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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 3

2013年11月30日 | 個人史・地域史・世界史
■「万人坑」
 中国やモンゴルには、日本政府・日本軍・日本企業によって命を失わされたおおくの民衆がいっしょに埋められたり棄てられたりした場所が、数千か所あると思われる。そのなかで、とくに多数の人が埋められたり棄てられた場所は、「万人坑」とよばれている。ほかに「千人坑」、「百人坑」とよばれている所がある。
 「万人坑」は、ハイラル沙山、水泉溝、龍王廟、琵琶山、塘沽、東寧、石家庄、本渓鉱山、鶏西炭鉱、鶴岡炭鉱、遼源炭鉱(西安炭鉱)、石人炭鉱、老頭溝炭鉱、豊満ダム、七道溝鉱山、大栗子鉱山、大同炭鉱、龐家堡鉱山、井陘炭鉱、准南炭鉱、南京、三灶島……にある(左禄主編『侵華日軍大実録』〈解放軍出版社、1989年7月〉、中共中央党史研究室科研管理部編『日軍侵華罪行紀実(1931―1945)』〈中共党史出版社、1995年9月〉、李秉剛『万人坑 千万冤魂在呼喚』〈中華書店、2005年7月〉、李秉剛・王新華・閻振民主編〈日本奴役中国労工罪行図証』〈中華書局、2005年9月〉、何天義編著『亜洲的奥斯威辛 日軍侵華集中営掲秘』〈四川人民出版社、2007年7月〉など、参照)。
 遼寧省に限っても、孫玉玲主編『日軍暴行録 遼寧分巻』(中国大百科全書出版社、1995年6月)、李秉剛主編『歴史的疤痕 遼寧境内万人坑』(東北大学出版社、2004年6月)、李秉剛主編『日本侵華時期遼寧万人坑調査』(社会科学文献出版社、2004年12月)などによると、旅順、平頂山、新賓北山、旺清門、葦子峪、平頂山、下湾子、响水河子、木奇、永陵、撫順炭鉱、本渓、大石橋マグネシウム鉱山、弓長嶺鉄鉱山、北票、阜新、水豊(水豊水力発電所)、龍王廟、乱石山など20か所あまりに「万人坑」がある。
 海南島には、田独鉱山(三亜市)、石碌鉱山(昌江黎族自治県)、八所港(東方市)、加来(臨高県)などにある(田独・石碌・八所の「万人坑」については、このブログの2006年5月21日の「「海南島1998年 夏」~田独万人坑・石碌万人坑・八所万人坑・朝鮮村~」を、加来の「万人坑」については、このブログの2009年10月18日の「パランオッ・藍色衣服・青い服 6」をみてください)。
 海南島の「万人坑」は、日本軍、日本窒素、石原産業、西松建設の侵略犯罪の大きさを示している。
 「万人坑」に埋められている人の名前は、ほとんどわかっていない。
 1984年に、南京の江東門で侵華日軍南京大遇難同胞紀念館の建設がはじめられ、1985年8月15日に開館した。江東門地域は、1937年12月に、日本陸軍第16師団の将兵が、民衆を大虐殺した地域だった。1984年~85年の紀念館建設工事中におおくの遺骨が「発掘」された。
 1998年~99年に、侵華日軍南京大遇難同胞紀念館は、新たに208体の犠牲者の遺骨を「発掘」した(朱成山主編『侵華日軍南京大江東門「万人坑」遺址的発掘与考証』〈江蘇古籍出版社、2002年8月〉)。侵華日軍南京大遇難同胞紀念館は、2006年6月26日に一時閉館され、拡張工事が開始され、2007年12月に新しく開館した。
                                          佐藤正人
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 2

2013年11月29日 | 個人史・地域史・世界史
■1937年12月に南京で
 20世紀末ころから、中国で抗日戦争期の聞きとり調査とその記録の出版が活発になってきた。日本政府と日本軍と日本企業によって強制連行され強制労働させられた中国人労働者からの聞きとりをまとめた『日軍槍刺下的中国労工』(全4冊 『石家庄集中営』、『偽満労工血泪史』、『華北労工協会罪悪史』、『中国労工在日本』)が、「中国抗日戦争和世界反法西斯戦争勝利50周年」の1995年8月に、新華出版社から出された。
 21世紀はいり、2005年7月に、紀念南京大受難同胞聯合会・中国近代口述史学会・日本侵華戦争遺留問題民間研究網何天義研究室共同編集『二戦虜日中国労工口述史』(全5冊)が、斎魯書社から出版された。この本は、総3000頁あまりで、『雪没北海道』(第1巻)、『血洒九州島』(第2巻)、『砿山血泪史』(第3巻)、『冤魂遍東瀛』(第4巻)、『港湾当牛馬』(第5巻)の5巻にわかれており、600人ちかい日本に強制連行された人たちの証言が収められている(このブログの2008年5月13日の「「口述史」について 1」、および2010年9月15日の「証言・記録、そして証言者と聞きとる者との関係 1」をみてください)。

 2007年8月に、南京出版社から『南京大屠杀史研究与文献系列丛书』の発行が始められた。
 その第1册~第3册は、朱成山編『南京大屠杀遇难者名录』であり、第4册~第7册は朱成山編『南京大屠杀幸存者名录』である。
 『南京大屠杀遇难者名录』には、1937年12月13日から1938年1月の間に南京で日本軍に殺害された人のうち8280人の人の記録(姓名、性別、殺害されたときの年齢、職業、住所、殺害された場所、殺害された日、殺害された方法、加害日本軍部隊名など)が掲載されている。
 『南京大屠杀幸存者名录』には、1937年12月13日から1938年1月の間に南京と周辺で大虐殺を体験、実見、被害を受けた生存者2605人の記録(氏名、性別、民族、本籍地、生年、没年、当時の年齢、当時の住所、受傷害情況、調査日、調査時の住所、調査人の氏名など)が掲載されている。調査日は、1938年2月1日から2005年7月2日までである。
 蔡家琴さん(仮名)と蔡羅氏さんと高士偉さんの調査日は1938年2月1日、蔡小喜さんの調査日は1938年2月3日であり、この3人の記録は、徐淑希『南京安全区档案』に依拠している。
 陳永清さんの調査日は1945年11月4日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「陳永清陳述日軍在漢中門集体的結文」に依拠している。
 杜長復さんの調査日は1945年11月27日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「杜長復陳述謝徳源被日軍槍殺的結文」に依拠している。
 高和祥さんと高秀蘭さんの調査日は1945年11月28日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「高和祥陳述高和成被日軍槍殺的結文」に依拠している。
 高金坤さんの調査日は1945年11月29日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「高金坤陳述高金支被日軍槍殺的結文」に依拠している。
 池王氏さんの調査日は1945年11月30日であり、この記録は、「池王氏為其夫池年衣等被日軍槍殺致南京市政府呈文」に依拠している。
 陳雲龍さんの調査日は1945年12月3日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「陳雲龍陳述呉氏被日軍輪奸致死的結文」に依拠している。
 陳永言さんの調査日は1945年12月6日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「陳永言陳述其父陳天才被日軍槍殺的結文」に依拠している。
 常許氏さんの調査日は1945年12月2日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「常許氏陳述房屋被日軍焚毀的結文」に依拠している。
 方学仁さんの調査日は1945年12月5日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「方学仁陳述方施氏被日軍槍殺的結文」に依拠している。
 龔在田さんの調査日は1945年12月5日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「龔在田陳述其妻龔黄被日軍槍殺的結文」に依拠している。
 丁萬和さんの調査日は1945年12月18日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「丁萬和陳述張志存房屋被日軍焚毀的結文」に依拠している。
 馮蒋氏さんの調査日は1945年12月23日であり、この記録は、1945年12月23日の「馮蒋氏為其子在下関被日軍集体至蒋介石呈文」に依拠している。
 陳家榮さんの調査日は1945年12月28日であり、この記録は、南京審判戦犯軍事法庭『敵人罪行調査表』の「陳家榮陳述房屋被日軍焚毀的結文」に依拠している。
 昌開遠さんの調査日は1946年1月9日であり、この記録は、1946年1月9日の「盛世徴等為日軍在上新河地区大至南京市抗戦損失調査委員会呈文」に依拠している。
 陳成氏さんの調査日は1946年2月22日であり、この記録は、1946年2月22日の「陳成氏為其次子福葵被日軍槍殺至南京市政府呈文」に依拠している。
 丁元林さんの調査日は1946年3月26日であり、この記録は、1946年3月26日の「丁元林為其父丁仁春被日軍槍殺至南京市政府呈文」に依拠している。
 陳琴さんの調査日は1946年7月24日であり、この記録は、1946年7月24日の「陳二姑娘被日軍強奸的調査表節録」に依拠している。
 昌兆祥さんと褚劉氏さんと東波さんの調査日は1946年10月5日であり、この記録は、『南京市臨時参議会編南京大案可提供被害人姓名、住址表』に依拠している。
 馮広祥さんの調査日は1947年1月26日であり、この記録は、1947年1月26日の「馮広祥陳述其兄馮広成被日軍拖至下関江辺集体呈軍事法庭呈文」に依拠している。
 陳福宝さんの調査日は1947年2月8日であり、この記録は、1946年2月8日の「陳福宝陳述日軍在城内市民記録」に依拠している。
 馮金徳さんの調査日は1951年2月24日であり、この記録は、1951年2月24日の『新華日報』に掲載された「歴史証人的回顧」に依拠している。

 『南京大屠杀幸存者名录』には、2605人の証言が記録されているが、その証言記録のほとんどは、100字未満であり、極めて簡潔である。
 抗日戦争勝利後、中国政府は、日本の中国での侵略犯罪の調査を組織的にすすめ記録してこなかった。

 アジア太平洋戦争に敗北した日本の政府・軍・企業は、アジア太平洋各地での侵略犯罪の実態を調査・記録してこなかった。
 国民国家日本の政府は、アイヌモシリ侵略以後、アジア太平洋の各地で、日本の官僚、兵士、移民、商人、会社員……がおこなった侵略犯罪の実態を調査・記録してこなかった。
 日本政府は、アジア太平洋の各地で日本軍・日本企業が民衆をどのようにして殺害したのかその状況を調査し、明らかにしなければならない。 
                                         佐藤正人
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国民国家日本の侵略犯罪 民衆虐殺 1

2013年11月28日 | 個人史・地域史・世界史
■16世紀末以後
 国民国家形成以前、16世紀末(1592~93年。1597~98年)に、豊臣秀吉(1537~1598年)の軍隊が朝鮮に侵入し、多くの朝鮮民衆を殺害した。その人たちの名はほとんど明らかにされておらず、その数すら明確にされていない。
 国民国家形成以後、日本国家は、周辺諸地域・諸国家を継続的に侵略し、その地の民衆およびその地から日本に連行した民衆の命を奪った。
 国民国家日本が最初に侵略したアイヌモシリで、多くのアイヌが、日本人がもちこんだ病原菌によって命を奪われた。
 1872年の国民国家日本の「琉球処分」以後、「沖縄戦」までの間に、多くの琉球・八重山地域の民衆が、日本の兵士などによって命を奪われた。
 1874年の国民国家日本の「台湾蕃地処分」以後、1945年までの間に、多くの台湾の民衆が、日本政府・日本軍・日本警察によって命を奪われた(1873年1月に日本政府は「徴兵令」を施行し、その翌年、1874年5月に、陸海軍3千数百人の日本兵を台湾に侵入させた)。
 1875年に日本の小型砲艦「雲揚」が朝鮮の江華島海域に侵入していらい1945年までの間に、 1894年の清日戦争から1945年までの間に、中国や日本で、多くの中国人の命が奪われた。
 国民国家日本の政府・軍隊・企業……が殺害したアジア太平洋民衆の名もその数も、いまなお、ほとんど明らかにされていない。

■1906~1911年に朝鮮で
 大韓帝国が日本に内政権・財政権・外交権を侵害された植民地(「保護国」)とされたのは、1905年11月だった(「乙巳保護条約」)。
 1906年から朝鮮民衆は、独立戦争を開始した。この抗日反日闘争は、1912年ころまで続けられた。日本軍は、朝鮮各地で、義兵の根拠地と判断した村落を襲撃し、村人を殺害し、家を焼いた。
 朝鮮駐箚軍司令部『朝鮮暴徒討伐誌』(1913年)には、1906年から1911年までの間に日本軍・憲兵・警官が殺害した義兵は1万7779人であったと書かれている。
 この一桁までが書かれている数字は、そのままでは信用できないが、1910年8月の日本への「韓国併合」前後の5~6年の間に命を奪われた朝鮮民衆がきわめて多かったことを示している。

■1919年に朝鮮で
 3・1独立運動を押さえつけるために、日本政府は、軍隊・警察を増強し民衆を殺害した。朴殷植の『韓国独立運動之血史』には死者7509名と書かれている。
 朝鮮総督府警務局の報告(1919年6月20日付)では、3月1日~4月30日の「暴民死者」は553人と書かれている。
 韓国国家記録院は11月19日に、1953年に韓国内務部(現・安全行政部)が全国的な調査を行い作成した3・1独立運動の犠牲者名簿(1冊)などに関する分析結果を発表した。これらの名簿は今年夏に終わった東京の韓国大使館の新築・移転作業中に発見されたもので、3・1独立運動の犠牲者名簿には、殺害された630人の名前、年齢、住所、死亡した日時や場所、状況などが地域ごとに記録されているという(「東京で発見 3・1運動と関東大震災の韓国人犠牲者名簿」、『ソウル聯合ニュース』2013年11月19日)。 http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2013/11/19/0200000000AJP20131119002200882.HTML
                                         佐藤正人
 
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文昌県新橋鎮で 6

2013年11月27日 | 海南島史研究
 10月25日夕刻、魏学策さんに話を聞かせてもらっていると、そばに来た女性が、
   “わたしの義母も子どものとき、日本兵に刺された。そのとき、母は昌美村の近くの羅楼村
   に住んでいた。家族5人のうち義母だけが生き残り、義母の両親と姉2人が殺された。義母
   の名は潘月桂。1933年の生まれだ。
    義母の父の名は潘儒彬。義母の母はタイ人だった。
    義母は、いまは寝たきりだが会って傷跡の写真をとってほしい”
と話しました。
 午後5時過ぎに、潘月桂さんの家を訪ねました。背中に5~6か所の傷跡が残っていました。そのうちの2箇所は深い3センチほどの傷跡でした。

 文昌県新橋鎮は、10年ほど前に文昌県潭牛鎮に併合されました。今後、さらにくわしく旧新橋鎮を含む潭牛鎮の各地で聞きとりをし、記録したいと思います。
                                         佐藤正人


 
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文昌県新橋鎮で 5  “昌美村九・二二惨案”3

2013年11月26日 | 海南島史研究
 魏学策さんは、日本の総理大臣が、日本は他国を侵略したことがないと言っているのを知って、怒り、ことし8月10日に昌美村委員会にだした告発状「記九廿二惨案 一控告日本侵略者的三光政策」とその「附言」をみせてくれました。「記九廿二惨案」は1600字ほど、「附言」は1800字ほどです。
 「記九廿二惨案」に、魏学策さんは、つぎのように書いています。
   “抗日戦争勝利68周年に、わたしは、日本侵略者がわが国の多くの人民を殺害し、わたし
   の故郷の昌美村で血で血を洗う罪を犯したことを告発する。
    日本鬼子は、昌美村で、50人あまりの同胞を殺害したが、わたしは、そのときの幸存者で
   あり、歴史の証人である。
    いま、安倍を首相とする一部の日本の右傾分子は、歴史事実を無視し、歴史を否定し、
   歴史を書き換えようとしているが、これは許せることではない。
    昌美村は革命老区である。…………
    1942年9月22日に、漢奸を連れた日本軍が新橋からわたしたちの村に侵入した。日本軍
   は、いたるところで人を殺し、放火し、略奪した。日本軍は、朱村を襲い、ついで魏村を襲っ
   た。
    朱村の朱任英老人によれば、このとき日本軍は朱村で30人あまり、魏村で10人あまり、
   両村で50人あまりを殺害したという。
    ‘九廿二’惨案のとき、わたしの家族は伯母(大媽)、母、姉の3人が殺された。当時わたし
   は、わずか5歳の子どもだったが、5か所を刺され、気を失い、血のなかに横たわっていた。
    日本鬼子は、門の板をはずして火をつけ、そこに大媽、母、姉を投げ入れた。3人は烈
   火に焼かれ黒焦げになった。覚醒したわたしは、全身が血まみれで母の焼死体のそばに
   横になっていた。
    当時、父は、農作物を見守りに行っていて鬼子の危害をまぬかれた。鬼子が村を去って
   から、知らせを聞いて、急いで家に戻った父は、血まみれになっているわたしを助け起こし
   た。
    父は、わたしを山のなかの病院に連れていった。そこは、祠堂で共産党が病院にしてい
   たところだった。
    わたしの家は焼かれ、財物は奪われ、10匹あまりの羊の1頭の豚も銃で殺され奪われて
   いた。
     父の身体はしだいに痩せていき、精神的にもくずれていき、まもなく世を去った。
    両親を失い、家もなく、わたしは、飢え、苦しんだ。
    日本の‘三光政策’は、人道に反していた。…………
    ‘九廿二’惨案の日は、わたしが生涯わすれることのできない日である。
    三光政策’は、わが国の人民、および東アジア各国人民にたいする重大な犯罪であるに
   もかかわらず、今日においても、日本軍国主義者は、反省せず、歴史を書き換え、憲法を
   変えようとしている。…………
     わたしは、日本軍国主義が侵華戦争のときにわたしの家族を殺害した罪を告発する。
     日本政府は、公正に答えなければならない。
         告発人 魏学策
                  二〇一三年八月十日”。

 魏学策さんは、この告発状と附言を、海南島の新聞社にも送ったが、応答がなかったそうです。
 11月4日の『海南日報』に、つぎのようなかたちで、報道されました(この記事の10月27日は10月25日の、1943年は1942年の、今年8月1日は今年8月10日の誤記です)。
    10月27日,魏学策来到与佐藤约定的茶馆,还未落座,这位年过八旬的老人便已泪流
   满面。他紧紧攥着这份凝结着血泪的文书,哽咽着说不出一个完整的句子。佐藤也红了
   眼眶,静静陪伴。
    1943年9月22日,日军血洗了朱村、魏村两个村庄,杀害村民50余人。魏学策的母亲、
   伯母及姐姐被抛进熊熊烈火活活烧死。此后漫长的70年中,竟无人问及此事。直至今年
   8月1日,魏学策才用颤抖的手,提笔写下了这份“控告书”。
    “我就要死了,可没有人问过我,当年我经历了怎样的惨剧。”握着佐藤的手,魏学策老
   泪纵横,“虽然你是日本人,但我还是感激你,愿意代我将真相公诸于世,为我惨遭杀害
   的家人争取一份迟来的道歉。”

 記事の全文は、このブログの11月4日の「搜集日本侵瓊証据」に掲載してあります。 
                                         佐藤正人     
    
      
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文昌県新橋鎮で 4  “昌美村九・二二惨案”2

2013年11月25日 | 海南島史研究
 魏学策さんは、ときどきそっと涙をふき、なんども声をつまらせ、長く沈黙し、ときに声をあげて泣きながら、つぎのように話してくれました。
   “昌美村は、とうじ、朱村と魏村にわかれていた。わたしは魏村に住んでいた。
    あの日、日本軍ははじめ朱村に入ってきて、村人30人あまりを殺し、家に火をつけた。
    朱村から人の叫び声や泣き声が聞こえ、火の光、炎、煙がみえたので、魏村の村人は逃
   げ出した。朝、5時ころだった。
    そのときわたしの家には、母、姉、伯母、わたしの4人がいた。父は山に猪を追いにいっ
   ていた。
    姉の手をひき、わたしを背負った母が、10匹あまりの羊をつれて、伯母といっしょに逃げ
   ようとしたとき、日本兵が家にはいってきた。
    日本兵が、背負い紐を軍刀で切ったので、わたしは母の背から落ちた。
    日本兵は、母と伯母と姉とわたしを庭につれていって、銃剣で刺しはじめた。庭は血だら
   けになった。
    刺されたわたしは、気を失った。
    どのくらい時間がたったかわからないが、誰かがわたしに声をかけてくれたが、そのとき
   は、意識がはっきりしなかったので答えられなかった。
    戻ってきた父がわたしを病院につれていった。父は、現場を見たとき気を失ったという。
    母と伯母と姉は、日本兵に火をつけられていた。わたしはすこし離れたところに倒れてい
   たので、焼かれなかった。
    母の名は、洗氏。28歳。伯母は、石龍村の博氏。姉の名は魏玉英で10歳だった。
    あの日、魏村では、20人あまりが殺された”。

 魏学策さんは、右胸(左胸の心臓の位置の反対側)、背中の右側と左側、腹部(胃のあたり)、下腹部の5箇所の傷跡をみせてくれました。とくに右胸の傷跡が深く、銃剣が左にそれていたら即死したと思われます。日本兵は、4歳の子どもまでをも殺そうとしていました。
                                          佐藤正人
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文昌県新橋鎮で 3  “昌美村九・二二惨案”1

2013年11月24日 | 海南島史研究
 邢治躍さんに話を聞かせてもらっていると、村人が、近くの昌美村に、日本軍に家族を殺された人がいると言って、迎えに行ってくれました。
 その人は、魏学策さん(1938年生)さんでした。
 茶店に来てくれた魏学策さんに、わたしはすぐに挨拶しましたが、魏学策さんは、ひとことこたえたあと、しばらくの間、当時のことを思い出したのか、声をおさえて泣き、深い息をはきました。
 それから、静かな口調で話はじめてくれましたが、なんども声を詰まらせました。
 日本軍が昌美村を襲って、村人50人あまりを殺害したのは、1942年農暦9月22日(普通暦10月31日)でした。このとき、4歳の魏学策さんの目の前で、母、姉、伯母の3人が殺されたそうです。
 それは、いまから71年前のことでした。71年前のことを、魏学策さんは、昨日のことを話すように話しました。
 魏学策さんの話しを聞きながら、わたしは、10年あまり前の2003年3月27日に、文昌市北方の羅豆郷秀田村で陳貽橋さん(1924年生)に話を聞かせてもらっていたときのことを思いかえしていました。1945年7月30日(農暦6月22日)に秀田村を襲った日本軍に、祖母、母、妻、そして4か月の子を焼き殺された陳貽橋さんは、出会ったときからずっと泣きながら話してくれました。秀田村の人たちにとっては、58年まえの秀田村虐殺は、昨日のことのようでした。
 2004年4月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1998年6月からの海南島での「現地調査」の内容を報告するドキュメンタリー『日本が占領した海南島で』を制作しました。そのとき、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、その前年3月27日での秀田村の陳貽橋さんらのことを思いつつ、副題を「60年まえは昨日のこと」としました。
 秀田村での日本軍の住民虐殺については、このブログの2007年2月14日の「日本侵略期(抗日反日闘争期)海南島史研究 3」、2010年9月10日の「海南島における日本政府・日本軍・日本企業の侵略犯罪調査8」などをみてください。
                                    佐藤正人
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文昌県新橋鎮で 2

2013年11月23日 | 海南島史研究
 10月25日、文昌県新橋鎮で、日本軍が新橋に侵入していたときのことをくわしく知っている人に出会えないまま、近くの大頂村に向いました。
 士陶村の邢福波さん(1953年生)に、大頂村の旧日本軍守備隊の兵舎と望楼の跡に案内してもらうことができました。邢福波さんは、同行した邢越さんの友人です。
 今年3月に邢越・邢飛編著『読解海南邢氏歴史』が出版されましたが、この本の原稿を書いているとき、邢越さんは、士陶村をなんども訪ねていました。士陶村には、明代の邢氏にかんする遺跡が残っています。
 日本海軍海南警備府第15警備隊大頂守備隊の兵営・望楼跡は、ゴムの樹の林に囲まれており、樹木や竹林や潅木に覆われていました。当時日本軍は、付近の民家などを壊して、そのレンガや木材をつかって兵舎や望楼をつくっていました。そのレンガの破片がいくつも残っていました。その周囲には幅が2メートルほどの壕の跡が残っていました。全体的に壕は浅くなっていましたが、まだ深さが1メートルあまりあるところもありました。

 大頂村の茶店で、邢治躍さん(1930年生)に話を聞かせてもらいました。邢治躍さんさんは、こう話しました。
   “近くの企路坡村で姉が共産党のために食料を運んでいたとき、日本軍にみつかった。日
   本兵が両足と両手と陰部に釘をさした。姉を殺したのは大頂の日本兵だ。
    姉の名は、邢福娥。1943年3月のことだった。
    企路坡村の人が母に姉が日本兵に殺されたことを知らせてくれたが、母は日本兵を恐れ
   て行かなかった。姉の遺体は企路坡村の人が埋めてくれた。
    父は南洋に行っており、家には母とわたししかいなかった。姉は、日本軍が海南島にくる
   前から共産党に入っていた。日本軍がきてから、姉は、わたしを連れて食料を運んだこと
   がある。幼いわたしがいっしょだと日本軍の検問があまり厳しくなかったからだと思う。
    大頂に日本軍がつくった日本語学校に2~3日通ったが、教師が生徒を殴るのをみて、や
   めた”。
                                          佐藤正人
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文昌県新橋鎮で 1

2013年11月22日 | 海南島史研究
 10月25日に、文昌県潭牛鎮を過ぎて南隣の新橋鎮に行きました。
 海南島に侵入していた日本海軍は、呉鎮守府特別陸戦隊の将兵で構成した第15警備隊の守備隊を潭牛、新橋、大頂にも駐屯させていました。
 『海南警備府戦時日誌』に含まれている「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)には、第15警備隊新橋守備隊の将兵数は338と書かれており、この数字は、「陸上部隊兵力配備要図」(1943年3月1日現在)に示されている守備隊の将兵数でとびぬけて最多であるだけでなく、海南島を5分割して軍事支配していた佐世保鎮守府・舞鶴鎮守府・横須賀鎮守府・呉鎮守府の陸戦隊本部の将兵数と比べても、呉鎮守府特別陸戦隊の将兵で構成されていた三亜の第16警備隊本部の将兵数382に次ぐ数字です。
 ただし、その5月前の「陸上部隊兵力配備要図」(1942年10月1日現在)では、第15警備隊新橋守備隊の将兵数は57と書かれており、1943年3月1日現在の338という数字は一時的なものであったと思われます。
 新橋守備隊の駐屯地から数キロの地点に大頂守備隊の駐屯地があり、この地域は、抗日武装部隊の活動が活発で、日本軍は、それに対抗する軍事態勢をつくっていたと思われます。
 10月25日午前11時に新橋鎮の中心部に着き、行海さん(1929年生)に話を聞かせてもらうことができました。行海さんは、つぎのように話しました。
   “日本軍がきたとき近くの下屯村にいた。12、3歳だった。日本軍は、トラックで村に入って
   きた。村人は山のほうに逃げた。
    日本軍は、新橋に兵舎・望楼・学校をつくった。
    わたしは、日本軍がつくった学校に下屯村から通った。生徒は、はっきり覚えていないが
   100人くらいだったと思う。‘コンニチハ’‘タバコ’……というコトバを覚えている。学校の前
   に、日本の国旗がたてられていた”。

 近くの古城村に住んでいたという林龍軒さん(95歳)は、国民党の軍隊に入って日本軍と戦い、甲子での戦闘のとき頭と右足を負傷したと話しました。林龍軒さんは帽子をぬいで、頭の怪我の跡をみせてくれました。あたまの真ん中のすこし右側が大きくくぼんでいました。その部分の頭蓋骨が陥没しているようでした。林龍軒さんは、瓊山県府守備団第1中隊に所属していたそうです。
                                         佐藤正人
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文昌県潭牛鎮で

2013年11月21日 | 海南島史研究
 10月25日に、文昌県潭牛鎮に行きました。
 潭牛に行くのは、2004年12月いらい10年ぶりでした(このブログの2013年7月14日の日本政府・日本軍・日本企業の海南島における侵略犯罪「現地調査」報告 8」をみてください)。
 潭牛鎮の中心部にある潭牛人民革命紀念園を訪ねました。この紀念園は、1993年3月に開設されたもので、中央の「英烈館」の奥の壁面に、84個の村ごとに、城坡村22人、考京村14人、湖東村13人、来儀堆村10人、大好村9人、美孝村32人、敦友村16人、水清村10人……で、総数399人の英烈の名が記されていました。
 この紀念園を番している朱興文さんに海南島近現代史研究会に《文昌潭牛人民革命紀念冊》編輯委員会編『文昌潭牛人民革命紀念冊』(1998年12月)を寄贈してもらいました。そこには、英烈一人ひとりの生涯が短くですが書かれていました。日本軍が海南島に侵入する以前、および日本軍が敗北して撤退したあと1950年5月までに国民党との戦いで倒れた人の名もありましたが、多くは抗日戦争期の犠牲者でした。
 「英烈館」の壁面に名が記されている美孝村の32人の英烈のうち31人の生涯が『文昌潭牛人民革命紀念冊』に書かれています。そのうち楊必水さん(1907年生)ら3人が日本軍の海南島侵略以前に、楊月娟さん(1926年生。女性)ら4人が日本敗戦後に国民党に殺害されており、鄺世秀さん(1919年生)ら24人が抗日戦争のさなか1940年~1944年に倒れています。
                                           佐藤正人
 
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