金氏(一九二三年生れ)の話し
一〇〇人行くことになっていたが、二人欠けた。行かされる人間は区長が選んだ。令状はなく、ただ行けと連絡だけしてきた。
出発までは、三日間。その間、酒ばかり飲んでいた。そのとき、むなしかった。なにか言ってひっかかると、どういう事になるか恐ろしい。
日本にむかってすぐ、アボヂが亡くなったと連絡をもらったが、どうしようもない。だが、麒麟と麟蹄のあいだの市が立つところで、道路がくずれてみんなもどってきた。アボヂの葬式だけ済ませ、また行ったのが、九月一五日だった。
木炭車で一日かかって春川まで。そこで一泊。春川から汽車でソウルまで。ソウルの旅館で一泊。釜山で旅館で一泊。旅館でのめしは雑穀。下関でも、旅館で一泊。
紀州鉱山にナカヤマという韓国人の兄弟がいた。労務係で、われわれを担当していた。ナカヤマは、ひと月に一回くらい来て、病気にならないようにしろ、きれいにしろ、といった。全羅道の人間だった。朝鮮語は、弟はできなかった。兄も少ししかできなかった。合宿所の寮長でマツダという人間がいた。
訓練を三か月受けた。米軍が勝てば、米国に行かされると、なかまうちで話しがとびかっていた。米軍は戦争がまもなく終わることを知っていたんだ。一九四五年の七月ころ、いっしょにしごとをしているとき、米軍が、「われわれは八月に家に帰る」といっていた。紀州鉱山で麟蹄から行った人がひとり死んだ。シングウの刑務所で死んだんだ。保安係に逮捕されていった。死んだと連絡をくれた。こめを、寮の倉庫から一、二升盗んだんだ。一九四五年の春だった。
紀州鉱山にいっしょに行ったひとのなかに、結婚して三日目に連れてこられた人がいた。原州の人だった。そのとき、二一歳。紀州鉱山で気がおかしくなって死んだ。服をぬいではだかになったり、ふとんをこえつぼになげこんだりした。
紀州鉱山では、最初はめしはおおかったが、一か月、二か月すぎるとだんだん量ががへり、さつもいもになった。一九四五年七月からは、かゆを食べた。
八月一五日のあと、いつまでたっても帰らせてくれないので、デモするぞといってやった。会社は、汽車がなくて行けない、道路が悪くて行けないとかいう。
月給から貯金したのはない。もどってくるときにもらった金もない。服もなかったから、米軍が脱いでいった服をきてもどってきた。
紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」「徴用」)された朝鮮人が一九四五年一二月に帰国するとき、石原産業は、全員に「慰労金」「退職手当」などとして計三二七円一八銭を「支給」したと、一九四六年に厚生省に報告しているが、その報告は偽りであることがわかった。給料から引かれていた積立金も、孫氏以外は受け取っていなかった。金氏、丁氏、孫氏、金氏は、帰国する時、紀州鉱山から金を受けとらなかったと証言している。
一〇〇人行くことになっていたが、二人欠けた。行かされる人間は区長が選んだ。令状はなく、ただ行けと連絡だけしてきた。
出発までは、三日間。その間、酒ばかり飲んでいた。そのとき、むなしかった。なにか言ってひっかかると、どういう事になるか恐ろしい。
日本にむかってすぐ、アボヂが亡くなったと連絡をもらったが、どうしようもない。だが、麒麟と麟蹄のあいだの市が立つところで、道路がくずれてみんなもどってきた。アボヂの葬式だけ済ませ、また行ったのが、九月一五日だった。
木炭車で一日かかって春川まで。そこで一泊。春川から汽車でソウルまで。ソウルの旅館で一泊。釜山で旅館で一泊。旅館でのめしは雑穀。下関でも、旅館で一泊。
紀州鉱山にナカヤマという韓国人の兄弟がいた。労務係で、われわれを担当していた。ナカヤマは、ひと月に一回くらい来て、病気にならないようにしろ、きれいにしろ、といった。全羅道の人間だった。朝鮮語は、弟はできなかった。兄も少ししかできなかった。合宿所の寮長でマツダという人間がいた。
訓練を三か月受けた。米軍が勝てば、米国に行かされると、なかまうちで話しがとびかっていた。米軍は戦争がまもなく終わることを知っていたんだ。一九四五年の七月ころ、いっしょにしごとをしているとき、米軍が、「われわれは八月に家に帰る」といっていた。紀州鉱山で麟蹄から行った人がひとり死んだ。シングウの刑務所で死んだんだ。保安係に逮捕されていった。死んだと連絡をくれた。こめを、寮の倉庫から一、二升盗んだんだ。一九四五年の春だった。
紀州鉱山にいっしょに行ったひとのなかに、結婚して三日目に連れてこられた人がいた。原州の人だった。そのとき、二一歳。紀州鉱山で気がおかしくなって死んだ。服をぬいではだかになったり、ふとんをこえつぼになげこんだりした。
紀州鉱山では、最初はめしはおおかったが、一か月、二か月すぎるとだんだん量ががへり、さつもいもになった。一九四五年七月からは、かゆを食べた。
八月一五日のあと、いつまでたっても帰らせてくれないので、デモするぞといってやった。会社は、汽車がなくて行けない、道路が悪くて行けないとかいう。
月給から貯金したのはない。もどってくるときにもらった金もない。服もなかったから、米軍が脱いでいった服をきてもどってきた。
紀州鉱山に強制連行(「官斡旋」「徴用」)された朝鮮人が一九四五年一二月に帰国するとき、石原産業は、全員に「慰労金」「退職手当」などとして計三二七円一八銭を「支給」したと、一九四六年に厚生省に報告しているが、その報告は偽りであることがわかった。給料から引かれていた積立金も、孫氏以外は受け取っていなかった。金氏、丁氏、孫氏、金氏は、帰国する時、紀州鉱山から金を受けとらなかったと証言している。