■三亜特攻艇基地跡
コタバルとパールハーバーをほぼ同時に奇襲攻撃してアジア太平洋戦争を開始してから6か月後、1942年6月5日に、ミッドウエー海戦で日本海軍は完敗した。
その後、ポートモレスビー地域やガダルカナル島などでの日本軍の敗退がつづき、1944年7月に、USA軍がサイパン島に上陸したときに、日本の敗北は決定的となった。
このときから、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、戦争継続目的を、「国体護持」(天皇制維持)に変え、「本土決戦」の準備を始めた。
南方から進攻してくるUSA軍の「本土上陸」を遅らせるために、天皇ヒロヒトらは、南方の島々に大量の軍隊をおくりこみ、勝利の可能性のないことが明らかであるにもかかわらず戦争を継続し、おおくの現地民衆だけでなく、日本兵やUSA軍兵らのいのちを失わせた。
USA軍の上陸が予想された海南島でも、日本海軍は、「特攻」用モーターボート(「震洋」)の基地を、三亜港と楡林港のあいだに張り出している鹿回頭角の突端と、新村の南湾溝猴島突端につくった。
現在、鹿回頭角突端には、奥行き25メートルほどの行き止まりになっている洞窟が2本、80メートルほどの海側から反対の海側に突き抜けている洞窟が1本残っている。この長い洞窟の内部には、ひろい空間が4か所あり、途中にわき道があり、別の出口につながっている。この構造は、新村にのこされている「震洋」格納用洞窟の構造と似ている。
海岸の崖の岩盤をくりぬいてつくる洞窟開削工事は、難工事である。
新村でこの洞窟を掘らされたのは、海南島の民衆、台湾や朝鮮から連行された人たちであることがわかっている(『パトローネ』50号を見てください)。しかし、三亜の「震洋」格納用洞窟がどのような人たちの労働によってつくられたのかは、まだはっきりしていない。
住民のいない鹿回頭角の突端にあるため、現地での聞きとりで明らかにするのはむずかしい。
旧日本海軍関係者の沈黙を破っていかなければならない。
★写真 三亜鹿回頭角の「震洋」格納用洞窟
★写真 旧日本軍海上軍用飛行場の礎石 三亜飛行場前の海岸に残っている 満潮時は、ほと
んど海中に沈む
コタバルとパールハーバーをほぼ同時に奇襲攻撃してアジア太平洋戦争を開始してから6か月後、1942年6月5日に、ミッドウエー海戦で日本海軍は完敗した。
その後、ポートモレスビー地域やガダルカナル島などでの日本軍の敗退がつづき、1944年7月に、USA軍がサイパン島に上陸したときに、日本の敗北は決定的となった。
このときから、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、戦争継続目的を、「国体護持」(天皇制維持)に変え、「本土決戦」の準備を始めた。
南方から進攻してくるUSA軍の「本土上陸」を遅らせるために、天皇ヒロヒトらは、南方の島々に大量の軍隊をおくりこみ、勝利の可能性のないことが明らかであるにもかかわらず戦争を継続し、おおくの現地民衆だけでなく、日本兵やUSA軍兵らのいのちを失わせた。
USA軍の上陸が予想された海南島でも、日本海軍は、「特攻」用モーターボート(「震洋」)の基地を、三亜港と楡林港のあいだに張り出している鹿回頭角の突端と、新村の南湾溝猴島突端につくった。
現在、鹿回頭角突端には、奥行き25メートルほどの行き止まりになっている洞窟が2本、80メートルほどの海側から反対の海側に突き抜けている洞窟が1本残っている。この長い洞窟の内部には、ひろい空間が4か所あり、途中にわき道があり、別の出口につながっている。この構造は、新村にのこされている「震洋」格納用洞窟の構造と似ている。
海岸の崖の岩盤をくりぬいてつくる洞窟開削工事は、難工事である。
新村でこの洞窟を掘らされたのは、海南島の民衆、台湾や朝鮮から連行された人たちであることがわかっている(『パトローネ』50号を見てください)。しかし、三亜の「震洋」格納用洞窟がどのような人たちの労働によってつくられたのかは、まだはっきりしていない。
住民のいない鹿回頭角の突端にあるため、現地での聞きとりで明らかにするのはむずかしい。
旧日本海軍関係者の沈黙を破っていかなければならない。
★写真 三亜鹿回頭角の「震洋」格納用洞窟
★写真 旧日本軍海上軍用飛行場の礎石 三亜飛行場前の海岸に残っている 満潮時は、ほと
んど海中に沈む