、「わたしは、東山鎮の北隣の尊譚鎮分道村で生まれた。小さかったときに父が亡くなった。姉が嫁にいったあと、兄は地下組織に入った。14歳のときから、わたしは母といっしょに毎日、日本軍のために水運びや炮楼建設をさせられた。15歳のとき、わたしも地下組織に入り、宣伝工作や連絡工作を担当した。1941年8月、分道村の道路に地雷をしかけ尊譚炮楼の日本兵2人と偽軍兵士1人を殺したことがある。遊撃隊員として、日本軍の車を9台襲撃したこともあった。屯昌、万寧、文昌、舗前など各地で戦った。各地の村人にたすけてもらったので戦いつづけることができた」と話しました。

 李愛華さん(1927年生)は、「故郷は、東山鎮潭礼村だ。農業していた。尖嶺村にいるとき、日本軍の炮楼をつくらされた。日本軍が来る前も生活は苦しかったが、恐ろしいことはなにもなかった。コメもあったし、塩もあった。日本軍は、みんな持っていってしまった。日本軍が来てからは、なにが起こるか分からず、毎日まいにちが不安だった。安心して仕事ができなかった。日本軍がいなくなったときは、ほんとうにうれしかった」と話しました。

 張玉英さんは、「故郷は、東山鎮のとなりの尊譚鎮龍湾村だ。民国17年(1928年)、12歳のときに革命に参加した。3回負傷した。1回は文昌の眼鏡橋で脚に、1回は羅京で顔に、1回は新坡で頭に。20人の隊長だった。山に入っているときの名は庄桂英だった。拳銃を武器にしていた。走るのが速かった。日本軍が追ってきても、つかまえられなかった」と話しました。

 王基華さん(1937年生)は、「東山鎮坡上村で、春節の時、男も女も着ているものを脱がされた。脱がない人は全部殴り殺された」と話しました。

 林烈安さん(1932年生)は、「わたしの村は、東山鎮高田村だ。日本軍が来で、あらゆる悪いことをやった。日本軍は、叔父を2回刺して殺した。叔母も2回刺して殺した。家も焼いた」と話しました。

 黄恒義さん(1919年生)は、「日本軍が来たとき東山鎮東渓村に住んでいた。抗日軍にはいり、1943年に通信隊長(交通站長)になった。日本軍がわたしたちを探しに故郷の村に来たとき、叔父が殺された」と話しました。

 東山鎮の中心部で話を聞かせてもらったあと、日本軍がなんども襲撃した東山鎮南山村や東山鎮儒万村を訪れようと思っていましたが、連日の雨で山道がぬかるみ、7キロほどの距離を三輪車で行くのはむずかしいといわれて、こんかいはあきらめることにしました。
 わたしたちが何人もの人から話を聞かせてもらっているとき、ずっとそばにいて見守ってくれていた人がいました。その人は、自分は東山鎮大福果村の王昭業だと名のり、こんど来たら案内すると言って、電話番号を教えてくれました。            佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸来で 2

2007年01月27日 | 海南島
 1月20日、前日に続いて咸来に行きました。バスの中では、大人も子どもも海南語で話していました。
咸来のバス終点近くの家に住んでいる陳淑霞さん(1925年生)は、こう語りました。
  「わたしは、昌江で生まれ育った。母の林慶華は共産党員だった。母の影響をうけて、わたしは抗日軍に入った。医務員として働いた。山で薬草を探して使った」。

そのあと、咸来から土橋の方にバスで4キロほど戻り、昌洽村に通じる道の入り口で降りました。小雨のなか、人家を探して30分ほど歩きましたが、なかなか人に出会えません。昌洽村は、バスの通る道からかなり離れたところにありました。日本軍が侵入したころは、密林のなかの小さな村だったと思います。
 その昌洽村を日本軍は1942年秋に数回襲撃し、その後、村内に「要塞兵舎」をつくり、そこを拠点にして抗日武装部隊の兵站をつぶそうとして周辺の村を襲撃しました。

 昌洽村で農業をしていた林克英さんは日本軍に共産党員だと思われて土橋で捕まり拷問されました。林克英さんが釈放されて家に戻ったときのことを、息子の林紹富さん(1933年生)に自宅でつぎのように話しました。
   「死んだとき、父は42歳、わたしは12歳だった。父は、半死の状態で家に戻ってきた。すごい熱で、苦しんでいた。からだが黒ずんでいた。父は日本軍に毒を注射されたと言っていた。あまり熱が高いので、父のからだに水をかけた。父は半月後に、苦しみながら死んだ。父の遺品はなにもない。父は、よく冗談をいう優しい人だった」。

 話している林紹富さんの目に涙がにじんでいました。そばにいた林紹富さんの妻、王桂花さん(1935年生)も同じ昌洽村の人で、子どものころ可愛がってくれた林克英さんが日本軍に捕まって変死したのがくやしい、と言いました。           佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

咸来で

2007年01月26日 | 海南島
 2004年12月21日、永興鎮儒東村の自宅で初めて会ったとき、王鎮寧さんは、「永興鎮の各地でも日本軍はひどいことをしたが、とくに、ここから東南30キロほどの咸来鎮の人たちは苦しめられた」と話していました。それから2年あまりたった今年1月19日に、わたしたちは、ようやく咸来に行くことができました。
 鎮人民政府(郷役所)のある咸来鎮の中心部には、海口の中巴車站から海楡東線を通り、土橋で右折して、1時間20分で着きました。この地帯は日本軍が侵入したころは密林で、細い道しかなかったそうです。なんのあてもなくバスを降り、近くにいた人たちに、当時のことを知っている人はいないか訊ねました。その人たちが、茶店に周光春さん(1924年生)と英魁原さん(1929年生)を呼んできてくれました。
 土橋で生まれ、日本軍が来たときには近くの美良郷美良村に住んでいた周光春さんは、日本軍に姉を殺されたと話しました。
 英魁原さんは、
   「わたしの家は、このすぐ近くの美村にある。祖父の弟の子(父、英文杰の叔父)が2人日本軍に殺された。その1人、英文存は、日本軍がきたときいったんは逃げたが、村の近くで山芋を掘っているとき見つかって殴り殺された。32歳だった。咸来の村には遊撃隊がいるといって日本軍はなんども襲ってきた」
と話しました。わたしたちが話を聞かせてもらっていると、おおぜいの人が集まってきて、何人ものひとが、身近な人を日本軍に殺されたと話しました。
 英文存さんが殺された美村の現場に英魁原さんに案内されて、ゴム林をとおって行きました。当時は潅木や大木に覆われていて、自生の山芋が多かったそうです。
 美村で、梁愛梅さん(1937年生)に出会いました。3才のときお母さんが日本軍に斬り殺されたそうです。お母さんは梁愛梅さんを身体で覆うようにしっかり抱きかかえ、そのため梁愛梅さんは助かったそうです。梁愛梅さんは、そのときの傷跡を見せてくれました。お母さんは、20歳だったそうです。

 咸来鎮では、いくつかの村が日本軍によって「無人村」とされてしまったそうです。陽日村は、日本軍がいなくなった後でも、戻ってくる人がおらず、いまは、バナナ畑になっているそうです。                 佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三江鎮上雲村で

2007年01月25日 | 海南島
 1月25日に海南島を離れました。その前日の24日まで、20日から連続5日間、海南島の首都海口近郊を訪ねました。

 海口市内の瓊山中巴車站(中型バスターミナル)から、郊外の曲口、演豊、龍塘、十字路、永興、遵譚、東山、石山、美安、雲龍、咸来、三門坡、譚文、甲子、大坡、蓬莱、美藍、三江、大至坡などに行くバスが、ひんぱんに出ています。この地域のほとんどで、日本軍は、住民虐殺、略奪、労働強制、暴行を行ないました。
 わたしたちは、2004年12月下旬と2006年3月に、東山行きのバスに1時間ほど乗って永興に行き、儒東村の王鎮寧さんから話を聞かせていただきました。1932年に永興で生まれ、10歳から12歳の少年時代に日本軍の道路工事で働かされたことのある王鎮寧さんは、「日軍永興地区的罪行」にかんする3編の文章(「無情砍伐 瘋狂掠奪」、「殺人放火 無悪不作」、「日寇推行奴化教育明謀的破産」)を、海南省瓊山市政協文史資料委員会編『侵略与反抗』(1995年10月)に発表しています。
 王鎮寧さんは、日本軍は、抗日武装部隊の隠れ場所をなくすることと大量の木炭を製造するために、永興地域の果樹のほとんどを伐採し、幹線道路を建設した、そのために、日本軍は、毎日、大きな村からは20~25人、小さな村からは10~15人の村びとを強制的に集めて働かせた、と話していました。永興近くの雷虎嶺山麓に、日本軍が住民に掘らせた長い洞窟が残っています。わたしたちは、王鎮寧さんに案内されてこの洞窟に2回はいってみましたが、落盤のおそれがあるので100メートルほどしか進めませんでした。これまでわたしたちが海南島で見たなかで最大の日本軍用洞窟です。この洞窟の建設過程、使用目的を今後さらに調査しなければなりません。

 こんかいも5日間、『侵略与反抗』を手がかりにして各地を歩きました。
 1月24日には、1時間バスに乗って三江に行き、そこから三輪オートバイに乗り換え、上雲村を訪ねました。海口地域では、この5日間、小雨が降り続き、土の道のあちこちに泥の水溜りがいくつもできていました。その道を40分ほど三輪車でいった所が、上雲村でした。
 呉育新さん(1933年生)は、虐殺現場で、こう話しました。
   「農暦1942年4月7日午後4時ころ、近くの竹家山村の炮楼にいた日本軍が、上雲村に来た。日本軍はそれまでにもしばしば来ていた。この日、日本軍は村人を村はずれの空き地に集め、共産軍がどこにいるかを訊ねた。村人がだれも知らないといい続けていると、とつぜん日本軍は機関銃で村人を殺し始めた。年よりも子どもも殺された。集められて村人は34人だったが、そのうち31人殺された。生き残った道扶坎は、5日前(2007年1月20日)に死んだ。もうすこし早くくれば会えたのだが。わたしは、隣の福山村に逃げて助かった。日本軍は、家を燃やした。日本軍に襲われたあと8年間、わたしの村は“無人村”になった」。

 話し終わった呉育新さんは、虐殺現場から50メートルほど離れた所にある犠牲者の墓地に案内してくれました。そこには、親族がいなくなった犠牲者の墓がいくつもありましたが、潅木に覆われていました。
 上雲村には、いまも、日本軍に焼かれた家の跡が、何か所もありました。そこは空き地になっており、当時の家の土台石や石の柱が残されていました。
 突然訪れたわたしたちに、自宅の前で、馮所福さん(1922年生)は、こう話しました。穏やかな表情で、ひとりごとを言うように。
   「わたしの家は7人家族だったが、あの日、母と2人の妹と弟が殺された。母は55歳、妹は12歳と11歳、弟は7歳だった。そのあと父も殺された。日本軍が来てから生きていくのが難しくなった。つらかった。食べるものがなかった」。
 そばで、妻の陳愛梅さん(1932年生)は、
  「わたしの村は、厚大村。日本軍は、わたしの村にもなんども来た。来るたびにみんな逃げた。日本兵は、ズボンをはいていなかった。白いきれで腰をまいていた。鼻の下に髭をつけているのが多かった。日本兵は何でも焼いた。コメや牛や鶏やマンゴーや、なんでも盗っていった。日本軍が来るまえはよかった。腹をすかすことはなかった」
と話しました。
 わたしたちが、村を離れようとするとき、陳愛梅さんは、いますぐコメを炊くから食べていきなさい、と言ってくれました。

 上雲村虐殺をおこなった日本軍の炮楼があったと呉育新さんが証言した竹家山村に行きました。竹家山村は、上雲村から5キロほど離れた所にありました。日本軍の炮楼があったという場所は、バナナ畑になっていました。
竹家山村で生まれ育った呉女英さん(1922年生)によると、炮楼の高さは10メートルほどで、1階部分に日本軍の宿所があり、日本兵が10人あまりいつもいたそうです。呉女英さんは、自宅の近くで、
   「日本兵に洗濯をさせられた。料理をつくらされたこともあった。水も運ばされた。しないと殴られた。お金はもらったことはない。日本軍がきて村人に炮楼をつくらせたのは1941年だった」
と話しました。そばにいた梁秀鳳さん(1925年生)は、「わたしは、日本兵に洗濯をさせられたことはない」と言って、それ以上は話そうとしませんでした。        佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南橋で

2007年01月18日 | 海南島
 1月16日に、苗族の人たちが故郷の吊羅山脈地帯の村から強制連行され強制労働させられたという南橋を訪ねました。海南島は行政区画がなんども変わり、いまは、万寧市に属しています。5年ほどまえの地図には、南橋黎族郷と書かれていますが、最近の地図では南橋郷となっています。
 吊羅山郷から南橋に行くにはいったん陵水に行き、バスを万寧行きに乗りかえなければなりません。1日に2本しかないバスで陵水に向かいました。舗装されていない道を2時間ほど行くと、保亭から陵水に通じる広い道にでます。この道を右に20分ほど行くと「海南島戦時性暴力被害訴訟」原告の陳亜扁さんが住んでいる祖関です。バスは左に曲がって陵水方向へ。
 
 南橋鎮田公村で黄南楠さん(1925年生)は、こう話しました。
   「明け方、わたしは炊事のしたくをしていた。鶏の鳴き声がおかしかった。まもなく、日本兵が村にはいってきた。わたしの家にもやってきて、母(高門)と妹(黄公妹)を刀で殺した。母は45歳、妹は12歳だった。
 わたしも日本刀で切りつけられたが、家の門の柱(木の柱)の陰に避けた。命はたすかったが、首の左側を切られた。くびから噴出してくる血を手でおさえながら逃げた。
 いまは無くなったが村の名は、貢挙坡。小さな村だった。逃げ遅れた村人9人が殺された。5人が女、4人が男だった。1944年6月だった。日本兵は40人くらい来たと思う。こわかったので数ははっきりわからない。日本軍が村を襲ったのは、村人が日本軍の命令するように働かないからだということのようだった。
 このあたりにはわたしたち黎族がむかしから住んでいたが、日本の武田公社と早川公社が農場をつくってわたしたちを働かせた。仕事にいかなかったり、おくれていったりすると殴られた。軍服を着た日本兵が監督していた。公社の日本人はほとんど見かけなかった。農場では、パイナップルや砂糖キビを植えていた」。

 黄南楠さんは、家の入り口の柱のかげに行き、このようにして避けたのだと説明してくれました。黄南楠さんの首には、いまもおおきな傷跡が残っていました。命にかかわる重傷だったと思います。

林邊楠さん(1919年生)さんは、
    「武田農場で働いていたのは、1000人くらいだった。この周辺の人がおおかった。わたしも働かされ、塩をもらった。金はくれなかった。高龍村に日本軍の望楼があった。黄南楠さんと同じ村に住んでいたが、日本軍が来たとき家族はみんなすぐ逃げてたすかった。武田公社の農場では、ほかのところから来た人は見なかった。みんなこの近くの人だった。農場は広かったから、遠くからつれてこられた人は、別のところにいたかもしれない」
と話しました。

 ふたりの女性は、ときにお互いに記憶を確かめ合いながら、ほんとうに静かに話してくれました。近所に住む林鴻改さん(1952年生)が、海南語を普通語に通訳してくれました。聞きとりするとき、このように助けてもらうのですが、そのとき通訳してくれる人は、どこの村でも、老人たちの証言を熱心に解析してくれます。
 吊羅山でも聞いた武田公社の名を、ここでも聞きました。海南島侵略日本企業にかんする日本外務省資料のなかに武田薬品工業株式会社の名があります。
 
 異なる地域で話を聞かせてもらうと、日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪が、海南島各地で、同じ「かたち」で行なわれていたことがわかります。日本軍は、軍用道路、飛行場、要塞兵舎などをつくらせるためだけでなく、住民の土地を奪ってつくった日本企業の農場で働かさせるために、村の住民を強制労働させ、それに従おうとしない村民をときに殺しました。
 その事実を、わたしたちは、これまで海南島の100か所あまりの村で、おおくの人から証言を聞くことによって確認しました。このような侵略犯罪は、日本政府・日本軍・日本企業の文書には記録されていません。             佐藤正人

     明日から、海南島を離れる25日まで、接続しにくくなります。
     このブログでの海南島からの報告は、これで終わります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五指山地域で

2007年01月17日 | 海南島
 1月13日から17日まで、海南島中央部の五指山地域から東海岸の龍滾まで、バスと三輪オートバイなどで回りました。
 五指山北方の瓊中黎族苗族自治県毛陽から西に2キロほどのところに、「瓊崖縦隊司令部旧址」がありました。
 そこには瓊崖縦隊司令部の建物群があり、馮白駒司令官の宿所前には「馮白駒読書石」が置かれていました。これらは、2000年ころに新設されたもので、瓊崖縦隊司令部はこの場所には実在していなかったようです。附近に住む70歳代の人に話を聞かせてもらいましたが、抗日遊撃隊の司令部については語られませんでした。

 五指山東方に吊羅山脈があります。日本軍はこの山地にも部分的に侵入し、住民のそれまでの生活を破壊しました。
 いま、吊羅山郷人民政府(郷役所)がおかれている吊羅山郷の中心部には、黎族と苗族がそれぞれ別個に住んでいます。
 14日に、吊羅山郷の苗族の村を訪ねました。村の入り口に、キリスト教会があって、女性たちが賛美歌を歌っていました。この日は日曜日でした。
 この村で、たくさんの人に話を聞かせてもらいました。苗語を、中学三年生の盧暁琴さんと麗晶さんに漢語に訳してもらいました。学校では苗語は教えないが、この村では、ふだん苗語をつかっているそうです。
 陳志忠さん(1933年生)は、つぎのように話しました。
    「むかしは、ここから20キロほど離れた吊羅山村に住んでいた。日本兵がたくさん村にはいって来て、村人100人あまりをむりやり南橋につれていった。男も女も子どもも。
 つかまってから南橋まで2日間、歩かされた。家族ぐるみで。
 日本の武田公司で働かされた。日本兵につかまって日本の会社で働かされたのだ。毎月10元ほどもらった。軍事手票だった。日本軍がいなくなったら、なんの価値もなくなった。
 南橋で、日本兵が、共産党だといって男の人の首を切って殺すのを見た。その人は30歳くらいで、ボロボロの服を着ていた。
 酒に酔った日本兵が女性に乱暴した。吊羅山村の女性がふたり南橋から陵水につれていかれた。一人は日本兵の子どもを妊娠したが、腹を日本兵にふみつけられて死産した。そのあと南橋にもどされてきた。その人の名は、○○○。いま、陵水の○○村で暮らしている。わたしの親戚だ」。
 曾治启さん(1934年生)は、
   「南茂に住んでいたが、日本軍が来たので山の中に逃げた。食べ物がなかった。しばらくして、ときどき山を降り、食べ物をもらって食べることもあった。
昔のことをあまり聞かないでほしい。つらかったことを思い出さなければならないから」
といいました。
 そばにいた、陳芙香さんは、
    「日本軍が来たので、山の中に逃げた。子どもだったので、ときどき山をおりて、きゅうりなどをもって1日あるいて陵水まで行き、道端で売って、帰りに塩を買って戻った。陵水には日本兵がたくさんいた。恐ろしかった」
と話しました。
 姉ふたりが日本兵に殺されたという陳金花さん(1935年生)は、「子どもだったので、殺された理由はわからない」といいました。
 李玉金さん(1927年生)は、
   「陵水につれていかれて働かされた。日本兵が人を殺すところを見た。わらを切って日本軍の馬の餌にする仕事もやらされたことがある。鼻の下に髭をはやした日本兵がおおかった。怖がらせるためか、軍刀を抜いて見せる日本兵もいた。仕事をしないといって叩いた。竹の棒で」
と話しました。
 陳秀深さん(1933年生)は、
    「子どものとき、逃げようとして日本兵に銃で撃たれた。2発撃たれた。あごと右肩。2発とも弾が突き抜けた。口と肩から血がふきだした。いまも傷跡が残っている(傷跡を見せてもらった)。それからずっといまも口を大きくあけられないので、うまくしゃべれない」
と話しました。
 陳秀深さんの連れ合いの姉、桂春さん(1934年生)は
   「子どもだったけれど、日本兵に殴られたこと。9歳のとき、4人の子どもを残して、両親が働かされすぎて死んだ。兄は12歳、妹は7歳、弟は6歳だった。日本軍がこなければ、家族がいっしょに安心してくらしていけたのに」
と話しました。
 陳桂瓊さん(1950生)に案内されてその母の春英(83歳、1921年生)さんの家に行きました。陳桂瓊さんは、子どものころ両親から日本軍が来たころの話をよく聞いたといいます。陳金花さんは穏やかな表情で座っていましたが、自分からはあまり話そうとしませんでした。陳桂瓊さんが陳金花さんの話をおぎなって、日本軍が来てからの陳金花さんの家族のことを次のように話しました。
    “家族全員が、日本軍に陵水に連れて行かされ働かされた。父は病気がちになり、働かないといって殴られて殺された。母もまもなく病死し、弟も7歳の時に餓死した。わたしは、父の弟に面倒をみてもらった」。
 
 聞きとりを重ねれば重ねるほど、聞きたいこと、学ばなければならないこと、考えなければならないことがおおくなってきます。ひとりの人が日本侵略期の6年半に体験したことをしっかり聞かせてもらうためには、何日も何十日もの時間があってもこれでいいということがないのでしょう。
 それなのに、とつぜんある村を訪問して、その日のうちに何人もの人に話を聞かせてもらうようなことを、「朝鮮村」や回新村などいくつかの村は別として、これまでくり返してきました。  
 そのことを反省しながら、こんども同じことをしてしまいました。
 しっかり話を聞かせてもらいたいという考えと、いまのうちにできるだけ多くの人から歴史の証言を聞きとっておきたいという考えは、矛盾してはいないでしょう。このふたつの考え(願い)をともに満たす方法を探し当てたいと思います。 佐藤正人
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モノ・「場」・証言

2007年01月12日 | 海南島
 アジア太平洋の各地と同じように、海南島にも、日本政府・日本軍・日本企業の侵略の跡が、「場」として残されています。
 それは、軍事的には、住民虐殺・「処刑」・村落破壊がおこなわれた村や「無人村」、日本軍司令部、飛行場、要塞兵舎、特攻艇基地、望楼、砲台、トーチカ、火薬庫、給水塔、日本軍用井戸、軍用倉庫、軍用洞窟、日本軍関係碑、日本兵墓石などであり、軍事・経済的には、鉱山、「万人坑」、発電所、ダム、港湾、道路、橋梁、鉄道、新建設都市、精糖工場、日本人武装農民侵入地、森林鉄道(森林破壊・樹木略奪の跡をふくむ)、アヘン栽培地、強制連行・労働強制地などであり、軍事・政治的には、海南島侵略行政機関(外務省、海軍省、陸軍省による三省連絡会議など)の建物、「治安維持会」の建物などであり、軍事・社会的には、「慰安所」などであり、軍事・文化的には、日本語学校などです。
 「軍票」や「良民証」などの移動しうるモノも、「場」のなかでその役割を分析しなければならないと思います。

 海南島における日本の侵略犯罪である「朝鮮村虐殺」の事実を、直接的に示す日本政府・日本軍の文書は、公表されていません。虐殺をおこなった日本軍兵士、朝鮮総督府刑務官らは、沈黙したままです。「朝鮮村虐殺」は、「朝鮮村」とその周辺の村人の証言と犠牲者の遺骨が示しています。遺骨はモノですが、わたしたちは、「朝鮮村」の遺骨は、犠牲者が遺骨となって証言していると感じています。
 2001年1月の「朝鮮村発掘」は、証拠の破壊でした。わたしたちは、虐殺現場で、遺骨というモノを発掘するのではなく、「朝鮮村虐殺」という事実を「発掘」するのだと考えています。そのためには、虐殺の「場」での科学的な「朝鮮村発掘」が、必要です。
 科学的な発掘とは、「場」からモノを切りはなしてとりだすのではなく、「場」とモノとの関係を解き明かし、その「場」でおこなわれたことがらを可能な限り再構成(再現)することだと思います。わたしたちが、現代史認識・現代史叙述における考古学の意味と方法を模索している考古学者とともにおこなった、昨年5月2日の「朝鮮村試掘」は、そのような「発掘」の第1歩でした。

 証拠が、モノとしても「場」としても残されていない侵略犯罪・戦争犯罪もあります。放火、暴行、略奪、「慰安所」以外での性的暴行、「ヒノマル」・「キミガヨ」おしつけ、天皇賛美強制……は、ほとんどモノや「場」としては残されておらず、証言だけが基本証拠です。
 また、モノや「場」も、証言なしには、単なるモノであり風景です。たとえば、飛行場が既耕地をつぶし家屋を破壊し住民を追放して建設された事実は、モノや「場」を見るだけでは知ることができません。モノや「場」は、語らないのですから、幸存者・被害者・目撃者の証言が重要です。
 証言を聞きとり、記録し、映像や声や文書として保存し、証言内容を伝えていくことは、国民国家日本の侵略犯罪・戦争犯罪にかんする諸事実を歴史から消し去らないためにどうしても必要な作業だと思います。
 この作業は、日本政府が行なうべきことなのですが、これまで、個人あるいは小さな民衆組織(日本国家の謝罪・賠償を求める訴訟の弁護団をふくむ)によって行なわれてきました。これからも、そうでしょう。
 残されている時間があまりおおくないこの作業を、さらにおおくのみなさんとともに、急ぎつつ持久的に進めていきたいと思っています。      佐藤正人

   明日から山地に入るので、接続できなくなります。
   このブログでの海南島からの報告を、しばらく中断します。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする