■戦死者名簿確認
アボヂの死亡を文書で最初に確認したのは、1992年である。
その時ようやく見つけた資料は、『被徴用死亡者連名簿(旧日本陸軍在籍)』である。
『被徴用死亡者連名簿』で確認した内容は、1945年6月11日、広西省全県180兵站病院で死亡したという簡単な記録であった。そして、死亡区分に、‘戦傷死’、すなわち、戦闘中の負傷で死亡したというあまりにも短い説明があっただけだった。
アボヂが軍属として、どのようにして一体なぜ中国広西省まで行き、どうして戦闘中に負傷し、どれほど負傷して、さびしく病院で亡くなったのか、知ることができなかった。
アボヂについての二番目の記録は、1997年、『留守名簿』という文書の中で探すことができた。この資料は、1993年10月、日本政府から渡された243992名分の『留守名簿』であった。
『支那派遣軍第6方面軍第11軍隷下部隊留守名簿(其二)』という題のこの文書で、やはりアボヂ‘リサヒョン’は、1945年6月11日に死亡したという事実を確認することができた。
■合祀そして供託金
この文書では、二つの事実を追加確認した。一つは、アボヂの名前の上に押されている‘合祀済’という印鑑の意味であり、二番目は ‘供42524’という番号の意味である。
この資料はすべて日本帝国主義時代に作成された文書であり、誰もその内容と意味を知らなかった。これが何を意味するかを教えてくれたのは、日本で韓国人強制動員被害者裁判支援活動をしてきた日本人市民活動家と弁護士たちだった。
彼らが、‘合祀済’という印鑑は、わたしのアボヂの魂が、靖国神社に、日本が遂行した侵略戦争を美化し、守護する戦争神として合祀されたという事実の証拠だと、わたしに教えてくれた。
靖国神社は、戦争で‘日本天皇のために命を捧げた人びとを追悼するための施設’として知られているが、靖国神社にはじっさいに遺骨が置かれているのではなく、戦死者名簿が登録されている。侵略戦争を挑発したA級戦犯たちと一緒に、強制で彼らの戦争に駆り出され死んだ朝鮮人軍人・軍属犠牲者たちも、無断で靖国の神としてまつられているというのだ。これをさして、‘靖国神社に合祀’されているという。
そして、‘供42524’という番号は、未払い給与が日本政府に供託されていることをしめす登録番号であった。
朝鮮人強制動員被害者たちは、日帝によって戦地に行かされたり、企業で強制労動させられながら、相当数が給与を受けとることができなかった。朝鮮人が受けとることができなかった未払い賃金は、当時の金額でも相当にのぼると推定され、こうした金は、とうぜん本人や犠牲者の遺家族に支給されなければならない。
しかし敗戦後に日本は、未払い賃金がいくら残っているのか、何らの通知もせず、一方的に供託させた。
こうした未払い賃金の供託記録は、軍人・軍属のばあい、日本厚生労動省を通じて確認することができる。そして労務者のばあいは、日本法務省を通じて確認することができる。
わたしがアボヂ名義の供託金を確認したのは、1999年6月だった。
『留守名簿』に記載された‘供42524’という番号で照会した結果、日本厚生省援護局業務第一課長から、
「照会があった李思氏に関連し……つぎのとおりお知らせします。
供託場所 東京法務局
供託年月日 1953年6月1日
供託番号 1953年度特金第3号
供託金額 金1480円
供託種類 未支給給与金」
という回答が来た。
このような未払い賃金を返却せよといういくつもの訴訟が提訴されたが、日本政府は、1965年に締結した「大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」(韓日請求権協定)と国内措置法(法律第144号)によって権利が消滅したという主張で一貫している。
こうして、確認した事実をもとに、2001年、ついに日本政府を相手にしたたたかいを本格的に始めた。
2001年6月29日、韓国人軍人・軍属生存者と遺族 252人が、日本政府を相手に、‘靖国神社合祀取下げ、遺骨返還、損害賠償請求’訴訟を東京地方裁判所に提起した。
そして、2003年6月12日、軍人・軍属生存者と遺族 164人が2次原告で訴訟に参加した。
イ ヒジャ
アボヂの死亡を文書で最初に確認したのは、1992年である。
その時ようやく見つけた資料は、『被徴用死亡者連名簿(旧日本陸軍在籍)』である。
『被徴用死亡者連名簿』で確認した内容は、1945年6月11日、広西省全県180兵站病院で死亡したという簡単な記録であった。そして、死亡区分に、‘戦傷死’、すなわち、戦闘中の負傷で死亡したというあまりにも短い説明があっただけだった。
アボヂが軍属として、どのようにして一体なぜ中国広西省まで行き、どうして戦闘中に負傷し、どれほど負傷して、さびしく病院で亡くなったのか、知ることができなかった。
アボヂについての二番目の記録は、1997年、『留守名簿』という文書の中で探すことができた。この資料は、1993年10月、日本政府から渡された243992名分の『留守名簿』であった。
『支那派遣軍第6方面軍第11軍隷下部隊留守名簿(其二)』という題のこの文書で、やはりアボヂ‘リサヒョン’は、1945年6月11日に死亡したという事実を確認することができた。
■合祀そして供託金
この文書では、二つの事実を追加確認した。一つは、アボヂの名前の上に押されている‘合祀済’という印鑑の意味であり、二番目は ‘供42524’という番号の意味である。
この資料はすべて日本帝国主義時代に作成された文書であり、誰もその内容と意味を知らなかった。これが何を意味するかを教えてくれたのは、日本で韓国人強制動員被害者裁判支援活動をしてきた日本人市民活動家と弁護士たちだった。
彼らが、‘合祀済’という印鑑は、わたしのアボヂの魂が、靖国神社に、日本が遂行した侵略戦争を美化し、守護する戦争神として合祀されたという事実の証拠だと、わたしに教えてくれた。
靖国神社は、戦争で‘日本天皇のために命を捧げた人びとを追悼するための施設’として知られているが、靖国神社にはじっさいに遺骨が置かれているのではなく、戦死者名簿が登録されている。侵略戦争を挑発したA級戦犯たちと一緒に、強制で彼らの戦争に駆り出され死んだ朝鮮人軍人・軍属犠牲者たちも、無断で靖国の神としてまつられているというのだ。これをさして、‘靖国神社に合祀’されているという。
そして、‘供42524’という番号は、未払い給与が日本政府に供託されていることをしめす登録番号であった。
朝鮮人強制動員被害者たちは、日帝によって戦地に行かされたり、企業で強制労動させられながら、相当数が給与を受けとることができなかった。朝鮮人が受けとることができなかった未払い賃金は、当時の金額でも相当にのぼると推定され、こうした金は、とうぜん本人や犠牲者の遺家族に支給されなければならない。
しかし敗戦後に日本は、未払い賃金がいくら残っているのか、何らの通知もせず、一方的に供託させた。
こうした未払い賃金の供託記録は、軍人・軍属のばあい、日本厚生労動省を通じて確認することができる。そして労務者のばあいは、日本法務省を通じて確認することができる。
わたしがアボヂ名義の供託金を確認したのは、1999年6月だった。
『留守名簿』に記載された‘供42524’という番号で照会した結果、日本厚生省援護局業務第一課長から、
「照会があった李思氏に関連し……つぎのとおりお知らせします。
供託場所 東京法務局
供託年月日 1953年6月1日
供託番号 1953年度特金第3号
供託金額 金1480円
供託種類 未支給給与金」
という回答が来た。
このような未払い賃金を返却せよといういくつもの訴訟が提訴されたが、日本政府は、1965年に締結した「大韓民国と日本国間の財産及び請求権に関する問題の解決と経済協力に関する協定」(韓日請求権協定)と国内措置法(法律第144号)によって権利が消滅したという主張で一貫している。
こうして、確認した事実をもとに、2001年、ついに日本政府を相手にしたたたかいを本格的に始めた。
2001年6月29日、韓国人軍人・軍属生存者と遺族 252人が、日本政府を相手に、‘靖国神社合祀取下げ、遺骨返還、損害賠償請求’訴訟を東京地方裁判所に提起した。
そして、2003年6月12日、軍人・軍属生存者と遺族 164人が2次原告で訴訟に参加した。
イ ヒジャ