三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

金氏(一九二三年生れ)の話し

2006年07月30日 | 紀州鉱山
金氏(一九二三年生れ)の話し
一〇〇人行くことになっていたが、二人欠けた。行かされる人間は区長が選んだ。令状はなく、ただ行けと連絡だけしてきた。
出発までは、三日間。その間、酒ばかり飲んでいた。そのとき、むなしかった。なにか言ってひっかかると、どういう事になるか恐ろしい。
日本にむかってすぐ、アボヂが亡くなったと連絡をもらったが、どうしようもない。だが、麒麟と麟蹄のあいだの市が立つところで、道路がくずれてみんなもどってきた。アボヂの葬式だけ済ませ、また行ったのが、九月一五日だった。
木炭車で一日かかって春川まで。そこで一泊。春川から汽車でソウルまで。ソウルの旅館で一泊。釜山で旅館で一泊。旅館でのめしは雑穀。下関でも、旅館で一泊。
紀州鉱山にナカヤマという韓国人の兄弟がいた。労務係で、われわれを担当していた。ナカヤマは、ひと月に一回くらい来て、病気にならないようにしろ、きれいにしろ、といった。全羅道の人間だった。朝鮮語は、弟はできなかった。兄も少ししかできなかった。合宿所の寮長でマツダという人間がいた。
訓練を三か月受けた。米軍が勝てば、米国に行かされると、なかまうちで話しがとびかっていた。米軍は戦争がまもなく終わることを知っていたんだ。一九四五年の七月ころ、いっしょにしごとをしているとき、米軍が、「われわれは八月に家に帰る」といっていた。紀州鉱山で麟蹄から行った人がひとり死んだ。シングウの刑務所で死んだんだ。保安係に逮捕されていった。死んだと連絡をくれた。こめを、寮の倉庫から一、二升盗んだんだ。一九四五年の春だった。
紀州鉱山にいっしょに行ったひとのなかに、結婚して三日目に連れてこられた人がいた。原州の人だった。そのとき、二一歳。紀州鉱山で気がおかしくなって死んだ。服をぬいではだかになったり、ふとんをこえつぼになげこんだりした。
紀州鉱山では、最初はめしはおおかったが、一か月、二か月すぎるとだんだん量ががへり、さつもいもになった。一九四五年七月からは、かゆを食べた。
八月一五日のあと、いつまでたっても帰らせてくれないので、デモするぞといってやった。会社は、汽車がなくて行けない、道路が悪くて行けないとかいう。
月給から貯金したのはない。もどってくるときにもらった金もない。服もなかったから、米軍が脱いでいった服をきてもどってきた。

紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」「徴用」)された朝鮮人が一九四五年一二月に帰国するとき、石原産業は、全員に「慰労金」「退職手当」などとして計三二七円一八銭を「支給」したと、一九四六年に厚生省に報告しているが、その報告は偽りであることがわかった。給料から引かれていた積立金も、孫氏以外は受け取っていなかった。金氏、丁氏、孫氏、金氏は、帰国する時、紀州鉱山から金を受けとらなかったと証言している。

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韓国・日本での聞き取り報告

2006年07月29日 | 紀州鉱山
韓国・日本での聞き取り報告
    
1.韓国江原道麟蹄郡で
紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員は、一九九七年五月に、韓国の江原道麟蹄郡へいき、紀州鉱山に強制連行された金氏、丁氏、孫氏、金石から話しを聞かせていただいた。また、九州の池野炭鉱に強制連行された林景燮氏と金泰日氏、岡山県玉野市の三井造船玉野造船所に強制連行された梁氏にも話を聞かせていただくことができた。

 金氏(一九一四年生れ)の話し。
訪問したとき、八三歳の金氏は畑仕事をしていた。家のマダンのすみに植木鉢が並べられている。そのひとつにちいさな白い花。山のしゃくやくだという。
「鉱山に行くとは知らないでつれていかれた。徴用の年齢がすぎていたので、行かなくてもよかったのに、里長がむりに行かせた。出発するとき、里長(南部一里の里長)を殴ろうと思ったが、里長が出てこなかった。徴用されたのは、一九四四年九月[旧暦]で、数えで三一歳のときだった。
 春川をとおってソウルにいき、そこで神社遥拝させられた。
紀州鉱山で、朝鮮から来た七〇〇人くらいといっしょに、六か月の訓練を受けた。しごとの現場をみな見て、志望しろといわれたので、昇降機を志望した。宿所はユノクチにあった。食事のしたくは、日本人の女性がした。手紙はだせた。月給は現金で直接もらった。 解放のあとでは、しごとはしなかった。
[「捕虜」とは]しごと場でよく会った。かれらには、タバコは一日一本。朝鮮人には一箱づつ。ときどき、イギリス人が、タバコくださいといってきて、タバコをあげたりした。かれらは、わたしたちとおまえたちは同じだ、といっていた。いちばん危ないところでしごとをさせられていた。日本が敗戦したあと、かれらには毎日牛を殺して食べさせて、わたしらにはかゆだけだった。イギリス人がさきに帰国した。[帰郷するとき、会社から]金はもらわなかった。鉱山を車で出て、シングウから汽車に乗った。釜山まで会社から日本人がふたり送ってくれた。名前はわからない。陰暦一〇月一七日に家についた。帰ってきてから里長を殴った。ほかにも里長を殴った人がいた。里長は許してくれというし、許してあげようということになった。かれは、韓国戦争のとき、人民軍に殺された。

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2006年07月17日 | 海南島
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「海南島で日本はなにをしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争」   

紀州鉱山の真実を明らかにする会編集・制作、写真の会パトローネ発行、2005年5月1日刊

<序文>
1939年2月、日本は、アジア太平洋地域の中心部に位置する海南島の軍事占領を開始しました。
海南島を東南アジア・太平洋侵略基地とし、さらには全島を植民地とするため、日本政府と日本軍は、日本企業とともに、飛行場、港湾、道路、橋梁、鉄道などを整備・新設し、鉱山開発、電源開発などをおこない、資源を略奪しました。民衆の抵抗を抑えようとして、日本軍は、「Y作戦」をくりかえし、村を焼き、住民を虐殺しました。
1941年12月3日、日本軍船団が海南島三亜港を出港し、12月8日未明、マラヤのコタバルを奇襲攻撃しました。アジア太平洋戦争は、このとき開始されました。日本占領時に、村を襲撃された海南島住民、朝鮮の監獄から海南島へ連行された「朝鮮報国隊」の人たち、アジアの各地から連行され酷使された人たち、「日本軍隊性奴隷」とされた人たちにとって、日本政府・日本軍・日本企業による虐殺・暴行・略奪・人権侵害・日本「文化」強制は、昨日のことです。
日本の侵略に抗して、海南島の民衆は、戦いつづけました。
アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は、抗日反日闘争の時代でした。
その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていません。


<目次>

海南島1998年~2005年
   1998年夏  田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・「朝鮮村」
   2000年春  「朝鮮村」・后石村・大坡村・羊角嶺水晶鉱山 
   2001年1月 海南島駐屯日本海軍第16警備隊に虐殺された朝鮮人の遺骨が「発掘」された
   2002年春  日本政府・日本軍・日本企業がおこなった侵略犯罪にかんする「現地調査」報告
   2002年10月 海南島における日本の国家犯罪の共同調査
   2003年春(1) 60年前の日本軍による虐殺は、きのうのこと!  
   2003年春(2) 1939年2月以後、日本人は、海南島でなにをやったか
   2003年夏 日本の侵略の時代は、おわっていない
   2004年末~2005年初め あらたな共同作業をめざして


ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』
   画像・証言・ナレーションから
   構成・制作スタッフ 鐘翠雅「制作に参加して」
   記録片『日本占領下的海南島 60年前如昨昔』海南島で上映会


企画展『海南島で日本はなにをしたのか 侵略・虐殺・掠奪・性奴隷化』
   韓国(西大門刑務所歴史館と独立紀念館)で特別展開催、日本(大阪人権博物館)では延期


「朝鮮報国隊」の事実を明らかにするために
   「朝鮮村」の遺骨の発掘・鑑定を早く!
   「朝鮮報国隊」名簿公開要求 「朝鮮報国隊」強制労働現場位置  


会からの報告


   熊野-紀州鉱山-海南島
   『紀伊半島・海南島の朝鮮人 木本トンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」 』紹介   会の活動記録(ドキュメンタリーに重点をおいて)
   三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(イギユン氏・ペサンド氏)の追悼碑を建立する会から 紀州鉱山の真実を明らかにする会から  


抗日闘争期海南島現代史年表


海南島現代史にかんするわたしたちの報告の目録


抗日軍根拠地位置(1943年・1945年)と日本軍による住民虐殺現場位置  



・A4版52頁。写真・地図多数。

・定価600円(10冊以上は500円。送料1冊100円、2冊~4冊200円、5冊以上無料)。


・郵便振替 紀州鉱山の真実を明らかにする会 00920-3-247174


・ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』の解説書としても読んでください。




注文は下記までご連絡ください。

shimadami@mwb.biglobe.ne.jp
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新しくブックレットを発行しました。ぜひ購読してください!

2006年07月16日 | 木本事件
新しくブックレットを発行しました。ぜひ購読してください!
 紀伊半島・海南島の朝鮮人
-木本ンネル・紀州鉱山・「朝鮮村」-       


紀州鉱山、海南島「朝鮮村」での朝鮮人強制連行・強制労働、
虐殺、「木本事件」等について写真をふんだんに用いて、
わかりやすく紹介しています。
ぜひ購読してください!(定価:500円)
購読希望の方は、メールにてご連絡ください。 
shimadami@mwb.biglobe.ne.jp

-ブクレットの目次です-

はじめに

「1926年、三重県旧木本町(現在の熊野市)で朝鮮人のイ・ギユン(李基允)氏とペ・サンド氏が町長によって召集された地域住民の集団によって殺されました。イ・ギユン氏は25歳、ペ・サンド(相度氏)氏は29歳の若さでした。二人は生まれ育った朝鮮をはなれ日本に渡り、他の朝鮮人たちとトンネル工事のために旧木本町で働いていたのです。
 なぜ何も悪いことをしていないどころか、生活を便利にするトンネルを作っていた二人の朝鮮人は殺されなければならなかったのでしょうか? なぜ旧木本町の日本人たちは、彼らを殺してしまったのでしょうか?
私たち「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏と相度氏)の追悼碑を建立する会」は、この出来事が決して過去のことではなく、現在につながる問題であると考えました。そして1994年に二人の虐殺の歴史的原因と責任をあきらかにするための一歩として、殺された二人の追悼碑を1994年に建立したのです。
 このブックレットを通して真実を明らかにし、読者のみなさんとともにこれらの疑問についていっしょに考えようと思います。」


追悼碑碑文(朝鮮語)
追悼碑碑文(日本語)
「白いトックがふみにじられていた」 敬洪さんの記憶から 
「いちばんの仲よしの明子ちゃんのお父さんが殺された」

 
一、「木本事件」 
 1.「木本事件」の現場
①「事件」のころの木本町の風景 ②一九三五年ころの木本トンネル ③現在の木本トンネル ④明治座 ⑤木本神社 ⑥蛍橋と西郷川 ⑦有本湯 ⑧称名寺 ⑨敬洪さん ⑩極楽寺の無縁墓地 ⑪松島繁治さん ⑫相度さんの故郷 ⑬李基允さんの故郷で


 2.「事件」の報道と記録(一九二六年) 
①「事件」当時の日本の新聞記事 ②「事件」当時の朝鮮の新聞記事 ③裁判記録 ④当時の小学生の作文 ⑤「三重県撲殺事件に際し全国の無産者階級に訴ふ」 ⑥『自我声』創刊号 ⑦『無産者新聞』 ⑧朝鮮総督府の発表(一九二六年一月二一日)


 3.「事件」ののち
①毎年の追悼集会 ②極楽寺の新しい墓碑 ③足立住職のことば ④新しい墓碑の説明板 ⑤杉浦新吉さんのこと

二、熊野・紀州鉱山
①紀州鉱山選鉱場跡 ②紀州鉱山への朝鮮人強制連行名簿 ③連行された朝鮮人の故郷の地図 
④紀州鉱山坑口跡 ⑤「朝鮮人は日本民族たるを喜ばす。将来の朝鮮民族の発展を見よ」 ⑥紀和町和気にある本龍寺の遺骨 ⑦「逃亡」の前日に死亡していた千炳台さんの戸籍簿 ⑧『従業物故者忌辰録』 ⑨南正碌さんと「共同調査」の人たち ⑩紀州鉱山に強制連行された孫玉鉉さんと丁榮玉さん ⑪江原道平昌郡の老人会館で ⑫紀州鉱山に強制連行された人を探す ⑬夫が強制連行されたあとの生活の様子を聞く ⑭紀州鉱山に強制連行された林正熙さん ⑮韓国安東文化放送の現地取材 ⑯会員の活動を報道する韓国の新聞記事 ⑰紀州鉱山の労働者について書かれた新聞記事

三、海南島
①田独にある「日寇時期受迫害死亡工友記念碑」 ②田独鉱山用鉄道跡 ③石碌鉱山の旧日本軍の見張り台から ④石碌の「慰安所」跡 ⑤石碌―八所間鉄道で働かされた労働者の飯場近くで ⑥石碌ダム ⑦「朝鮮村」全景 ⑧「朝鮮村」地図 ⑨「朝鮮村」の朝鮮人虐殺現場 ⑩「朝鮮村」で虐殺された朝鮮人の「発掘」現場 ⑪「朝鮮村」で虐殺された朝鮮人の遺骨 ⑫中村のトンネル ⑬南林のトンネル ⑭新盈の「慰安所」跡 ⑮崖県の「慰安所」跡

四、関連地図・資料
①「木本事件」関係地図 ②熊野・紀州鉱山関係地図  ③年表「木本事件」は終わっていない④参考文献目録
授業で子どもたちは考えた ―小学校での取り組み

あとがき ふたりはなぜ殺されたのか ―熊野から朝鮮人虐殺を問う
補遺 『熊野市史』をかならず書きかえさせよう!


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ドキュメンタリー・フィルム制作しました!

2006年07月15日 | ドキュメンタリー
ドキュメンタリー・フィルム制作しました!
「日本が占領した海南島で ―60年まえは昨日のこと―」


私たちは、ドキュメンタリー・フィルム 「日本が占領した海南島で ―60年まえは昨日のこと―」(65分)を制作しました。
海南島は1939年2月に日本軍の奇襲攻撃をうけ、以後、日本軍によって6年半にわたり占領されていました。この占領期に日本軍や軍と一体となった日本企業がおこなったことのひどさは、さまざまな物証として、また、記憶として今もずっとこの島に、住民の生活圏の只中にありつづけています。しかし、侵略をおこなった日本では、この事実は隠されつづけてきました。自らの村を襲撃された海南島住民の証言、朝鮮半島から海南島へ連行された「朝鮮報国隊」とされた人々の軌跡、アジアの各地から連行され酷使された人、また、「慰安婦」とされた人……、このドキュメンタリーに登場する映像は、日本の侵略の歴史が今だ終わっていないことを知らせています。
ぜひこのドキュンタリー・フィルムを見ていただき、日本が海南島で何をしたのかを知っていただきたいと思います。

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第10回海南島「現地調査」における証言の記録

2006年07月11日 | 海南島
第10回海南島「現地調査」における証言の記録 

第10回海南島「現地調査」(2006年3月19日~4月6日)における証言の記録です。

劉仁〇さん(88歳、中和鎮T村、2006年3月24日) 
「(逃げ遅れた)村びとが全部殺された。首を切られた。首とからだが離れた。(その場所は)どこかわからなくなってしまった。当時、この村は100戸くらい。外へ逃げて、餓死した人もいる。夫の妹も餓死した。夫とは別々のところに逃げて、2年間くらい会えなかった。

ひとりで日本人の製糖工場で働いて、1日、おにぎりしか食べられなかった。夫と再会してから、製糖工場から離れて、山奥に逃げて暮らした。製糖工場では、給料はなかった。おにぎりだけ。
製糖工場には台湾人もいた。人数はわからない。
日本人は犬を連れていて、おじぎをしなかったら、犬にかませるのを見た。日本人と会ったら、先生と呼ばなくてはいけなかった」。

劉仁〇さんにはじめてお会いしたのは、2003年4月1日で、3年ぶりに再訪した。前回訪ねてきたことを覚えていた。眼は、ほとんど見えないようだった。劉仁之さんの家で、わたしたちのドキュメンタリーを上映させていただいた。村の人たちが、おおぜい見にきてくれた。

2、汪東〇さん(76歳、中和鎮T村、2006年3月24日)
「姉はとてもきれいで、日本人から嫁に来てくれと言われた。姉はいま82歳。日本人が家に来て兄さんを連れていった。兄さんを返してもらうかわりに、姉さんを連れていくことにしたが、兄さんが家に戻ってみんなで山に逃げた。
日本人にこの話をして、少しすっとした」

劉仁〇さんの家でドキュメンタリーを見たあと、東坡村で日本人がつくった製糖工場跡を案内してくれながら。

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