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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

アボヂの魂を自由にするたたかい 2

2010年06月30日 | 個人史・地域史・世界史
■戦死者名簿確認
 アボヂの死亡を文書で最初に確認したのは、1992年である。
 その時ようやく見つけた資料は、『被徴用死亡者連名簿(旧日本陸軍在籍)』である。
 『被徴用死亡者連名簿』で確認した内容は、1945年6月11日、広西省全県180兵站病院で死亡したという簡単な記録であった。そして、死亡区分に、‘戦傷死’、すなわち、戦闘中の負傷で死亡したというあまりにも短い説明があっただけだった。
 アボヂが軍属として、どのようにして一体なぜ中国広西省まで行き、どうして戦闘中に負傷し、どれほど負傷して、さびしく病院で亡くなったのか、知ることができなかった。
 アボヂについての二番目の記録は、1997年、『留守名簿』という文書の中で探すことができた。この資料は、1993年10月、日本政府から渡された243992名分の『留守名簿』であった。
 『支那派遣軍第6方面軍第11軍隷下部隊留守名簿(其二)』という題のこの文書で、やはりアボヂ‘リサヒョン’は、1945年6月11日に死亡したという事実を確認することができた。

■合祀そして供託金
 この文書では、二つの事実を追加確認した。一つは、アボヂの名前の上に押されている‘合祀済’という印鑑の意味であり、二番目は ‘供42524’という番号の意味である。
 この資料はすべて日本帝国主義時代に作成された文書であり、誰もその内容と意味を知らなかった。これが何を意味するかを教えてくれたのは、日本で韓国人強制動員被害者裁判支援活動をしてきた日本人市民活動家と弁護士たちだった。
 彼らが、‘合祀済’という印鑑は、わたしのアボヂの魂が、靖国神社に、日本が遂行した侵略戦争を美化し、守護する戦争神として合祀されたという事実の証拠だと、わたしに教えてくれた。
 靖国神社は、戦争で‘日本天皇のために命を捧げた人びとを追悼するための施設’として知られているが、靖国神社にはじっさいに遺骨が置かれているのではなく、戦死者名簿が登録されている。侵略戦争を挑発したA級戦犯たちと一緒に、強制で彼らの戦争に駆り出され死んだ朝鮮人軍人・軍属犠牲者たちも、無断で靖国の神としてまつられているというのだ。これをさして、‘靖国神社に合祀’されているという。
 そして、‘供42524’という番号は、未払い給与が日本政府に供託されていることをしめす登録番号であった。
 朝鮮人強制動員被害者たちは、日帝によって戦地に行かされたり、企業で強制労動させられながら、相当数が給与を受けとることができなかった。朝鮮人が受けとることができなかった未払い賃金は、当時の金額でも相当にのぼると推定され、こうした金は、とうぜん本人や犠牲者の遺家族に支給されなければならない。
 しかし敗戦後に日本は、未払い賃金がいくら残っているのか、何らの通知もせず、一方的に供託させた。
 こうした未払い賃金の供託記録は、軍人・軍属のばあい、日本厚生労動省を通じて確認することができる。そして労務者のばあいは、日本法務省を通じて確認することができる。
 わたしがアボヂ名義の供託金を確認したのは、1999年6月だった。
 『留守名簿』に記載された‘供42524’という番号で照会した結果、日本厚生省援護局業務第一課長から、
     「照会があった李思氏に関連し……つぎのとおりお知らせします。
        供託場所  東京法務局
        供託年月日 1953年6月1日
        供託番号  1953年度特金第3号
        供託金額  金1480円
        供託種類  未支給給与金」
という回答が来た。

 このような未払い賃金を返却せよといういくつもの訴訟が提訴されたが、日本政府は、1965年に締結した「大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」(韓日請求権協定)と国内措置法(法律第144号)によって権利が消滅したという主張で一貫している。
 こうして、確認した事実をもとに、2001年、ついに日本政府を相手にしたたたかいを本格的に始めた。
 2001年6月29日、韓国人軍人・軍属生存者と遺族 252人が、日本政府を相手に、‘靖国神社合祀取下げ、遺骨返還、損害賠償請求’訴訟を東京地方裁判所に提起した。
 そして、2003年6月12日、軍人・軍属生存者と遺族 164人が2次原告で訴訟に参加した。
                                                イ ヒジャ
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アボヂの魂を自由にするたたかい 1

2010年06月29日 | 個人史・地域史・世界史
 太平洋戦争被害者補償推進協議会のイ ヒジャ(李煕子)さんが8月21日の遺族の証言を聞くつどい(戻らなかったアボヂ)と8月22日の海南島近現代史研究会第4回総会で話をしてくれます。
 以下に、海南島近現代史研究会『会報』第2号(2009年2月10日発行)に掲載されたイ ヒジャさんの「ヤスクニに閉じこめられているアボヂの魂を自由にするたたかい」(キ ムチョンミ訳)を5回にわけて連載します。

■■ヤスクニに閉じこめられているアボヂの魂を自由にするたたかい■■
        日帝強占期強制動員被害者活動             
        アボヂの痕跡を探し求める
        戦死者名簿確認
        合祀そして供託金
        これほど詳細だとは……
        「日帝強占下強制動員被害真相糾明等にかんする特別法」制定
        国会議員会館での真相糾明特別法公聴会のようす
        被害者支援がこのように遅れた理由
        靖国無断合祀反対運動

■日帝強占期強制動員被害者活動
 1944年2月15日、「国民徴用令」によって京畿道江華郡松海面卒丁里519番地の自宅からアボヂ、イ サヒョン(李思)は、戦場に連行された。その後、アボヂは戻ってこなかった。
そのときわたしは一歳を過ぎたばかりで、その後、生涯アボヂを想いつつ生きてきた。
 生き別れたアボヂを探すために、1989年から、韓国の強制動員被害者団体で活動をはじめた。そして、わたしのような被害者たちとともに活動してきた歳月が、いつのまにか20年になった。
 アボヂの記録を探すために、他の被害者たちの強制動員の事実を究明するために、日本政府に謝罪と補償をさせるために、努力してきたが、ようやく手に入れた成果におとらず、挫折の瞬間が多かったのも事実である。
 なぜ被害者が、植民地から解放されて60年が過ぎたいま、じぶんの古い過去の被害をみずから解明しなければならないのかを話そうと思う。

■アボヂの痕跡を探し求める
 朝鮮人は、「募集」、「官斡旋」、「徴用」の方法で、労務者や勤労挺身隊として強制動員されたり、さらには、軍人、軍属、日本軍慰安婦として、日本と海外各地に連行された。
 日帝によって強制動員されたという被害の事実を立証するためには、日本政府のみならず、日本企業が保有している資料、海外に散在している関連記録を収集、整理しなければ、正確な根拠を確認することができない。
 日帝によって強制動員された人数がどれほどなのか、何人死んだのか、いまだ、その全体的な規模については正確に知ることができない。強制動員された人たちの名前を確認することができる名簿が部分的に国内に入りはじめたのは、日本政府が『被徴用死亡者名簿』を最初に韓国政府に引き渡した1971年だった。
 そして、日本政府は、間歇的に、1991~1993年に約47万名の名簿を引き渡したが、これもきわめて部分的な資料に過ぎない。
李承晩政権時代に作成された『倭政時被徴用者名簿』と、独立紀念館や民間で保有している名簿など82万名分の資料は、国家記録院でデータ化し、ホームページを通じて照会することができる。
 国家記録院が日本政府から引き渡され保管している日帝下被徴用・徴兵朝鮮人名簿は、つぎのものである。

   引き渡し年月   種類          人数
   1971年10月   軍人、軍属戦死者名簿  21,699人
   1991年3月   被徴用者(労務者)名簿  90,804人
   1992年12月   被徴用者(労務者)名簿  17,107人
   1993年10月   軍人、軍属名簿     243,992人分(1971年引渡し分と重複)
                                                  イ ヒジャ
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戻らなかったアボヂ 2

2010年06月28日 | 集会
 きょう(6月28日)、太平洋戦争被害者補償推進協議会の事務所で、太平洋戦争被害者補償推進協議会、紀州鉱山の真実を明らかにする会、海南島近現代史研究会の三者が会議をもち、「韓国併合」から100年後のことし8月21日に大阪で開く遺族の証言を聞くつどい(戻らなかったアボヂ)を共同で主催し、ハン グァンス(韓光洙)さんとイ ヒヂャ(李煕子)さんの証言にかかわる小冊子を編集して当日発行することを決めました。
 また、韓国の東アジア歴史財団が後援することになりました。
 このブログに6月24日に掲載した「戻らなかったアボヂ 1」を見てください。
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朝鮮軍人自営隊 3

2010年06月27日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 鄭明出さんが、海南島から持ちかえって保管していた朝鮮軍人自営隊の名簿には、51人の隊員の氏名、生年月日、故郷の住所、戸主の氏名などが記載されています。
 朝鮮軍人自営隊は、横須賀鎮守府第4特別陸戦隊に所属させられていた朝鮮軍人が日本敗戦後に結成した組織ですが、その多くは、黄流地域の日本軍守備隊に所属させられていた人たちだったそうです。横須賀鎮守府第4特別陸戦隊の本部は北黎にありましたが、そこに所属させられていた朝鮮軍人は鄭明出さん1人だけだったとそうです。
 6月25日に鄭明出さんが唱ってくれた朝鮮軍人自営隊の歌は、隊長の金吉俊さんが作詞したものだそうです。金吉俊さんは咸鏡南道端川の人で、いろいろなことをよく知っている人で、英語も知っていたそうです。
 赤青黒の三色で大極旗が書かれ、そのそばに黒色で「海南島南区韓籍軍人 Korean」、その下に「鄭明出 MyengChul Jyeng」と書かれた小さな布を鄭明出さんは海南島から持ちかえっていましたが、この英語は金吉俊さんが教えてくれたものだとのこことでした。海南島から釜山に上陸した朝鮮軍人自営隊の人たちは、そこで別れ、鄭明出さんは、金吉俊さんと二度と会うことはなかったそうです。
                                    佐藤正人
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海南島近現代史研究会 第4回総会・第6回定例研究会

2010年06月26日 | 海南島近現代史研究会
海南島近現代史研究会の第4回総会・第6回定例研究会を開きます。
みなさんの参加をお待ちしています。

と き:2010年8月22日(日)13時~17時半(開場12時)
ところ:大阪人権博物館(リバティおおさか)研修室
         JR環状線「芦原橋駅」下車、南へ約600メートル
参加費:500円(会員は無料です)

主題:「朝鮮報国隊」の真相糾明
■証言1 アボヂは海南島から戻らなかった       ハン グァンス(韓光洙)
     韓錫さんは、1943年ころ「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に連行され、1944年2月に、海南島南東部の陵水
    で亡くなりました。妻の李康姫さんが受けとった箱には、小さな骨が入っていたそうです。韓錫さんの息子さんの
    韓光洙さんから、話を聞かせてもらいます。

■証言2 アボヂの魂を自由にするたたかい       イ ヒジャ(李煕子)
     「ヤスクニ」に「合祀」されている朝鮮人の魂をとりもどす闘いを続けている李煕子さんのアボヂ李思さんは、
    1944年2月15日、日本軍に入れられ、中国広西省柳江県で銃撃を受け1945年6月に亡くなりました。
    李煕子さんがそのことを知ったのは1997年でした。

■報告 「朝鮮報国隊」と朝鮮自営隊について      キム チョンミ(金静美)
     日本海軍の要請と日本政府の閣議決定に基づいて、朝鮮総督府は、朝鮮各地刑務所の獄中者を選び「朝鮮報
    国隊」を組織し、1943年春から、2000人を海南島に送り出しました。そのほとんどが、海南島で命を失わされま
    した。日本敗戦後、日本軍に入れられ海南島西南部にいた朝鮮人は、朝鮮自営隊を結成しました。

【研究報告Ⅰ】 1939年2月、マスメディアは海南島侵略をいかに報道したか 4   竹本昇

【研究報告Ⅱ】 海南島の「Y作戦」と住民虐殺 日本のアジア侵略の構図      斉藤日出治

【研究報告Ⅲ】 「海南島第十六警備隊能美事件」と「朝鮮村虐殺」について      佐藤正人
     「朝鮮村虐殺」をおこなった海南警備府第十六警備隊(司令官:能美実)が、その犯罪の責任を追究されることは
    ありませんでしたが、能美実は、アメリカ合州国軍捕虜殺害事件では、横浜裁判で終身刑を宣告されました。

■2010年5月の海南島「現地調査」報告 梅種村、美桃村、海尾村、保平村、傳桂村、玉仙村で
■海南省民族学会、海南民間抗戦研究会準備会との共同研究・共同調査について
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朝鮮軍人自営隊 2

2010年06月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
 きょう(6月25日)、慶尚北道慶州市南面の老人会館と自宅で、鄭明出さんに話を聞かせてもらいました。鄭明出さんにはじめて会ったのは、4月26日でした。このとき、3時間近くもの長い間話を聞かせてもらいましたが、まだまだ、おたずねしたいことがあり、再訪しました。このブログに5月1日に書きこんだ「朝鮮軍人自営隊 1」を見てください。
 南面の老人会館の前には、旧日本軍の倉庫がありました。日本軍はここにもみを貯蔵し、牛車で運び出させていたそうです。
 1925年11月に、南面で生まれた鄭明出さんは、いま84歳ですが、記憶が鮮明で、いくら話を聞いても聞きつくすことができません。しかし、あまり長時間にわたるのは遠慮しなくてはなりません。
 鄭明出さんは、20歳のころ海南島で歌った朝鮮軍人自営隊歌を歌ってくれました。しかし、歌いはじめてまもなく、鄭明出さんは涙をうかべ、声をつまらせ、最後まで歌うことができませんでした。
                                              佐藤正人
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戻らなかったアボヂ 1

2010年06月24日 | 集会
  ■戻らなかったアボヂ■
     「韓国併合」から100年 遺族の証言を聞くつどい

   と き:2010年8月21日(土) 13時~17時(開場12時半)
   ところ:大阪産業大学 梅田サテライト・レクチャーA室(大阪駅前第三ビル19階)
   参加費(資料代): 500円
       【主催】 紀州鉱山の真実を明らかにする会
            海南島近現代史研究会
       【後援】 太平洋戦争被害者補償推進協議会(韓国)
       【協力】 在韓軍人軍属裁判を支援する会
            同胞保護者連絡会(大阪)
            東大阪民族講師会・民族教育をすすめる連絡会
            コリアン・マイノリティ研究会

■アボヂは海南島で死んだ            ハン グァンス(韓光洙)さん
 日本政府の閣議決定にもとづいて、1943年~44年に、朝鮮総督府は、朝鮮各地刑務所の獄中者を選んで「朝鮮報国隊」に入れ、2000人を海南島に強制連行しました。「朝鮮報国隊」の人たちは、周囲から隔離され、強制的に飛行場や道路を作らされたり、鉱山などで働かされました。生き残った人たちは、1945年夏に、「朝鮮村」で虐殺されました。「朝鮮村」には、いまも数百体の遺骨が埋められています。
 韓光洙さんの父、韓錫さんは、海南島南東部の陵水に連行され、1944年2月に亡くなりました。妻の李康姫さんが受けとった箱には、小さな骨が入っていたそうです。
 韓錫さんの古い戸籍簿には、
     「1944年弐月拾七日午後五時海南島陵水朝鮮報国隊ニ於テ死亡京城刑務所長朝鮮総督府典獄渡邉豊通報
    同年参月参拾壱日受付」(原文は元号使用)
と日本語で書かれています。

■アボヂを「ヤスクニ」からとりもどすたたかい   イ ヒヂャ(李煕子)さん 太平洋戦争被害者補償推進協議会共同代表
 1944年2月15日、「国民徴用令」によって江華島の自宅からアボヂ李思は、戦場に連行された。そのときわたしは一歳を過ぎたばかりだった。
 1992年にわたしは、はじめて、アボヂの死亡を『被徴用死亡者連名簿(旧日本陸軍在籍)』で確認した。さらに、その時ようやく見つけた資料は、『被徴用死亡者連名簿(旧日本陸軍在籍)』である。アボヂは、軍属として1945年6月11日に中国の広西省全県180兵站病院で死亡していた。
 1997年にようやくみることができた『支那派遣軍第6方面軍第11軍隷下部隊留守名簿(其二)』にもアボヂの名があったが、そこには、‘合祀済’という印鑑が押されてあった。アボヂは、日本人戦犯たちと一緒に、‘靖国神社に合祀’されていたのだ。2003年に、アボヂの死にかんする真実にもう一歩ちかづく資料『兵籍戦時名簿』を発見した。
 「ヤスクニ」には、いまも、2万1000人を越える韓国人と2万8000人を越える台湾人が、「強制合祀」されている。

     連絡先 紀州鉱山の真実を明らかにする会    http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/
                  和歌山県海南市日方1168 キム チョンミ方
          海南島近現代史研究会  http://www.hainanshi.org/
                  大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室
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「グングン裁判」と「朝鮮村」

2010年06月23日 | 「朝鮮報国隊」
 以下は、在韓軍人軍属裁判を支援する会ニュースレター『未来への架け橋』19号(2003年4月26日発行)に掲載された文章です。  http://www.gun-gun.jp/sub/news/news19.htm

■「グングン裁判」と「朝鮮村」
 靖国合祀取り消し、遺骨返還、未払い給与返還などを求める「グングン裁判」を、わたしは、今年1月にはじめて傍聴しました。そのとき、原告 呂明煥さんの「自分が死ぬ前に、父の遺骨を返せ」という声を聞いて、わたしは、「朝鮮村」に埋められている多くの朝鮮人の遺族も同じ思いで長い間生きてこられたのだと感じました。
 「朝鮮村」は、海南島南部の三亜市の郊外の村ですが、日本の敗戦が迫ったころ、そこで強制労働させられていた朝鮮人が1000人近く、日本海軍海南島第16警備隊の兵士たちによって虐殺されたのです。2001年1月に現場の一部から、109体の遺骨が「発掘」されました。その「発掘」のさなか、父(朴聖南さん)の軌跡を尋ねて朴奎秉さんが2人の弟さんとそのつれあいさんの6人で現場に来られました。韓国の新聞で「発掘」のことを知り、急いで来たとのことでした。朴聖南さんは、治安維持法違反で逮捕され、海南島に送られたが、そのまま帰らなかったといいます。
 「朝鮮村」に埋められているのは、「南方派遣朝鮮報国隊」の隊員として、1943年から44年にかけて、朝鮮各地の刑務所から海南島に強制連行された人たちです。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月にはじめて「朝鮮村」にいき、村人から虐殺の事実を聞きました。その後、毎年「現地調査」を続け、来年夏に、大阪人権博物館で日本軍の海南島侵略と「朝鮮村虐殺」にかんする「企画展」を開くことになりました。 「朝鮮村」に埋められている人の名は、まだ1人も明らかになっていません。「企画展」の前、来年2月に、わたしたちの会は、韓国の民族問題研究所とともに、あらためて厳密な「発掘」をし、虐殺の事実をできるだけ詳細に明らかにしたいと考えています。

 遺骨返還をひとつの重大な目的とする「グングン裁判」は、「朝鮮村」に60年ちかく埋められてきた人たちの故郷への帰還、そして責任者処罰につながる運動だと思います。
                                       紀州鉱山の真実を明らかにする会 佐藤正人
        

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いきどおる魂の石 2

2010年06月22日 | 紀州鉱山
 いよいよ今日は、在日同胞(海外在住韓国人)らと、志を同じくする日本人が集まり、無念にも亡くなった魂を記憶にとどめ追悼する碑を建設して「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑 除幕集会」をおこなう日だった。1部は屋外集会で、2部は屋内集会だ。用意するのはむずかしかったであろう土地は、まだ準備することがたくさんあるようだ。乱雑に見えるその真ん中に大きい自然石があり、それが碑石だ。
 この大きい石には、さまよっていたその多くの無名の魂らが安息を探しあて、宿っているようだった。そして、名前が確認できた方はようやく35人なのに、彼らのうち11人は、姓がなかったり名前が一字なかったりする。それでもこの確認された方がたのために、大きい石の前に両側に分けて、一抱えほどの大きさの石に名前を書き、濃紺の群青色のリボンを心を込めて結んであった。また、一番前には祭事のために用意した果物、菓子、モチと酒が供えられた。
 そしてプンムルペのチャングとコエンガリの音色は、魂を呼びあつめるようだった。つづいて、魂をなぐさめる追悼の舞いもあった。黙祷をしたあと、式順にしたがって進められ、酒杯に酒を注いで誠意をつくして礼をした。夫はここで基調講演をするために来たのだった。
 亡くなった方の名前を呼びあげると、自然に誰かが出て行って、リボンを解いた。そしてまた呼ぶと、準備された花を1輪ずつ、名前が書かれた石に添えた。厳粛に進められるあいだ、空も心配りをしてくれたようだった。
 晴れていた天気が突然曇ると、涙のように、魂を慰労するかのように、雨を降らせた。派手な大型行事ではなかったが、どんな行事よりもずっと意味深く、参加してよかった行事であった。すべての進行がとどこおりなく、真摯で心を打った。式が終わり、屋内集会のための建物まで歩いて行くあいだ、いつのまにか雲間からそっと光があふれた。
 屋内集会は、主催者のあいさつで始まり、追悼碑建立宣言が読みあげられ、今後しなければならないことの報告、強制連行された遺族からのメッセージ、参加者の発言などを最後に、式を終えた。こういう順序がとどこおりなくなめらかで、真剣で物静かだった。予想外に途方もなくおおきなことに接したわたしは、高まる感情が平静をとりもどすのにかなり時間がかかった。
    わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、
    海南島で亡くなった朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた
    人びとを追悼し、その歴史的責任を追究していきます。(「追悼碑建立宣言」より)

 「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の決然とした追悼碑建立宣言を思い起こし、わたしたちのことをわたしたちが知らずに過ぎてきたあいだ、日本に住む同胞と善良な良心を持った多くの日本人がすすんで参加し、献身的にしごとをする姿で大きな感銘を受けた。
                                              ホ ウンギョン
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いきどおる魂の石 1

2010年06月21日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑除幕集会に韓国から参加したホ ウンギョン(許銀卿)さんから寄せられた文章(キムチョンミ訳)です。

 しごとのためだけに旅行する夫だ。日本旅行に行こうと、軽くおだやかにわたしに声をかけた。いつも会と行事がある旅行なので、緊張することになる。わたしはたいしてうれしくないが、結局ついて行く。今回も、ちょうど3月26日は、安重根義士の殉国100周年特別行事がある日だ。出席をしたかったが、ざんねんなことになった。
 行先地は日本の大阪というところだった。講演しにいくということ以外、知らない。午後1時40分に出発する飛行機で、目的地に到着した。
 宿舎は繁華街にあった。夕食には少し早い時間なので、道になれようと一人で先に出て、あちこち歩きまわった。木と花も多く、ビルディングは端正で落ち着いた感じがした。ここで行事があるのではなく、明日別のところに移動するということだった。
 早朝に食事をし、わたしたちは案内者について、ある大きな建物前へ行った。8時にバスが来ればそのバスに乗って移動するという。ことばがわからないので、耳が聞こえない人のようだった。いちいち通訳してくれということもできず、もどかしいだけだ。ひとり、ふたり、人びとが集まり、25人乗りバスも到着した。各地から集まった人びとでミニバスは補助席まで満杯になり、まもなく出発した。
 車はすこしづつ市内を抜け出し、静かな道を走った。どこかの田舎に行くようだった。みんなは行く場所を知っているが、わたしだけ知らない。窓の外を見ながら写真を撮ろうと一人で座ったので、ことばもわからず、沈黙したままだった。休憩所で降りてようやく、目的地に到着するまで5時間程かかるということが分かった。そこがどこか、見当がつかなかった。道を上り、また下りして、すこしずつ深い山の中に入っていった。
 トンネルを数えたが、あまりにも多くて忘れてしまった。雪嶽山ほど高く谷は深くはないが、もっと奥地に入っていった。どれほど行ったか。ずっと私の左側で、白い砂浜と川が先になったり後になったりしながら流れている。蟾津江のように曲がりくねってはいないが、それより大きく、翡翠が水の中で溶けて流れるように青くて美しかった。時折川向こうに、穏やかそうな小さい村と、桜が恥じらいげにはじけそうなつぼみをつけて並んでいる姿が、平和に見えた。
 大阪を出発して奈良をへて、境界線をすぎれば、東南側に三重県熊野市紀和町がある。ここに紀州鉱山がある。今は静かで川辺の小さい田舎町だ。
 広い道を行くと、右側にまだ整地されずやせた空地に大きい岩が一つあり、そこで準備委員らは熱心に何か作業をしていた。
 わたしたちを見るや、喜んで迎え、後片付けをして行くので先に宿舎に行けと言った。車が通う道もあるが、はじめて来たから汽車に乗ろうという。そこから少し離れたところに小さい簡易駅があった。鉱山で貨物車として使ったのを改造して、おもちゃのように見える小さい客車を利用するのだが、あいさつするように頭を下げて中に入らなければならなかった。
 このミニ列車は電気を利用して動き、鉱山用の低いトンネルを約2キロメートルも漆黒のような暗闇の中を突き進んで外に出てくる。とても興味深く、アイディアも奇抜だ。わたしたちは子どものように好奇心でいっぱいだった。このうえなく澄んできれいな水が流れる小川の上の橋が終着駅だ。
 ‘湯の口温泉駅’と大きい文字で書いてあった。木がおい茂った深い山の中にこぢんまりした付属建物と小さな温泉だけがわずらわしい世の中に背を向け、落ち着いたたたずまいで位置していた。小川の向こうに一抱えはある桜が神木のようにそびえ立ち、あたたかく花で歓迎している。夕食時は各自自己紹介を自然にしながら親交の時間も持った。
 明日の行事のためにみんながここに集まったことを、そのときになってやっとわかった。 第二次大戦当時日本軍は、ここで銅鉱山を経営していた石原産業と手を握った。また、日本占領下の海南島で、資源を略奪して朝鮮人と東南アジアの人びと、捕虜として捕らえた英国軍などを強制労働させ、酷使して死なせた。そして、ここ、紀州鉱山にも強制連行した。
 1940年から1945年まで、1300人を越える朝鮮人が紀州鉱山に強制連行され、銅を掘りだし、トンネルを抜くきびしい強制労働で蹂躙された。1940年以前にも家族とともにここでつらい仕事をした朝鮮人がいた。かれらは重労働と、さまざまな虐待だけでは足りず、理不尽にも米の配給さえ不足して飢えた。そして1941年5月、鉱山で働いていた朝鮮人130人は米の配給量を増やすよう要求して、抗議行動をおこした。
 つづいて1944年秋には、紀州鉱山坑口に“朝鮮民族は日本民族たるを喜ばず。将来の朝鮮民族の発展を見よ!”というスローガンをカンテラの火で焼きつけてあったという。この話を聞いた瞬間、胸に熱いものが徐々にほとばしってきた。国力がなく、力がなく、こんなにはるか遠い他郷で飢え苦しみ、亡くなった方がたの魂を思うと、悔しくせつなかった。 朝鮮の独立運動だけでなく、この驚くべき事件も、明らかに独立運動にふくまれると思う。
                                           ホ ウンギョン    
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