三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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海南島の朝鮮人兵士 15

2010年10月25日 | 海南島からの朝鮮人帰還
■金元植さんのこと 2
 日本が海南島を占領していた時、海南島東南部の陵水黎族自治県新村の「治安維持会」副会長兼秘書長であった趙向盈さん(1918年~2005年)は、日本敗戦後、中国軍に逮捕されました。
 わたしたちは、2000年3月に、趙向盈さんに話を聞くことができました。
 そのとき、趙向盈さんは、新村海岸の日本海軍特攻艇(震洋)基地跡の近くで、つぎのように話しました。

 新村には、日本軍人30人、工兵200人、特攻隊員100人ほどがいた。工兵は、労働者とは違う。特攻隊長の名は、辻。課長は、高橋。特攻艇を格納するトンネルは、日本から特攻隊員が来る前に、田独から来た朝鮮人が掘った。
 新村に慰安婦がいた。10人くらいだったが、4、5人が朝鮮人だった。三亜から連れてこられていた。慰安所の主人は、日本人で、日本軍が管理していた。
 わたしは治安維持会副会長だったので、日本が投降したあと、国民党の裁判を受け、海口の刑務所に入れられた。
 海南海軍特務部総監を殺した朝鮮人金元植とそこで会った。
 かれは、朝鮮同郷会会長で、年は35歳くらいだった。わたしに、“判詞”(判決文)を見せてくれた。上訴するのに、いっしょに相談もした。金元植は監獄から脱走した。わたしはその一週間後、出された。
 海口の刑務所には、1000人入れられていた。徐龍燮、金龍成という朝鮮人もいっしょだった。その後、偶然、海口で飲み屋をしていた友人の店で、ふたり会った。ふたりは歌が上手で手品もうまく、演技団に入って、日本占領時代に海南島に来たといっていた。
 海口に“大韓民国同郷会”があった。そこで、わたしは、朝鮮人の数を調べたり、帰国の仕事、整理、記録などを少し手伝ったことがある。
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