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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 7

2007年04月19日 | 『パトローネ』
■三亜特攻艇基地跡
 コタバルとパールハーバーをほぼ同時に奇襲攻撃してアジア太平洋戦争を開始してから6か月後、1942年6月5日に、ミッドウエー海戦で日本海軍は完敗した。
 その後、ポートモレスビー地域やガダルカナル島などでの日本軍の敗退がつづき、1944年7月に、USA軍がサイパン島に上陸したときに、日本の敗北は決定的となった。
 このときから、ヒロヒト・日本政府・日本軍は、戦争継続目的を、「国体護持」(天皇制維持)に変え、「本土決戦」の準備を始めた。
 南方から進攻してくるUSA軍の「本土上陸」を遅らせるために、天皇ヒロヒトらは、南方の島々に大量の軍隊をおくりこみ、勝利の可能性のないことが明らかであるにもかかわらず戦争を継続し、おおくの現地民衆だけでなく、日本兵やUSA軍兵らのいのちを失わせた。
 USA軍の上陸が予想された海南島でも、日本海軍は、「特攻」用モーターボート(「震洋」)の基地を、三亜港と楡林港のあいだに張り出している鹿回頭角の突端と、新村の南湾溝猴島突端につくった。
 現在、鹿回頭角突端には、奥行き25メートルほどの行き止まりになっている洞窟が2本、80メートルほどの海側から反対の海側に突き抜けている洞窟が1本残っている。この長い洞窟の内部には、ひろい空間が4か所あり、途中にわき道があり、別の出口につながっている。この構造は、新村にのこされている「震洋」格納用洞窟の構造と似ている。
 海岸の崖の岩盤をくりぬいてつくる洞窟開削工事は、難工事である。
 新村でこの洞窟を掘らされたのは、海南島の民衆、台湾や朝鮮から連行された人たちであることがわかっている(『パトローネ』50号を見てください)。しかし、三亜の「震洋」格納用洞窟がどのような人たちの労働によってつくられたのかは、まだはっきりしていない。
 住民のいない鹿回頭角の突端にあるため、現地での聞きとりで明らかにするのはむずかしい。  
 旧日本海軍関係者の沈黙を破っていかなければならない。

★写真 三亜鹿回頭角の「震洋」格納用洞窟
★写真 旧日本軍海上軍用飛行場の礎石 三亜飛行場前の海岸に残っている 満潮時は、ほと
   んど海中に沈む
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人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 6

2007年04月18日 | 『パトローネ』
■月塘村虐殺
 蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、1939年10月14日の龍滾狗匙石洞虐殺、1939年10月19日の和楽西戴村虐殺、1940年11月28日の東澳豊丁村虐殺、1945年5月2日(農歴3月21日)の万城月塘村虐殺が、万寧における日本軍の4大虐殺だと書かれている。
 2005年9月秋、わたしたちは、万寧市内で、朱進春さんから話を聞かせていただいた(『パトローネ』64号を見てください)。朱進春さんは、日本軍が月塘村を襲撃したとき、日本刀で8か所傷つけられながら生き残ることができた人だった。
 その1年4月後、ことし1月、わたしたちは、月塘村と豊丁村に行った。
 月塘村の自宅で、朱学平さん(1933年生)は、かたい表情をくずすことなく、こう話した。
   「わたしは、12歳だった。朝はやく、日本兵がとつぜん家に入ってきて、なにも言わないで、
  殺しはじめた。10人家族のうち、わたしだけが生き残った。父、母、兄2人、姉、叔母2人、い
  とこ2人、そして6歳だった妹の朱彩蓮が殺された。
   わたしは、柱のかげに倒れるようにして隠れて助かった。
   妹は腹を切られて腸がとびだしていたが、まだ生きていた。こわかった。血だらけの妹を
  抱いて逃げた。途中なんども妹が息をしているかどうか確かめた。激しい雨が降った。
   村はずれに隠れた。妹は瀕死だったが、3日ほど生きていた。父朱開陵は52歳、母呉洋尾
  は50歳だった。
   日本軍が負けていなくなってから、遺骨を探した。なんども探したが見つからなかった。
   焼けた骨は土のなかで砕けてしまったのだと思う」。

★写真 朱学平さん
★写真 倒れていた場所を示す朱学平さん
★写真 日本軍に右腕と背中を切りつけられた李金治さん(1938年生)の腕の傷跡


■万寧市龍滾で
 海南島中部東海岸の龍滾から西の六連嶺にいたる地域は、抗日武装部隊の活動が活発な地域であった。
 日本軍は、抗日武装部隊の兵站を破壊しようとして、この地域でも住民虐殺、村落破壊をくりかえした。
 六連嶺山麓のおおくの村が、日本軍によって無人化された。
 日本軍は、兵舎や「要塞兵舎」や軍用道路を望楼を龍滾の人たちにつくらせ、仕事に出なかった人をみせしめに殺したという。日本軍は、抗日戦士や支援者と想定した人たちを「処刑」した。

★写真 龍滾の「処刑現場」 ここに、いまも犠牲者が埋められている
★写真 日本軍龍滾守備隊駐屯地そばの橋の跡
★写真 龍滾鎮三品涌村の「要塞兵舎」跡 正面(西方)は六連嶺
★写真 「要塞兵舎」への道 向かって左側の高台が「要塞兵舎」
★写真 「要塞兵舎」周囲の壕跡
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人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 5

2007年04月17日 | 『パトローネ』
■瓊中黎族苗族自治県吊羅山郷で
 日本侵略期に吊羅山脈地帯に住んでいた黎族や苗族の人たちは、日本軍によってそれまでの生活を破壊された。日本軍に暴行された女性も少なくなかった。
 おおくの村人が故郷を追われ、軍用道路建設などを強制されたり、武田公司などの農場で働かされた。

 吊羅山郷で陳志忠さん(1933年生)はこう話した。
    「むかしは、ここから20キロほど離れたところに住んでいた。日本兵がたくさん村にはいっ
   て来て、村人100人あまりをむりやり南橋につれていった。男も女も子どもも。
    つかまってから南橋まで2日間、歩かされた。家族ぐるみで。
    日本の武田公司で働かされた。日本兵につかまって日本の会社で働かされたのだ。毎
   月10元ほどもらった。軍用手票だった。日本軍がいなくなったら、なんの価値もなくなっ
   た」。

 陳秀深さん(1933年生)は、こう話した。
    「子どものとき、逃げようとして日本兵に銃で撃たれた。2発撃たれた。あごと右肩に弾が
   突き抜けた。口と肩から血がふきだした。それからずっといまも口を大きくあけられないの
   で、うまくしゃべれない」。

★写真 陳秀深さん
★写真 陳秀深さんの傷跡


■万寧市南橋鎮田公村で
 黄南楠さん(1925年生)は、こう話した。
    「明け方、わたしは炊事のしたくをしていた。鶏の鳴き声がおかしかった。日本兵が村に
   はいってきた。わたしの家にもやってきて、母(高門)と妹(黄公妹)を刀で殺した。母は45歳、
   妹は12歳だった。
    わたしも日本刀で切りつけられたが、家の門の柱(木の柱)の陰に避けた。命は助かった
   が、首の左側を切られた。くびから噴出してくる血を手でおさえながら逃げた。
    逃げ遅れた村人9人が殺された。5人が女、4人が男だった。1944年6月だった。
    このあたりにはわたしたち黎族がむかしから住んでいたが、日本の武田公社と早川公社
   が農場をつくってわたしたちを働かせた。仕事にいかなかったり、おくれていったりする
   と殴られた。軍服を着た日本兵が監督していた」。

★写真 柱のかげに避けたと話す黄南楠さん
★写真 黄南楠さんの首の傷跡

    註:「海南島進出会社名簿」(海南省軍務局、海南島関係申継資料第一号、1945年9月
     15日調)や「海南島民間関係主要施設竝ニ投下資金調」(海南省軍務局、海南島関係申
     継資料第二号、1945年9月1日)に武田製薬株式会社の名がある。
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人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 4

2007年04月16日 | 『パトローネ』
■上雲村虐殺
 咸来鎮の北西は、三江鎮である。三江鎮上雲村で、呉育新さん(1933年生)は、こう話した。
     「農暦1942年4月7日午後4時ころ、近くの竹家山村の炮楼にいた日本軍が、上雲村に
   来た。
    日本軍はそれまでにもしばしば来ていた。この日、日本軍は村人を村はずれの空き地に
   集め、共産軍がどこにいるかを訊ねた。
    村人が知らないと言いつづけていると、とつぜん日本軍は機関銃で村人を
   殺しはじめた。年よりも子どもも殺された。集められた村人は34人だったが、31人が殺
   された。わたしは、隣の福山村に逃げて助かった。日本軍は、家を燃やした。
   日本軍に襲われたあと8年間、わたしの村は‘無人村’になった」。

 話し終わった呉育新さんは、虐殺現場から50メートルほど離れた所にある犠牲者の墓地に案内してくれた。親族がいなくなった犠牲者の墓が潅木に覆われていた。
 上雲村には、日本軍に焼かれた家の跡が、何か所も空き地になっており、当時の家の土台石や石の柱が残っていた。

★写真 虐殺現場を示す呉育新さん
★写真 犠牲者の墓地
★写真 日本軍に焼かれた家の跡

 自宅の前で、馮所福さん(1922年生)は、穏やかな表情で、ひとりごとを言うように、こう話した。
    「わたしの家は7人家族だったが、あの日、母と2人の妹と弟が殺された。母は55歳、妹は
   12歳と11歳、弟は7歳だった。そのあと父も殺された。日本軍が来てから生きていくのが難
   しくなった。
    つらかった。食べるものがなかった」。

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人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 3

2007年04月15日 | 『パトローネ』
 咸来鎮昌洽村を日本軍は1942年秋に数回襲撃し、村内に「要塞兵舎」をつくった。その後、そこを拠点にし、日本軍は、抗日武装部隊の兵站をつぶそうとして周辺の村を襲撃した。
 昌洽村で、林紹富さん(1933年生)は、こう話した。
   「農業をしていた父、林克英は日本軍に共産党員だと思われて土橋で捕まって、拷問され
   た。
    死んだとき、父は42歳、わたしは12歳だった。父は、半死の状態で家に戻ってきた。
    すごい熱で、苦しんでいた。からだが黒ずんでいた。  
    父は日本軍に毒を注射されたと言っていた。あまり熱が高いので、父のからだに水をか
   けた。父は半月後に、苦しみながら死んだ。
    父の遺品はなにもない。父は、よく冗談をいう優しい人だった」。

★写真 林紹富さん
★写真 日本軍が破壊した昌洽村の家の跡

 咸来鎮美良村で、王禄全さん(1911年生)は、「日本軍が来て、50軒以上あった家を焼いた。逃げ遅れた人は殺された。村は、一時は無人村になった」と話し、王綏川さん(1931年生)は、こう話した。
   「学校教師だった父は、日本軍が来る前に、国民党軍に殺された。
    7歳のとき、日本軍に家を焼かれた。この家で母が、日本軍に腹を刺された。腸がとび
   だしていた。村人が介抱してくれたが、7日後に死んだ。母は、30歳をすこし過ぎていた。
    父も母もいなくなり、食べるものがなくて、水ばかりのんでいた。兄弟はみんな死んだ。
   餓死同様だった。5人兄弟でわたしは2男だ。自分ひとりだけが生き残った」。

★写真 王綏川さん
★写真 日本軍が襲撃した王綏川さんの家の跡

 咸来鎮丹村も日本軍に襲撃され、50軒あまりあった家が1軒しか残らず、無人村と同じようになった。
 丹村で、蘇家礼さん(1929年生)は、こう話した。
    「2年間、逃げて山で暮らした。食べるものがなかった。夜、芋をほって食べた。
    兄弟がどこにいるか、いまも分からない。
    日本軍がいたとき、ここに住んでいる人は、病気で死なない。日本軍に殺されて死ぬ」。

★写真 焼け残った材木を使った丹村の家の柱
★写真 丹村にあった日本軍の「要塞兵舎」
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人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 2

2007年04月14日 | 『パトローネ』
■海口市咸来鎮で
 海南島南部の三亜地域では、海南警備府第16警備隊が、海南島北方地域では、第15警備隊と佐世保鎮守府第8特別陸戦隊が、各地で残虐行為を繰りかえしていた。
 日本軍は抗日武装部隊の兵站をつぶそうとして、その活動が活発な地域の村落を無人化していった。
 多くの村民が銃剣や日本刀で殺され、家を焼かれ、人がいなくなった「無人村」がたくさんあった。
 日本軍が敗退してから60年あまりが過ぎたいま、無人とされたままの村は少なくなったが、陽日村のように、いまは、バナナ畑になっている村もある。
 人がふたたび住むようになった村の中にも、日本軍が家族を皆殺しし放火した家がいくつも廃墟となって残っている。
 咸来鎮美桐村も、なんども襲撃され、いちじき、人がいなくなったという。今も、破壊された家が10軒あまり点在している。かつて、美桐村の西に池があり、そのそばで日本軍は何人もの人を「処刑」したという。

★写真 日本軍が破壊した美桐村の家
★写真 美桐村の西の「処刑場」跡

 咸来鎮美村で、英魁原さん(1929年生)は、こう話した。
   「村に遊撃隊がいるといって日本軍はなんども襲ってきた。
    祖父の弟2人が殺された。その1人、英文存は、いったんは逃げたが、食べるものがなくな
   り、村の近くに戻って山芋を掘っているとき見つかって殴り殺された。32歳だった」。

★写真 英文存さんが殺された場所 当時は潅木に覆われていて、自生の山芋が多かったという

 美村で、梁愛梅さん(1937年生)は、
   「3才のとき母が日本軍に斬り殺された。母はわたしをからだ全体で覆うようにしっかり抱きか
   かえてくれた。それでわたしは首を傷つけられたけれども助かった。殺されたとき母は、20歳
   だった」
と話した

★写真 梁愛梅さん
★写真 梁愛梅さんの傷跡
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人びとの平和なくらしを、日本軍は壊した 1

2007年04月13日 | 『パトローネ』
         『パトローネ』69号(2007年4月発行)に掲載された「海南島2007年1月報告 人び
        との平和なくらしを、日本軍は壊した」を連載します。
         『パトローネ』http://photo-patrone.org/index.htmlは、「民衆の生活と闘い
        を写真に残そう!」をスローガンにして、1990年4月に創刊された季刊誌です(発行:
        写真の会パトローネ。定価300円。定期購読:1年間1200円、送料込み1600円。連
        絡先:北九州市小倉北区泉台2-7-18青葉荘内)。
                              紀州鉱山の真実を明らかにする会

■海南島2007年1月1日
 陽暦元旦の海南島三亜のようすは、とくにほかの日と変わらない。
 2007年1月1日から3日間、わたしたちは、三亜市羊欗鎮妙林郷妙山村を訪ねた。
 昨年初夏に、わたしたちは、妙山村隣りの六郷村を訪ねていた(『パトローネ』67号を見てください)。
 妙山村は、三亜港の西北5キロほどのところにある。日本軍は、妙山村南部に飛行場をつくり、北部に日本人農民を侵入させ「六郷村」という「移民村」をつくった。
 妙山村入り口にある樹齢300年ほどの酸豆樹のそばに住む黎金龍さん(1922年生)は、三亜からきた日本軍が、村の青年24人の首を竹で締めつけ動けないようにして、日本刀で首を切って殺すのを見た、と話した。日本兵は、ひとり殺すとその人の首と身体を井戸に投げ込み、またひとり殺すと井戸に投げ込み、虐殺を繰りかえしたという。

★写真 「処刑」現場に立つ黎金龍さん ここに、日本軍が犠牲者を投げ入れた井戸があった

 日本軍が三亜飛行場をつくるとき、少年だったにもかかわらず働かされた張球華さん(1932年生)は、つぎのように話した。
   「労働者に水をくばってまわる仕事などをさせられた。わずかな食べ物だけをもらった。日本軍
  に協力する者がいて、飛行場で働く村人を集めた。
   労働者のなかに朝鮮人がいた。
   その人たちは囚人だと、おとなから聞いたことがある。
   蒋介石軍かアメリカ軍の飛行機が爆弾を落とした。自分は助かったが、いっしょに働かされて
  いた子どもが何人も死んだ。
   日本兵は、わたしの仕事が遅いといって足を棒でなぐった」。

 張球華さんの両足のももには、その傷跡が、残っていた。張球華さんが見たという朝鮮人は、「朝鮮報国隊」の人たちだと思われる。

★写真 張球華さん
★写真 張球華さんの足の傷跡

 妙山村の自宅で、劉土清さん(1922年生) はこう話した。
   「日本軍が来る前は、食べるものもたくさんあったし、この辺は農作物がよくできるので、季節
  ごとの村のまつりはとても楽しかった。
   日本軍が来てから、いっきに変わってしまった。日本軍のあとに、日本人農民もやってきて、
  土地を奪った。
   ある日、突然、日本軍がわたしの家に火をつけた。そのとき、逃げようとした父が、銃で撃た
  れて死んだ。父の名は劉慶堂。60歳をすこし過ぎていた。
   父が撃たれて倒れる姿がいまも見える。
   父を埋めて、山に逃げた。
   日本軍がいなくなってから、村に戻った。父を埋めた場所を探したが、わからなくなっていた。
   あたりのようすがすっかり変わっていた。日本人がかってに畑地を、日本人の好きな種類の
  コメをつくる水田にしてしまっていた。日本軍がいなくなっても、もとの楽しい生活はかえ
  ってこない。
   日本軍がくる前は、自分たちの田畑で安心して生きていた。家族そろって食事して……」。

★写真 劉土清さん(左)
★写真 妙山村入り口の抗日戦士追悼碑
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