三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

紀州鉱山「現地調査」

2008年09月25日 | 紀州鉱山
 1997年2月9日に、1996年の紀州鉱山「現地調査」参加者(朴慶植さんら)が呼びかけ人となって、紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成されました。
 それ以後、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会が共同で紀州鉱山「現地調査」をおこなってきました。
 今年も、追悼集会の翌日、紀州鉱山「現地調査」をおこないます。
 みなさんの参加をお待ちしています。

■11月23日 9時20分、くまのし駅前出発
      現地集合は、10時、熊野市紀和鉱山資料館前です
■「現地調査」道程(予定)
 紀州鉱山選鉱所跡→坑口(板屋)→板屋共同墓地(朝鮮人労働者の墓石と言われている石が置かれている。石原産業が1964年に建てた「無縁塔」がある)→坑口(惣房、米込)→朝鮮人労働者の宿所跡(筑後)→三和小学校跡(朝鮮人生徒が通っていた)→坑口(三和)→和気の本龍寺(朝鮮人の遺骨が残されている)→朝鮮人労働者の宿所跡(湯の口)→坑口(湯の口)→小栗須の慈雲寺(『紀州鉱業所物故者霊名』を見せてもらう)→鉱山資料館(紀州鉱業所本部がここにあった)→「慰霊碑」(石原産業が1943年に建てた)→紀和町指定文化財「史跡 外人墓地」→→朝鮮人労働者の宿所跡(板屋、所山)。

 三重県の紀州鉱山に、1940年から1945年までに、のべ1300人を超える朝鮮人が、強制連行され強制労働させられていました。1940年以前にも、家族とともに紀州鉱山で働いていた朝鮮人がいました。
 『石原産業紀州鉱山1946年報告書』、石原産業が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』、『紀州鉱業所物故者霊名』(紀和町小栗須の慈雲寺にある記録)、紀和町和気の本龍寺に残されている遺骨などによると、紀州鉱山で30人余りの朝鮮人が亡くなっています。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、今年2008年3月9日に、はじめて、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼する集いをもちました。
 8月31日には、在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部、三重県日韓親善協会、紀州鉱山の真実を明らかにする会の4団体が呼びかけて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会の発会式をもちました。
 追悼碑には、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人一人ひとりの名を刻みたいと考えています。

  紀州鉱山の真実を明らかにする会
    http://members.at.infoseek.co.jp/kisyukouzan/
    連絡先 和歌山県海南市日方1168
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第15回 李基允さんと相度さんを追悼する集会

2008年09月24日 | 木本事件
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会は、1989年6月に結成されました。
 その5年後、多くの方がたのご参加、ご支援をえて、おふたりの追悼碑を建て、1994年11月20日に、除幕式をおこないました。
 その後、毎年晩秋に、碑のまえで追悼集会をおこなってきました。
 ことしも、追悼集会と紀州鉱山「現地調査」をおこないます。
 みなさんのご出席をお待ちしています。
 
■と き 2008年11月22日 午後3時から
■ところ 追悼碑前 木本トンネル熊野側入り口の高台
               (くまのし駅から徒歩10分ほど)
       追悼集会のあと、「木本事件」関係現場を歩きます。

 関東大地震の2年4か月後、1926年1月3日、三重県熊野市(当時、木本町)の在郷軍人や消防組員などが、朝鮮人の飯場を襲撃しました。 
 朝鮮人は、木本トンネル工事で働いていた人たちでした。家族連れの人もいました。
 襲ってくる日本人から仲間を守ろうとした李基允(イギユン)さんと、騒ぎを抑えようとした、朝鮮人労働者の責任者であったと思われる相度(ペサンド)さんが、虐殺されました。
 紀伊半島東南海岸の村でのこの日本人住民による朝鮮人虐殺は、植民地下朝鮮では、2日後の1月5日付け『東亜日報』や『朝鮮日報』で報道されました。『東亜日報』は発刊停止処分にあいました。1月21日、朝鮮総督府警務局は、日本人の「軽挙妄動が原因」と朝鮮で発表しましたが、この発表は、日本では報道されませんでした。 
 1983年に熊野市が発行した『熊野市史』中巻には、このふたりの虐殺が「まことに素朴な愛町心の発露であった」と書かれています。
 わたしたちは、この記述の書き換えを、1989年の会結成当初から熊野市に求めていますが、いまだに熊野市は、応じていません。

「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に関するパネル展示・ドキュメンタリー上映
■と き 11月22日12時~17時半 11月23日9時~16時半
■ところ 三紀地区労会館
       (くまのし駅から徒歩5分。電話05978-5-2817)


三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会
   http://www5a.biglobe.ne.jp/~kinomoto/   
  連絡先 大阪府大東市中垣内3
        大阪産業大学斎藤日出治研究室
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 10

2008年09月23日 | パレスティナ
■おわりに アイヌモシリでの民衆運動 
 わたしの父は一九一八年に佐渡島からアイヌモシリに仕事をさがしにきたアイヌモシリ植民一世で、母は二世だ。わたしが生まれ育ったオタルには、いま、アイヌはほとんど住んでいない。「北海道」の人口はいま、五七〇万だが、そのうちアイヌは数万人だ(「北海道庁」は、二万四千人としている)。
 「北海道」における民衆運動は、その運動の場が、アイヌモシリであるという歴史的事実を絶えず確認して進めなければ、日本ナショナリズムを強化する運動に転化してしまう。いま、「北海道」に住んでいる日本人のなかで、自分がアイヌモシリの植民者であると自覚している人はすくない。いま、「北海道」に本州などからあたらしく移住してくる人のほとんどは、自分がアイヌモシリへの植民者であると自覚していないだろう。
 パレスチナの各地で、イスラエル政府・軍がおこなってきた、居住区空爆・砲撃、住民虐殺、暴行・迫害、逮捕・投獄、家屋・土地略奪、家屋破壊、居住区閉鎖、道路閉鎖・通行妨害……を、イスラエルの支配民族ユダヤ人は、これまで五五年間、承認し、実行してきた。人間としてのあたりまえのモラルに反すること、かれらはどうして続けることがでたのか? この問いは、日本人は、どうしてアジア太平洋の各地で、残虐な行為を続けることができたのかというのと同じ問いであり、日本人はどうしてアイヌモシリを侵略しつづけることができるのかというのと同じ問いである。
 この問いに、日常的に実践的に応えようとしつつ、アイヌモシリで、日本ナショナリズムと対決する民衆運動を持久的に進めていくならば、自爆攻撃を決意したパレスチナの人びとのまなざしを、正面からうけとめることができるようになるだろうか。
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 9

2008年09月22日 | パレスティナ
■6、自立し共闘する民衆の世界的ネットワーク
 第二次アジア太平洋戦争以前と以後の日本の社会・経済構造も、日本のマスメディアの役割も、おおくの日本人の価値観やイデオロギーも連続している。
 日本国民は、第二次アジア太平洋戦争敗北後も、侵略の歴史を根本的に自己批判できず、天皇(制)を肯定・支持し、存続させ、他地域・他国の森林資源、漁業資源、鉱山資源を掠奪し、地球的規模で環境を破壊してきた。
 第二次アジア太平洋戦争敗北後、国民国家日本は、領土・植民地・占領地を、政治的・軍事的には縮小した。だが、経済的には、「大東亜共栄圏」の時代よりさらに侵略地域を拡大している。
 二〇世紀後半の半世紀に、国民国家日本は、先住民族の生活と労働の場であるアマゾニア地域、パプア島、ガダルカナル島、ボルネオ島……の熱帯雨林を破壊し、フィリピン、タイ……の森林やマングローブ林を破壊した。
 二一世紀になっても、日本の他地域・他国侵略の歴史は終わっていない。アイヌモシリやウルマネシアに対する日本の植民地支配はいまも続けられている。
 アイヌモシリは、アイヌ民族やウイルタ民族ら北方諸民族の大地である。
 日本政府は、アイヌ民族を先住民族として認めようとしていない。アイヌ民族を先住民族であると認めることは、アイヌモシリ(「北海道」、「千島列島」、サハリン……)をアイヌ民族ら北方諸民族の大地であると認めることであるからである。アイヌ民族を日本国民に取り込みアイヌモシリを領土としている国民国家日本は、根本的な不正(他地域占領・他民族支配)を前提として成り立っている。
 いまなお、アイヌモシリも琉球も宮古・八重山地域も、国民国家日本の植民地とされている。いま、日本民衆の多くは、日本がアイヌ民族ら北方諸民族やウルマネシア民衆の大地を領土としていることを当然のこととしている。日本人は侵略の歴史を克服していないだけでなく、いま現在、他地域・他国侵略をおこなっている。
 わたしたち日本民衆は、この歴史的事実を確認し、日本政府に、「北海道」をアイヌモシリと認めさせ、アイヌ民族を先住民族と認めさせ、アイヌ民族に対する歴史的犯罪に謝罪し、賠償させ、日本のアイヌモシリ侵略・植民地支配を否定する民衆運動を進めなければならない(「北方領土返還」策動という日本政府主導の「国民運動」との対決もその一環である)。
 戦争による過去と現在の利益を放棄しなければ、戦争に反対したことにならない。
 植民地支配による過去と現在の利益を放棄しなければ、植民地支配を否定したことにならない。
 国民国家日本の領土拡大と、天皇制の維持・強化は相関していた。天皇制を維持していることは、侵略の構造を維持していることである。天皇制温存は、日本民衆がいまだ植民地支配を否定していない証拠である。
 日本国内の政治・社会・経済体制の構造を変革することなしに、日本の他地域・他国侵略を阻止することはできない。天皇(制)が残されているかぎり、日本民衆は、他地域・他国侵略の思想・意識を克服できない。
 東アジアで王制を残しているのは、日本だけである。日本民衆は天皇制を廃絶しなければ、国民国家の枠組みを越えることも、侵略とたたかう自立し共闘する世界の民衆のネットワークとほんとうに合流することもできない。
 天皇制廃止とアイヌモシリ解放は、日本民衆の自己解放のための不可分の根本課題である。そしてアイヌモシリを解放する民衆運動、日本の侵略の歴史的構造を打破する民衆運動は、パレスチナ解放への道につながっている。
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 8

2008年09月21日 | パレスティナ
■5、帝国主義国の建国・領土拡大と殺戮
 一五世紀末のコロンブスのアメリカ到着以後、西ヨーロッパの白人は、南北アメリカでインディヘナ虐殺、資源掠奪、破壊をくりかえした。一六世紀から数世紀にわたって、アフリカ大陸からアメリカ大陸に多くの民衆が奴隷として強制連行された。一八世紀中期からアリューシャン・アラスカ地域に侵入したロシア人は、アレウト人を虐殺し、その大地を奪った。アメリカ大陸各地の鉱山では、インディヘナが強制労働させられ、多くの人が生命を失なわされた。
 北アメリカに侵入したイギリス系ヨーロッパ白人は、一七七六年に「東部一六州」を「独立」させてアメリカ合州国を「建国」したあと、さらに西部のインディヘナの大地を奪って領土を拡大し、大陸の西海岸まで国境線を広げた。太平洋岸に達したアメリカ合州国が、さらに太平洋地域を侵略し、「南鳥島」東方のミッドウェー島(ハワイ北西二〇〇キロメートル)を領土としたのは、南北戦争二年後の、一八六七年だった。ミッドウェーという地名は、北アメリカ大陸西岸と中国大陸東岸の「中間地点」を意味している。同じ一八六七年にアメリカ合州国は、ロシア帝国から、原住民族の大地アラスカを七二〇万ドルで購入して領土とした。
 一八九八年八月に、アメリカ合州国は、ハワイを「併合」し、スペインとの帝国主義戦争ののち、同年一二月に、スペインに二千万ドルを支払って、プエルトリコ、フィリピン、グアム島を植民地とし、その翌年一八九九年に、ウェーク島を領土とした。第二次アジア太平洋戦争のとき、ミッドウェー島海域、ウェーク島海域、フィリピン、グアム島は、アメリカ合州国軍と日本軍の激戦地となった。
 西ヨーロッパ白人とロシア人による侵略・虐殺の時代に続く、一九世紀から二〇世紀前半までの国民国家の領土・植民地拡大の歴史は、他地域・他国侵略の歴史であった。その歴史のなかで、侵略された地域・国家の民衆が、殺され、傷つけられ、家を焼かれ、穀物や家畜を奪われた。タスマニア島では、その地に住む先住民族が、侵入してきた白人によって狩猟労働と生活の場(森林・草原)を破壊され、白人が持込んだ病原菌によって病死し、さらには虐殺された。白人の人類学者らは、タスマニア島の先住民族の遺骨を墓地から盗み、「絶滅した人種」の標本としてヨーロッパ各地の博物館などに売却した。イスパニョーラ島西部では、先住のインディヘナのほとんどすべてがいのちを失わされ、その地は、アフリカから強制連行された黒人の国家(ハイチ。一八〇四年「独立」)となった。

 資本主義・帝国主義の「精神」は、他地域・他国の民衆を殺戮し、他地域・他国の資源を略奪することを肯定する「精神」である。そのような精神・思想・感性を国民的に形成することなしに、国民国家は他地域・他国侵略を継続することはできない。国民国家日本においてはこの精神・思想・感性の根幹は、天皇(制)であった。
 天皇(制)に統合された日本国民(天皇の「臣民」)は、領土拡大を喜び、さらなる領土拡大を望んだ。
 領土拡大のためには、国民国家の国民は先住民族を抑圧し、しばしば殺戮をおこなう。国民国家の「発展」は、先住民族虐殺を肯定するイデオロギー装置が必要であった。アイヌモシリに侵入したヤマト民族は、アイヌモシリの自然を破壊し、アイヌ民族の生活と労働の場を荒らし、病原菌をもちこみ、コタンを衰退させ、鹿猟や鮭漁を禁止して生活を成り立たなくさせた。アイヌ民族の人口は、激減した。
 日本政府は、アイヌ民族からアイヌ語を奪い、名前を日本式に変えさせ、アイヌ民族の伝統的な儀礼・習俗・芸能を変質・解体させ、日本に「同化」させようとしてきた。
 だが、アイヌ民族は、アイヌモシリを日本領とすることに同意したことはなかった。アイヌ民族は、自由意志でみずからの名前を日本式に変えたのではなかった。アイヌ民族は、アイヌ語を自らの意志で日常生活で使わなくなったのではなかった。
 アイヌモシリとウルマネシアでやったことを、日本国民は、台湾でも朝鮮でも「南洋群島」でもおこなった。もし、日本国民の数十パーセントでも、日本の侵略の犠牲となっている他地域・他国民衆の生と死を、自分たちの生と死に重ね合わせて想像できていれば、国民国家日本は、他地域・他国侵略・植民地支配を継続できなかっただろう。
 だが、日本国家の他地域・他国侵略によって経済的・政治的・社会的に恩恵をうけ、侵略・資源掠奪・領土拡大による利益を拒否できない日本国民は、侵略・資源掠奪・領土拡大・民衆虐殺を否定する人間的モラルを喪失していった。

 フランスとの戦争に勝利したプロイセンが、二二個の君主国と三個の「自由市」を併合して一八七一年に形成した国民国家ドイツは、アフリカ・アジア・太平洋の諸地域・諸国を侵略して領土・植民地を拡大した。一九〇四年に、アフリカ南部のナミビア(一八八四年にドイツの領土とされていた)で、ヘレロ民族がドイツの侵略に抗して烽起したとき、ドイツ軍は、ジェノサイドをおこなった。このときヘレロ民族の八割が死亡したという。その翌年一九〇五年にタンガニイカ民衆(マトゥンビ民族、エンギンド民族、ボゴロ民族、エンゴニ民族ら)が開始したマジマジ烽起の時にも、ドイツ軍は一九〇七年までに一〇万人を越える民衆を虐殺した。国民国家ドイツは、第二次世界戦争時のユダヤ人虐殺に関しては国家として謝罪しているが、アフリカ・アジア・太平洋でおこなった歴史的犯罪の歴史的事実をいまなお明らかにしようとせず、ナミビアやタンガニイカの民衆に対して謝罪も賠償もしていない。
 一九四八年に、ユダヤ人シオニストは、パレスチナを占領し国民国家イスラエルを「建国」した。その後、シオニストがパレスチナの民衆に対しておこなっている犯罪は、アメリカ大陸に侵入した白人がインディヘナ民衆に対しておこなった犯罪、アジア太平洋各地に侵入した日本人が現地の民衆に対しておこなった犯罪を、とくにアメリカ合州国政府の武器・資金援助と政治的支持のもとに繰りかえすものであった。
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 7

2008年09月20日 | パレスティナ
■4、パレスチナ植民地化とユダヤ人「移民」
 シオニストは、一九世紀末から、「移民」策動をはじめた。パレスチナにユダヤ人が大量に「移民」として侵入しはじめたのは、一九二〇年からだった。シオニストは、“土地なき民に民なき土地を”をスローガンとして、パレスチナ人の大地にユダヤ人「移民」を侵入させた。一九三三年~三九年には、二〇万四千人が侵入し、パレスチナ人の土地を奪った。
 イスラエルは、シオニストが、主としてアメリカ合州国政府・軍、イギリス政府・軍の援助をうけて「建国」した植民国家(「移民」=侵略者を中核国民とする国家)である。
 一九四八年五月のイスラエル「建国」のとき、約一四〇万人のパレスチナ人のうち、四二万三千人がガザやトランスヨルダンに追われ、八五万四千人が七一の「難民キャンプ」に避難させられた。
 一時的に避難したパレスチナ人の家にユダヤ人「移民」が住みつき、一時的に所有者がいなくなった農地を奪った。イスラエル政府は、そのような非道な行為を肯定し支持し援助した。イスラエル国家は、創生期から、モラルを欠如した侵略国家である。
 いま、イスラエル国家の領土とされたパレスチナの大地に住むパレスチナ人の居住地域は、分断され、鉄条網や壁で囲まれ、分断された地域をむすぶ道路はイスラエル兵士によって制圧され検問が強行されている。
 イスラエル政府・軍は、イスラエル占領地で生活しているパレスチナ人を、継続的にその居住地域から追い出そうとして、パレスチナ人農地のオリーブの樹を広範囲に切り倒し、パレスチナ人の学校や病院を閉鎖している。
 「入植地」を拡大し、ユダヤ人「移民」を送りこんで、パレスチナ植民地支配を維持・強化するのが、イスラエル「建国」いらいのシオニストの基本戦略である。ヨーロッパやロシアや中央アジアやアメリカ合州国からパレスチナに侵入したユダヤ人は、そこがパレスチナ人の大地であることを知りながら、住みついた。
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 6

2008年09月19日 | パレスティナ
■3、「同化」・殺害・「保護」
 日本政府は、一八七一年五月に戸籍法を布告し、一八七二年から戸籍編成をはじめた。
 国家の権力者は、強力な軍隊を持たなければ、他地域・他国を侵略することも、国内民衆の反乱を鎮圧することもできない。戸籍整備は、日本の新政府が徴兵によって国軍をつくりあげるための前提であった。国民国家における戸籍は、国家が国民を支配・管理するための基礎名簿であり、この名簿なしに国家は、徴兵、徴税のシステムを機能させることができない。
 日本の戸籍整備後、徴兵制によって国軍兵士とされた日本民衆の成人男性は、日本国家の他地域・他国侵略の先兵となって殺戮、暴行、強奪をふくむさまざまな犯罪をくりかえした。
 一八七三年ころから、「開拓使」は、アイヌ民族に日本戸籍を強制し、アイヌ民族を日本の「平民」として登録しはじめた。アイヌ民族にとって日本の「平民」とされることは、日本人への「同化」を強制され、天皇(制)をおしつけられることであった。日本政府は、アイヌ民族に日本戸籍を強制しつつ、アイヌ民族を「旧蝦夷人」「古民」「土人」「旧土人」などと呼んでいた。
 一八七五年の「千島樺太交換条約」によって、樺太と千島のアイヌ民族は、強制的に国籍を決めさせられ、諸属国籍の領土内に移住させられた。
 一八七六年から、「開拓使」は、アイヌ民族に「創氏(創姓)」と「改名」を強制しはじめた。アイヌ民族の社会生活は、姓を必要とする社会生活とは異質なものであった。アイヌ民族に対する日本式の姓名の強要は徹底的で、日本に住むアイヌ民族の戸籍名は、すべて日本式姓名とされた。
 アイヌモシリ植民地化以後、日本政府は、アイヌ民族に鮭猟も狩猟も禁止し、主要な食料であった鮭や鹿などをアイヌ民族から奪いつづけた。そのために餓死させられたアイヌは少なくなかった。
 一八九七年七月に、「沖縄県」と東京府小笠原に徴兵制が施行された。その半年後、一八九八年一月から、「北海道」全域に徴兵制が施行され、アイヌ民族の青年も強制的に日本軍の兵士とされた。
 その翌年、一八九九年三月一日に、日本政府は、「北海道旧土人保護法」を公布した(四月一日施行)。このとき、四年前から台湾に侵入していた日本の軍隊は、台湾の漢人と先住民族に対する残虐な軍事行動をおこなっていた。
 「旧土人保護法」は、「保護」の名のもとにアイヌ民族に土地を「無償下付」し、アイヌ民族に農耕のみを押しつけようとするものであったが、実際にアイヌ民族に渡されたのは、狭く、農耕に適さない荒れ地であった。
 「旧土人保護法」公布二年後、一九〇一年三月三一日付で「北海道庁」は「旧土人児童教育規定」(「庁令」)を出し(翌日公布)、アイヌ民族の子どもたちに、それまでよりもさらに徹底して日本語を「国語」として使わせ、「忠君」「愛国」等のイデオロギーを「道徳」として押しつけはじめた。

 アマゾニアにヨーロッパから侵入した白人は、先住民族が生きてきた自然と大地を、これまで数世紀にわたり破壊・汚染してきた。二〇世紀はじめから日本人「移民」もそれに加担してきた。アマゾニアの先住民は、侵入者のもちこむ病原菌によって命を失い、人口が激減した。同じことを日本人はアイヌモシリでおこなってきた。アイヌモシリの自然も、この大地が日本の植民地とされて以後、急速に破壊された。
 「北海道」の人口は、一九〇一年に一〇〇万人を越えた。アイヌ民族の「北海道」における人口比率は、この年には、一・七五パーセントに激減していた。
 一九九七年七月一日、香港に対するイギリスの植民地支配が終わった日、日本で、「北海道旧土人保護法」が廃止され、新たに「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が施行された。
 日本政府はアイヌ民族に対する歴史的犯罪に謝罪も賠償もしないままに、この新しい法律で、国民国家日本のアイヌモシリ領土化を当然の前提とし、アイヌ民族を先住民族と認めず、アイヌ語やアイヌ文化を日本文化に組み入れ、アイヌ民族の「同化」を法的に完成しようとした。この法律は、アイヌモシリ植民地化新法と呼ぶべきものである。
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 5     

2008年09月18日 | パレスティナ
■2、日本の現在の植民地
 一九四三年から一九四五年八月までの間に、「南洋群島」、フィリピンなどが、日本の植民地支配から解放された。
 一九四五年八月に、日本はアジア太平洋戦争に敗北し、台湾、朝鮮、中国東北部、モンゴル東南部、海南島、香港……に対する日本の植民地支配は終わったが、アイヌモシリの一部(「北海道」)は、日本の植民地のままに残された。アイヌモシリの他の一部(「南樺太」と「千島列島」)も、北方先住民族に返還されず、再びロシアの植民地とされた。ウルマネシア(かつての琉球王国、宮古・八重山地域、および波照間島、与那国島……)は、アメリカ合州国の植民地とされた。
 一九四五年一一月、日本政府は、「北海道」の「開発」(すなわち、侵略・自然破壊・資源略奪)をさらに進めようとし、「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定した。
 日本国憲法施行半月前の一九四七年四月に地方自治体法が公布され、それまで内務省の一機関であった「北海道庁」が日本国家の地方自治体となった。
 日本政府は、一九五〇年六月に、「北海道総合開発」のための国の行政機関として「北海道開発庁」を新設して、アイヌモシリ「開発事業」の管轄を地方自治体である「北海道庁」から国家に移し、一九五一年七月に、その事業の出先機関として札幌市内に「北海道開発局」を設置した。「北海道開発庁」は、一九五一年一〇月に「北海道総合開発計画及び第一次五か年実施計画」を決定し、一九五二年四月から実施した。
 一九七二年五月に、それまでアメリカ合州国の植民地とされていたウルマネシアは、ふたたび日本の領土とされ、アイヌモシリとともに日本の植民地とされた。ウルマネシア再植民地化と同時に日本政府は、「沖縄開発庁」を設置し、日本企業とともにウルマネシアの「開発」=侵略・自然破壊・資源略奪をはじめた。「開発庁」が設置された日本の都道府県は、アイヌモシリである「北海道」とウルマネシアである「沖縄県」だけである。
 いま日本政府が続けている独島再占領策動、「北方四島」再占領策動、釣魚島再占領は、領土と経済水域を拡大しようとする現在の日本の他地域・他国侵略策動の一環である。
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パレスチナ解放への道、アイヌモシリ解放への道 4

2008年09月17日 | パレスティナ
■1、アイヌモシリ植民地化と日本人「移民」
③、中国東北部侵略期から一九四五年まで
 「第二期北海道拓殖計画」開始の四年後、日本は、一九三一年九月から中国東北部とモンゴル東南部の軍事侵略を進め、一九三二年三月に「満洲国」をつくり、日本人「移民」を侵入させはじめた。この「移民」は、一九世紀後半のアイヌモシリにおける屯田兵と同じように、植民地を「防衛」する役割をも担っていた。「満洲国」の領土とされた中国東北部とモンゴル東南部地域に侵入した「農業移民」に対して、同じような寒冷地である「北海道」における日本人の農業技術が「指導」された。アイヌモシリに侵入した日本人「移民」と同じように、中国東北部とモンゴル東南部に侵入した日本人「移民」も、先住民の大地を占領した。土地を奪われた先住民は、侵入してきた日本人「移民」の小作農や雇農として働かされた。
 一九四五年三月に日本政府は、「都市疎開者の就農に関する緊急措置要綱」を閣議決定し、それにもとづいて、同年五月の次官会議は「北海道疎開者戦力化実施要綱」を決定した。このとき日本政府は、アジア太平洋戦争末期の空襲被災者二〇万人(五万戸)を集団で「北海道」に侵入させ、自作農とし、かれらの生活を安定させ、食料を増産して、侵略戦争を続けようと空想していた。
 この「要綱」にもとづいて、七月初めから八月末までに、東京、神奈川、大阪などから九回にわたって八九〇〇人(一八〇〇戸)が「北海道」に移った。かれらは「拓北農兵隊」と名づけられた(日本の敗戦後、「拓北農民団」と改称)。
 「第二期北海道拓殖計画」終了時の「北海道」の既耕地は七七四〇平方キロメートル、人口は三五〇万人だった。
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朝鮮人を追悼する碑を建立する会発会式の報告など

2008年09月16日 | 紀州鉱山
『週刊 金曜日』金曜アンテナ欄に掲載された山本柚さんの報告です。

■紀州鉱山に強制連行の朝鮮人追悼碑建立計画
         『週刊 金曜日』 2008年09月12日号
 三重県にある石原産業旧紀州鉱山で第2次大戦中、延べ1000人を超える強制連行の朝鮮人が鉱山労働に従事していた。事故や病気のため異郷で命を落とした朝鮮人を追悼し、歴史事実を伝える碑を建立する会の発会式が8月31日、同県津市であった。市民団体のほかに、在日本大韓民国民団県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会県本部なども名を連ね「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」が発足した。
 新しい会の母体となった「紀州鉱山の真実を明らかにする会」によると、1940年~45年、旧紀和町にある同鉱山で朝鮮半島各地から強制連行された朝鮮人が働いていた。同会は、同町の寺に残された遺骨、石原産業や県の資料などから32人の死亡者の名前を明らかにした。しかし、実際の死亡者数は上回ることが予想されている。
 同鉱山では、同じ時期に300人ほどのイギリス兵捕虜も強制労働させられていた。同町には、死亡した捕虜16人の「英兵戦没者記念碑」もあり、町長も参加して慰霊祭も営まれてきた。しかし、朝鮮人に関しては鉱山資料館の展示や町史でも、ひと言も触れられていないという。
 これまで「建立する会」では、同町と合併した熊野市に死亡者の本籍や名前を知るため「埋火葬許可証」の開示や碑の用地提供を求めたが、いずれも拒否の回答だった。来春の碑完成を目指し、同会は今後も同市と交渉を続ける。
 同会事務局の金静美さんは「亡くなった人々の名前や数を明らかにし、碑に刻むとともに、歴史的責任を追及してゆきたい」と話している。
 追悼碑の基金も募っている。連絡先は竹本さん(TEL090・8860・9961 Mail saito@eco.osaka-sandai.ac.jp)。
                           (山本柚・ライター)

■海南島の追悼碑建立に日本の市民団体が協力
          『週刊 金曜日』2008年8月22日号
 1945年5月、日本軍に占領され、200人近い住民が日本兵によって無差別に殺された中国・海南島の月塘村で今年4月、追悼碑が建立された。8月3日、市民団体「海南島近現代史研究会」第2回総会が大阪市内であり、会の佐藤正人さんが海南島での式の様子を報告した。
 佐藤さんによると、式には小学生も含む地元住民350人が参加。「三・廿一惨案紀念碑」とされた追悼碑の左側面には、2歳から67歳まで犠牲者・生存者190人すべての年齢と名前が刻まれている。胎児を宿したまま殺された犠牲者は「一屍二命」と記された。
 また、碑右側面には日本政府への要求――国際社会での公開の謝罪、生存者と遺族への賠償、追悼記念館の建設、焼失した家屋や強奪財産の弁償――が刻まれている。この4項目は、日本での行動を呼びかけるように大阪の会場で改めて読み上げられた。
 同研究会は、三重・和歌山県境にある石原産業紀州鉱山での朝鮮人強制連行の調査を発端に、海南島での強制労働や住民虐殺を知った。98年から13回にわたり海南島を訪問、地元でしか語り伝えられていなかった虐殺事件を調査し、活字や映像を通して日本国内に伝えてきた。今回の追悼碑建立にあたっては、市民から基金を募り、集まった72万円を提供した。
 月塘村全村民から日本政府への要求書を託された佐藤さんは「海南島の民衆に朝鮮、日本の民衆が協力してできたこの碑を、日本政府が虐殺の事実を認め、謝罪し賠償する運動の拠点としたい」と話している。
                           (山本柚・ライター)

■海南島住民虐殺の真相伝える追悼碑建立決定
          『週刊 金曜日』2008年2月22日号
 月塘と呼ばれる丸い月の形をした池が中国南部・海南島にある。今から63年前の1945年5月、この小さな池は、村人が流した血で真っ赤に染まった。
 太平洋戦争を目前に控えた39年、日本軍は海南島を占領した。タイやビルマ(ミャンマー)など南方侵略の足場を築き、鉱山などの資源を求めてのことだった。その後、日本敗戦までの6年間、日本軍は村々を襲い、住民の家財を奪った。抵抗する者には子どもでも容赦なく刃を振り下ろした。
 月塘のある月塘村も、そんな村のひとつだった。わずか4時間の間に約70軒の家が焼かれ、1歳から79歳まで200人近い住民が命を落とした。しかし、虐殺の真相を伝える手立てがないまま歳月が流れていた。
 加害者・日本軍にとって、この小さな村は「通過点」のひとつにすぎなかったかもしれない。しかし、虐殺を生き延びた被害者はいまだ全身で記憶を留め続けている。妹が亡くなった場所へ60年ぶりに足を運ぶ男性の慟哭、服を脱ぎさらされた傷跡。そして、体に向けられた刀の角度を示し、腸が飛び出した腹部を抑える手の動きも生々しい。
 歴史の片隅に打ち捨てられようとしていたこれらの証言は、大阪の市民団体「海南島近現代史研究会」の手によってDVD『海南島月塘村虐殺』にまとめられた。
 そして、この4月、地元住民の長年の願いが実る。住民虐殺の真相を伝える追悼碑が建立されることになった。碑には、殺された住民一人ひとりの名前が刻まれる。碑の建立に同会も協力、建立募金への賛同を広く呼びかけている。
 同研究会の佐藤正人さんは「追悼碑は、歴史事実を明らかにするための第一歩。建立をきっかけに、日本政府に住民虐殺の責任と謝罪を求める運動を進めたい」と話す。
 連絡先は大阪府大東市・大阪産業大学経済学部 斉藤日出治研究室(郵便振替 海南島近現代史研究会 00960―5―280485)。
                         (山本柚・ライター)
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