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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「<Mr.ミリタリー>「旭日旗掲揚禁止」…韓日葛藤の始まり」

2020年02月04日 | 台湾

https://japanese.joins.com/JArticle/249783?servcode=100§code=120
https://japanese.joins.com/JArticle/249784
「中央日報日本語版」 2019.02.01 07:21
■<Mr.ミリタリー>「旭日旗掲揚禁止」…韓日葛藤の始まり
 長いあいだ友邦だった日本が背を向けている。昨年末、東海(トンヘ、日本名・日本海)で低空飛行した日本海上自衛隊の哨戒機に韓国海軍の駆逐艦「広開土大王」(3200トン)が火器管制レーダーを照射した。日本は韓国の艦艇が自国の哨戒機を威嚇したと主張し、韓国はこれを否認した。真実ゲームに入ったが、究明は容易でなかった。過去には大きな問題にならなかった。しかし偶然の単純事件がこのように膨らんだことには、その水面下により大きな要因が潜在している。現政権のマイウェイ式安保政策と長い反日感情のためだ。軍事外交専門家と現状況を緊急診断した。
 哨戒機事件で韓日軍事関係は破局寸前だ。駐日武官を務めたクォン・テファン韓国国防外交協会長(予備役准将)は「両国軍事関係がレッドラインにある」と述べた。さらに一歩でも踏み出せば取り返しがつかなくなるほどだ。その間、独島(ドクト、日本名・竹島)・慰安婦・強制労役などの問題が浮上しても、軍事関係には特に問題がなかった。しかし今回は違う。鄭景斗(チョン・ギョンドゥ)国防部長官は先月26日、海軍作戦司令部で、日本の哨戒機がまた威嚇飛行すれば「強硬対応すべき」と指示した。海軍は鄭長官の言葉を「交戦も辞さない」と理解する。非常に危険な言葉だ。これに対し岩屋毅防衛相は先月29日、「韓国と冷却期が必要だ」と述べた。しかし「冷却期は韓日衝突を放置することだ」とクォン会長は懸念した。
 両国軍事関係がこのように悪化したのは政治・安保的な理由が重なったからだ。旧日本軍慰安婦問題解消のための和解・癒やし財団の解体、日帝強制徴用に対する韓国最高裁の賠償判決は表面的な原因だ。自衛隊は昨年10月に済州(チェジュ)で開かれた海軍観艦式に関連して感情を悪化させた。当時、日本側は観艦式に参加する艦艇に日章旗と海上自衛隊旗(旭日旗)を掲揚すると伝えた。しかし韓国側は日章旗だけにこだわった。このため日本艦艇は観艦式に参加しなかった。ところが実際の観艦式では外国艦艇は国旗と海軍旗をともに掲揚した。これに対し日本は抗議した。2017年に日本防衛大学の学生を乗せた艦艇が平沢(ピョンテク)第2艦隊を訪問した当時も冷遇した。
 さらに根本的な理由は別のところにある。韓国は米国のインド太平洋戦略に参加せず、中国の一帯一路に参加するという方針だ。中国を意識してのことだ。しかし米国は中国の膨張に対応して貿易戦争をしている。日本-台湾-フィリピンとつながる海上輸送路から中国が米国を追い出し、事実上、海上統制権を行使するという戦略のためだ。中国がこの輸送路を掌握すれば、米国は東アジアを失い、島国の日本の未来はどうなるか分からない。韓国も同じ状況だ。
 このため米国は日本・豪州・インド・ASEANと連帯し、中国に対応する計画を進めている。米国は昨年、太平洋司令部をインド太平洋司令部に変えた。日本はこれに積極的だ。キム・ジンヒョン元第1艦隊司令官(予備役海軍少将)は「日本は海上輸送路を守ることに存亡をかけている」とし「日本が太平洋戦争を起こした理由」と述べた。ここから韓国は排除されている。このため日本は米国に続いて2番目の安保協力対象国だった韓国を最も後ろに回した。韓国と協力する必要はないという意味だ。また、北核解決過程で在韓米軍が縮小または撤収すれば、日本が北東アジアをすべて引き受けなければいけないという負担もある。
 哨戒機事件の真実を確認するため昨年12月20日に戻ってみよう。当時、韓国駆逐艦「広開土大王」は北朝鮮漁船が大和堆の漁場で遭難したという通知を受けて捜索した。海軍によると、「広開土大王」は漁船を探すために海上火器管制レーダー(MW-08)をつけた。このレーダーはビーム幅が大きく、哨戒機も捕捉する。この艦艇に搭載された対空火器管制レーダーはSTIR-180。海軍はこのレーダーを稼働しなかったという。当時、哨戒機P-1が高度150メートルの超低空で500メートルまで近づいた。P-1はボーイング737を改造したもので大きな航空機だ。こうしたP-1が近接飛行すれば衝突を憂慮する。「広開土大王」は脅威を感じた。
 しかし日本はむしろP-1が「広開土大王」のレーダーで脅威を感じたと主張した。日本防衛省は事件発生からわずか数時間後に抗議した。事実を確認する余裕もなかったはずだ。翌日には日本外務省までが加勢した。これに対し韓国国防部は調査を経て「対空レーダー照準はなかった」とし、日本側の低高度威嚇飛行に謝罪を要求した。お互いの主張が食い違ったのだ。
 続いて日本は先月14日のシンガポール会議で検証のために韓国側にレーダー情報をすべて開示するよう要求した。しかしレーダー情報は公開するものではない。艦艇レーダーは相手が電波を妨害する可能性に備え、100ほどの波長を随時変えながら使用する。日本がこの情報を逆に利用すれば「広開土大王」は使えなくなる。したがって日本の要求はあたかも自分との通話を確認するために相手の携帯電話使用記録をすべて出せというのと変わらない。
 このような雰囲気を反映するかのように「今回の哨戒機事件を解決するための両国の軍事協力チャンネルはほとんど稼働しなかった」とキム元司令官は指摘した。韓日は国防次官補および局長級、合同参謀本部戦略本部、情報本部、海軍艦隊など間で多様な軍事チャンネルを持つ。韓国合同参謀本部議長と日本統合幕僚長はいつでもテレビ会議も開くことができる。しかも両国海軍は毎年、東海と南海で海上捜索救助訓練(SAREX)をしてきた。意志さえあれば事件を解決することができた。
 では、日本哨戒機を威嚇したというSTIR-180レーダーは本当に照射されなかったのだろうか。海軍によると、「広開土大王」にはレーダー稼働記録装置がない。このためこの艦艇の乗組員を調べたが、STIR-180をつけたという陳述がなかった。海軍戦術指揮統制システム(KNTDS)コンピューターには韓国軍が稼働したすべてのレーダー記録が残っている。ところがここには「広開土大王」のMW-08稼働記録だけしかなかった。KNTDSは合同参謀本部と青瓦台、作戦指揮所と艦艇などで同時に見ることができる。したがって日本の主張は誇張された可能性が高い。それでも日本はさらに一歩踏み出した。1月18-23日の間に3回も韓国艦艇に低高度威嚇飛行を実施したのだ。
 このような日本を自制させ、韓日関係を原状回復させる案は何か。現在では解決が難しいとみられる。日本専門家の陳昌洙(チン・チャンス)元世宗研究所長は「韓日葛藤を解決しようとする政府の意志も能力もないということに問題がある」と述べた。韓国軍事問題研究院のキム・ヨルス安保戦略室長は「内容をよく知る米国さえも腕組みをしている」とし「日本は北核と中国に対応して軍事大国化も準備している」と懸念した。このため大統領が直接解決に取り組むしかないということだ。また、日本が過剰対応する名分を与えてはいけない。


https://japanese.joins.com/JArticle/262024?sectcode=A10&servcode=A00
「 中央日報日本語版」 2020.01.30 10:40
■徐敬徳教授「東京都内の観光地、旭日旗商品があふれている」
 韓国広報活動を広げる誠信(ソンシン)女子大学の徐敬徳(ソ・ギョンドク)教授は30日、「東京五輪開幕を6カ月後に控えた日本の東京都内と有名観光地に旭日旗商品があふれている」と明らかにした。
 徐教授は先週、東京の銀座、原宿、渋谷、浅草、靖国神社など東京都内の有名繁華街と観光地を訪問した。
 徐教授によると、繁華街のあちこちにある観光商品販売店ではTシャツをはじめ、鉢巻き、エンブレム、財布、ベルトなど旭日旗模様のデザイン商品が陳列されていたという。
 徐教授は「これらの商品を購入した外国人観光客の大部分は旭日旗が戦犯旗であることを知らずに購入したという反応を見せた。東京五輪開幕前に全世界の人を対象に『旭日旗=戦犯旗』であることを知らせる多国語動画を作って配布する計画」と話した。
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「台北のこま犬破壊 元市議ら4人に実刑」

2017年10月08日 | 台湾
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201710060005.aspx
「フォーカス台湾」2017/10/06 16:19
■台北のこま犬破壊 元市議ら4人に実刑=士林地裁/台湾
(台北 6日 中央社)台北市の逸仙小学校前に設置されていたこま犬の石像2体が破壊された事件で、台湾士林地方法院(地裁)は5日、器物損壊罪で元台北市議の男ら2人に懲役5カ月、別の男2人に懲役4カ月の判決を言い渡した。
 元台北市議の男ら2人は5月28日、かなづちでこま犬を破壊。通報を受けて駆け付けた警察官によってその場で逮捕された。同30日、破壊されたこま犬が何者かによって再び壊されているのが見つかり、後に元台北市議らとは別の男2人が犯行を認め、士林地検に送検されていた。
 士林地裁によれば、元台北市議の男ら3人は石像を叩き壊したことは認めたものの、この行為は言論の自由の範囲内だとし、罪を否認。元台北市議の男はさらに、石像は日本政府が所有するもので、逸仙小が訴えを起こす権利はないと主張したという。
 裁判官は、言論の自由に強暴な手段を用いる必要はなく、元台北市議の男らの行為は明らかに国が保障する言論の自由の最大の範疇を超えていると指摘。また、元台北市議の男ら2人が4月にも日本統治時代の水利技師、八田与一の銅像を破壊し、送検されていたことや破壊の過程をインターネット上で生中継した行動などに触れ、法治観念がひどくずれているのは明白だとした。
     (蕭博文/編集:名切千絵)


http://japan.cna.com.tw/search/201708160003.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80
「フォーカス台湾」2017-08-16 12:13
■反日団体が台北でデモ 慰安婦問題で日本政府に謝罪要求/台湾
(台北 16日 中央社)「終戦の日」の15日、台湾の政治団体「中華統一促進党」が日本の対台湾窓口機関、日本台湾交流協会の台北事務所(台北市)前で抗議活動を行い、慰安婦問題で日本政府に謝罪を求めた。同党の張安楽総裁は記者団に対し、東南アジア諸国の華人と連携して、各地の日本大使館の前に慰安婦像を設置する考えがあると明かした。
 抗議活動には中華統一促進党のメンバーら約120人が参加。街宣車には「慰安婦の怒りだ」と書いた看板が掲げられ、上部には旧日本軍の従軍慰安婦の少女を模した像も載せられた。
 同党は「日本は第2次世界大戦について全く反省していない」「韓国の慰安婦に支援金を払ったのに、なぜ台湾の慰安婦に賠償しないのか」「日本政府が台湾の慰安婦に真摯に謝罪しない限り、日本に対する抗議活動は止めない」などと主張した。
 また同日、日本統治時代に建立された「円山水神社」(台北市)の祠(ほこら)の柱4本に落書きがされ、こま犬が盗まれているのが明らかになった。柱には日本を侮辱、非難する文字が書かれた。
 この日の抗議活動の参加者で、今年4月に烏山頭ダム(台南市)にある日本人水利技師、八田与一の銅像の頭部を切断したとして起訴されている両岸(台湾と中国大陸)統一派の元台北市議は円山水神社への落書き行為について、「私がやったことではないが、こうした行為は英雄視されるべきだ」と語った。
     (楊明珠)


http://japan.cna.com.tw/search/201706260005.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80%E3%81%AE%E9%8A%85%E5%83%8F%E3%80%80%E7%A0%B4%E5%A3%8A
「フォーカス台湾」2017-06-26 17:16
■八田与一像首切断の元台北市議らを起訴/台湾
(台南 26日 中央社)台南地方法院検察署(地検)は26日、台南市の烏山頭ダムに設置されている日本統治時代の水利技師、八田与一の銅像が破壊された事件で、犯行を認めている元台北市議ら2人を器物損壊の罪で起訴した。ダムを管理している嘉南農田水利会の楊明風会長は2人に対して損害賠償を請求する考えを示している。
 起訴状によると、2人は4月14日、烏山頭ダム風景区内のホテルにチェックインし、銅像近辺の下見を行ってから糸のこぎりを購入。15日午前2時ごろ、購入した糸のこぎりで銅像頭部を切断し、記念撮影を行ったとしている。銅像頭部を元の場所に戻した後に、その場を去ったという。
 だが、切断が見つかった際、銅像頭部はなくなっていた。台南地検は15日夜から16日未明にかけて、何者かが持ち去ったとしている。他に共犯者がいる可能性があるものの、確証がつかめず、先に2人を起訴するに至ったと説明した。
 地検は、2人が5月28日に台北市内の小学校前にあるこま犬の破壊にも及んでいることから、反省の意が見られないとし、重い量刑を求めるとしている。
     (楊思瑞/編集:楊千慧).


http://japan.cna.com.tw/search/201706060002.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80
「フォーカス台湾」2017-06-06 11:48
■こま犬破壊容疑の元台北市議ら 高裁、地裁の勾留決定を取り消し/台湾
(台北 6日 中央社)台北市内の小学校前に設置されているこま犬の石像を破壊したとして元台北市議の男ら2人が器物損壊容疑で逮捕された事件で、台湾高等法院(高裁)は5日、士林地方法院(地裁)が認めた勾留を取り消し、審理を差し戻した。高裁は、勾留ではなく保護観察や住居制限にできないか調査するよう命じている。
 士林地方法院検察署(地検)は先月29日、2人に5万台湾元(約18万4000円)での保釈を命じたが、2人とも拒否。検察は逃亡の恐れがあるとの判断から勾留請求に切り替えた。地裁は検察の請求を認めたが、2人はこれに対し不服を申し立てていた。
 勾留決定の取り消しについて高裁は、2人は警察や検察の取り調べに応じており、犯行も認めているにもかかわらず、なぜ逃亡の恐れがあると判断したのか、その根拠が曖昧だとしている。また、保釈を拒否しただけで、身体の自由を最大限に奪う勾留に処す必要があるかどうかについても調査を求めた。
 2人は先月28日、台北市北投区の逸仙小の前でこま犬を破壊しているところを現行犯逮捕された。4月中旬、南部・台南市の烏山頭ダムにある日本人水利技師、八田与一の銅像を破壊した容疑者でもあり、先月11日に台南地検に送検されている。
     (劉世怡/編集:楊千慧)


http://japan.cna.com.tw/search/201706010010.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80
「フォーカス台湾」2017-06-01 19:01
■台北市内のこま犬破壊 犯人「日本人が侵略した時代の文物に不満」/台湾
(台北 1日 中央社)台北市北投区の小学校前に設置されているこま犬が先月28日に続いて30日にも再び破壊された事件で、台北市政府警察局北投分局は1日、男2人が犯行を認めたと発表した。うち1人の男は、こま犬は日本人が台湾を侵略した時代に残した文物であり、学校の前に設置されているのが不満だったと供述しているという。
 警察は現場付近の監視カメラの映像から犯行に及んだとみられる男2人を特定した。1人が懐中電灯で石像を照らしながら見張り役をし、もう1人が木製の棒で石像を叩き壊したと供述したという。
 警察は、2人の行為は法律や公権力を無視しているとし、取り調べの後、器物損壊罪で士林地検に身柄を移送した。
 この石像は先月28日、南部・台南市の八田与一像を破壊した容疑がかけられている元台北市議らによって一度壊されていた。
     (劉建邦/編集:楊千慧)


http://japan.cna.com.tw/search/201705300001.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80
「フォーカス台湾」2017-05-30 13:08
■八田像首切断の元市議らを勾留 士林地裁=狛犬破壊で/台湾
(台北 30日 中央社)元台北市議の男ら2人が台北市内の小学校前に設置されている狛犬の石像を破壊したとして器物損壊容疑で逮捕された事件で、士林地裁は29日、士林地検の勾留請求を認めた。検察官は同日午前、2人に5万台湾元(約18万3400円)での保釈を命じたが、2人は保釈期限までに拒否した。検察は逃亡の恐れがあると判断し、勾留請求に切り替えた。
 この元台北市議ら2人は先月中旬、南部・台南市の烏山頭ダムで日本統治時代の水利技師、八田与一の銅像が破壊された事件の容疑者。犯行を認めており、今月11日には台南地検の取り調べを受けたばかりだった。
 2人は28日夜、台北市の逸仙小の前に設置されている狛犬をかなづちで叩き壊していたところを、通報を受けて駆け付けた警察官に発見され、現行犯逮捕された。警察の取り調べに対し、2人は容疑を認めている。犯行の動機については、日本文化を背景とした狛犬が小学校の前にあるのは不適切だと思ったと語っているという。
 裁判官は2人による八田像の破壊が行われたのは先月であることに触れ、2人が司法手続きを無視しているのは明白で再犯の可能性もあり、逃亡の恐れがないとは確認できないなどとして、地検の勾留請求を認めた。
 狛犬破壊を受けて柯文哲台北市長は29日、「必ず厳しく対応するように」と幹部職員に指示したことを明らかにした。
     (王揚宇/編集:名切千絵)


http://japan.cna.com.tw/search/201705090002.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80%E3%80%80%E7%A0%B4%E5%A3%8A
「フォーカス台湾」2017-05-09 13:22
■八田与一氏の慰霊祭 反日派・台湾独立派が場外で口論も
(台南 9日 中央社)日本統治時代の水利技師、八田与一氏を追悼する慰霊祭が8日、台南市の烏山頭ダムで行われた。例年は自由に参列できたが、先月中旬に八田氏の銅像が破壊された事を受け、今年は式典を円滑に執り行うため、関係者のみの参列とされた。会場外には反日団体や独立派団体が姿を現し、警官と言い合いになるなどの騒動が起きたが大事には至らず、式典は無事に行われた。
 先月中旬、台湾と中国大陸の統一を主張する元台北市議会議員らにより銅像が破壊された。台南市の奇美博物館が提供した複製を使って修復が進められ、慰霊祭の開催に間に合わせることができた。
 同ダムを管理する嘉南農田水利会の楊明風会長は、今回の事件でかえってより多くの若い人たちに八田氏の物語や彼に対する農家の感謝の気持ちを知ってもらうことができ、日台の友情もさらに強固になったと述べた。
 同会は、八田氏は政治家ではなく水利技師であり、過激な行為によって式典が本来の目的から外れてしまうのは望んでいないとしていた。事前に参列の意を申し出ていた独立派団体の参列を見送ったという。同ダムには蒋介石元総統の銅像も設置されており、独立派団体が狙っている可能性があるとして関係者は警戒を強めていた。
 同会によると、過去には馬英九前総統が参列に訪れたこともあったが、蔡英文総統は今回、参列を見合わせ、別の日程でダムを訪れる予定だという。
     (楊思瑞/編集:楊千慧)


http://japan.cna.com.tw/search/201704220001.aspx?q=%E5%85%AB%E7%94%B0%E4%B8%8E%E4%B8%80%E3%80%80%E7%A0%B4%E5%A3%8A
「フォーカス台湾」2017-04-22 11:31
■壊された八田像、台南市長の対応に野党ら不満噴出 「媚日だ」/台湾
(台南 22日 中央社)台南市の烏山頭ダムにある八田与一像が破壊された事件で、頼清徳台南市長の対応をめぐり、野党・国民党や一部の民間団体から不満が噴出している。
 頼市長は16日、銅像が破壊されたことを受け、警察に捜査を指示したほか、八田氏の親族や関係者らに日本語で知らせを出した。銅像の修復や慰霊祭の実施などについても書かれていたという。
 社会運動団体の「白色正義連盟」は21日、頼市長が八田氏の親族らに日本語で知らせを出したことについて、国名の表記もされておらず、「媚日だ」とインターネット上で非難した。
 また、野党・国民党の台南市議会議員団は18日、同市内の公園に設置されていた孫文の銅像が、台湾独立派の政治団体によって倒されたまま修復されておらず、台座まで撤去されたことを挙げ、八田像と比べて対処の仕方に落差があると批判した。
 頼市長は、破壊行為については、法にのっとって破壊を行った者の責任を問うとしており、対応の基準は一致していると説明。また、同市政府の許淑芬新聞処長は、日本語の知らせは八田氏の関連行事に参加している台湾と日本双方の関係者に送ったもので、これは礼儀であり、責任でもあるとし、「何年も付き合いのある友人への手紙に、国名の署名は必要か」と反論した。
    (張栄祥、楊思瑞/編集:楊千慧)


http://www.sankei.com/world/news/170416/wor1704160033-n1.html
「産経ニュース」2017.4.16 13:00
■台湾で「日台の絆の象徴」八田與一像の頭部切られる ダム建設指導の技師
【写真】16日、台南市の烏山頭ダムのほとりで、頭部が切られた状態で見つかった八田與一像(台南市政府警察局麻豆分局提供)
【台北=田中靖人】台湾南部・台南市の烏山頭ダムで16日早朝、日本統治時代に同ダムの建設を指導した日本人技師、八田與一の銅像の頭部が切られているのをダム関係者が発見、警察に通報した。複数の台湾メディアが伝えた。八田の功績は台湾の民主化以降、日台の絆の象徴とされており、ダムには日本人観光客も訪れる。
 台南市の警察当局によると、頭部は持ち去られたとみられる。台南市の頼清徳市長は、迅速な捜査と像の修復を指示した。
 八田は1920年から10年かけて同ダムを完成させ、嘉南平原を台湾最大の穀倉地帯に変えた。同所では毎年5月8日の命日に慰霊祭が開かれている。八田の功績は李登輝総統時代に再評価が始まり、2007年には陳水扁総統が褒章を授与、馬英九総統も就任前の08年の慰霊祭に出席している。
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「日據台灣時期的鴉片政策(1895—1945) 三、四」

2016年10月01日 | 台湾
http://tc.wangchao.net.cn/junshi/detail_130561.html
「王朝網路」2010-03-16 12:04:56 來源: 互聯網
■日據台灣時期的鴉片政策(1895—1945) 朱庆葆
三、戰時體制下的鴉片斷禁政策(1937—1945)
  1937年中日戰爭和1941年太平洋戰爭爆發之後,日本進入所謂戰時體制。此時日本治台由同化政策跨進一步,全力推行所謂「皇民化運動」。戰時體制下的台灣專賣收入,主要是依靠煙酒,鴉片專賣收入已占極小的比例。此時,台灣物資日缺,經濟統制加強,並需要每一個台灣人都有一個健康的身體和良好的精神狀態,原先的鴉片漸禁政策已不適應形勢的需要。爲配合皇民化運動和適應新的戰時體制,殖民地當局決定改鴉片漸禁政策爲鴉片斷禁政策(即嚴禁政策)。

  1938年,總督府發布《台灣之鴉片取締法》,(注:中國第二曆史檔案館藏:《戒煙條例一案會議記錄司法行政部簽注意見及台灣禁煙法規等》,全宗號二○一○、案卷號6231。)規定由日本或英國的大商家承辦原裝大土的正式輸入,存入專賣局倉庫或由專賣局封鎖,如遇有不合格之貨,只可准其付回原處,不得運往別埠。專賣局則雇用專門技師(日本),將大土煮成煙膏入罐,正重十兩,由專賣局賣與批發人,批發人只系台灣之紳士于國家有功者或區長鄉正等,還須一向未曾受過民刑事之處分方可。批發及零星販賣之價均由專賣局規定。專賣局所煮之煙膏,逐年加淡其份量,按此辦法則吸煙者自然斷瘾。

  由批發人賣與零星販賣者以一罐爲最低限度,凡零星販賣者,每開一罐,須拿到最低警察署或分署派出所。吸煙者仍須有醫生證明,其系因身體之關系或一向有瘾;每日須吸多少份量,則由警察署發給吸煙許可證,憑證向零星販賣者求購。零星販賣者或開吸煙館之人,以該地地保或壯丁頭充之,以償其一向爲該地方辦事之義務。

  開吸煙館者,乃得吸煙人之煙屎爲利益,但須賣與專賣局,不得另賣別人,且不得從吸煙人滲入煙膏之內吸之,亦不許私自煮作煙膏。不論何人有犯此例者,以私造煙土罪論。無吸煙許可證者,不許吸煙,且不得臥于吸煙館之床,並不得與吸煙者對面,以煙燈在中間而臥。

  從取締法可以得知,鴉片斷禁政策的特點是:一、繼續實行專賣制度;二、加大對私制、私吸、私賣等的處罰;三、給予經營鴉片業的台灣人以更大的利益,換言之,則用鴉片之利來誘使台灣人爲其驅使,如規定「批發人只系台灣之紳士于國家有功者或區長鄉正」、「零星販賣者或開吸煙館之人,以該地地保或壯丁頭充之,以償其一向爲該地方辦事之義務」等。鴉片斷禁政策明顯具有爲戰時體制服務性質,並不存在要真的斷禁,而是和日軍的槍炮相配合,把目標指向對岸的中國大陸。1938年5月,日軍占領廈門後,推行鴉片專賣政策, 公賣局局長則爲日籍台人林濟川,公賣事宜完全由駐廈門的日本海軍司令部直接控制,售毒場所美其名曰「談話室」或「戒煙廳」。淪陷初期,廈門全市有二盤煙館27家(向專賣公司批發鴉片的商店),三盤鴉片煙館近270 家(向二盤家批發鴉片零售給瘾者的商家),(注:《前線日報》1943年5 月10日。)每家都是由有功于日軍的日籍台人或當地親日人士做老板,每月可自公賣局以低價配得鴉片煙膏600兩,月銷共計約1.2萬兩,轉手之間,即可獲得巨額的利潤。

  日據台期間一慣采取把台灣與中國大陸隔離的政策,使它跟日本結合起來,以「實現日台經濟一體化」,而在鴉片問題上卻大力推行無孔不入的毒化政策。福建地鄰台灣,因「與敵國轄境本系一衣帶水,近年以還,敵之謀我,日益加劇,幾乎舉國上下用盡種種手段,以危害我民族,絕滅我生機,查過去事實,凡是在本省制造、運輸、販賣各種烈性毒品者,無非敵國之留居民,此種毫無人性之敗類,謀介毒品、傳播毒品、直接間接均予我民族生存以極大威脅」。(注:《福建省禁煙概論》,載于《閩政叢刊》1939年3月,頁75。)1938 年日本人占據海南島之後,開始進行鴉片的生産。(注:(日)內田知行著《山西省の日本軍占領地區におけてアヘン管理政策》載于《東洋研究》第112號。)1942年,日本還從台灣運鴉片、紅丸、嗎啡等一次達3000兩至澳門, 並在澳門成立鴉片專賣局,開始在澳門從事毒化活動,直到敗降。

  因鴉片政策的真正目的在于爲治台服務,斷禁是爲了有更多的身強力壯的台灣青年供其驅使,而對那些老弱病殘者還是允許其吸食的。據1940年台北市役所編《台北市統計書》載,日據時期民國24年至民國29年,台北市的鴉片膏商及吸食者如表2。從表中可以看出,自1937至1940年帶來的好處,吸食特許者中女性均占有三分之一, 這充分說明在戰時,日本人更不會放棄任何一個鴉片可以帶來的好處,戰時體制下的鴉片斷禁政策,只不過是鴉片漸禁政策的繼續,「據雲,第二次世界大戰結束時,即本省光複前夕,全省吸食者尚有2000人」。

  表2 :台北市鴉片膏商及吸食者表(注:王詩琅編著《日本殖民地體制下的台灣》,衆文圖書公司印行1980年版,頁201。)

  年 次 鴉片煙膏 鴉片煙膏 鴉片煙膏吸食特許者
       批發商 零售商  女   男    計
  民國26年  3   15   343  1131  1474
  民國27年  3   16   306  991  1297
  民國28年  4   16   277  884  1161
  民國29年  3   12   246  787  1038

四、日據時期鴉片政策的結果
  漸禁政策並未取得實效主要表現在兩個方面:首先,吸食鴉片之風仍然嚴重。台灣被日本占領之初,一般煙民都惶惶不安,認爲台灣的鴉片吸食會象日本國內一樣遭到嚴禁,然而出乎意料,「惟見日本政府之發令,其政令尚屬溫和,頗有撫之意,爾來自無人抱特異感情,終泰然無事矣。」(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁74。)據當時日本人的調查,1896年,基隆約有30%—35%的男子吸食鴉片,鳳冊約有50%的男子和20—30%的女子吸食鴉片,台南吸煙人口竟約占總人口的60%。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁133。)1897年台灣鴉片令公布以後,按照規定, 瘾民吸煙需登記領照,但是由于禁煙法令不嚴密,加上台灣島內民衆對日本人的不信任,因而不少煙民未經登記,仍秘密吸食。是年,全島領照吸食者有50597人,僅占總人口的1.9%;1898年,領照吸食者有95449人, 也不過占總人口的3.7%。可見,由于禁煙令執行不力, 領照吸煙人數遠遠低于實際吸煙人數。就連當時任台北縣知事的日本人橋口文藏也不得不承認,僅台北一地,領照煙民「僅每100人爲3人強之比例,尤其一二等吸食者,至爲僅少,必因欺騙等級者及密食者多之故。因此,殊應周密執行,網羅所有瘾者,以明其分布實況,藉以增收吸食稅」。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁3。)

  其次,鴉片輸入與*仍然有增無減。日本占領台灣以後,即宣布鴉片專賣,由官方統籌安排鴉片進口,其他人不得擅自輸入鴉片。禁煙初期,由于殖民當局以增加鴉片稅收爲目標,因此每年從台灣以外進口鴉片的數量並沒有比以前有所減少。從1895年11月到1896年4月, 根據淡水、安平、打狗三稅關的統計,台灣每年僅從這三個稅關就進口鴉片238096斤,(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁95。)再加上大量無法統計的*鴉片,這樣每年實際進入台灣的鴉片數量同日據前相比,至少不相上下。台灣*鴉片主要有兩類,一類來自外國,另一類來自大陸,其中大陸的「土鴉片」爲台灣各種煙膏制造商、販賣店所持有,均非經正當途徑進口……*已成公然」。1899年,殖民當局在一份禁煙年度報告中也承認:「近來屢見有*輸入、密造及密販等重要案件」。

  鴉片專賣成爲重要的治台經驗鴉片專賣制度,使殖民當局獲得巨額收入,不僅爲治台補足了經費,而且其一整套做法,如對瘾者的調查、瘾者登記、吸食特許、原料外部進口等,也已漸成體系,成爲治台經驗一部分,向中國大陸推廣。

  日本在1904年日俄戰爭中獲勝,得以租借關東州,在此地區亦借鴉片漸禁之名實施鴉片專賣制度。爲避免國際間之指責,在關東局直接監督下,由中國人在大連設立慈善團體——宏濟善堂,讓該堂之戒煙部擔當鴉片的進口及銷售。宏濟善堂將銷售鴉片獲取之純益,以特許費繳納關東廳,其年收入約高達400~500萬元。(注:(日)大井靜雄著《阿片事件的真相》1924年3月,載于(日)《續現代史資料(12 )鴉片問題》1986年版,みすず書房,頁211。)1924年關東州制訂鴉片令, 實施漸禁政策。在1924~1925年召開之日內瓦鴉片會議中,日本的關東州鴉片政策受到強烈指責,日本遂于1928年在大連設置關東廳專賣局。直至1937年中日戰前爲止,其鴉片收入巨大,1934年約637萬元, 1935年約300萬元,各占總歲入的16.3%和10%左右。日本亦于關東州地區采行原料外部供給方式,以謀求更高的專賣收入,關東州之鴉片需求量則主要由伊朗、土耳其等地進口。

  日本在滿洲國的鴉片政策,也向台灣看齊,實行漸禁主義。因爲在台灣如要實施嚴禁政策,一年尚且需要動用二個師團以上之軍隊,而滿洲國面積更廣,人口更多,且三面環陸,若實施嚴禁政策,其所需經費和要動員之兵力當然更大。此治台經驗,使日本人獲益匪淺,滿建國初期之歲入6400萬元中,鴉片專賣收入就有1000萬元。與台灣有所不同的是,滿洲國之鴉片令規定,在政府監督之下,許可罂粟栽培(後逐漸被限定在熱河省及興安西等區域內)。「滿洲國所需之鴉片量太大,日本無法從外部全量供給,故有此項措施。透過此種鴉片專賣制度,僅以一般會計轉入金進帳的鴉片專賣利益金,然1936年亦達滿洲國歲入的5 %,約1331萬元」。(注:(韓)樸僵著遊娟缳譯《中日戰爭與鴉片(1937—1945)》台國史館印行1998年版,頁60。)

  隨著占領區的擴大,鴉片的消費量也在增多,外部進口已不能滿足需求,日侵略者便在華北地區主要是滿蒙一帶,采取了就地種植罂粟制度,但以上地區,均采取了鴉片專賣。在侵占了華中地區以後,日人鑒于對此一地區的勢力尚未完全滲透,采取鴉片專賣制度尚不可行,因此便利用當地僞政權進行毒化活動。1938年12月12日,在維新政府關于修改禁煙條例的一次立法會議上,日本大藏省書記官濱田法海就認爲,要采取象台灣鴉片漸禁政策。維新政府轄區內的蘇浙皖三省,瘾者有七八十萬人,「以台灣戒煙法之經驗言,對有瘾者禁止吸煙,但有瘾者非吸不行,無論處罰如何嚴厲均無效果,蓋法令雖嚴,亦有時而窮,規定過嚴反使犯罪人數增加。」(注:中國第二曆史檔案館藏:《關于禁煙條例一案會議紀錄》(1941年9月26日收到)。)他建議,將「禁」煙改爲「戒」煙。(注:中國第二曆史檔案館藏:《關于禁煙條例一案會議紀錄》(1941年9月26日收到)。)果然,1940年汪僞政權建立後, 僞國民政府將原維新政府時期的「禁煙總局」改爲「戒煙總局」,實施了鴉片漸禁政策。一張毒網罩住台灣人民日本人在台實施鴉片專賣制度取得的收入,不言而喻就是台灣人口袋裏的錢。而鴉片漸禁對瘾者本身的效果究竟如何呢?1898年即鴉片漸禁政策實施一年後,鴉片瘾者有105048人就死亡了1682,而這1682人中戒煙者有890人,瘾者的死亡率占千分之十七點一人。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁138。)次年的情形卻走了下坡路, 1899年4月即鴉片漸禁政策實施兩年後,鴉片瘾者有111302人, 僅僅五個月的時間裏,就死亡了1309人,而這1309人中戒煙者僅有48人,占鴉片瘾者的千分之四,瘾者的死亡率卻占千分之十一點多,(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁191。)自1898年4月至1899年3月近1年間,台灣總督府統計的鴉片之犯罪者共有是448人。 (注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁192、193。)這些足以證明漸禁政策的失敗。

  鴉片專賣,不但剝奪了台灣人民的錢財,殘害了台灣人民的性命,日本人在具體執行鴉片政策的過程中,在思想上也充滿了對台灣人民的歧視。如當局在制定《鴉片取締規則》只有短短的6條, 理由原來是:「中國人,尤其台灣土人,均乏理解力,凡連十條以上條章之法律命令,多不易被了解;中國人,從未受法理規則之支配,通常僅三行半之谕令,何等巨額之禦用款或租賦,亦有予以繳納之習性」;「故浩瀚之諸規章,反令伊等有苦于了解,竟不能釋然會意之嫌」;「今日台灣,正如維新當時之日本,甚至劣下數等,欲令其遽然了解文明規則,豈非緣木求魚?」(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁200、201。)

  大陸人民深受其害日本人在台灣實施鴉片漸禁而非嚴禁,不僅爲害台灣人民,大陸人民亦無可避免地受其毒害。1915年,台灣鴉片專賣局長賀來佐賀太郎代理台灣民政長官向陸軍次官山田隆一建議,以台灣所生産的熟鴉片,銷往日本占領下的青島與山東膠濟鐵路沿線各地,被陸軍當局接受。1917年7月,台灣鴉片奉准行銷關東州等大陸地區。 當時台灣所煉制的熟鴉片,已生産過剩,其煉制能力一年可達6 萬貫(每貫爲3.75公斤),一年的純利可達180萬元。第一次世界大戰結束後,以星制藥公司爲首的日本四大制藥公司(包括三共制藥、大日本制制藥、ラヂつム制藥)奉准每年自印度、波斯等地進口鴉片7000磅,用于自制嗎啡,向中國輸出,日商人甚至在進口鴉片箱外貼上「軍用品」封條,公開而直接地運入青島。(注:(日)江口圭一編著《資料·日中戰爭期鴉片政策》1985年版,年岩波書店,頁19。)1915—1918年的五年期間,台灣的星制藥公司即自政府處理品的粗制嗎啡19200 磅提煉出粗制嗎啡10000磅,全部*輸往中國。

  中日戰爭前後,上海成爲在台日人進行毒化活動的重要地區。「台灣專賣局所産之鴉片與大阪、神戶所産制的嗎啡、海洛因等*至上海」。「日人在台灣嘉義所設的可可因廠,在1936年的5年內,每月都生産200—300公斤之多,中日戰爭開設後,該廠專以上海爲推銷地」。(注:李恩涵《日在華中的販毒活動》,載于台灣《中央研究院近代史研究所集刊》第29期。)1899年9月日本在台北設立的台灣銀行,爲其殖民政策服務,它設在上海的分行「滬台灣銀行」成爲日人在上海的販毒據點。「八·一三」事變後,日本駐滬海軍指揮部即派遣輪船至東北,將儲存在那裏的鴉片運至上海,交滬台灣銀行經銷,經銷人爲相內重太郎和其翻譯李純銀。(注:上海市檔案館編:《日本帝國主義侵略上海罪行史料》上冊,頁504。 )當時原任職日本陸軍駐滬武官府輔佐官的楠本實隆轉任上海特務部機關長,爲籌措特務費用,1937年11月,經由三井物産株式會社自伊朗*鴉片20萬磅,其周轉購買資金系由上海台灣銀行墊付。(注:李恩涵《日在華中的販毒活動》,載于台灣《中央研究院近代史研究所集刊》第29期。)

  日本人除自己親自出馬以外,還驅使大量台人到大陸毒化同胞。日籍台人,如同在華北的日籍朝鮮人一樣,扮演著日本侵華毒化活動的先鋒角色。

  總之,日本據台之初,天下未定,鴉片政策也呈現不穩定狀態,先是嚴禁,旋即于1897年改爲漸禁,直到1937年爆發中日戰爭止,這40年的鴉片漸禁,不在消除,重在管制,當局從中大獲其利,有力地支援了總督府的財政,爲經營台灣注入了大量資金。晚期因應戰事之變,實施鴉片斷禁,這是因爲,漸禁政策執行了幾十年,「當時之瘾癖者,已由自然漸減(死亡)之結果,已近尾聲,然借鴉片只收入已不複如前」;(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁10。)其次,連續不斷的侵略戰爭急需大批健康台人爲之獻力,再鼓勵吸食鴉片已與戰時體制不相適應;再次,日人並未放棄鴉片之利,只不過開始以對岸爲重心展開。日據台灣半個世紀,鴉片專賣制度作爲其治台經驗的重要組成部分,被逐漸推廣到中國的其他占領區,繼續爲害中國人民。

   (資料來源:《福建論壇:文史哲版》2000年第4期)
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「日據台灣時期的鴉片政策(1895—1945) 二」

2016年09月30日 | 台湾
http://tc.wangchao.net.cn/junshi/detail_130561.html
「王朝網路」2010-03-16 12:04:56 來源: 互聯網
■日據台灣時期的鴉片政策(1895—1945) 朱庆葆
二、鴉片漸禁政策40年(1897—1937)
  第三代總督乃木希典統治的1897年1月, 總督府根據當時內務省衛生局長後藤新平的建議,采取鴉片漸禁政策,發布《台灣鴉片令》,規定只准許專賣局進口、制造鴉片,嚴禁無特許證者銷售或持有鴉片,吸食鴉片要經過特別許可。台灣鴉片專賣制度隨著當時島內外形勢的演變和吸食者的具體情況,幾經變化,不斷修正調整。自1897年始到1937年中日戰爭之前,頒布了許多有關鴉片的律令,各種律令于鴉片的制造、售賣、吸食等方面作出嚴格而細致的規定,從而形成嚴密的專賣體系,分述如下。
  
  制造總督府于1896年3月,在台北設一制藥所, 一面調查有關鴉片之吸食與販賣事項,一面從事鴉片煙膏之制造,視其品質優劣分爲福祿壽三個等級。初始因工場規模過小,所制煙膏供不應求,乃于1898年6月及1905年7月,先後擴充設備,改用機械操作。煙膏制成之後,由專賣局發給地方政府,再由地方政府發給特約批發者,特約批發者再轉給零賣商人,最後再由零賣商人賣給鴉片吸食者。台灣總督府爲了創設鴉片專賣制度,並推行所謂衛生行政,在1896年4 月聘請後藤新平擔任總督府衛生顧問。同年6月, 後藤新平隨同前來赴任新總督一職的桂太郎來到台灣,並推薦加藤尚志擔任台灣總督府制藥所所長,加藤尚志從此成爲後藤新平漸禁政策的直接執行者。加藤與技師人員一行于1896 年4月抵台就任,爲了配合在同年10月開始實施的專賣制度,乃開始調查研究,6月,完成制藥所工廠與辦公場所,10 月如期確定鴉片煙膏的近代生産方法,推出制品。最初,一等(福)占2%,二等(祿)占13%, 三等(壽)煙膏占85%。後來,二、三等的需要逐漸減少,迄1907年,一等占71%(108426公斤),三等占29%(28700公斤),二等因無需要,停止制售。 後至1926年,一等竟占99.6%,三等只有0.4%。自1927年8月起,三等煙膏亦停止制售。這主要是因爲一般貧苦的瘾者,逐漸戒除,繼續吸食的都是一些經濟較爲寬裕的人。

  制藥廠將毒品美其名曰福(一等)、祿(二等)、壽(三等),如此符合中國人的傳統心態,並詭辯說是爲適合土人習慣,但賦予鴉片以吉祥如意的食品名稱,畢竟與禁絕鴉片的精神相矛盾。可是,發明者後藤新平卻因此獲得了政府的勳章。1906年7 月後藤新平正式接受滿鐵首任總裁的職位,從此離開他「*生涯上綻開花朵的殖民地台灣」。

  鴉片來源專賣局所供應之鴉片或制藥廠的原料來源,主要依靠三井物産株式會社外部進口。1912年以前,主要購自香港,此後,則多直接購自原産地,如土耳其、印度、 波斯等處。 台灣總督府專賣局曾于1897年在專賣開始一直到大正七年(1918),(注:(日)《日本內地的罂粟栽培》,載于《台灣鴉片志》1926年3月。 )在台灣進行小面積罂粟的栽植試驗,因氣候、土質等原因,産量很低,故不得不另想辦法,即在日本本島和朝鮮種植罂粟。在日本內地試種罂粟始自1905年10月,日本內務次官山縣伊三郎按照後藤的意見,在大阪府的三島郡福井村等三個村、京都府葛野郡桂村地內進行兩年試種,1905年産量爲4096斤,1906年的産量爲4024斤,後因進口價格較低而停種。從1913年又開始種植到1920年完全停止,(注:(日)《續現代史資料(12)鴉片問題》1986年版,みすず書房,頁4。)30年代後,因戰事吃緊,國內已無精力顧及鴉片生産,台灣總督府便將目光投向日本的另一塊殖民地——朝鮮。

  表1:台灣總督府鴉片進口來源表
  年度 數量(公斤) 價格(元) 伊朗(%) 土耳其(%) 朝鮮(%)
  1932 20941   651096  82   9     9
  1933 16175   505530  80        20
  1934 7258    238850   100
  1935 3276    86492   45    55
  1936 3641    100127  100
  1937
  1938
  1939 12621   555492  20        80
  1940 7315    536610           100
  1941 11473   975567           100

  1937年中日戰爭爆發,日本鴉片專賣制度範圍內的鴉片需求量猛增,由于戰爭導致日元外彙支出增加,面臨國際收支破産的危機,鴉片輸入日趨困難,因此,依賴外國産鴉片的台灣,不得不減少伊朗和土耳其的鴉片的進口,轉而重視朝鮮的鴉片生産。在1939年後,台灣自外部進口的鴉片,80%依賴朝鮮,1940年起,則100%自朝鮮進口。其中,1932年爲1952公斤,1933年爲3235公斤,1939年爲10059公斤。 見表1。(注:(韓)樸僵著遊娟缳譯《中日戰爭與鴉片(1937—1945)》台國史館印行1998年版。)

  售賣鴉片的售賣事務由地方廳掌管,專賣局應各地方廳的申報,交付給地方廳的包賣人,所有包辦煙膏人,應按定價每回至少一箱售予零售商,零售商按官府價售煙膏給吸食特許者。包辦人只准將煙膏發售官准之零售商,並不得開設煙館,另造流水冊簿登記每日發售煙膏之種類、數量、價值等備查。另外,欲制賣煙具者,應具禀于地方官廳,請領特許承賣煙具牌,每年應納一定稅額。所有包賣人和零售商均需由官廳選擇指定具有資産和相當信用的台灣人擔當,作爲一種公職。特殊情況下亦可特許非原鴉片營業者經營,但身份應當可靠,且必須受到警察官吏的監視。1898年9 月頒發的《鴉片監視規則》聲稱爲防止鴉片秘密輸入及消除密食,嚴厲執行有關鴉片之各種取締措施。于警察部辦務署及支團設置監視員、監視員補若幹名。以警部或巡查部長充任鴉片監視員;鴉片監視員補由辦務署長任命巡查充任。鴉片監視員和監視員補除受上司之指揮監督,整理有關執行鴉片令的一切事務外,還有一項特殊任務,即搜集一般民衆對于現行鴉片政策之「感情」及鴉片各種營業特許者、吸食者對鴉片煙膏之品評。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁47。)

  吸食特許1897年4月台灣鴉片令實施之後, 總督府開始調查鴉片瘾者,迄1900年9月告一段落。1902年平定抗日勢力後, 隨即整理《阿片瘾者名簿》,至此專賣制度的推行,告一段落。凡經登記之人,仍許繼續吸食,但嚴禁新吸。年齡在20歲以上的瘾者申領牌照,不分男女之別,均應予以頒發。爲擴大特許範圍,後來又特別補充規定,未滿20歲亦已中瘾者,經醫師診定後,也可發交特許牌照,准予吸食;對女人之鴉片瘾者,應特予以方便,均應頒給特許牌照,不得有漏。因爲當時台灣人民對于日本當局的政令,頗不信任,所以許多鴉片瘾者未曾登記而秘密吸食。隨後,總督府在1904年和1908年先後進行兩次調查,允許補行登記。根據調查結果,鴉片瘾者「逐漸減少」:1900年,吸食特許者165752人,占總人口6.1%;1904年,吸食特許者137952人,占總人口4.7%;1908年,吸食特許者120875人,占總人口4%。如此看來, 漸禁政策確是取得了成效,但這種調查僅是一種表面文章,是留給台灣人看的,是說給國際社會聽的;其真意,乃是「爲網羅更多的鴉片瘾者」。因1904年日俄戰爭爆發,日本國內軍費開支龐大,停止了對台灣的財政補助,台灣總督府只有另辟蹊徑。由于當時存在大量的密吸、密造、密販現象,台灣總督府千方百計地予以取締,並放寬「漸禁」的條件,這樣一來,「鴉片行政事實已有顯著進步,而十月底爲止,已羅致114400人鴉片吸食特許人,已將達初推測目標130000人。此自應歸功于施行上得其宜所致」。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第二冊,頁177。)

  自1908年調查之後,日本人宣稱瘾者已大大減少,漸禁政策已取得極大成功,便在國際間大造輿論。1909年2月1日,由中、美、英、日等十余個國家參加的禁止*毒品會議——萬國禁煙會,在上海黃浦江畔的彙中飯店舉行。日本派使館參事官恒澤宮岡專員和衛生試驗所長田原、台灣總督府技師高木博士參加了這次會議,並在日本總領事署設立臨時辦事處。(注:上海市檔案館等編《清末民初的禁煙運動和萬國禁煙會》,上海科學技術文獻出版社1996年版,頁65。)會議期間,英、美等國代表就日本在台灣的鴉片政策問題向日本代表提出質問,日代表振振有辭地向大會提交了有關台灣在漸禁政策下吸食鴉片人數「逐漸減少」的報告,並以此誇耀其在台的所謂鴉片政績。不但各國代表被他們的言論所蒙蔽,就是中國代表唐國安在提出提案時所發表的演說中也稱:「日本是我們最近的近鄰,與我們唇齒相依,他們已經成功地擊退了幾乎使人們陷于滅頂之災的浪潮,他們甚至在鴉片煙惡習根深蒂固的台灣成功地對鴉片販運進行了管制」。後來,日本人聲稱至1924年,台灣未滿30歲的吸食者已無一人。對此,南京國民政府大加贊賞,「更研究台灣有關鴉片制度,民國20年,派遣代表到台灣考查,計劃實行漸禁政策之下的專賣制」。(注:馬模貞主編《中國禁毒史料》,頁1515。)

  1929年之後,由于受日本資本主義經濟大蕭條的影響,台灣經濟不景氣,財政歲入減少,台灣總督府不得不采取措施,以解決財政困難。1930年1月總督府施行新的鴉片令, 規定凡中毒較輕者都要送往醫院矯正治療;毒瘾較深者,經驗明煙瘾較重或體弱不易戒除,亦重新給予吸食的特許。新鴉片令不但不再處罰秘密吸食鴉片者,且加以重新的認可。本次修正的鴉片政策的中心思想是,改變過去刑事處罰爲主的政策爲行政處分爲主,表示要加強對瘾者的矯正工作。當時在台灣頗有影響的民衆黨中,原有特許吸食鴉片者102名, 根據新鴉片令申請的特許吸食者又新增241中名。民衆黨宣稱總督府此舉「非但極端不人道,且實際上有悖于國際道義」。他們邀請國際聯盟鴉片調查委員會來台調查,總督府相當尴尬,並爲之惱羞成怒。國際聯盟鴉片調查委員會委員在台調查期間,台灣民衆領袖之一蔣渭水有機會陳述了自己的反對意見,這給一向標榜台灣鴉片制度是「國際鴉片政策的先鋒」的殖民地當局以極大壓力。爲掩國際間耳目,台灣總督府不得不實施對鴉片瘾者的矯正工作。矯正工作從1930年1月15日開始,至1931年3月末爲第一階段,到1934年聲稱全部矯正完畢。

  1931年九一八事變後,日本占據中國東北。1933年,日本帝國主義爲放開侵略步伐,退出國際聯盟。就在1938年6 月于日內瓦召開的第23屆鴉片毒品委員會上,因中國代表胡世澤列數日本違反國際法在中國制毒販毒的事實,美、英、加拿大等國代表也對日本在華販毒予以無情揭露和斥責,爲擺脫國際輿論的壓力和監督,日本代表終于撕掉面具,于1938年11月2日宣布自動退出該委員會。(注:李恩涵《日在華中的販毒活動》,載于台灣《中央研究院近代史研究所集刊》第29期。)從此,在毒化的道路上,更加恣意妄爲。

   (資料來源:《福建論壇:文史哲版》2000年第4期)
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「日據台灣時期的鴉片政策(1895—1945) 一」

2016年09月29日 | 台湾
http://tc.wangchao.net.cn/junshi/detail_130561.html
http://study.ccln.gov.cn/fenke/lishixue/lssjdsj/104646.shtml
「王朝網路」2010-03-16 12:04:56 來源: 互聯網
■日據台灣時期的鴉片政策(1895—1945)  朱庆葆
  近代,以英國爲首的西方列強,爲保護其鴉片商人在華利益,竟不惜兩次發動侵略戰爭。就在清政府被迫同意鴉片貿易合法化的1858年,日本與英國簽訂了禁止輸入鴉片的協議。明治維新之後,日本暴發,便也逐漸做起大國霸權的美夢。20世紀初期,英國對中國的鴉片輸出逐漸停止,日本遂乘虛而入,擘著太陽旗在中國四處進行販毒活動,它和日軍的正面進攻相配合,起到了槍炮所無法企及的作用。

  日本于台灣之毒化行徑,完全由政府操縱。台灣總督府成立專賣局,實施鴉片公賣。50年間,當局曾對鴉片瘾者進行過三次調查,公布結果表明,瘾者人數一次比一次減少,日人便借此在國際上大作文章,宣揚其鴉片「治績」,以混淆視聽。時至今日,仍有不明真相者認爲日本將台灣視爲新領土,視台人爲「皇民」,確有誠意實施鴉片禁政。長期以來,大陸學界囿于資料的限制,對此問題的研究一直很薄弱。基于此,筆者根據掌握的大量有關資料,將日據台灣時期的鴉片政策作爲探討對象,以期在經濟層面揭露日本的殖民地統治本質。文中所稱之鴉片,系指生鴉片,也包括由鴉片提煉精致而成的海洛因、嗎啡等毒品。日本人則將鴉片稱之爲阿片。

一、日據初期鴉片政策的制定(1895—1897)
  台灣吸食鴉片之陋習,最初始自17世紀,經荷蘭人從爪哇傳入,後受來自福建漳州、泉州、廈門等地移民的嗜吸之風影響。史料載,1865~1874年10年間台灣的鴉片輸入量,平均每年達193000斤,1881年則高達588000斤,1894年470000斤。面對此種泛濫之惡習,清廷在台的地方官員和一些有識之士,都積極主張禁絕煙毒。但鴉片爲害甚深,已非一日能夠禁絕。

  1985年初甲午一役,清軍敗退。3月,清廷全權大使李鴻章與日方代表內閣總理大臣伊藤博文簽訂《馬關條約》,割讓台灣已成定局。據日方報道,中日媾和第四次談判之際,伊藤向李鴻章明言:「台灣之地,一旦歸爲帝國所有,鴉片煙之禁制,必能奏效」。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁15。)6月2日,李經方和日方的桦山資紀在基隆港外的橫濱丸輪船上完成交割手續,300多萬台胞自此落入日人手中。

  怎樣對待「新領土」——台灣蔓延吸食鴉片之風,日本國內出現了激烈的爭論,大體分爲三大派:嚴禁派、漸禁派和非禁派。其中以政界、律師和衛生人員所堅持的嚴禁派呼聲最高,他們認爲,吸食鴉片是養成惰民之重要原因,日本于開國之初,已頒布禁制,而「清國令其國民陷劣敗之原因,故不僅在于鴉片之吸食,惟國法無力加以禁止」,此習癖「若蔓延至日本內地,屆時將唯恐其弊害終將不可自拔」,(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁14、16。)因此有人主張將吸食鴉片的漢人驅逐出台。

  非禁論者卻詭辯:許多土民年長者自稱,我等已染此習癖,若遽加禁止,將失去生存樂趣,長久度此殘生,不如快死。因此嚴禁台灣土民吸食鴉片,「將遇民情之極力反對」,如此,「則需經常派駐兩師團以上兵力,並犧牲數千之生命,甚至以兵力威壓仍未能達其目的,爲推行鴉片制度,竟需衆多之兵力與巨額經費,殊非得益之說」。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁14。)

  因爲當時輿論多傾向于嚴禁論者,第一任總督桦山資紀上任後,隨即發出指令,嚴禁吸食鴉片,並明文規定于《台灣居民刑罰令》中。(注:廖慶洲著《日本過台灣》上硯出版社,1993年版,頁104。 )但因據台之初統治者遇到的最大的問題是如何鎮壓各種抵抗活動,因而負責鴉片政策推行的民政局,認爲對鴉片問題只能采取調查與研究的步驟,難以采行嚴禁舉措。于是,1895年12月水野民政局長返回東京向中央政府陳述目前嚴禁有害無益。因有言在先,以首相身分兼台灣事務局總裁的伊藤博文頗感爲難,于是要求台灣事務局的各委員就此問題再加考慮。水野隨後訪問了衛生局長後藤新平並陳述自己的觀點,後藤表示同意,並進一步指出,禁鴉片之難,難于禁煙酒,「而且取締不易,並有違人道,毋須由政府制造專賣,將其收入以改善台灣各種設施爲宜」。後藤新平曾在1895年9月擔任內務省衛生局長後, 命台灣總督府的民政局員鷹崎與渡邊調查台灣鴉片問題,且以這兩位有關鴉片28個項目的極爲周密的調查,擬成《關于台灣島鴉片制度之意見》,提交內務大臣野村清。在意見書中後藤新平反對非禁論,理由是「台灣新附之民,亦爲陛下之良民,何以在健康長壽之保護上,未能享受一視同仁之恩澤?」同時,他也並不主張嚴禁,他說,鴉片煙不可不禁,「唯于今日,要加以急施,似甚爲不妥」且「厲行嚴禁鴉片煙之制,難免有失酷薄之嫌」,務必招來吸食者的抵抗。後藤批評兩種極端論者,言之鑿鑿,自己的觀點也如水落石出:據說鴉片進口稅年逾80萬,可見其需要量之大,唯將其歸爲政府專賣,寓禁止稅之意,加課此進口稅額三倍之價,在特許藥鋪,憑政府之通摺,售與吸食者,則其需用者必因之逐漸減少,且國庫將增加160萬元之收入,加上原來之進口稅80萬合計240萬元」。他進而「依生存競爭原理、以毒攻毒之法則」提出「漸禁論」觀點:「鴉片可仿國內現行專賣制度,統歸政府專賣,並可納入衛生警察施行體制。鴉片的買賣,可于台灣島設置鴉片特許藥鋪,除藥用鴉片之外,不准買賣。對鴉片中瘾者,由政府特許,向藥鋪購買」。(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁15、16。)

  村野對于此一「頗具財政觀點」的漸禁政策深表贊同,于是,12月14日將意見書向伊藤總裁提出。1896年2月, 伊藤總裁提交內閣會議加以討論,終獲准行,由此傳達桦山總督,至此漸禁論始獲定案,結束了鴉片政策爭論不休的狀態。1896年3月23日,在台灣總督府的請求下,後藤新平進一步提出有關鴉片制度行政機關、財政、警察配合執行等施行細則,可說是鴉片專賣制度的基本設計圖,該書最後附言部分尚且預言漸禁政策可在30至50年期間見效。1896年6月, 後藤新平又以台灣總督府衛生顧問的身份到台,做實地考察後,再次向總督府提出報告,強調:「若強欲嚴禁,由此采行鎮壓等行動,恐需調遣兩個師團以上的兵力,而且將損失其半數以上」。在具體措施尚未出台之前,1896年9月8日,總督府民政局以民總第350 號急件向各地方官長發布《關于鴉片取締之通牒》,(注:台灣省文獻委員會根據台灣總督府公文檔案編譯《日據初期之鴉片政策》第一冊,頁43。)規定:凡私自輸入鴉片,或由住民對日本人販賣、提供鴉片煙及鴉片吸食器具者,皆屬犯罪,嚴加懲處,但特別強調台灣住民之間吸食販賣鴉片煙及鴉片吸食器具者,暫不過問。與據台初期的綏撫政策相適應,鴉片政策經過一兩年的搖擺,終于塵埃落定,漸禁政策初步開始在台實施。後藤新平以意見書與台灣結緣,1898年3 月他由內務行政長官改任台灣總督府民政局長,6月起改名爲民政長官, 成爲日後台灣鴉片政策的執導者。

   (資料來源:《福建論壇:文史哲版》2000年第4期)
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「抗日勝利は台湾人の歴史にあらず」

2016年08月31日 | 台湾
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201608160004.aspx
「フォーカス台湾」 2016/08/16 15:24
■「抗日勝利は台湾人の歴史にあらず」 大学教授ら、平和公園の整備呼びかけ
(台北 16日 中央社)一部の大学教授らで構成される台湾教授協会は15日、政府に対して台湾の歴史に向き合い、第2次世界大戦の終結を記念した平和公園の整備を呼びかけた。戦没者を追悼するため、慰霊碑の設置を提案している。
 同協会はこの日開いた記者会見で、「中華民国政府は昨年、抗日戦争勝利70周年を祝ったが、それは台湾人の歴史的記憶ではない」と強調。日本統治時代の台湾人は徴兵され、連合軍による爆撃を受け、戦後には審判を受けたほか、国民党政権下では台湾の主体性が失われたとした。
 また、先の大戦では台湾人約5万人が亡くなったとされながらも、これまでに慰霊碑などが設置されていないと指摘。平和公園の必要性を主張した。
 記者会見には野党・時代力量の林昶佐立法委員(国会議員)も出席。「台湾化、民主化された今、台湾に必要なのは忘れられた記憶を取り戻すこと」と熱弁をふるった。
 同協会の許文堂秘書長は、長きに渡って中華民国政府は台湾の1945年以前の歴史に目を背けてきたとし、和解したいと述べた。
                (劉麗栄/編集:齊藤啓介)


http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201608/CK2016081602000119.html
『東京新聞』 2016年8月16日 朝刊
■埋もれた戦争犠牲を伝えたい 大学教授ら訴え「台湾人の慰霊碑を」
 【台北=迫田勝敏】台湾の大学教授らでつくる台湾教授協会(張信堂会長)は十五日、記者会見し、第二次世界大戦中に犠牲になった台湾人を慰霊するため、平和公園の建設と慰霊碑の建立を蔡英文政権に求める運動を始めると明らかにした。台湾は日本の敗戦までは日本統治下にあったが、戦後は中華民国が統治して「戦勝国」となった。このため戦争中の台湾人犠牲者は中華民国のものではないとして、当局による慰霊などは行われていない。
 日本の厚生労働省の統計では、台湾では軍人、軍属約二十万人が徴用され、約三万三千人が死亡した。しかし、戦後に「戦勝国」である中華民国が台湾を統治したため、戦争中に多くの台湾人が犠牲になった事実はあまり知られていない。歴史教科書でも、台湾人犠牲者の存在も含めて戦中・戦前の台湾の歴史は詳しい記載がなく、台湾は戦争中、日本と戦ったと誤解している人も少なくない。
 教授協会の張会長は、こうした埋もれた歴史を若者に伝えることが平和公園と慰霊碑建立の目的だとする。平和公園の建設地は、台北市内の華山文創園区などが候補に挙がっている。同区は日本時代の酒工場跡地で、当時は鉄道駅もあり、ここから台湾人兵士たちが出征したという。
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「台籍日本兵 遺族悲情史」

2016年08月27日 | 台湾
http://old.ltn.com.tw/2004/new/oct/27/today-life15.htm
「自由新聞網」 2004年10月27日
■台籍日本兵 遺族悲情史
〔記者陳鳳麗╱南投報導〕台籍日本兵董長雄被以日軍戰犯身分判處絞刑,處死前悲傷而卑微的遺書,希望日本政府讓其獨子受教育,五十多年後,才被台灣人把放在日本靖國神社的遺書影印本送回台灣,只是日本政府並未完成董長雄遺願,目前遺族生活困苦,聞者無不鼻酸。
  明年為太平洋戰爭終戰六十週年紀念,台灣文獻館正全力蒐集有關戰爭的史料,四處拜訪台籍日本兵及家屬,希望找到更多不為人知的戰爭故事,文獻館長劉峰松等上週由全國原國軍台籍老兵暨遺族協會會長許昭榮協助,前往屏東縣拜訪董長雄的媳婦孫素珠,才發掘了這個埋藏五十多年的悲傷故事。看到台籍日本兵遺族困苦的生活,劉峰松數度落淚。
  日治時期,董長雄離開妻子和年幼的獨子,被派到南洋管理戰俘營,日本戰敗後,被盟軍國際審判庭當成A級戰犯,判處絞刑,當時有廿六名管理員被處死,但只有兩人被處絞刑。
  董長雄因成為戰犯而被判絞刑所寫的遺書,被放於日本靖國神社,去年許昭榮才被日本人告知,並經由他將遺書影本帶回台灣,交給董長雄家屬,只是這一段路走了五十多年,而他的妻子以及寄望最深的獨子董英明早已病故。
  劉峰松表示,董長雄當時接受日本政府效忠皇軍的洗腦教育,被送上國際審判庭,雖力爭仍無法免除其刑,臨死前並沒有激憤或怨恨,但在昭和廿三年二月十八日寫下遺書,遺書中寫著「我是台灣人,因故我奉獻我的身體,犧牲了妻子,在法庭上力爭,最後失敗而赴死地。我是為了日本,遵守始終一貫的信念來戰鬥。如今國籍雖有變更,但我仍想以日本軍人身分走向那另一國度。若是這法庭不是為正義,而是為報復而進行裁判,那我被判處死刑也毫無怨言。」
  而董長雄一心掛念的是獨子董英明,在遺書中卑微地請求:「大日本帝國若能復興,期望日本政府能給我那一個兒子有接受日本教育的機會。」
  只是日本政府沒有依照其遺願,讓董英明到日本接受教育,更讓董長雄的遺書留在日本靖國神社五十多年。
  去年,許昭榮將遺書影印本帶回台灣,日本政府曾請許昭榮代為探視董英明,了解其近況,但知道董英明在七年前已因癌症病故後,即不再聞問,讓董英明的妻子孫素珠十分難過。
  孫素珠目前靠著打零工為生,但一年只有三個月有工可做,經濟拮据,常靠鄰居資助生活。
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「《前进婆罗洲》简介」

2016年08月26日 | 台湾
http://intimes.com.my/yeo-html/yeo567b.htm
■《前进婆罗洲》简介  文・图:李展平2009年2月1日刊登
     ●《前进婆罗洲》封面。
     ●当年遗留下来的守卫室。
     ●古晋老鼠园防空壕一景。
  
  2005年8月间,经吴岸介绍,认识了三位来自台湾的电视特稿拍摄者,要我陪同前往古晋一些第二次世界大战的遗迹进行拍摄,说是要报导有关被日本征兵派来古晋服役的台湾兵士的事迹。我和他们到巴都林当集中营、老鼠园和长梯头一带,他们猎取了不少镜头。
后来,吴岸传来其中一位名字叫做李展平的所撰写的一本16开型书籍,书名为《前进婆罗洲——台籍战俘监视员》。这本书由台湾文献馆在2005年8月8日出版。由于这本书记载不少第二次世界大战时期台湾籍日本士兵在古晋的事迹,我特意读了一些,觉得可以介绍给“风下”副刊的读者。
《前进婆罗洲——台籍战俘监视员》,厚二百四十余页,图文并茂。作者李展平,生于1952年,是一名报导文学作家,出版过七本书。他在《前进婆罗洲》的扉页写下这样的字句:经过千山万水寻找战犯悲歌。
本书共收录12篇文章:
1,流落南洋的台籍战犯——周庆丰;
2,命运大逆转——死里逃生柯景星;
3,穿过雨林身影——盟军战俘监视员许清泉;
4,难忘心中监狱——屏东麟洛第三分所;
5,厨师上战场——北婆罗洲战俘连阿木;
6,血衣招魂——李彬彩呼天录;
7,被遗忘的影像——婆罗洲台籍男儿;
8,残霄犹得梦依稀——死刑战犯董长雄;
9,高呼台胞幸福——姜延寿广州泣血记;
10,古晋所监视员忆往——萧世儒、陈泽立;
12,古晋台籍战犯——林水木缠讼一生;
附录:日本兵(台籍军属)BC级战犯审判资料。

2005年,是太平洋战争结束60周年,李展平在本书《写在出版前夕》一文中,发出感慨。他说:“谁愿于人间深巷倾听台籍战犯悲凉的心声?” 他对台籍战犯做了一些介绍。以下是他的文章:
据笔者访查:台湾内部派往新竹湖口受训者,除少数留在岛内,大部分派遣菲律宾渡1600部队,俘虏收容所第一分所冈本队;俘虏监视员工建祥(现居埔里)表示:1942年7月,自高雄港启航,前后派遣680名。终战返台者今健在196人,归来后往生者160人,阵亡菲岛109人,战地失踪或失联者210人,死亡惨重。另外俘虏营派遣战线,以北婆罗洲为主,全数来自白河演习所,大致分古晋组、山打根组收容所。他们在1942年7月12日,调到英属北婆罗洲执行看管盟军战俘勤务,被迫杀害或凌虐战俘,导致盟军报复性审判,一生命运曲折悲痛,即使经过60年的岁月疗伤,笔者每探索那一段生命史,皆碰触他们内心,深深伤痛;犹记得几次与(台湾文献馆)馆长刘峰松联袂拜访死刑战犯李琳彩、姜延寿、董长雄家属,当李琳彩侄儿李春生拿出叔父临死“血衣”留言,刘馆长几度哽咽,抿紧嘴唇;当姜延寿在广州被判死刑,虽一再跟(台湾)——国民政府陈冤,最后竟以“空言狡辩”峻拒,临死前高呼“愿台胞幸福”,如此临终前流露殖民同胞的患难与共,自己都快死了,犹祝台胞幸福;而落籍屏东枋山乡的董长雄一表人才,高眺俊秀,毕业于长荣中学,在南洋战场担任通译任务,以“凌虐战犯致死”罪名被盟军判“绞首刑”,临死时遗稿:“为天皇效命终生不悔”……唯一的心愿,将来大日本帝国复兴后,他唯一的儿子董英明,希望能接受日本教育,吾愿已足。事实证明,复兴后的日本,并未理会他的心愿,反将他的遗稿“尘封”,直到几年前日本人野田博爱,自东京“靖国神社”取出董氏遗书,辗转送交其屏东家人;而其子董英明品学兼优,以优异成绩考上屏东师范,十几年前食道癌往生。目前其妻孙素珠女士租屋渡日,生活极为清贫,如此情景,亦让笔者午夜梦回暗自垂泪,一位优秀台湾之子,如此不堪命丧他乡,“有魂无体”漂流南洋战场,日本军方并未将其遗骸骨灰交给家属,导致遗孀伍改只能收拾丈夫遗物,作为衣冠冢,家人伤痛并不随60年前远征的背影消失啊!
日本发动太平洋战争,造成生灵涂炭,两三千万人失去家园和生命,所犯下的罪行,罄竹难书。台籍日军的行为,包括他们是否被迫杀害和凌虐战俘,李展平的观点如何,不是我们评论的范围,就让历史去评价吧。我们转载这本书的部分内容,是要让读者了解,有这么一本书,在叙述台籍战犯在婆罗洲(古晋)的事迹。
本期“风下”副刊,刊登《前进婆罗洲》书中原题为:《命运大逆转——死里逃生柯景星》的文章。编者将题目改为《台籍日军在古晋的经历》,需要声明的是,本文曾经编者删节和某些字句加上说明。
  李展平访问柯景星时,柯已经85岁。他在大正9年6月25日出生,昭和17年(1942)7月12日,柯景星从彰化坐火车到嘉义白河,接受为期两周的训练。在白河训练所结训,大半派到北婆罗洲、菲律宾当监视员,基本上可分古晋组及山打根组。《台集日军在古晋的经历》主要就是介绍他们的情况。
     ●(上图)拍摄防空壕的镜头。
   ●(右图)第二次世界大战期间,盟军战俘的遗物及宿舍模型。像片中人是物件收藏者。



http://blog.xuite.net/mig2178778/twblog/137544685-K%E6%9B%B8%E5%BF%83%E5%BE%97%EF%BC%9A%E5%89%8D%E9%80%B2%E5%A9%86%E7%BE%85%E6%B4%B2%EF%BC%8D%E5%8F%B0%E7%B1%8D%E6%88%B0%E4%BF%98%E7%9B%A3%E8%A6%96%E5%93%A1
「歐貝泰的心情手扎」 2007年11月22日首閱
■K書心得:前進婆羅洲-台籍戰俘監視員

作者:李展平
出版書局:國史館台灣文獻館
出版時間:2005年8月8日

★本書結構分為:
  館長序
  作者序
  流落南洋的台籍戰犯-周慶豐
  命運大逆轉死裡逃生-柯景星
  穿過雨林身影盟軍戰俘監視員-許清泉
  難忘心中監獄-屏東麟洛第三分所
  廚師上戰場-北波羅洲戰俘連阿木
  血衣招魂-李琳彩呼天錄
  被遺忘的影像-波羅洲台籍男兒
  殘宵猶得夢依稀死刑戰犯-董長雄
  高呼台胞幸福-姜延壽廣州泣血記
  古晉所監視員憶往-蕭世儒陳澤立
  古晉台籍戰犯-林水木纏訟一生
  附錄:日本兵台籍軍屬BC級戰犯審判資料

★重要內容摘要:
  根據日本厚生省1973年的公佈,日本統治末期台灣總督府應軍方之請,派出227183人充軍,喪生30304人(館長序),一說53393人(第146頁)
  供奉在境國神社的有28000人之多。
  26名台籍戰犯被處死、173人被判刑,所謂BC級戰犯是也。
  1996年。日本政府決定以120倍的費用支付薪資等等費用。
  1945年6月8日盟軍登陸北婆羅洲。
  山打根死亡行軍,1300名澳洲戰俘僅有6人生還。
  志願兵、高砂義勇隊、海軍少年工員、勤勞特設團、戰俘營 監視員、從軍看護婦等名義。
  日本戰後組日本戰歿者遺骨遺品收集團、生命感恩團等多次進入南洋戰區。
  二戰日軍捕獲35萬名盟軍戰俘,約33000名死於疾病或運輸途中。
  皇民奉公會招募監視員。
  1942到1945年間,台灣成立12處盟軍俘虜營,共計8155名戰俘。
  茶園義男-大東亞戰下外地俘虜收容所,本書74、75頁。
  1942年07月17日,開設台北本所與金瓜石 第一、台中第二、屏東第三、花蓮港 第四分所。
  1943年04月02日,開設玉里第五分所
  1943年06月07日,花蓮港 第四分所移轉到白河庄
  1943年06月15日,玉里第五分所移轉到木柵,開設大第六分所
  1944年11月06日,開設斗六臨時分所,員林臨時分所
  1945年01月16日,員林臨時分所關閉
  1945年01月22日,木柵第五分所關閉
  1945年03月05日,斗六臨時分所關閉
  1945年03月15日,屏東第三分所關閉
  1945年04月12日,台中第二分所關閉
  1945年05月16日,金瓜石 第一分所移往新店庄
  1945年08月15日,台北本所、新店庄第一分所、白河庄第四分所、大直第六分所關閉。
  殖民地出身、軍隊內的非戰鬥員兩種身分。
  1960、1962、1965年,日方三度敦促國府出面協商台籍問題,國府不理會。

★心得:
  這本書主要敘述二戰後期,一些台灣人士,在皇民化以及宣傳機構,加上經濟因素的考量,分別加入皇軍的外圍組織,紛紛遠渡南洋,擔任非軍事或準戰鬥人員。不幸的是,在盟軍收復失地後,紛紛對所謂的日本戰犯以及台籍準戰鬥人員,作出BC級戰犯的審判,這些台籍人士被判死刑、15年或以下的徒刑,分散到南洋各地集中營關押。
  這批台籍人士有的因為執行長官的命令,被迫下令對盟軍戰俘施暴或是槍殺,因此在盟軍收復後,這批台籍人士就被盟軍法院判處若干刑期,命運各自迥異。有的是被日本軍官推諉,推說台籍幹部蠻恨因此對盟軍戰俘施暴,所以被判重刑。有的是被好長官擋下來,有過一肩扛,因此台籍人士的罪行就比較輕。
  當然也有看不慣日軍虐待盟軍戰俘的台籍人士,無論是偷帶食物給戰俘吃,或是幫忙採集草藥,這些善舉日後卻變成這批台籍人士的保命符,這些受會的戰俘有的寫些感謝狀給這批戰俘監視者,日後成了保命狀,有的還被歡迎到英國移民哩。
  這批台籍人士服監期滿後,先被船運到日本,端視其意願,有意願的就留在日本謀生,想回台灣的救回台灣,大部分的人選則回台灣,但是國府的態度卻是:這批人是頑劣份子、忠誠度有疑問,加上228事件又發生,因此這批人一在基隆上岸,就被警總跟監,按奈指紋,返鄉後隨時有人跟監,因為警總常常造訪造成這批人無法擔任公職,只能在下層階級謀生活,很是悽慘。
  被判死刑的遺族,心情很複雜,當有日本友人將故人遺物托人送到台北時,有的遺族因為擔心故人分家產,或是靈位難以安排等等,居然拒領遺物,這種現象有點不可思議,不過,我們沒辦法處在那個時空環境下去設想,因此我也無法說些什。

★插播
  愛利斯的故事。在盟軍於台灣的戰俘營 中,有位英軍戰士在服役前,與一個愛利斯的女孩相戀並訂婚,但是在男主角病死於戰俘營 後,愛利斯並不知道,竟然終身未婚。接著愛利斯透過外交管道等等,都無法取得男主角的消息,接著在何麥克會長的引導下,居然跑到台灣屏東戰俘營 ,弔念男主角的最後遺跡,這真的有點不可思議。
  不過作者以及整個台灣文獻館在寫這本書時有點不好,1937年用了中日軍事衝突而不是中日戰爭,不用日本戰敗而用終戰的字眼。當然我這樣子批評也會惹起很大的爭議。
  按照法理,1937年中國確實沒有對日宣戰,要等到1941年日軍偷襲珍珠港後,國府才對日宣戰,因此嚴格來說算是軍事衝突沒有錯。但是日本政府很討厭,往往細究字面意義,以為1937到1941年期間,中日不是處於戰爭狀態,因此想規避一些義務,這點是很不可取的。在使用中日軍事衝突描述1937到1941年的中日關係時,必須注意日本政府的心態。
  另一個就是終戰,這詞彙很麻煩,用日本戰敗一辭,別人說你大中國主義,用終戰一辭,別人說你媚日附和,我的態度是:一律用日本戰敗後而不用終戰。終戰也好、戰敗也好、戰爭結束也好,日本政府必須擔負起戰後的一些賠償責任,不要用終戰等文字字面意義,規避你們應當負有的義務,如果繼續用這種態度面對亞洲各國,即使日本進入聯合國安理會,也一樣不會得到亞洲各國的認同的啦,認真看一下前西德總理布蘭德怎麼做的吧,不要說些五四三的。
  
★重要參考書籍
  鍾淑敏:俘虜營收容所,國史館台灣文獻館 。
  濱崎紘一:我呀一個台灣人日本兵簡茂松的一生,東京新潮社,2000年。
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「遭處死台灣兵 名單尋獲」

2016年08月26日 | 台湾
http://www.epochtimes.com/b5/4/11/6/n710364.htm
「大紀元」 更新: 2004-11-06 9:46 AM
■遭處死台灣兵 名單尋獲
【大紀元11月6日訊】〔自由時報記者蘇福男╱高縣報導〕國史館台灣文獻館對殘存的台籍日本兵進行口述歷史訪談,透過「台灣南星會」總幹事鄭春河提供,尋獲廿六名遭國際法庭審判處死的台灣兵名單,國史館希望透過本報報導,其遺族能主動與該館聯繫,在明年太平洋戰爭終戰六十週年紀念,解開這段埋沒一甲子之謎。
  現年八十五歲的鄭春河,在太平洋戰爭爆發前,被日人徵調於「台灣步兵第二聯隊」,一九四三年間調往印尼帝汶某小島參戰,一九四六年返台後,又遭國民黨政府以「不滿現狀」羅織政治犯罪名,入獄服刑四年。
  鄭春河重獲自由後,將這段不為人知的悲慘史實,以日文鉅細靡遺記錄書寫,先後自費出版「嗚呼大東亞戰爭」、「台灣步兵第二聯隊」、「戰後的日本人」等專文,分贈台、日兩地好友參閱,一九九八年並在日本友人的資助下,出版厚達五百四十二頁的「台灣人的志願兵和大東亞戰爭」一書。
  正在編纂太平洋戰爭台籍日本兵史料的國史館台灣文獻館,館長劉峰松四日到高雄湖內鄉訪談鄭春河,鄭春河提供數十年來相關著作,讓劉峰松大為驚嘆,尤其尋獲戰後遭國際法庭審判處死的廿六名台灣兵名單,更讓他如獲至寶。
  這廿六名台籍日本兵當年因日本戰敗,被列為戰犯處死,之後供奉在日本靖國神社,民國八十七年八月,鄭春河和劉志賢等老兵將這廿六名迎回台灣卻被摒棄在外的亡靈,與其他戰亡者合祀於台中寶覺寺。
  廿六人分別為鄭錦樹、劉長坑、安田宗治、潘進添、木代原雄、林金隆、林一、林義德、鈴木三郎、王壁山、蔣清金、陳添錦、許祺禪、郭張興、楊樹木、陳水雲、陳見章、李安、姜延壽、陳煥彩、顏新富、鐘永吉、董長雄、黃來金、林石藏和彭錦良。
  劉峰松表示,除董長雄,另廿五名台籍日本兵的資料國史館幾乎一無所知,他感慨指出,生還的台灣兵中,有人認為被列為戰犯相當可恥,絕口不提當年事,也有遺族認為先人事蹟不光彩,不願提供文獻資料,益增訪談的困難度。
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「靖國神社與台灣高砂義勇隊」

2016年08月24日 | 台湾
「苦勞網」 2004/08/14  來源:海峽兩岸台灣史學術研討會
■靖國神社與台灣高砂義勇隊  傅琪貽(政治大學日本語文學系主任)

  從一八九五年五月到一九四五年八月共五十年三個月的時間,台灣淪為日本的殖民地。台灣原住民族因居住在約佔60﹪的高山森林地帶,從殖民者的立場來看,這的確是天然資源的寶庫,非得收歸日本人手裡。因此搬出帝國主義進化論,認定台灣原住民族是「野蠻未開、原始、森林野獸」,只有外表長得像「人」,而剝奪其一切的人權、生命、財產、文化自主等權利。「理蕃」政策,乃是以掠奪原住民資源、消滅原住民族為基礎,所採取的武力和文化混合的兩手策略,如「討伐」、「教化」、「同化」、「綏撫」等,其目的如出一徹。
  日本的台灣總督府「理蕃」當局,在戰爭末期的一九四〇年代,在原住民地區旋風般的展開「皇民化」政策,還設計了「高砂義勇隊」組織,迫使青年「志願」赴南洋協助日軍。本文針對戰前和戰後「高砂義勇隊」作歷史性的探討,以及對日本政府和靖國神社的「戰爭責任」提出若干的思考。

一、一九四二、三年高砂義勇隊始末
(一)「高砂族」命名由來
  一九三〇年秋,台灣中部賽德克族發動霧社抗日事件。當時日軍藉此實彈射試機會,舉行了大規模軍事演習。然日方為討伐區區兩百多名的「蕃人」,卻動用軍人1,563名、日警1,231人、「蕃人」奇襲隊6,822人次,以及山炮、炸彈、機關槍、毒氣等最新武器,花了三個月才平定戰事。日軍派遣的參謀,在此戰役中發現了台灣「蕃人」善於叢林游擊戰,很適合培養為日本帝國未來到南洋打仗時的好幫手。
  事後,為了強化對「蕃人」的社教,日警「理蕃」當局從中挑選能說流利日語的青年來組織「青年團」,勉勵勤勞農耕並實施軍事訓練。一九三五年,當台灣總督舉辦「施政四十年」紀念活動,同時在總督府內召開第一次「高砂族青年團幹部懇親會」,共有來自各族區域代表32名青年幹部參加。與會的「高砂族」青年中有25人,把原名改為日本名,如「中山清」、「井上一郎」、「日野三郎」、「田中愛二」等,對日本人深表服從與信任。
  為「蕃人」「賜名」為「高砂族」者,是台灣總督府「理蕃」當局。總稱「高砂族」的台灣原住民有九族如泰雅、布農、阿美、排灣、鄒族等,約有十四餘萬人。日方把這些「高砂族」的教化,緊密連結在未來發展南洋統治與南方異族治理之中。此「高砂族」的新命名,象徵著日警「理蕃人」傲人的成績。「高砂」名稱可與古日本傳說蓬萊仙島的「高砂」神話相同,又與十六世紀歷史上的豐臣秀吉接受來自「Takasan」國人的朝貢相結合,甚至創造了與日本同祖先等論調,確實是精心設計過的命名。如今青年幹部以「先驅者」菁英身分,率先接受「皇民」苗種,負「盡忠報國」的任務。可說是台灣的原住民被冠上「高砂族」名稱之後,其命運就被賦予成最效忠日本的「臣民」角色。

(二)「志願」?過程中的宣傳與動員
  一九四〇年七月,日本戰爭決策最高單位,以天皇為首,文武大臣共同協商戰爭佈局的機構 —「大本營」,決定了「南進」的武力政策,即該年的九月到四一年六月分南北侵攻印尼。該年十二月八日,日軍奇襲珍珠港,隨即對英美宣戰後,以速戰速決的攻勢,侵佔東南亞到南太平洋諸島。十二月十二日,終於將一九三七年以來延用的「支那事變」名稱,改稱為「大東亞戰爭」。俟一九四二年十一月新設「大東亞省」管理新佔的南洋領土,才把台灣、朝鮮等早期殖民地移交給日本國內的「內務省」管理。此後台灣在法治上即成為準「日本內地」的一部份。
  雖然日本對英美宣戰而開打南洋新戰場,但當時的日軍對南洋不夠了解,連兵站地圖都是邊打仗邊製作。加上近代明治以來的百年戰史中,日軍早已陷入嚴重的兵源不足及素質低落之窘境。陸相東條英機於一九四一年五月,決定從四二年度起在台實施「特別志願兵」1,000人。據「理蕃之友」第107號(1941年9月發行)記載,當時全台高砂青年1,887人(男1,349人、女538人)表明「志願」當兵的意願,其中還包括了以鮮血寫書,強烈表達從軍決心的40位男女青年。日警對高砂族的踴躍響應,題以「幸福的高砂族」為文,認為高砂族已經有能力脫離野蠻而向上進步,且能享受日本天皇「無窮聖恩」和「一視同仁」的待遇,真幸福。
  該號另以專刊特別報導「愛國少女」Sayon犧牲報國的故事。泰雅族Sayon其實是替被徵召從軍的日警老師,背著行李下山時,不小心滑到漲滿的溪水中,被沖走而滅頂。在台灣總督府刻意的安排下,Sayon成為偉大的「盡忠報國」的楷模。日方把故事拍成電影、為其編曲編詞,又打造Sayon愛國鐘等,為了Sayon,連台灣總督長谷川清及以下各大官都列席參與,舉辦非常隆重的儀式。可說高砂族愛國情操被激情地炒作,達到高潮並得到最好的宣傳效果。

(三)被設計的高砂族「志願」
  雖然高砂族青年一聽到「志願兵」一詞,立刻表明堅定的「志願」從軍意願,但在「志願兵制度」下,要能當「志願兵」,還得要通過「國語」、「國史」等學科考試及格才行。日警「理蕃」當局,發覺到高砂族沒幾個人能考得上的事實。「理蕃」政策下的台灣原住民族,雖長期接受日警簡易教育所四年教育,與日警溝通或聽命和平常日語表達沒問題,但學科則絕對不足。於是日警「理蕃」當局開始思考各種改革案;如教育所四年後追加二年農業科或者建立八年級學制,以利增加「國史」必修課等科目的時數;但目前為了應急之需,暫定每日夜間補習二小時,以提高「志願兵」錄取率的措施。除了學科上彌補學力,還重視營養防疫等以保持健康身體,決定由青年充任警察兼醫療人員,實施培訓醫療人員簡易訓練班,打破傳統文化、習俗的「陋習」。
  隨著重視「皇民化」教育,日警「理蕃」當局不得不修正「高砂族」沒有法律地位,而無法治理的事實。因此決定承認「蕃人」為「本島先住民族」乃是與「本島人」一樣,有相同的地位。因為實施「志願兵」制度之後,接著從一九四五年度起,安排台灣殖民地人民也要全面接受「徵兵」制度。但若名為高砂族在法律上仍舊停留在不適用法律的「野蠻人」階段,日方連依「戶籍法」實施高砂族徵兵都成問題。台灣總督府在過去的「理蕃」政策上,一直都不把原住民當「人」看待,長期否決了其人格尊嚴、土地、財產所有權及文化自主權。原「獵人」被強制改成為「農人」、「野蠻人」不需賦予法律上的「人格」等,然而這一切不合理、不公平的待遇,因日本人陷入最惡劣的戰局,竟然依日方之便,自我尋找合理的答案,就把高砂族的「皇民化」解釋為「蕃人」變成「人」的過程。
  於是為了滿足高砂族「志願」從軍之意願,日警「理蕃」當局特別設計了不必應考也能赴戰場的「義勇」之途,如組織海軍勞務奉公隊、特設勞務奉公團、特設看護婦(護士)志願隊等。這些「義勇」隊者,被解釋為自告奮勇,不惜「以死報國」的人。其實日本從上—東條陸相、長谷川總督到各地方派出所、等,有層層配給下來的「名額」及其範圍以內分批出動的計劃。唯因為人不知道當局有此特殊巧妙設計,有的出於自願的,也有的被點名不得不「志願」者。

(四)「高砂義勇隊」的形成
  軍隊內的階級是非常嚴格的。所謂「義勇」隊,從國家立場乃屬非正式且臨時招募的,從事打零工、雜役夫等工作,法律上國家對這些義勇隊不需給予任何金錢上的撫恤或情份上的道義。
  組織「高砂義勇隊」構想,來自於日軍和台灣總督府,是純出自於日本在南洋打不贏,陷入極缺乏物資、軍備,苦戰到幾乎全軍覆沒的所謂「玉砕」階段時,為了保衛在前線節節敗退的日軍,而把高砂義勇隊當箭靶消耗。一九四二年三月第一批「高砂族挺身報國隊」500人赴菲律賓,因五月七日參戰而成功地擊退巴丹半島美軍後聲名大噪,改稱為「高砂義勇隊」,俗稱「台灣軍」,是日軍唯一能信任依靠的戰場益友。
  台灣總督府對此「高砂義勇隊」傑出的表現,特別發行「高砂義勇隊專刊」,表揚高砂族在南方前線英勇的戰果。該第一批部隊中,扣除重新編列為橫山先遣隊轉戰的100人,其餘400人則安然無恙回台灣接受隆重的凱旋式,不但如此,在日警「理蕃」當局的安排下出任警察,扮演後方原住民支援前線的任務。台灣總督府「理蕃」最高當局中村文治警視,曾親赴菲律賓探視在叢林前線服務的高砂族人,事後在「理蕃之友」第127號中發表感文,認為高砂義勇隊比志願兵表現更為優異,可望今後有更大活躍的空間等詞,以表今後大量投入高砂義勇隊的構想。
  一九四二年「理蕃之友」刊載了幾封第一批高砂義勇隊的青年寄回給台灣親朋好友的「通信」。其中充滿了身為「日本人」的「幸福感」和「感恩」、「決心」等生命意義,如:巡遣菲律賓夏第九八五五部隊高砂義勇隊荒川部隊板橋隊蘇澳郡Buta(武塔)社出身的「豐田健太郎」寄回家鄉妻子的信裡說:
  令我感到最高興的是已成為偉大日本帝國的義勇軍。我不是軍夫,也不是軍屬。……在這裡每天過著很好的生活,有很多鹽巴可以吃,也有很多好吃的東西,連甜點這種奢侈的東西都得今生第一次嚐到。日軍非常強大,沒有一個美國兵在這裡,只看到菲律賓當地人。這裡的土地廣闊且很肥沃,比台灣的土壤好得多……,我到戰地深深地感受到身為日本人的幸福……。

  另有位同鄉「松本達夫」等二十四名的高砂族青年寄信給家鄉管區派出所的日警,說:
  我們代表柑子頭社來的高砂義勇隊,所以假使我身軀成為餵狗食肉,仍舊以犧牲報國的精神,決心報皇恩……。

  然而高砂義勇隊的青年寄給親人的通信是屬於「報平安」和「勉勵」性質,完全不同於日警領隊對高砂青年戰鬥力評估和「理蕃」政策成功的自我讚美等內容。這與高砂義勇隊青年通信中完全沒有出現一絲的懷疑或猜忌心,表現坦然接受命運安排的純潔心,形成強烈對比。

(五)被拋棄到「飢餓戰場」
  「理蕃之友」在一九四二年八月份和十二月份缺刊,一九四三年只發行十二月「廢刊」號。這與日本在南洋戰局失利,任何軍艦和運輸船都成為美軍的活靶,一一被擊中沉沒,而陷入全軍覆沒的局面有關。日本的台灣總督府「理蕃」當局,似乎已經沒有任何「好消息」可報導,也沒有一封高砂義勇隊青年寄來「報平安」的信。從紀念第一批高砂義勇隊巴丹島奇襲美軍成功的專刊以後,「理蕃之友」中只看到率領高砂義勇隊日警從戰場寄回來的「通信」、「高砂義勇隊員戰死對蕃社一般民心的影響」評估及和「遺族」相關的報導。
  高砂義勇隊第一批(一九四二年三月)到菲律賓回來的有400人。當時的人誤以為這是「全部」出征的人數,不但其英勇的表現被日本人公開表揚,去了戰場還能平安回來當警察,有名譽又有高薪可領,好處多多,當兵真好。於是第二批六月有1,000人、第三批十一月414人、第四批於一九四三年六月200人、第五批七月500人、第六批六月800人、第七批五月800人等,皆被送往防堵澳軍、美軍最前線的印尼新幾內亞島打硬仗。根據口述資料整理出來的各種紀錄,生還之前「高砂義勇隊」員都談到「日本人吃人肉」的事實:如白種人屍稱「白豚」、黃種人屍「紅豚」、當地原住民屍「黑豚」、日本兵屍「混雜(肉)」代稱。新幾內亞島上飢餓到極點的日本兵最可怕,連自己同胞日本人都不放過,所以當地有「吃人肉」習俗的原住民都怕遇到日本兵、被吃掉。從第二批以後的高砂義勇隊不被宣揚、不拿來報導,也不寄通信回來,這些數以千計的「高砂義勇隊」,萬萬沒想到是被送往遭棄之不顧的飢餓戰場上自生自滅。
  一般認為這些高砂義勇隊效忠日本,願意犧牲性命,但從戰地寄來的「通信」內容,看不出高砂族要「死的回來」等詞,反而強烈表達「粉身碎骨,為我族的名譽盡心盡力」、「發揚高砂青年的義氣」、「絕不可輸任何人的大決心,率先賣力工作」,以及對家鄉父老青少無限的思念。有位「森田勇」的泰雅族青年,信中描寫被日本軍俘虜的美國兵說:
  巴丹半島遭受我方總攻擊才六天就淪陷了。然不管怎麼說,仗輸的那一方是多麼地可憐。我看到敵俘不吃不喝,連躺下來休息的地方都沒有,而如今瀕臨死亡邊緣,令我難過得快流下眼淚。我們很幸運地在祖國日本的庇護之下過日子。但一旦仗輸了,我也變成像那些敵俘一樣可憐,所以重新為我仗贏決心打強心針。
  可見在那最殘酷、最淒慘、飢餓和疲憊交迫的地獄戰場中,台灣高砂義勇隊青年不失人性。當然其中一個原因,是叢林勇士熟悉如何在熱帶叢林中,找得到食物和水求生存之道有關係。

(六)讓高砂義勇隊迷糊的「終戰」
  依二〇〇〇年十月十七日統計,在日本東京皇宮附近的「靖國神社」中,因「大東亞戰爭」死亡而被供奉的靈魂總共2,133,778柱。這裡不包括因「滿洲事變」和「支那事變」而戰亡者,可想而知所謂的「大東亞戰爭」對日本國民強迫犧牲及對整個亞洲帶來的空前浩劫。
  日本殖民地台灣人民被驅趕赴戰者計80,433人,軍屬與軍夫共計127,650人,合計208,083人,其中戰死及病死者30,304人。換言之,赴戰者者每七人中就有一人死亡,以戰爭結束時台灣人口約600萬人計算,約每2,000人就有一人成為戰爭的犧牲者。靖國神社從台籍三萬人的戰歿者中挑選27,800人與日人「合祀」供奉。
  到目前為止,以「高砂義勇隊」之名送往南洋有多少人,死亡多少人等基本的人數統計,還不清楚。第一次高砂義勇隊生還者中,有的因無法面對內其他戰友遺屬,深感愧疚和歉意,而有選擇再次出征以求解脫而再不回來者。以新幾內亞島為例,島上日軍共十六萬,其中於一九四五年八月以後投降美軍而生還的日本兵才13,000人,被收容的台灣人500人,高砂族2,500人。據一般說法,高砂義勇隊共出動七次或八次,總人數有4,000人或6,000人到12,000人等不同的說法,但這只能說是推測的數字而已。因為其中還有未到達目的地之前,就在航海途中遭美軍轟炸,整個船隊沉沒而溺斃者也不在少數。然這些數字顯示,特別是對安排人數稀少的原住民做日本的活箭靶,護國盾牌,消耗大量年輕男丁的作法,是多麼殘酷,近乎滅族的行為。
  一九四四年夏季以後,在新幾內亞島戰場大本營的日軍倉庫中,早已沒有任何軍需物資可以叫高砂義勇隊扛送。從戰後在收容所的人數來推算,這時候至少還有二、三千的高砂青年在營服務。日軍為了減少食口(?),將原扛運苦力的高砂族青年重新編入其他負有「特殊任務」的部隊內,如「齊藤特別義勇隊」、「猛虎挺身隊」、「佐藤工作隊」、「北本工作隊」等,安排送死。另有一九四三年十、十一月,分批各500人送往菲律賓呂宋島戰場者,其中被取名為「薰空挺身隊」者則是全軍覆沒,沒有一人生還。
  欲搬貨卻沒貨可搬,而改編入日軍部隊內的高砂族青年們,隨著接近一九四五年八月的戰敗,從該年二月執行從日軍上司下達的各種命令。首先他們出任「宣撫」當地原住民的工作,這可說是台灣「理蕃」綏撫的翻版,如設簡易教育所教日語或唱日本歌、或者贈送布片以防當地原住民倒戈。接著接到「自給」命令即食物、水等一切要「就地取材」。到了七月收到「玉砕」全軍戰亡的命令,八月十六日又收到「各自手上持有文書燒毀令」。各部隊的長官手拿著美軍空投「日本投降」字樣的文宣單,對著高砂義勇隊員說了一句簡單的話,說:「戰爭結束了,各位辛苦了。」因為高砂義勇隊員原本對皇軍深信不疑,而一時間無法了解「戰爭結束」的意思。日本軍官也不直接了當地說「皇軍慘敗投降」一詞,害得高砂義勇隊員在糊裡糊塗的情況下繳械,乖乖做美澳軍營的俘虜。在俘虜收容所內雖然已被分為日本人、台灣人、朝鮮人等,但日本人深怕「吃人肉」事件被揭發而受到嚴厲的處分,曾偷派使者到舊殖民地人的收容所,下達全數重編為「光部隊」的密旨,並叮嚀保持沉默,以求順利脫罪。
  然前「高砂義勇隊」唯一想知道的答案,就是到底日本是戰敗的、還是打贏的,就那麼簡單一句話而已。

二、靖國神社與前「高砂義勇隊」
(一)靖國神社與「高砂義勇隊亡魂」
  根據一九七八年日本朝日新聞報導,在一九七七年夏,台灣籍出身的前日本軍遺族代表向日本的靖國神社要求歸還祖靈。後有日本佛教界團體也依宗教信仰不同的理由,向靖國神社要求從其供奉「祭神」名單中移除。日本帝國舊殖民地朝鮮人也向「加害者」日本討回民族人格尊嚴。於二000年正式向日本政府、小泉首相、靖國神社提出控訴。二00二年八月台灣前「高砂義勇隊」遺族代表親赴日本靖國神社要求「還我祖靈」,要求被拒後,於二00三年八月正式向大阪地方裁判所(法院)控訴日本政府、小泉首相與靖國神社。二00四年五月,大阪地方裁判所判決,被告小泉首相參拜靖國神社不涉及國家立場,雖身為「內閣總理大臣」,但在緊急情況下的行為,仍然可解釋為屬於個人行為,並無違背「政教分離」的憲法精神;另被告靖國神社雖然曾拒絕台灣人遺族要求取消「合祀」(與日本兵等共同被祭祀)之訴,但仍有遺族到被告—靖國神社參拜,而不能視為被告對遺族以自己的方式祭祀或追思往生者加以脅迫或干涉,且在原告證據不足下,被告靖國神社並無侵犯原告法律上的權益,故原告對靖國神社之要求也無從判斷。因此法院下定的「結論」,是「原告要求沒有任何理由」而判決「棄卻」,即控告不成立。此控告不成立的判決,對前「高砂義勇隊」遺族,顯然非常不公平。日本的法院面對「國家大權」時,似乎不敢公平審理,賠掉了司法正義的形象。
  曾淪落為日本殖民地的台灣、朝鮮,在日本大打「大東亞戰爭」時被不自由地投入戰場。日本人說這是為了建立「大東亞共榮圈」、「解放亞洲民族」而打的「聖戰」,但實際上是為了掠奪印尼石油而侵略南洋的侵略行為。台灣原住民族在此日軍陷入無法自拔的苦戰時,被充當作日本人的替死鬼。特別是台灣少數的原住民「高砂義勇隊」在固有傳統文化完全被否決,加上處在日警武力強壓下,不得不接受「絕對聽從官命」的命令。「高砂義勇隊」在日警的心目中,是連二等兵都不如的軍中苦力。「高砂義勇隊」能夠被列名在國家級神社—「靖國神社」中,能與北白川宮能久以下日本將領「英靈」同座,是多麼了不起的「皇恩」榮耀。然而從「高砂義勇隊」的立場來看,不是協助日本的侵略戰爭,而是為了推翻長期被污衊、被壓迫,為自我拯救族人而敢赴戰場,欲證明誰是真正有高尚人格,信守承諾的英雄好漢。
  戰後曾在南洋戰場上被「高砂義勇隊」幫助而能死裡逃生的日本人,對此「救命恩人」表示衷心的「感恩」,但這些日本人和日本國家不但不知道怎麼「報恩」,反而繼續不斷地傷害且瞞騙台灣原住民。

(二)前「高砂義勇隊」新生代抗爭靖國神社
  二〇〇〇年四月,團名「高砂義勇隊訪日團」共十人,在日本人曙光會門脇朝秀的安排下,被招待到日本訪問十天。四月五日上午八點四十分此一行人,被門脇朝秀帶領到靖國神社參拜。接著二〇〇二年四月三日門脇朝秀又率領前「高砂義勇隊」遺族參拜靖國神社。這回招待的對象以一九三〇年「霧社抗日事件」的後代,南投縣仁愛鄉出身的泰雅族前「高砂義勇隊」遺族為主。這些原住民也與上回一樣,免費招待旅遊日本十天。日本媒體為此「霧社抗日」原住民後裔參拜靖國神社,花了大篇幅報導。因為這的確令日本人震撼,認為連抗日的霧社原住民都這麼地「愛日本」、「親日本」、「崇拜天皇」,可以說是日本在戰前五十年殖民台灣得到高度的肯定。特別是日警「理蕃」被解釋為成功地改造「野蠻人」邁向「文明人」,留下最好的、最光輝的政績。帶領的門脇,還替霧社原住民代為回答記者的採訪說:「我曾多次向高砂族人詢問:『是否還懷恨日本?』,他們一致回答『沒有』,因此能實現此參拜靖國神社之行。」
  「因為我義父的的靈魂在靖國神社,所以我就想參拜靖國神社。」
  某霧社遺族如此表明參拜靖國神社的個人理由。對台灣原住民族來說,沒有任何政治性動機,只求與祖靈互通互慰。然而,日本曙光會退役老兵團體,竟然壞到利用「高砂族」後代子孫作「活證人」,塑造其嚮往日本的形象,肯定日本「大東亞戰爭」是「聖戰」。對這些日益凋零、年逾八十的日本老兵來說,這二十幾個來自台灣霧社的原住民乃成為最終凝聚「皇民精神」的救星。靖國神社、日本政府和法院,從此二十幾個前「高砂義勇隊」遺族訪日行為,似乎也找到了合理化、自我脫罪的解釋。台灣原住民再次被利用、欺瞞、誤解了。
  然前「高砂義勇隊」新生代扛起抗爭「靖國神社」所代表的日本軍國主義侵略歷史和思想。台灣原住民族新生代已脫離被殖民「理蕃」的束縛,為回復自己民族尊嚴,努力開拓新時代。對抗靖國神社,提出「還我祖靈」的訴求,乃是其中「還原原住民族苦難史」的一環,艱辛創造民族歷史的一個重要的過程。從文獻上的「高砂義勇隊」寄回來的通信中,看不到「死的回來」的「玉砕」念頭,可見當時皇民精神根本不存在於高砂青年的心中,反而他們不敢違背祖靈的叮嚀:「不能在野外死」。祖先的叮嚀,引導台灣原住民如此驍勇善戰。台灣原住民最大的忌諱是死在野外成為孤魂野鬼的「惡靈」,因此絕不能死在外頭,一定要活著回來。日本人怎麼強行灌輸台灣原住民族「高砂族」,效忠天皇最崇高的表現乃是「死的回來」,絕不能「活著回來」的生命觀,但得到的結果,是恰恰相反的。台灣新生代原住民族,更不能忍受祖靈被日本壓迫、困鎖在靖國神社的事實,也為此捍衛祖先遺訓而向日本抗爭。靖國神社供奉前「高砂義勇隊」靈魂的行為,只證明日本軍國主義仍舊欲控制台灣,不願解放台灣原住民,而企圖讓台灣原住民作永久的「怨靈」奴隸。
  日本法院判決「棄卻」聲明,顯然完全不採納原告台灣原住民族所列之理由、證據和訴求,而是站在完全偏袒日本國的立場。從原住民的立場發掘更多更具體貼切的歷史證據,即是台灣原住民族新生代能真正地奪回原住民尊嚴和再生的契機,也是受到祖靈庇祐的起源。相反地,日本人不仁不義地只想利用「霧社」原住民遺屬身上塑造「親日」、「媚日」的小動作,成為國際人權運動上的退步,留下了一個大污點。

三、結論
  前日軍慰安婦問題因其嚴重侵犯女性人權而引起各國政府、民間人權團體等廣泛的譴責。日本政府也一度為彌補此「歷史的傷痕」,曾在日本中學歷史教科書中記入兩行字,以表達日本人對歷史的反省,卻引發日本國內外歷史教科書的論爭。
  前「高砂義勇隊」長期被外界誤解為「最親日」,站在侵略者日本「皇軍」同邊的形象;「高砂族」的名字,被誤解成為日本天皇犧牲奉獻、無怨無悔、死而不憾的代名詞。戰後日本老兵到台灣,向前「高砂義勇隊」表示最高的敬意和謝意,但這些誠摯的私情,回國之後卻不能成為「感恩圖報」的原動力,不願為原住民作任何洗刷誤會的行動,還想繼續欺瞞,阻止歷史真相的還原。日本政府也因台日間沒有邦交,志願「義勇」原本就是無法理可循的體制外出征行為,與日本無關,而不道歉或致謝!日本人對其救命恩人的「高砂族」,不願賠償。那「高砂義勇隊」大公無私的英勇,也不被編入日本教科書中公諸於世。其實日本人不願意「高砂義勇隊」的真相曝光,是因為害怕世人看穿日本在侵略戰爭中,其實暗藏著「滅族」的犯罪企圖。
  從戰前到戰後,日本人不斷地對台灣原住民族反覆洗腦,灌輸戰前「大東亞戰爭」是「聖戰」。日本政府為此大騙局,應負「國家犯罪」的責任。特別是台灣少數民族在日本五十年的「理蕃」政策下,完全失去自主權,只作日本的奴隸。霧社抗日抗暴起義,是為民族尊嚴、求生存最嚴厲的控訴。結果事件後日警「理蕃」當局,更加嚴厲地監控台灣原住民族,對其施展徹底地「皇民化」政策。高砂族皇民化,是原住民族傳統文化和精神消滅的最後終結,也是利用「志願」之名義實行滅族政策。台灣總督府「理蕃」最高當局在「理蕃之友」上呼籲,動員十五萬高砂族作護國盾牌!若能如此「洗腦」成功的話,所謂「理蕃」最終目的圓滿達成而結束。叫十五萬高砂族犧牲作護國盾牌,這種政策難道不能說是一網打盡的滅族計謀?不但如此,戰後還利用那些倖存的前「高砂義勇隊」和其家屬,繼續污衊原住民族的尊嚴。靖國神社戰後在一九四六年改頭換面成一般宗教團體,但因其祭祀對象為百年戰亡靈魂,性質仍舊與戰前「護國神社」即「侵略神社」相同。因此仍可以說是扮演延續日本軍國主義思想最後堡壘的角色。
  然而,台灣原住民族即使處在強大的國家強權壓力與日本的台灣總督府最後計謀:讓原住民滅族的「皇民化」政策下。歷經「弱肉強食」、「適者生存,不適者被淘汰」的進化論考驗,「高砂義勇隊」驍勇善戰、「活著回來」的不爭事實,證明了與自然共存、愛護自然的民族絕不會被淘汰的鐵律。
  二〇〇四年台灣原住民新生代,控告日本政府、小泉首相和靖國神社,這可說是台灣原住民正努力用自己的手改寫族人歷史、推翻污衊歷史的新一頁。相對之下,日本不尊重弱小民族、不關心人權、對異文化不願瞭解的落伍形象,在二十一世紀反而損害了日本在國際上的形象。


《參考文獻》
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