三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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「[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(6)」

2019年03月20日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21568.html
「The Hankyoreh」 2015-08-08 06:42 修正:2015-08-16 07:41
■[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(6/6)■
 4. 根が深い沖縄の悲しみ

【写真】沖縄平和記念公園の韓国籍犠牲者の名前が彫られた碑石 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】平和記念公園内の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)国籍犠牲者の名前を刻んだ碑石 その数が少ない =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】平和記念公園内の碑石。追加確認され碑石に彫られた韓国籍犠牲者。追加確認されて刻名されたという字句が見える。その右にはこのような場合に備えて立ててあるまだ何も彫られていない碑石 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

■ 戦前の状態が複製された戦後日本
 2007年9月、沖縄住民11万6000人が集団デモを行ったのは、日本の文部科学省が高校教科書に記述されていたこの集団自決の事実を2008年度から使われる教科書から削除しろと言ったためだ。
 日本政府は集団自決が日本軍の命令によるものではなかったと主張する当時の一部軍幹部が訴訟を起こすと、それを口実に削除指示をした。
 1995年、女子中学生集団性暴行事件の時に爆発した沖縄住民たちの怒りが、その時再び大きく爆発した。裁判は結局原告敗訴、すなわち当時の集団自決が命令に従ったものではなかったという主張に根拠がないという判決に帰着したが、それでも文部科学省は教科書の内容を修正せずに今も削除した状態にしている。沖縄住民たちの被害意識と中央政府または本土人に対する不信は一層深まっている。
 
 沖縄戦の時、住民たちは米軍に対する恐怖も強かったが、当時「米軍より日本軍がもっと恐ろしい」という言葉が出回るほど日本軍をより強く恐れたという。
 日本軍が集団自決を強要した原因としては、日本軍が自らの事情をよく知っている沖縄住民たちが捕虜になったりして、その内部事情が漏洩するのを防ぐために、「沖縄住民は全員スパイ」と言った程に住民たちに対する日本軍の差別と不信、残務と手伝いをして食糧確保にも役立つ住民たちの離脱を防ぐため、などが議論されている。
 恐怖に震えた住民たちは、戦場に出て行って死んだり(戦死)、米軍の捕虜になったり、日本軍の手で殺されたり、自決すること以外に他の選択肢はなかった。
 第2次大戦において日本領土内で繰り広げられた唯一の大規模地上戦である沖縄戦は、当初から日本の支配勢力が本土防御と体制維持のための時間稼ぎのために企画された戦争であったし、沖縄の住民たちはその企画に消耗品として動員された。
 「沖縄戦は“本土決戦”の時間を稼いで、うまくいけば“国体護持(天皇制維持)を条件に連合軍と平和(降服)交渉”を行うための捨て石作戦だったためだ」(『沖縄現代史』)。 天皇ヒロヒトと日本大本営が、米軍の沖縄上陸が始まった4月以前、または最終決戦が行われた6月以前に降服していたならば、これほど多くの人々が沖縄で死ぬことはなかっただろう。
 そして、戦後日本処理問題が議論された1945年7月、ポツダム宣言の時にでも戦争を放棄していたならば長崎・広島原爆の悲劇はなかったかも知れず、ソ連軍の対日戦介入もなかったし、したがって米軍が急いで朝鮮半島を分断することも、朝鮮戦争(6.25動乱)は起きなかったかもしれない。
 日本大本営が沖縄“捨て石”作戦を行い、連合軍から天皇制維持、すなわち国体護持の保障を受け取るための時間稼ぎをした代価はあまりに大きかった。
 
 彼らは、その多くの命を犠牲にさせた代価として結局成功したと言えるのではないだろうか。日帝敗戦後、日本を占領した米軍は天皇制を存続させ軍隊を復活させたし、一時公職から追放したり一部重刑に処したA級戦犯(彼らの中には安倍首相の母方の祖父である岸信介も含まれる)も復帰させた。
 中国が米国の予想に反して共産化し、韓国で大規模な戦争が勃発すると米国は日本占領計画を180道変更し、軍国日本の直系後えいを再び登用する。
 彼らをして戦後日本を運営させ、彼らが主導した冷戦体制の東アジア反共の砦に日本を育成するために戦争犯罪者とその周辺勢力を重用し支援した。
 すでに米軍占領初期にヒロヒトは、自分の側近を通じて天皇制維持、すなわち自身の命と地位保全を条件に占領軍司令官マッカーサーに米軍の日本長期駐留の保障を約束した。特に1951年に締結され翌年4月に発効されたサンフランシスコ講和条約と同時に締結された米日安保条約を通じて、日本の保守支配者は沖縄住民たちの意思を聞くこともせずに日本の主権保全を前提に米軍に施政権を保障することによって沖縄を事実上の米国領土として割譲した。
 米国が沖縄を“返還”したのは1972年だ。その時も米国と日本は沖縄住民の意思を聞いてみたことはなく、“返還”以後にも米軍基地はそのまま維持、またはより一層拡大した。

■ 独立琉球の夢
 沖縄の悲しみは根が深い。合わせて「琉球共和社会」建設の話まで出ている沖縄人の脱日本の動きの根もまた予想以上に深かった。沖縄は1872年に日本の一つの県として再編されるまで、500年間独立した琉球王国として存在したし、高麗時代から朝鮮半島とも深い関係を結んでいた。
 沖縄人が再びかつての王国に戻ることはないが、今再び自立的な共同体を夢見始めた。それは差別的な日本本土に対する反発のためだが、時代と世の中自体が脱近代側に急速に移動しているためかもしれない。沖縄を規定してきた近代的価値と基準が崩れていることにともなう現象とも言える。19日、2時間後にはソウルに戻る機内で改めてそんなことを考えた。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者
韓国語原文入力:2015/08/04 10:26 訳J.S(2198字)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/704569.html
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「[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(5)」

2019年03月20日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21567.html
「The Hankyoreh」 登録:2015-08-08 06:40 修正:2015-08-16 07:42
■[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(5/6)■
 3.朝鮮人性奴隷

■済州(チェジュ)4・3の前奏曲?
 コ・ヒボムの『これが済州だ』(タンビ、2013刊)にこんな内容が記されている。 
<済州島は巨大な要塞だった。済州島を取り巻くように随所に陣地が設置され、迫撃砲や速射砲を備えた砲兵、歩兵、工兵など各種の軍部隊が配置された。 1945年8月現在で人口23万人だった済州島に7万5千人余の日本軍兵力が入って駐留していた。
 第2次世界大戦の敗戦を目前にした日本が、日本本土を防御するために済州島を防御基地として最後の決死抗戦を行う体制を整えていた。
 連合軍の日本本土攻撃を防御するための作戦は暗号名「決号作戦」で、北海道(決1号作戦)、東北(決2号作戦)、関東(決3号作戦)、東海(決4号作戦)、中部(決5号作戦)、九州(決6号作戦)とともに、済州島は決7号作戦の舞台になった。
 沖縄陥落以後、米軍の主な上陸地点は九州になるだろうとし、この時に米軍の済州島攻略は必然的と判断された。 済州島が最前線になったわけだ>
 万一その時に沖縄戦線が崩れた後にも日本が戦争を継続したとすれば、済州島で沖縄の悲劇が繰り返された可能性が高い。
 7万5000の日本軍兵力が決死抗戦のために済州島に入ったのは1944年3月に新設された沖縄守備軍である日本軍第32軍が決死抗戦のために沖縄に入ったのと同じパターンだ。
 幸い済州島は沖縄のような悲劇は避けられたが、皮肉にも日帝崩壊後に同じ民族が同族を虐殺した4.3事態という惨劇を体験することになる。
 すでに以前に多くの朝鮮人が沖縄でそのような惨劇を体験していた。1945年8月20日、沖縄本島から南西側に約100キロメートル離れている島、久米島に戦争前から暮らしていた朝鮮人、具仲会(ク・チュンフェ)、日本姓は谷川氏一家7人が根拠もなく米軍と内通したスパイと疑われ日本軍の手で虐殺された。沖縄の女性と結婚し5人の子供をもうけて暮らしていた具さん一家は、すでに日本が降服した後にも投降しなかった日本軍の手で残酷に殺された。
 普天間基地すぐそばにある佐喜真美術館に行けば『沖縄戦図』という横8メートル、縦5メートルの水墨彩色大作が一方の壁面を完全に占めている。
 原爆の図、南京大虐殺、アウシュビッツ惨劇を描いた画家の丸木位里、丸木俊夫妻が描いたこの大作は、集団自決などガマの中で強行された沖縄住民虐殺惨劇を描写している。そこにこの久米島の朝鮮人一家の虐殺場面も入っている。
 具さんが木にかけた綱で首が括られ亡くなって、幼い息子が彼のからだにすがって泣いている。そのそばには彼ら一家が日本軍の銃刀で虐殺される姿が描かれている。

■集団自決は虐殺である…佐喜真美術館
 佐喜真美術館『沖縄戦の図』図録の冒頭に二人の画家が書いた同じタイトルのこのような文が載っている。

 恥かしめを受けぬ前に死ね
 手りゅうだんを下さい
 鎌や鍬でカミソリでやれ
 親は子を、夫は妻を
 若ものはとしよりを
 エメラルドの海は紅に
 集団自決とは
 手を下さない虐殺である

 16日に訪ねた佐喜真美術館には、沖縄に修学旅行に来たと見られる40人程の制服姿の中高生が『沖縄戦の図』の前に座っていて、佐喜真道夫館長が彼らの前に立って絵の説明をしながら、沖縄戦、そして戦争の意味について熱心に話していた。
 佐喜真館長は普天間に土地をたくさん持っていた父親のおかげで、米軍から軍用地料を受け取り金持ちになった人だが、早くから本土に留学に行き勉強して、沖縄が体験したみじめな戦争体験を無視し聞き入れない本土人の沖縄出身者に対する偏見を骨身に凍みて感じた。
 そんな彼が丸木夫妻の大作『沖縄戦の図』を展示するために、普天間基地内の先祖から受け継いだ土地の一部を軍用地契約更新の際に返してもらい美術館を作った。

【写真】普天間基地のすぐ隣にある佐喜真美術館 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 沖縄平和学習の名所になった佐喜真美術館には毎年4万人程度が訪れる(写真説明5-1)。写真家チョン・ジュハ氏が原発事故以後の荒涼たる福島近隣地域を撮った写真集『奪われた野原にも春は来るのか?』や版画家のホン・ソンダム氏の作品解説が載せられたパンフレットも展示されていた。
 生徒たち相手の説明が終わった後、キュレーターの上間かな恵氏から絵の説明を聞いている私に会いに来た佐喜真氏と挨拶を交わした。

【写真】沖縄本島南部の糸満市と隣の島尻郡にまたがる「沖縄平和記念公園」内にある犠牲者の名前が彫られた碑石。24万人に及ぶ犠牲者たちの名前が刻まれている =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】日本語・英語・韓国語・中国語で書かれた沖縄平和記念公園内の「平和の礎(いしじ)」石碑 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】平和記念公園広場 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】沖縄平和記念公園の「平和の礎」 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】沖縄平和記念公園を訪れた日本の中学生が魂を慰労し平和を願う歌を歌っている =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 具さん一家7人の名前は、糸満市と隣の島尻郡にまたがる沖縄平和記念公園内の平和の碑(1995年建設)にも24万の犠牲者と共に彫られていた(写真説明5-2,5-3,5-4,5-5,5-6)。ところが具さん一家ではなく日本名の谷川氏一家の名前になっていて、韓国と北朝鮮犠牲者の名前が彫られた碑石の区画ではなく、沖縄犠牲者碑区画の碑石に彫られていた(写真説明5-7,5-8)。最も激烈な戦闘が行われた地域の一つである宜野湾の嘉数高台の上には、軍夫として連れて行かれ弾薬運搬、陣地構築、「人間爆弾」として犠牲になった朝鮮人386人を追慕する「青邱の塔」が立っている。

【写真】米軍と内通したスパイの疑いを着せられ日本軍の手で虐殺された朝鮮人、具仲会(ク・チュンフェ 日本姓 谷川)氏一家7人の名前が彫られた平和記念公園内の碑(右部分)。谷川姓で朝鮮人区画の碑石ではなく沖縄人区画の碑石に刻まれている =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】沖縄平和記念公園のそばに別に造成されている韓国人慰霊塔公園 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 慶良間諸島の渡嘉敷島では、戦争末期に朝鮮人の米軍投降を防ぐため、日本軍が討伐隊を編成して多くの朝鮮人を殺害した。慶良間には朝鮮人軍夫約1千人と慰安婦として連れて来られた幼い朝鮮人女性21人がいたことが分かっているが、彼らのうち、軍夫数百人と慰安婦4人がそのようにして犠牲になった事実を記録した「アリランの碑」が渡嘉敷島に立っている。渡嘉敷だけで200余人の朝鮮人軍夫、7人の朝鮮人慰安婦が連れてこられたという。

■座間味と阿嘉島の朝鮮人性奴隷
 慶良間諸島内の座間味島と阿嘉島にも朝鮮人慰安婦が7人ずつ一組で投入され、朝鮮人軍夫が座間味に300人、阿嘉に350人が配属されていた。これらのうちの相当数が戦争末期に住民と兵士たちを集団自決、玉砕に追い込んだ日本軍の犠牲になったと見られる。
 阿嘉島では1945年2月、朝鮮人軍夫たちで編成された水上勤務隊が投入されたが、日本軍はこれらの朝鮮人を特にひどく差別し食糧もまともに与えなかった。
 その年の4月、7人の朝鮮人が山中に逃げたが発見され処刑され、残りの朝鮮人軍夫が30~40人ずつ狭い洞窟内に幽閉された。 日本軍は彼らに用便の場合を除いては出入りを許さなかった。そこで少なくとも12人の朝鮮人軍夫が処刑されたと見られる。
 北谷の嘉手納地域には、慰安所と彼女たちの定期検診のための病院があった。そこに「年齢16~17歳で日本名で呼ばれた朝鮮人女性たちがいたが、日本の憲兵が彼女たちの一人を『あたかも動物でも扱うように乱暴に』接して『殴り倒した』が、誰も抵抗できなかった」という証言が残っている。

■130カ所余りに達した沖縄の慰安所
 「アイゴー、アイゴー」吠えるような声
 慰安所は沖縄だけで130余カ所が設置されていた。そこには沖縄女性と日本女性たちも慰安婦として来ていたが、ほとんどが10代20代の背が高く色白だった住民たちが記憶する朝鮮人女性たちで満たされていた。
 遠い島のすみずみにまで設置された慰安所130カ所余りに朝鮮人慰安婦が7人ずつ配置されたとすれば、その数は1千人近かったと推算される。
 「渡嘉敷島で日本軍は駐留を始めて2カ月後に慰安所を設置した。そこに送られて来た7人の朝鮮人女性は、最も年長のアキコ(韓国名ペ・ポンギ 30歳)、キクマル(28)、カズコ(23)、ハルエ(または、ハルコ、23)、スズラン(20)、アイコ(16)、ミッチャン(16)と全員が日本名で呼ばれていたが、カネコという朝鮮人男性が管理していた…正月の接待酒を飲んで酔った彼女たちが、狂ったように『アイゴー、アイゴー』と泣き叫んだ声を多くの人々が聞いた。
 それで村の人々は慰安婦の悲劇と苦痛を知ることになった」(『軍隊は女性を守らない』)。

■ ペ・ポンギさん=アキコの恨多き生涯
 ペ・ポンギさんの名前が世の中に知られたのも数奇だ。1945年3月23日、慰安所が米軍の爆撃で破壊され、一緒にいたハルエが死んだ。
 米軍が上陸した後、山中に陣を敷いた日本軍について行った彼女たちは炊事班の役割をしたが、食べ物がなくて飢えていた。その年の8月26日、そこの日本軍が武装解除された後、米軍によって沖縄の石川収容所に送られた。
 一緒に行ったカズコはある朝鮮人男性と暮らしを立てたが、知人もお金もなく日本語もよくできなかったペさんは1年余りして再び酒場の酔客を相手にからだを売るほかはなかった。米軍も日本当局も彼女たちに何の関心も傾けなかった。
 朝鮮人帰還者を乗せる船があるという事実も知らなかった。全身がボロボロになったペさんが最後に生活保護者として認定を受けようとした時、戸籍が問題になった。彼女は存在したが、存在を認められなかった。生活保護どころか強制追放の危機に処した。 哀れな事情が知らされて周囲の人々の助けで特別滞留許可が下され、そのために彼女が慰安婦だったという事実が知らされ、ペ・ポンギという名前も世の中に知られた。
 キム・ヒョンオクという朝鮮人夫婦が彼女を熱心に助けてくれたが、彼らは民団ではなく総連所属なのでペさんは以後、韓国政府やそちらの韓国領事館からも敬遠された。
 日本軍慰安婦の存在は、実はペ・ポンギさんの出現により世の中に初めて知らされたが、1991年にキム・ハクスンさんが自身が慰安婦として連れてこられ苦痛を受けた事実を明らかにするまでは、慰安婦問題自体が重大な問題に浮上できなかった。
 総連所属の朝鮮人の助けを受けたという理由で、ペさんは二重三重の差別と不当な待遇にあった。韓国政府や韓国社会は、まさにその理由のために慰安婦問題を知っていながら永い間キム・ハクスンさんが決断を下すまで慰安婦被害者の苦痛と恨、最も恥ずべき日本の過去問題を無視したのかもしれない。
 1991年10月に亡くなったペさんは、故郷に戻りたくないかと帰郷を薦める周囲の人々に向かってこのように話した。
 「故郷に戻った夢を見る時もあった。だが、一度も行って見ようとはしなかった。今戻っても何の意味があるのか…」。朝鮮人性奴隷は一人当たり毎日10~20人の日本兵を相手にしなければならなかった。「僅か3・4分毎に順番になった者が次々と入って来た」という証言もある。慰安婦は常に飢えていて、近所の住民の家に行って食べ物を求め、締めて帰る姿も目撃されたという。「日本軍は慰安婦女性たちを出身地別に差別待遇して、将校専用慰安所には九州や沖縄出身の慰安婦を配置した。彼女たちは食事の接待も受け、きれいな服を着ていたし、時には外出までできて朝鮮人慰安婦よりましな待遇を受けた」(『軍隊は女性を守らない』)

■沖縄だけで千人を越えた朝鮮人慰安婦
 日本軍慰安婦として連れてこられた1千人以上の10代、20代の朝鮮女性たちをはじめとして、1万人を超えると推測される沖縄連行朝鮮人のうち犠牲者がどれくらいになるかは分からないが、平和の碑で今までに「大韓民国」と彫られた碑石に名前が載っている犠牲者は441人にしかならない(写真説明6-1)。確認され次第、追加しているが大韓民国の墓地に準備されている碑石の多数にはまだ何の名前もない空き碑石として残っている。
 その隣にある「朝鮮民主主義人民共和国」碑石に彫られている名前は数十個に過ぎない。 その上、北朝鮮碑石には台湾人犠牲者の名前が並んで刻まれている。数が少ないために同じ碑石を使っているのだ(写真説明6-2)。朝鮮人犠牲者がこのように少ないのは、実際の犠牲者が少ないことではなく確認されないためだ。そのために平和の碑建立者側も、今後確認されるかもしれない朝鮮人犠牲者の追加刻字に備えたのか、名前を刻んでいない空き碑石を同じ区画にずらりと立ててある(写真説明6-3)。確認されないのは、主に戦後の日本当局の朝鮮人犠牲者軽視・無視のためだが、慰安婦として連れてこられた犠牲者の場合には、遺族たちが碑石に登載することを拒否するなどの様々な理由がある。
 そして、戦時に日本名を使わざるを得なかった多くの朝鮮人犠牲者が、日本人として誤認されたケースも少なくないだろう。そして、生き残った人々の中にも今に到るまで沖縄人や日本人として偽装して生きている人々もいるだろう。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者
韓国語原文入力:2015/08/04 10:26 訳J.S(5179字)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/704569.html
コメント

「[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(4)」

2019年03月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21566.html
「The Hankyoreh」 登録:2015-08-08 06:33 修正:2015-08-16 07:43
■[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(4/6)■
 2. 沖縄の悲劇

■ チビチリガマ(洞窟)の惨劇
 しとしとと雨が降る16日、宿泊所の上の方にある読谷に行った。1945年4月1日、18万人の地上戦闘員、後方支援部隊まで合わせれば54万に達する米軍が、沖縄本島上陸作戦を開始した。彼らが最初に上陸したところが読谷で嘉手納、北谷につながる西海岸地帯であった。
 それから日本が降服するまでの数カ月間に24万人に及ぶ途方もない人々が狭い沖縄本島と近隣の小さな島で死んでいった。
 「沖縄戦では本土出身の兵士たち約6万5000人、沖縄で急遽招集された約3万人の急造部隊員、一般民間人約9万4000人が犠牲になった。その他に朝鮮半島から軍夫や従軍慰安婦として強制連行された約1万人もまた犠牲になったと知られているが、その正確な数字は今も確認されていない。このように沖縄戦では、軍人よりもはるかに多くの民間人が犠牲になった」(『沖縄現代史』新版、新崎盛暉、岩波新書、2005)。沖縄人よりさらに深刻な差別にあった朝鮮の人々の凄惨な痕跡は今も沖縄の各地に残っている。
 沖縄戦闘で最底辺の最もみじめな境遇に追い立てられた朝鮮人犠牲者について日本政府は死亡者調査もしたことがないほどに徹底的に放置し今も無視している。その上、彼らの存在が世の中に知らされたのは、沖縄の住民とそちらに暮らしている少数の朝鮮人々が努力した結果だ。
 犠牲になった朝鮮人と彼らの存在を世の中に知らせた朝鮮の人々は、祖国の分断のために二重三重に差別を受ける苦痛の中で暮らし、今なおそうして生きている。
 『読谷村史』は、当時軍人・軍属2167人、一般住民1757人、合計3924人の読谷の人々が死んだと記録した。そのうちの31.3%が栄養失調と病気で亡くなった。
 中頭郡読谷村波平という村に「チビチリガマ」がある。“ガマ”は自然の洞窟だ。16日に訪ねた村の下には小さな小川が流れるへこんだところに崖があり、そこに洞窟の入口が見えた。 由緒を刻んだ石板とオブジェを通り過ぎ真っ暗な洞窟内に入ると、何も見えなかった。

【写真】沖縄本島の中頭郡読谷村波平にある自然洞窟「チビチリガマ」。1944年10月、米軍の沖縄占領戦当時、この洞窟に避難していた住民140人のうち85人が集団自決などにより命を失った =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】チビチリガマの入口に立っている「チビチリガマの歌」歌詞 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】チビチリガマの前。傘をさした人の後方下が入口 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 デジタルカメラのあかりで内側を照らしてみたが、人の出入りが禁止されている洞窟内はそれでも何も見えなかった。心配になったのか、一緒に行った稻福氏が入口で懐中電灯を照らしてくれた。勇敢にも闇の中に飛び込みはしたものの、その瞬間背筋が寒くなった(写真説明4-1,4-2,4-3)。 1944年10月、米軍機が沖縄空襲を始めた後、波平の住民はそこを避難所として利用した。
 1945年3月以後、ここに避難した人は140人だった。洞窟は大きくなく天井も低く、それほどの数の人が入れば身動きも難しい過密状態であった。4月1日に上陸した米軍がそちらにきた。老人と彼らの娘たちが竹槍を持って米軍に向かって駆け寄り、老人二人が射殺された。
 ガマの中の住民たちは絶望感と恐怖に包まれた。 米軍に捕まれば日本軍が中国人を無慈悲に蹂躪し虐殺したように、無残に殺されるという話を日本軍から聞いた彼らは、捕虜になるよりは死ぬ方がマシと洗脳されていた。
 サイパンから帰郷した二人の男が「自決」を叫んで毛布に火をつけると、女性4人がこれに反発して火を消した。子供たちがいたためだ。
 人々は自決賛成派と反対派に分かれた。その翌日、米軍が再び来て、18歳の少女が母親の手で首を絞められ死んだ。母親は米軍に殺されるよりは娘を“強制自決”させる方を選んだのだ。満州から帰郷した従軍看護婦から毒劇物の注射を受けて自決した人もいた。 14~5人が「天皇陛下万歳!」を叫んで自決した。
 誰かが再び毛布を集めて火をつけ、ガマの中は生き地獄になった。「痛い、痛い」という悲鳴が上がった。 子供たちが母親たちの手で死ぬときに上げた悲鳴だった。チビチリガマに逃げた140人のうち85人がそんな風にして亡くなった。(沖縄の戦跡ブック ガマ』、沖縄県高教組教育資料センター ガマ編集委員会編、2013年6月改訂版)

■ 座間味島の集団自決
 ちょっと違う話だが、沖縄本島の南西側にある慶良間諸島の座間味島で起きた“集団自決”の悲劇に関する描写を若干引用してみよう。当時の状況を想像するのに役立つだろう。
 「座間味島の宮平ウタさん(当時43歳)夫婦は、子供3人と共に自宅に掘ってあった防空壕に避難した。彼らは、当時そちらを占領していた日本軍32軍部隊員から『玉砕しろ』との命令を受けた。米軍が艦砲で撃つ弾幕を突き抜けて集合場所の忠魂碑まで行くと、日本軍兵士が防空壕で玉砕するとして手榴弾を配った。
 それを持って来た彼らが防空壕内で眠りから覚めたのは、ウタさんが『米軍が来ている! はやく子供たちから殺して!』という声を聞いた時だった。彼は妻の首をはねようとかみそりで数回ひいた後、11歳の息子もそのようにした。 そして9歳、15歳の二人の娘、最後に自身の首をはねた。 息子は亡くなり、他の4人は瀕死の重傷を負った状態で米軍の手で救出された。
 ウタさんの家族のように、男がいる家族ほど犠牲は大きかった。死んだ人のうち、女性と子供(12歳未満)が83%を占めた。そこには“敵”に殺される前に自殺することを美徳とする家父長制社会の性道徳も大きく作用したと見られる。
 座間味島では村長をはじめ村のリーダーたちが皆、一家『集団自決』をしたが、日本軍が駐留していなかった村や島々では「集団自決」は起きなかった」。(『軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』女たちの戦争と平和資料館 wam、2012)この資料が指摘しているように、沖縄住民たちの集団自決は主に日本軍の推奨と強要に従ったものだった。
 集団自決に使われた道具は、手榴弾とかみそりの他に青酸カリ、鉈、鍬、鎌、紐、包丁、農薬、石、木材などで、身のまわりの全てのものが凶器になった。
 そのような「集団自決」という虐殺が、沖縄本島はもちろん周辺の多くの島々、さらに遠い台湾近隣の与那国島でも強行された。現場実態調査を通じて確認された事実に基づいて作成された『沖縄の戦跡ブック ガマ』は、沖縄の多くの村で強行されたおぞましい虐殺の実態を具体的に伝えている。

■糸満の12万人の犠牲
 避難民20万人が集まっていた沖縄本島最南端の糸満では、避難民の死亡率が平均70%を越えた地域が多く、最大94%に達した地域もある。稻福氏は「ガマの中に逃げて身を守った20万人のうち、生きて帰った人は8万人程度で残りの12万人は亡くなった」と話した。
 20万人の避難民の97%は現地の住民たちだったという。「南部の3カ村だけで住民の70%に該当する7万人が死んだ」と稻福氏は話した。多くの住民たちが日本軍が守っているガマから出て行くこともできず、出て行って戻って来た人々の中にはスパイの汚名を着せられ処刑された事例も少なくなかった。 日本軍は「沖縄弁を使うやつらは全員スパイ」とまで言った。
 そのような不信と差別は、軍夫や慰安婦として連れて行かれた朝鮮人にはさらに苛酷だった。 多くの日本軍が最後に手榴弾で住民たちと共に自爆したり、銃を撃ったり首をくくるなど残酷な集団自決の道を選んだ。そのようなガマが糸満一帯だけで8百カ所あったという。
■3万5千人の霊魂が安置された「魂魄の塔」

【写真】沖縄南部の糸満市の南側、北中城村にある「魂魄の塔」=ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】「魂魄の塔」の案内文が彫られた石碑。3万5千人の亡骸を安置したという説明が見える =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 糸満の南部、北中城村には「魂魄の塔」があるが、石をセメントで固めて作った基礎に石碑が立っているこの塔を中心に多くの碑石とオブジェが立っている大規模追悼施設だった(写真説明4-4,4-5)。一時は3万5000人の遺骨を奉安した所だ。こちらは生き残った住民たちを収容所に保護していた米軍が、米軍基地の造成のために故郷に帰れなくなった人々を1946年初めに移住させたところだ。

【写真】普天間基地の内部を遠くからでも眺望できる展望台から基地の内側を見ている人々 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】糸満市の南側にある北中城村にある「魂魄の塔」 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 人口が再び増えて住民たちが田畑を開墾することになり、そこから多くの遺骨が出てきた。主人も分からないその遺骨を集めておいたところが魂魄の塔が立てられたところだが、1979年に近隣の摩文仁に国立沖縄戦没者墓地が造成され、そちらに骨はほとんど移し、今は少数の象徴遺骨だけが残っている。稻福氏はそちらでまだ遺骨が発見されていて、大型爆弾も発掘されたと話した(写真説明4-6,4-7)。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者
韓国語原文入力:2015/08/04 10:26 訳J.S(3526字)
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「[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(3)」

2019年03月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21565.html
「The Hankyoreh」 登録:2015-08-08 06:26 修正:2015-08-16 07:44
■[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(3/6)■
 1. 米軍基地に占領された沖縄(下)

■普天間米海兵隊基地前のデモ

【写真】普天間基地ノダケゲートで基地反対デモを行っている68歳の上間芳子さん(68)「戦争(2次大戦)後、(米軍に)沖縄を奪われた。米軍基地のために沖縄の自立的社会建設が不可能になった」 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 10人余りの老人たちと共に普天間基地のノダケゲート側正門前で「NO!」と書かれた大きなプラスターを持って基地反対を叫んでいた美しく歳をとった上間芳子さん(68)は、「戦争(第2次大戦)後、(米軍に)沖縄を奪われた」として、「米軍基地のために沖縄の自立的社会建設が不可能になった」と話した(写真説明3-1)。
 彼女も沖縄駐留米軍経費の70%を日本政府(日本国民)が負担している状況で、米軍基地の沖縄経済寄与度は5%にしかならないと話した。さらに、県議会、市町村も全部、沖縄住民全体が沖縄の発展を遮っている米軍基地に反対していると話した。
 東京近隣の千葉県生活協同組合(COOP)で仕事をして、60歳で定年退職して故郷に帰って以来、ずっと基地反対運動を続けてきた上間芳子さんは、その日のように雨が降ったり暑い夏の昼間がデモするには最もしんどいと話した。
 彼女はソウル、済州島江汀、光州(クァンジュ)などにも行ったことがあると言い、年に一、二度は韓国に行って韓国市民との連帯活動を行っているとも話した。

【写真】普天間基地の前で反対デモを行っている73才の渡嘉敷喜代子氏。「生命を賭けて戦っている。ここで負ければ沖縄全体が負ける。韓国民も積極的に応援してくれることを望む。秘密保護法などを通過させた安倍の右傾化は結局戦争前に戻ろうということだ」 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 同じプラスターを持っていた73歳の高齢婦人、渡嘉敷喜代子氏は「生命がけでこのけんかをしている」とし、「ここで私たちが負ければ、沖縄全体が負ける。韓国のひとたちも積極的に応援してほしい」と話した。 彼女は「秘密保護法などを通過させた安倍の右傾化は、結局戦争前に戻ろうということ」とも話した(写真説明3-2)。その日ぼ集会を主導した行動隊長格に見える大田朝暉氏は81歳の老人だった。

【写真】普天間基地ノダケゲートで基地反対デモを行っている81歳の大田朝暉氏 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 彼は中日間の尖閣(釣魚島)紛争について、「政略的に利用しようとする勢力が意図的に作ったこと」とし、そのために中国との戦争は起きないだろうと楽観した(写真説明3-3)。韓国も似たような問題を抱いているのでないかと話した彼は、蝶々と蝶々の餌を供給する事業をしていた。彼が差し出した名刺には、「蝶々が舞う平和な島 沖縄を!! 拠点になるのは学校だ!!」 「オオゴマダラ(沖縄南部だけで自生する日本最大の蝶)を飛ばそう!!」という字句が刷られていた。

■那覇市庁前の基地反対デモ
 那覇中心街にある市庁前広場で「(仲井眞)知事は“辺野古(海岸)埋め立て”を承認するな」というスローガンが大きく書かれたテントを張り、マイクを握って街頭演説して、座り込みデモを行った人々も彼ら老人だった。
 残念ながらそのような場に若者たちの姿は殆どなかった。上間芳子さんはそのようなデモ現場に「若い人たちが駆せ参じる韓国がとてもうらやましい」と話した。

【写真】沖縄の中心都市那覇の中心街にある市庁前広場で、「(仲井眞)知事は辺野古埋立に不承認を!」などのスローガンが大きく書かれたテントを張って、マイクを持って街頭演説を行い、座り込みデモを行う老人たち =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】沖縄の中心都市那覇の中心街にある市庁前広場で、「(仲井眞)知事は辺野古埋立に不承認を!」などのスローガンが大きく書かれたテントを張って座り込みデモを行う老人たち =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】沖縄の中心都市那覇の中心街にある市庁前広場で、「(仲井眞)知事は辺野古埋立に不承認を!」などのスローガンが大きく書かれたテントを張って座り込みデモを行う老人たち =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 沖縄のお年寄りたちは、それでも少しも萎縮せず長期に亘りそのような作業を粘り強く続けていた(写真説明3-4,3-5,3-6)。

■「基地がなくなってこそ沖縄は発展する」
 本土出身だが若林教授は沖縄駐留米軍基地に対して好意的でなかった。若林教授はハワイを訪れる観光客が年間1千万人であるのに沖縄は600万人としながら、観光産業、人と貨物が通過する航空・海上ハブとしての地政学的価値、中継貿易などを活用すれば基地がなくとも沖縄は自立できると話した。 米軍基地に反対する若林教授は、今回の沖縄取材で全般的な状況説明と共に、志を同じくする現地の人たちを紹介し案内を斡旋するなど多方面で助けてくれた。
 沖縄を発つ一日前、夕食を共にしたメディア『TCT News』の高嶺朝一代表など、若林教授の周辺の沖縄知識人グループの考えも彼と同じだった。沖縄の二大新聞の一つである琉球新報社長出身の高嶺代表の考えは、沖縄知識人主流の考えと大きく異ならないだろう。米軍基地に反対する人々は、基地がなくなってこそ沖縄は発展できると話した。
 彼らは沖縄島のあちこちを占めて居座った基地が自然と経済・文化の土台を破壊して正常な発展を遮る障害物だと考えていた。 韓国ですでに問題になっている米軍基地の土壌汚染問題を彼らも深刻に考えていた。
 そのような考えを持った住民たちは、時間の経過と共にますます増えているようだ。都市が拡張され、市街地に包囲された一部の米軍基地の土地が民間の土地に転換され、そこには大規模な慰安施設や日本本土と米国などの外国資本が作る大型マートが建っていた。 人々は沖縄の土着経済を脅かす彼らを警戒していた。

■お金の威力の前に崩れた仲井眞知事
 それでも仲井眞知事は結局、普天間基地の県内移転を受け入れた。自民党の支援を受けて知事に当選したが、住民たちの強力な普天間基地県内移転反対世論に押されて県内移転反対の立場を表明し機嫌を取った彼は、安倍晋三首相に会い巨額の中央政府補助金支援の約束を受け取った直後に自身の公約を覆してしまった。
(仲井眞知事は2014年11月16日に実施された沖縄県知事選挙に自民党と次世代の党の推薦を受け出馬したが、普天間米軍飛行場の辺野古移転、すなわち沖縄県内移転反対を明らかにした翁長雄志候補に敗れ3選に失敗した。那覇市長出身の翁長新知事は当時、「もはや米軍基地は沖縄経済の発展の阻害要因になった。政府が強行しようとする辺野古の新基地建設に断固反対する」と表明した。翁長現知事の選挙出馬で空席になった那覇市長選挙も同日実施され、翁長側近が当選した。これは米軍基地と日本政府の政策に対する沖縄住民の否定的感情がどれほどなのか改めて鮮明に見せつけることになった)
 韓国で翻訳出版された『日本の領土紛争』(邦題:『日本の国境問題』)『米国は東アジアをどのように支配したか』(邦題:『戦後史の正体』)などの著者である孫崎享氏は、最近また別の本で安倍政権下で辺野古への基地移転作業が着々と進行される裏面には、お金の威力が作用していると指摘した。
 外務省国際情報局長やイラン駐在大使を歴任した外務官僚出身の彼は、名護市に属する辺野古地域の漁民の多くが、市長をはじめとする名護市民多数の反対にもかかわらず辺野古への基地移転に賛成している理由は、その地域の1世帯当り1億円という巨額の補償金を約束されたためといううわさを想起させた。
 2000年代前半期に提示した金額が1億円(10億ウォン!)だったと言うので、現在の安倍政権が提示した金額はそれよりはるかに大きかったかもしれない。

■キャンプ シュワブから追い出される
 問題のキャンプ シュワブを調べるために二時間ほどバスに乗って行った辺野古地域は、タクシーに乗るためには道路沿いの店に入ってタクシー会社に電話を頼み、タクシーが来るまで25分待たなければならない寂しいところだった。
 路上で会った50代と思われる男性に、タクシーに乗りたいがどのようにしたら良いかと尋ねた時も25分という話を聞いた。その男性は自身の携帯電話を取り出してタクシー会社に電話をかけてくれ事情を話すと、タクシーは来ることは来るが25分待って欲しいと言う。雨まで降り出して暗くなった道端に立って25分もタクシーを待たなければならないとは。2車線道路を往来する車の中にタクシーはほとんど目につかず、空車のタクシーは全くなかった。困ったことになったなと思い、「ありがとう、他のタクシーを探してみます」と言って、遠くに見える店に入ったのだが、そこでもまた25分待ちとのことだった。止むなく、お願いしますと言って、そのまま店にじっとしているわけにも行かず、その小さな雑貨店で商品をいくつか買った。こんな経験をして、“日本人”と言われるのが常である彼らの礼儀正しさや親切で丁重なことを改めて痛感して感謝にたえない。辺野古の冬はまだ午後5時にもなっていないのに薄暗く、タクシーが来た時には完全に暗くなっていた。
 窮屈な日程のためにその日の夜には宿舎に戻らなければならなかったので、タクシーに乗って急いで見てまわることにした。途中、辺野古住民センターのようなところに立ち寄ったが、電気は点いていたが誰もいなかった。 英語の看板が増えてきたと思うと明るく照明されたキャンプ シュワブの正門が現れた。

【写真】沖縄本島北側の名護市近隣の村、辺野古にある米軍基地キャンプ シュワプの正門。日没後にタクシーでこちらを訪ねて写真を撮っていると警備員が駆けつけてきて妨害した =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 道路から正門までは100メートル位、幅30メートル程度の予想より広い入口は高さ1.5メートル、幅2メートル程度のプラスチック製遮断壁がジグザグに並んでいた。そして、ものものしい鉄条網で塞がれた出入口。 その様子だけでもカメラに収めようとタクシーのドアを開けて外に立ってシャッターを何度か押したところ、夜間撮影のフラッシュが光り、その瞬間に制服姿の警備員2人が何か叫びながら威嚇的な姿勢で駆け寄ってきた(写真説明3-7)。
 タクシー運転手も予想外だったのか、あたふたと私を乗せて後に下がった。大きく下がって道路側に近い所からでも照明の中に浮かぶキャンプ シュワブの入口の様子でも写真に撮っていこうと思い、再びタクシーのドアを開けて外に出て、カメラをそちらへ向けると、警備員がそこまで追いかけてきて何か怒鳴りながら邪魔しまくった。
 正面から立ち向かい、何故そうするのかと問い詰めてみる勇気も無く、ただ驚いて逃げてしまった。タクシーの運転手にも、その後に会った人々にも訊いてみたが、以前はそのような場合にそれほど険悪に(?)出て来なかったといい、意外そうな顔をしていた。そして、2001年9・11事態以後にそうなったようだという解釈を付け加えた。
 普天間が移転して来れば滑走路が建設される筈の海岸側は、すでに暗くなって見えるものもなく、そのような状況では道を訊きながら訪ねて行ってみる気にもなれなかった。
 そんな静かな漁村に一世帯当り1億円という金爆弾が落ちれば、精神が混乱しない方がかえっておかしくないか。
 孫崎享氏によれば、思いやり予算は1970年代の中盤の田中角栄首相の時期、金丸信氏が防衛庁長官を務めていた時に法的根拠もなく政治的判断により米軍に渡し始めたが、初めは数十億円程度で始めたのが、どんどん増えて2011年度には1858億円にもなった。
 ここに基地周辺対策費1739億円、土地等の賃貸料1658億円、米軍再編関連費用1161億円を合わせれば、日本政府が負担した金額は6000億円を越えた。日本は金銭で米軍基地に対する沖縄住民の反感を押さえ込んでいるわけだ。
 それでも沖縄は日本で住民平均所得水準が最も低い地域だ。 低いと言ってもただ低いのではなく顕著に低い。
 初日の夜に若林教授一行と話した中で、私が行った日の前日である12月14日沖縄タイムズに沖縄の貧困率が日本で最高という記事が載せられたと言った話を思い出して、後になって探してみた。
 山形大学の戸室健作准教授(社会政策)が調査した結果に基づいて作成されたその記事で、必要最低生活費も稼げない絶対貧困率が沖縄では29.3%で、二位である高知県の21.7%よりはるかに高かった。全国平均14.4%の2倍を越えている。就業世帯のうち最低生活費も稼げないワーキングプアの比率も沖縄が20.5%で、その次の大阪が11.3%であった。
 ところで妙なことに、これらの貧困層の中で生活保護を受けている世帯の比率は沖縄が最も低い9.8%だ。全国平均は14.3%。日本政府は沖縄に米軍基地を置いておくための金は注ぎ込むが、肝心要の住民生活側にはこれと言った関心がないという話なのか?

■米軍が沖縄と韓国に駐留している理由
 「米軍が沖縄に駐留する最大の理由は、全体経費の4分の3を日本政府が負担するため」と孫崎享氏は話した。普天間基地の辺野古への移転経費も、ほとんど全て日本政府が負担する。韓国の防衛費分担金は、まさにこの日本の“思いやり予算”を真似たものだ。
 平沢(ピョンテク)への米軍基地移転経費もやはり、公式的な発表とは異なりほとんどを韓国政府が負担しているではないか。米軍が沖縄に次いで多くの地上軍を韓国に駐留させている理由は、沖縄と同じように駐留経費の大部分を韓国政府、いや韓国国民が負担するためだという主張が成立するのではないか。
 基地負担を抱え込んでいるという点で韓国と似ているのは日本本土ではなく沖縄だ。沖縄は日本領土の0.6%にしかならないが、在日米軍基地の74~5%が集中配置されている。
 従ってヤマト(大和)日本が米軍基地駐留による負担をほとんど全て沖縄に押し付けているのだが、本土と沖縄のそのような不公平な関係を宗主国と植民地の関係と見る視角が多い。沖縄は日本の内部植民地というものだ。実際、沖縄県現地の多くの住民が抱いている憤怒、悔しさ、拒否感の中に深く潜んでいる感情は、この植民地的状況に対する拒否感だった。
 米軍基地と関連して、沖縄のこの植民地的地位を共有しているのが大韓民国といえる。韓国には基地負担を押し付ける植民地がない。いや範囲を少しだけ広げてみれば、大韓民国という国自体が、沖縄とともに東アジア米日同盟体制を支えている最前線であり、米国の植民地だと言えば、とんでもない歪曲で誇張であろうか。
 沖縄人がヤマトンチュ(大和人)と呼ぶ日本本土の人々に不信感を抱き、“沖縄独立”という言葉が出るほどに脱日本の動きを見せているのは、基地問題のみならずさらに根強い理由が作用している。

■ 近代の悲痛な歴史がその中心にある
 1995年に起きた米海兵隊員による女子中学生性暴行事件、そして第2次大戦当時に日本軍によって強要された“集団自決”等の沖縄人受難史を歪曲した日本政府の歴史教科書修正指示事件などを糾弾する集会に、沖縄の全人口の10%に近い10万人以上が集まった。 そのような事件を通じて沖縄が近代の足かせから目覚めている。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者
韓国語原文入力:2015/08/04 10:26
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/704569.html
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「[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(2)」

2019年03月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21564.html
「The Hankyoreh」 登録:2015-08-08 06:20 修正:2015-08-16 07:45
■[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(2/6)■
 1. 米軍基地に占領された沖縄(上)

■ 那覇空港は軍用飛行場?
 12月15日正午頃。浅い海に広がる珊瑚礁を見られる澄んで青い沖縄の海の上をかすめるように飛んで行った飛行機が滑走路に軽やかに着陸した。  那覇空港の庁舎側に近付く飛行機の窓を通じて、空港周辺の風景が次々と目に映った。 印象的だった。
 陸上自衛隊、海上保安庁などの大きな文字が記された格納庫のような建物が現れ、その前には大小の軍用機が立ち並んでいた。明らかに民間旅客機が着陸した滑走路なのに。あれは訓練機、偵察機、輸送機、そして戦闘機、ヘリコプター、あれはP3C? 那覇空港は民軍共用か?
 後で地図を見ると、その周辺には陸上自衛隊訓練場、航空自衛隊高射訓練場、陸上自衛隊駐屯地、航空自衛隊と海上自衛隊の基地が広がっていた。
 そこに米軍機の姿はなかった。
 だが、那覇空港を出てリムジンバス(仁川空港に行く時に乗ったバスに較べれば圧倒的に遅かったが)で50分ほどかかる北側の北谷地域にある宿舎に行く時、道の両側に見えるのはすべて鉄条網をまいた米軍基地だった。

【写真】沖縄那覇の北側にある北谷近隣にある東アジア最大の米空軍基地 嘉手納 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 先ず沖縄米軍基地問題の象徴のようになってしまった宜野湾の普天間米海兵隊基地、キャンプ瑞慶覧(フォスター)、キャンプ桑江(レスター)、キャンプバトラーと続き、北谷のすぐ北側は東アジア最大の米空軍基地である嘉手納があった(写真説明2-1)。

【写真】沖縄の海岸地域の相当部分を占めている米軍基地を囲んでいる鉄条網 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】海岸沿いにある米軍基地 キャンプキンザーの正面 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】鉄条網に囲まれた沖縄の米軍基地 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】展望台から米軍普天間基地内を見下ろす人々 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 また、その北側の読谷からはトリイ通信施設、瀬名波通信施設、読谷補助飛行場、嘉手納弾薬庫、その右にはキャンプコートニー、さらに上側の名護市まで巨大なキャンプ ハンセン、キャンプ シュワブ、辺野古弾薬庫…(写真説明2-2,2-3,2-4,2-5)。
 道路に接する普天間基地の鉄条網の内側には、淡いクリーム色の階数不明な直方体の低いブロック建物が並んでいた。 建物の周辺には勤務者たちが乗ってきたと見られる車がびっしりと駐車していた。済州島(チェジュド)の小さな坂道のような、芝で覆われたやや高く突き出た石油貯蔵タンクもあちこちに見えた。だが寂しく感じられるほどに人の姿はほとんど見当たらなかった。
 リムジンバスに乗る前、空港のバス停留場でバスが来るのを待っている間、補助員の名札をつけた愛想の良い青年と立ち話をした。
 30代初めと見える中坊さんはバスの配車時刻から沖縄観光に至るまで、どんな話でもよどみなくさらさらと説明してくれた。ところが、普天間基地移転の問題についてどう思うかと尋ねると、しばらく躊躇って「それについては私は何とも言えません」とはっきり断った。なぜだろうか?
 「お母さんが嘉手納基地で仕事をしている。ここにはそんな人が多い」。普天間基地の話を持ち出したのは、まさにその10日後辺りに仲井真弘多沖縄県知事が普天間基地を北側の名護市辺野古のキャンプ シュワブの海岸側に移す問題に対する最終決定を下さなければならない期限が迫っていたし、それが沖縄の住民たちの最大関心事になっていたからだ。
 辺野古への基地移転に対して沖縄住民の64%が反対しているという世論調査内容がその数日後である12月17日、現地の二大有力日刊紙の一つである沖縄タイムズの1面トップ記事であった。
 それはすなわち、沖縄住民の3分の2が米国と日本政府が要求する辺野古への基地移転、すなわち辺野古近海埋立てを仲井真知事が承認してはならないと考えているという話であった。
 だがその10日後、仲井真知事は住民たちのそのような願いを裏切った。住民は激昂し、県議会議員は賛成多数で知事の退任決議案を通過させた。
 法的拘束力はないが、沖縄の歴史でそんなことは初めだった。沖縄タイムズ、そして一緒に沖縄の世論を主導してきた琉球新報は社説で、辺野古への基地移転を飽くことなく推進する安倍晋三自民党政権の懐柔(お金)と圧迫に屈服した仲井真知事をを裏切り者として強く糾弾した。

■ 米軍基地の沖縄経済への寄与度はせいぜい5%
 沖縄到着当日の夕方に会った若林千代・沖縄大教授(政治学)は「米軍基地の沖縄地域経済への寄与度は5%に過ぎない」と話した。
 1993年に創刊された沖縄住民の平和運動を代弁する季刊誌『けーし風』(けーしかじ)の編集長である岡本由希子氏、沖縄恨之碑の会の共同代表である安里英子氏など、その日一緒に会った人々も在日米軍基地の74%が集中している沖縄、その沖縄本島の約20%を覆っている米軍基地が沖縄経済に占める比重は急速に低下しているとし、そのため沖縄の保守層さえ最近では米軍基地反対側に転じていると話した。安里氏は恨の碑の花こう岩に彫られた碑文を書いた人だ。
 基地に雇用されている住民たちが受け取る賃金も、結局は日本政府が米軍に提供するお金(思いやり予算)で支払われている。彼らの話を総合すれば現地米軍基地に雇用されている沖縄住民は7~8千人程度。外来客である私に自ら話しかけて「米軍基地が今撤収してしまえば日本を守ることはできない」と話した高齢のタクシー運転手が話した米軍基地に雇用されている現地住民数もその程度であった。平均3~4人と推算される関連家族を全て合わせても米軍基地と直接的な関係を持っている沖縄の人は2~3万人。140万人いる沖縄全体の人口の3%にも満たない。
 「沖縄平和ネットワーク」事務局の稲福勉氏とともに、第2次大戦末期に20万人以上が亡くなった沖縄中南部の激戦地における住民虐殺現場を案内してくれた岡田耕子 「沖縄平和市民連帯」活動家は、「沖縄経済のためには米軍基地が不可欠と考える人たちの中には新聞を読まない人が多い」として次のように話した。
 「今、日本で米軍基地に反対している人は日本全体の人口の1%にしかならない。その1%とはまさに沖縄の住民たちだ」
 少なくとも沖縄住民の圧倒的多数が普天間米海兵隊基地の沖縄県内移転、すなわち沖縄北東部名護市の辺野古への移転に反対しているのは明らかだった。 彼らの大多数は米軍基地そのものに反対していた。
 しかし岡田耕子氏の言葉にさらに胸が痛むのは、その話には、沖縄がほとんど全面的に負担を抱え込んでいる米軍基地の沖縄駐留に日本本土の人たちは賛成している、いや本土の日本人たちはこれまでその問題による沖縄人の苦痛には全く関心さえないと考える沖縄住民たちの離反感と自嘲、冷笑が含まれているためだ。

■ 日本人ではなく沖縄人
 「日本人」ではなく「沖縄人」と呼ばれることを願う、彼らのそのような心情を普天間基地正門前や市庁前広場で「NO!」「OUT!」を叫び、連日基地反対、辺野古移転反対デモを行っていた65歳以上の老人たちからも読むことができた。

【写真】宜野湾の普天間にある米海兵隊基地ノダケゲート前で「NO!」と書かれた大きなプラスターを持って基地反対デモを行う老人たち。後に見えるのが普天間基地の正門 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】普天間基地前での反対デモ現場 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 米兵が乗った車が基地から出てくるたびに、運転席のすぐ前で手を上げて「NO!」「OUT!」と叫んでいた風景、「NO FLY ZONE!」「OSPREYS OUT!(新型垂直離着陸輸送機オスプレイ配備反対)」「MARINES OUT!」(米海兵隊撤収)などの旗が無数に翻っていたその風景の上を、すぐ後方の普天間滑走路から離陸したC-17と見える巨大輸送機が轟音を響かせてデモ現場側に向かって飛び上がっていった(写真説明2-6,2-7)。その瞬間の非現実的に映った奇妙な光景が鮮やかに目に浮かぶ。

■ 沖縄ではそのような輸送機や戦闘機が終日飛び回る

【写真】終日沖縄上空を飛び回る米軍の全天候戦闘機F-15Cイーグル、または戦闘爆撃機F-15Eストライクイーグル =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 通常2機が一緒に飛び回り、最も耳をつんざくような騒音を立てる小さく敏捷な機種は、ボーイングが改良した全天候戦闘機F-15Cイーグルや戦闘爆撃機F-15Eストライクイーグルのようだった(写真説明2-8)。
 嘉手納空軍基地を眺望できる近隣の簡易サービスエリアである道の駅嘉手納の4階で、天地を振るわせて滑走路を疾走し急上昇するそのような戦闘機2機を見た。何という飛行機かと尋ねると、稲福勉氏はF-15Cイーグルだと言った。
 2千ヘクタールで嘉手納市の全面積の83%を占めている嘉手納空軍基地は、米軍に収容される前は地元の農民が耕作していた広々としたサトウキビ畑だった。強制動員された多くの朝鮮人軍夫も米軍が拡張する前に日本軍がそこに建設した飛行場建設工事に動員され、「奴隷のように使役された」という記録が残っている。
 普天間基地から出てくる車の中の米兵はすぐ外で自分たちに向けられたデモ参加者のヤジと叫びにすっかり慣れたように目もくれずに表情も一切変えずに話を続けていた。そうだ、無表情、無関心。 それが彼らの戦略だ。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者
韓国語原文入力:2015/08/15 18:04
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/704569.html
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「[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(1)」

2019年03月19日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21563.html
「The Hankyoreh」 登録:2015-08-08 06:10 修正:2015-08-16 07:46
■[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(1/6)■
 この文は「5・18記念財団」の支援を受けて2013年12月15~19日に沖縄現地取材した内容を、同財団が発行する『アジア ジャーナル』2014年春、第8号企画シリーズ「アジア記憶の空間」に“沖縄”というタイトルで整理し掲載したルポルタージュである。
 現在とは1年半を超える時差があるが、第2次大戦時に数十万人が犠牲になった沖縄人は今も米軍基地反対運動を戦っており、また沖縄に連れて行かれて犠牲になった多くの朝鮮人徴兵・徴用者と日本軍慰安婦の話は、過去ではなく依然として現在進行形であり,この沖縄ルポを行わせた問題意識も変らず有効だ。
 そのような脈絡で2013年12月の沖縄は2015年8月の沖縄と同時代的空間の現場であり、このルポもまた過去ではなく現在のことだ。

*********

■ 恨の碑
   この島はなぜ寡黙になってしまったのか
   なぜ語ろうとはしないのか
   女たちの悲しみを
   朝鮮半島の兄姉たちのことを

   引き裂かれて連行された兄たち
   灼熱の船底で息絶え
   沖縄のこの地で手足をもぎ取られ
   魂を踏みにじられた兄たち

   戦が終わり時が経っても
   この島から軍靴の音が絶えることはない
   奪われた土地、消えたムラ、女たちの悲鳴は続き
   人々の心は乾いたままだ

   兄たちよ
   未だ供養されず石灰岩の隙間に埋もれる骨、骨、骨
   故郷の土饅頭に帰ることもかなわない
   兄たちよ

   私たち沖縄人は
   未だ軍靴に踏みにじられたままの
   兄姉たちの魂に
   深く頭を垂れる

   日本軍の性奴隷として踏みにじられた姉たち
   軍夫として犠牲になった兄たちに深く頭を垂れる
   やがて固く結んだ鳳仙花の種が弾け
   相互の海を越えて花咲くことを信じて

   兄姉よ、あなたたちの辿った苦難を語り継ぎ
   地球上から戦争と軍隊を根絶することを
   この地に果てた兄姉の魂
   私たちは誓う


【写真】中頭郡読谷村瀬名波の狭い田舎道の路肩の草むらに置かれている「恨の碑」案内板 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 2013年12月17日、沖縄の嘉手納空軍基地のすぐ上にある中頭郡読谷村瀬名波の狭い田舎道の路肩の草むらの奥に小さな表示板が見えた。白い土台に青いペイントで描かれた矢印と「恨の碑」という字(写真説明1-1)。
 それを過ぎて小さな丘を上がると、韓国の農村の堂山木の下のような場所があり、そのそばの塚に人の背丈ほどのレリーフ像が斜めに立っていた。小銃の台尻を振り上げる兵士と目隠しをされて処刑台に引きずられて行く男、彼の脚にすがりつき、ひざまづいて泣き叫ぶ老母(写真説明1-2,1-3)。 そのそばに立つ花こう岩の碑石に「この地に果てた兄姉の魂に」というタイトルをつけたこの碑文が日本語と韓国語で並んで彫られていた(写真説明1-4)。

【写真】「恨の碑」の横に立つレリーフ像。小銃の台尻を振り上げる兵士と目隠しをされて処刑台に引きずられて行く男、彼の脚にすがりつき、ひざまづいて泣き叫ぶ老母の姿が刻まれている。そのそばに『この地に果てた兄姉の魂に』を刻んだ碑石が立っている=ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】「恨の碑」傍のレリーフ像 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社
【写真】『この地に果てた兄姉の魂に』が彫られた碑石。左は日本語、右は韓国語 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

※本ルポは以下の通り6部で構成されます。
 (1/6)はじめに
 (2/6)1. 米軍基地に占領された沖縄(上)
 (3/6)1. 米軍基地に占領された沖縄(下)
 (4/6)2. 沖縄の悲劇
 (5/6)3.朝鮮人性奴隷
 (6/6)4. 根が深い沖縄の悲しみ

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者
韓国語原文入力:2015/08/15 18:04 訳J.S(1230字)
http://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/704569.html
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「日本政府「日本企業の韓国内資産を現金化すれば、報復関税を発動」」

2019年03月13日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://japan.hani.co.kr/arti/international/32989.html
「The Hankyoreh」 2019-03-11 08:12
■日本政府「日本企業の韓国内資産を現金化すれば、報復関税を発動」
 日本政府が、韓国の最高裁判所(大法院)判決で昨年最終的に勝訴した韓国人強制動員被害者らが、韓国内にある日本企業から差し押さえた資産を実際に売却した場合、韓国産輸出品に報復関税を課す対抗措置をとる方針を固めたものと見られる。
 時事通信は9日付で、複数の日本政府関係者を引用し、「日本政府が(1965年)日韓請求権協定に基づく協議をぎりぎりまで呼びかける方針だが、韓国政府がこれに応じる兆しはない」とし、日本政府がすでに具体的な報復措置のリストアップを終えたと報じた。同紙によると、日本政府は報復関税▽一部日本製品の供給停止▽ビザ発給制限など、韓国に対する100前後の対抗措置の選択肢を用意しているという。
 日本政府は今後、資産の売却が実行され、日本企業に実質的な被害が及んだ場合、このような措置の世界貿易機関(WTO)協定との整合性や日本経済に与える影響などを考慮し、決断を下す見通しだ。日本政府はまた、韓国政府に提案した協議要請を取り下げ、請求権協定によって第3国委員を含む仲裁委員会の設置を要請する予定だという。
 これに先立ち、韓国の原告弁護団は1月18日と2月15日、三菱重工業に損害賠償と関連し協議を進めるよう要請したが、拒否された。弁護人団はこれを受け、4日「近いうちに三菱重工業の韓国内資産(商標、特許)に対する強制執行(差し押さえ)手続きを踏む予定」だと発表した。韓国弁護人団が日本企業の韓国内資産に対する差し押えと現金化を急がないのは、彼らに最大限誠実に協議に臨む機会を与えることで、不必要な外交摩擦を避けるためとみられる。
 しかし、日本政府は日本企業に被害が発生した場合の対抗措置をちらつかせ、対決姿勢を強めている。これに先立ち、自民党の外交部会は今年1月30日、長嶺安政駐韓日本大使を呼んで会議を開き、資産売却が行われた場合は大使の召喚や防衛に関連した物品の輸出制限などを行うべきと主張した。時事通信は、こうした報復措置を発動されれば、韓日関係のさらなる悪化は必至だと指摘した。

キル・ユンヒョン記者
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/885262.html
韓国語原文入力:2019-03-10 20:21


https://japanese.joins.com/article/070/251070.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年03月11日07時05分
■「日本、徴用被害者強制執行対応の報復リスト準備」
 強制徴用被害補償裁判の原告が日本企業の資産を売却する場合に対応し、日本政府は関税引き上げなど100前後にのぼる対抗措置をリストアップしたと、時事通信が9日報じた。
 時事通信は複数の日本政府関係者の言葉を引用し、原告が日本企業の資産を売却する場合、企業に実質的な被害が発生したと見なし、日本政府が対抗措置を発動する方針を固めたと伝えた。
 昨年10月に韓国最高裁は日帝強占期に強制動員被害者が現新日鉄住金(現新日鉄住金)を相手に起こした損害賠償請求訴訟で被害者に1億ウォン(約1000万円)ずつの慰謝料支払いを命じる判決を確定した。被害者弁護団は1月の新日鉄住金に続き、7日には三菱重工業に対する国内資産の差し押さえをそれぞれ韓国裁判所に申請した。新日鉄住金の資産に対する差し押さえはすでに承認も出た。
 時事通信によると、日本政府が検討中の対抗措置は100前後。関税引き上げを含む一部の日本製品の供給中断、ビザ発行制限などもある。
 河野太郎外相は8日の参議院予算委員会で「日本企業に不利益が発生した場合には対抗措置を取る」と明らかにした。また時事通信は「韓国経済に同等の損失を与える措置とする考えで、韓国産の一部物品に対する関税の引き上げを軸に検討している」とし「日韓請求権協定に基づく協議をぎりぎりまで呼び掛ける方針だが、韓国政府が応じる兆しはない。対抗措置が発動されれば、日韓関係の一層の悪化は必至だ」と伝えた。
 ただ、対抗措置を取るまでにはいくつか考慮する事項が多い。現在検討されている対抗措置が韓国だけでなく日本にも打撃を与えられるため、日本政府内でもいくつか意見が分かれているという。
 フッ化水素輸出中断案も代表的な事例だ。韓国半導体メーカーの場合、半導体製造に欠かせない純度99.99%のフッ化水素を日本企業に依存しているが、韓国産半導体も相当量が日本に輸出されているため日本にも打撃が避けられない。
 東京の情報筋は「強制徴用裁判と関係がない企業も被害を受ける可能性があり、措置を取る場合は自国産業に対する補助金とみるかなど論議を呼ぶこともある」とし「韓国にだけ被害を与える方法を探すのは難しい」と話した。
 時事通信は世界貿易機関(WTO)協定との整合性や日本経済への影響も考慮し、いかなる措置を取るかを決める方針だと伝えた。
 日本政府内でも「まず紛争解決手続きをすべて取るべき」(国家安全保障局の関係者)という声が依然としてある。時事通信は対抗措置発動時期は安倍晋三首相が最終的に判断すると伝えた。
 また、日本政府は日本企業の資産が現金化されれば韓国政府への協議要請に見切りをつけ、請求権協定に基づき第3国委員を交えた仲裁委員会設置の要求に切り替える方針だ。日本外務省は早ければ今週中に韓国側に仲裁委員会の設置を要求することを検討しているという。


https://www.jiji.com/jc/article?k=2019030900420&g=eco
「時事ドットコムニュース」 2019年03月09日14時23分
■対韓国、関税引き上げ検討=徴用工訴訟で対抗措置-政府
 政府は9日、韓国人元徴用工訴訟の原告側が差し押さえ済みの日本企業の資産を売却した場合、企業に実害が生じたと見なし、対抗措置を発動する方針を固めた。韓国経済に同等の損失を与える措置とする考えで、韓国産の一部物品に対する関税の引き上げを軸に検討している。
対日関係「危険水位に」=「文氏が刺激」と批判
 複数の日本政府関係者が明らかにした。政府は日韓請求権協定に基づく協議をぎりぎりまで呼び掛ける方針だが、韓国政府が応じる兆しはない。対抗措置が発動されれば、日韓関係の一層の悪化は必至だ。
 関係者によると、日本政府は対抗措置として既に100前後の選択肢をリストアップ。関税引き上げに加え、一部日本製品の供給停止や、ビザ(査証)の発給制限も浮上している。世界貿易機関(WTO)協定との整合性や日本経済への影響も考慮し、措置の内容を決める。
 日本政府はまた、日本企業の資産が現金化されれば韓国政府への協議要請に見切りをつけ、請求権協定に基づき、第三国委員を交えた仲裁委員会設置の要求に切り替える。


https://japanese.joins.com/article/119/251119.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年03月12日08時01分
■徴用賠償で冷え込む韓日経済協力…中国のTHAAD報復と似た展開に?

【写真】中国の不当なTHAAD報復を中断させて韓国の競争力で中国市場を開拓することが、韓国対中国政策の根幹になるべきという指摘だ。(中央フォト)

 #三・一独立運動100周年を迎えた1日。韓国と日本にそれぞれ本部を置く韓日経済協会代表が東京で会った。4日後、韓国国内の韓日経済協会は今年5月に予定されていた韓日経済人会議の開催延期をホームページで公示した。韓国内の韓日経済協会は行事場所のホテルまで予約していた。協会は「協議を通じて延期を決めた」と伝えたが、日本が会議の延期を通知したという解釈が多い。
 #昨年11月。大韓商工会議所は釜山(プサン)で開催する予定だった第12回韓日商工会議所会長団会議を延期しなければならなかった。会議開催を数日後に控えて日本商工会議所が「強制徴用判決」に言及するという立場を大韓商工会議所に伝えたのだ。大韓商工会議所は「経済界の行事に最高裁の判決に言及するのは適切でない」と主張したが、結局、会議は取り消しになり、まだ今後の日程を決められずにいる。

 韓日政府間の外交問題による影響が経済親善行事に広がる状況だ。これに関して財界では、高高度防衛ミサイル(THAAD)配備による韓中経済問題の前轍を踏むのではという懸念の声が出ている。
 こうした声が聞こえるのは、韓日経済葛藤が中国のTHAAD報復事態と似たパターンで展開しているからだ。まず次の日程を決められず無期限延期とした点が共通している。中国政府は韓中国際旅客船の就航を無期延期したのを始め、韓国旅行を禁止した。これはロッテなど流通会社の撤収につながった。出発と到着点がそれぞれ政治・外交イシューと経済報復という点でも似ていた。
 では、政界で触発したイシューに日本経済団体が対応する理由は何か。キム・ヨングン高麗大グローバル日本研究院教授は「政治と経済は分離して対応すべきだが、経済政策を担当する経済産業省まで出てきたのが問題の核心」と指摘した。そして「韓国最高裁の強制徴用判決以降、静かだった日本の官僚までが感情的に対応している姿だ」と述べた。
 こうした状況認識のためか、財界では具体的な報復シナリオも議論されている。関税と素材・部品輸出遅延がそれだ。これに先立ち時事通信は9日、日本政府関係者の言葉を引用し、「日本政府が報復関税、日本製品の供給停止など具体的な報復措置に関する目録作成を終えた」と報道した。これに対し匿名を求めたある経済団体研究所関係者は「日本が韓国を相手に使えるカードはダンピング関税やセーフガード関税などがあるが、これを使う名分はなく、世界貿易機関(WTO)協定にも違反するため(実際に使う)可能性は高くない」と話した。
 報復関税よりも素材・部品輸出の遅延の方が可能性が高いシナリオだ。ある民間経済研究所の研究員は「素材・部品輸入品のうち日本からの輸入は全体の15-16%」とし「日本政府が輸出量通関などを遅延させる場合、韓国経済にもある程度の打撃はあるだろう」という見方を示した。2017年を基準に日本から輸入した半導体製造用装備は53億8000万ドル(6兆1000億ウォン)にのぼる。
 ただ、日本政府がこうした経済報復をしても、韓国産業界の打撃は制限的というのが専門家らの判断だ。最も大きな理由は中国に比べて日本との貿易規模は相対的に少ないからだ。関税庁によると、昨年、韓国は日本を相手に輸出305億ドル、輸入546億ドルだった。一方、中国を対しては輸出1621億ドル、輸入1064億ドルだ。
 もう一つの理由は毎年200億ドル水準を維持している対日貿易赤字だ。対日貿易赤字は2013年の253億ドルから2017年には283億ドルに増えた。それだけ日本を相手に輸出より輸入が多いということだ。日本政府が韓国に経済報復をする場合、日本企業は打撃を受けるしかない。日本政府が経済報復を敢行する場合、被害が予想されるのは造船業だ。
 日本政府は最高裁の強制徴用判決直後の昨年11月、「韓国政府が独自生存が難しい大宇造船海洋を支援し、これによって日本造船企業が被害を受けた」としてWTOに提訴した。これは現代重工業の大宇造船海洋買収作業で伏兵になっている。日本や欧州連合など各政府企業結合審査を控えた状況であるからだ。財界の一部で「日本は中国と同じように韓国経済の胴体を抑えることはできなくても、足を引っ張ることはできる」という解釈が出る理由だ。チョ・ドングン明知大経済学科教授は「過去の問題の解決方法をめぐる国家間の摩擦を防ぐことはできないが、政治と経済はそれぞれの論理で接近して解決していく必要がある」とし「韓国政府も政治・経済分野でそれぞれ異なる対応策を用意すべきだ」と述べた。


https://japanese.joins.com/article/115/251115.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年03月12日06時44分
■「日本財界、差し押さえ資産売却なら韓国支社撤収の雰囲気」
 韓国最高裁の徴用判決の原告側が三菱重工業の欧州内の資産を差し押さえることを検討中だと、産経新聞が11日報じた。原告側弁護団が最近、名古屋で開かれた行事に出席し、こうした意思を明らかにしたという。
 韓国最高裁は昨年11月、勤労挺身隊被害者5人が三菱重工業を相手に起こした損害賠償請求訴訟の上告審で1人あたり1億-1億2000万ウォン(約1000万ー1200万円)の賠償を命じる判決を確定した。原告側はすでに商標権や特許権など三菱重工業の韓国内資産に対して差し押さえを申請した。しかし韓国で損害賠償額に相当する資産を確保できない場合、欧州内資産の差し押さえまで検討するということだ。
 もしこれが現実化する場合、韓日間徴用問題の戦線が両国を越えて第3国の裁判所にまで広がる結果を招く。裁判の直接の当事者である日本企業の反発もさらに強まるとみられる。
 日本財界内部、特に経団連首脳部の雰囲気を知る知韓派元老は11日の電話で「これまでいかなる政治的葛藤があっても韓国企業との協力を続けてきた日本財界だったが、徴用判決など葛藤の長期化による『韓国リスク』に今回は大きく動揺している」と伝えた。
 特に「今後、韓国との関係において財界首脳部が共有する3つのコンセンサス(一致した見解)がある」と述べた。その内容に関しては「差し押さえ資産の売却などが現実化して実質的な被害が発生すれば韓国支社を撤収させ、今後いかなることがあっても韓日通貨スワップを再開せず、また資金融通分野での協力を含めて両国金融機関の協力を中断すべきというものだ」と説明した。
 日本財界の場合、アベノミクスなど企業寄りの経済基調を維持している安倍内閣と歩調を合わせるという傾向が強い。両国間の政治・外交的対立がそのまま財界間の葛藤につながる可能性が高い構造ということだ。
 両国関係が劇的に改善する兆候も現在のところ見えない。韓国政府は「日本企業に対する資産差し押さえなど被害者が踏んでいる手続きは法的なプロセスの一部であり、政府が関与する問題でない」という立場を守っている。一方、日本政府は「請求権問題は1965年の協定ですべて解決した」という立場に変化がない。
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「〈群馬追悼碑裁判〉控訴審第3回口頭弁論/対応迫られる県、裁判所が和解促す」

2019年03月10日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://chosonsinbo.com/jp/2019/03/hj190304/
「朝鮮新報」 2019.03.04 18:02
■〈群馬追悼碑裁判〉控訴審第3回口頭弁論/対応迫られる県、裁判所が和解促す
 県立公園・群馬の森(群馬県高崎市)にある朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑の設置許可について、県が更新しなかったのは違法だとして、碑を設置した「記憶・反省そして友好」の追悼碑を守る会(以下、守る会)が処分の取り消しなどを求めた訴訟の控訴審第3回口頭弁論が2月27日、東京高裁で行われた。群馬地域から同胞や守る会の関係者らが駆けつけるなど傍聴希望者は125人に及んだ。
 開廷後、期日までに提出された双方の準備書面について裁判所から確認があり、意見陳述に先立ち被控訴人(守る会)代理人の角田義一弁護団長が発言した。
 角田弁護団長は、期日前日に提出された県の準備書面中、控訴審第2回口頭弁論での自身の意見陳述について「政治的思想の実現のために追悼碑の設置管理行為を行ってきたことを疑わせるに十分である」などと言及していたことを厳しく批判。当時の意見陳述では、昨年10月に朝鮮を訪問した角田弁護団長が、日本の植民地下で強制連行された方の遺族と行った面談や、南の最高裁で徴用工に対する判決があったことを踏まえて「碑を撤去する事態になれば国際問題に発展する恐れがある」と発言していた。
 角田弁護団長は「代理人である弁護士の意見陳述を用いて書面で主張を繰り広げること自体が一般的にありえない」としながら、県側に発言の撤回を求めた。それに対し、控訴人(県)代理人が「(主張を)維持します」と発言すると、傍聴席からは失笑が漏れた。


http://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=4&page=1&number=25129&keyfield=&keyfield1=&key=
「民団新聞」 2019-03-06 09:50:00
■「群馬の森」訴訟…追悼碑撤去に待った 東京高裁が「和解勧試」通告

【写真】裁判後、結果を報告する弁護団長の角田義一さん

「守る会」が歓迎表明
【群馬】高崎市内の県立公園「群馬の森」に建つ韓国・朝鮮人労働者追悼碑「記憶・反省そして友好」をめぐる民事訴訟の控訴審第3回口頭弁論が2月27日、東京高裁であった。大段亨裁判長は第2回口頭弁論のときよりもさらに踏み込んだ表現で和解が相当との判断を示した。
 群馬県はヘイトスピーチを繰り返す一部右翼団体や歴史修正主義者らからの圧力を受けて追悼碑を撤去(10年目の設置期間更新を不許可)しようとしているのに対し、追悼碑を管理する市民団体「守る会」は取り消しを求めて対立している。
 1審前橋地裁は県の不許可処分は「裁量権の逸脱」だとして原告一部勝訴の判決を言い渡したが、更新の義務づけまでは認めなかった。このため、市民団体は追悼碑を守るために控訴した。
 一方、県側も「追悼碑の前で設置条件違反となる政治的発言、行事がなされたのであるから、設置期間更新申請を不許可にするのは当然」と1歩も引かない。
 この日、市民団体は今後、追悼碑の前で政治的発言ととられるようなスピーチをしないことなどを約束し、設置期間の更新を求めた。
 これを受けて裁判所は、市民団体の提案を持ち帰り、受け入れるかどうか、受け入れないならば対案を出すようにと県側に求めた。そのうえで次回口頭弁論の期日を設定せず20日に「和解勧試」を行うと通告した。
 市民団体の弁護団事務局長を務める下山順さんは「裁判長の心証がわかり、大きな意味がある。1審では勝っているので、よもや和解で覆るようなことはないだろう」と歓迎している。ただし、県があくまで撤去に固執したときは再び口頭弁論が続く。
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「軍需工場で死亡した徴用同胞を悼む 民団群馬が慰霊祭」

2019年03月09日 | 国民国家日本の侵略犯罪
http://www.mindan.org/news/mindan_news_view.php?cate=6&page=1&number=25130&keyfield=&keyfield1=&key=
「民団新聞」 2019-03-06 10:03:00
■軍需工場で死亡した徴用同胞を悼む 民団群馬が慰霊祭
【群馬】民団群馬本部(朴旋用団長)は2月2日、太田市内の曹洞宗金龍寺で第2次大戦中に犠牲となった同胞たちの慰霊祭を行った。
 亡くなった同胞は労務動員計画のもと市内の旧中島飛行機太田製作所(現在は富士重工業群馬製作所)に徴用され、軍用飛行機の生産に従事していたところ、1945年2月10日の夜から米軍の波状的な空襲にさらされた。
 金龍寺は亡くなった同胞の一部、11人の遺骨を預かっている。73年4月8日には太田市と民団群馬・太田支部、朝鮮総連群馬・東毛支部などが発起人となって境内に慰霊碑を建立した。
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「麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった」

2019年03月09日 | 国民国家日本の侵略犯罪
https://japanese.joins.com/article/960/250960.html?servcode=A00§code=A10
https://japanese.joins.com/article/961/250961.html?servcode=A00§code=A10
「中央日報日本語版」 2019年03月07日07時32分
■麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった

【写真】福岡県田川にある麻生セメント工場の全景。工場の壁面に麻生一族の家紋がついている。

 福岡空港から車に乗って東に約1時間を走り、田川というところに向かった。田川は日本3大石炭生産地である福岡県筑豊地域の代表的な炭鉱地だ。ここに日帝強占期時代、約15万人の朝鮮人労働者が強制動員された。
 石炭と石灰石は戦争中の日本にとって非常に重要な物資だった。この地域の人々は石炭を「黒いダイヤモンド」、石灰石を「白いダイヤモンド」と呼んだ。筑豊地域で採掘された石炭と石灰石は八幡製鉄所(現・新日鉄住金)に送られ、ここで生産された鉄鋼製品は長崎などで軍艦や戦闘機のような軍需物資を作るために使われた。
 ダンプトラックと大型レミコンが列をなし、その進行方向に従ってついていくと巨大な工場建物が現れた。「安全第一」と書かれた工場の壁面に麻生家の家紋が刻まれていた。1919年から麻生一家が運営している麻生セメントの工場だ。
 麻生鉱業は1969年に石炭事業から手を引いてから麻生産業に名前を変えたが、麻生セメントは今でも麻生グループの核心事業体だ。
 1939年当時、麻生セメントには約1000人の朝鮮人労働者がいた。取材に同行した在日史学者のパク・グァンス氏は「石炭の炭鉱ではダイナマイトを使って作業し、そのたびに大規模な人命被害が発生したが、石灰の石炭鉱では重労働によって一日に1~2人が亡くなった」と説明した。「1940年代以降、朝鮮人労働者が大きく増えたため朝鮮人寮が別途あったが、自由のない収監所同然の生活だったと付け加えた。
 労働環境も凄惨だった。賃金がまともに支給されなかったり、暴力を振るわれたりする場合が日常茶飯事だった。1944年に福岡県が作成した「移入半島人(朝鮮人)労務者に関する調査表」によると、麻生鉱業の労働者7996人のうち4919人が逃走したことが明らかになっている。労働者の61.5%が逃走するほど、現場の労働環境が劣悪だったということだ。
 パク氏の案内で近隣の共同墓地に移動した。小さな納骨堂の鉄門を開くと白い布に包まれた遺骨箱が2段の棚に並んで置かれていた。左側に朴OO、金OOなど朝鮮人名前が書かれた遺骨箱が、右側には日本人と推定される名前が書かれた遺骨箱が置かれていた。「無」と書かれた名のない遺骨箱も幾つもあった。
 パク氏は「朝鮮人14柱、日本人18柱の遺骨が納められているが、麻生セメントで働いていた労働者や労働者の家族のものと推定される」としながら「当時創氏改名したことを勘案すると朝鮮人の遺骨はもっと多いかもしれない」と説明した。遺骨は1976年に穴観音という小さな寺院に放置されているのを当時の在日史学者である故キム・グァンヨル氏が発見して納骨堂に安置した。

【写真】納骨堂内部に安置されている遺骨箱。白い布の上に朴OO、金OOなど朝鮮人の名前が記されている。

 だが、納骨堂の上に立てられた慰霊碑には「朝鮮人」という字さえなかった。当時麻生セメント側と交渉を行って慰霊碑と納骨堂を用意したが、麻生セメント側では最後まで「朝鮮人」と刻むことを拒否したという。パク氏は「今でも毎年麻生セメントの関係者が慰霊祭を行っているが、特に朝鮮人労働者を称えるものではない。当時の歴史を知る人が残っていない」と話した。
 太平洋戦争(1941年~45年)末期になると筑豊地方の朝鮮人労働者の数が急増する。日帝が国民徴用令を朝鮮にも適用し始めたためだ。当時10代の中・高校生まで徴兵した日帝は不足した労働力を朝鮮人、中国人から賄わなければならなかった。
 日本石炭統制会によると、筑豊地方の朝鮮人労働者比率は1941年13.36%(9213人)から、わずか3年後の1944年には32.94%(3万79人)へと3倍以上に増えている。
 田川から遠くない飯塚も主要石炭生産地だった。飯塚は麻生家の領地だと呼んでもいいほど、あちこちで麻生家の影響力を確認することができる。市中心部には麻生飯塚総合病院と麻生専門学校、スーパーマーケットASOがあり、あちこちに麻生太郎副首相の選挙ポスターが目についた。麻生太郎氏はここで合計13回国会議員に当選した。
 麻生鉱業の創業者・麻生太吉が麻生氏の曽祖父にあたる。飯塚にある麻生本家には今でも麻生家の人々が暮らしている。高さが2メートルほどの塀が100メートル以上続いた。豪勢な門を通り過ぎてしばらく歩いくと、運動場ほどの庭が現れた。
 住宅管理人は記者に「麻生家は成金」と何度も強調した。麻生鉱業を母胎にした麻生グループは現在90社の子会社を率いる中堅グループに成長した。麻生太郎氏の妻の父は鈴木善幸元首相、母方の祖父は吉田茂元首相だ。
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