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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

日本の海南島における侵略犯罪と海南島民衆の抗日反日闘争

2015年07月31日 | 海南島史研究
 1998年6月から2015年4月まで、わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員として27回、海南島近現代史研究会の会員として14回、海南島を訪問して、おおくの人に海南島における日本の侵略犯罪の事実と海南島における民衆の抗日反日闘争の歴史を証言してもらうとともに、日本の海南島侵略の現場と「遺跡」を検証してきた。
 はじめて海南島を訪ねたとき、わたしは、海南島での日本の侵略犯罪の大きさを知った。二度目に海南島を訪ねたとき、さらに、日本政府・日本軍・日本企業の海南島における犯罪の闇の深さを強く感じ、それを記録し、日本民衆に伝達し、日本の国家犯罪の責任の所在を明確にし、責任をとるべきものにとらせなければならないと考えた。
        
                           佐藤正人
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海南島とわたし

2015年07月30日 | 海南島史研究
 はじめて海南島に行ったのは、1998年6月だった。
 海南島について僅かな知識しかもたないで、わたしは海南島を訪ねた。海南島に強制連行された朝鮮人のことを調査するためだった。
 朝鮮人のことを知っている人を探して三亜の「朝鮮村」を訪ねると、村人が、記憶の中の朝鮮人の姿を思い起こして、話してくれた。
   朝鮮人が日本軍にいかにひどく扱われていたか。
   朝鮮人は、どこで、どのようなしごとを、どのようにしていたか。
 わたしは、さらに尋ねた。
   朝鮮人は、餓えてはいなかったか? 
   朝鮮人は、どのように生きていたか?
   朝鮮人は、どこに埋められているか?
 海南島でわたしたちが出会った方がたは、わたしたちの質問に、ていねいに答えてくださった。日本の占領下で、じぶんたちも、辛く苦しく生き抜いてきたにもかかわらず。じぶんたちの家族も殺されたにもかかわらず。
 それからの数回の「現地調査」のとき、わたしは、海南島に強制連行された朝鮮人のことを知ることを主とし、日本占領下の海南島の人たちの暮らしはどうだったのだろうかを深く知ろうとしていなかった。そのあと、わたしは記録を整理しながら、反省した。
 海南島で日本軍が具体的に何をしたのかをできるだけ調べ、日本の海南島での犯罪を全体的にとらえなければ、海南島での朝鮮人にたいする日本の犯罪もきちっと知ることはできない。
 このことに気づいてから、海南島とわたしは、あらたな関係に入ったのだと思う。
 海南島の各地を訪ねながら、多くの人たちに話を聞かせていただいた。
 話を聞きながら、よく生き延びてくださった、と感謝することも多かった。幼くして重傷を負いながらようやく生きながらえた人。幼少の年齢で家族を殺され孤児になった人。幼い兄弟姉妹だけで、食べ物を求めてさまよった人。……
 わたしたちは、海南島で、廃墟になった村をいくつか訪ねた。日本軍に襲撃され村民の大半を殺されたため、廃墟になったのである。村で使われていたという井戸が草に覆われていた。日本軍に村民が焼き殺された家の残骸が、いまも残っている村むら。
 日本軍の建造物が残っている地域も多い。それらの建造物は、住民の農作業を妨害している。住民の生活を壊して作られた日本軍の建造物は、いまも、住民の生活の障害になっている。
 日本軍がそこに住む人びとを追い出してつくった黄流飛行場の跡では、いまも、コンクリートの滑走路が水田を切り裂いている。日本軍のトーチカは水田のあちこちに散在している。
 それらは、日本の海南島侵略の証拠である。それらの風景は、わたしに、日本の海南島侵略を見せていた。
 海南島の人たちの体にも心にも、海南島の自然にも、日本軍は、消すことができない傷を残した。
 日本ではどうか。
 日本では、海南島で海南島の民衆を殺した日本人は、じぶんの犯罪を隠し続けて生きてきた。海南島で、アジア太平洋全域で、日本人に殺された人がいるということは、殺した日本人がいるということだ。しかし、戦後70年間、殺した日本人の責任が、日本では具体的に問われることはなかった。それは、70年間、日本社会が殺した日本人の責任を具体的に追及することのない社会であり続けてきたからである。
 侵略責任をとることのないまま、侵略犯罪を隠蔽して築かれてきた日本の“平和”。アジア太平洋の人びとの犠牲の上に成り立っている日本の“平和”。海南島と日本のこの70年の違いの恐ろしさを考えずにはいられない。
 わたしは、紀州鉱山の真実を明らかにする会や海南島近現代史研究会のなかまと共に、日本に殺された人たち一人ひとりの生を残したいと考え、殺された人の名を海南島の人たちとともに記録してきた。海南島で日本(日本政府・日本軍・日本企業)に殺害された人の名は、これまで数千名しか明らかになっていない。その何十倍もの人が殺されているにもかかわらず。
 海南島で、日本が戦争に負けたことを知ったときはどう思ったか、と聞くわたしたちに、何人もの人が、“ようやく生活が安定する”、“安心して農耕ができると思った”、と話した。 
 この言葉を聞いて、日本軍が、海南島の人たちにいかにひどい存在であったかを、あらためて考えた。
 わたしたちは微力である。わたしたちが海南島調査で明らかにできた日本軍の侵略犯罪は、まだ僅かである。僅かではあるが、それは、海南島の人たちの協力のおかげである。
 海南島でこれまでお会いしたすべての人に感謝するとともに、親愛の気持ちを伝えたい。
                  
                         2015年7月30日  金靜美
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海南島での聞きとりを通して思ったこと

2015年07月29日 | 海南島史研究
 わたしはこれまで2000年から10数回にわたって海南島を訪問し、住民のみなさんから日本の侵略犯罪についての話を聞かせていただいてきました。日本軍によって家族の命を奪われ、村の食糧や財産を奪われ、日本軍のために労働を強いられ、性的な虐待を受け、自然環境をふくむ暮らしの総体を破壊された辛い体験を、それぞれの方が声を絞り出すようにして話してくださいました。その言葉の一言一言がわたしの心と体に鋭く突き刺さってきます。
 わたしは1945年、つまり日本の敗戦の年に生まれた日本人ですが、海南島での皆さんの話を聴くまで、日本の占領下の海南島でこのようなことが行われたことをまったく知りませんでした。わたしと同じように、多くの日本人は、日本が軍事占領下で残したこのような深い傷痕についてほとんど知りません。それどころか、敗戦後70年のあいだそのことを知ろうとすらしてきませんでした。国外からの批判に耳を傾けずに内にこもって、いまだにかつての帝国の妄想にとらわれ、帝国意識に浸っている日本人があまりにも多いのです。
 多くの日本人は、日本による侵略犯罪の犠牲となったひとびとの痛みや苦悩に無自覚でいることのうちに潜む無意識の植民地主義からいまだに抜け出すことができていません。日本人は、1945年の敗戦によってアジアの植民地を放棄するように強いられ国内に引き上げてきたのですが、植民地の喪失は外部からの強制であって、みずからの植民地統治が犯した犯罪行為を主体的に反省しそのような犯罪者の立場から脱した主体になるための努力を怠ってきたのです。
 日本が海南島で犯したおびただしい犯罪行為について、日本の政府が謝罪し補償することは当然の義務ですが、同時に日本の民衆がみずからの植民地責任を問い、植民地主義から脱却するための学習の努力が求められていると思います。アジアの隣人の権利をふみにじり、隣人を蹂躙した植民地主義の暴力行使から抜け出し、非暴力の人間関係を創出するための学習に自覚的に取り組んでいかなければなりません。
 わたしは海南島で住民の皆さんから話をうかがって以降、その話を鏡にして自分のものの感じ方や考え方や行動のありかたを再考する必要を強く感じています。またいまの日本の状況を、海南島の住民の皆さんのまなざしを通してとらえかえすことの大切さを強く意識するようになりました。
 わたしは日本が犯してしまった犯罪の事実に正面から向かい合うほかに日本が歩むべき道はないと思っています。それは、日本人が自分たちの恥を他者にさらすことになるわけですが、そのことを通してはじめて日本人はアジアのひとびとと新しい関係を創造することができるのだと思っています。
 これまでわたしたちに話をしてくださったすべての皆さんに深く感謝いたします。

                          2015年7月29日   斉藤日出治
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『真相 海南岛近现代史研究会17年(27次)调查足迹』

2015年07月28日 | 海南島近現代史研究会
 来月、海南島の南海出版公司から『真相 海南岛近现代史研究会17年(27次)调查足迹』が出版されます。
 この本の出版は、昨年秋から準備されていました。
 南海出版公司の編集者は、昨年秋と今年春に紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会の海南島「現地調査」の全日程に同行しました。
 海南島近現代史研究会は、資料を提供しましたが、南海出版公司の担当編集者が、独自に同書を制作しました。
 書名は、南海出版公司が上部機関への登録を急いだために、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会が最終的な確認をする以前に決定してしまいました。
 海南島「現地調査」は、海南島近現代史研究会としては2007年9月から2015年3月~4月まで8年間(14次)であり、紀州鉱山の真実を明らかにする会としては1998年6月から2015年3月~4月まで17年間(27次)です。
 南海出版公司が決定・登録した本書の書名『真相 海南岛近现代史研究会17年(27次)调查足迹』は、正確ではありませんが、紀州鉱山の真実を明らかにする会の海南島「現地調査」は海南島近現代史研究会の海南島「現地調査」の前史なので、間違いではありません。

 6月18日に北京で中国共産党中央委员会宣伝部(中宣部)と国家新聞出版广電総局が開催した「纪念抗战胜利70周年出版专题工作会」で、南海出版公司の『真相 海南岛近现代史研究会17年(27次)调查足迹』は、吉林文史出版社の『中苏反法西斯战争实录』、解放军出版社の『中国战俘劳工录》、南京出版社の『中国战区受降档案』、人民文学出版社の《抗日战争》、山西人民出版社の『海外稀见抗战图集』、雲南人民出版社の『旌旗万里:中国远征军在缅甸』、台海出版社の『台湾共产党抗日史』などとともに「纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年重点选题目录」に加えられました(このブログの7月22日の「紀念抗日戦争暨世界反法西斯戦争勝利70周年选题和図書目録発布」、7月24日の「220种重点出版物纪念抗战胜利70周年」をみてください)。

 発行されたばかりの『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足迹』をもって、南海出版公司から16人が、来月23日の海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会に参加します(このブログの7月25日の「来月23日に、海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会を開きます」をみてください)。

                                      佐藤正人
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「日寇侵琼掠夺海南矿产资源罪证大披露」  

2015年07月27日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-07/27/content_19_1.htm
『海南日报』 2015年7月27日  文:本刊特约撰稿 王浩  图:韩惠娇
■日寇侵琼掠夺海南矿产资源罪证大披露
 一张张图纸,一桩桩罪行

     【图】昌江第三发电年设计图
     【图】独铁矿预算表
     【图】田独铁矿机械明细表
     【图】田独铁矿机械明细表
     【图】昌江第三发电所设计图

  在我省全国第一次可移动文物普查中,诸多国有单位的珍贵文物相继浮出水面。其中抗战文物不在少数,以海南矿业股份有限公司档案馆保存的56件日军侵琼时期的工业设计图、勘探报告等资料弥为珍贵。
  这些资料不仅大致勾勒出了日军侵琼时期掠夺海南矿产资源的过程,同时也填补了日寇侵琼历史记录之某些空白。
  这一张张资料和图纸,见证了一桩桩日军侵琼时期疯狂掠夺海南资源的罪行。

★日寇对田独铁矿的应急开采
  在我省全国第一次可移动文物普查中,诸多国有单位的珍贵文物相继浮出水面。
  在海南矿业股份有限公司保存的日占时期材料中有《石原产业田独矿山的机械器具明细一览表》,表为纸质,长30.1厘米,宽23.5厘米。该明细表作于昭和19年(1944年)3月31日。全表共计15页,内容详细记录了田独矿区开采所需的机械设备和开采工具。又有《田独矿山预算基础》,亦为纸质,作于昭和十九年(1944年)四月。内容共计42页,记录了矿石开采的采矿量,出矿率等统计数据以及开采设备的减和购置信息,穿插有铅字摘录,部分纸张边缘可见别针锈迹,可见是多次积累汇总而成。 1939年2月,日军在海南岛登陆之后,即组织多方力量进行海南岛的资源勘查。这次调查发现了田独铁矿山。田独铁矿位于海南省南端榆林港东北12公里处,是日军率先掠夺海南铁矿资源的第一个矿区。
  1939年2月14日,日军占领榆林港后,5月,石原产业海运株式会社对该地区进行调查。同年8月,开始着手进行开采,并于1940年6月11日开始出矿。同时,在榆林港建成了万吨级的矿石运输船舶码头,供大型船只停泊以运送铁矿。日寇对田独铁矿的开采持续到了1945年1月底,共计开采矿石约270万吨,输往日本约240万吨。 田独铁矿矿石品位高达63%,储藏量为500万吨,日军在不到七年的时间中将其掠走过半储藏。

★日寇对石碌铁矿的系统开采
  海南矿业股份有限公司保存的抗战时期文物中,又有5件《昌江第三发电所设计图》。图纸的尺寸基本一致,均长77厘米,宽54.5厘米。该套图纸绘制于昭和17年(1942年)12月24日,材质为硫酸纸。内容包括水轮机层平面图、发电所厂房设计图及管径尺寸标示图。图纸的设计方为日本窒素南方部海南事业所。从绘制时间来看,与日本窒素株式会社为保证石碌矿区开采所需电力而开发兴建的东方水电站的时间相吻合。
  石碌铁山的开采由日本窒素株式会社进行。1940年日本窒素株式会社在资源勘查时,发现石碌藏有亿万吨矿石藏量,矿石品位高达60%,此消息引起了日本政府尤其是军方的高度重视。日军组织地质、冶金和测量专家至海南复核,于调查报告书中说:“石碌铁山为含铁品位约60%的赤铁矿,可采量达一亿九千万吨,年产量有一千万吨,为东洋第一大铁山,本矿山采掘方法主要为露天开采,至港湾铁道线路最短距离约53公里,……切望根据国策上的重点主义,早日开发此铁山。”
  如此量大质优,开采简便的“东洋第一大铁山”的发现令急于获得铁矿石的日军欣喜若狂。在日军全力支持指导下,日本窒素株式会社制定了一整套包括矿山、铁路、港口和发电站等建设内容的掠夺计划。
  在确定开采目标时,日本窒素株式会社起初定为年产百万吨,后来在日军的要求下改为300万吨。1941年1月,日本窒素株式会社在北黎设立办事处,工程正式启动。石碌为露天铁矿,开采非常方便,困难是矿山位于深山丛林之中,交通运输问题亟待解决。
  1942年1月底,日本窒素株式会社在石碌矿业所的基地建设完成。基地建设的同时,为将石碌产出的铁矿石尽快地运出,1941年1月,石碌到八所的铁路动工。在军方全力支援和督促下,全长近60公里的石碌铁道于1942年3月如期开通,运出了第一批矿石。
  铁矿开采和相关设施需要大量电力,日本窒素株式会社调查队首先在昌江发现了一合适场所(今宝桥发电所)。然而,日窒的建设过程因受水文条件影响,工程进度无法跟上矿山开采的速度,只能另选更合适的地方。后选址于东方瀑布,1942年12月始建,1943年11月东方水电站竣工,陆续向港
  口和矿山发电,矿山开采速度显著提高。 日军在开发石碌铁矿的同时,已有把八所作为其运往日本的主要出口的打算。然而八所港水位较浅,珊瑚礁密布、无良好的港湾,易受风浪袭击,并不具有建设成大型港口的条件。但由于时间紧迫,日军仍将新港选址确定为八所港。1942年初临时码头建成,4月迎来第一条运石船。受码头设备装载能力低下影响,该船用三天时间才载完1千吨矿石驶往日本。此后,尽管矿石开采进度很快,因港口建设滞后,矿石难以顺利外运。从1942年3月到1943年3月,运到港口的近9万吨矿石,仅5万余吨运往日本,完全没有达到预定的百万吨这一目标。
  在日军严厉督促和全力以赴支持下,日本窒素株式会社加紧施工,1943年5月完成第一期工程。港口装载能力巨,每小时可装船1千吨,达到了每年运出300万吨的目标。然而,随着日军的节节败退,已经无力组织大批船只来海南,入港装载矿石的船只锐减,大量矿石堆积港口无法外运。1944年10月东龙丸入港运走5100多吨矿石后,再也无船进入,八所港成为死港。面对恶化的战局,同年11月日本海军省不得不下令将年产量降为30万吨,1945年1月则下令全面停止开采。 《海南岛石碌铁矿山开发志》中记载,日本窒素株式会社从石碌铁矿开采了116万余吨铁矿石,输送到日本的石碌铁矿石有95万余吨。

★服务于战争的疯狂掠夺
  早在1938年7月日军发动全面侵华战争后,美国从道义上对日实施禁运,翌年7月又宣布废除日美通商航海条约。阻断了日本钢铁和石油主要来源。中国和东南亚等国的铁矿石成为了日本钢铁的仅有来源,1939年度日本进口铁矿石约470万吨,其中的43%来自马来西亚。1940年马来西亚矿石的进口减至一半,翌年更减至8万吨。在日本宪政资料柏原兵太郎文书中,1941年8月7日《关于海南岛急速开发的几个问题》的文件记载:“(海南岛铁矿的开发)是目前能够维持和强日本钢铁生产的产量和质量的最为有效而切合的途径,其效果与其他途径相比,毋庸置疑。”
  显然,随着战局的深入,资源的吃紧,日军侵略战争能否为继,已经与海南岛铁矿的急速开采联系到了一起。1939年2月10日,出于对海南岛地理位置和资源环境的觊觎,日军发动了入侵海南岛的战争,从此开始了对海南矿产资源的疯狂掠夺。值此中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年之际,晒此张张图纸,历数日寇之桩桩罪行,旨在提醒我们:彼虽已成过往之物,恰乃和平年代警世之钟!
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「日軍登陸海南旋即向東推進,剛剛改編的琼崖抗日独立隊頑強阻撃日軍渡江」

2015年07月26日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-07/25/content_4_1.htm
『海南日报』 2015年7月25日  本报记者 陈蔚林 实习生 李丹   本报海口7月24日讯
■日军登陆海南旋即向东推进,刚刚改编的琼崖抗日独立队顽强阻击日军渡江
 潭口阻击战:打响琼崖抗战第一枪

     【照片】海口市琼山区云龙镇潭口渡口。 本报记者 张茂 摄
     【照片】海口市琼山区云龙镇潭口阻击战旧址。 本报记者 张茂 翻拍
  
  碧空如洗,松柏静默,矗立在海口市琼山区龙塘镇玉仙村里的潭口渡口阻击战纪念亭,日复一日凝视着这片曾经满载荣光的热土。
  1939年2月10日,日军入侵琼崖,不到半天时间便占领了海口、府城旋即向东推进。为打击日军长驱直入的嚣张气焰,驻扎在云龙墟附近的琼崖抗日独立队队长冯白驹命令第一中队赴潭口渡口东岸阻击,打响了琼崖抗战第一枪。

★领命奔袭杀敌抗日
  战机的轰鸣声从海口方向隐隐传来,枪炮声、惊叫声也愈演愈烈。1939年2月10日的那个清晨,广东民众抗日自卫团第十四区独立队一中队正如往常在原琼山县云龙墟附近操练,远处的异动让敏感的他们不由自主地停了下来。
  一中队队附符荣鼎在回忆录里记载了当时的情景——“准是日寇登陆了”“不知驻扎海口、府城的国民党军和日本人干上没有”“国难当头,匹夫有责。日本人来犯我琼岛,他们就应该在前面顶住”……战士们极目远眺,议论纷纷。
  “同志们!日寇从海口方向登陆了!”就在这时,冯白驹带着警卫员和传令员从云龙墟的大队部了过来,边走边亮开嗓门下达命令:“海口如果被占,敌人必然经潭口渡江东进。你们一中队立即到潭口渡口去,协同友军坚决阻击敌人,掩护人民群众安全撤退!”
  战士们沉默而有序地迅速向战场奔袭。符荣鼎回忆:为避免被敌机发现,战士们各自折下一把带叶的树枝放在头顶作为伪装,在中队长黄大猷的带领下拉开距离成一列纵队行进,一遇敌机便四下疏散,敌机走了又集结出发,终于在最短时间内全员抵达潭口渡口。
  符荣鼎之子符小平说,一中队到潭口渡口东岸后,便利用地形地貌,迅速占据了渡口东岸的土坡,与江面形成居高临下的防守态势。“战士们成一横列埋伏在公路右侧的丛林里严阵以待。”符小平解释,这样,我方不仅视野开阔,并且很难被敌人和敌机发现。
  这战略布局曾被史学专家普遍评价为:“琼崖独立队的指挥员们综合利用各种有利条件,选择了最合理的战术策略,展示了高超的军事艺术”。
  不一会儿,日军果然朝着潭口方向开来,空中的战机对准一中队阵地进行疯狂轰炸和扫射。“杀啊!”一中队战士高喊口号浴血奋战。当敌机俯冲时,留守渡口的战士一起用着排枪对敌机进行射击;等敌机掠过再回头轰炸时,便立即向后面的丛林里转移。
  埋伏在渡口近处的一中队班长李文启被炸断左脚血流不止,大半截身子埋在炸弹掀起的泥土里,可仍然忍着疼痛坚持战斗。战友们近在咫尺,可在那缺医少药的年代里,他们连为班长递上一片止痛药、一包急救包都无能为力,只能眼睁睁地看着他在血泊中战斗到最后一刻……

★激发全民抗战热情
  李文启成为海南抗日战争史上第一个牺牲的烈士。他的牺牲激发了战友们的血性和斗志,他们怒吼着,一边向低空飞行的日机开枪射击,一边向江对岸的日军射击以阻止大部队渡江。
  鏖战了整整半天光景,黄昏时分,武器精良、人数众多的日军战败而归。而一中队也接到冯白驹“为保存革命实力,撤退转移”的收兵命令。他们扛起李文启的被鲜血染透的身体,昂首走在返程路上。
  藏身于山间丛林的村民们纷纷走了出来,自发簇拥着一中队的队伍,直到将烈士送回部队驻地。一路上,他们仿佛成了最好的宣传员:“共产党的抗日独立队,人少枪劣还顶上去打日本,真了不起!我回去和家人说,去参加独立队打日本鬼子”“我回去也跟家人说,全家大小齐抗战”……
  消息传开了,人人都知道在国民党军队大溃败的时候,是共产党军队打赢了潭口渡口阻击战,打响了琼崖抗日第一枪,吹响了唤起海南人民抗战热情的号角。
  短短一个月时间,独立队的人数翻了3倍多,从300多人发展到1000多人。1939年3月,琼崖特委将独立队扩编为琼崖抗日独立总队,下辖3个大队和1个特务中队。到1939年底,以琼文抗日根据地为重心,琼崖的共产党员迅速发展到9000多人,成为琼崖抗战的核心力量。

《史料链接》
  1939年2月10日,日军占领海口、府城后,当日就派出飞机轰炸潭口渡口东岸,企图渡江向东进犯。当时,国民党军主力已撤到定安县腹地,而参加云龙改编后的广东民众抗日自卫团第十四区独立队正驻扎在离渡口东南10公里的云龙墟。独立队队长冯白驹判定日军要东进的企图,为了阻击日军东进和掩护群众撤退,命令独立队第一中队到潭口东岸,利用地形构筑工事。
  据《冯白驹将军传》一书记载,一中队奔赴战场时,沿途只听得妇女儿童哭声一片,四下都是扶老携幼、仓皇逃难的无辜百姓,在混乱中没有目的地奔跑。可敌机仍然发出鬼怪般的嚎叫,在低空盘旋呼啸着向人群俯冲扫射。
  在激烈的炮火中,80多名铁血战士不顾生命危险掩护人民群众安全转移,并阻敌东进,打响了琼崖抗战第一枪。这一战,不仅有效地阻止日军东进的步伐,也燃起了海南儿女奋起抗日的昂扬斗志。
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来月23日に、海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会を開きます

2015年07月25日 | 海南島近現代史研究会
 8月23日午後1時から、海南島近現代史研究会第9回総会・第16回定例研究会を開きます。
 みなさんの参加をお待ちしています。

 いまなお、日本政府は侵略犯罪の歴史を否定しています。
 日本がアジア太平洋侵略戦争に敗北してから70年後、海南島の南海出版公司は、紀州鉱山の真実を明らかにする会と海南島近現代史研究会のこれまでの海南島「現地調査」の内容を報告する書籍『真相 海南島近現代史研究会17年(27次)調査足迹』を発行しました。集会に南海出版公司から16人が参加します。
 
と き:2015年8月23日(日)13時~17時(開場12時半)
ところ:PLP会館4階小B会議室    大阪市北区天神橋3丁目9−27。 電話06-6351-5860
                                地下鉄堺筋線扇町駅4番出口から徒歩3分
                                JR天満駅から南へ徒歩5分
参加費:500円(会員は無料です)

主題:17年間の海南島「現地調査」で明らかになったこと
■主題報告1 「朝鮮村」・月塘村・長仙聯村・沙土・旦場村……       佐藤正人
  海南島における日本の国家犯罪についての証言と記録の現在的意味について報告します。
■主題報告2 日本侵略犯罪歴史的可掩盖性和無可抹滅性        邢越(シン ユエ)
  海南近現代史研究会の一人として2010年月5月から「調査」をつづけるなかで、わたしは、加害国は歴史犯罪を「掩盖」することができず、被害者に「無可抹滅」の力があることを実感しました。
■主題報告3 『真相』について                           南海出版公司編集者
 中国人民抗日戦争・世界反ファシスト戦争勝利70周年を記念して出版された『真相』を制作している時に考えたことを、編集者のうちの3人(何怡欣<ホ イシン>、呉雪〈ウ シュエ〉、張媛〈チャン ユアン〉)が報告します。
  編集者は2014年秋と2015年春の海南島近現代史研究会「現地調査」の全行程に同行して動画で記録し、それを『真相』にディスクで加えました。
■【討論】海南島での日本の侵略犯罪の調査と記録
  これからの海南島での日本の侵略犯罪の調査と記録について共に考え、国家犯罪の責任を具体的にとらせていく民衆の方法を話し合いたいと思います。
■調査報告  2015年春の海南島「現地調査」                  金靜美
  旦場村、旦場園村、英顕村、海頭鎮、松涛村、長田村、腰子村、大良田村、尖石村、南坤鎮、西昌鎮、大同村、龍門鎮、老王村、金牛流坑村、林村村、大府村、東郊鎮、上苑村、龍湖鎮、南福嶺村、南曲村、大水村、土卜村、儒東村、純雅村、常樹村、長嶺村……で聞かせていただいたことを報告します。
■行動計画 2015年秋の海南島「現地調査」、ドキュメンタリー新作について

【交流会】 午後5時半から8時ころまで同じ会場で、南海出版公司からの参加者を交えて、ゆっくり話し合いたいと思います。ぜひ参加してください。参加費は1500円です。
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「220种重点出版物纪念抗战胜利70周年」

2015年07月24日 | 海南島史研究
http://m.xhsmb.com/20150626/news_1_1.htm
『图书馆报』 2015年06月26日
■220种重点出版物纪念抗战胜利70周年
 《纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年重点选题目录》等发布

  本报讯 6月18日,中宣部和国家新闻出版广电总局在京召开纪念抗战胜利70周年出版专题工作会。会上要求确保抗战题材重点选题和经典图书的出版、重印、再版、发行和宣传推广等工作的有序推进。《纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利 70周年重点选题目录》(120种)及要求重印再版的《“百种经典抗战图书”目录》在会上发布。
  据悉,针对纪念抗战胜利 70周年主题,全国共有200多家出版社策划了相关选题1000余种,经专家评审和严格审核,中宣部和国家新闻出版广电总局确定了120种重点选题,包括 100种图书选题和20种音像、电子出版物选题。其中一些作品已经出版,一些作品将在下半年陆续推出。同时,从历年来出版的抗战题材优秀图书中精选出“百种经典抗战图书”,组织出版单位重印再版,将在8月前集中推出。下一步,中宣部和总局将采取多种方式对上述抗战题材重点出版物给予出版资助,并组织全国百家书城进行展示展销活动。同时,组织新闻媒体集中宣传报道抗战题材重点出版物,进一步扩大其社会影响力。此外,“我最喜爱的10首抗战歌曲”网络评选活动也将于近期启动。
  《纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年重点选题目录》(120种)中,包括安徽人民出版社的“宣传画里的中国抗战”丛书、百花文艺出版社的《燃烧的月亮》、东方出版中心的《宋庆龄与中国抗日战争》、广东教育出版社的《图说香港抗战》、广西师范大学出版社的《美国国会图书馆藏中国抗战图片集》、国家图书馆出版社的《抗日战争史料丛编·第二辑》、河南文艺出版社的《抗战中的国际友人》、龙江教育出版社的《来自日本的抗战心声》、花山文艺出版社的《抗战诗篇》、吉林文史出版社的《中苏反法西斯战争实录》、解放军出版社的《中国战俘劳工录》、南京出版社的《中国战区受降档案》、人民出版社的《中国抗日战争史简明读本》、人民文学出版社的《抗日战争》、山西人民出版社的《海外稀见抗战图集》、商务印书馆的“抗战大迁移”丛书、作家出版社的《拉贝先生》、云南人民出版社的《旌旗万里:中国远征军在缅甸》、湘潭大学出版社的《伟大的民族英雄:毛泽东与抗日战争》、中国工商出版社的《抗战中的红色经济战》、中国华侨出版社的《华侨抗战影像实录》、上海锦绣文章出版社的《红色中国探寻———外国记者眼中的中国共产党》、华艺出版社的《台湾抗日人物传》、台海出版社的《台湾共产党抗日史》、青岛出版社的《正视抗日战争———关于抗日战争若干重大历史问题的思辨》、南海出版公司的《真相———日本学者佐藤正人海南岛17年(26次)调查足迹》、中国画报出版社的《不能忘却的友谊———国际友人援华抗日映像(中、英)》、厦门大学出版社的《耶鲁大学图书馆馆藏日本侵华战争珍稀档案汇编与翻译》等,多角度、多侧面地反映了中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年的主题。
  《“百种经典抗战图书”目录》包括“少儿读物类”“连环画类”“小说类”“大众读物类”“学术研究类”几大类,有《少年英雄王二小》《两个小八路》《小兵张嘎》《鸡毛信》《大刀记》《新儿女英雄传》《敌后武工队》《烈火金刚》《苦菜花》《马本斋》《铁道游击队》《红灯记》《白求恩》《夜幕下的哈尔滨》《战争启示录》《慰安妇血泪》《彭雪枫传》《百姓抗战故事》《拉贝日记》《抗战家书》《滇缅公路》《中共中央与八年抗战》《中国抗日战争史》《台湾民众抗日史》《怒吼的黄河》等100种面世多年的经典抗战题材图书。
  会议要求,出版界要围绕中央精神和纪念活动主题,如期推出一批精品力作,服务党和国家工作大局,满足人民群众阅读需求。各相关出版单位要强政治意识、大局意识、责任意识,确保重点出版物主题鲜明、史实准确、导向正确。要牢固树立精品意识,坚持一丝不苟、精益求精,确保内容质量、编校质量、装帧质量和印刷质量。对重点选题要确保时间进度,在资金、人员等方面提供保障,切实抓好各环节工作。
  会议指出,做好纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年主题出版工作意义、责任重大,出版界要强服务大局的主动性和责任感,加大力度、按时保质完成相关出版工作。对于“百种经典抗战图书”,要组织好重印再版工作,抓紧备货、加强宣传,中宣部将对印制费用给予适当补贴资助。


https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%B1%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E5%AE%A3%E4%BC%A0%E9%83%A8
■中共中央宣传部
  中国共产党中央委员会宣传部(常简称中共中央宣传部、中央宣传部、中宣部),是中共中央直属机构。

https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%96%B0%E9%97%BB%E5%87%BA%E7%89%88%E5%B9%BF%E7%94%B5%E6%80%BB%E5%B1%80
■国家新闻出版广电总局
  国家新闻出版广电总局,是中华人民共和国国务院的正部级直属机构,同中华人民共和国国家版权局(简称国家版权局)一个机构两块牌子,主要负责中国内地新闻出版、电台电视广播媒体的管理
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「全島1000多名愛国青年雲集澄邁美合山区建立抗日根据地,自制槍支弾薬抗日寇――」

2015年07月23日 | 海南島史研究
http://hnrb.hinews.cn/html/2015-07/23/content_12_1.htm 
2015年7月23日  本报记者 孙慧 通讯员 李健
■全岛1000多名爱国青年云集澄迈美合山区建立抗日根据地,自制枪支弹药抗日寇――
 抗日烽火映林莽

     【资料照片】1940年初,中共琼崖特委和琼崖独立总队领导机关西迁美合地区,
          建立革命根据地,领导全琼抗日救国斗争。图为美合革命根据地纪
          念碑。
     【照片】被誉为海南“西柏坡”的澄迈县六芹山丘陵地区曾是琼崖抗日独立总
        队司令部和琼崖特委旧址,如今已是一片橡胶林。本报记者 宋国强 摄

  在澄迈昆仑农场西达分场第13队,村口前树立着一块耸立向天的美合革命抗日根据地纪念碑。晴空烈日下,环绕纪念碑的大山丛林哗哗作响,彷佛从遥远岁月传来的抗日呐喊声……
  1940年的春天,这里云集了来自琼岛各地的有志青年,为长期游击抗日建立抗日革命根据地,在大山里开荒劈岭、建立军械厂、学校、医院、报社……在大山里重新聚集革命力量,游击抗日抵抗侵略,照亮了解放海南岛的胜利航程。
  斯人已逝,精神永存。97岁的琼崖革命老战士李玉英回忆起当年手拿枪杆抵抗日寇的岁月,浑浊的眼睛又重焕发光芒:“当年我们在那里开荒建学校医院,还自己制作枪弹炸药去打日本鬼子,虽然条件艰苦,可最值得怀念!”

★深山老林发出抗战强音
  1940年,为抵抗日军和国民党琼崖党政机关力量的进攻,中共琼崖特委决定在澄迈美合山区建立抗日根据地,为将来琼崖武装力量西线做好铺垫。
  美合革命根据地确立后,中共琼崖特委从东线根据地抽调一批干部组成工作队,深入美合村及周边地区,发动群众加入抗日队伍,并清匪除霸,安定民心。
  在抗日革命激情感染下,当地的各乡农民成立了“农民抗日救国会”“青年抗日救国会”“妇女抗日救国会”等抗日民众团体。来自琼岛各地的有志青年,积极响应中共琼崖特委号召,报名参加独立总队,抵抗日寇,保家卫国。
  李玉英回忆,当年在深山老林里,日军对根据地地区进行了补给封锁,战士们和乡亲们一起在这片山林里开荒种地,办了学校、医院、报社等。由于被日军封锁,枪支弹药补给困难,根据地里还开办了美合军械厂,自制弹药打游击战抵抗日寇。
  86岁的昆仑分场退休职工王宗华还记得,上世纪60年代他曾在美合山区里开荒种橡胶,在美合革命根据地遗址上挖出了许多枪支弹药。如今,这些弹药都被送到相关部门,作为革命纪念品进行保存。
  “引领抗战方向,输送抗战干部,自制并输送装备弹药。”澄迈县党史办主任王邦照说,从1940年年初建立到年底被侵占,美合根据地的存在时间并不长,但这个根据地的革命者和民众们,在危难之中发出了抗战的强音。

★和安岭伏击战痛击日军
  日军在侵略琼岛期间,对澄迈当地实施了“三光”政策,残酷摧毁当地人民群众。李玉英回忆起当年日军的罪行,依旧挥动拳头:“日军每到一处就烧杀抢掠,抓到琼崖战士就吊起来拷打,我有很多战友就是这样死在日军手下,惨不忍睹。”
  在根据地生产建设时,独立总队也在积极寻找战机,以游击作战方式痛击日本侵略者,其中和安岭伏击战和红石岭之役都被记载在当地县志里。
  1940年春天,日军准备在和安岭至来福之间的城明岭建立据点碉堡,每日出动40多名日伪军到城明岭监督修建碉堡。为保卫和巩固美合抗日根据地,琼崖抗日独立总队决定设伏歼灭日军。
  在某天夜晚,由琼崖抗日独立总队参谋长李振亚带队指挥,带领战士们埋伏在岭头公路等候日军。第二天凌晨,毫无察觉的日军队伍进入了埋伏阵地,遭受到琼崖战士猛烈打击。
  在30多分钟的激战后,琼崖战士击毁日军车1辆、击伤日军20多人,缴获轻机枪1挺、三八步枪10支。这次战斗的胜利,给进军根据地的日军以沉重打击,给美合抗日根据地军民以极大鼓舞。
  “尽管美合根据地仅存在了短短一年时间,但美合抗日根据地的设立为琼崖力量西进提供了基础,对推进全琼抗日游击战争的深入起到了积极作用。”
  省委党史研究室二处处长赖永生说,美合抗日根据地存在的短短一年中,云集了全岛1000多名爱国青年,这些革命者在深山老林里游击抵抗日寇和国民党双重打击,保存了星星革命火种流传下去。
  斗转星移,75年后,那片青山依旧葱葱,那段抵抗日寇的激情岁月没有被埋没,依旧被我们后人追念,烈士们以生命书写的革命历史,时至今日仍被铭记。

  (本报金江7月22日电)

《史料链接》
  1940年,侵华日军为全面占领海南岛,对驻扎东线的琼崖独立总队开展进攻,为保存革命火种,为西线迁徙做好铺垫,1940年1月,中共琼崖特委和琼崖独立总队领导机关西迁澄迈美合地区,建立革命根据地,领导全琼抗日救国斗争运动。
  美合革命根据地地处三市县交界,占据要冲,不但地势险要,进可攻,退可守,而且土地肥沃,物产丰富,群众基础好。美合革命根据地建立后,创办琼崖抗日公学,由冯白驹任校长,史丹任副校长,云集了全琼1000多名爱国青年。不久,党校和军政学校相继成立。此外,还设军械所、合作社、小学、夜校、医院、抗日新闻报等。美合革命根据地当时成为共产党全琼抗战的总指挥部。
  1940年10月, 国民党顽固派借口“调防”,无理要求琼崖独立总队撤离美合地区,在遭到中共琼崖特委和独立总队的拒绝后,国民党于12月15日调集多支武装部队共3000余人,兵分五路合围美合根据地,制造了惊动全岛的“美合事变”。
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「紀念抗日戦争暨世界反法西斯戦争勝利70周年选题和図書目録発布」

2015年07月22日 | 海南島史研究
http://news.xinhuanet.com/politics/2015-06/18/c_1115663601.htm
「新华网」  2015年6月18日 19:52:18
■纪念抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年选题和图书目录发布
    中宣部、新闻出版广电总局发布纪念中国人民抗日战争
    暨世界反法西斯战争胜利70周年重点选题和百种经典抗战图书目录

  新华网北京6月18日电 6月18日,中宣部、新闻出版广电总局在京召开纪念抗战胜利70周年出版工作专题会,会上发布了纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年重点选题120种,同时启动“百种经典抗战图书”重印再版计划。
  今年是中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年,出版界围绕“铭记历史、缅怀先烈、珍爱和平、开创未来”主题,积极做好相关出版工作。今年全国200多家出版社共策划相关选题1000余种,经专家评审和严格审核,中宣部和新闻出版广电总局确定了120种重点出版物选题,包括100种图书选题和20种音像、电子出版物选题。一些作品已经出版,一些作品将在下半年陆续推出,与读者见面。同时,为充分用好出版资源,利用纪念时机广泛开展爱国主义宣传教育,中宣部、新闻出版广电总局还从历年来出版的抗战题材优秀图书中,精选确定了“百种经典抗战图书”,组织出版单位重印再版,在8月前集中推出,并将安排抗战主题优秀出版物展示展销活动,以充分满足读者阅读需求,为纪念活动营造良好氛围,为开展群众性主题教育活动提供文化支持。
  会议要求,各地区各出版单位要高度重视纪念抗战胜利70周年出版工作,围绕纪念主题,突出内容重点,坚持正确导向,提高水平质量,认真做好重点选题的编辑、校对、印制、发行,严格把关,精益求精,确保按时保质推出一批立得住、叫得响、传得开的优秀作品。要认真组织落实“百种经典抗战图书”的重印再版工作,加强宣传推广,让好作品真正为读者了解、为市场接受,实现社会效益和经济效益的双丰收。
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