三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

判決を前にして 2

2011年11月30日 | 紀州鉱山
■公共性
 「地方税法」73条には、保安林や墓地などの公共の用に供する土地に関して「不動産取得税を課することはできない」という規定があります。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する土地は地方行政組織が課税することのできない公共性を有するだけでなく、地方行政が加担した朝鮮人強制連行の歴史的責任を担うという意味での公共性を有しています。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場は、私有地ではありません。その場は、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働の事実を伝え、犠牲者を追悼し、その歴史的責任の所在を明らかにする公共の場です。
 したがって、この裁判では、紀州鉱山への朝鮮人強制連行、紀州鉱山での朝鮮人強制労働の実態を明らかにする弁論が徹底的におこなわれなければなりませんでした。
 しかし、津地方裁判所の担当裁判官は、その歴史的事実について、法廷で原告の弁論を真摯に聞こうとせず、被告熊野市と三重県の「答弁」にたいする原告の十分な反論の機会を保証しようとしませんでした。

■「弁論」は始まったばかりであり、「終結」してはならなかった
 裁判(口頭弁論)は、実際は、始まったばかりでした。原告の弁論にたいする被告の弁論は、非論理的であり歴史的事実を歪曲しているものでした。
 たとえば、被告熊野市は、“「強制連行」は「徴用」と同義”という誤った前提のもとに、「強制連行」は「国民徴用令」による連行だけであったと強弁し、
   「「徴用令書」の対象となって「徴用」された232名の朝鮮人の場合には、これに応じないと罰則を課せられるという意味で「強制」の契機はあったものの、日本人でも「徴用令書」の対象となった場合に拒否をすればやはり罰則を課せられたのであって、その点では、何ら日本人と異なるところはなかったのである」
とのべていました。
 わたしたちは、被告熊野市と被告三重県の弁論について詳細に反論していましたが、その反論にたいする被告の弁論がほとんどなされていないにもかかわらず、津地方裁判所の裁判官は、強権で弁論を「終結」させてしまいました。

■「誠に素朴な愛町心の発露」
 熊野市が1983年に発行した『熊野市史』中巻には、1926年1月に熊野市(当時は木本町)で在郷軍人や消防組員らが朝鮮人労働者を襲撃し、李基允さんと相度さんを虐殺したことを「誠に素朴な愛町心の発露であった」と書かれています。
 わたしたちは、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会結成直後の1989年6月5日いらい、『熊野市史』の書き換えを要求していますが、熊野市長も熊野市教育長も、この重大問題にかんして、話し合いを拒否し続けています。
 「英国人墓地」を文化財に指定しながら、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の場に固定資産税を課税するという熊野市の行為は、市民の朝鮮人虐殺を「愛町心の発露」とする行為と同じです。

■訴訟の歴史的・社会的意味
 わたしたちが、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場に対する税金を、一円でも納入することは、日本の行政機関の侵略犯罪に加担することです。
 訴訟提起によって、わたしたちは、侵略犯罪に加担しないという意志を鮮明に示すとともに、課税問題の政治性を歴史的に解明し、その本質を社会的に広く伝達していきます。
                                       佐藤正人
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判決を前にして 1

2011年11月29日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の土地に対する課税を拒否し、三重県と熊野市を被告とする民事裁判の判決が、明後日(12月1日)、おこなわれます。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会が訴訟を提起したのは、日本の植民地支配の犠牲者を追悼する場に課税するという日本の行政機関の行為を許すことができないからです。

■「特別の事情がある場合」
 日本の「地方税法」においても、73条の31では、
    「道府県知事は、天災その他特別の事情がある場合において不動産取得税の減免を必要とすると認める者その他特別の事情がある者に限り、当該道府県の条例の定めるところにより、不動産取得税を減免することができる」
とされており、367条では、
    「市町村長は、天災その他特別の事情がある場合において固定資産税の減免を必要とすると認める者、貧困に因り生活のため公私の扶助を受ける者その他特別の事情がある者に限り、当該市町村の条例の定めるところにより、固定資産税を減免することができる」
とされています。
 三重県知事や熊野市長は、「特別の事情がある場合」として、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の土地に対する不動産取得税・固定資産税を「免除」すべきでした。
 津地方裁判所の裁判官は、原告の言う「特別の事情」を、歴史的・法律的に十分検討するとともに、実際に紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑が建立されている場に行って「現場検証」すべきでした。
 しかし、津地方裁判所の担当裁判官は、「現場検証」をおこなうどころか、法廷での口頭弁論をも極端な短時間で「終結」させてしましました。
 法律の適用にあたって社会正義を実現するために努力するのは、裁判官の当然の社会的任務です。
 熊野市が紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立するための土地をいつまでたっても提供しないので、やむをえず、紀州鉱山の真実を明らかにする会は土地を購入しました。
 そのさい、法的人格をもたない紀州鉱山の真実を明らかにする会は、土地の購入者になることができないので、やむを得ず、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員5人の名で購入しました。
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する土地の購入も、土地の使用目的も、土地の使用状況も、すべて「特別の事情がある場合」です。
 しかし、津地方裁判所の担当裁判官は、「特別の事情」について、法廷でほとんど審理しようとせず、原告の弁論を聞こうとしませんでした。
                                        佐藤正人
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「伝統舞踊家が追悼の舞 熊野紀州鉱山 碑前で集会 35人悼む」

2011年11月28日 | 紀州鉱山
 以下は、きょう(11月28日)の『伊勢新聞』の記事です。
 http://www.isenp.co.jp/news/20111128/news06.htm

■伝統舞踊家が追悼の舞 熊野紀州鉱山 碑前で集会 35人悼む

【熊野】和歌山県海南市の「紀州鉱山の真実を明らかにする会」(金静美事務局長)は二十七日、熊野市紀和町板屋の「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑」前で第四回追悼集会を開き、県内をはじめ大阪、東京、北海道などから二十人が参加。東京在住の韓国伝統舞踊家金順子さんが追悼の舞を舞い、参加者が亡くなった三十五人の碑に献花した。

 同会によると、同町の石原産業紀州鉱山には、太平洋戦争中に一千三百人を超える朝鮮人が強制連行されて労働に従事し、うち三十五人が亡くなったとされる。同会は昨年三月、鉱山資料館前の土地(会員五人の連名で所有)に追悼碑を建立して除幕集会を開いた。

 今回の追悼集会では、同会事務局の佐藤正人さんが、地権者の五人が、県と熊野市を相手取って津地裁に提訴している土地課税取り消し訴訟の経過について報告した。

 金順子さんが、全身真っ白の衣装で、三十五人を悼んで静かに舞い、一人一人が石碑に花をささげ、思いを述べた。父親が紀州鉱山に勤務していたという南牟婁郡紀宝町の元会社員宇恵悟さん(63)は、「ここが、本当の追悼の場になるよう努力を続けたい」と話していた。
                                         (北村博司)
  【写真】 追悼の舞を舞う韓国伝統舞踊家金順子さん=熊野市紀和町板屋で

                                 
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紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい

2011年11月27日 | 紀州鉱山
 きょう(11月27日)、午前10時から12時まで、紀州鉱山の「現地調査」をおこない、午後1時から기슈광산에서 돌아가신 조선인을 추도하는 모임紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい)を開きました。
 1年まえのつどいには、丁炳碩さん(紀州鉱山に強制連行された丁榮さんの息子さん)が韓国江原道から参加され、1年後のつどいにまた参加すると言って故郷に帰りましたが、今年6月8日に急死され、きょうのつどいに丁炳碩さんの姿はありませんでした。
 きょうのつどいでは、斉藤日出治さんが司会し、はじめに佐藤正人が、昨年12月5日の3回目の紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい以後1年間の紀州鉱山の真実を明らかにする会の運動について報告しました。
 そのあと、金順子さんが追悼の舞を舞いました。きのうの李基允さんと相度さんの追悼碑まえの広場は、崖の上の狭い場でした。そこでの金順子さんの舞いは、動きを抑制した緊張したものでした。きょうの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の前の広い場での金順子さんの舞いは、きのうとおなじくはりつめたものでしたが、動きが自由で大きなものでした。
 舞のあと、献花と献杯し、参加者がそれぞれの思いを語りました。
 李陽雨さんが、追悼の歌を歌い、宇恵悟さんが閉会のあいさつをして、つどいはおわりました。
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李基允さんと相度さんを追悼するつどい

2011年11月26日 | 木本事件
 きょう(11月26日)午後1時から、이기윤씨와 배상도씨를 추도하는 모임(李基允さんと相度さんを追悼するつどい)を開きました。
 徐文平さんが司会し、はじめに、지난 1년을 돌이켜 보면서(1年をふりかえって)、報告しました。
 そのあと、金順子さんが、お二人の追悼碑の前の小さな広場で、追悼の舞を舞ました。
 舞のあと、献花と献杯し、参加者がそれぞれの思いを語りました。
 李陽雨さんが、追悼の歌を歌い、キム チョンミさんが閉会のあいさつをして、18回目の李基允さんと相度さんを追悼するつどいはおわりました。
 晩秋の午後、穏やかな日差しのなかのつどいでした。

 そのあと、参加者は、「事件」の現場をたどりつつ、極楽寺に行きました。極楽寺の墓地には、「事件」のあと建てられた李基允さんと相度さんの差別戒名が刻まれた「墓石」と、極楽寺の現住職が建てた李基允さんと相度さんの墓石が置かれています。

 参加者は、午後6時ころ、紀和町湯の口の宿所に移動し、夕食のあと、交流会をもちました。
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「虐殺真相究明のために必要」

2011年11月25日 | 「朝鮮報国隊」
  http://www.hani.co.kr/section-005000000/2003/05/005000000200305302145177.html
  『한겨레』 2003年5月30日

■‘하이난섬 징용’ 유족 찾습니다
  재일교포·일 시민운동가 “학살 진상규명에 필요”

  “일제시대 때 하이난 섬에 강제로 끌려간 사람들의 유족들을 꼭 찾아주세요”
  지난 29일 저녁 〈한겨레〉를 찾아온 재일교포 김정미(54)씨와 일본인 시민운동가 사토 쇼진(61)이 어눌한 한국말로 건넨첫마디다.
  이들은 지난 1998년부터 현재까지 ‘하이난섬의 학살’로 알려진 일제 강제 징용·학살사건을 파헤쳐 널리 알려왔다.
  일제는 1943년께 중국 최남단에 위치한 하이난 섬에 2천여명이 넘는 한국인들을 강제로 끌고 갔다. 이들 중 1천여명은 일제 말기 서대문형무소 등 전국 형무소에 수감돼 있던 사람들이며, 위안부들도 상당수 포함된 것으로 알려졌다. 일제는 강제 징용된 이들을‘조선보국대’라는 이름으로 비행장 건설, 항만공사, 철도 공사 등에 투입했으며 1945년 패망 뒤 이들을 집단학살했다는 것이 김씨등의 오랜 조사결과였다.
  김씨 등은 조선총독부 자료 등을 뒤져 당시 하이난으로 끌려간 2천여명 중 ‘가석방’된 217명만이 한국으로 돌아왔다고 전했다.
  김씨는 “학살된 한국인들을 파묻은 매장터가 현지에선 ‘조선촌’이라는 이름으로 불려지고 있을 정도”라며 “조선촌에서는 당시 학살당한 조선인들의 제복단추, 군대수첩 등 유품들과 유골들이 계속 발굴되고 있다”고 말했다.
  이들이 소속된 일본 시민단체 ‘기슈광산의 진실을 밝히는 모임’은 98년 이래 지난 3월까지 총 6번의 현지조사를 마쳤고 내년 2월 국내의 민족문제연구소와 함께 7차 조사를 진행할 예정이다. 사토는 “7차 조사에서는 이들이 한국인임을 명백히 밝히기 위해 유골들을 채취해 법의학적 감정에 맡길 계획”이라고 말했다. 그러나 이들의 연구가 진척되기 위해서는 유족들의 증언이 중요한데 이들과 연락된 유족은 현재까지 당시 강제징용자의 아들 박아무개(72·고양시)씨 1명뿐이다.
  “일본 정부로부터 사과를 받아낼 때까지 끝까지 진실을 밝힐 것입니다.” 이들의 다짐이었다. (이메일 주소 pada@syd.odn.ne.jp )
  양선아 기자 anmadang@hani.co.kr
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「海南島朝鮮人虐殺」

2011年11月24日 | 「朝鮮報国隊」
  http://cafe.daum.net/1392royal/5KsT/377?docid=57CR5KsT37720030429132144
  『朝鮮日報』2003年4月29日

■ '일제의 하이난섬 학살' 추적 김정미, 사토씨
  하이난섬 조선인 학살…왜 정부는 침묵하나

  ‘하이난 섬의 진실’을 밝히는 데 인생을 건 재일교포 역사학자 김정미(金靜美·54)씨와 일본인 시민운동가 사토 쇼진(佐藤 正人·61)씨의 방한 발걸음은 이번에도 무겁다.
  두사람은 이달초 보름간 일정으로 중국 하이난섬(海南島)을 다녀왔다.
  일제 말기 이곳에 징용으로 끌려왔다가 1945년 패망 직후 집단학살당한 조선인 1000여명의 억울한 죽음을 규명하기 위해서다.
  『하이난 섬 산야(三亞)시 교외의 난딩(南丁)촌 ‘천인갱(千人坑)’이란 집단묘지에선 당시 학살당한 조선인들의 제복단추, 군대수첩, 침통 등 유품들이 무수히 발굴되고 있습니다.
  산야시 정부에서도 1990년대 말 70세 이상 노인 50여명의 구술을 토대로 당시 숨진 1000여명이 모두 조선인이란 자료를 발간했습니다. 그런데 왜 그들의 조국인 대한민국 정부는 침묵하고 있는 겁니까?』

  ‘하이난섬의 비극’이 국내에 알려진 것은 극히 최근이다. 일제말기 서대문형무소 등 전국 형무소에 수감돼 있던 한국인들이 형기 단축이란 조선총독부의 감언이설에 속아 하이난섬에 끌려왔다.
  명칭은 「조선보국대」(朝鮮報國隊). 비행장 건설, 항만 공사, 철도 공사, 철광 채굴 등에 동원됐다가 패망 직후 일본군에 의해 학살된 것으로 드러났다.
김씨와 사토씨는 일본 미에(三重)현에 있는 기슈(紀州)광산의 조선인 강제노역을 규명하기 위해 1997년 설립된 시민단체「기슈(紀州) 광산의 진실을 밝히는 모임」에서 함께 활동했다.

  김씨는 오사카에서 태어난 교포 2세로 우리 민족사에 관심을 갖고 현대사 연구에 뛰어들어 「중국동북부의 조선·중국인 항일민중사 서설」등을 썼다.
  프리랜서 잡지 편집자인 사토씨는 20여년전 재일교포 역사가 박경식씨의 일본 제국주의 비판에 공감, 시민운동에 뛰어들었다. 이들은 1998년 기슈광산을 운영한 이시하라(石原) 광산이 하이난섬에서 경영한 티앤두(田獨) 광산 실태 파악을 위해 현지 답사에 나섰다가 조선인 학살 사건을 접하게 됐다.
  이후 조선총독부와 방위청 문서 등을 샅샅이 뒤진 결과, 1943년 3월부터 패망 직전까지 2500여명 정도가 조선보국대로 하이난섬에 끌려갔고 이중 217명 만이 무사귀환했다는 기막힌 사실을 밝혀냈다.
 김씨는 그러나 하이난섬 조선인 학살 문제와 관련, 외교부를 찾았다가 이번에도 무성의한 답변만 듣고 발길을 돌려야했다.
  『작년 4월 김대중 대통령 앞으로 하이난섬에 묻힌 조선인 징용자의 유해 발굴을 촉구하는 서한을 보냈습니다.
  당시 외교부 담당자가 예산도 없고, 하이난섬 같은 곳이 여러 곳이기 때문에 종합계획을 세워 대응하겠다고 했거든요. 1년이 지났는데, 똑같은 답변을 하는 거에요.』
  그는 『현지 답사한 자료와 영상자료까지 제출했는데, 성의없는 답변만 하니까 답답하다』면서 『정부가 자기 나라 국민들의 목숨을 이렇게 외면할 수있느냐』고 했다.
  이들은 2004년 7월10일부터 50일간 오사카 인권박물관에서 ‘하이난섬에서 일본은 무엇을 했는가―침략·학살·약탈」을 주제로 기획전을 열 예정이다.
  전시물 주요 아이템은 하이난섬 학살과 관련된 발굴 현장 사진, 유품, 사료 등이다. 이에 앞서 내년 2월 난딩촌의 조선인 유해 발굴도 추진하고 있다.
 (金基哲기자  kichul@chosun.com)   
 【写真】 하이난섬 조선인 학살사건을 추적하고 있는 재일교포 김정미씨(왼쪽)와 일본인 사토 쇼진씨.  /채승우기자
 【写真】산야시 난딩촌 조선인 집단묘지에서 발굴된 군대수첩.  김정미씨 제공  
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12月1日、課税に抗議する裁判の判決を傍聴(監視)してください

2011年11月23日 | 紀州鉱山
 9月29日に、熊野市を被告とする2回目の裁判(口頭弁論)が午前11時から、三重県を被告とする2回目の裁判(口頭弁論)が午前11時半から開かれました。
 この日、熊野市を被告とする口頭弁論開始9分後に、突然、裁判長は、「この時点で裁判所の法的な判断をします。弁論を集結し、判決を12月1日午前11時に言いわたします」と言って退廷し、三重県を被告とする口頭弁論のときにも、同様のことを言って逃げるように退廷していきました。
 「この時点」では、この訴訟の基本的論点にかんして、被告熊野市も被告三重県も極めて不十分ですが応答しようとしていました。「この時点」では、基本的口頭弁論が開始されたばかりでした。
 それにもかかわらず、裁判長は、「弁論を終結」させ、12月1日に「判決」をすることにしたのです(このブログの9月29日の「突然、裁判終結」、9月30日の「突然の弁論終結にさいして」、10月1日~10月5日の「なぜ津地裁の裁判官は突然、裁判(弁論)を「終結」したのか」1~5などをみてください)。

 「判決」の日の12月1日が、近づいてきました。
 11月26日の「李基允さんと相度さんを追悼するつどい」の5日後、11月27日の「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼するつどい」の4日後です。
 熊野市を被告とする裁判の「判決」は、この日午前11時から、三重県を被告とする裁判の「判決」は午前11時半からおこなわれます。
 使用法廷は津地方裁判所302号法廷です。傍聴・監視に来てください。
 当日、対熊野市裁判の傍聴券が10時25分に、対三重県裁判の傍聴券が10時40分に、津地方裁判所B館1階交通事件控室で抽選・配布されます。

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瓊海市長坡鎮南宝村で

2011年11月22日 | 海南島史研究
 10月30日午後3時に、瓊海市長坡鎮南宝村を訪ねました。
 村の入口の三叉路に着いて、右側の細い道を入っていくと、村人の林斯陽さんに出会いました。林斯陽さん(1960年生)は、
   ”父の林道彬は1930年生れで、長坡鎭の政府に勤めていたが、退職して家にいる。
    足が弱っていて寝たきりで、耳がとおくなっているが、話は聞くことができる。
    父は、昔のことをよく知っている”
と話しました。
 わたしたちは、林道彬さんに会う前に、林斯陽さんに、犠牲者の墓に案内してもらうことにしました。来た道を三叉路にもどるとき、林斯陽さんは、左側のゴムの樹の林を指差して、
   “このあたりが、むかしの村の中心だった。
    家がたくさんあったが、日本軍に焼かれてしまったそうだ。
    わたしが子どものときから、ずってここには家は建てられていない”
と話しました。
 墓地は三叉路のすぐ近くでした。
 墓には、焼き殺された犠牲者の遺骨が埋められているそうです。
 高さ2メートルほどの墓碑の中央に、「紀念南福老蘇村「四二七二」惨案七星墳」と刻まれており、その右には、
   殉難者 林明日青抗会委員民運隊長
       林道虎青抗会委員甲長
       林李氏道虎母 林李氏道漢母 林黄氏道江母 林黄氏資茂2伯母 ○(女+不)鳳道虎次女
と刻まれていました。
 「四二七二」(農暦1942年7月2日。普通暦1942年8月13日)に日本軍に殺された「七星」(7人)の「南福老蘇村」の村人の墓で、「老蘇」とは、老(古くからの)蘇(ソビエト:革命根拠地)という意味です。
 墓碑の左には、「公元一九九三年清明 立」と刻まれていました。
 墓碑の裏面には、つぎの墓誌が刻まれていました。
 
    南掘村『四二・七・二』惨案殉難者義家『七星墓』墓誌
      曁南大学栞授生・中国書画家林斯炳譔竝書於癸酉年孟春
  南掘村亦曰南福村、抗日戦争時期、本村人民在中国共産党的領導之下、成立了着抗会、婦救会、民運交通站抗日組織、堅持抗戦、不屈不撓。村中常駐党的交通站、県区、郷人民政府及武装部隊、乃為抗戦之堡壘。
  一九四一年春、王京瓊崖蘇維埃政府主席符明経、東定県民運部長符昌文等率部進駐本村領導抗日闘争。於此、倭寇加緊対南掘村大肆囲剿、実行『三光政策』、於け一九四二年七月二日晨、日軍大隊進村、殺死無辜民衆六名、焼毀民房三十四間、史称南掘村『四二・七・二』惨案。
  此外日寇及国民党反動派還殺害本村青抗会委員、民運隊長林明日:開槍打傷偵本村察排長黄順月婦救会員王春香。
  在長期革命戦争中南堀村人民不惜犠牲、做出了重大的貢献、気節悲壮、可歌可泣、人民政府追認為抗日根拠地老区村荘。
  為悼念罹難同胞之英魂特樹碑緬懁先烈以永誌
  革命精神永垂不朽!
                          本村民衆 立

 墓碑に書かれている殉難者の1人、林明日青抗会委員民運隊長は、林斯陽さんの叔父だとのことでした。林斯陽さんは、
   “父は3人兄弟の長男で、林明日は二男だ。
    父のいちばん下の弟はマレーシアに行ったまま戻っていない。行方不明だ。
    父は、弟の明日が共産党の活動をしているのは知っていたが、どんな仕事をしていたかははっきり知らなかったようだ。
    (碑文に)書かれていることとは少しちがう。民運は、米とか塩とか。組織で使うものを調達する組織だ。
    父は、母がいるので、このとき、組織に入れなかったようだ”。
と話しました。

 墓地を離れ、林斯陽さんの家に行きました。林道彬さんが寝たままわたしたちを迎えてくれましたが、ほとんど話をすることができないようすでした。
 父の林道彬さんから聞いたことだと言って、そばで、林斯陽さんがつぎのように話してくれました。
   “林道虎が町で塩や薬を買ったとき、漢奸が後をつけてきた。
    日本軍が来たとき、遊撃隊は撤退していたが、日本軍は林道虎の家を捜索した。塩や肉が発見された。
    量が多かったので、共産党に渡そうとしていたものだろうと思われた。
    日本軍が来たとき、多くの人は山の方に逃げることができたが、逃げられなかった7人が捕まって、一つの部屋に入れられて、焼き殺された。
    家は、甲長の家以外は、残らず焼かれた。甲長もみんなといっしょに逃げた。甲長の姉は日本人と関係のいい人と結婚していた。
    墓誌に書かれている○(女+不)鳳道虎次女は、銃剣で刺し殺され、火の中に放り込まれた。
    家畜などもいっしょに焼かれた。
    山に逃げた人は、山で自然にできたさつまいもや葉っぱを食べた。
    根拠地だから山にも米とか食料は、隠していたので、それを食べた。
    田んぼが少しあったので耕したり、親せきに助けてもらったりして暮らした。
    日本軍のスパイがいて、日本軍に誰か共産党の活動をしていると教えた。
    日本軍が来たとき共産党員はいなかったが、銃の筒を掃除する鉄棒が見つかった。日本軍はさらにくわしく捜索して、大量の塩や肉を発見した。その間に村民のほとんどは逃げたが、7人が逃げられず、捕まった。山にいったん逃げて、2、3歳の子どもがいたので、戻って見つかり、捕まって殺された人もいた。
    日本軍に襲われ家を焼かれた直後は、また襲われるかもしれないし、村人が殺されたところにいたくないし、メシを用意したらすぐにまた山に戻った。田畑のしごとをしに来ても、すぐにまた山に戻った。
    この村は、当時は、11家族で、人口は46人くらいだった。
    この辺は山が深く、大人2、3人でも抱えきれないほど太い荔枝の樹もあった。川もすぐ近くにあって、水には困らなかった。だからこの辺の村は、抗日軍の根拠地になった”。
 
 南宝村は、日本軍に襲撃されたあとは、南掘村と改名したそうです。南福村とも呼ばれています。この村には、共産党の瓊海県根拠地が置かれていたそうです。

 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、1995年9月)に掲載されている林斯炳整理「瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、1995年9月)に掲載されている林斯炳整理「長坡墟南宝村“七・二”惨案」には、つぎのように書かれています。林斯炳さんは、墓誌を書いたひとです。

   「一九四二年月七月二日晨、駐(沙老)大橋炮楼的日軍小阿部進入長坡墟南宝村掃蕩、発現該村林道虎家有食塩、認為該村蔵共抗日、先用刺刀刺林道虎全家、用辣椒冲水灌村婦王春香、強迫供認村中蔵共、王春香不認、日寇又把所有在村的男女老幼(当時不在村内的一些群衆幸免外)共十二人抓起来(其中一名女孩僅八歳)押到林明日、林道虎家関起来、揚言如不認就焼死。被押群衆寧死不供、接着日寇就搬来柴草、燃起熊熊大火把這些村民活活焼死、竝継続焼毀民房三十余間、十多戸人家満門遭惨殺、成為南宝村“四二・七・二”大惨案。僅存六戸(其中三戸当時選已逃往南洋)人家十五個人。村庄三日火焚不滅、村民流離失所、目不忍睹、被毀壊的残墻断壁至一九六二年尚何見到。南宝村遭日寇摧残后改名為南掘村」。
                                         佐藤正人      
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瓊海市長坡鎮楽古昌村で

2011年11月21日 | 海南島史研究
 10月30日早朝、文昌市内から瓊海市の長坡鎮楽古昌村と南宝村に向かいました。9時ころ長坡鎮の中心部に着き、道に立っていた人に楽古昌村と南宝村の場所を尋ねました。その人(黄兆民さん)は、楽古昌村の人でした。黄兆民さんは1931年生れで、“日本軍がきた当時のことを直接知っているのは、楽古昌村では自分だけだ”、と言いました。偶然、黄兆民さんに会えたので、楽古昌村での日本軍の侵略犯罪をくわしく知ることができました。
 近くの楽古昌村に案内してもらうようにお願いし、村に行く前に、息子の黄才超さんが経営してる茶店で話しを聞かせてもらいました。
 黄兆民さんは、つぎのように話しました。
   “農歴1942年正月13日、朝4時ころ、日本軍がトラック2台で村に来た。トラックは重興から来た。
    人数ははっきり覚えていない。
    日本軍は、人を見つけたら、縄で片腕だけ縛って、7、8人くらい、いっしょにつないだ。
    そのとき逃げた人もいた。女性が日本軍に、「シンシャントウリ」と挨拶し、おしっこしたいと言って、ほどいてもらって、別の場所に行って逃げたが、日本軍は追いかけなかった。このとき、ふたりの女性が逃げた。
    若い男8人くらいが、重興に連れていかれて殺されたと聞いた。共産党の疑いで、良民証を持っていなかった。
    女性でも子どもでも見つけたらすぐに捕まえた。捕まえたら、トラックに乗せて。年寄りを60人くらい集めて、この(茶店の)半分くらいに部屋に閉じ込めて。
    危ないと感じたので、ふたりは逃げた。ひとりは窓から逃げて、100メートルくらい逃げたところで、日本軍に撃たれて死んだ。ひとりは天井の屋根瓦をはずして、屋根に上がって、隣の家の屋根伝いに逃げようとしたが、見つかって、撃ち殺された。
    日本兵が1人、わたしの家に入ってきて、祖父に何か言って、家の捜索もしないで、門から入って、裏口から出ていった。その日本兵が使っていたことばは何語かわからない。あそこに行きなさいというようなことを言ったが、あの人は台湾人だったかもしれない。わたしたちは家から逃げだした。わたしの家族は、兄嫁ふたり、いとこの子などあわせて8人だった。両親は亡くなっていた。いとこは、マレーシアに行っていた。わたしはひとり子だった。
    7時ころ、日本軍は、2台の機関銃で撃ったあと、村人が集められ閉じ込められた家を焼いた。焼かれた跡はそのまま残っている。その跡に家は建てていない。
    村で焼かれたのは、一軒だけだった。隣の東山村では何軒も焼かれた。
    焼き殺された人たちを(そのあと見たら)、頭だけだったり、足だけだったり、みんな真っ黒だった。だれかわからないので、家族や生きのこった人たちが、みんないっしょに、大きな葉っぱにつつんだり、袋に入れたりして、大きな穴を掘って埋めた。
    解放後、場所を移して、別のところに墓を作った。最初埋めた場所は、はっきりとはわからないが、木が茂っている。新しい墓には、被害者ぜんぶの名前が書いてある。毎年4月13日、遺族が墓参りする。
    重興までの道路は、共産党の組織が日本軍の通信線を切ったり、道路に穴をあけたり、木を切り倒して道路に横たえトラックが通行できないようにすることがしばしばあった。    そのたびに、日本軍は村人に道路改修をさせたので、村人は、日本軍が集まれといったときも、警戒心がなく集まった。共産党は、川を渡る橋を破壊したこともあった。電柱が倒れたり、電線が垂れているのを見たことがある。わたしは道路の復旧工事には行かなかった。
    生き残った黄家賛が、共産党に入った。30歳~40歳だった。家族のことは知らない。娘がいたが……。どんなことをしていたか知らない。
    そのあとまた日本軍が来て、共産党員がいたら差し出せ、差し出さなかったら、村、家、家族を全滅させるといってきた。黄家賛はそれを知って、みずから日本軍のところに行った。日本軍はこの人を殺さなかった。このことは村人がみんな知っている人。
    黄家賛は日本の敗戦後、国共内戦のとき、共産党側から国民党側と見られて、殺された。雑貨売りのしごとなどをして暮らしていた」。

 茶店で黄兆民さんの話を聞き始めたとき、入ってきた来た人が、以前わたしをこの近くの白石嶺で案内したことがあると、話しかけてきました。その人は、2002年10月に追悼碑に案内してもらった文昌市重光鎮白石嶺村の林方徳さんでした(紀州鉱山の真実を明らかにする会編『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』2005年5月、19頁、および紀州鉱山の真実を明らかにする会編『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』2007年2月、6頁をみてください)。9年ぶりの再会でした。

 10時半に、黄兆民さんに楽古昌村に案内してもらいました。林方徳さんもいっしょでした。
 村の入口に、日本軍に殺された村人の墓がありました。
 墓前の碑の前面には、
    嘆亡霊含冤地下
    楽古埆村同胞於一九四二年正月十三日晨惨遺日冠焼殺
    而死亡者友六十八人葬於檳榔園地
    深仇血海永世不忘
    公元一九八八年正月十三日重立碑紀念
    吊英魂遺恨人間
と刻まれていました。裏面には、「諸亡者名氏順序排列於下」という文字のあとに、犠牲者68人の名が刻まれていました。ここに楽古昌村ではなく楽古埆村と刻まれているのは、海南語では、昌と埆は同じ発音だからとのことでした。

 墓の前で、黄兆民さんは、“さいしょの墓にも碑があった。そこにも名前を書き入れていた。小さかったが。さいしょは土盛りだった。シンガポールかマレーシアの華僑がお金を出してつくった”と話しました。そのあと、黄兆民さんに、村人が閉じ込められ焼かれた家の跡に案内してもらいました。そこで、黄兆民さんは、
   “焼かれた家の入り口にリュウガンの木があって、さいしょこの木の下に集められた。
    蹴飛ばしたりして、家の中に行けと、むりやり入れた。
    木の下から日本軍が銃を撃った。
    2件目の角のあたりで、窓から逃げた男が射殺された。窓から逃げて殺された人は、黄兆昆。
    屋根から逃げて撃ち殺された人は、黄兆斌。
    (村の北側に道路がある)その道路から、日本軍が来た。その道路は日本軍が来る前からあった”
と話しました。
 瓊海市政協文史資料研究委員会編『瓊海文史』第6輯(日軍暴行録専輯、1995年9月)に掲載されている林斯炳整理「長坡鎮楽古昌村“一・一三”惨案」には、つぎのように書かれています。
   「一九四二年正月初十、共産党抗日遊撃隊配合抗日群衆拆毀了文子大橋、破壊日軍交通要道、実施焦土抗戦。駐三牛(今重興)之日軍聞悉大為悩怒、于十三日包囲了大橋附近的楽古昌村、挨戸捜捕、把六十九位無辜群衆関押在該村黄氏祠堂里、然后以火活活焼死、竝焼毀民房十余間。之后、村中民衆六十九位罹難同胞的骸体合葬在村前、竝立碑志之」。
 農暦1942年1月13日は、普通暦1942年3月1日です。
                                         佐藤正人
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